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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2001 part 8
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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ハリー・ポッターと賢者の石(クリス・コロンバス)

家族も、ひとりの友達さえもなく、階段の下の物置に住んでいる少年。
誰からも愛されず、何ひとつ持たず、間違いなく自分のものといえるのは、額にあるイナヅマ形の傷だけ。
それが、ハリー・ポッター
11歳の誕生日、彼のもとに驚くべき手紙が届く。そこにはこう書かれていた。
「ハリー・ポッター殿 ホグワーツ魔法魔術学校への入学を許可します」
ハリーは出発する。キングズ・クロス駅の9と3/4番線から、紅色の汽車に乗って。
この世界に居場所がなかったのは当たり前。
だってきみは────魔法使いなんだ!
…というのは劇場用パンフレットの冒頭に掲げられている文章だが、これを読んで「観たい!」と思った人なら──言いかたを変えれば、子どもの頃に1度でも「自分にも魔法が使えたら…」と夢想したことのある人ならば確実に気に入るはず。今年最高の目のおやつ。「スター・ウォーズ エピソード1」のときと同じこと書くけど、2時間32分のビジュアル・イメージの洪水を楽しめないのは明き盲(あきめくら)だ。「ホーム・アローン」の大ヒットで妙にハートウォーミングでヒューマンな映画ばかり撮るようになってしまったクリス・コロンバスが「グーニーズ」(の脚本)や「ベビーシッター・アドベンチャー」の頃の稚気を取り戻した愛すべき傑作。決して「透明マントを手に入れたら女湯を覗いたろ」などと考えちゃうポール・バーホーベンみたいな人は観ちゃいけません。 ● 30代のバツ1子持ち白人イギリス女性が生活保護を受けながら書いた原作は、いわば「全寮制の名門パブリックスクールを舞台にしたファンタジー」であって、当然ながらそこには黒人やアラブ人は登場しない。おそらく彼女はロイヤル・ファミリーとかも大好きなのだろう。映画化に際しても原作者の権限でそうした世界観をかたくなに守り、黒人やアラブ人俳優はおろかアメリカ人俳優さえも排除したのが成功の第1要因である。なにしろ「ミセス・ダウト」と「アンドリューNDR114」の監督がメガホンを握っているにもかかわらず、心優しいヒゲ面の大男ハグリッドを演じるのがロビン・ウリアムズじゃないのだ。この功績はデカいだろ? その甲斐あって全篇をイギリス英語が彩る古式ゆかしい政治的に正しくないファンタジー映画が出来上がったわけだ。日常に属していた冴えない少年が非日常の世界でヒーローとなり、そこには可愛らしい少女やお年寄りや妖怪や妖精の類はわんさと出てくるが、ハンサムな若者も妙齢の美女も出てこない…という設定は映画版「ネバーエンディング・ストーリー」にかなり近いかも。それと、おおっ「ドロロンえん魔くん」のシャッポ爺があんなとこに!(吹替版の声をアテてるのが滝口順平だったらおれはワーナー映画を心から尊敬するけど…) ● 将来は確実にシティで働く厭味な白人エリートになりそうなハリー・ポッター君には、ショタコンのお姉さん方が萌えそうなダニエル・ラドクリフ君、11才。 将来はエリザベス・ハーレーみたいな性格になりそうな、賢くて美人のハーマイオニー・グレンジャーちゃんには、ロリコンのお兄さんたちが萌えそうなエマ・ワトソンちゃん10才。ちょっと名前が悪いのが心配だけど成長が楽しみじゃてフォッフォッフォッ。 きっと高校編入時点で落ちこぼれて将来はコーム・ミーニーみたいな赤ら顔の失業者になりそうな、赤毛のロン・ウィーズリー君には12才のルパート・グリント君。 大人のキャストは省略するけど(じつはパンフを見るまで気が付かなかったんだけど)浮遊術の授業を担当しておられる禿頭白髭のフリットウィック先生の正体は(「ウィロー」の主役も務めたファンタジー映画には欠かせない)ワーウィック・デイビスだ! ● 脚色は「ワンダー・ボーイズ」「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」のスティーブ・クローブス。名匠ジョン・ウィリアムズの「ダニー・エルフマンのメロをジョン・ウィリアムズがオーケストレーションした」みたいな劇伴も素晴らしい出来。場面ごとに別々の工房が担当したSFXの出来にはムラがあるが、興をそぐほどのことではない。 ● 最後にちょっとツッコミも入れておくと(たぶん毎作とも同じシーンで終わるのであろう)1年の終わりを締めくくる「寮ごとの得点&順位発表」の場面だけは春/秋の芸能人クイズ大会の「さあ、いよいよ次はラスト問題。現在トップと最下位の得点差は80点ですが、これに正解すると一挙に100点が加算されます。どのチームにも逆転のチャンスが!」「(出演者一同、声を揃えて)え〜〜〜!?」みたいでちょっと白けた。あと、アラン・リックマンへのフォローがあってしかるべきだと思うが。 ● 新宿ミラノ座のかなり広いロビースペースには所狭しとグッズが並べられ、さながらダイアゴン横丁と化していて大賑わい。ちなみに現在 撮影中の次回作「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の日本公開は2002年11月23日からと、すでに決定していて、前売券も発売中(!)なのだそうだ。 ● [追記]BBSでツッコまれたが、たしかに黒人の女の子も1人出てましたな。 ● [追記2]「ハリー・ポッターと賢者の石」DVDの未公開映像を労せずして観る方法

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スパイ・ゲーム(トニー・スコット)

女こどもにゃ「ハリー・ポッター」でも観せておけ。だが男ならこれを観ろ。あなたがショタコンでもロリコンでもなくスクリーンで本物の男が見たいのなら迷わず「スパイ・ゲーム」だ。「デビル」なんてクソ映画は もう忘れてくれ。ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットが文字どおりぶつかり合う。火花を散らす。大向こうから「たっぷり!」と声がかかるほどの、新旧2大スターの激突が堪能できる。「リベンジ」以来のトニー・スコット最高傑作(…なにか?) ● ロバート・レッドフォードが素晴らしい。スターがスターであることの理由を見せつけてくれる。冷戦時代の終わりとともにCIAを去りゆく凄腕スパイ。時代おくれの一匹狼。かれが体現するのはジェームズ・ボンドの対極にある「スパイ」という仕事の薄汚さだ。口を開けば出てくるのは偽り・皮肉・ワイズクラック…。本心を言うことは決してない。普通に演ったらとてつもなく嫌な奴…人間の屑なのである。ところがレッドフォードが演じることによって観客は最初からかれに好意を持ってしまう。もちろんかつて演じた「コンドル」のイメージも二重写しになる。CIA本部の(非人間性を象徴するかのような)ダークスーツの背広組のなかで、1人だけツイードのジャケットにバックスキンの靴。1960年世代の生き残り。そう、こいつとてアメリカ帝国主義の手先としてさんざ汚いことをしてきたはずなのに(「大統領の陰謀」のイメージが重なって)つい「リベラルな正義の味方」であるかのごとく錯覚してしまうのだ。これぞスター・イメージの偉大さである。 ● 対するプラッド・ピットには、冷酷なスパイに成りきれない一片の甘さがあって、だがそれこそが人間を人間たらしめているものであって、だからこそ30年ものあいだ、感情を殺し、人をベースボール・カードのように操って生き抜いてきた男が、今日でCIAを退職するという日にすべてを投げうって助け出そうとするのである。 ● 中国の蘇州刑務所に潜入を試みて逮捕されたかつての弟子ブラッド・ピット。24時間後には処刑が実行される。アメリカ政府とCIAは見殺しにする気だ。まさかランボーのように1人で中国に乗り込むわけには行かない。レッドフォードの「戦場」はCIA本部の会議室。武器は30年のスパイ生活で養った狡猾な智恵だけ。刻々と迫りくるタイムリミット。虚々実々のかけひき。「スティング」を彷彿させる痛快な結末。中国・蘇州とラングレーのCIA本部──遠く隔たった2人の男の心が通じ合う。プラッド・ピットの頬に一筋の涙が伝う。「借り」を返した初老の男はポルシェで走り去る。くぅーっ馬鹿にゃ判らん大人の映画。必見。 ● CIA本部でのブリーフィングのタイムリミット・サスペンスに、回想シーンによる2人の出会い→訓練→実践→決裂がアクション色ゆたかに絡む複雑な構成。トニー・スコットはこれをリズムを変え、画調・色調を変え、音楽・効果を変えて撮り分ける。もちろんトニー・スコットの映画だからヘリは飛ぶし、30分に1回は爆発シーンがある。ブダペスト(ハンガリー)、モロッコ、バンクーバー(カナダ)と世界規模のロケーション。脚本は「山猫は眠らない」のマイケル・フロスト・ベックナー。撮影は「エネミー・オブ・アメリカ」のダン・ミンデル。編集は「トゥルー・ロマンス」「ザ・ファン」「フェイス/オフ」のクリスチャン・ワグナー。音楽は「シュレック」「リプレイスメント・キラー」「エネミー・オブ・アメリカ」のハリー・グレッグソン=ウィリアムズ。 ● レッドフォードを助けて「侠気」をみせる黒人秘書にマリアンヌ・ジャン=バチスタ(「秘密と嘘」) ブラッド・ピットの相手役に(「テイラー・オブ・パナマ」に続いてのスパイものへの出演となる)キャサリン・マコーマック(今回は脱ぎません) そしてベルリンのアメリカ大使夫人にシャーロット・ランプリング(56才!) 年とってちょっとふっくらしたのがまた綺麗で、いやあこれなら全然イケるよなあ(←何が?) ● ちなみに、これを現在の話と勘違いしてる人が多いようだが、この映画の「現在時制」は「ベルリンの壁が崩壊して2年目」で「アメリカ自由経済が中国に進出する前」の1991年である。2人の出会いがベトナム戦末期の1975年だから、それから16年間の物語なのである。CIAの定年が幾つなのか知らんが55才定年としたら、ブラッド・ピットと出会ったときのレッドフォードは39才。これは2001年に64才であるレッドフォードの実年令ともほぼ一致する。

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修羅雪姫(アクション監督 ドニー・イェン)

監督&脚本:佐藤信介 特技監督:樋口真嗣 音楽:川井憲次
いや驚いた。監督・脚本が甘々のナルちゃん映画LOVE SONG」の佐藤信介で、ヒロインが天然ボケのグラビア&バラエティ・アイドル 釈由美子だ。この組み合わせから誰がアクション映画の大傑作を期待するよ? ところが出来上がったのは、アクションの魅せ方のカッコ良さにおいてはAクラスの香港映画にもまったくヒケを取らない、それでいて(完膚なきまでの換骨奪胎にもかかわらず)原作・小池一夫のアナーキスティックなスピリットが脈々と息づくハードボイルド・被虐ヒロイン・アクションだ。いやあ映画ってなぁわからんもんだぜ。 ● もちろん第1の功績は武術指導だけでなくアクション場面の編集までみずから手掛けた香港の唯我独尊格闘王 ドニー・イェン(と、目立たないSFXでリアルなアクション場面に仕上げた樋口真嗣 特技監督)にある。だが、いつものドニー・イェンのような──そして最近のCG系 香港アクションに顕著な──「本人たちだけが酔っていて観客は置いてきぼり」なアクロバットに堕さず、ヒロインの気持ちが伝わる格闘アクションになったのは、やはり脚本(佐藤信介+国井桂)と演出の功だろう。 ● 話は「荒廃した未来」を舞台にした抜け忍もの。もっと直接的にはカート・ラッセル「ソルジャー」の翻案である。いや嘘じゃねえって。戦うことしか知らなかった戦士の束の間の休息。笑顔を知らぬ戦士が初めて触れた人間的な温もり。愛しい人の息子(本作では妹)が恐怖から口がきけなくなってるって設定も同じ。ヒロインを制裁せんと襲い掛かる「忍びの軍団」に、元・東京グランギニョルの嶋田久作、元・新宿梁山泊の六平直政、元・蜷川スタジオの松重豊…といった、アングラ系 小劇場出身の異形役者が並んだ様は、劇団 第三エロチカの近未来ものを思わせる。だけどここまで揃えたんなら元・第三エロチカの有園芳記も呼んでほしかったぜ。だって忍者ものに小人と傴僂(せむし)は必須だろ?(傴僂はもちろん六平ね) ● 釈由美子が素晴らしい。おれはほとんどTVを観ないのでこのコがバラエティで天然ボケかましてる姿とか見たことが無いので先入観がない分だけ印象が良いのかもしらんが、とても「アイドルの1本目の映画」とは思えぬ輝きである。初代の梶芽衣子の硬質な美しさは無いが、その代わりこのコには被虐ヒロインのエロスがある。たとえて言えば「女子プロレスのヤラれ役の美少女レスラー」のアレですな。元・ピンク映画の妖花=長曾我部容子サマにあんなことされて、堪らず悲鳴をあげるその顔の色っぽいこと! いや諸君、誤解してくれるな。おれが変態なんじゃなくて作者の演出意図を正しく読み取ってるだけだ。 ● ヒロインを保護する過激派セクトの(人は良いが、頭はあんまり良くない)青年にマッシュルーム伊藤。 腹にイチモツある過激派セクトのリーダーに佐野史郎@ハマリ役。 ヒロインに母の死の真相を教えるに「女囚701号 さそり」の沼田曜一(!) ヒロインの瞼の母に「リング」の雅子。貞子と異父姉妹じゃヒロイン強いはずだ。 ただ、マッシュルーム伊藤の トラウマから口がきけない妹(真木よう子)はもっと美少女じゃないと。 なお(これも樋口真嗣の仕事の範疇なのだろうか)500年の鎖国が続いているという設定の未来日本の、タテ形ディスプレイのパソコン画面から、タバコのパッケージにいたるまでの、美術スタッフの丁寧な仕事が素晴らしい。 ● さて、本作は「最初の大アクション」→「束の間の休息」→「最後の大アクション」という基本構成で、最初と最後のアクションだけでその価値ありと判断して5つ星をつけたのだが、1本の映画としては真ん中の「束の間の休息」が長すぎる。その代わりに最後の大アクションの後に来るべき「絶対必要なエピローグの一戦」が欠けているのには唖然とする。つまり「さそり」で言えば屋上のラストシーン。日の丸が翻る場面だ。おそらくそれを「パート2」でやりますってことなんだろうが(2本同時製作ならともかく)そのシーンがなきゃストーリーが完結せんでしょうが。責任とって絶対パート2作れよな>一瀬隆重@プロデューサー。 ● [追記]タバコのパッケージに関しては、あれは「三七」という実在する中国産タバコだそうだ(Thanx>ロケット山田さん)

[釈由美子について証言する一瀬隆重プロデューサー] 釈さんは何があっても「大丈夫ですよ」と言う。語尾が上がるので、つい信じてしまいそうになるが、信じてはいけない。「大丈夫ですよ」というときは、ゼッタイに大丈夫ではないのだ。頭を打ったときも、ワイヤーでお尻が3つに割れたときも、指を骨折したときも、釈さんは「大丈夫ですよ」と言った。指が折れたときなんか「お医者さんが指を曲げても大丈夫って言った」と言い張るのでつい信じそうになったが、よく考えるとそんなわけがない。香港人がどんなときも「無問題(モウマンタイ)」と言うのは有名だが、釈さんには香港人の血が流れているのかもしれない。処女作がアクション映画だったのは必然だったのだろう。そう言えば、ドニーとは妙に気が合っていたし。渡良瀬でのロケでは「一瀬さん、一瀬さん、今、河童がいました」と言った。渡良瀬川を子供の河童が凄いスピードで泳いでいたと言うのだ。でも、これは信じた。だって、太陽が燦々と輝く真っ昼間だったし、釈さん真顔だったから。

[釈由美子について証言する谷垣健治スタント・コーディネーター] 彼女の口ぐせは「だいじょぶですよ」 どんなに疲れて注射を射ってから練習に来ようが、階段を降りられないほどの筋肉痛になろうが、出てくる言葉は「だいじょぶですよ」…って、キミぜんぜん大丈夫ちゃうやん?(笑) アクションに関していえば、彼女のいいところはとにかく思い切りがいいこと。画面の中で本当に人を蹴りにいってる感じや、斬りにいってる感じ、必死で攻撃をよけてる感じ等がよく出ていて、それがないといかにアクションが凄かろうが「ふーん、すごいね。だから?」の世界になってしまうわけで。

※どちらも新聞型チラシ「修羅雪通信/雪号」より。強調色は引用者による。



千年の恋 ひかる源氏物語(堀川とんこう)[DLPシネマ]

なんだよなんだよ、今年の初笑いは東映にしようと早くから決めてたのに、あんまし笑えないじゃんか。文句なく爆笑できるのは4度にわたって唐突に挿入される松田聖子の「演歌の花道」ショーだけ(しかも冨田勲と原田真二が2曲ずつ提供と無駄に豪華) 肝心の本篇はひたすら脱力系のTVバラエティでクスリとも笑えやしない。新春スターかくし芸大会?…いやいやフジテレビのほうがよほど真面目に取り組んでるぜ。天皇家姫宮ご誕生を祝して(?)千年前の天皇家の不義密通容認&浮気愛人推奨映画を作っちゃう無自覚さが かろうじて「東映 創立50周年記念作」と呼べる所以か。 ● でもそれだったらなにも(かつては「岸辺のアルバム」とかで気を吐いたかもしらんが今ではすっかり)才能の枯渇した老TV演出家をTBSから呼んで来ずとも、東映プロパーの深作欣二で「陰謀うずまく女闘美アクション」にするか、中島貞夫で「女の悲しさを謳いあげるトラディショナルな大奥もの」にするか、鈴木則文で「ハダカが乱舞する痛快エロス・コメディ」にすれば良かったのに。今回の堀川とんこう+早坂暁(脚本)+鈴木達夫(撮影)+只野信也(編集)はちょっと酷いぞ。「起承転結がない」とか「シーンの組み立てがなってない」という以前にカットが繋がってないのだ。会話してる2人の目線が合ってないなんてプロ失格だろ。あまりに唐突なカット繋ぎに、おれ、何度かコマが飛んだのかと思ったもん(昔、名画座の古いプリントでよくあったでしょ。ま、デジタル上映で観てんだからそんなわきゃ無いんだが) 現在時制の「紫式部が家庭教師をしてる姫に語って聞かせる」パートと「光の君の色遍歴」が交互に描かれるんだが、この2つのパートの切り替えがまたムチャクチャ。ほらよくテレビでいいところで「続きはこの後スグ」とかいってCMが入って、CM明けにぜんぜん関係ないことを延々やってて「この後スグっていつだよっ!」みたいな編集あるでしょ? あれなんだよ。興を削ぐことはなはだしい。 ● 長大な原作をそのままだらだらと2時間半のダイジェストにまとめた早坂暁は〈「源氏物語」は虐げられた女たちの歯ぎしりだ〉などと小賢しい解釈を下しておるが、あれかい、50代で死んだはずの(しかもその死に際は原作においては章題のみで本文なしという扱いをされている)光源氏の晩年を「ハンガー」のデビッド・ボウイみたいな老醜メイクで登場させたり、平安時代の女が初対面の殿方に「わたしは朧月夜」と自分から名乗ったり、天皇が在位中から死後の名で呼ばれてたり、甚だしきは天皇自身が皇太子に「朕の跡を継いで○○帝となれ」なんて言ったりすんのはOKなのかい 早坂暁 的には? それとなんで朱雀帝だけ「十条帝」という名に変えたの? ● だいたい、原作の設定年令よりひと回りからふた回りは上のキャストで固めた──最初に「春はあけぼの〜」と歌いながら出てきたときにゃ「清少納言の亡霊?」と思っちゃった森光子に至ってはいくつ上なんだか見当もつかない──女優陣が(細川ふみえが濡れ場と関係ないとこでポロリと無駄に片乳 見せるのを除いては)1人も脱がないくせに、若紫と玉鬘だけは原作どおり12、3の子役が演じてて どちらもヌードありってのはテメエら揃いも揃ってロリコンじじいか! しかもこの映画では、光の君は雀と戯れてる若紫(推定10才)を黙って自分ちに連れてっちゃうのである。そりゃ少女誘拐だろ! ● ひさびさの男役に挑んだ天海祐希は健闘してると思うが、その趣向はつい最近、本家・宝塚が「源氏物語 あさきゆめみし」でやったばかり。ここはやはり市川染五郎あたりに上半身はだけて色っぽくキメてもらいたかった。 女優陣でいちばん良かったのは「朧月夜」の南野陽子。商業演劇でだいぶ鍛えられた感じ。濡れ場も顔しか写ってないのにちゃんとエロいし。 「紫の上」の常盤貴子はどう見てもミスキャスト。ここは年令的にも(本作では紫式部の娘に扮してる)前田亜希ちゃんの役でしょう。 高島礼子の「藤壺」と竹下景子の「六条の御息所」は役が逆だと思う。ちなみに六条の御息所は劇中で「光の君より7つも年上の女」と紹介されて、竹下景子も鏡に裸身を写して地獄の底から響くような声で「あたしももっと若かったらぁぁぁ」とか嘆いたりすんだけど、そもそも当時の光源氏は二十歳そこそこだから、六条の御息所だってまだ20代後半のはずなんですけど。あれだな。女の年令に関する認識では平安時代は現代のコギャル(と明石家さんま)と一緒なんだな。 細川ふみえの「明石の君」は銀幕映写 許容範囲外。「東映オールスターキャスト」なら、どーして麻生久美子とか柴咲コウとか奥菜恵とかのピチピチしたところを出さんのだ? あと後半に かたせ梨乃(弘徽殿)が出てくんと途端に映画が「極妻」になっちゃうのが笑っちゃう。 まだなんか出てた気もするけど…ま、いっか。 ● おれはわざわざ新しく出来たT・ジョイ大泉まで行ってデジタル上映で観たのだが、この映画は基本的には「35ミリ撮影のフィルム仕上げ」のはずで、それをデジタル・フォーマットに変換する際に(手抜きしたのか東映化工の技術的な限界なのか)まともに色調整ひとつ出来てない酷い代物を見せられた。なにしろ半分ちかくの場面にが被ってしまってて、登場人物がみんなミカンの食べすぎに見えるのだ。はすべてビデオ特有の下品で毒々しい赤になってしまっているし、かと思えばHDビデオ合成されたCG部分は彩度が低くて寝惚けた色合いのまま。ラストの感動的なはずの「陽を受けてきらめく海面」など生のピンクとグリーンが浮いてしまっててなんとも汚らしい。春の桜も秋の紅葉もペナペナのプラスチックに、高価な衣裳もポリエステル100%の安物にしか写らない。つまり「お正月オールスター映画」の成立要件である「演技がどうこうとは関係なく出演者が豪華」と「ドラマ云々とは関係なく美術・衣裳や撮影が美しい」のどちらも満たしていないのだ。あいや、ここまで貶されると話のタネに観てみようか…と思いはじめてるそこのあなた、騙されてはいけない。誓って言うがあなたの入場料は無駄になるぞ。

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バニラ・スカイ(キャメロン・クロウ)

わが2001年のベストワン作品「あの頃ペニー・レインと」の監督の新作なんだけど、うーん…。スペイン映画「オープン・ユア・アイズ(以下「OYE」と表記)のリメイク。いい女を取っ替え引っ換えのプレイボーイが因果応報で酷い目に遭ってようやく目を覚ます…という話。「OYE」は、悪い女に引っかかったプレイボーイが夢かうつつかうつつか夢かの悪夢に迷い込むという映画だったが、その基本構成に手を加えることなく脚色も手掛けたキャメロン・クロウはサスペンスを醸成することにまったく興味がなかったらしく、これを「金持ちのモテモテお坊ちゃんの精神的成長映画」にしてしまった。そんな甘酸っぱい後味残してどうすんねん! うだうだゴタク並べてないでサスペンス進めろっての! ● 不可解なのは「OYE」では「年増のヤク中のストーカー女とペネロペ・クルス」だったからストーカー女を恐怖する主人公の心理に共感できたのだが、本作では「キャメロン・ディアスとペネロペ・クルス」だぞ。どっちでも御の字じゃん そんなの。しかも本作でのキャメロン・ディアスは売れっ子のスーパーモデルなのにスープ持参で部屋に来てくれて1晩4回もおまんこさせてくれて、そのうえザーメンまで飲んでくれて、それでいて結婚の「け」の字も口にしないけなげな女なんだぞ。なんの文句があるというのだ!? ま、よーするにコレ、トム・クルーズの「どれほどキレイな女で、ぼくに尽くしてくれてても、もうあの金髪女とは居たくないんだ。ほくはペネロペちゃんと結婚したいんだよー!」という全世界へ向けてのマニフェストなわけだ。そんなもの金とって観せんなって。直接ニコールに言えよ>トム。 ● トム・クルーズは「マグノリア」で変な悪ハシャギを覚えてしまったらしく勘違いの熱演。てめえはウィル・スミスか!って感じ。 ペネロペ・クルスは「OYE」と同じ役を再演してて本作でもちゃんと脱いでる点は評価するが、正直いうと「OYE」のほうがぷにぷにしてて好きだな(いや、おっぱいの話じゃなくてさ) 大体よりによって「OYE」でいちばん魅力的だった「雨の公園の人間マネキン・ピエロ」の場面がカットされてるのは何故!? その分 キャメロン・ディアスが素晴らしく魅力的。演技も「この人こんな巧かったっけ?」というぐらい感心した(相対的な印象なのかもしれないが) 主人公の親友(にして売れっ子作家)にはなんとケビン・スミス組のジェイソン・リー。これはオリバー・プラットの役でしょう。ジェイソン・リーではちょっと軽すぎ。てゆーか、最初にさりげなく画面に写ったとき「おお、ジェイソン・リーがカメオ出演してる!」と思っちゃったぜ(火暴) 精神鑑定医のカート・ラッセルもなにを好き好んで「ハリウッドでいちばん精神鑑定医に見えない役者」を起用してるんだか…。 「金髪は悪。黒髪は善」と厳格に規定されたヘアカラーのなかで、物語のキーを握る「とある施設」の女性職員=「ルール」のアリシア・ウィットと「サ・ビーチ」のティルダ・スウィントンは(なぜか)どちらも赤毛で、妙に艶めかしく撮られているのであった。 ● 選曲・音楽はやっぱり今回もハートのナンシー・ウィルソン@キャメロン・クロウの奥さん。悪夢にはビーチ・ボーイズが良く似合いますな。 ちなみに「バニラ・スカイ」という不思議なタイトルは「この世のものとは思えない美しい空」のことで、劇中では重要なヒントとして機能している。 ま、アレだな。この映画の教訓としては「たとえキャメロン・ディアスみたいなイイ女とベッドインしてもまぐわるのは1晩3回までにしとけ」ってことだな。…って、くぅー、つくづく役に立たねえ教訓だぜ(シ立) なお、入れ替え時には、なんとか内容を理解しようとするとりあたまカップルネタバレ・トークがロビーに充満するのでくれぐれも注意されたい。

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少女たちの遺言(キム・テヨン&ミン・ギュドン)

原題は「女高怪談 メメント・モリ」。もともと「女高怪談(囁く廊下)」の続篇として企画された作品である。シリーズとしてのシバリは「女子高を舞台にすること」と「ホラー」であること。そうして出来上がったのは(前作がそうであったように)ホラーはあくまで二次的な要素で、本筋としては韓国版「櫻の園」とでもいうべき、サスペンス/ミステリ色の強いラブ・ストーリーだった。 ● ひとりの女子高生が、校庭の水飲み場で1冊の赤い日記帳を拾う。それはとても凝った内容の交換日記で、2人の女子高生の愛の軌跡が綴られている。ほどなくその2人のうち一方が屋上から落ちて死ぬ。自殺か、他殺か? 2人のあいだに何があったのか? 映画は時制を自在に行き来しつつ、「高校」という籠の中でもがいている2羽の美しく孤独な鳥の来し方と、やがておとずれるカタストロフを描いていく。 ● 日記を拾って読むうちにだんだんと書き手と同一化してしまう(観客の立場を代行する)ヒロインに、容姿は十人並みだが親しみやすいキャラのキム・ミンソン@ちょい松たか子似。 日記の主たる書き手であるロマンチストの女子高生に、大人びた美人のパク・イェジン@小泉今日子風。 その熱烈な愛の対象である、黙々とトラックを走るスラリ長身の陸上選手に、いかにも下級生からラブレターを束で貰いそうなクール・ビューティ、イ・ヨンジン@つみきみほタイプのショートカット。 3人とも本作が映画デビュー。 監督の2人(どちらも♂)は韓国映画アカデミーの同期生で、本作が長篇 第1作。在学中にコンビを組んで製作していた短篇を観たプロデューサーから「どっちのほうが腕が良いのか判らないから」という理由で(!)「2人セット」で声がかかったそうだ。 中央にガラスの天窓までの吹き抜けと、それを囲む回廊がある素晴らしく映画的な建物は、なんと本物の女子高だそうだ。 ● 不思議なのは、おそらく初稿の段階で書かれてその後どんどん削られていったのであろう「おどろおどろしいホラー」の残滓が、ところどころそのまま残ってしまっていること。なかでも極めつけは映画の冒頭にナレーションされる「1日目、1人の子が死んだ。頭が空っぽのまま。…真実を思い出したから。/2日目、1人の子が死んだ。脚を切断されて。たぶん真実に近づいたから・・・そして7日目。1人の子が死ぬ。たぶん…」という横溝正史の手鞠歌みたいな詩で、なんでもその女子高ではすでに6人の生徒が自殺/事故死していて「7人死んだら廃校」らしいのだが、この設定はその後ラストシーンまでまったく無視されたままなのである。じゃ、あの意味ありげな詩は何だったんだ!?

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オテサーネク(ヤン・シュヴァンクマイエル)

子どもの出来ない夫婦が寂しさを紛らわせるため、人形(ひとがた)をした「樹の切り株」を赤子として育てると、その切り株オテサーネクは底知れぬ大喰らいとなり、大鍋のおかゆを食いつくし果ては両親まで飲み込んでしまう…というチェコの民話の「実話+人形アニメーション」による映画化。本作では舞台を現代の共同アパートに移して「不妊ノイローゼの妻」の妄執が産んだ怪物を、隣家の少女が目撃してしまうというサイコ・ホラー調の展開にしている。 おお、これはまるで「商業映画」ではないか! どうやらさすがのチェコの筋金入りシュルレアリストも昨今はスタジオからの興行的要請から逃れることは出来ないらしく、本作は「アリス」「ファウスト」「悦楽共犯者」と作られたきたなかでは最も「普通の娯楽映画」に近い、たくさんの台詞と、わかりやすいストーリーのある長篇に仕上がっている。さて「万人にわかりやすいシュヴァンクマイエル」とはどのようなものかといえば、なんとこれが馬鹿ホラーなのだ。巨大化した切り株@産着着用が人間を襲って食べてしまうシュールな描写は、結果として人喰いトマト殺人雪ダルマの映画に非常によく似ている。その一方で、地下室に捨てられた怪物のもとへ少女が近づいていく件りに自身の最高傑作「地下室の怪」が引用されていたり、唐揚げ粉のCMという設定で「肉片の恋」がそのまま使われていたり(アイロンのCMは未公開短篇?)と、馬鹿ホラー・ファン(=おれ)とシュヴァンクマイエル・ファン(=おれ)のどちらにもお勧め。なぜか意味もなくドルビー・デジタル・サラウンドEXだったり。

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オー・ブラザー!(ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン)

色褪せたシネスコ画面に古いSPレコードの歌声がかぶさる。〈原作:ホーマー「オデュッセイア」〉というクレジットは「ファーゴ」の〈これは実話である〉ってのと同じたぐいのカマセにすぎない。これは ┛┗ 型のヒゲをした〈洒落者〉と、〈ぼけなす〉と〈嫌われ者〉のトリオを主人公とした「ブルース・ブラザース」と同種のゴキゲンな道中ミュージカルなのである。採りあげられている音楽は「BB」のR&Bよりもっと古い時代のブルースや、ルーツ・ミュージック。劇中にはクロスロードで悪魔に魂を売った黒人ブルース・ギタリストが出てきたりするのだ。その手の音楽ならおまかせのTボーン・バーネットが音楽プロデューサーを務めている。 ● これはまた音楽だけでなく、失われた古き佳き南部、あるいは大らかで いかがわしくて豊かだった南部へのオマージュでもある。日本でいえば「関東大震災で終わる大正ロマンもの」みたいなもんだな。その効果を出すため「カラー・オブ・ハート」同様に、35ミリ・フィルムで撮影した素材をいったんコンピュータに取り込んで、すべての場面を人工的に彩度調整している。全体的に色味を落としたりセピア調にするだけじゃなくて(真夏に撮影したため)「緑に生い茂る草木」の色からそこだけ色を変換したりしてるのだ。アルファチャンネルを山ほど作って作業してるわけだがマスクの切り方がいまいち甘いので「風になびく髪の毛」とかは背景との違和感が出てしまっているのだが、それがかえって人工着色した絵葉書みたいな味わいを醸しだしている。ちなみに〈ぼけなす〉を演じてるのは「O」の監督ティム・ブレイク・ネルソンその人。

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青い夢の女(ジャン=ジャック・ベネックス)

いつまでたっても死体の始末をしようとしない死体始末コメディ。駄目じゃんそれじゃ。「ハリーの災難」? どこが? 基本アイディアが「ハンサムな精神分析医が診察中に居眠りをしたあいだに患者が絞殺されて」…という、ちょっとありえない設定で、その伏線の張り方が冒頭に「主人公が別の精神分析医に『最近、患者の刺激的な話を聞くとなぜか眠くなるんですよ』と相談をしてる」という「それがアリなら何でもアリじゃねえか!」ってもので、これだからフランス映画は(以下略) だいたいコメディとしては殺される「暴力的なセックスにしかエクスタシーを感じない攻撃的なM女」に、主人公が悩まされながらも惹かれてるとこをもっと押しとかなきゃ駄目でしょうが。 原題は「MORTEL TRANSFERT」。文字どおりの「死体の移動」と精神分析用語での「致命的な(患者への)感情移入」との掛け言葉。 ● ハンサムでちょっと情けないセンセイにジャン=ユーグ・アングラード。 攻撃的M女にエレーヌ・ド・フジュロール。上唇のホクロがちょっと下品でいい感じ。乳出しあり。 センセイのカノジョ@画家に(エマニュエル・ベアールにちょい似の)ヴァレンティナ・ソーカ。乳出し&毛出しあり。 ● しかしフランスじゃ精神分析はみんな「患者が医者に直接を金を払う」システムなのか?(受付嬢とか領収書は無いの?) それとベネックスは(中途半端な)日本贔屓らしく刑事の部屋になぜか「銭湯の富士山の絵」があるのが変。これだからフランスのインテリは(以下略)

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冷静と情熱のあいだ(中江功)

不本意な理由で別れてしまった愛しあう2人が数年後に再会する。だがヒロインには止むを得ない理由があり、男の元に帰ることが出来ず、その理由を告げることも叶わない・・・じつに古典的なメロドラマのプロットである。「止むを得ない理由」というのは「ヒロインの不治の病」であったり「愛する男の生殺与奪権を今のカレシが握っているため」だったり、あるいは「貧乏な家族のため苦界に身を沈めた」からだったり「愛する男にはすでに幸せな家庭がある」からだったりするわけだが、さて本作においてケリー・チャンが竹野内豊の愛を受け容れることを阻んでいる「障害」というのが・・・これが最後まで観ても解からないのだ。お、おれってアタマ悪い? 女心が解かってない? マジでだれか教えてくれい。てゆーか、おれが荒井晴彦なら、竹野内豊が退屈しのぎのセックス・フレンドにしてる篠原涼子を妊娠させるけどね。で、それを竹野内の親友面して裏ではケリー・チャンに横恋慕してる最低のチクリ野郎=ユースケ・サンタマリアが、ケリーに告げ口して「おれの女になれ」とか言って犯す、と。ケリーはケリーで竹野内を(心では)愛してるんだけど、金持ち実業家マイケル・ウォンのセックス奴隷に調教されてて…<こらこら。 ● いや「商品」としてはまったく悪い出来ではないと思うのだ。ちゃんと映画のスクリーンサイズを意識した構図で撮ってるし、プロマイド写真のように美しい竹野内豊とケリー・チャンの「演技レベル」も釣り合ってる。ようやくフィレンツェやミラノの街角に日本人を嵌めこんで違和感がない時代になったか…と(過去のこっ恥ずかしい海外ロケ作品を思い出して)ちょっとした感慨を覚えないでもない。「ありもの」の音楽を画面にあわせて流用するというTVスタイルの選曲センスによるエンヤの音楽も(どうせ日本人には歌詞など聞き取れやせんのだから)悪かない。ラストの展開なんか、はっきり言っておれは泣いたよ──不憫なマイケル・ウォンのために(やっぱ主役の2人より演技が上手いのがマズかったか!?) こうしてまた異国の美しい歴史的建造物が日本人の落書きで埋め尽くされていくのだなあ。

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バンディッツ(バリー・レビンソン)

2人組の銀行強盗が警官隊&SWATに包囲されて絶体絶命…という「ソードフィッシュ」とまったく同じ状況で開幕するのだが、ツカミの巧さでは天才的だった「ソードフィッシュ」と比べると、本作のオープニングのタルさ加減は目を覆わんばかり。ここで2人の死を予告しておきながら──実際、観客には「このあと2人は互いに撃ち合って死んだ」と告げられる──物語が始まりに戻り、刑務所を脱獄した2人がもう1人の相棒を訪ねると、そいつは映画のF/Xマンという設定で、たまたま弾着のテストをしてるところ。これでラストの展開が読めない人がいたらお目にかかりたいもんだぜ。 ● つまり(ネタバレ承知で書いちまうが)話としちゃあ「スティング」で終わる「俺たちに明日はない」なのである。脚本も台詞に関しては悪くないと思う。ところがバリー・レビンソンの緩急を欠いた演出で(アクションを欠いた)ヌルいたけのコメディになってしまった。だいたい「女がすぐウットリしちゃう二枚目の悪党」つったら、ジョージ・クルーニーとかブラッド・ピットの役でしょう。いまのキャスティングでいくんなら、おれならブルース・ウィリスとビリー・ボブ・ソーントンの役は逆にするけどな。赤毛でマスカラべったりのケイト・ブランシェットはしごく魅力的。 ● バリー・レビンソンも「スフィア」(1998)の大コケの後が本作となるといよいよ終わりかとも思うが、IMDbで調べるとその間に撮ったボルチモアものの新作「Liberty Heights」(1999)、アイルランドを舞台にしたかつらセールスのコメディ「An Everlasting Piece」(2000)といった小品や、ダイナーに巣食う人々のドキュメンタリー「Original Diner Guys」(1999)が日本未公開に終わっているようだ。終わりかどうかは「リバティ・ハイツ」を観てからの判断だな(買ってくれ>ギャガ) あと、どーでもいいけどレビンソンの会社「ボルチモア映画社」っていつの間にか「ボルチモアの春の小川プロ」に名前が変わってるねえ。

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シュレック(アンドリュー・アダムソン&ヴィッキー・ジェンソン)

火を吹くドラゴンが護る塔に幽閉された美しいお姫さまを、緑色の醜い人喰い鬼が救いだす。姫と人喰い鬼は恋に落ちる。つまり「美女と野獣」の物語である。野獣は、美女のキスで呪いを解かれて眉目うるわしい王子の姿に戻りハッピーエンド…となるのが相場だが、では、野獣が野獣のままだったら? たとい どれほど美しい心を持っていても、見た目はあくまで緑色の醜い(しかも臭い)怪物のままだったら?・・・というのが「シュレック」の挑んだテーマである。 ● 何年か前に「政治的に正しいおとぎ話」という本が売れたことがあるが、あれは「お伽噺の心」を欠いてかさかさした読むに堪えない代物だった(そういう印象を与えるべく書かれたアンチPCパロディであったわけだが) ところが「シュレック」は「楽しくて感動的なお伽噺の王道」でありつつ「政治的に正しいおとぎ話」でもあるという綱渡りを、みごとに最後まで渡りきる。綱の上で演じられるダンスがあまりにも軽やかで危なげがないので、そこが地上数十メートルに張られた1本の細いロープの上だということを観客が忘れてしまうほど鮮やかに。 ● おれは、醜い姿の者が美しく変身してメデタシメデタシとなるハリウッド的(=ディズニー的?)なハッピーエンドには何の問題もないと考えるし、そうしたストーリーでは「形象」は内面の象徴であり、「美しく変身する」というのは「自分の内面が成長する」もしくは「相手/周囲に理解される」ことのメタファーであることが観客には(直感的に)理解されるはずだと思うのだが、それでも「シュレック」が醜いアヒルの子を いくらかでも元気づけるのなら それも悪くないだろう。堅っ苦しい話を抜きにしてもよく出来た映画だし、全篇を通して大笑いできるし、主人公の旅の供となる「喋る驢馬」の声をアテた喋る量がハンパじゃないエディ・マーフィーの話芸が堪能できるし、見て損はなかろう。てゆーか、あれだけ長いあいだ宣伝しててなんでこんなに空いてるんだ? これ「人を外見で判断しちゃいけません」って映画なんだけど、日本の観客は緑色の醜い怪物の映画なんか観たくなかったってこと?(火暴)  ● おれは「アンツ」は観なかったのでこのPDI/ドリームワークス チームのCGアニメは本作が初見。正直、アニメーションとしての魅力には乏しくて、なかでも「歩き方」の表現がイマイチなんだが、キャラクターの表情(の変化)が及第点なので良しとする。それと主要キャラはよく描けているんだが、ディズニーをからかってるつもりの「お伽噺の有名キャラ」たちが意外に面白くない。きっと脚本家がいい人すぎるんだな。しかし、せっかくのフルCGアニメで「トイ・ストーリー2」や「ダイナソー」と同じ日劇プラザでの上映なのに、なんでDLPシネマ上映じゃないの? 「千と千尋…」も いーかげん長く上映してんだから、スカラ座からDLPシネマ映写機、返してもらったらどーよ?>日劇。 ● しっかし、そんな公平で差別のない世界でも垂直方向に課題を持つ男だけは「自己中心的で他人の痛みのわからないバカ男」として描かれてて、おいおい これから「マイノリティ・レポート」の宣伝が始まるっちゅうのに、そんなあからさまにトム・クルーズの悪口言ったりしていいのか!?>ドリームワークス&スピルバーグ社長。


リリイ・シュシュのすべて(岩井俊二)

世の中にはビデオで撮っちゃいかん景色というものがあると思うのだ。それはたとえば宇都宮郊外に広がる緑なす田園であったり、沖縄・西表島の紺碧の海であったりする。この作品はHD24Pビデオカメラで撮影したものをコンピュータ上で加工してから(キネコではなくて)1コマ1コマ、フィルム・レコーディングしている(当然そのほうがキネコよりも時間=ゼニがかかる) 撮影の篠田昇によると、製作に先立っては何度もテストを重ね、テスト映像をフィルム・レコーディングしたものを実際に映写して確認したうえで「よし、この品質ならイケる」と踏んで(機動性・省照明性に優れる)HD24Pビデオの導入を決断したそうなのだが・・・ええっ!? このクォリティでいいのかよ!? このボケボケの、夕陽にきらめく海面の美しさも、夜の焚火の幻想性も、そればかりか人の肌色すらまともに表現できない映像であなた方は満足なのか? いや、岩井俊二と篠田昇がこれで満足だというなら好きなようにビデオ作品を撮りつづけるが良いさ。そしてこれを「美しい」と感じる信者に見せてればいい。だが、おれはこれは映画だとは思わない(なにしろ今年の当欄は「フィルム原理主義者」だかんね。厳しいぞ) 時計を見て「このあと1時間半もこんな薄汚い映像の辛気くさい話は観続けられない」と判断したので小一時間で途中退出。よってドラマについての論評はしないが、おれのための映画ではなかったことは確かだ。当の14才の観客がこれを観て「生きる力」を取り戻すとも思えないのだが、まあこれは最後まで観てないので断言しないでおく。

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東京ハレンチ天国 さよならのブルース(本田隆一)

脚本・監督(その他いろいろ)の本田隆一と↓の宇治田隆史は、「鬼畜大宴会」「空の穴」の熊切和嘉と大阪芸術大学の同期との由。今回、いわば大阪芸大ムーブメントということで中野武蔵野ホールで特集上映された。本作は16ミリ 80分の自主映画で、タイトルやポスター・デザインから期待されるほどには「日活アクション」してないし「ハレンチ」でも「サイケ」でも「トンデモ」でもない。勤勉よりも怠惰を、前進よりも停滞を良しとする四畳半スピリット全開の青春映画…つまり自主映画の王道だ。学生時代に観てたら、たぶん共感したと思うんだけど、いい歳したおやじ(>おれ)としてはついつい「遊んでねーで働け!」とか思ってしまうのだ>サイテー。 ● 細身のスーツにグラサン&チョビヒゲの殺し屋が理想と現実のギャップに嫌気がさしてブツを持ったまま雲隠れ。(東京でいえば)高円寺あたりのジャズ喫茶に寝泊りしてるミリタリー・ルックの学生GSバンドとお友だちになるけれど…という話。てゆーか、話といえるほどの話はなくて、ジャズ喫茶にのんべんだらりとたむろする奴らの非生産的な空気と、擬似GSチックな演奏シーンを楽しむべき映画。やくざのボスが趣味でAVを撮っていて(たいしてキレイじゃないけどいちおう)女優が乳を出している。おお。自主映画で乳を出すと皆から尊敬されるんだよなあ。 ● で、この凶暴な長髪七三サングラスの やくざのボスが小児麻痺かなんかの障碍者で、首にはギプス、手足はねじくれ、つねに顔をゆがめて落語で団子を喰うときの口調でしゃべるのだ。演じてるのは映☆画次郎なる「驚異の新人」…とは体面をおもんばかった仮の名。じつは「プロジェクトX」で国民的な知名度を得てしまった某俳優なのだ(ヒント:マシュー・ブロデリックではありません) そりゃそーだろう。こんなこと演ってんのがバレたら国営放送の看板番組から降板必至だからな。というわけで田口トモロヲファンは必見だ。

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浪漫ポルノ(宇治田隆史)

脚本・監督(その他いろいろ)の宇治田隆史は「鬼畜大宴会」の熊切和嘉と大阪芸術大学の同期で、関西の自主映画界では(両人の卒業制作である)本作と「鬼畜大宴会」のエログロ2本立て興行が人気番組だったらしい。16ミリ 75分の自主映画。 ● 年増ストリッパーと同棲してる、エロ小説家志望の手塚眞そっくりの若いヒモ(というより「書生」の風情)と、なんか学校が面白くなくってストリップ小屋でモギリのバイトをしてる女子高生の友情のようなもの。ピンク映画ファンには、若いヒモが荒木太郎、女子高生が林由美香、年増ストリッパーが岸加奈子…といえば雰囲気が伝わるだろうか。 ● 場末のストリップ小屋の描写などは明らかに神代辰巳とかの1970年代前半の日活ロマンポルノを手本にしてるのだが、そのわりには小屋の支配人とヒモの区別もついてないし、モギリを「キップ切り」とか言ってるし、ちょっと勉強不足? おれなんか親切だから「描写の抜け」を頭の中で補って観ちゃうけど、このジャンルの映画の定石に慣れてない観客には作り手の意図がちゃんと伝わるかどうか。みずみずしい感情があらわされているシーンも少なからずあるので(自主映画としては)合格点。ただ、いくら自主映画だからって「プロ野球中継のアナウンサーの声」のSEぐらいはバレバレのループなんかせず、ちゃんと時間分 用意したほうがいいぞ。 ● なおストリップの話だが脱ぎはTバックの紐ビキニまで。ヒロインの「女子高生」も(たぶん実際は大学生と思われ)「女子高生」という言葉から期待されるような美少女ではない。てゆーか、容姿も性格も長与千種にそっくりだ(火暴)


悲しくなるほど不実な夜空に(宇治田隆史)

ピンク映画女優の葉月螢がヒロインを演じている35ミリ 63分の自主映画(脱ぎは無し) 自主映画だが撮影&照明はきちんとしている。もの哀しいジンタの音色に乗せて語られるのは「家族の絆」の物語。土方の父ちゃん失業中。プーの弟は働かず。しかたなく姉が(家族に内緒で)スカトロビデオに出演して稼いでいたのだが、それが親バレしてしまい…。 ● おれが許せないのはAVを賤業…つまり蔑まれてしかるべき職業としてとらえてることだ。親バレったって、仕事のない親父がテメエでエロビデオ借りに行って見つけたんだぞ。それって「援交女子高生に説教する、客の中年おやじ」と一緒じゃねえか。てゆーか、その倫理観はいつの時代のものなのだ。アンタいったい幾つだよ。山田洋次か?>宇治田隆史。で、また、AV出演を責められたヒロインが「アンタ、あたしのウンコで食べてんじゃないのよ」とか開き直って酔って吐くとかそんな陳腐な描写、よく恥ずかしくないもんだ。投げやりになって「お尻の穴まで舐められたよ、…男に」って、あのさイマドキそこらのカップルでもケツの穴ぐらい舐めるっちゅうねん。…えっ、舐めない?(火暴) ● おれは2000年12月の第1回 東京フィルメックスで観たのだが、いま、宇治田のデビュー作「浪漫ポルノ」を観たあとであらためて振り返ってみると、陳腐な紋切り型は あるいは意図的なのかも。…いや、出来が酷いのは事実なので星の数は変えんけども。

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O オー(ティム・ブレイク・ネルソン)

1997年の東京国際映画祭ヤングシネマ部門で上映されたきり未公開に終わってしまった「神の目」の、ティム・ブレイク・ネルソン監督の長篇 第2作。監督・脚本を手掛けた半自主映画「神の目」はアメリカの田舎町で起きた取り返しのつかない悲劇を描いた傑作だった。その意味でシェイクスピア悲劇「オセロ」のアダプテーションへの起用は正しい選択だろう。 ● 「オセロ」といえばたちどころに、限りなく映画的だったオーソン・ウェルズ版や、まんま舞台的だったローレンス・オリヴィエ版が思い浮かぶが、イアーゴ視点から語られるという点で本作はケネス・ブラナーがイアーゴを演じたローレンス・フィッシュバーン版「オセロ」に近いかも。このところ現代化シェイクスピアが大流行りだが、舞台だけを現代アメリカに持ってきて台詞はそのままだったディカプリオ版「ロミオ+ジュリエット」やイーサン・ホーク版「ハムレット」とは違い、本作では(構成はほぼ忠実ながら)設定&台詞も自由にアレンジされている。いちばん大きな変更点はイアーゴ(本作ではジョシュ・ハーネット演じるヒューゴ)をローマ皇帝(=白人生徒オンリーのプレップスクールの、バスケ部の部長)の息子にしたところ。皇帝がオセロ将軍(=バスケ入学してきた元・不良の黒人選手オーディン)ばかり可愛がることへの──父親の愛情と(劇中では明示されないが)オセロへのホモセクシュアルな愛情からの──嫉妬がイアーゴの姦計の原動力となる。ティム・ブレイク・ネルソンは白鳩と黒鷹といった(アメリカのティーンにも)わかりやすいメタファーを使いながら、まるでそれが人間の力ではどうすることも出来ない定めであるかのように、ファザコンでおそらくはゲイの「オセロになれたはずの男の悲劇」を演出していく。したがってラストの見せ場となるのはイアーゴのオセロへの嫉妬と愛情の入り混じった心情吐露であり、デズデモーナに至っては大した盛り上げもなくなんとなく殺されてしまう。イアーゴをケネス・ブラナーのような名優が演じていたならば「心打つ荘厳な悲劇」にもなったろうが、いかんせんジョシュ・ハートネットの演技力には限界がある。映画としての出来もその限界を越えるものではなかった。<おお、なんか今回ちゃんとした映画評論みたいだぞ。 ● 北欧神話の軍神の名を持つ黒人高校生に「クローン」のマカーイ・ファイファー。 イアーゴの父にマーチン・シーン。 デズデモーナ(本作ではデジー)に、このあと再び「セイブ・ザ・ラストダンス」で黒人と恋に落ちるソラマメ顔のジュリア・スタイルズ。あれっスかね。オセロ相手にバージン喪失して それまで悶えまくってたくせに(キャシオとの浮気を妄想したオセロが昂奮して)激しく腰を使いはじめた途端に「いや! 痛いわヤメて!」とか言い出したのは あれはやっぱ相手がロイクだけに「ぜんぶ挿れたら痛いわ!」ってことっスかね?<どこが「ちゃんとした映画評論」やねん。


SEX:EL セックス:イーエル(ジャン=マルク・バール)[キネコ作品]

世の中にはビデオで撮っちゃいかん景色というものがあると思うのだ。アメリカ中西部に広がるコーン・フィールズもその一例だ。 ● 夏でも長袖 着てるような敬虔なバプティストの女房におまんこ拒否されて欲求不満のデカマラ男が、フランスから来たガバガバのヤリマン女に出会ってメデタシメデタシかと思ったら・・・という話。ジャン=マルク・バールが「ラヴァーズ」に続いて、製作・監督・脚本・主演した〈自由についての3部作〉の第2弾で〈セックスの自由〉についての映画なんだそうだ。今回、なぜか舞台がアメリカ南部で英語作品。つまり、えらそーなお題目 唱えておいて、結局は愛やセックスについての苦悩を、偏狭で狂信的で嫉妬深い村社会の閉鎖性に責任転嫁して終わり。なんだよそれ? ● ジャン=マルク・バールはどーみても「南部の田舎者アメリカ人」にゃ見えないし、エロディ・ブシェーズはどーみても「村の男どもがヨダレを垂らすフランス娘」じゃないだろ。(たぶん低ギャラで)客演してくれた女房役のロザンナ・アークエットをキレイに撮ってあげようなどという気遣いの、欠けらもない。薄汚い映画。原題は「TOO MUCH FLESH(お肉がいっぱい)」


本当に若い娘(カトリーヌ・ブレイヤ)

「ロマンスX」の女性監督が25才のときに撮ったデビュー作。1976年作品。明白にソフトコア・ポルノなのだが、14才(という設定)のヒロインがフランス女なもんだからぐだぐだ理屈をつけてなかなかヤらせないのである。一言でいえば「ハズレの洋ピン」ですな。カトリーヌ・ブレイヤは、レオン・グッチのロリータもの(「ザ・ロリータ 姦痛 THE EROTIC ADVENTURES OF LOLITA」「ラブ・オブ・ロリータ 卵熟 THE LOVES OF LOLITA」)でも観て、よく勉強するよーに。

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お正月角川おたくアニメまつり

おれはアニメ村社会に不案内なので、ネットや紙の上でよく目にするタイトルを一遍に観られる手っ取り早い社会勉強のつもりで観に行った。 ● 最初は「あずまんが大王」(錦織博/約5分) この作品は初耳。タイトルのセンスからすると原作はアニメ誌の4コマ漫画かなんかか? 小学生のような女子高生が主人公の、クラスの日常をネタにしたギャグマンガ…じゃないかと思う。すぐデロ〜ン顔になる典型的なマニア向け自家中毒系。シュールな展開であっというまの5分。ま、5分じゃこういうふうにしか作りようがないよな。エンドクレジットで女生徒にはみんなキャラ名があるのに、男はただの「男子生徒」ってのが作品の世界観を如実にあらわしていて、笑った。 ● 次が「デ・ジ・キャラット 星の旅」(桜井弘明/約20分) ネット上では高名な作品。おれはまったくの初見。なるほどこういうものですか。遠い星からやって来たお姫さまが秋葉原のゲームショップの猫耳のコスプレ店員をやってて、ゲーおた君やアニおた君に大人気…という自虐的な設定からして自家中毒アニメの極北ですな こりゃ(アニメーション制作:マッドハウス) 今回は「お姫さまが突如として思い立って故郷の星に帰る」という話なんだが、各種設定がワザとくだらなく作ってあって「おらおら、おれたちって最低だろ? こんなのはどうだ、おらおら?」という作者と受け手のマゾ合戦のような…。そんなものを楽しんでしまった自分が嫌だぜ。台詞のやりとりが「クイーンの曲名尽くし」になってる箇所があって、そんなの若いおたくの諸君に通じるのか? おれが観に行ったときは劇場ロビーにアニメキャラの着ぐるみが来てたけど、等身大の(三次元の)アニメキャラとか見て嬉しいものなのか!?>アニおたの皆さん。 ● 3本目は「スレイヤーズぷれみあむ」(佐藤順一/約30分) これだけは前に「スレイヤーズRETURN」てのと「スレイヤーズごーじゃす」って映画版長篇を2本 観てるので、設定了解済み。元気娘キャラと女王様キャラの、双方ツッコミの魔術を使えるドラゴン・スレイヤー・コンビが、中世ヨーロッパを思わせる異世界を旅してまわる話。…だと思ったら、あれぇ? ヒロインのパートナーがいつもの大喰い豪快ネエチャンじゃなくて、ハンサムな金髪青年だぞ。なんで!?(結局、豪快ネエチャンは終盤でおいしい役でゲスト出演してたけど…) しかし今回の敵はなんとタコ族(見かけはまんまタコ) おお、ここにも自家中毒症状が…。前に観た映画はギャグが散りばめてあっても「話の本筋」は真面目に作ってあったと思ったけど。こうしてアニメ村はますます閉鎖性を増していくのだなあ。 ● トリの「サクラ大戦 活動写真」については別稿で。──ということで、どれも予備知識なしで観ても退屈しないで楽しめた。ま、だからといって普通の(実写)映画ファンにお勧めできるほど普遍的な内容ではないのだが。

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サクラ大戦 活動写真(本郷みつる)

お正月の角川おたくアニメまつりのトリを務める約80分の長篇。これもまったくの初見。監督は映画版「クレヨンしんちゃん」の最初の4本を手掛けた本郷みつる。さすがに長篇だけあって「物語を語ろうという意志」が感じられるのが好ましい。それと、ようやく顔の輪郭線のゆがんでない絵柄になってほっとしたよ。 ● 舞台となるのがパラレルワールドな「正」時代の帝都・東京。電気でもガソリンでもなく蒸気機関により発展を遂げた帝都は「賢人会議」により張られた結界に護られていたが、それでも都市の闇に出没する「降魔」に対抗するため、平時は帝国劇場の歌って踊れる大スター、有事の際には鋼鉄のロボットに乗って呪術と霊力により魔と戦う可憐な少女たちの一団「帝国歌劇団 花組」が組織された!・・・という「大正浪漫」と「スチームパンク」と「帝都物語」と「ガンダム/パトレイバー」の美味しいとこ取りである。もちろん「なにゆえに少女宝塚の団員がガンダムに乗って戦わねばならんのか?」というのは訊いちゃいけない質問である(「月光仮面は誰でしょう?」とか「けっこう仮面はなぜ裸なのか?」と同じことですな<そうかあ?) そうそう「メガネっ娘はなぜメガネをかけたまま舞台に上がるのか?」も訊いちゃダメ。 帝国歌劇団には花組だけじゃなくて月組とか夢組、薔薇組ってのもあって、夢組ってのは霊力を持った巫女の集団で薔薇組はオカマの集団なのだった(薔薇組も帝劇で公演してるのか!?) もちろん正月ともなれば浅草六区の映画街は大賑わい(震災も崩御もないパラレルな正時代なのに、なんで浅草に十二階が出てこないの?) 表記は漢字縦書が基本。横書にする際も右から左。ちなみにオペレーションルームの世界時計、「里巴」「京北」と来たら「亜利太伊」じゃなくて「馬羅」だろ?(少女歌劇団に「まら」は御法度?<よしなさいって) ● …えーと、つまり設定はしごく魅力的なのだ。問題はその上にのっかる物語。「合衆国ダグラス・ロッキード社の社長が、花組歌劇団の使用しているものより性能の良い無人ガンダムを、日本政府に外圧かけて売り込みに来て、花組は解散の危機」という話と「解散してしまったエリート集団〈星組〉に所属していた合理主義者のブロンド娘が〈紐育歌劇団〉設立準備のため花組に編入して来て、チームの和を乱す」という話が併行して進んでいく…はずなのだが、後者の話が途中すっかりすっ飛ばされてしまって、そもそも「星組 解散」の因縁をちっとは解説してくんないと話が判んねえぞと思ってると、ダグラス・ロッキードの社長が(どー考えても、そのまま放っとけば売り込みに成功したはずなのに)自分からわざわざ妖魔の正体あらわして、最後は爽快熱血なロボット・バトルものとして終幕…するのかと思ったら、フィナーレたる帝劇の舞台上で、ブロンド娘が(芝居の台詞として)[悪の手先と通じて]いたことを告白。おいおいそんな描写も伏線もなんにも無かったぞ!と観客が唖然としてると、他のメンバーが[♪いいのよ、許すわ〜]と歌って大団円。なんなんだ!? そーゆー設定ならブロンド娘がラスト・バトルで[皆のために犠牲となって死ぬ]しか終わり方はなかろーが。何を考えておるのだ?>脚本家。あと宝塚だったらフィナーレは大階段のレヴューに決まっておろーが。 ● アニメーション制作が「人狼」「BLOOD: THE LAST VAMPIRE」のプロダクションIGだけあって、作画・動画とも安定。CGの活用も効果的。電化される以前の帝都の「闇」のリアリティは素晴らしいのだが、そのせいでロボットの戦闘が暗くてよく見えないってのはやりすぎってもんでしょう。戦闘ロボットを乗せて、帝都の地下を縦横無尽に(文字どおりタテヨコに!)走る陸(おか)蒸気ならぬ地下蒸気が、もう痺れるほどカッコいいので、かつて「サンダーバード」の発進シーンに燃えた人は必見。あと「帝都物語」が好きなら一見の価値はあるかも。


光の雨(高橋伴明)

まずはじめにおれの立場を明らかにしておく。おれは1963年生まれ。おれの「社会的記憶」は7才のときの大阪万博に端を発するが、その年の秋の三島由紀夫の割腹自殺の記憶はない。9才のときの札幌オリンピックは覚えているが、おなじ月の浅間山荘事件のテレビ中継は覚えていない。いまに至るまで政治運動に関わったことはない。自己批判や総括にはまったく縁のない自堕落人生である。 ● そうした者に伝えるのに「連合赤軍」はいちばん難しいテーマだろう。なにしろおれは学生運動というものに憧れやシンパシーを抱いたことがまったくないのだ。冒頭、ニューズリールをバックに延々と説明される「革命闘争史」も耳を素通りするばかり。劇中人物の語る「革命」だの「闘争」だのはギャグにしか聞こえない。映画としては「御国のため」とか「倒幕の志士」とかのほうがよほどリアリティがある。「鬼畜大宴会」のように作るのなら別だが、登場人物の信じたものを理解して、かれらと希望や感動や絶望を共にするには膨大なプロセスが必要だろう。(本作とは別に)長谷川和彦がようやく書いたスクリプトが6時間の映画になってしまった…というのもわかる。 ● 高橋伴明が2時間の映画に仕上げるために選択したのが「劇中劇」にするという方法である。30年前の「革命戦士」たらんとする若者たちに、現代の若い俳優たちが演じる姿を二重写しにすることによってアクチュアリティを獲得しようとしたわけだ。だが、それをやるなら現代のパートは「本当のドキュメント」にしなきゃ意味ないだろ。本作ではビデオ画面による「俳優インタビュー」も含めて、現代パートはあらかじめ用意された脚本に基づいて演出された「作りもの」なのである。つまり山本太郎は「連合赤軍幹部・森恒夫を演じる、元・漫才師の新人俳優で、普段は路上で相田みつをみたいな詞を売ってるイマドキの若者」を演じているのである。それじゃ意味ないじゃん(しかもその設定のなんというリアリティの無さ!) いや「恋におちたシェイクスピア」みたいな映画なら実生活と舞台/映画の二重写しを「よく出来たフィクション」として楽しめばいいことだ。現に「光の雨」でも、山のアジトという密室で徹底した自己批判/相互批判で追い詰められる「革命戦士」予備軍の若者と、撮影現場で監督からダメ出しをされて追い詰められていく俳優予備軍の若者が二重写しになってくるあたりは(作りものとして)面白い。だけど(かつてはゲバ棒とヘルメットで「戦闘」に参加していた)高橋伴明がこの映画でやろうとしたのってそういうことじゃないんだろ? ● 皮肉にもこの映画でいちばん力を持っているのは、山の密室で死んでいった/殺されていった若者たち1人1人の「死」を執拗に見つめていき、いつのまにかそれまでの画面外の(主体不明の)ナレーションが死者の声に切り替わる件りである。つまり劇中劇などという仕掛けとは無縁の、ドラマの、演出の力を感じられる部分だ。あなたはかつて「TATTOOあり」を作った監督なのだぞ。どうして真っ向勝負をしてくれなかったのだ。もひとつ言うと、どうしてカメラが長田勇市じゃないのだ? ● キャストに関しては、永田洋子を演じた裕木奈江が一世一代のハマリ役。川越美和は全裸の濡れ場あり。

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スパイキッズ(ロバート・ロドリゲス)

おれらのガキの時分の、「将来、何になりたいか」という作文には こっ恥ずかしくて書けないけど じつは憧れの2大職種ってのが「魔法使い」と「スパイ」だった。これは「エスパー」と「忍者」にも置換え可能で、つまり「超自然能力」系と「特殊技能」系ですな。おれなんか大手文具メーカーの「スパイ7つ道具セット」とか親に買ってもらったもんなあ(でまたガキのくせに貧乏性なもんだから「水に溶ける秘密メモ」ってのを使えないのよ勿体なくて) まあ「ブルース・リー」ってのもあるがカンフー強くたって女湯は覗けないからねえ。<エロガキかい! ● というわけで今年のお正月映画は、奇しくも子どもの願望充足ファンタジーが2本そろったわけだが、興行成績はご存知のように「ハリー・ポッター」の圧勝。「スパイキッズ」の映画館は休日だってのにガラガラだった。アスミック・エースもどうせ(全米2001年3月公開の映画を)ここまで引き延ばしたんなら何も「ハリー・ポッター」と同時期に公開せずとも、いっそ2002年の春休みまで待てばよかったのに(そうすれば「ハリー・ポッター」を観に来た子どもたちに「スパイキッズ」の予告篇を観せてアピール出来たしさ) いや、べつにアスミック・エースの肩を持つ気はないけど、これ絶対にお子さま大満足映画なので勿体ないなあと思うのだ。お正月、ご家族でぜひ(これなら確実に座れるし) ● ロバート・ロドリゲスが製作・監督・脚本のみならず、自宅のガレージのパソコンで編集と(一部の)SFXまでやってしまった巨大なホーム・ムービー(そのせいか知らんけどもう1人の自主映画作家 ジョージ・ルーカスの名がスペシャル・サンクスの1行目に出てくる) 内容は中期007をサビ抜きにして代わりにアンコをたっぷり詰めた感じ。だからオコチャマは大満足でも、大のオトナが舌鼓を打つようなものにはなってない。まあ、ファミリー・ピクチャーとしてはこれでいいんだろうけどさ。 ● もともとは「フォー・ルームス」のロドリゲスが演出したエピソードが原案で、パパ&ママが「お出掛け」の間にお姉ちゃんと弟が大暴れするというプロットは踏襲されている。アントニオ・バンデラス&タムリン・トミタのマフィア夫婦が、ここではバンデラス&カーラ・グジーノのスパイ夫婦になってるわけですな(ちなみにカーラ・グジーノって、角度によってはメラニー・グリフィスそっくりと思ったのっておれだけ?) そしてティム・ロスのコンシェルジェの代わりに、本作で子どもたちに翻弄されるのが、世界征服のかたわら(てゆーか、本人はこっちのほうにご執心のようだけど)イカれた子ども向けテレビ番組の司会をしてる(だれがどー見てもピーウィー・ハーマンな)アラン・カミング! もう、何のために出てきてるんだか判らない他の悪役陣はすべてカットして、この人の出番を増やして欲しかったね。 特殊メイクはKNBエフェクツ。今回は血も内臓もいっさい出てこない楽しい仕上がりだけども、あのバレバレの禿げヅラは感心せんなあ。そんなこっちゃハリウッドでは許されても京都では通用せんぞ。 なお、パパ&ママが所属する「OSS」ってのは1941年に創設されたCIAの前身「戦略事務局(Office of Strategic Services)」と同イニシャル。 ● ちなみにロドリゲスが、儲けた金で(撮影時には資金不足で作れなかった)「鮫がうじゃうじゃいる洞窟」のシーンを撮り足した「スパイキッズ/特別版」なるものがアメリカでは8月に公開済だが、日本で公開してるのは(上映時間からすると)3月に公開されたオリジナル版のようである。

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ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃(金子修介)

おれは金子修介の「ガメラ」1作目と3作目をその年の日本映画ベストワンに選んだ者である。満を持しての本家「ゴジラ」への登板。どうして期待せずにおられよう。だから期待が大きすぎたのかもしれん。結果としてはまあまあの星3つ。だけど東宝が正月に全国公開する前提からすれば明らかに前作「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」のほうが正しいゴジラ映画であると言わざるを得ない。本作は「恐怖の象徴」としてのダークな──1954年の1作目の「ゴジラ」と、その後の(金子が大好きだと言う)やはりゴジラ×モスラ×キングギドラの出演による「三大怪獣 地球最大の決戦」に代表される怪獣アクション路線の両方を追い求めて、その双方が入り混じった奇妙な作品に仕上がってしまったように感じられる。 ● そもそもストーリーが「悪役ゴジラ 対 正義の3怪獣」と決まった時点で痛快なアクションものに徹するべきだったのだ。人間側のドラマなんぞ二の次でいいから怪獣1匹1匹のキャラクター付けに精力を注ぐべきだった。それが成されている(=観客が感情移入できる)のは、かつての東映仁侠映画でいえば「鉄砲玉の川谷拓三」の役回りであるバラゴンだけで、「極悪非道な天津敏」としてのゴジラ、「満身創痍の高倉健」としてのキングギドラ、そして「献身的な助っ人 池部良」としてのモスラが描きこみ不足なのだ。ゴジラなぞは三下怪獣をブチ殺したあとで口元をゆがめてニヤリと笑うぐらいでいいのだよ。特技監督は(平成「ガメラ」シリーズでは特技助監督をつとめた)神谷誠。ロングショットで捉えたバトルシーンに良い画があるものの、樋口真嗣の「ガメラ」での「折れた東京タワーに巣を作るギャオス」や「ガメラ3」での「炎上する京都にガメラ仁王立ち」といったシビれる画作りには1歩も2歩も及ばない(時節柄、横浜ランドマークタワーの大爆破をOKしたのは偉いけど>東宝) ゴジラのデザインも無理して初期型に戻さなくても、今回のキャラからしたら「メガギラス」んときの凶暴なデザインのままでよかったんじゃないか。 ● 脚本は平成ウルトラマン3部作の長谷川圭一と「ガメラ3」の金子修介と「クロスファイア」の横谷昌宏。ストーリーは、日本という國に虐げられてきた怨念の集合体としてのゴジラを、やまとくにを護る護国3聖獣が迎え撃つ…という相当にトンデモな、…つまりアレだ、東宝系の2つ前の「陰陽師」と同じ話だな。しかし、おれ、古代史は明るくないけど、聖獣の眠る新潟・鹿児島・富士五湖ってやまとかあ? まあ仮に「現在の日本列島イコール古来のやまとくに」と規定したとして、そこには聖獣が守るべき聖なる何があるのかを描かないと。それとアレだろ。この話なら怨霊ゴジラが向かうべきはただ1箇所。明治神宮の杜を焼き尽くして、靖国神社の大鳥居を踏み潰したら、あとは半蔵門前の大決戦しかないだろ? 松竹のシネコン(=MOVIX清水)潰してる場合じゃねえよ。 あと「幼態のギドラから完全体のキングギドラへの変身」があるってぇから、この話ならてっきりギドラの首があと5本 生えてくるんだとばっか思ってたのになあ。てゆーか、首 短かすぎ>今度のキングギドラ。 ゴジラに特攻する小型潜水艇の名前は「すさのお」にすべきだし、宇崎竜童の役名は「草薙准将」しかないっしょ。 ● 思えば「ガメラ 大怪獣空中決戦」はすべての映画ファンに勧められる怪獣映画の傑作だった。「ゴジラ×メガギラス」は初めてゴジラに接する幼稚園児にも安心して観せられる内容だった。だが「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」は、怪獣が出てりゃなんでもいいっていう特撮おたく「平成ガメラ原理主義者」にしか勧められない。これじゃまるで「ガメラ4」じゃないか。いや「クロスファイア」があるから「ガメラ5」か。てゆーか、どーせなら、このまんま「ゴジラ」50周年&徳間康快三回忌にあたる2004年に向けて「ゴジラvsガメラ 史上最大の決戦」を作ってはどうか。この際、伊藤クンと樋口クンとも仲直りしてさ。今から2年がかりで準備すれば満足のいくクォリティのものが作れるだろ? マジ、頼んますよ>金子修介&東宝&大映。 ● おれは「ゴジラ」の最終回だけ観て「とっとこハム太郎」は観なかったんだけど、もう「ハム太郎」目当ての家族連れとかは「ゴジラ」観ないで帰っちゃうのな。新聞広告でも「ハム太郎」が上だったし。これ(少なくとも都心の映画館では)「ハムゴジハムゴジハムゴジ」の順で上映してるわけだが、いっそのこと「ハムハムハムハムハムゴジゴジ」と組んだほうが効率的なんじゃないか?(言ってる意味わかる?)

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ムーラン・ルージュ(バズ・ラーマン)

「ロミオ+ジュリエット」「ダンシング・ヒーロー」のバズ・ラーマンの新作。11月のロードショーに先駆けて お台場のシネマメディアージュで毎土曜日に先行レイトショーされた。このことは「ぴあ」はもちろん当のシネマメディアージュのHPにも載ってなくて、告知はオフィシャル・サイトと劇場内の告知のみ。先行公開なのに(しかも土曜日のレイトショーなのに)料金が1,200円なのは、おそらく商売目的というよりはマーケティング・モニターのためで、入場時には簡単なアンケート用紙が配られる(…が、もちろんそんなものは書かないで捨ててもよい) ま、たかだかキャパ100人ちょっとの劇場で何週間 上映したってせいぜい「よみうりホール1回分」だから有料試写会と割り切ってるんでしょうな。試写会族のいない有料試写会・・・いいかも。 ● 時は1900年、パリ。高級キャバレー「ムーラン・ルージュ」を舞台にした狂騒的ミュージカル・コメディ。あるいは、かのジャン・ルノワールの大傑作「フレンチ・カンカン」のクライマックスのテンションで全篇を押し通そうとする無謀な試み。美しい悲恋メロドラマを期待した諸姉はガッカリすること必至。これは世界を人工的でキッチュな意匠で埋め尽くし、薄っぺらなドラマを敢えてバカバカしく演出した、つまり「ロッキー・ホラー・ショー」に連なるゲイ・テイスト・ミュージカルなのである。登場人物たちは1970年代・1980年代のロック、ポピュラー、映画挿入曲をミュージカル・アレンジで(台詞として)歌いまくるのだが、これはあれだ、よーするにオカマバーの口パク・ショーの世界だ。使われるのがエルトン・ジョンだのクイーンだのデビッド・ボウイだの(おれの年代なら)超有名な曲ばかりなので、それが1900年の物語に嵌め込まれてもなにかのパロディか悪い冗談(あの曲をこんな文脈で使ってるよ。ハッハッハッ…)にしか聞こえず歌詞が心に響いてこない。結果としてMTVライクなチャカチャカした画面をただ眺めてるだけとなってしまいひたすら退屈だった。既成曲で固めるというのが監督のコンセプトなのは百も承知で言うが、おれはオリジナル曲で観たかった。たしかに「通俗の中に人生の真実を見せる」のが娯楽映画の真髄だが、この映画は豪華絢爛な衣裳の下に真実を埋もれさせてしまった。1970年代・1980年代の音楽をまったく聞いたことがないという若い諸君にお勧めする。 ● 貧乏な河原乞食から絶対に抜け出してやる!と思ってるキャバレーの踊り子。そんな彼女の前にあらわれた2人の男。ひとりは貧乏で才能豊かな劇作家。もうひとりは一座のパトロンでもある大金持ちの侯爵・・・という話で、ヒロインが愛と金のあいだで悩むわけなんだが…何を悩む必要があるのだ!? さっさと大金持ちの愛人になって、その金で劇作家のパトロンになってやらんかい。そうすりゃ金も愛も手に入れて万々歳じゃないか。これは今から100年前のパリの話だぜ。しかもキャバレーで踊ったあとは春をヒサぐのを日常としてる女だ。現代の倫理観を適用しようってのが間違っとるよ。でもまあ、ニコール・キッドマンとユアン・マクレガーは共に(意匠のひとつとして)魅力的に撮られているので、ファンの方なら見て損はないだろう。不具の画家ロートレック役をジョン・レグイザモが膝立ちで演じている。 ● あと、どうしても気になるんだけどタイトルロゴの右側に付いてる「!」は感嘆符だよねえ? なら正式なタイトル表記は「ムーラン・ルージュ!」なんじゃないの? なんで通常のフォント表記になると「!」が取れちゃうのよ。はっきりしてよ、そこんとこ>20世紀フォックス。

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アクシデンタル・スパイ(テディ・チャン)

世界貿易センタービルの窓拭き屋が爆弾テロ犯と戦う…という撮入間近だったジャッキー・チェンの新作があまりにタイムリー過ぎて無期延期になったことは外電でご存知の方も居られよう。「ラッシュアワー2」がアメリカ大使館の爆破シーンから始まったのは記憶に生々しい。そして香港では今年の旧正月に公開されたゴールデン・ハーベスト製作の本作は、なんと炭疽菌兵器をめぐる争奪戦なのである。もう、オリバー・ストーンも形無しの恐るべき時事ネタ先取りではないか。ジャッキーのことだから今ごろアフガニスタンあたりで撮影してるんじゃないか!? ● いや冗談じゃなくてジャッキー・チェンならばアフガンでもパキスタンでも撮影可能だろう。本作「アクシデンタル・スパイ」でもトルコと韓国での大々的なロケを行い、ヒロインには韓国の新人女優と、台湾&日本で人気のビビアン・スーを起用、使用言語は英語・広東語・北京語・韓国語という、いつもながらのインターナショナル性を発揮している。ジャッキー映画の海外ロケがハリウッド映画のそれと根本的に異なるのは、ハリウッド映画があくまでもアメリカ本国の観客へのサービスとしての「エキゾチズム」が目的であるのに対して、ジャッキー・チェンはあくまでもその国の観客に向けて映画を作ってる点だ。もちろん観光名所や特徴的な風俗は登場するが、それを珍奇なものとして貶めたり、悪意を持って揶揄する意図はまったくない。それは日本ロケをした「デッドヒート」に出てきたパチンコ屋やヤクザにおいてもそうだ。ロケをした国の観客に喜んでもらえるような映画を作る──それがかれの姿勢だ。ジャッキー・チェンこそが真にインターナショナルな映画人なのである。 ● …と、持ち上げておいてナンだが、今回はそれほどたいした出来ではない。話はヒッチコックばりの巻き込まれスパイもの。もちろんジャッキー映画だから楽しいアクションやハラハラする見せ場には事欠かない。だが「ラヴソング」「ゴージャス」の女流脚本家アイヴィー・ホーは明らかにこれをレスリー・チャンが主演するような「切ないフィルム・ノワール」として書いている。そこに無理してアクション・スペクタクルを組み込んでいるので甚だバランスが悪いのだ(てゆーか、もちろんジャッキーの映画にそんな脚本を書くほうが悪いのだが) おまけに「ダウンタウン・シャドー」のテディ・チャン(陳徳森)の演出はいかにも鈍重でテンポに欠ける。美人KCIAエージェントを演じる韓国人女優キム・ミンはなかなかのクール・ビューティーだが、ヒロインたる「薄倖の美女」にビビアン・スーというのはどー見てもキャラ違いでしょう。ジャッキー・チェンとエリック・ツァンが出てるなら出来は問わない…という電影同胞にのみお勧めしておく。


ブレス・ザ・チャイルド(チャック・ラッセル)

亭主に逃げられた中年女が、ヤク中の妹が投げ捨てるように置いていった赤ん坊を育てることになる。そして6年後。カルト教団の教主と結婚した妹が、可愛らしい女の子に成長した娘を引き取りにあらわれる。じつは娘はベツレヘムの星の下に生まれた聖なる子どもで、教団は彼女を悪の天使として抱くべく企んでいた…。 ● べつに「イレイザー」が大コケしたたわけでもないのに5年も作品のなかったチャック・ラッセルの最新作。「マスク」「イレイザー」での本名「チャールズ・ラッセル」表記を、「エルム街の悪夢3」「ブロブ」当時の愛称表記に戻してホラージャンルに復帰したチャック・ラッセルだが、これが惨憺たる出来なのだ。おれなんかオープニング・タイトルが終わる前に退屈してしまったよ。 ● この映画の欠点を片っ端から挙げるなら・・・まずアバンタイトルでは何よりも「亭主に逃げられて夜勤の看護婦をしている中年ヒロインの孤独」を描写すべきなのだ。それでこそ彼女にとって「娘」がかけがえのない存在だということが伝わるのだから。 プロローグから本篇への時間のトバし方も下手すぎる。 連続児童拉致殺人が描かれるのだが、子どもの死体を描写するんじゃない。てゆーか興味本位の娯楽映画で子どもの連続殺人なんかネタにするんじゃないよ。 登場するたびに失笑もののSFX。最後に悪魔が正体を現すとこなんか声出して笑っちゃったぜ。結局、チャック・ラッセルという人はすべてを見せてきた人だから、オカルト映画のような「見せない演出」ってのが出来ないのな。 教団の信者が全員 革ジャンのヤク中ってのもまったく判ってない証拠。ごく普通の市民が悪魔の入墨してたりするから怖いんじゃんよ。 ヒロインがなんで警察を頼ろうとしないのかも、まるで理解できない。行動の思慮のなさは前代未聞。まるで香港映画のような支離滅裂さである。 クリストファー・ヤングの劇伴も「どうしちゃったの!?」というくらい生気がない。 次回作での巻き返しを期待する。 ● ヒロインのキム・ベイシンガーはせっかくのオスカー像が作品選択になにも寄与していない。てゆーか、ハリウッドで50近い女優が役を得るのはそれほど難しい…ということか。 子役には映画初出演のホリストン・コールマン。 カルト教団のカリスマ教主にやたらと白目の面積の広い「ダーク・シティ」のルーファス・シーウェル。 クリスティーナ・リッチが脱走信者の役で2シーンのみ出演している。

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ルール2(ジョン・オットマン)

さまざまな都市伝説をネタにした学園スラッシャー「ルール」(原題はスバリ「URBAN LEGEND(都市伝説)」)の──誰が何をどう勘違いしたのか──学園スラッシャーの部分だけを受け継いで作られた続篇。今回はすっかり投げ遣りな扱いの都市伝説ネタだが、なぜかタイトルだけは「URBAN LEGENDS: FINAL CUT」と複数形になってたりして。本作ではサブタイトルの「ファイナル・カット」のほうが重要な意味を持っている。つまり惨劇の舞台となるのが映画専門学校なのである。映画の「完成バージョン(最終編集版)」と「最後の切り裂き」のダブル・ミーニングになってるわけですな。 ● 監督・音楽・編集は(「ユージュアル・サスペクツ」の音楽・編集や「U.M.A レイク・プラシッド」などの音楽を手がけた)ジョン・オットマン@これが監督デビュー。ぬるい演出&ひどい脚本の凡作…と切って捨てて構わない代物なのだが、この映画には──誰がどういう意図で思いついて実行したんだか見当もつかない──不思議な趣向があって、それは主要女性キャラ3人が「人気スターのそっくりさん」として演じられているんである。ヒロイン(ジェニファー・モリソン)は顔かたちメイク&ヘアスタイルとも明らかに「セイブ・ザ・ラストダンス」のジュリア・スタイルズを模倣している。 いつもタンクトップにジーンズの男勝りのレズのスクリプトガール(「トレーニング デイ」「DENGEKI 電撃」のエヴァ・メンデス)に至っては、もろ「バウンド」のジーナ・ガーション。<ご丁寧にホクロまで付けてる(!) そして金髪ノータリンの大根主演女優(ジェシカ・コフィエル)は、あれはたぶんリース・ウィザースプーンを意図してるのだろう。 なんなのこれ!?(笑うべきところなのか?) あと、前作で生き残ったパム・グリア ファンの女警備員(ロレッタ・ディヴァイン)が連続登板。…いや正確にはもう1人、ニヤリとさせるカメオ出演をしてるんだけど。 ● 今や新橋文化を差し置いて洋画の投げ捨て公開の殿堂となった、おなじみシネマメディアージュの13番スクリーンでの独占公開。掲示してあるポスターはビデオの発売日入り。時期が時期だけにメディアージュの最上階まで吹きぬけているロビースペースには巨大な電飾クリスマスツリーがそびえ立ち、その周りをお台場デートのラブラブ・カップルがとり囲んで、何をするでもなくぼけーっと飽きずに眺めてる。そんななかに不似合いな単独男性があちらに1人こちらに1人、ぽつんぽつんと、しかし1人の例外もなくスクリーン13に吸い込まれていくのであった…。


かあちゃん(市川崑)

大好きな市川崑の映画を途中退出する日が来ようとは…。昔から時代劇の衣裳を着た現代劇を撮ってきた人だから「山本周五郎・原作」から期待される時代劇になってないことは問わない。だけど落語じゃねえんだから登場人物が(周りに誰もいないのに)自分の気持ちをいちいち声に出して喋るのは変だろよ。てゆーか、この脚本をそのまま(長屋の住人役で出演してる)柳昇さんが語ったならば、ほろほろと心地良い涙を流していたかも。それが話術というものなんだが。ま、あとは言うまい。 ● 本作では彩度を落とした独特の銀残しという現像法が使われている。市川崑は「おとうと」で日本における銀残しを発明した当人なわけで、本作は「おとうと」「幸福」に続く3本目の銀残し作品となる。おれの記憶に間違いがなければ過去2回は東京現像所だったから、イマジカ(旧・東洋現像所)では本作が初めてだと思う。 ● 映像京都(≒旧・大映京都撮影所)+日活+イマジカ+シナノ企画の共同製作(東宝は配給しただけでリスクは負わず) ちなみにシナノ企画の「シナノ」は信濃の国じゃなくて、東京都新宿区信濃町のほう。そう、本作は池田大作先生の多大なるご助力によって初めて製作が可能となり、池田大作教の信者の皆様が大量にチケットを買ってくれたお蔭でみゆき座チェーンでの全国公開が可能になったわけだ。ありがたいことである。それでこそ非課税資産の正しい遣い方というものだ。

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