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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2000 part 5
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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バーティカル・リミット(マーティン・キャンベル)

救いようのない馬鹿が救いようのない馬鹿な行いをしために輪をかけて馬鹿な奴らが救いようのない馬鹿を救いに行ってむざむざと傷口を広げる話。そんなものサスペンスにも何にもなりゃせんのだ。この映画をみた後では「クリフハンガー」がものすごい知的な傑作に思えてくる。 ● そもそも8,000mの山の6,000mまでヘリで登って、それを「登頂」と呼べるのものなのか? 3人のために6人が命を落とすという足し算・引き算の出来ない脚本(もちろんシェルパは員数外である) この映画で唯一正しい台詞はスコット・グレンの「この山じゃ“遭難して死にそう”は“死んだ”と同義語なんだ」というものだ。それをわざわざ山ごと吹っ飛ばせるようなニトログリセリン背負って行っててめえで足滑らせて爆死してりゃ世話ねえぜ。だいたい、それ以前にK2に無酸素登山してあんな大暴れしたら一発で高山病に罹って死ぬと思うが。ドラマとしては、妹にもっとはっきり兄を拒絶させておくべきだろうし、劇中で一旦否定した方法でハッピーエンドを成立させている(ネタバレ>「脚を怪我した人間を伴っての下山は不可能である」という理由で感動を演出しておいて、歩けないヒロインがラストではまんまと救出されている)のはルール違反である。SFXに関してはただただ「雪のCGは難しい」と実感させられるのみ。編集が下手なのも何とかしてほしい。まあ、自棄のようにガンガン鳴らしてるジェームズ・ニュートン・ハワードのBGMは良かったけれど。B班監督とスタント・コーディネイターは「クリフハンガー」のサイモン・クレーン。あと念のため、映画を観終わっても気付かなかった皆さんのために「髭ヅラの嫌味な金持ち登山家」がビル・パクストンであることを申し添えておく。

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シックス・デイ(ロジャー・スポッティスウッド)

かつてアーノルド・シュワルツェネッガーには「スターの輝き」が確実にあった。悲しいことだが、その輝きはいまのシュワルツェネッガーからは感じられない。この映画でのシュワは、ただの頭のデカい英語の下手な大根役者にしか見えない。それはあの超人的な筋肉が失われた所為かもしれないし、あるいは心臓手術で人間的な弱さを衆目に晒してしまった故かもしれない。いずれにせよ今のままでは到底「未来から来たサイボーグ」に見えないことは確かである。あんなんで、ほんとに「T3」をやる気なんだろうか? ● さて「T3」の前にまず「6d」である。「人間ではないもの」というキャラクター属性を持つシュワルツェネッガーを「ヒューマン・クローン」にするという目の付けどころは良かったのだ。シュワが2人−−どっちが本物? あなたが体験したと思っている記憶は本当にあなたのものなのか?…というわけだ。ところが本来ならば「トータル・リコール2」になったかもしれない絶好の素材を、むざむざと安手のB級アクションにしてしまった。SFアクションとしてはヴァン・ダムの「タイムコップ」にも劣り、非SFアクションとして観ても「イレイザー」にも及ばない。過去には「影なき男」という追跡アクションの傑作もあるロジャー・スポッティスウッドは、人形の生首が転がったり、死体を冒涜するような描写など、明らかに「トータル・リコール」のポール・バーホーベン演出を意識してるのだが、当然のことバーホーベンのようにねじ曲がった心の持ち主ではないのでブラックユーモアが上手く機能していない。そこまで「トータル・リコール」を真似るのなら音楽にはトレバー・ラビンという偽イエスくずれなどではなく、ジェリー・ゴールドスミスその人を起用すべきではなかったか。また、クローン人間に最大5年という寿命を設定して、名優ロバート・デュバルに世話場を用意しているのだが、これとて「ブレードランナー」からの安易な引用で、まさしく“取って付けた”よう。襲ってくるクローン殺し屋軍団がちっとも強そうじゃないのもなに考えてんだか(そこらの浮浪者をテキトーに蘇生させたようにしか見えん) だいたいアップルの(劇中時間の2010年時点では)10年落ちの液晶ディスプレイを使ってる悪の秘密組織っていったい…(貧乏なのか?) ジェットヘリのSFXはILMならデモ映像レベル。それと、あの生ぬるいエンディングは何なんだ?(てっきり「T2」をやると思ったんだがなあ) ● あと映画の評価とは関係ないけど…、「若くしてクローン・ビジネスを牛耳る巨大企業の会長」という誰がどう見てもビル・ゲイツをモデルにしたキャラクターが悪の黒幕である映画との、タイアップ広告を新聞見開き全面で展開してたマイクロソフト株式会社ってのはバカなんだか洒落がわかる会社なんだか…(←聞くまでもない) ● 本作は新築なった日比谷スカラ座の柿落としである。内装は渋谷シネフロントと同趣で、シックで暗めの雰囲気。とても美しい劇場であり、一見の価値はあろう。ただ椅子の肘置きの先端にバカデカいカップホルダーが付いてるせいか座ってて妙に狭苦しいのはちょっと(決しておれがデブな所為ではないぞ) あと、場内のタテヨコ比率が日劇プラザに似て横長で、なおかつ舞台の奥行きが狭いのでスクリーンと客席がえらく近いのだ。例えば日比谷映画だと前から5列目ぐらいに座るおれが、此処では真中通路でちょうど良いくらいだから、ほとんどの人にとっては前半分だと近すぎると思うのでご注意を。

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ホワット・ライズ・ビニース(ロバート・ゼメキス)

「愛ここにありて」なんて日本語タイトルつけるような会社が、なんで「ホワット・ライズ・ビニース(=その底に横たわるもの)」などという耳なじみのない原題のまま公開するかね? ここで言う“その底”とは湖の底であり、人の心の底のことだ(「その裏で嘘をつくもの」との掛け言葉かもしれない) ゼメキスは「ヒッチコックが生きていたらどんな映画を撮るか想像して撮った」などとホザいておるが、確実に言えることはヒッチコックならこの話に2時間10分も費やさないということだ。いやもちろん個人の嗜好の問題なんだろうけど、ロバート・ゼメキスってほんとセンスないよな。「匂わせる」とか「観客に想像の余地を残す」といったことが出来ない体質なんだろう。ヒッチコック映画にスタン・ウィンストンなんか引っ張ってくる馬鹿がどこにいるよ。ま、もっとも、1番の味方であるはずの配給会社に、作者が苦労して仕掛けたマクガフィンをすべて無効にするコピーをチラシやポスターにデカデカと印刷されたり、ネタバレもいいとこな予告篇を堂々と上映されたりしちゃゼメキスも報われないってもんだが。なぁに考えてんだか>20世紀フォックス(いちおう書いておくと、ポスター/予告篇ともアメリカ版をそのまま使用しているので日本支社の名物宣伝部長氏の所為ではない) ハリソン・フォードはこの話をやらせるには下手すぎる。ミシェル・ファイファーは歳とってますます研ナオコに似てきた。あと何も(音楽担当の)アラン・シルベストリまでバーナード・ハーマンに似せる必要はないのに。

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ゴジラ×メガギラス G消滅作戦(手塚昌明)

ゴジラ・ファンの新人監督による最新作は子ども向けの正しい怪獣映画に仕上がった。あの悲惨な「ゴジラ2000 ミレニアム」の後では傑作とさえ言えるかもしれない。ちゃんと怪獣同士のバトルがあるし、シネスコサイズのスクリーンを活かしたカッコイイ画もいくつかある。メインの想定観客と同年代の子どもを主人公にしてるのも正しいし、大島ミチルのBGMも大健闘している。小さいお友だちになら充分お勧めできる。 ● ただそうした教育的観点からすると、冒頭でそれが「放射能怪獣である」と明確に規定しておきながら、ヒロインがその怪獣の吐いた熱線で死亡した生物に素手で触れたり、あまつさえ放射能怪獣の背ビレに乗ってしまうという自殺行為を行って平然としているという、あたかも被曝という概念が存在しないかのような世界観はいかがなものか。あるいは「人間の手におえないテクノロジー」の比喩としての怪獣を退治するために、ブラックホール兵器というより危険で制御の難しいテクノロジーに手を出すという無謀への無自覚。しかもその新兵器を開発した技術者たちが「実戦に使用する前には最終調整テストが必要である」と主張しているのに、戦闘責任者が「わたしは先生の技術を信じます」って深く頭を下げる。それを「信頼という美徳」として描く。アホか。そういう精神論を唱えてるから戦争に勝てんのだ!…って右翼か>おれ。あと、地名表記を「渋谷 東京」と英語式に出すのは子どもに間違った知識を植えつけるのでイカンよ。日本語の地名表記はつねに「大→小」の順なのだ。 ● 付き添いのお父さんから観たら「永島敏行が自衛官の役やってるだけで笑っちゃう」とか「十数年ぶりに上陸したゴジラの相手に自衛隊1個小隊だけかよ」とか「ゴミ缶ぐらい(ちゃちなミニチュアじゃなく)リアルサイズで作ってワイヤーで引っ張ったらどうよ」とか「対ゴジラ戦闘組織のユニフォームが体育教師のジャージみたいで死ぬほどダサい」とか「な〜んで病室に中村嘉葎雄がいるんだよ」とか、いくつか気になる点はあると思われるが「子ども向け」ということで不問に附す。 ● 戦闘隊長を務める田中美里は「子ども向け特撮ものテレビのヒロイン」程度には魅力的。東宝生え抜きのベテラン・星由里子が「志村喬の役まわり」を演じている。「極道戦国志 不動」「不夜城」の“近藤真彦の外見と中井貴一の声を持つ男”谷原章介が「秋葉原の部品屋をやってる天才物理学者」という、なかなかリアリティの生まれにくい役を好演。

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三文役者(新藤兼人)

じつをいうと、おれにはあまり新藤兼人を云々する資格はない。なにしろ42本ある監督作のうち「竹山ひとり旅」「北斎漫画」「地平線」「[シ墨]東綺談」の4本しか観ていないのだ。しかも「竹山ひとり旅」を観たのはまだ映画を観始めたばかりでキネ旬の歴代ベストテンを指針としていたころ。「北斎漫画」と「[シ墨]東綺談」はもちろんハダカ目当てで、「地平線」にいたっては「応募してもいないのに試写状が送られてきた」から。なぜ新藤兼人(が監督した)映画に食指が動かないかというと乙羽信子が貧乏くさくて嫌いってのが1番大きいのだが、なんかこの人たちの映画って悪代官のいじめに黙々と堪えている水呑み百姓の映画って感じがしてさ、面白くなさそうなんだよ。<観てもいないのに非道い言いぐさ。 ● だが殿山泰司についてなら語れるぞ。(おれが憶えてるかぎり)最初っから「ハゲの冴えない中年男」として日本映画に登場して、いつも不機嫌な顔か、そうじゃなかったら情けなさそうな顔をして“金貸し”とか“アパートの管理人”とか“温泉旅館の番頭”とかそんな役ばっかり演ってた気がする名バイプレーヤー。いまでいうなら諏訪太郎か。リバイバル中の「愛のコリーダ」でもしなびたちんぽに石ぶつけられてる。あれは「話の特集」だったろうか、ミステリーとジャズに明け暮れる日記を特異な文体で連載していたっけ。 ● この映画は、酒と女にだらしがなくて死ぬまで安アパート暮らしだった人間的な、あまりにも人間的な殿山泰司という役者を、映画製作における“戦友”だった新藤兼人が描いた作品である。と、同時にみずから主宰する独立プロ「近代映画協会」の50年とその映画作りに対する回顧でもある。まず目を惹くのは「全篇にあふれる過剰さ」である。殿山泰司を演じる竹中直人の「セレブリティ」のケネス・ブラナーばりのそっくりさん演技。“荻野目慶子であること”をいっさい放棄しないままにヘアヌードまで晒して殿山の内妻を演じる荻野目慶子。竹中=殿山と荻野目=内妻の30数年にわたる過剰なまでの熱愛ぶり。竹中直人にも荻野目慶子にも老けメイクをさせずに70才/50才まで演じさせる確信犯。新藤兼人の役を本人が自演して、殿山の口を通じて「新藤兼人がいかに素晴らしい監督か」を語らせる図太さ。そしてすでに鬼籍に入ったはずの乙羽信子がまるであの世から出演しているように黒バックから語りかけてくる不思議>ほんのちょっと殿山泰司の想い出を語るだけなのかと思ったら、ちゃんと台本があって「生きている出演者たち」と掛け合いをするのだ(!) とてもまもなく九十にもなろうかという監督の作とは思えない。恐れ入った。 ● しかし現実の殿山泰司は竹中直人のような男前じゃなかったのに妙に女にモテるんだよなあ。秘訣は何なんだろうなあ…。すべての日本映画に出演している大杉漣と田口トモロヲは本作でも竹中直人をはさんで共演していて、エンドロールのキャスト表にはなんと「ハージー・カイテルズ」でクレジットされている(!) あと、美術スタッフの誠実な仕事は特筆すべきだが、ぶっつけ本番ハプニングとおぼしき街頭ロケに(時代の合わない)ファミレス「ジョナサン」の看板が写りこんでしまってるのはなんとかならなかったのかね。

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DEAD OR ALIVE 2 逃亡者(三池崇史)

オープニング・シーンは宇宙。破壊されてない丸のままの地球を見せることで「これは前作とは別のパラレルワールドのお話ですよ」と宣言してるわけだ。バイオレンス全開だった前作や「漂流街」とはガラリと趣きを変えて、今回は「岸和田少年愚連隊」路線(脚本もNAKA雅MURA) 同じ孤児院で育った2人が「やくざの幹部」と「プロのヒットマン」として再会して、孤児院のある離れ島に帰郷してひとときの夏休みを味わう。つまり「龍兄虎弟」の話である(いや、この場合は「鷹兄隼弟」とでも言うべきか) 寡黙なコワモテの竹内力と、口数の多い軽めの哀川翔、…2大スターがたっぷりと絡んでくれる。回想シーンの子役が一目で「こっちが竹内力、こっちが哀川翔のガキ時代」とわかるのも「新・仁義なき戦い」の坂本順治の百倍まっとうである。ひとときの休息の後にはとうぜん破滅が待っているわけだが、「2人の夏休み」にフォーカスしたぶん「汚れた世俗世界」との因果関係を断ち切ってしまっているので、ラストの悲劇感が盛り上がらないのが本作最大の欠陥ではある。おれ、てっきりあの「3人組の殺し屋」は「殺されたホストの同僚」かと思ってたよ(だってホストっぽいじゃん、顔も服も) そして本作のラストでも三池崇史はまたひとつ「映画の文法」を飄々と破壊している。ほんと何処まで行くのか>三池崇史。 地元にとどまって漁師をしてる3人目の孤児兄弟に(「マトリックス」以来、予告篇ナレーションで売れっ子になり、いまや津嘉山正種を継ぐ勢いの)遠藤憲一。奇術マニアの殺人手配師に“俳優”塚本晋也。孤児院の、鬼のように怖い顔で天使のように優しい院長先生に(ピンク映画のベテラン)港雄一。本篇唯一の乳出しサービスを担当している太り肉(じし)のイイ女がピンク映画のヒロイン、佐倉萌。もちろんすべての日本映画に出演している大杉漣と田口トモロヲも顔を見せていて、やっぱり大杉漣はすぐ死ぬ。大映と東映ビデオの共同製作。 ● 映画が終わって(「三文役者」と続けて観たので)4時間ぶりに外に出るとなんと東京は雪景色。立ち喰いのアツアツのきつねうどんが腹にしみたぜ。

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ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説(大森一樹)

ちょうど1年前の正月に公開された40分の短篇「ナトゥ」は、日本人が主演しているということ以外は完全なタミル語のインド映画だった。南原清隆の声すらタミル語に吹替えられていたほどだ。それに味をしめて1時間40分の長篇として製作された本作だが、今度は逆に(作曲・振付・美術を現地スタッフが担当してる以外は)まるっきりインド・ロケの日本映画である。(歌以外の)台詞はすべて日本語に吹替えられており、アテレコの際の悪ノリはそのままテレビのバラエティ番組を見てる気にさせる。もちろん本作の製作意図としては、あくまでも「ウッチャン ナンチャンのウリナリ!!」でのメイキング&スペシャル番組放映がメインであり、映画館での本篇上映はテレビの副産物でしかない(そのわりには大規模に公開してるけど経費の元は取れるのか?>ヘラルド映画) ● 本篇の前には(テレビのバラエティ番組でADや若手芸人がそうするように)南原清隆とキャイーン天野ひろゆきの(手拍子や声援をお願いする)前説が付く。で、本篇。カタコトの日本語をしゃべる妹・ケディと2人きりで寄る辺なく暮している貧乏な街頭看板描きナトゥ(もちろん腕っぷしはからきし弱い)が、ひょんなことからインド映画界の大スター“ミーナ”のボディガードをする破目になり、何処からともなく襲い来る悪のニンジャ軍団と戦ううち、腕に六文銭の刺青を持つナトゥがじつは正義のインド人ニンジャ一族であることが判明し、秘められたニンジャ・フォースを目覚めさせてみごとヒロインを守り抜く…というストーリー。ヒロインの役名が“ミーナ”だが、ミーナ本人が出てるわけではない。実在の大スターの名前をそのまま使うってのはどないな神経しとんねん。まさかたぁ思うが「ムトゥ 踊るマハラジャ」の主演女優の名前を知らないわけじゃあるめえなあ?>スタッフ。 ● 「ちんちろまい」で小手調べをしてから本作に挑んだ大森一樹だが、「この世のものとも思えない美人のヒロインが屋根のない馬車に乗って初登場する」場面でアップも撮らず、美しい黒髪をなびかせる風すら吹かない…とか、せっかく本職のインド人が作曲・振付・歌吹替したミュージカル・シーンをどーでもいいドラマで分断してしまうとか、秘密基地の大爆発というクライマックスで(ヒーローを含む)全員をさっさと外に逃がしてしまって何のサスペンスも生み出せないという木偶の棒ぶり。いったいこいつは監督になってこのかた四半世紀というもの「娯楽映画」について何を学んできたんだ?(=何も学んでない) 劇中でも描かれるように、本物のマハラジャが金を出しているモノホンのインド娯楽映画と違って、たかが日本のアチャラカ・テレビ局が作った本作は悲しくなるほど画面が貧しい。「マサラムービーの至福感」を期待した観客は確実に肩すかしを食らう。唯一“観られる”レベルなのは大森一樹の才能とは関係のないところで成立しているゴージャス感あふれるグランドフィナーレぐらいか。だいたいダンス・パートの音量が小さ過ぎる。日本でポスプロしたわりにはデジタルサウンドじゃないし。 ● ヒーロー役の南原清隆は演技もアフレコもいちばん下手。ヒロインを演じる新人ネハ・ドゥピアはファッション・モデル出身らしいツルリとした美貌とスラリとしたプロポーションで、インド映画のヒロインとしての濃いぃスター・オーラを欠くのが致命的。「ちんちろまい」繋がりで(シンシア・ラスターこと)大島由加里が出演(>大森一樹のバカ者!もっとアクションを魅せんかい) そして真田十勇士の末裔たるインド人忍者の頭領“才蔵”に宍戸錠! 日本人キャストの中では、この人の虚構度の高さが唯一 インド映画に拮抗している。マサラムービーを観て昔の東映や日活を思い浮かべていたおれは間違ってなかったってことか。…いや、それにしても、こんだけ貶しといてなんで星3つ付けてんだ?>おれ。ま、そこがインド映画の懐の深さよ(<謎)

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エクソシスト ディレクターズ・カット版(ウィリアム・フリードキン)

製作・原作・脚本:ウィリアム・ピーター・ブラッティ
上に揚げたのはオリジナルの「エクソシスト」に対しての評価であって、じつを言うとこの「ディレクターズ・カット版」での改変に対してはをつけたい気持ちが強い。もしあなたがまだ「エクソシスト」を観たことがないというのなら、まずはこの「ディレクターズ・カット版」を映画館でご覧になるべきだが、過去に既見の方には製作25周年記念でデジタル・リマスタリングされ、特典映像が本篇とは別に収録された「エクソシスト 特別版」DVDのほうをお勧めしておく。 ● 「エクソシスト」を支えているのは徹底したリアリズムである。いや、12才の子どもに悪魔が憑いて首が360度廻ってしまうような映画に何がリアリズムか、と思われるかもしれないが、そうなのだ。ここには「悪魔よ!娘には悪魔がとり憑いたのだわ!」と騒ぎたてる母親もいなければ、待ってましたとばかりにしゃしゃり出てくる悪魔祓い師のカッコイイ神父もいないし、登場人物が片っぱしから血祭りにあげられるという事態にもならない。脚本のブラッティと演出のフリードキンはエクソシズムを始めるまでに1時間以上の時間をかけて、ひとつずつ外堀を埋めていき、観客にゆっくりとしかし着実に「悪魔憑きの恐怖」を植え付けていく。だからついにタクシーからメリン神父が降り立ち「霧にけぶった屋敷の前に黒いシルエットが立ちすくむ」という、あの有名なシーンに至ったときには観客全員が「悪魔祓い」などという荒唐無稽な設定をリアリズムとして受け容れている。…これはそういう「ホラー映画」なのである。ところが今回の“ディレクターズ・カット”と称するバージョンではそこに、悪魔の顔や石像などのワザとらしいサブリミナル画像を埋めこみ、(B級ホラー過ぎるということでフリードキン自身の意志でカットしたはずの)「スパイダー・ウォーク」のシーンを復活させ、この名作を安っぽいホラー映画のようにしてしまった。ラストシーンの延長も作品を間延びさせただけだと思う。改変に賛同できない所以である。 ● 一方で、「階段に座ったメリン神父とカラス神父が悪魔の目的について語る」シーンと「メリン神父が母親に娘のミドルネームを尋ねる」シーンの追加は作品の味わいを深めているとも思う。 ● 話は変わるけど、メリン神父役で鬼気せまる名演をみせたマックス・フォン・シドー。1973年の映画で今にも死にそうだったのに、いまだに「奇蹟の輝き」や「ヒマラヤ杉に降る雪」などで健在なのは凄いなあ、もう100才ぐらいか?と思って生年を調べたら1929年生まれ。なんと「エクソシスト」を撮影してたときはまだ40代前半だったのだ(!)

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グリンチ(ロン・ハワード)

クリスマスはプレゼントじゃないんだ、心の問題なんだ、でもプレゼントがあればあるでそれはそれで嬉しいよね、プレゼントにはグリンチのキャラクター・グッズをよろしく:)…という映画。町外れでスクラップ屋をやってて、探検に来た子どもたちに犬をけしかけて脅かすのが何より楽しみな、人嫌いの1人暮しをエンジョイしてる繋がり眉毛の偏屈なジジイがお節介な小娘のせいで大変な目に遭う話。他人(ひと)のことはほっとけちゅう教訓やな。 ● 全篇がセット撮影。グリンチだけじゃなく村人全員が(鼻の尖ったウサギのような)特殊メイクをしてる人工的なファンタジーの世界。「バットマン・リターンズ」や「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」の匂いがぷんぷん。もちろんロン・ハワードだから基本はハートウォーミングなんだけど、グリンチを演じるジム・キャリーの毒気があふれ出ていて(悪意に満ちた「炎のランナー」のパロディとか、トレードマークのキャップを被ってのロン・ハワードの物真似とか)心のねじまがった大人の観客(=おれ)でもところどころは楽しめる。 ● 特殊メイクはリック・ベイカー師。ジム・キャリーの人間ばなれした顔面筋につれて自在に動く柔軟なマスクが素晴らしい。そして、あれだけヘビーなメイクに爬虫類系のコンタクトレンズまでしていながら表情一発でジム・キャリーと判るのだから大したもの。「バットマン・フォーエヴァー」のリドラーよりさらに「エース・ベンチュラ」に近いキャラなのが嬉しい。CGではない(最近はいちいちエンドロールで確かめないと区別がつかん)心優しい飼い犬がケッサク。お節介な小娘にテイラー・モムセンちゃん7才。一声 聞いただけでそれと判る語り部はアンソニー・ホプキンス。UIPのロゴが新しくなった。

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オーロラの彼方へ(グレゴリー・ホブリット)

変格タイムマシンSFの設定によるサスペンス映画。ひとことで言えば「ボーン・コレクター」と同じ話である。犯行現場に行くことが出来ない息子(刑事)が、親父(消防士)に指示してサイコ・シリアルキラーを追いかけるのだが、息子自身にも犯人の魔手が伸びる…(ね、一緒でしょ?) ただ、息子が1999年にいて、親父が1969年にいるというのがこの映画のミソである。「その後どうなるか」を知っている息子の指示で、親父が過去(1969年)をいじったことにより物事の因果関係に変化が起こり、現在(1999年)の状態が刻々と変わっていく。つまり「あちらを立てればこちらが立たず」となり、この親子は結局 最後までその“後始末”に追われることになる。いやそれにしても「知りえた範囲だけを修復すればオーライ」というあまりに能天気なオチにはつい笑っちまったぜ。湾岸戦争もコソボ紛争もきっとこの親子が原因だな。 ● 一方で本作は「NYの夜空に30年ぶりにオーロラが舞った夜、1969年の幸せな家族を持つ親父と、1999年の壊れた家庭の息子が再会する」という“感動売り”も狙っていて、サスペンスと感動の配分がどっちつかずの中途半端になってしまった。世の中の人とギャガの宣伝部は「感動もの」路線を期待してるようだが、本篇は明らかに「感動もの」に比重を割きすぎて失敗してるのであって、まずはサスペンスの部分をかっちりと固めてそこにスパイスとして「親子の情」をチラすべきだったのだ。 ● ひとつ疑問なんだけど、アメリカって「殺人事件の時効」は何年なの?(30年後でもまだ有効なの?) あと、どーせこれはファンタジーなのだから「30年前の我が家と無線が繋がってしまう」という設定について「主人公の家のテレビに映ってる番組に出演してる科学者」なんかに「時空の歪みがどーたらこーたら」と言い訳じみた解説をさせる必要なんかないのだ。「オーロラが出ました。不思議なことが起きました」でいいのだよ。 ● 監督は「真実の行方」「悪魔を憐れむ歌」のグレゴリー・ホブリット。アンジェリーナ・ジョリーの役にデニス・クエイド。デンゼル・ワシントンにジム・カヴィーゼル<どーもこの人は刑事より連続殺人犯のほうが似合うような…。若く美しい1969年の母とメイクで老けた1999年の母の二役(?)を演じるのは新進女優のエリザベス・ミッチェル。

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コヨーテ・アグリー(デビッド・マクナリー)

馬鹿映画王ジェリー・ブラッカイマーが何を思ったか「フラッシュダンス」を17年ぶりにリメイクした。NYに実在するというバーが舞台なんだが、タイトルにもなっている「バーでの仕事」が「ヒロインの成功」にまったく寄与しないってのは脚本家、アタマ悪すぎ。カウンターの上で腰ふって踊ってるとこを親父に見られて「待ってパパ!これは見た目とは違うの」ってそりゃ見た目のまんまだろうがよ。だいたいロッキーの山から降りてきたわけじゃあるまいし、ソングライターを夢見るヒロインが世間知らずもいいとこ。ちょっとファンタジーが過ぎるぜ。あと重箱の隅だが、ステージの電源を落とされてなんでエレキギターが鳴るのかね。 ● このパイパー・ペラーポっていう変な名前の野沢直子に似たヒロイン声が変。しかもこの脚本家、ヒロイン以外のキャラクターについてはカウンターの上で腰をふる以外の私生活の描写を一切しないと割りきってるので、他に見るべきネエチャンもなし。ただヒロインの(高速道路の料金所の係員をしている男やもめの)親父を演じるジョン・グッドマンの存在でこの映画はだいぶ救われている。ジョン・グッドマンだけで ★ ★ ★ 付けてもいいなかと思ったぐらいだ。音楽に元バグルス/ZZTの大物プロデューサー、トレバー・ホーンがクレジットされているが、いいのかこんなヌルイので? これじゃかつての盟友ハンス・ジマーよか数段 落ちるぞ。

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バトル・ロワイアル(深作欣二)

42人の中学3年生が無人島で殺しあう話。中村幻児「V・マドンナ戦争」(1985/奥山和由・製作)や、崔洋一「花のあすか組!」(1988/角川春樹・製作)の系譜に連なる“戦うコドモたち”の映画。永井豪「ハレンチ学園」の最終回だな(そうかあ?) つまりフィクションの枠組みの中の物語である。そんなに目クジラ立てるような代物じゃないでしょう。プロフェッショナルである深作欣二はあくまでも「東映系で全国公開するメジャー作品」だという自覚を持って作っており「リアルな残酷描写」や「大人のエロ」は慎重に排除されている(絵ヅラだけで比較するなら「プライベート・ライアン」のほうがよほどバイオレントだ) 深作欣二が中学生たちに「年齢を誤魔化して観に来い」と呼びかけているのは「これを観てお前たちも友だちを殺せ」と言ってるわけじゃない(当たり前だが) まがまがしい衣裳をまとってはいるが、本質的にこの映画が少年少女たちへのポジティブなメッセージを孕んだまっとうな青春映画だからである。そういう意味で全中学生必見。 ● 独裁者が恐怖政治の手段として国民に殺し合いをさせる…という原作の枠組みを取っ払ってしまったことにより、そもそもの「中学生たちに無人島で殺し合いをさせる根拠」が薄弱になってしまったのは脚色の大きな欠陥だろう。脚本の(監督の息子である)深作健太は「政府が“青少年の健全な育成”のためにバトル・ロワイアル、すなわち“BR法”を制定した」という設定を用意しているが、それってまったく論理が成立してないだろが。BR法の実施以来、少なくとも3年の月日が経過しているにもかかわらず「3年B組の42人が1人としてBR法のことを知らない」というのも不自然すぎる。作者としては「政治のことなんて関係ねーよ」とか言ってるとトンでもないことになるぞ…という警告のつもりかしらんが、同世代のやつらが本当の殺し合いをして、その結果を逐一テレビが報道してんだぜ。そりゃクラスの話題独占だろよフツー。「映画ならではの大嘘」で観客を気持ち良く騙したいのなら、こうした外堀を確実に埋めておかなきゃダメだ。 ● キャストのなかでは(儲け役とはいえ)非情な戦闘少女・柴咲コウ19才が野性的な魅力で素晴らしい。だが、そのわりを食って本来のヒロインであるべき前田亜季ちゃん15才が目立たないのはちょっと悲しいけど。まあ、そういうストーリー構造なんだが。てゆーか、深作欣二の興味が「逃げる女」よりは「戦う女」に向いてるってことか。深作の強硬な主張でキャストされたという山本太郎26才は老けすぎだろうよ、しかし。主役の藤原竜也18才は相変わらず芝居調の発声が不自然。海外留学中の亜季ちゃんのお姉ちゃんが電話の声で特別出演。あと関係ないけど深作欣二監督 vs ビートたけし主演で「その男、凶暴につき2」を作ってくんないかな。 ● 公開に際しての宣伝記事を読んでいて興味深かったのは深作欣二(70才)とポール・バーホーベン(62才)との奇妙な符合である。深作欣二は太平洋戦争の敗戦の年に、ちょうど「バトル・ロワイアル」の子どもたちと同じ15才だった。勤労動員で勤めていた工場が艦砲射撃を受けて大破。同級生が30人、40人と一瞬のうちに目の前でもの言わぬ肉塊と化していくという衝撃的な体験をする。山積みになった死体を(自分たちでは何もしない軍人たちの指揮で)片付けたりしたのが「映画作りの原点」だと語る。一方、バーホーベンは1938年にオランダの(占領ドイツ軍の総統府があった)デンハーグに生まれた。だから物心ついたときには「ドイツ軍に虐殺された死体がはらわたを剥き出しにして道端に転がっている」のを見て育った。「わたしの映画を“過激”と思ってる人がいるけれど、わたしにとってはそれが普通のこと。わたしが描くバイオレンスはわざわざ強調しているのではなく、わたしの中にあるものから生まれているのだ。バイオレンスが自分の原体験だからこそ自然に再現できる」というバーホーベンの言葉はそのまま深作欣二にも当てはまるだろう。(擬似的な戦場といえる)撮影現場でやたらと元気だということも共通している。バーホーベンについてはこちらを参照してもらうとして、深作欣二の度外れた元気っぷりを劇場パンフから抜き出してみると>>>深作健太は語る「深作組は撮影が深夜にまでおよぶことから“業組”と呼ばれているが、監督が歳喰って朝も早くなってしまったため、まるで“24時間作業組”に」、柴咲コウは語る「アクションは大変でした。スタンガン、拳銃、鎌…、ふだん持たないものばかりですから。鎌は特にどう使っていいのかわからなくて。監督がとても細かくアクション指導してくださいました。“そんな動き出来ませーん”という要求もあって、監督がやったほうがサマになるのでは?ということもありました。“光子(の役は)監督が演ってください”って心の中で思ったことも何度も」、山本太郎は語る「深作監督にオーディションで初めて会ったとき杖をついてたのに、現場では走ってました。何だったんだ、あの杖?(笑)」・・・いやはや。しかもこのジイサン、まだまだ暴れ足りないようで「パート2をやりたい」とかムチャを言っておるようだが、そんなら次は永井豪「バイオレンス・ジャック」なんかどうよ。思う存分バイオレンスが描けるし「焼跡派」の監督にこれ以上ピッタリの素材はあるまい? 深作健太は親父にただちにコミックス全巻を読ませるよーに。

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十五才 学校IV(山田洋次)

脚本:山田洋次&朝間義隆&平松恵美子 撮影:長沼六男 音楽:冨田勲
金井勇太|赤井英和 麻実れい 高田聖子|小林稔侍 秋野暢子|丹波哲郎
犬塚弘 桜井センリ|梅垣義明 蛭子能収 真柄佳奈子 余貴美子|前田吟
おれは反動的な「男はつらいよ」が心の底から大好きで、山田洋次は現役では一番巧い演出家だと思うのだが、ときにその「共産党的問題意識」が「演出家としての本能」に勝ってしまって、現実とズレた「うわぁ!やめてくれえぇぇぇ」とゆーよーなサム〜い描写が特に“非・寅さん作品”において顕著なのが珠に傷で、だからおれは「学校」シリーズを観るのはこれが初めて。今回は西田敏行も出てないし、予告篇を観て「大丈夫かな」と思って観に行ったのだった。 ● タイトルに「学校」と付いてはいるが、学校が出てくるのはオープニングのタイトルバックとラストの5分間だけ。本篇は山田洋次お得意のロードムービーである。不登校になって半年の15才、中学3年生の少年がヒッチハイクで旅に出る。これが本宮ひろ志だとソープの姉さんに(15才なのに)惚れられて童貞喪失したり、やくざの親分に(15才なのに)見込まれて危機を救ってもらったりすんだけど、これは山田洋次なのでもちろんそーゆー展開にはならない。その代わりに、引き籠もりの少年と意気投合したり、孤独な老人の心と触れ合ったりするわけである。 ● 適材適所という言葉がピッタリのキャスティング。いままで何をやらせても(劇団☆新感線の芝居で付いてしまった)変な手癖が目障りだった高田聖子に初めての“当たり”を出したことからも、山田洋次の演出家としての実力は明らかであり、また何より「遅刻常習&台詞覚えず」で名高い丹波哲郎からあのような名演技を引き出したことは感嘆に価する。そして山田洋次流キャスティングの真骨頂は、梅垣義明や蛭子能収といった“異優”のワンポイント起用法にある。主役の金井勇太クンはニキビ面が露骨に昔の吉岡秀隆にそっくりでちょっと笑っちゃう(←これが山田洋次の考える「正しい少年像」なのだろうね) 麻実れいの娘役の(「カラフル」にも出てた)真柄佳奈子ちゃんが可愛いなあ。 ● 中盤の見所となる屋久島ロケの美しさも特筆もの。当然ヘリなど使えぬ原生林に、本篇の撮影機材を人力で持ち込むだけでも大変そうだが、特機など望むべくもない幽玄の森に降りしきるのは、もちろん本物の雨なわけで、ロケは想像を絶する苦労だったろう。その成果はちゃんと画面に反映されている。 ● この映画で山田洋次が言ってるのはじつにシンプルなことである。「学校だけが学校じゃないよ」とか「子どもを信頼しよう」とか「一人前になるとはどういうことか」とか、そういったことだ。声高に教育改革を言いたてるわけでも、教育制度の矛盾点を告発してるわけでもない。カリカチュアされた悪役教師も出て来ないし、過剰なナレーションで飾り立てることもない。脚本・演出・撮影・音楽すべてが1から10までプロの仕事である。最初は、少年の旅の動機が「屋久島に行って樹齢七千年の縄文杉を見れば元気を貰えるかも」などというチャンチャラ可笑しいものなので、おれは内心「杉の木、見て治んなら世話ぁねえよ」と憎まれ口を叩いていたのだが、そこは山田洋次のほうが一枚もニ枚も上手(うわて)、屋久島には1時間ほどであっけなく到達、縄文杉との出会いはクライマックスではないのだった(丹波御大の出番はその後) …いや、恐れ入りました。(深作欣二のひとつ歳下、69才の)山田洋次は間違いなくよい仕事をしたし、これは良心的で佳い映画だ。そのことを認めたうえで敢えて書くが・・・やはりいまの日本に必要なのは「十五才 学校IV」ではなく「バトル・ロワイアル」なのである。泉谷しげるの歌にもあるじゃないか「♪ぼくたちにいま1番必要なものは“熱い恋”や“夢”でなく、眩しい空から降ってくる白雪姫の毒リンゴ♪」ってね。

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わたしが美しくなった100の秘密(マイケル=パトリック・ジャン)

化粧品会社の主催で半世紀の歴史を誇る全米ミス・ティーン・コンテストの、とある地区予選を描いた偽ドキュメンタリー。もっとも一応ドキュメンタリーの体裁はとっているものの、カット割りや照明などは歴然と劇映画してて、その辺は作者も「ドキュメンタリーぶるのも洒落のうち」と割り切っているようだ。 ● 舞台となるのはミネソタ州マウントローズという田舎町。教会の影響力が隅々まで及んでいて、ビデオ屋の奥にもオナニー用ビデオ部屋の並んでない健全な町。だからミス・ティーンの地区予選には「17才で、ラリッてなけりゃ」みんな参加するってわけだ。ガチガチの大本命は、ママが元ミス・マウントローズで今はコンテストの役員をしてて、パパが大塚家具の社長という大金持ちのお嬢さんで、耳元まで裂けた口が底意地の悪さを暗示するデニース・リチャーズ。有力な対抗馬がトレーラーハウス住まいの貧乏でアル中でニコチン中毒な離婚美容師エレン・バーキンの娘で、葬儀屋で死体に死化粧を施すバイトをしてる、まん丸いお鼻が素直な性格を表してるキルステン・ダンスト。で、すっかりキャスリーン・ターナー化したカースティ・アレイ演じる「金持ちママ」が娘のライバルと目される候補を次から次へと暗殺していく…と。たぶん元ネタはテキサスの「娘をチアリーダーにするために対抗馬を暗殺しようとした母親」の事件だと思うが(ホリー・ハンター主演で「しゃべりすぎた女」というTV映画にもなってる)これが監督デビュー作となる監督のマイケル=パトリック・ジャンは、舞台をミスコンの世界に置き換えて(少数の都会人を除く)アメリカ人の大好きな「ミスコン」を徹底的に茶化した(ジョン・ウォーターズの臭いのぷんぷんする)ブラックコメディに仕立てた。地味ぃな家具屋の店員 兼 審査員No.3として出演もしてる脚本(兼 なんと製作総指揮)のローナ・ウィリアムズは自身、全米ジュニア・ミス・コンテストの準優勝だったそうだ。 ● カースティ・アレイの腰巾着に(「オースティン・パワーズ」のフラウ・ファービシナこと)ミンディ・スターリング。性転換者のお兄ちゃんがいる出場者に(「フェニックス」の早熟娘)ブリタニー・マーフィー。アメリカ娘を養子にまでして無理してアメリカ人になろうとしてる日本人一家の日本人娘に松田聖子。 ● 映画はマウントローズの町の地区予選の後、州大会、全国大会…とエピソードを繋げていくのだが、これは誰が観ても地区予選でスッキリ終わらせるべきだった。「蛇に足を付ける」とはこのことを言うのである。いやもう最後の15分をただ物理的にチョン切っても今よりタイトな傑作になるんじゃないか。

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DOWN UNDER BOYS(ローワン・ウッズ)

シドニーで実際に起きた3人兄弟による看護婦レイプ殺人。長兄が暴力沙汰の仮釈で出てきたわずか18時間後の出来事だったことが社会的な反響を呼んだ。それが舞台化され、その舞台を映画化したのが本作。映画(たぶん舞台も)が描くのはその18時間である。観客には、長兄が何の罪で服役してたのかも、兄弟が最後にどういう犯罪を行なうのかも明示されない(刃傷沙汰も討ち入りもない忠臣藏みたいなもんで、オーストラリアの観客には自明なんだろうけどさ) ● オーストラリアの荒涼とした大地に吹き晒されて建つ1軒家。家族に歓迎されない帰還者。訛りのきつい無教養な田舎者兄弟。崩壊した家族・・・舞台をアメリカ南部に置きかえればそのまま「サム・シェパード作」と言ってとおりそうな、陰鬱でやりきれない物語である。原題はシンプルに「THE BOYS(=息子たち)」 長兄のガールフレンド役で金髪&腋毛のトニ・コレットが拝める(「ベルベット・ゴールドマイン」の1本前の出演作)

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サルサ!(ジョイス・シャルマン・ブニュエル)

「情熱あふれるお洒落なラブストーリー」として宣伝されていて“ちょっと見”はそのとおりなんだけど、画面のそこかしこからフランス映画伝統の「Mr.レディ Mr.マダム」の系譜に連なるギャグ・コメディの香りがただよう。たしかに「憧れの彼女がロイク好きだから靴墨ぬってカリビアンの振りをしてみました」ってストーリーじゃリアリズムで押しとおすには無理があるかも。脚本が巨匠ジャン=クロード・カリエールなのもビックリ。 ● 小金持ちの家のお嬢さんなのに踊らせてみたら腰のくねりがスンゴイの!というヒロインを演じたクリスティアンヌ・グゥがエロっぽくて素晴らしい。メキシコのテレビの人気スターなのだそうだ。王立音楽院みたいなとこでクラシック・ピアノを学んだのに、顔に靴墨塗ってサルサ・バンドに入って親から勘当された大金持ちのぼんぼんに新人・ヴァンサン・ルクール。2人を結びつけるヒロインの祖母に扮した“コメディ・フランセーズの現役最高齢女優”カトリーヌ・サミーが素晴らしい。

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リトル・チュン(フルーツ・チャン)

1997年の香港返還をテーマにした3部作の完結篇。「死にたがる不良少年」「戦わぬままお払い箱になった軍人」に続いて描くのは「少年の夏休み」もの。9才で「世の中はすべて金」だと思っているヒネたガキが、初恋を知りひとつ大人になる。香港の未来に対するシニカルな視線に貫かれていた前2作とは対照的に(まあ、子どもが主人公ってこともあるけど)明日への希望を感じさせる1篇でフルーツ・チャンは3部作を締めくくった。 ● 少年は中国本土からの不法入港家族の少女と友だちになる。幌付きトラックの荷台に荷物紐でぶら下げたブランコが2人の遊び場だ。少女が「中国じゃ星がいっぱい見えるのに」と言うと、少年は「香港にだって星空はあるよ」と言いかえす。荷物紐のブランコを漕げば、おんぼろトラックの幌が目に入る。その幌のほうぼうに開いた穴から香港の街の色とりどりのネオンの光が差しこむ…。 ● 本篇で「ひとつの時代の終わり」の象徴として描かれているのが、少年のお祖母ちゃんが大ファンである、粤劇(えつげき≒広東語版の京劇)のかつての大スター・新馬師曾の死である。乱暴に言ってしまえば、日本人にとっての「美空ひばりの死」みたいなものだろうか。美空ひばりが「ひばりちゃん」と愛称されたように、新馬師曾は香港の人たちから親しみを込めて「祥哥(チュンコウ)」と呼ばれた。「チュン兄貴」とか「チュンさん」とかいったニュアンスだ。タイトルの「細路祥(サイロウ・チュン)」すなわち「チビッ子チュン」てのもそこから来てる。つまりこの映画は「2人のチュンについて」の話なのだ(それゆえに香港人以外の観客にとってはいまひとつ伝わり難いのだが) ところが「祥哥」を字幕では「ブラザー・チュン」としてしまった。ブラザーはないだろよ黒人ソウルシンガーじゃあるまいし。

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セブンD(セバスチャン・ニューマン)

32才の新人監督による、英語をしゃべるプラハ・ロケのドイツ映画(脚本上はイギリスという設定なのかな?) なかなか良く出来た幽霊屋敷ものである。曰く因縁があり村人の寄りつかない人里離れた洋館に、作家とその妻が保養にやって来る。夫妻は最愛の息子を不慮の事故で亡くしたばかりで、妻はかなり精神不安定な状態。だから妻が怪異現象に遭遇したと主張しても、夫は「罪悪感からくる妄想」だと言って取り合わない。だがそのうちに優しかった夫の態度が乱暴になり、何かにとり憑かれたようにワープロに文字を埋め始める…。はたして屋敷の怪異の正体は?・・・まあ、言ってしまえばキューブリック版の「シャイニング」なのだが、MTV風に堕さないオーソドックスな演出にも「劇中時間内に1人も殺さないホラー映画」という造りにも好感を持った。ヒロインにアマンダ・プラマー。夫にイギリスのマイナーな俳優ショーン・パートウィー。原題は「余命7日間」

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ソウル・ガーディアンズ 退魔録(パク・カンチュン)

カルト教団が悪魔復活の生贄とすべく、定められた星のもとに生まれ二十歳ではじめて初潮を迎えたばかりのヒロインを狙う。つまり「エンド・オブ・デイズ」である(作られたのはこっちのほうが早いけど) で、シュワの変わりに悪魔と戦うのが、1.名優アン・ソンギ扮するカソリックを破門された神父。2.大沢たかお系の怪しい美貌の安倍晴明チックな退魔師。そして、3.子ども霊幻道士…の3人組で、これが「ソウル・ガーディアンズ」ということになる。悲劇のヒロインとハンサムな退魔師を恋仲にして「エンド・オブ・デイズ」より泣ける展開にしているのは賢明だが、シンプルな話なのに登場人物が多すぎて物語が混迷してしまった。

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ひとめ惚れ(アンドリュー・ラウ)

「ラヴソング」のマギー・チャンとレオン・ライが4年ぶりに再共演。とはいえ「ラヴソング」が作家主導の良心的映画製作を標榜する映画会社UFOのエース、ピーター・チャンの作品だったのに対して、今回はコマーシャリズムの権化のようなバリー・ウォン製作+「欲望の街(古惑仔)」シリーズ、「風雲」「中華英雄」「決戦・紫禁城」の売れっ子アンドリュー・ラウ監督である。いくらラブストーリーとして宣伝してても、中味はてっきりレオン・ライがゲロ吐いたり、マギー・チャンがしょーもないギャグ飛ばしたりする映画かと思ってたら(…てゆーか、そーゆーヒネクれた期待をしてるのはおれぐらいだと思うけど)意外や意外、懐かしや1980年代 香港映画 黄金時代の金字塔=NYの香港人を描いたメイベル・チャン「誰かがあなたを愛してる」を想起させる“異国の2人”のラブストーリーだった。 ● 日本語では「シスコ」と略し、広東語では「サンフラン」となるアメリカ西海岸の坂の多い街で、バツイチ&10才の子持ちなタクシードライバー(♀)と、画期的なサーチエンジンを書いて一躍ネットワーク・ビジネスの寵児となったプログラマー(♂)が、ふとしたきっかけでゆきずりのカー・セックスをして、それからきちんと付き合い始めて、一緒に暮し始める…までの最初の1時間は完璧ではないか。久々に−−ひょっとして初めて?−−「チンピラもの」でも「CGアクション」でもない作品をまかされたアンドリュー・ラウが、緩急自在にじつにのびのびと撮っている。最近では「やっつけ仕事」の臭いがプンプンしてた(本職である)撮影に関しても意欲的なところを見せていて、サンフランシスコの風俗映画としても魅力的。惜しむらくは後半の「一緒に暮し始めた2人がだんだんと互いの欠点が見えてきて、情熱が失われたように思われて危機を迎えるが、最後には愛情を確かめ合ってハッピーエンド」という定番の展開が求心力を失って迷走してしまうのだが、大衆娯楽映画としては充分に合格点でしょう。舞台がサンフランシスコということもあって、クリス・オドネルの「プロポーズ」(てゆーか「キートンの セブン・チャンス」)まがいのシーンがあって「おいおいまたかよ」と思っていると、そこはひょいとスカして、土地柄を活かした見事なオチに持っていくのも巧い。 ● おれは例によって最初っから最後までマギー・チャンに見惚れていた。齢(よわい)を重ねてちゃんと(撮影時)「35才の女の貌」になっているが、ほとんど化粧もしていないのに、そのお姿は世界一美しい。フランス人のバカ亭主なんかに感化されないで、もっとどんどん香港映画に出てね(クダらない映画にも、クダらなくない映画にも) レオン・ライは「好青年」というキャラが出てしまい、いまひとつ今回の役は柄に合ってない感じ。それに「ネット上の仮想国家」なんてダサくて百億年古いアイディアを出すようじゃ、しょせん大したプログラマーじゃねえな。今回「ラヴソング」のエリック・ツァンのポジションにいるのが“顔長おじさん”リチャード・ン。マギーの親友に(「君を見つけた25時」でトニー・レオンの同僚の“便利な女”なカノジョをやってた)スーキ・クァン(関秀媚) あれ?「君を…」もバリー・ウォン映画だなあ。バリー・ウォンの新しい愛人だったりしたら悲しいなあ(←詮ない心配) レオン・ライの会社乗っ取りを狙う女実業家にセクシーなヴァレリー・チョウ(周嘉玲) エンドロールにNG集あり。原題は「一見鍾情(=ひとめ惚れ)」。香港映画なのにタイトルロゴが簡体字(=中国本土で用いられる省略形の漢字)なのは、一時期、日本語の「の」が流行ったみたいに、香港では「今、簡体字がオシャレ」なのかな?

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アタック・オブ・ザ・ジャイアント・ケーキ
(パノス・H・コートラス)[キネコ作品]

けげっ、キネコだ。なんとギリシャ映画。ご想像どおりというかご期待どおりというか「アタック・オブ・ザ・キラー・トマト」と同趣のチープなC級コメディである。ちっぽけな(明らかに静止している)トマトに出演者たちがワザとらしく怯えたり、トマトを自分で顔に当てて悲鳴をあげたりするのが、バカバカしくて可笑しかった「…トマト」と違って、こちらは(円盤からの光線を浴びて)巨大化したケーキをアテネの街の実景にビデオ合成して、それがモコモコうごめくビデオ・エフェクトまでかけてるぶん、かえってバカバカしさが減じてビデオ撮りの寒々しいチープさだけが印象に残る結果となった。 ● …てゆーか、そもそもケーキじゃないのだ、ほんとは。劇中の台詞によると、茄子と挽き肉とトマトを混ぜて焼いた上にホワイトソースをかけたギリシャの「ムサカ」という郷土料理なのだった。まあスライスした塊はケーキに似てるし「ムサカ」なんて言ったって誰にもわかりゃせんから邦題変えるくらいいいけどさ、どーせC級映画だし。あと(おそらく新宿ジョイシネマ3はレンズを所有していないのだろう)ヨーロピアン・ビスタ映画の天地切れ上映だが、そもそもフレームサイズをとやかく言うほど構図に気を使ってる作品でもないのでそれも許す。だけど字幕で「ATTACK OF THE 50 FEET WOMAN」(TV放映題「妖怪巨大女」1958。リメイク版が「ダリル・ハンナの ジャイアント・ウーマン」1993)を「五十足女の攻撃」って誤訳はちょっと酷いんじゃないか?(まあ「五十足女の攻撃」ってのも見てみたい気もするが) ● “ヒロイン”を演じるのはディバインのような女装オカマ(1曲だけ突如マサラ映画のように歌ったりする) そしてヒーロー役の科学者はクリストファー・リーブ タイプの美形&筋肉ゲイ。かれが所属する宇宙研究所の科学者たちは全員がピンクの白衣を着たゲイで、事件の解決などそっちのけでイチャつくだけ。ケーキ巨大化光線を発するクラシックなスタイルの円盤に搭乗するのは「下着姿のデルモ姉ちゃん」にとてもよく似たヒューマノイド型の宇宙人たち。画面にはピンクとかパープルが氾濫し、音楽はグレース・ジョーンズとかシック・・・そう、じつを言うと本作は「…トマト」というよりは、NYインディーズやドイツあたりのキッチュなゲイ・カルチャー映画の文脈で語るべき作品なのである。フィルム撮影なら ★ ★ ★ 付けるのに。 ● あといちおう吉本興業に前もって釘さしとくけど間寛平 主演で「巨大 広島風お好み焼きの襲来」とか作るの禁止な。

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ルアンの歌(ワン・シャオシュアイ)

中国映画。1966年生まれの中国映画〈第6世代〉ワン・シャオシュアイ(王小帥)の第3作。「ルアンの歌」というと、いかにも主人公の名前のようだけど、いや実際にヒロインの名前はルアン・ホン(阮紅)ていうんだけど、「ロアン・リンユイ(阮玲玉)」って映画もあったように「ルアン」は苗字だぞ。日本語で言うなら「タカハシの歌」。それはちょっと。 ● 1980年代の終わり。都市経済の急速な発展にともなって、農村から大量の労働力が都市に流入した。主人公の青年もそんな出稼ぎ労働者の1人。裏のビジネスで成功した同郷の兄貴分を頼って町に出てきたものの、生来の押しの弱い性格が災いして港でケチな日雇い仕事で糊口をしのぐ毎日。兄貴分が仕事上のトラブルから1人の女を攫ってきたのはそんな時だった。ベトナムから(文字どおり)流れてきて、店外デートOKのカラオケクラブで客が聞きもしないブルースを歌ってるクラブ歌手。いつも物憂げに煙草を吹かして、べったり塗った赤い唇に描きぼくろ。厚化粧がデフォルトになってしまった夜の花。兄貴分が力ずくで自分のものにしたその女に、青年はどうしようもなく惹かれていく…。 ● ストーリーからお判りのように日活ムードアクションである。すなわち“ここではないどこか”にある明日を夢見てドブの臭いのする町でもがく男と女の話だ。だが、この監督は物語がドラマチックになるのを避けるように、いくつかの決定的な場面の描写を省略して、主人公のナレーションに説明を委ねてしまう。ある種の台湾映画やウォン・カーウァイの「いますぐ抱きしめたい(モンコク・カルメン)」、大島渚の「太陽の墓場」などに通じるすえた夏の臭いがする青春映画。

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コード(シドニー・J・フューリー)

深く愛し合いながら子どもの出来ない夫婦。人工授精によって初めて懐妊したヒロインが(やはり子どものいない)キチガイ夫婦に「アンタはあたしらの子どもを産むんだよ」と拉致される。事故死したかのような偽装工作のために警察や愛する夫は、妻が死んだと思い込み、農家の地下に監禁されたヒロインの行方を誰も捜さない…というサイコ・サスペンス。 ● 囚われる妊婦妻に(結局ブレイクしないまま魅力に乏しいB級女優になってしまった)ダリル・ハンナ。その旦那に「13デイズ」のJFK役、ブルース・グリーンウッド。ダリル・ハンナを誘拐する、産婦人科の医局に勤めるインテリ風サイコ男にヴィンセント・ギャロ。その妻で、流産が元で石女(うまずめ)になって以来、精神に変調をきたしたキチガイ女にジェニファー・ティリー! そう、本篇はただひたすら「ジェニファー・ティリーらしさ」を全開にしたジェニファー・ティリーを堪能する映画である(逆に言えばそれ以外に見所はない) 原題は「かくれんぼ」。「コード」って邦題は“臍の緒”を意味してるつもりらしい。

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ブラッドシンプル ザ・スリラー(ジョエル・コーエン)

脚本:ジョエル&イーサン・コーエン 撮影:バリー・ソネンフェルド 音楽:カーター・バーウェル
コーエン兄弟がデビュー作「ブラッド・シンプル」をデジタル・リマスタリングして再リリースした。編集もやりなおしたらしいが何処が変わったか判らなかった。てゆーか、1987年の初公開時に観たっきりなので記憶も薄れてて、まるきり新作を観てるようなもんだったりして。いやあ、歳喰って惚けんのも悪いことばかりじゃねえなあ:)←幾つやねん! ● 冒頭にインチキ臭い大学教授(評論家?)の短い前説がついている。その中で「本篇はインディペンデント映画の金字塔」云々と自画自讃するのだが、おれは最初に「ブラッド・シンプル」を観た時には現在のようなコーエン兄弟の位置付けは想像も出来なかった。おれの感想は「かっちりとしたサスペンスを撮れるメインストリームの新人が現れた」というものだった。初公開は銀座のテアトル西友(現・テアトルシネマ)だったが「世が世なら日比谷映画で公開すべき映画だよなあ」と当時は思ったものだ。コーエン兄弟独特のねじれたユーモアが初めて貌を見せるのは2作目の「赤ちゃん泥棒」においてである。かれらは「ブラッド・シンプル」において「観客を笑わせよう」と意図して演出しているシーンはひとつもない。「一瞬たりとも観客の目を画面からそらせるものか」と意気込んで、緊張の糸を90分間のあいだ緩めることはない。だから、これを観て「おもしろい、というより、おかしい。(中略)時々思い出して笑っちゃいます」という甲本ヒロトの感性のほうがよっぽどおかしいと思うが。 ● 中味は完璧なフィルム・ノワールである。テキサス。うだるような夏。不倫カップル。酒場の亭主。嫉妬に狂った亭主。蛇のようにしつこく嫌らしい私立探偵。特徴あるライター。そして、いくつもの死体…。上で「ユーモアがない」と書いたが、物語の/カメラの「視点を微妙にズラす」というコーエン兄弟の刻印は本篇にも明白に刻まれている。伝説的な「壁に開いた銃孔から隣室の光が差し込んでくる」というシーン(とその一連のシークエンス)もそうした「視点をズラす」ことによって最大限の効果を引き出した例である。「床に横たわり、流しを下から眺めて水滴が垂れてくるのに恐怖する」なんてエンディングは凡人の感性で考えつくものではない(だからウォシャウスキー兄弟が「バウンド」をクローゼットの中から語り始めたときに、おれが思い出したのはこのシーンだった) 1箇所だけサム・ライミの「死霊のはらわた」カメラワークが使われているのはご愛嬌。 ● 周知のようにクレジット上は「ジョエル・コーエン監督」だが実際はイーサンとの共同監督・・・と、我々は聞かされてそう思っているが、これで兄弟がケンカ別れかなんかして、そしたら藤子不二雄みたいにまったく作風が違ってたりして。それで片方が馬鹿コメデイを、もう片方がブラッカイマー映画を撮ったりしたら笑っちゃうよな。コーエン兄弟映画の「奇妙な味」ってのは水と油の2人の個性をむりやり混ぜ合わせた結果だったりして…。

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超速伝説 ミッドナイト・チェイサー(アンドリュー・ラウ)

本邦の「首都高速トライアル」などと同趣の「走り屋」もの。「烈火戦車2 之 極速傳説」という原題だが、アンディ・ラウの「フル・スロットル 烈火戦車」と内容的な繋がりはない。自分の腕を過信して思いあがった主人公が、取り返しのつかない過ちをおかして失脚、潜伏の地で師となる人物に出会って再起する…という話。1時間50分の映画で、ヒーローの失脚までがちょうど50分、雌伏篇が30分、最後の30分が再起篇…と、娯楽映画の鑑のような構成。製作・脚本は「欲望の街(古惑仔)」シリーズのベテラン、マンフレッド・ウォン(文雋) …てゆーか、よく考えたらこれって「古惑仔」の1作目と同じ話かも。監督アンドリュー・ラウも主演イーキン・チェンも一緒だし。仲間の田口浩正も出てるし(←違います) もっとも「古惑仔」で注目されたときは初々しかったイーキンも、今では押しも押されぬ大スターの風格。いきなり素肌に皮ジャンで前髪ハラリの必殺技をキメてくれるし、「クールなように見えてじつは熱血」という持ちキャラも全開。充血した目で涙をこらえる姿が似合うスターとしては、もはや高倉健、アンディ・ラウの日香2大巨頭と並んだと言えよう。そして泣き顔が似合うと言えばこの人、我が最愛のヒロイン、セシリア・チャン(張柏芝)である。今回はイーキンに遠慮して“泣き”は控えめだが、その代わり勝気でおきゃんな魅力をたっぷりと堪能させてくれる(役名が「涼子」なんだけど、香港って子どもに日本名を付けるのが流行ってるの?) もうおれはハッキリ言ってこの娘が映ってるあいだは字幕なんか読んじゃいないね。主人公の親子2代にわたる宿敵にサイモン・ヤム兄(あに)さん。イーキンに道を諭す「師」に、カースタントのベテランでもある“バイクで万里の長城を飛び越えた男”ブラッキー・コウ(柯受良) 名台詞をひとつ「お前はまだ若い。先は長いんだ。(ブレーキではなく)アクセルを踏め」 最初のほうでイーキンと激しいラブシーンを演じる台湾出身のケリー・リン(林煕蕾)の黒の皮ブラジャー姿にも心惹かれるものがあった。<誰でもいんやんかアンタ。イーキンが3曲、セシリアが1曲、主題歌/挿入歌を歌っているのもまた、正しい娯楽映画の姿である。

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チャーリーズ・エンジェル(McG)

おれはこの映画に出会うために長い旅をしてきたような気がする。「ミッション:インポッシブル」が「スパイ大作戦」とは似ても似つかぬ映画になったのとは対照的に、オリジナルのTVシリーズとその時代に限りない敬意をはらって製作された超弩級のバカ映画。言い方を変えればアンディ・シダリス映画(「ピカソ・トリガー」他多数)をA級スターでA級予算で撮った代物。なんでこんな理想的な「お正月映画」を正月に公開しないのかね?>ソニー・ピクチャーズ。 ● 「コスチュームの第3ボタンから上は隠してはいけない」という厳格なルールに則って3人のセブンティーズなエンジェルたちが、蹴り、笑い、走り、悶え、怒り、踊り、爆風に吹っ飛び、着替え、そして脱ぐ、脱ぐ、脱ぐ。これ、家でビデオとかだったらおとなしく観てる自信がないね(きっぱり) だいたい脚本が凄すぎる。これほど素晴らしい脚本が書けるのは真の天才か小学5年生だけだろう。キャメロン・ディアスに子どものブリーフを履かせて、カメラに向かってケツを思いっきりプリプリ振らせて、そこへやって来た宅急便の兄ちゃんに「あら〜ん、良かったらあたしのスロットにイレてもいいのよん」などと、世の中でポルノビデオでしか耳にしないような台詞を喋らせる…なんて、たとえ思いついても実行するかフツー? まるで夢のようである。これが監督デビュー作となる(映画館でも上映されてたGAPのカーキのCMを撮ったとかいう)CM/MTV監督のMcG(マックジー/本名ジョセフ・マクギンティ・ニコル)の実力とか、映画としての出来とかは(プロデューサーでもある確信犯ドリュー・バリモアの胸の谷間に見惚れてたので)よくわからんが、少なくとも「おれが何を見たがってるか」について100%熟知してることは確か。続篇を熱望。てゆーか、ソニーとしちゃ待望のシリーズ化可能作だからゼッタイ作ると思うけど。本篇のコンセプトを維持してくれればメンバーはその都度入れ替えてもいいぞ。そうだ!チャーリー探偵事務所のフランチャイズがフランスとか香港とかメキシコとかインドとか日本にあるってのもいいかも。そーすると日本のエンジェルは…。コスチュームはやっぱ全裸エプロ…あ、いや。 ● さて言いたいことは以上だ。この映画がやたらと日本趣味にあふれていてBGMにはピチカート・ファイブや坂本九の「スキヤキ」や、はては伊福部昭まで流れるとか、脇にまわってからとても良くなったミドルマン役のビル・マーレーが相変わらずイイとか、アクション監督/B班監督が擬斗のベテラン、ヴィック・アームストロングで、武術指導に香港から袁祥仁(ユン・チュンヤン/袁和平のひとつ下の弟)を呼んで3人のエンジェル(とケリー・リンチ)が華麗なるカンフー&ワイヤーアクションを披露する…といったことはしょせん瑣末事である。さ、もう1回 観に行こうっと。

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天国までの百マイル(早川喜貴)

脚本:田中陽造 撮影:田村正毅
浅田次郎の原作(なんか矢作俊彦みたいなタイトルだな) バブルが弾けて自己破産、妻子とも別れて人生のどん底にある男が、老母に心臓病の手術を受けさせるべく東京から千葉・鴨川の病院まで160キロ、…100マイルの距離を、母をワゴン車のリアシートに寝かせて運ぶ話。つまり、すべてを失って人生を諦めてしまった男が、周囲の反対を押しきって自力で母を運ぶことで自らの人生も再生する…という仕掛け。 ● 実話だそうだ。美談である。泣ける話である。だが、おれにはこの男が「自分の人生のツケを母親に払わせてる」ように思えて感情移入できなかった。冷たいかもしらんが、本人が嫌がってる手術を無理に受けさせて延命させることが優しさとは思えない。自己満足じゃないのか。もちろんベテラン脚本家・田中陽造はそんなこと百も承知で、たとえば金貸しに「勝手にハネて勝手にくすぶって、アンタにはゼニの有難さってもんが全然わかってない」と主人公を批判させてるし、運ばれる当の母親自身が「手術は自分のためじゃなく息子が再起するため」と判っている。田中陽造は、主人公が「どうしようもない甘ちゃんのダメ男」であるとわきまえた上で話を進めているので、ヒネクレ者のおれでも反感を持つことはない。それどころか何回かジーンとしてしまった。手術室の扉が閉まるところからスッとエピローグに繋げるあたり憎いばかりの巧さである。田中陽造の脚本は「新・居酒屋ゆうれい」(1996)以来。彼ほどのプロの脚本家にロクに仕事がないなんて絶対に間違ってるぞ。 ● 主人公に時任三郎。これは柄でやれる役だな。老母に八千草薫。この人の独特の軽さが、必要以上に陰気になることから映画を救っている。主人公を養ってる年増ホステスに“妖怪”大竹しのぶ。映画の終盤で「ラブ・レター」の手紙朗読のような泣かせ場を任されてるのだが、そーとーに不自然な設定をすんなりとこなし、ひょっと出てきて力ずくで観客を泣かせてしまう凄さはまさに演技妖怪としか言いようがない(←褒めている) 鴨川の病院のちょっと崩れた心臓手術の名手に柄本明(やはり上手い) 主人公の別れた妻に(チーム・オクヤマ映画なので)羽田美智子。金貸しの筧利夫は六平直政の役でしょう。

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タイタス(ジュリー・テイモア)

ちょっと待て。このタイタスってローマの将軍にゃ26人もガキがいるのか? ● 先代組長が亡くなって、幹部会で跡目に推挙された武闘派の若頭(わかがしら)タイタスが、筋目を通して跡目を先代の実子(じっし)に譲ったら、こいつがとんだ卑怯者のバカ息子で、若頭が滅ぼした敵対組織の姐タモラを妻に娶ると、仁義を盾にとって若頭を破門する。身内を殺られ、娘を犯され、片手まで詰めさせられ、すべてを失った若頭は新組長に人肉パイを御馳走する…という話。 ● ちかごろ流行りの「シェイクスピアの現代的改装」の1作。本作では先のリチャード・ロンクレイン「リチャード三世」と同じく、ファシズム期のイタリア/ドイツの意匠を採用しているが、そうした凝った様式美が有効に機能していないばかりか、かえって登場人物の感情のダイレクトな伝達を妨げているように思う。タイタスのタモラの哀しみが怒りが伝わって来ないままに観客はドラマに置き去りにされてしまう。話を現代の少年から始める意図もよくわからないし、その少年が赤ん坊(=未来への希望)を抱いて去っていくなんて終わり方は原作を歪めてないか? 幻想シーンのセンスも百年古い。舞台演出家としては優秀か知らんが、あんた映画監督には向いてないよ>ジュリー・テイモア。 ● キャスティングも不満。カニバリズム繋がりで起用された(?)アンソニー・ホプキンスは「筋目を通す昔気質の軍人」に見えないのが致命的。見るからに狡猾そうだもの。夫とわが子を殺された怨みから仇の妻となってタイタスに復讐をもくろむ鬼女ジェシカ・ラングは五十の乳放りだしての熱演だが、おれ、この女の“熱演”を見ると虫唾が走る体質なので。女帝の愛人にしてさまざまな奸計をその耳に吹き込む邪悪な黒人執事は後の「オセロ」のイアーゴともなる役で、ここに一番上手い役者を持ってくるべきなのだが、スパイク・リー組のハリー・L・レニックスではちょっと迫力不足。おれだったらこの3人はショーン・コネリー、シャロン・ストーン、デンゼル・ワシントンで組むね。逆に素晴らしかったのは、卑劣で嫌らしい白塗り貴族を「柳生一族の陰謀」の成田三樹夫に匹敵する怪演でものにしたアラン・カミング。何にも悪いことしてないのに酷い目に遭う可哀想なタイタスの娘に(性転換コメディ「ヴァーチャル・セクシュアリティ」の)ローラ・フレイザー。

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ブッシュ・ド・ノエル(ダニエル・トンプソン)

タイトルはクリスマスに出される「薪(まき)の形をしたケーキ」のこと。離婚した両親とそれぞれに問題を抱えてる3人の娘のクリスマス・イヴまでの4日間のてんやわんやを描くフランス映画伝統の人生模様コメディ。登場するのが壊れた家族ばかりで、最後も決して「家族が一堂に会してメデタシメデタシ」なんてことにはならないのがフランス映画らしいところで、問題はひとつとして(ハリウッド映画のように都合よくは)解決しやしないんだけど、それでも観終わったときには「まあ、人生そう悲観すべきもんでもないかも」と、クリスマスに相応しい暖かい気持ちにさせてくれるのもまたフランス映画の味わいか(エンドロールではご親切に七面鳥のレシピまで教えてくれるのだ) ● これが監督デビューとなるダニエル・トンプソンは「ラ・ブーム」「王妃マルゴ」「パパラッチ」「愛する者よ、列車に乗れ」などのベテラン女性脚本家。クリスマスにはやっぱり家族で集まらなきゃ、と手を尽くす家庭的な次女にエマニュエル・ベアール。家族の絆なんてフフン!だわ、という反抗的な三女にシャルロット・ゲンズブール。イヴァン・アタルとの赤ちゃんを産んだので、これが3年ぶりの映画出演だけど役柄は相変わらずだな。共同脚本を手がけて、親父の家の居候青年として出演もしているクリストファー・トンプソンは監督の息子さんだそうだ。

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NO FUTURE: A SEX PISTOLS FILM(ジュリアン・テンプル)

断っておくが映画の出来に対する評価ではない。1977年に14才だった者にこれ以外にどんな星の付けようがある? チラシに「そして奴らは世界を変えた。」というコピーが書いてあるが、これは映画の惹句によくある誇張表現でも何でもない。おれはビートルズは知らない。だがピストルズに付いてなら証言できる。このアッという間に解散してしまったバンドはたしかに世界を変えたのだ。もっともジョニー・ロットン曰く「偽物だけが生き延びる」 おれはジョニー・ロットンにもシド・ヴィシャスにもならず、髪の毛をツンツン立てることもなく、つまらん中年男になってしまったが。…って、こんなとこで人生を述懐してどーする!>おれ。 ● 映画監督としての才能はあまり感じられないがロックに対する愛情はひしひしと伝わってくるジュリアン・テンプルは、マルコム・マクラーレンに丸め込まれて「グレート・ロックンロール・スウィンドル」を作ってしまったことをこの20年間というもの、ずっと後悔してたんだろうなあ。この映画は彼なりの落とし前なのだろう。良い仕事をしたと思う。原題は「汚物と怒り」。もし貴君がティーンエイジャーなら明日は学校なんかサボッて観に行くべき。

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スリ(黒木和雄)

原田芳雄と石橋蓮司ががっぷり四つに組んで、風吹ジュンと伊佐山ひろ子が華を添える。1970年代の映画じゃないぞ。れっきとした2000年の新作だ。「浪人街」以来10年ぶりに、黒木和雄はそういう映画を撮った。これはポール・ニューマン「評決」などと同種の「人生を投げた主人公が再起する話」である。ここでの主人公はアル中の「ハコ師」…すなわち「電車(=ハコ)専門のスリ」だ。スリだから指が震えちゃ仕事にならねえ。だが、原田芳雄 演じるこのスリはカタギになろうなんざ、これっぽっちも考えちゃいない。スリは死ぬまでスリだ。だから、スリを取り締まるはずの石橋蓮司 扮する刑事も「てめえがもう一度まともなスリに戻ったらショッ引いてやる」などと倒錯的なことを平気で言う。もちろんこれは映画だからスリは最後にはなんとか“現役”復活をはたすかもしれない。だが、その前途は決して明るくない。もう指捌きに往年の冴えが戻ることはない。唯一の身内も恋人の元へ去るだろう。天外孤独な老いぼれスリだ。どうせまたブタ箱にぶち込まれるか、野垂れ死んで身元不明体遺体として墓穴に入るか。これは、自身が「老いぼれの映画監督」である黒木和雄の精一杯の正直な「復活宣言」なのだろう。おーし、その気持ちたしかに受けとめた。こちらも(石橋蓮司の刑事のように)最後まであんたに付き合わせてもらうぜ。戦友・川上皓市による撮影も素晴らしい。 ● ただ、息子がなんで親父に敵意を持つのかが、いまひとつよくわからんかった。あと、日本でも断酒会(いわゆる「AA」)なんてあるんだねえ。あれってキリスト教文化のもんだと思ってた。なお本作は(官憲に配慮した「60セカンズ」と違って)スリの基本テクニックもバッチリ教えてくれるので手先が器用な失業者のキミは必見だ。

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閉じる日(行定勲)[ビデオ上映]

6人の監督がデジタルビデオ作品を競作する「ラブシネマ」シリーズの第3弾は「ひまわり」の行定勲の監督・脚本による(共同脚本:益子昌一) 死とエロスを題材にした小説を書きつづける女流作家の姉と、ハンサムな高校生の弟。母が亡くなり父が失踪して以来、千葉の田舎に2人暮しの姉弟は近親相姦の関係にあるが、弟にカノジョが出来たことからその均衡が崩れる。父の失踪にまつわる疑惑。そして姉弟が共有する秘密…。 ● 冒頭いきなり、ひとつ布団で目覚めるハガタの姉弟の場面から始まる。壁を這うヤスデ。姉が「殺して」と一言。弟が新聞紙で叩く。ベチャッと潰れて白壁に貼りついたヤモリの屍骸。その下に弟がペンで日付を書きこむ。カメラが引くと部屋の壁一面に蚊だの蛾だの蝿だのの屍骸が(日付入りで)貼りついている。・・・この新進監督にはオリジナルなストーリーをスリリングに物語る基本的な演出力を備わっていて、それはとても貴重だ。松竹は奥山和由がらみでお藏にしたままのデビュー作を速やかに公開するよーに。 ● 低血圧そうな姉に冨樫真。おれ、この女優は大根だと思うんだけど…。弟に、若い頃の野村伸宏に感じが似ている沢木哲。弟に付きまとう、母ちゃんが売春スナックをやってる女子高生に綾花。ぽちゃぽちゃっとしたほっぺとくちびるがうううたまらん。「ひまわり」に続いて朝本浩文(ラム・ジャム・ワールド)が音楽を手掛けているのだが、音を入れる間がわかっておらずドラマをブチ壊しにしてる。向いてないんじゃないか?

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SWING MAN(前田哲)

原宿の裏道で、男が金属バットで殴られて頭部に大怪我を負う。その後遺症で男はその時の記憶を失う。事件の目撃者は6人。はたして誰が、何の目的で男を殴ったのか?・・・勘の良い観客も勘の悪い観客も全員が途中で気づくことと思われるが(ネタバレ→)「ファイト・クラブ」の露骨なパクリである。そりゃそうだ。めくらまし(レッドヘリング)も何にもないんじゃ答えは1つしかないじゃないか。脚本に芸が無さすぎるのだ。それに解決篇にテレパスの少女を出すのはルール違反だろう。 ● Vシネマやテレビの2時間サスペンスで活躍してる木下ほうか がみずから企画&主演した作品。「Vシネの役者なんかやってるとストレスばっか溜まってロクなことが無い」という教訓であろうか。やはり女優のカノジョに粟田麗。友人のVシネマ役者・北岡に北村一輝。プロモーター役の田口浩正がいつもの「人の良いデブ」とは少しズレた役をやっていて良かった。


レスリー・ニールセンの 2001年 宇宙への旅(アラン・A・ゴールドスタイン)

なんか聞いたこともない製作会社によるレスリー・ニールセンのおフザケ映画の新作。どうやらドイツ映画?<それってつまりドサまわりってことか。原題は「2001: A SPACE TRAVESTY(宇宙戯画)」 原典そのままじゃなくて邦題に「へ」が入ってるのは多少は引け目を感じてるのか。たしかにこれは「屁」のような映画だ(←上手いなあ。座布団1枚!) なぜか今回(「2001年 宇宙の旅」以外の)パロディを封印して進行するストーリーは、バカ映画には慣れてるはずのおれの脳をもトロかすつまらなさ。ここまでサムいと拷問だぞ。本来ならここで「ヘラルドに騙された!」と叫びたいところだが宣伝コピーであらかじめ「ナニがなんだかわからない。」と自己申告されてしまっていては、やっぱ観に行ったおれが悪いってことなんだろうな(泣) ● 監督は「デス・ウィッシュ(5) キング・オブ・リベンジ」のアラン・A・ゴールドスタイン。まんまカブリモノなエイリアンの視覚効果監修に「ヘルレイザー」「キャンディマン」のボブ・キーン。

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ピッチブラック(デビッド・トゥーヒー)

「エイリアン」と「エイリアン2」をテキトーに混ぜて、とりあえず思いついた設定は全部入れてみました…という呈の、SFの意匠を身にまとったクリーチャー映画。最後まで飽きずに楽しめる佳作だが、宣伝で言ってるような「闇の恐怖を描き切ってる」とかそんな大したもんではないよ。あくまでも、長距離旅客宇宙船が不時着したのが、たまたま大気があってヘルメットなしで歩き回れる(オーストラリアの荒野にそっくりの)惑星で、たまたまその日が22年に1度の皆既日蝕の日だった…という都合の良すぎる設定を抵抗なく受け容れられる観客のための映画である。エメリッヒ組のパトリック・タトポロスのデザインによるクリーチャー(およびその設定)は秀逸だが、作者がクリーチャーの恐怖と同様の比率で描こうとしているように見受けられる「人間性の裏表の恐ろしさ」については、その意欲に力量が追いついていない。「真闇の中で襲い来るクリーチャーに対して唯一 頼りになるのが、いつ裏切るとも知れない凶悪殺人犯である」という巧い設定を考えついていながら、後半になるとこいつが「ただの良い人」になってしまい、せっかくのアイディアが死んでいる(演じるヴァン・ディーゼルは素晴らしいけれど) シガニー・ウィーバーの役には「ハイ・アート」の傍迷惑なバカ女ラダ・ミッチェル。本作でも「自らの判断ミスで全員を致命的な危機に陥れる」と言う傍迷惑なバカ女ぶりを発揮している…って、観客が感情移入する役がそれじゃダメじゃんか。

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1/2 の女たち(ピーター・グリーナウェイ)

ニッポンかぶれのピーター・グリーナウェイゆえ、全体の3分の1ぐらいは日本ロケなのだが、パチンコ、カブキ、スモウ、“地震の季節”につき十分おきに地震にみまわれるキョウト・・・ここにあるのはグリーナウェイの意識的な勘違いフィルターを通した「奇妙なニッポン」像である。前後の因果関係にさして頓着しないカット繋ぎ。物語る気があるんだか無いんだかよくわからない説話術。…似てるなあと思ったのが鈴木清順の「陽炎座」だ。フェリーニの「8 1/2」上映中の映画館も登場するが、どう関係があるのかはよくわからない。うーん…。ま、どうせグリーナウェイに興味のない人は観に行かないだろうし、これはこれで良いのであろう。 ● ヴィヴィアン・ウー、伊能静、トニ・コレット、アマンダ・プラマー、ポリー・ウォーカーといった各国の女優たちが「グリーナウェイだから」「芸術的で難解な映画を撮る人だから」というわかったようなわかんないような理由で片っ端から脱がされてるが残念ながら貴兄の股間を刺激するようなものではない。喜ぶのはネットのセレブヌード・サイトとスクリーン別冊「裸のスター」編集部だけであろう。おれは伊能静が烏丸せつ子みたいにエロっぽくてヨカッたね。あと、なぜだか税関と映倫の目をまんまとくぐり抜けたトニ・コレットのツルツルの割れ目がハッキリと写っちゃってるのだが、ビデオ/DVD発売のときにはボカされちゃうんじゃないかと危惧されるので見たい人は劇場でどうぞ(…って東京の上映はもう終わりだが)

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極道はクリスチャン 修羅の抗争(小澤啓一)

新宿昭和館での1週間ロードショー。タイトルからして、ちったあ目先の変わった内容なのかと思ったが「現在は神父になってる元やくざがヤンチャ時代の回想をする」という構成(実話なのかな?)をとってるってだけで、中味は相も変らぬやくざものVシネマなのだった。「極道と暴力団は違うんだ」とか「極道とは堪えることだ」なんて、今の時代にいきなり「昭和残侠伝」をやられてもなあ。主演はたとえ「新入りの行儀見習い」であってもサングラスは外さない哀川翔(←殴られんだろフツーは) 石橋保、川本淳一、藤原組長、金山一彦、名高達男、川地民夫らが共演。クリスチャンのヒロインに元シェイプアップ・ガールズの今井恵理。この人は脱がないんだけど、代わりに水谷ケイが美しい巨乳を拝ませてくれる。脚本・板倉真琴、撮影・鈴木耕一。

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修羅がゆく 完結篇(小澤啓一)

竹内力に「ミナミの帝王」あるならば、哀川翔に「修羅がゆく」あり。「仁義なき戦い」「日本の首領」に連なる“正調・権力抗争もの”のやくざ映画「修羅がゆく」がついに13作目で完結した。1995年の夏に「修羅がゆく 野望篇」で幕を開けて以来3作目までを和泉聖治が、4作目・5作目をVシネマ監督の佐々木正人が、そして6作目以降は旧・日活ニューアクションの旗手・小澤啓一が(途中8作目に後輩・澤田幸弘を挟んで)撮り継いで来た大河Vシネマ・シリーズである。…などと例によって知ったかぶりだが、おれは最初の3本で「もういいや」と思っちゃって、以降は観てないのだ。で、ここ何本かはもっぱら山下さんのHPを読んですっかり観た気になっちゃってるのである。 ● さて、じつを言うとアタマに「権力抗争もの」と書いたのは間違いである。このシリーズの本質は、薄汚い手口で日本最大の広域指定暴力団・関西光和会の会長となった広島やくざ・伊能政治(萩原流行)と、組織を追われて新宿で一本どっこの組を興した義の男・本郷流一(哀川翔)との「すれ違いラブストーリー」に他ならない。互いに想い想われの関係にある2人は日本各地に出没しては激しい代理戦争をたたかい、その都度、惜しいところで想いを遂げられず「次回へ続く」となるのだ。腹の底から搾り出すような「ほんぐぉおおおおおおおお!」とか「いぬぉおおおおおおおおお!」という愛の叫びが胸を打つね。哀川翔は典型的なやくざ像を強いられて不自由な演技を続けているように見受けられるが、何よりこのシリーズを支えているのは稀代の悪役を憎々しげに演じて「仁義なき戦い」の金子信雄にも匹敵する存在感を示す萩原流行の力である。おれはこいつの死にっぷりを確認するために久々に劇場に足を運んだのだが、たしかにシリーズを締めるに相応しい壮絶な最期であったよ。最後の対決の舞台がドブ川ってだけで「おお『無頼』だあ!」とかちょっとトキめいてしまう、おれ<バカ。


鬼極道(和泉聖治)

恐ろしい映画である。「極道血風録 無頼の紋章」や「安藤組外伝 掟」での極度に非現実的でナルシスティックな台詞の数々で我々を震撼させてきた武知鎮典(脚本)が、ついに全篇を名台詞で構成するという荒ワザに出た。主演の的場浩司と加勢大周は、ここではなんと名台詞しか喋らないのだ。しかもこいつら最後までニコリともせずハリソン・フォードより表情が少ないとくる。高倉健の沈黙は雄弁だがヘボ役者の沈黙はただのしかめ面でしかないぜ。 ● 筋は「ロミオとジュリエット」である。いいトコのファミリーの後継ぎ息子ジュリエット(加勢大周)と、小さなファミリーの放蕩息子ロミオ(的場浩司)が互いに一目惚れ。ところがロミオが仇討ちでジュリエットの従兄を殺してしまったものだから、さあ大変。周囲がドンドンパチパチやりあう中で、恋する2人は“我、関せず”とばかりにバーで密会しては黙って見つめ会う…って、今週の昭和館は新作ホモ映画2本立てかい! ジュリエットの乳母を演じる苅谷俊介がいい味。「やくざの皆さんはなぜか全員ブランデーを呑む」とか「劇伴はまたもやエヴァン・ルーリーのタンゴの使いまわし」とかステキなディテイルが満載。「男同士の付き合いに長い短いは関係ねえんだ!」といった恋の台詞に思いきり酔ってみたいという方にお勧めする。

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クレイドル・ウィル・ロック(ティム・ロビンス)

ビル・マーレー ジョーン・キューザック|ジョン・キューザック ルーベン・ブラデス
スーザン・サランドン|チェリー・ジョーンズ バーバラ・スコーヴァ|ヴァネッサ・レッドグレイブ
おれは「デッドマン・ウォーキング」よりシャロン・ストーンの「ラストダンス」が好きという人間なので多少さし引いて聞いてもらいたいのだが・・・ティム・ロビンスってもう不惑を過ぎてんのに、何でこんなに青臭いの? この映画を観て素直に感動できるだけの純粋さというか楽天性は残念ながらおれの中には残ってないね。なにしろクライマックスでは「政府に弾圧されて上演禁止となった“組合活動啓蒙ミュージカル”を上演するために、キャリアを棒にふる覚悟で敢然と挑む俳優たち」という設定でステージで俳優たちが労働者/アーティストの勝利を高らかに謳いあげる場面に、「仮面舞踏会でルイ王朝時代の仮装をした資本家たちが儲け話で高笑い」とか「資本家に刃向かった左翼画家の巨大壁画がハンマーで破壊されてゆく」とか「アカのせいで仕事にあぶれたと逆恨みしてる時代遅れの腹話術師が人形の口で(泣きながら)インターナショナルを歌う」といったシーンがまるで「ゴッドファーザー」さながらにカットバックされていくのだ。で、最後は当時の格好をした俳優たちがネオンまたたく現在のブロードウェイに現れるという…。なんちゅうか、左翼かぶれの高校生かアンタは!>ティム・ロビンス。群像劇なので「ボクちゃん役者の出し入れ上手いでしょ」と言わんばかりに(場面の切替えにカットを割らず)いちいちクレーンを上げたり下げたりすんのもウザッたいたらありゃしない! ● クライマックスで感動できない理由はハッキリしてる。肝心の「ゆりかごは揺れる(クレイドル・ウィル・ロック)」というミュージカル(てゆーかクルト・ワイル的な音楽劇)をきちんと描かないからだ。ここに説得力がないから作者のアジテーションも空疎なものに響いてしまう。あと、いくら群像劇ったって(実質主役のはずの)劇作家ハンク・アザリアのキャラぐらいもう少し掘り下げて描いてもらわないと観客が感情移入できない。 ● …と、例によって悪口から始めたが、じつを言うとおれはこの映画が嫌いではない。愛すべき点も多々ある。何より「時代遅れの腹話術師」を演じたビル・マーレーが素晴らしいし、ヴァネッサ・レッドグレイブなんて、もう63才なのに何であんなに綺麗なのか。役者たちを見てるだけで充分に楽しめる。ただ主役のハンク・アザリアがちょっと貧相すぎる気がするし(ここにジョン・キューザックにすれば良かったのに)、エミリー・ワトソンとジョン・タートゥーロの演技は軽演劇タッチの軽やかさを意図してると思われる演出の中で違和感があった。あと、いくらなんでもオーソン・ウェルズ役の俳優にはもう少しカリスマ性がなくちゃ。…ま、なんにせよ、エンドロールに「このフィルムは昔ながらの機械を使って編集されました」なんてクレジットを出す映画を嫌いにはなれんよ。 ● タブロイド新聞を模したこの映画のパンフで初めて知ったんだけど、ビル・マーレーの不肖の弟子コンビを演じているジャック・ブラック(「ジャッカル」と「エネミー・オブ・アメリカ」で銃器/コンピュータおたくというほぼ同一キャラを演ってた生意気なデブ。あるいは「ハイ・フィデリティ」のどうしようもないレコード店員)とカイル・ガス(「ケーブル・ガイ」とか)って、実際にも「テネイシャスD」っていう弾き語りコミック・デュオを組んでる売れっ子なんですと(これが写真/右がジャックで左がガス/パンフのキャスト欄は顔写真が逆になってるぞ)

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倦怠(セドリック・カーン)

フランス映画お得意の私小説的痴話喧嘩ドラマ。なにしろ原題が(英語で言えば)「ザ・アンニュイ」だ。いい歳した哲学教授が17才の小娘にふりまわされて嫉妬に狂って2時間のあいだ痴話喧嘩を続ける。もちろんエンディングに至っても問題は何ひとつ解決しない。それでも人生は続く。いや、大したもんだよ実際。おれはもともとハダカだけが目当てだったからいいんだけどさ。 ● いや、まあ、おれのような下賎な客は放っといて、本作はゴダールの「軽蔑」やベルトルッチの「暗殺の森」の原作者アルベルト・モラヴィアの小説の映画化という立派な映画なのである。猜疑心が異常に強くて何事につけ悲観的な冴えない中年男が、たまたま知り合った若い娘とのおまんこに溺れて有頂天になるがどうやら娘には自分のほかにも同世代のカレシがいるらしい。「2人分の精液を腹の中で混ぜるなんて何様だ!」と怒ってみたりもするが「じゃあヤラないの」とか言われると「ヤラないとは言ってないじゃないヤラないとは。なんでパンツ履いちゃうのよ、ほら」「あはん」とかシちゃうのでいまひとつシマらない。こっちの心配をよそに娘は「2人が友だちになってくれれば嬉しいのに」とか虫のいいこと言ってるし…という、このまんまの脚本でウディ・アレン監督・主演で映画化できそうな話なんだが、なにせフランス映画だから対象にべったりで、洒落たコメディにするだけの距離感は望むべくもない。 ● 女だから嘘はつくけど邪心がない…のが余計にタチが悪い17才の小娘を演じた新人ソフィー・ギルマンは「ホテル・ニューハンプシャー」の頃のジョディ・フォスターをさらにおデブにした感じ。リアルっちゃリアルかも。中年教授にシャルル・ベルリング。

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美術館の隣の動物園(イ・ジョンヒャン)

10日間の兵役休暇で街に戻った男が、ひょんなことから結婚式のビデオカメラマン(♀)の部屋に同居することになり、ひょんなことから2人でコンクールに応募する映画のシナリオを共同執筆することになる(それが劇中劇として描かれる) 男はカノジョに捨てられたばかりで恋などもうコリゴリ。女は引っ込み思案で片想いのカレに告白も出来ないでいる。性格から何から正反対のそんな2人はいつしか…という、どっかで聞いたことあるようなプロットのラブコメ。シナリオコンクールに当選した自作脚本を映画化して監督デビューしたイ・ジョンヒャン(李廷香/♀)は、ポイントポイントで(英語の)ロマンチックなナンバーを流して場を盛りあげるあたり「恋人たちの予感」や「ユー・ガット・メール」あたりのセンを狙っているのだろう。そしてそれは大筋において成功している。ただ(これは文化の違いなんだけど)この話、男がやたら威張ってて横暴なんだよな。女性から見ると韓国の男はこう…ってことなのかな。いや「強気の男と弱気の女」という対比なのはわかるけど、こんな嫌な男、欧米や日本じゃ受け入れられないだろ(どうですか諸姉?) ● 「八月のクリスマス」「カル」のシム・ウナ(沈銀河)がほとんどスッピンで等身大のヒロインを演じていて、これはいかにも女性監督って感じ。なにしろ髪は構わずいつもクシャクシャ。洗濯が面倒だから靴下を履かないのでいつも素足。コップをみんな割っちゃったので水はペットボトルからラッパ飲み。朝は起きられない部屋はゴチャゴチャ床はホコリだらけ料理なんてしたことない。男の脚本家だったらこんな女(…いや、失礼。ここをお読みの諸姉に他意はございません)はヒロインにしないものな。広東語がアチャラカ漫才に適した言語であるように、韓国語って女の子が口とんがらかして(多少の甘えを含みつつ)怒ってみせる口調に適した言語なので、ここでのシム・ウナはなかなかキュート(でもシム・ウナって裕木奈江タイプじゃない?) 男の元カノジョ(劇中劇では、引っ込み思案の美術館員)にモデル出身のソン・ソンミ。ヒロインの片想い相手(劇中劇では、動物園のもの静かな獣医さん)に、こんだけキャリアが長くてもまだ40代後半の“国民俳優”アン・ソンギ(安聖基) 議員秘書をしてるので、結婚式のビデオカメラマンであるヒロインとたびたび遭遇するという設定なのだが、あの議員さん少なくとも3日に1度は結婚式のスピーチに来てる勘定だぞ。やっぱそーゆー国なのか?>韓国。

東京都写真美術館で映画を観た

ラブ&ポップ(庵野秀明)★ ★ ★ ★  四月物語(岩井俊二)
就任早々に館長が死んでしまった東京都写真美術館まで映画を観に行った。…ええと写真美術館なんて何処にあるんじゃい。…恵比寿ガーデンプレイス? あれぇ、おれ、この6年間で(同敷地内にある)ガーデンシネマに20〜30回は通ってるけど、今まで「写真美術館」なんてものがあること全然知らなかったぞ。で、行ってみると確かにあった。恵比寿の駅から行くと向かって右側のタワー棟の裏側に農家の物置のような佇まいでひっそりと建っていた。こりゃ気付かないよ。しかも入り口はいちばん奥まったところ。さすが役所仕事。ハコだけ作って集客のことはまったく考えてねえな。[2003年2月の追記]駅からのガーデンプレイスへの専用通路の入口にデッカいサインが設置されていた。 ● 「式日」での本格オープンに先だって1週間だけ「式日」の監督と“主演男優”の旧作2本立て上映という企画。徳間康快の肝煎で改装したという上映ホールは全体がゆるやかなスロープ式で、レイアウトは三百人劇場みたいな感じ。もちろんあれよりずっと前後の座席間隔は広くて、シネコンみたいにプラスチックプラスチックしてない柔らかなファブリックの椅子は座り心地良好。 ● 最初に観たのが「ラブ&ポップ」 公開時は「『エヴァンゲリオン』の監督の実写映画ぁ? デジタルビデオ撮影ぇ? けっ」とか思って行かなかったのだが、なんだちゃんとした映画じゃん。デジタルビデオ撮影に関しても「出来るだけ小さなカメラで撮りたい」って意思が伝わってくるし。これはスキャンダラスな題材を健全なモラルにのっとって描く「女子高生好きのスケベな中年男」が作った映画である。いや「女子高生好きのスケベな中年男」が言ってるんだから間違いない(火暴) だいたいおれが、今回なんで観に行く気になったかというと「式日」の予習のため…ではなくて、三輪明日美ちゃんの笑顔が見たかったからなのだ(走召火暴) 明日美ちゃんはあんまり笑わない役だったけど、代わりに仲間由紀恵のビキニが見られたのでおじさんは満足だ(走召木亥火暴) 三輪明日美がときおり見せる「世界への違和感」といった表情(とそれを引き出した演出)は秀逸。渋谷のドブ川を4人のルーズソックスの女子高生がずんずん歩いていく(ここだけフィルム撮影の)エンドロールは映画史上に残るカッコよさでは? ● 続いては「四月物語」 こちらも公開時は「よーするに松たか子のプロモビデオの長いバージョンなんだろ」と(なぜか)勘違いしてて行かなかったのだが、実際に観てみるとたしかに松たか子のプロモビデオだった…ただし歌のない。ななな、なんなんだ、この「四月」「新学期」「東京での新生活」といったキーワードから100人中99人までが思い浮かべそうな使い古されたイメージの羅列は! プロモビデオなら一種のパロディとして成立するかしらんが(63分とはいえ)劇映画でこれをやっちゃいかんだろ。ひでえなあ。いつか歌うかも、と思って最後まで観ちゃったい、ちくしょう。それとヒロインの「趣味はレコード鑑賞です」って、いつの時代の話だよ、これ? そう言えばコミックスにもビニール巻いてなかったし。おれなんかヒロインの住む団地の隣人のおどおどした態度の藤井かほりがてっきり部屋に男の死体を隠してるに違いないと睨んでたんだけどなあ<それは筋違いな期待。いずれにせよ「ラブ&ポップ」の後にこれを組むってのは岩井俊二への悪意としか思えんなあ>キュレーター氏。

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いつまでも二人で(マイケル・ウィンターボトム)

いままでずっと深刻な映画ばかり撮ってきたマイケル・ウィンターボトムの新作は、とてもフツーなハリウッド流ラブコメ。もちろん最後はハッピーエンド。誰も死にません。ただしイギリス映画なので乳出しあり<おお、理想的ぢゃないか諸君。 ● 結婚5年目、29才の妻と30才の夫が「そろそろ子どもでも作ろうか」とコンドームを捨てて子作りに励むが、いつのまにやら「情熱と快楽」だったはずのセックスが「義務」みたいになってしまい、それが2人の愛情にも微妙に影響して、なんだか墓穴。そこへ妻の10代の頃の「文通相手」で「初恋の人」である感受性ゆたかなフランス男が現れて…。つまり「おまんこは楽しんでせなあかんよ」という話だ<そうか? ● マイケル・ウィンターボトムは手際良く冒頭5分で状況説明を片付けて、夫婦の心の動きを丁寧に(かつコミカルに)描き出す。コメディ演出もけっこう達者。キャスティングも巧い。2人の男のあいだで揺れるヒロインに、BBCの人気スターだというデヴラ・カーワン。気さくな感じの美人で、アメリカの女優で言うと(顔つきはぜんぜん違うけど)ヘレン・ハント/ジェニファー・アニストン系? 妻のために警官を辞めて舅のガラス屋で嫌々働いてる、ビール片手にテレビでサッカー観るのが趣味な、無骨なブルーカラーの夫に「HEART」「エリザベス」のクリストファー・エクルストン。そしてドーバー海峡を渡ってヒロインに会いに来るフランス男にイヴァン・アタル。ま、女に関しちゃクラシック・コンサートで感極まって涙流しちゃったりする生活力なさそうなフランスの優男(やさおとこ)の前では、無愛想なイギリス男なんぞ敵ではないわな。 ● 本篇の唯一のマイケル・ウィンターボトムらしい点が、舞台を北アイルランドの都ベルファストに設定していること。「警官をしてた」ってことは主人公はイギリスから入植したプロテスタントの子孫なわけだ。カトリックのアイルランド人を弾圧する側だ。いや、急いで言っておくが本作はいかなる意味においても「政治的な映画」ではない。だが、映画ではいつも悪者にされている「北アイルランドのイギリス人」を主人公に据えることで−−例えば、フランス男に(アメリカのカントリー酒場の音楽をケルトミュージックにした感じの)「アイルランド酒場に行ってみたい」と言われて主人公がためらう場面など−−映画に豊かな地域性とリアリティもたらしている。


KOROSHI 殺し(小林政広)

脚本を書いた本人が監督してる作品にこーゆーことを言うのもどーかと思うが、これ演出方針を間違えてるよ。中年のリストラ亭主が妻には言えず、会社に行くふりしてパチンコ通い。そこで謎の三国人風の殺人ブローカーに「殺し屋」としてスカウトされる。はじめはためらったもののイザやってみるとやはり仕事は生きがい。だが、ふと気が付くとターゲットはどいつもみんな、かつての自分を彷彿させるリストラ亭主ばかり。…な? 話としては、かつての岡本喜八の都筑道夫ものだ。つまり不条理アクション・コメディとして撮るべき作品なのである。だが、なにしろ小林政広はオープニングに嬉々として「un film de MASAHIRO KOBAYASHI」とクレジットを出すようなヌーベルバーグかぶれだ(えー、補足しておくとおれは「ヌーベルバーグがフランス映画をダメにした」と考える淀川長治説に全面的に賛同する者であるので、この辺、敵意まるだしですけど) じゃあクールに行動を淡々と写してくタイプの映画かというと、そーでもなくてリストラ亭主・石橋凌は折りに触れては「人生って大変だな」とか「男って哀しいよな」などと、ご丁寧にも作品のテーマを声に出して呟いてくださるし、クライマックスでは家庭への愛を語って泣き崩れたりなさるのである。センスねえなあ。そのあとレイトショーを観る予定がなかったら途中で出てた。 ● 冒頭にはもうひとつ「FUJICOLOR / 1 : 1.66」と出る。この映画がわざわざ(レンズを持ってる映画館の少ない)ヨーロピアン・ビスタサイズで撮る必要があったかどうかは別として、えてして普通のビスタサイズ(1 : 1.85/アメリカン・ビスタサイズとも)で上映されてしまいがちなヨーロピアン・ビスタサイズの映画に関しては、こうしてフィルム上で自己申告してくれるとレンズを間違えなくて良いね。

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パパってなに?(パーヴェル・チュフライ)

ロシア映画。東京・新宿のシネマスクエアとうきゅうでは普通のビスタサイズ(1 : 1.85)で上映されていたが「パーティー場面で立ち上がって挨拶する人物の首から上が切れる」など、明らかにヨーロピアン・ビスタサイズ(1 : 1.66)ではないかと疑われる場面が多々あった。終映後、受付に確認したが埒が明かない。バイト学生ばかりだったのか、映画マニアのクレーマーと思われたか(いや、べつに普通の口調で優しく訊ねたんだぜ) ここの映画館ってたしか開館当時「16ミリ・フィルムまで含めたあらゆるサイズの映画が上映できる」ってのが自慢だったと記憶するが運営してるのがバカばっかじゃ宝の持ち腐れだな。 ● 1952年、スターリン独裁下のロシア。6つになる息子をかかえた戦争未亡人が列車の中で出会った軍人に惚れて共に3人で暮らし始める。じつは男はニセ軍人。軍服を隠れ蓑のケチな空き巣狙いだったが、独りで生きてく当てもなし今さら女は離れられない。既成事実を作りたい女は子どもに男のことを「パパ」と呼ばせようとするが息子は頑として従わない。それでも父を知らぬ少年はいつしか男を英雄視するようになる。そんな少年が初めて男を「パパ」と呼んだ日、それは…。よくある「お涙頂戴少年もの」だとばかり思っていたら、その後とんでもない苦い結末が付いていた。気持ち良く泣きたい人は、少年が泣きながら「パパー!」と○○を追いかけるところで劇場を出ることをお勧めする。

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新・仁義なき戦い(阪本順治)

製作は、1980年代以降の「東映ニューアクション路線」を支えてきた東映セントラル/東映ビデオの黒澤満。監督は、デビュー作の「どついたるねん」以来、ずっとメジャー・スタジオとは無縁の処で「男騒ぎの映画」を作り続けてきた阪本順治。撮影は、日芸同窓の石井聰亙のカメラマンとして登場し、1990年代を石井聰亙や阪本順治、石井隆らと疾走してきた笠松則通。この気鋭の3人が「仁義なき戦い」という金看板を背負って大東映城の本丸に殴り込みをかけるという。期待するなというほうが無理ではないか。だが結果はご覧のとおり。討ち死に…というより「敵の姿を見失ったまま戦(いくさ)が終わっちまった」という感が強いな。大体なんで今さら脚本が(笠原和夫の後を継いで「仁義なき戦い 完結篇」を書いた当人である)ベテラン、高田宏治なわけ? 相も変わらずの集団抗争劇。…いや、それならまだ良い。こりゃ「抗争不在」劇だぞ。錚々たるキャストを揃えておいて1時間50分も費やしてそのあいだ誰も何もしない。しかも最初っから最後まで主人公が何を考えてるかわからない…という呆れかえる脚本。阪本が自分で書いちゃだめなのか。あるいは丸山昇一じゃだめなのか。あのさあ、本丸なんてとっくに焼け落ちてるんだよ。焼け跡で無理して「仁義…」を作る必要なんかないんだよ。工藤栄一のように平気な顔して「その後の仁義なき戦い」を作っちまえば良かったんだよ。その証拠に本篇でいちばん面白くなりそうな芽のあるキャラクターは(「愚か者」の真木蔵人の転生ともいえる)情けねえチンピラ・村上淳だったではないか。 ● 芯にあるのは大阪の貧乏長屋で育った2人の男のドラマである。日本人のほうはやくざの中堅幹部に、韓国2世のほうは在日ウラ経済を牛耳る実業家になっている。その2人が28年ぶりについに再会したときの台詞。物語のクライマックスで片方が撃たれたときの台詞。そして最後の台詞・・・すべて布袋寅泰によって発せられるこれらの台詞がことごとく何を言ってるのか聞き取れないのだ。「キーとなる台詞が観客に聞き取れない」なんて娯楽映画を名乗る資格はない。いや、悪いのは布袋寅泰の滑舌ではないぞ。素人と承知で使っているのだから。すべては阪本順治と録音技師・立石良二の責任である。必要とあらばアフレコしてでも伝えるべき台詞はきちんと伝える。それがプロの仕事というものだろう。言っとくが、これは映画作りの方法論とか映画作家の主義主張とかそうしたゴタク以前の「基本」の問題だ。冒頭の回想シーンに登場する2人の子役から、現在の豊川悦司と布袋寅泰が想像できないってのも基本的な、しかし致命的なミス。この「ガキの頃の記憶」が主役2人(と観客)の、その後の映画全篇を支配するのだから。 ● 豊川悦司は「男たちの書いた絵」や「傷だらけの天使」のようなやくざ映画本流ではない作品では気にならなかったが、東映軍団&Vシネマ愚連隊の面々に混じると違和感が目立ち過ぎる。いまだ新劇のしっぽがぶら下がってて、そのブンガクの臭いが邪魔くさいのだ。「異物」も脇役としては映えるが(この映画の)主役にはなれない。演技素人のロッカー・布袋寅泰のほうがずっとこの世界に馴染んでる(音楽監督を務めた劇伴は煩さすぎるけど) 早乙女愛と余喜美子が(台詞はそれぞれ一言ずつだが)たしかな存在感と演技を魅せている。 ● あと関係ないけど、クールにカッコつけてる豊川悦司を見て「KDDI」や「黒ラベル」のCMを想起したり、撃たれて唖然とする佐藤浩市の演技に「あ、リゲイン…」と思っちゃったりすんのって問題あるよな。CMにおける役者の小芝居って自分で自分の財産を喰い潰してるだけだと思うんだけど…。 ● [追記]脚本に関しては高田宏治が雑誌で「とにかく僕がいままで気にしてた部分、全部ぶっ飛ばしてる。この台詞だけはお客に聞かさなきゃならん、このストーリーではこの場面が大事、この人物はこれをやらなきゃだめだということを、全部無視してる(笑)」と発言しており、改悪は100%阪本順治の責任のようだ。

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グリーンフィッシュ(イ・チャンドン)

小説家イ・チャンドン(李滄東)の監督デビュー作(もちろん脚本も) 韓国映画お得意の辛気臭い芸術ドラマかと思ったらやくざものVシネマだった。兵役を終えたボンクラが故郷の大宮に帰る京浜東北線の車中で、水商売らしき女と出逢い、彼女の真っ赤なスカーフを拾う。下心ありありで訪ねていくと、女は大衆キャバレーの歌い手、しかもやくざの企業舎弟の情婦だった。ところがボンクラは無鉄砲なところを気に入られて企業舎弟の若い者になる。大宮の農家の倅でマクトン(末っ子)と呼ばれてるボンクラの夢は、兵役に行ってる間に離れ離れになってしまった家族がまた一緒に暮らせるように、国道沿いに小さなドライブインを開くこと。東京でチンピラになって羽振りも良くなり、夢は手を伸ばせば届きそうに思えたのだが…。 ● 主役のボンクラ兄ちゃんは日本だと北村一輝がやるような役だがなぜか韓国ではハン・ソッキュ(韓石圭)がやるのである。いくらなんでもあの大仏顔でチンピラってのは無理があるぞ。代わりにドラマをさらうのが企業舎弟を演じたムン・ソングン(文盛瑾) やはりチンピラからのしあがって、今ではビルを構えるほどの顔役になったが「おれはやくざとは違う。ビジネスマンだ」という矜持を持つ男。哀川翔の役まわりだな。「ミエ」という役名は日本人という設定なんだろうか、あてどなく列車に乗ってるのが好きな、歌い手にはシム・ヘジン(沈恵珍) 本作の後に主演した韓国版「失楽園」ではオールヌードを披露、ウォン・カーウェイの「2046」にも出演中(てゆーか、出演中断中)だそうだ。「シュリ」の“もう片方”も性格のねじれた下っ端やくざの役で出演している。 ● 本作の背景となっているのは−−イ・チャンドンの中ではこちらがメインかもしれない−−ソウル郊外のベッドタウンの変貌である。ボンクラの家が所有していた農地だった場所には団地が建ちならび、次兄は軽トラックでしがない玉子売り。長兄はサリドマイドで、三兄は地方公務員の刑事、妹はいかがわしい店でホステスまがい、そして母親は家政婦のパート。かつて共に畑で汗を流していたのだろう家族は今やバラバラ。家の前の国道をソウル行きのトラックが通り過ぎていき、年々拡大しつづけるソウルのビル群はもうすぐそこまで迫っている。ボンクラの抱える喪失感は明らかにこうした風景を反映している。タイトルの「グリーンフィッシュ」とは、ボンクラが(いまではコンクリの堤防で塗り固められてしまった)家の前の川で、緑色の小魚を獲って遊んだ子どもの頃の想い出を語る台詞から採られているのだが、劇中で触れられるのがその台詞だけというのでは、ちょっと弱い。多少クサくなってもラストで「水槽を泳ぐ緑色の小魚」を出すとかしてダメを押さなきゃ。

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ペパーミント・キャンディー(イ・チャンドン)

イ・チャンドンの第2作。聖橋の上で学友たちと無邪気に森山良子とか歌ってた若者が警視庁に就職してわけも判らぬまま第4機動隊に配備され国会の警備に駆り出され樺美智子さんを殺してしまう。安田講堂が水浸しになった頃には汚職刑事になってて過激派学生を違法拷問。警察を辞めて実業家となりバブル期には株で大儲けして愛人バンクにも登録してウッハウハ。ところがバブルが弾けて神田川沿いの銭湯に2人で通った妻とも別れてホームレス。今年40年ぶりにお茶の水で開かれた大学のクラス会に乱入してブチコワシにして聖橋から中央線に投身自殺した男の話である(一部、歴史を歪曲してます) つまり1人の男の個人史であると同時に韓国現代史。日本では40年の物語を、かの国ではわずか20年で光州事件からIMFまでを駆け抜けてしまったわけだ。イ・チャンドンの意欲は2000年1月1日という韓国での公開日にはっきりと現れている。おれがこの20年を韓国で過ごしていたならば ★ の数はもっと多かっただろう。 ● この映画最大の特徴は「ラストシーンから始まる」ってこと。いや、よくある「ラストをチラッと見せておいてファーストシーンへ戻る」って形式ではないよ。上のストーリーでいけば「現在→バブル崩壊→バブル絶頂→70年安保→60年安保→無垢だった学生時代」という順で描いていくのだ。我々はまず“汚れちまった悲しみ”を抱えて絶望した主人公の「末路」を目にして、その生々しい記憶と共に主人公の過去へと旅をすることになる。いわば「市民ケーン」だ。で「バラのつぼみ」にあたるものがペパーミント・キャンディなわけだ。ペパーミント・キャンディったって、そんなハイカラな代物じゃなくて、むかし駄菓子屋で売ってた白い棒をハサミでチョン切った形の、つまり「薄荷飴」のこと。結ばれなかった初恋の人の想い出と共にある薄荷飴が主人公にとっての「無垢」を象徴するものとして(いささか思わせぶりに)使われているのだが、そのわりには薄荷飴の由来を説明する「謎解き部分」がアッサリしすぎている。前作の「グリーンフィッシュ」もそうだけど、どうもイ・チャンドンはタイトルってものを軽く考えてるんじゃないか。それと、この旅の終着駅は(そーとー無理して若作りした)主人公の「頬をつたう一筋の涙」なのだが、ここは絶対に「将来への明るい希望にあふれた一点の曇りもない笑顔」で終わらせるべきだった。 ● 主演は元・第三エロチカの有薗芳記。…いやクレジットでは「ソル・ギョング」となってるけど有薗芳記が偽名で出てるんだと思う多分。監督の強い要望により順撮り、…いや「順撮り」と言っても、この映画の場合は苦悩をかかえて薄汚れた40才の演技から純真無垢な二十歳の大学生へとだんだん若返っていくという気が狂いそうな演技プランを要求されて、それに全身全霊をかたむけた、まさに有薗芳記としか言いようのない怪演で応えている。(意外と印象に残らない)主人公の初恋の人にムン・ソリ。「神田川」の妻に「ディナーの後で」のおヘチャ娘(死語)キム・ヨジン。 ● ちなみにこれ、韓国映画界と日本のNHKの合作なんだけど、NHKも隣国の歴史を総括するより先にやるべきことがあるだろうが。「カル」や「シュリ」のようなエンタテインメント大作で先を越されてるだけじゃないぞ。いまだに連合赤軍の映画ひとつまともに作れない日本の映画人は激しく反省するよーに(特に“元・映画監督”の長谷川和彦<ネットで企画集めてる場合じゃないだろ)

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カル(チャン・ユニョン)

「シュリ」に続いて韓国映画のハリウッド流エンタテインメント製作力の高さを示す傑作。韓国では前例がないという猟奇スリラーを作るにあたって、まず「シュリ」のドル箱俳優ハン・ソッキュと「八月のクリスマス」の人気女優シム・ウナを主演に迎えることによりメジャー感(=キワモノではない)を保証し、内容はハリウッドのヒット作「セブン」と(ネタバレ→)「氷の微笑」をじつに巧みに換骨奪胎、その一方で、かの国の精神風土の大きな部分を占める儒教やキリスト教文化を正面から刺激しないよう配慮されている。エンヤまで使ったりして音楽製作費も贅沢(払っていれば、だけど) おれがいちばん感心したのはこうしたプロデューサー・ワークの手腕だ。 ● 監督はデビュー作「接続 コンタクト」がいきなり商業的な成功を収めたチャン・ユニョン(張允[火玄]) 土砂降りの雨や不安をかきたてるカメラ・アングルなど「セブン」のビジュアル・スタイルを器用に流用している。死体関係の特殊メイクは「セブン」のロブ・ボッティンとは較ぶるべくもない東京タワー蝋人形館レベルの代物なのだが、冒頭でいきなり「メスによる上腕切断」というショッキングなシーンを見せてしまうことで観客の冷静な観察眼を麻痺させる上手い戦略。 ● 強引なやり方ゆえにまわりの反発を買いがちなエリート刑事を演じたハン・ソッキュ(韓石圭)は、やはりスターと呼ばれるだけの存在感を示す。悲劇のヒロインであるシム・ウナは漢字で書くと「沈銀河」という魅惑的な名に名前負けしない美しさで観客の心を捉える。ヒロインの友人の女医に、ボーイッシュな魅力の(ちょっと松下由樹に似てる)ヨム・ジョンア(廉浄娥) ハン・ソッキュを補佐する現場叩きあげの“おやっさん”に扮したチャン・ハンソンが高品格みたいで良い感じ。 ● でさあ。みんな、謎、謎…って言うけど何が謎なの? 必要なことはすべて劇中で明確に示されてると思うけど。いや、たしかにほっぽらかしたままの細部もあるが、それは何もこの映画に限ったことではないし。おれなんか「何が謎なのか」を知りたくてパンフ買っちゃったよ。で、ビックリしたのが、パンフで神無月マキナと鼎談してる「シネマ通信」のプロデューサーと「プレミア日本版」の編集者なんだけど「カル」を何度も観たというわりには何にも内容を理解してねえの。こんなに頭が悪くてよく映画番組や映画雑誌が作れるなあ。感心した。てゆーか、シム・ウナのポートレイトさえモノトーンなのに、なんでまた貴重なカラーページを神無月マキナの顔写真に充てるかね?>クロックワークス。

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スペース カウボーイ(クリント・イーストウッド)

この映画のことを“ジジイ版「アルマゲドン」”などとけしからんことを言う輩がおるようだが・・・言い得て妙、まさにそのとおりの映画である(火暴) 後半の展開など「殿、無茶苦茶でごじゃりますがな」度においては「アルマゲドン」に1歩もひけを取らない。ただ(「トゥルー・クライム」のレビュウからコピペするけど)そのご都合主義が芸になってるのだな。これは新奇な目新しさではなく定石の気持ち良さを見せる映画だから。 ● 「アルマゲドン」と同じ、と書いたけどいちばん違うのは主人公のキャラ設定だろう。70才の今にいたるまで1度としてチーム・プレーヤーではなかったクソジジイ。老骨に鞭打って宇宙を目指すのは「人類を救うため」とかじゃなく、かつて自分に恥をかかせた相手への「個人的な意趣返し」のためである。行動を共にする3人のクソジジイどもも似たり寄ったりだ。空軍の皮ジャンを着て意気揚揚とNASAに乗りこんで行く、だらしなくて女好きで人間臭いバカな男たち。「崇高な使命感に燃えて」とかそんなんじゃなくて、ただ牛の大暴走を止めるかのようにそれが「成すべきこと」だからジイさんたちは易々と自分の命をかける。おれもこんな年寄りになりたいものだ(言ったそばから「無理だろうなあ」と思っちゃうのが我ながら情けないけど) ● イーストウッド映画なので役者陣はみな好演。ただ、唯一のロマンティック・ロールであるヒロインが、華に乏しいマーシア・ゲイ・ハーデンなのは「老いらくの恋」の相手が若い金髪娘ではいくらなんでも世間から反発されると思ったのか? 残念なのは、悪役のジェームズ・クロムウェルが最後まで制裁を受けないこと。現場監督のウィリアム・ディベインなんて、こいつを殴るために居るようなもんなのになあ…。宇宙場面のSFXはILMなので文句の付けようがない。「ちょっと宇宙でロケして来ました」という自然さである。べつに「世紀の大傑作!」とか「本年度ベストワン!」などと持ち上げるつもりはないが、最近ではあんまり味わえなくなった娯楽映画の醍醐味を堪能できる逸品である。あなたを月に連れて行ってくれる。別の言葉で言うなら、この映画を観て面白いと感じないのであればあなたは映画を観ることに向いてないのだ。

「スペース カウボーイ」のあらすじ

[チラシより引用]かつてアメリカ空軍に伝説的なテストパイロット・チームがあった。とびぬけて優秀。誰よりも屈強。熱いハートと、クールな頭脳を持ち合わせた4人の男たちは「チーム・ダイダロス」と呼ばれ、アメリカ建国以来の重要な任務−−「宇宙探索」の実験飛行のために、あらゆる訓練に耐え、厳しいテストを経てロケットの打ち上げに向け待機していた。しかし土壇場になって、そのプロジェクトは空軍に代わってNASAが遂行することとなる。1958年、記念すべき初のロケットに乗る栄誉を手にしたのは、過酷な訓練に耐えてきた男たちではなく、1匹のチンパンジーだった。・・・それから40年。かつて「チーム・ダイダロス」の一員だったフランク・コービン(クリント・イーストウッド)のもとに、ある日、NASAから1本の電話が入る。ロシアの宇宙衛星アイコンのシステムが故障して通信網が壊滅の危機に瀕しており、このままだと30日以内に地球に落下してしまう。それを修理できるのは、アイコンと同じシステムをもつアメリカの通信衛星スカイラブを設計したコービンしかいないというのだ。彼はこの任務を引き受けるにあたって、ひとつだけ条件をつけた。それは、プロジェクトのメンバーを自分自身が選ぶことだった。こうして、ついにあの「チーム・ダイダロス」が再結成されることになった−−!


世にも奇妙な物語 映画の特別編(落合正幸/鈴木雅之/星譲/小椋久雄)

いちばん素直な感想は「よくこんなんで10年も続いたなあ」というものである。お手本にしているのであろう「ミステリーゾーン」や「ヒッチコック劇場」とは較べることすら畏れ多い。ビデオで腐るほど出ている「世にも不思議なアメージング・ストーリー」や「クリープショー」のどんなにつまらないエピソードでも、この映画の4篇よりは、はるかに面白いだろう。プロデューサー・チェックとかないのだろうか、おれがプロデューサーだったらぜったい全部ボツにするなんのヒネリも工夫もない陳腐な脚本。それを右から左へとただ画にしただけのバカでも出来る演出。これでお飯(まんま)喰えるってんだからテレビ演出家ってのはいい商売よのう。なに、意地が悪すぎる? でもほんとのことだぜ。「テレビでは実現不可能だった」たってよお、べつに矢田亜希子の着替えとか、奥菜恵の濡れ場とか、岡元夕紀子のシャワーシーンとか、稲盛いずみのヌード(いやそれは見たくないな)とかが見られるわけじゃねえしよお<アンタ結局それかい! だいたいこれ、タモリの出てくるブリッジ部分(なんと三谷幸喜・脚本)の必要性/必然性が皆無じゃないか。あと、トリの「結婚シミュレーター」で最初っから最後までずうっと「シュミレーション」って言ってるのはあまりに馬鹿まるだしで恥ずかしいと思うぞ。それと人は映画館でチケットを買うときに「おとな2枚」とか言って買うものなのか、遊園地じゃあるまいし。こんなもんばっか観てっと馬鹿になっぞ馬鹿に。


クリミナル・ラヴァーズ(フランソワ・オゾン)

若作りのポール・トーマスセレナの17才カップルが共謀してクラスメイトを殺害して死体を埋めに行ったところで森に住むカンニバル変態性欲者ジャミー・ギリスにとっ捕まって監禁され酷い目に遭う話…って、洋ピンを知らない人には「何のことやら」な喩えで申し訳ないが、似てるんだもん雰囲気が。てゆーか、話の要約の仕方がそもそも間違ってる気がするが。フランス映画の異才フランソワ・オゾンの第2作は明らかに童話の「ヘンゼルとグレーテル」をモチーフにしていて、設定上は恋人同士のカップルを本物のあねおとうとに演じさせるという倒錯的なキャスティング。なんかあらゆる場面に「心理学的解説」とかが付きそうで安〜いかんじ。話としても救いがなくて「青い鳥」なんか出てきやしないし、同じ話ならおれは「トリック・ベイビー」のほうが百倍好きだね(←乱暴な比較) てゆーか、ヒロインのナターシャ・レニエがエラい老け顔だしハードコア女優みたいに安っぽい感じで、ちっとも魅力的じゃないのでどーでもいいや。そーゆー問題か? そーゆー問題でしょ。 普通なら ★ ★ のレベルなんだが、ジャミー・ギリスに犯されてホモに目覚めちゃうメソメソ坊やのうじうじぶりに虫唾が走ったので星1つとする。ホモ嫌いなのか?>おれ。


セクシュアル・イノセンス(マイク・フィッギス)

いかなる事情か、いつのまにやら「なにやっても許される」状態に突入しているゲージツカ マイク・フィッギス先生の監督・脚本・音楽によるトンデモ映画。原題はアタマに「THE LOSS OF・・・」ってのが付く。つまり「性的純潔の喪失」…すっげータイトルだよなあ。内容もタイトルどおりで、8才までケニアで育ち、ロンドンで青春時代を過ごしたマイク・フィッギス自身をモデルにした「イギリスの陰鬱な風土と、抑圧された子ども時代の歪んだ性体験のせいでこんないびつな人間になってしまいました」という被害妄想告白ドラマ。 ● 極端に台詞が少ないミケランジェロ・アントニオーニみたいな気取ったタッチで描かれる、ジュリアン・サンズ演じる中年の悩める映画監督の「現在」に、幼少時代、子ども時代、ティーン時代の恥ずかしい記憶の断片がよみがえる。これだけでも相当なものだが、なんとここにさらに「黒人アダムと白人イヴが湖から素っ裸で生まれ出でて、エデンの園でハダカで戯れるが、イヴが(続いてアダムが)ヘビの巻きついたイチヂクの木になった実を食べてしまったがゆえに、セックスの快楽に目覚めて楽園を追放されて、汚れた現代社会に無防備で放り出される」というシュールな寓話だか社会批判だかコントだかわからん寸劇がところどころで挿入されるのだ。実際おれは無意識に頭の中でモンティ・パイソン変換して観てしまって笑いをこらえるのに必死だったぞ。不幸な目にばかり遭うジュリアン・サンズの顔がだんだんエリック・アイドルに見えて来たりして。そーゆー意味では飽きないのでトンデモ映画をお探しの向きにはお勧めかも。しかしチラシのコピーの「構想17年」て、こんなこと17年も考えてたんか!?>マイク・フィッギス。 ● (何の意味があるのかよくわからない)双子の女(2役)に、実生活ではマイク・フィッギスのパートナーである「ディープ・ブルー」のサフロン・バロウズ。ジュリアン・サンズの妻にジョハンナ・トレル(チラシの女はこの人) カメラの前で放尿までさせられる裸のイヴに新人ハンヌ・クリントー。主人公のティーン時代に「ベルベット・ゴールドマイン」のジョナサン・リース・マイヤーズ。そのGFに「トレスポ」のケリー・マクドナルド。出てくる女がみんな低血圧そうなのがなんとも。あと(同一人物のはずなのに)幼少時代とジュリアン・サンズがブロンドなのに、少年時代とジョナサン・リース・マイヤーズが黒髪なのが気になって仕方なかったんだけど、あれ、なんか意味あるの? ● とか文句を言いつつ、この後に撮った「ビデオ撮り4分割画面リアルタイム同時進行」という字幕の付けようがなさそうな(ゆえに日本公開が難しそうな)「タイムコード」はすっごく観たかったりして(日本の深夜テレビとかで同趣向をとっくにやってそうな気もするが)

★ ★
愛ここにありて(マーク・ピズナースキー)

軽井沢のレストランの娘が、幼なじみの百姓のせがれと付き合ってるにもかかわらず(同じく軽井沢にある)全寮制の私立高校を卒業したばかりの野村證券の御曹司にひと目惚れしてしまう。で、カレに隠れてサッサとデキてしまうのだが、御曹司は慶応大学への進学が決まってて休みが終われば東京へ戻ってしまう運命…という三角関係のラブストーリー。あなたがこの映画に主演している若手スターのファンならば「動くグラビア」としての魅力は充分に満たしているのでこの後は読まずにぜひ御覧なさい。 ● さて、これから先はネタを割るが・・・

じつは難病ものである。それまでそんな気配を露ほども見せぬまま、最後の20分で突如としてヒロインの身体が癌に蝕まれていることが発覚するので、ちょっとビックリする。だが、この時間配分はそれほど異例なものではない。たとえば、やはり金持ち男と庶民の娘のラブストーリーで上映時間も本作と同じイー・トンシンの「つきせぬ想い(新不了情)」においても、健康的に見えていたアニタ・ユンが発病するのは、やはり最後の20分ほどのところだ。幸せで健康な日々を丁寧に描いておくことによって落差を際立たせる。悲劇の常套手段である。ではなぜ「愛ここにありて」は泣けないのか。これはやはり観客の悲しみをリードする立場にある御曹司役クリス・クラインの演技の拙さと、愛する人の死という試練を経て成長する青年像を描けていない脚本・演出のまずさであろう。「アメリカン・パイ」や「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!」で全米ティーンのアイドルになったクリス・クラインだが、売り物は甘いマスクと逞しい肉体だけということが露呈してしまった。一方、悲劇のヒロインたるリーリー・ソビエスキーもまた、褒められた出来ではない。「25年目のキス」や「アイズ・ワイド・シャット」のときの可愛さはどこへやら、アメリカ産の育ちすぎの野菜のような大味な女優になってしまった。自分の病気を知っていた「つきせぬ想い」のアニタ・ユンと違って、ラスト20分で初めて自分の身体が癌に冒されていると知らされたのに、妙にアッケラカンとしてて、なんか授業をサボッて保健室で寝てる程度にしか見えないってのはちょっと。まともな演技らしきものを見せてくれるのは百姓ボーイを演じた「ハロウィンH20」「パラサイト」のジョシュ・ハートネット。嫌味な優男にカノジョを寝取られ、でも愛するカノジョの死病に直面すると、反吐が出るほど嫌いな東京者に頭を下げてカノジョの元に戻ってやってくれと頼むイイ男。こいつは普通のドラマでもイケるんじゃないか。 ● あと関係ないけど、クリス君が懐かしいWけんじのギャグをやってくれるぞ。(リーリーの長〜い脚を触りながら)「親指がフロリダなら、ふくらはぎはサウス・カロライナかな。するってえと太腿はノース・カロライナで、太腿の間は、おしゃ…まんべ」(←やってませんて)



カノン(ギャスパー・ノエ)

いや、まあ「たぶんだろうな」と判ってて観に行ったのでいいんだけど、フランス映画界の異端児ギャスパー・ノエによる「カルネ」の続篇。冒頭と巻末に「これがお前らの住んでる国だ」と言わんばかりに真っ赤なフランスの地図がデカデカと写し出される。最初にスチール&クソ親父のナレーションで「カルネ」のあらすじが紹介されたあとはクソ親父が93分にわたって世の中への呪詛を撒き散らして邁進する。これは「希望」というものをすべて断ち切ったところから出発している映画である。こういう映画が作られることは否定しないし、最後まで一瞬たりとも目を離させない異様な迫力に満ちてるし、じつのところ、ギャスパー・ノエのヤマっ気は微笑ましくもあるのだが、とりあえず、おれにはこの映画は必要ない。シネマスコープ・サイズのシャブ中の妄想をお望みの方にお勧めする。 ● ピントが合ってないカットがやたらと多いのは意図的なのかね?(映写の所為ではないと思う) あと、全篇を通じて観客の神経を逆なでする台詞を吐きつづけるクソ親父を演じたフィリップ・ナオンの勇気には敬意を表する。エンドロールのスペシャル・サンクスにチビの映画評論家・塩田時敏の名前があった。


絵里に首ったけ(三原光尋)[ビデオ上映]

6人の監督がデジタルビデオ作品を競作する「ラブシネマ」シリーズの第2弾。念のために言っておくと「絵里に首ったけ」←「エリに首ったけ」←「メリーに首ったけ」である。まあそういうレベルの代物だ。くっだらねえ学生のギャグ映画。学生映画なら学園祭でやってろ。躊躇なく10分で退出。

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漂流街(三池崇史)

いやもう見てのとおり。ともかく観ろ。ぜったい観ろ。いますぐ映画館へ走れ。おれはもう2度観た。映画の国籍が使用される言語によって決まるのならば、これはもう日本映画ではない。スクリーンからはポルトガル語、広東語、北京語、ロシア語、琉球語、日本語が無秩序にとび交う。冒頭いきなりカリフォルニアの砂漠地帯に海外ロケして、そこにしゃあしゃあと「埼玉県戸田市」と字幕を出す。その大胆。そのいい加減。これが娯楽映画というものだ。三池崇史、もはや日本映画に敵は無し。この映画と比較すべきはロバート・ロドリゲスの「デスペラード」あたりだろう。 ● 話は要するに「望郷」というか「赤い波止場」というか「海燕ジョーの奇跡」というか「日本黒社会」である。今度は“若者の街”渋谷を血と銃弾と鶏のフンで染めて“破壊王”三池崇史の活劇魂が暴走する。後半が少しウエットに流れるのがじつに惜しい。いっそのこと感情なんてものは廃してしまえば良かったのに。「DEAD OR ALIVE 犯罪者」のゲロに続いて思いっきり金の無駄遣いなCGと、日本映画で初めてドルビーSRDを使いこなしたと言えるド迫力のサウンドにも注目/注耳のこと。 ● 主役の逃亡者カップルには(監督が渋谷で街頭スカウトしたという)テアと、長い黒髪が美しいミッシェル・リー。2人とも台詞らしい台詞もなく、三池崇史が見た目の存在感だけでキャスティングしてるのは明らか。この映画では2人の「悪役」が主役とまったく対等の比率で描かれる。1人は華僑マフィアのボスをこれ以上ないというくらいクールに演じてスクリーン・デビューを飾った及川光博。酷薄な凄みと底知れぬ変態性を漂わせて圧巻。しかしミッチー、なんで北京語あんなに上手いんだ? もう1人が道玄坂上に事務所を構える武闘派やくざに扮して13年ぶりのスクリーン復帰となった吉川晃司。ただ、おれはこの役は哀川翔で観たかったな。助演陣もクセ者ぞろい。ミッチーにホの字の懐刀(ふところがたな)に香港からテレンス・イン(尹子維) 吉川晃司の片腕のモヒカン・チーマーに野村祐人。ガイジン嫌いの喰えない刑事に柄本明。マリア様の生まれ変わりのような黒髪の少女に勝又ラシャちゃん。チビの映画評論家・塩田時敏も「DOA」に続いて怪演を披露。そして原作者のカメオ出演とは思えぬ馳星周の大あばれ。いったいどこまで行くんだ?>三池崇史。

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弱虫 チンピラ(望月六郎)

脚本:石川雅也&平山幸樹 出演:北村一輝|星瑤子 宮前希依 安野奈美(子役)
|竹中直人 ガダルカナル・タカ 大杉漣 志水季里子 麿赤兒 長門裕之|田口トモロオ
「弱虫」と書いて「チンピラ」とルビを振る。“「本気!」と書いて「マジ」と読む”でおなじみ、ヤンキー劇画の第一人者、立原あゆみ先生が「週刊 漫画ゴラク」に好評連載中の作品の映画化である。北村一輝 扮するちんぽのデカさだけが売りのチンピラやくざ。メインの仕事は電話ボックスのピンクチラシ貼りとピンサロ嬢相手のサオ師。ひょんなことから組長の情婦と知り合って、シャブ漬けにされてるその女から絞りだすような声で「助けて」と言われても、足がすくんで動けない。女が呟いた「弱虫!」の一言が耳にこびりついて離れない。侠(おとこ)にゃなれねえ、やくざに堕ちる勇気もない。おいらいったい何者だ…という一席。 ● 立原あゆみだから通常のVシネマ的なドンパチや仁義には興味がなくて、物語はもっぱら哀しいラブストーリーにフォーカスする。主人公オサムをとりまく3人の女。シャブ漬けにされて躯はボロボロでも心はオサムへの純愛をつらぬく組長の情婦ケイコ(宮前希依/「新人」と書いてあるけど、今夏の望月六郎のピンク映画「B級ビデオ通信 AV野郎 抜かせ屋ケンちゃん」の儚げなヒロインを好演した宮島葉奈と同じ人では?) オサムを誰より愛してるからクラブ勤めでオサムを養いつつ、それでもカレがケイコに惚れてると知るや黙って身を退くユミ(「不貞の季節」のSM妻・星瑤子) そしてオサムになつく不良少女志願の中学生(安野奈美) 立原あゆみだから歯の浮くような台詞が満載で、立原あゆみだから「男に都合のいい女」しか出てこないファンタジーなんだけど、おれは男なのでとても気持ち良く泣けたのだった(女性が観たらアタマに来るかも) ● 望月演出はテンポよく、しごく快調。北村一輝はいま現在「日本一のちんぴら役者」であることを確認。宮前希依と星瑤子は脱ぎまくりで演技でも裸体でも魅せてくれる。嬉しかったのは(脱がなくてもじゅうぶん色っぽい)志水季里子お姉さまとロマンポルノ以来10年ぶりに再会できたこと。オサムを拾って可愛がってる知性派のやくざ・田口トモロヲがじつに良い演技をしてるのだが、どうにもこの人、やくざの「幹部」には見えないんだよな。

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カオス(中田秀夫)

二転三転するプロットの意外さで見せる誘拐もの。演出の中田秀夫の意図はどうやら「誘拐された若妻」中谷美紀と「第三者からの依頼で誘拐犯を演じる便利屋」萩原聖人の心理サスペンス/ラブストーリーにあるようで、場面場面はそれなりに退屈せず観られるのだが、このストーリーラインじゃヒロインの心理がさっぱりわからないんですけど(脚本:斎藤久志) 彼女が「恋する女」と「悪女」のどちらと仮定しても行動に矛盾が生じる。「謎の女」ってのはあくまで言葉の綾であってさ、観終わって観客に「で、あの女けっきょく何がしたかったの?」と思われるようじゃマズいでしょ(それともあれは「ヒロインは精神の破綻したキチガイでした」ってオチなのか?) ● 不運な夫に光石研。刑事に國村隼。川井憲次のエンディング・テーマはちょっとカッコよかったけどさ。

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カラフル(中原俊)

脚本:森田芳光 撮影:藤澤順一
児童文学作家・森絵都の原作を森田芳光が脚色したジュブナイル・ファンタジー。原作をあたってないのでどこまでが原作でどこからが映画オリジナルなのか不明だが、出来あがった映画は「家族ゲーム2000」と呼ぶのが相応しいような紛れもない森田芳光ワールドになっていた。主人公はジャニーズJr.の田中聖クン扮する14才の中学生。松田優作の家庭教師という「他者」がやって来る代わりに、ここでは主人公みずからが「他者」となる。すなわち、とある「彷徨える魂」がラッキーチャンスに当たり、自殺したばかりの14才の少年の身体に入って人生をやりなおす機会を与えられる。「魂」が生前に犯した罪を思い出せば成仏させてもらえるというわけだ。で、映画は「少年がなぜ自殺したのか」と「彷徨える魂の犯した罪とは」という2つの謎をサスペンスに、少年の家庭や学校生活がかかえるさまざまな問題をスケッチしつつ進行し、最後は皆さんがご推察のとおりのオチがついて、少年の人生に対する許容量が少し広がったところでハッピーエンドとなるわけである。 ● しかしこれ、なんで森田芳光が自分で撮らなかったのかな? 森田芳光の脚本というのは、例えば援交してるイマドキの中2女子が「でも1週間に1度は尼寺に行きたくなる」なんて台詞を吐くような人工的なファンタジーだ。丁寧なリアリズムから登場人物の心理をすくいあげる中原俊の作風とは相容れないのは自明ではないか。…つまり簡単に言うと、不自然な脚本を不自然に演出すれば不自然ではなくなるが、不自然な脚本を自然に演出したら不自然…と、そういうこと。アンダスタン? ● 「家族ゲーム」だと伊丹十三の役まわりに滝田栄。由紀さおりの役まわりに(映画初出演ながら妙に色っぽい)阿川佐和子。少年の憧れの美少女に駒勇明日香16才。少年を見守る少女に真柄佳奈子16才(←この娘がカワイイ)

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本日またまた休診なり(山城新伍)

脚本:野上龍雄 撮影:安田雅彦 美術:重田重盛 音楽:坂田晃一 製作:松竹京都映画
松坂慶子 小島聖|蟹江敬三 火野正平 原田大二郎 石橋蓮司|佳那晃子 片岡礼子|山城新伍
いままで不真面目な映画ばかりを撮ってきた(それが悪いゆうとるんやないよ)山城新伍だが、自分の親父の自伝とあって居ずまいを正して撮りあげた新作。昭和20年。敗戦の日から始まるドラマで、いわば山城新伍版の「カンゾー先生」みたいな話。言ってしまえば美化された昔へのノスタルジーに過ぎない。だが、人々がきちんとしていた時代と、生まれ育った京都という街への、山城新伍の愛情はちゃんと画面に反映されているし、時代考証もしっかりしてる(と思う) そして(この人の映画はいつもそうだけど)何より女優をとてもキレイに撮っている。ことさらに傑作だと言いたてるつもりはないが、プロがきっちりと仕事をしたまともな日本映画である。昨今このレベルの日本映画がいかに少なくなってしまったことか。松竹京都映画の実力ということだろう。…しかし、これは本来なら東映京撮が付き合ってやらなアカンよなあ。

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シャフト(ジョン・シングルトン)

ああ、文句あるよ! 企画を聞いたときから「ジョン・シングルトンみたいな勘違いの説教オヤジに小粋なB級アクションが撮れるんかいな」と懐疑的だったのだが、おれの不安は的中したようだ。シングルトンにはB級アクションの呼吸がまったく身についていない。サミュエル・L・ジャクソン個人はたしかにカッコイイんだけど脚本がクズなために「B級アクションのヒーロー像」としてはおおいに問題ありだ。あんた、テメエの手で犯人をブチ殺すために大見得切って警察辞めたんじゃないんかい! コツコツと証人捜しをして裁判に持ちこむのが目的なら警察に留まってたほうがよっぽど有利だろが。テメエが裁判に拘ったせいで何人の人間が死んだと思ってんだ。だいたいヒーローってのは(仲間の助けを借りたとしても)あくまで「自分ひとりで戦う」ってのが基本なのに、本篇のシャフトときたら刑事時代の役得として恩を売った連中を無償でコキ使うばかりでテメエでは何にもしないのだ。おまけにこの「犯人を逮捕するのにミランダ条項を読むことすら知らない無能な刑事」に世間はやたらと甘くて、テレビカメラの前で手錠を嵌めた容疑者を2度にわたってブン殴っても懲戒免職にはならないし、法廷で判事の顔すれすれに警察バッジを投げつけるなどという暴挙をしても法廷侮辱罪には問われないのだ。甘ったれのワガママ野郎じゃんか、ただの。シングルトンよ、あんたはいいから「アタマの悪い同胞への啓蒙映画」でも撮ってろよ。 ● チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャラララララ チャ〜ラーという(いまや「サウスパーク」のシェフとしてのほうが有名かもしんない)アイザック・ヘイズの超カッコイイ オリジナル・テーマをそのまま使ったのは偉いけど「♪セックスマシーンは誰だ? それはシャーフト!」という歌詞に見合わぬ禁欲ぶりはいただけない。本篇にも「ジョン叔父貴」として登場するオリジナルのジョン・シャフトたるリチャード・ラウンドツリーがいまだにおまんこの匂いをぷんぷんさせているのに対して、サミュエル・L・ジャクソンは「どこがセックスマシーンやねん」という石部金吉ぶり。結局、女体が出てくるのはタイトルバックのみ。ダメじゃん、それじゃ。 ● 何のために出てるんだか最後までわからない同僚女刑事にヴァネッサ・ウィリアムズ。シャフトのせいで酷い目に遭う目撃者に「シックス・センス」のトニ・コレット。金持ちのドラ息子な殺人犯に(我々がまだ観ぬ「アメリカン・サイコ」のヤッピー殺人鬼に続いて)同情の余地のない唾棄すべき奴を好演してるクリスチャン・ベイル。そして本篇唯一の収穫と言えるのが中南米ギャングのボスを怪演したジェフリー・ライト。おれ観てないんだけど「バスキア」のタイトルロールを演じていた役者だそうだ。また、デビッド・アーノルドが1970年代黒人映画テイストのBGMを見事に再現して「007」映画に続いて器用なところを見せている。

★ ★
リプレイスメント(ハワード・ドゥイッチ)

体型的にもキャラ的にも「プロ・フットボールのクォーターバック」という役柄からはいちばん遠いところにいるはずのキアヌ・リーブス主演のプロ・フットボールもの。シーズン終盤で選手会がストに突入、オーナーは馘首にした往年の名ヘッドコーチを雇ってありあわせの選手を集めさせる。わずか1週間の準備期間で残り4試合のうち3つを勝てばプレーオフ進出…という「メジャーリーグ」プロットの使いまわし。ま、それはいいのだ。おれはこの手のB級映画にかなり寛容なほうだと思うが、それでも本作の脚本の「こんなもんで良かんべ」イズムには反吐が出る。陳腐にもほどがある。主人公とヒロインのロマンスの件りが特にヒドい。いまどき「アヒルの水掻き(=平静に見えて水面下ではジタバタ)」なんて喩えをよく恥ずかしげもなく使えるもんだ。ラストのジーン・ハックマンの“感動的な”ナレーションなど蛇足の最たるものである。そもそも選手会のストライキなのになんでチアリーダーも辞めちゃったの? で、なんでヒロイン1人だけ残ってるの?…とか、前半で(ヒロインの暴走運転により)スタジアムと主人公の暮らすボートハウスの距離感を示しておきながら、クライマックスではハーフタイムの間に瞬間移動してしまうのはムチャクチャだとか、イチャモンをつける余地が多すぎる。もともと、基本的にはコメディ作家であるハワード・ドゥイッチの任ではなかったのだ。普通ならとてもゴーサインが出るような脚本ではないのだが、「マトリックス2&3」で拘束される前に稼げるだけ稼がせようというキアヌ・リーブスのエージェントの方針に、来た仕事はみんな受ける(「勝利への旅立ち」以来のプロのコーチ役となる)ジーン・ハックマンが乗っかってしまったために「A級作品」として製作されてしまった代物。フットボールの映画をお望みなら「エニイ・ギブン・サンデー」をお勧めする。なお「キッカーとしてスカウトされたウェールズの元サッカー選手」の役でリス・エヴァンスが意味もなく「ノッティング・ヒルの恋人」と同色のブリーフ姿を披露している。

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ブリジット・フォンダ 赤い標的(ポール・マーカス)

ヒロインが暴力ストーカー亭主から逃れられるか…というB級サスペンスもの。ブリジット・フォンダが「ジャッキー・ブラウン」と「シンプル・プラン」の間に「家庭内暴力の問題に鋭く切りこんだ問題作でして」とか何とか騙されて出演したとおぼしき1998年作品。おまけにタイトルバックからいきなり濡れ場で「アリア」以来のヌードを披露している(「ケロッグ博士」でも脱いでたっけ?) ● 「亭主の黒焦げ死体」とか「1万5千ドルのへそくり口座」とかそれらしい道具立ては揃っていてそれなりに飽きずに観られるのだが、暴力亭主に扮したハート・ボックナーがちっとも怖くも変質者でもないので、いま2つぐらい盛り上がらない。警察署から殺人容疑者に逃げられたのに緊急指名手配もせず、容疑者の立ち寄りそうな場所に張り込むという知恵もまわらない無能な刑事にキーファー・サザーランド。暴力亭主の新しいレコになるウエイトレスにペネロープ・アン・ミラー。ヒロインの母親役で見る影もないティッピ・ヘドレンが特別出演。

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フィオナが恋していた頃(ポール・クイン)

「アイルランド人とスコットランド人は例外なく愛国者」というセオリーをまたもや実証する1作。「リービング・ラスベガス」「カーマ・スートラ 愛の教科書」のカメラマンであるデクラン・クイン、俳優アイダン・クイン、そして売れない役者ポール・クインの、アイルランド系アメリカ人3兄弟が製作したアイルランドものである。デクランが撮影、アイダンが主演を担当、ポールが監督・脚本デビューを飾っている。 ● 1939年のアイルランドのさらに辺境。どん百姓の小作人(しかも孤児)が、田舎には似つかわしくない進歩的なお嬢さんフィオナ(パトリシア・アークエット似のモイヤ・ファレリー)に恋をして、だけど恐ろしいカソリックの神父さま(スティーブン・レイ)からは「肉欲の罪は地獄落ちじゃあ」と脅されて、なにせ無教養だから「村を出る」という選択肢を考えつかなくて…という「悲恋もの」としても泣けるのだが、本作のオリジナリティは「回想パート」をブックエンドする「現代パート」の存在にある。シカゴの公立高校に勤める定年間近の歴史教師。生徒からもバカにされてる冴えない初老の男(しかも独身)が、母親が卒中で倒れたのを機に、まだ見ぬ父を捜して甥っ子と2人でアイルランドへ渡る。「THIS IS MY FATHER」という原題からも明らかなように、本作の主役はこのジェームズ・カーン演じるアイルランド系アメリカ人である。国際電話で息子の口から病床の老婆へ60年の時を越えて届けられるラブレター。甥っ子とアイルランドの因習も宗教も関係ない現代っ子の女子高生との間に芽生えるほのかな恋。…といった「救い」が用意されているのは作り手の優しさであろう。 ● アイルランドの、掘っても掘っても煉瓦のような塊になってしまう不毛な大地を、因習にとらわれた閉塞的な村社会を描きつつも「祖国」への愛情がひしひしと感じられる佳作になっているが、いちばんの難点はアイダン・クインが「無知で無教養などん百姓」に見えないってことだな。自由に空を飛びまわる「ライフ」誌のアメリカ人パイロット/カメラマン役にジョン・キューザック。宿屋の主人に“ミスター・アイリッシュ”コーム・ミーニー。

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ミュージック・フロム・アナザー・ルーム(チャーリー・ピーターズ)

ジュード・ロウが「エキセントリックな美貌の青年」という普段の持ちキャラから離れて「イギリスから来たちょっと変人だけど愛すべきお兄ちゃん」というヒュー・グラントの持ちネタに挑戦したラブコメ。主人公は5才のときにヒロインの誕生に立ち会って「この子をお嫁さんにしよう」と決める。で、イギリスから25年ぶりに戻ってきたらグレッチェン・モルに美しく成長していたヒロインは裕福な青年実業家と婚約中…というよくある話だが、このヒロインの家族構成が、病弱だけどお節介なブレンダ・ブレッシン母さん、性格の悪いジェレミー・ピヴェンの長男は自殺願望の「パピネス」嫁ジェーン・アダムズといつも喧嘩中、長女のマーサ・プリンプトンはレズの攻撃的フェミニストで、次女のジェニファー・ティリーは素直ないい娘だけど盲(めくら)で、「家族の幸せのためにあたしが犠牲になってお金持ちと結婚するの」という偽善的ヒロインが末娘…と、ヤな家族だねどーも。映画のほうもヒロインの「心の揺れ」など、そっちのけでこのキチガイ家族の描写に大半を費やしていて、盲の娘と貧乏人キューバ人コックとの恋のエピソードなど本筋よりも良い感じだったりして。ラブストーリーとしては失敗作だと思うけど、映画としては面白いというヘンテコな作品。 ● ジュード・ロウの職業が「モザイク職人」てのが、浮世ばなれした主人公のキャラクターを象徴する巧い設定なんだけど、ラストに使われてる「主人公の手仕事によるモザイク」がじつはエンドクレジットによれば「デジタル・モザイク・ペインティング」でしたってのはすべて台無しって気がするけど。タイトルは「恋とは“隣の部屋から聞こえてくる音楽”のようなもの(いつのまにか耳にこびりついて口ずさんでしまう)」という主人公の台詞から採られてるのだが、劇中で触れられるのはそこ1箇所だけで、後でドラマに活かされるわけではないのでちょっと。

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ファイナル・カット(ドミニク・アンシアーノ&レイ・バーディス)

ジュード・ロウの遺作ビデオを装ったフェイク・ドキュメンタリー。ジュード・ロウの実生活の妻のサディ・フロストが妻の役で出演し、実生活の友人のレイ・ウィンストンが友人役で出演し、実生活の友人の2人が監督&出演している、仲間内受けのプライベート・フィルム。金を取って客に見せるレベルの代物ではない。

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ヒーロー・イン・チロル(ニキ・リスト)

「ミューラー探偵事務所」(1986)のニキ・リスト監督、1998年の作品。IMDbによれば、あいだに8本も作品があるけどみんなこーゆーふざけた映画なんだろうか? ● アルプスの岸壁をくりぬいたバットケイブみたいな洞窟に住んでいる正義のヒーローが、チロルの自然を破壊せんとする悪徳市長&地上げ屋と戦う…という、書いてるのもバカらしい話を大真面目にミュージカルしちゃった映画。「ドイツ語でミュージカル」という似合わなさがポイントか。しっかしゆるい構成にも限度があるよな。カーニバルの夜の場面なんて3時間ぐらいあったんじゃないか? 「ミューラー探偵事務所」はこんなにゆるくなかったと思うけどな。 ● ミューラー探偵に続いてチロルのヒーロー「マックス・イーグル」を演じるのはクリスチャン・シュミット(「本名はミューラー」なんて台詞もある) 山の処女(おとめ)エルケ・ウィンケンスが妙にイヤらしくてグー(死語)よ。監督本人も富豪役で出演している。 ● それよかヨーロッパのヘンテコなコメディ作家といったら、チェコスロバキアの故オルドジフ・リプスキー(「レモネード・ジョー」「アデラ ニック・カーター プラハの対決」「カルパテ城の謎」)の未公開作をどこか輸入してくれないものか。

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マイ・ドッグ・スキップ(ジェイ・ラッセル)

ワーナー映画の、「アイアン・ジャイアント」に続くワーナーマイカルシネマズ独占公開作品の第2弾。さいしょはWMC板橋で観ようとしたんだけど、板橋は夜の回を組んでないので新百合ヶ丘へ。商売っ気がないねえ>WMC板橋。この2館って、都心からの距離は似たようなものなんだけど東武東上線と小田急線という沿線のキャラクターが見事に客層に反映してて笑っちゃう。小田急の新百合には気取った奥様族が目立ってて、東部東上線の板橋にはロビーにうんこ座りしてるサンダル履きのヤンキー兄ちゃんがいたりとか。いやほんとだって、作ってないってば。 ● 9才の誕生日に1匹の仔犬をプレゼントされる…この映画の本質はこれだけだ。第2次大戦が影を落とし始めた1942年の夏に始まる物語であるとか、人口わずか1万人のミシシッピ州ヤズーという小さな町を舞台にしているとか、そこではまだ白人と黒人は町の別々の地区に住んでいて映画館でも白人が1階席、黒人が2階席(入口も別々)であるとか、これが作家ウィリー・モリスの自伝的小説の映画化だとかいったことは背景にすぎない。ここで描かれているのは「子ども時代を犬と過ごすということ」という、ごく普遍的なテーマである。子どもの頃、犬を飼ってた人は必見。あなたがいかに多くのことを犬から学んだかを思い出させてくれるだろう。 ● スペイン内戦で片脚を失った退役軍人で、独り息子が犬を飼うことにも反対し、いささか人間味が足りないように感じられる父にケビン・ベーコン。亭主に内緒でこっそり犬を買ってきちゃう、陽気な母にダイアン・レイン。どちらも素晴らしい好演。内気な少年の憧れの的である、金髪のクルッと巻き毛の女の子にケイトリン・ワックスちゃん10才。そして主役のウィリー少年を演じるのはフランキー・ムニーズ君14才。 ● じつはこれ、監督は1987年の「END OF THE LINE」というボブ・バラバン主演の鉄道ロードムービー以来13年ぶりの2作目となるジェイ・ラッセル。脚本もこれが初脚本のゲイル・ギルクリースト(♀) 撮影はテレビのキャリアが多く、主だった劇場用作品が「悪魔のいけにえ3 レザーフェイス逆襲」というジェームズ・L・カーター。音楽は、普段は他人の作曲したサントラのオーケストレイター(管弦編曲家)をメインの仕事にしているウィリアム・ロス・・・という、いわば2軍メンバーによる奇蹟のリーグ優勝みたいな作品である。お近くにワーナーマイカルシネマズがあるならお見逃しなく。

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悪いことしましョ!(ハロルド・ライミス)

コンピュータのサポートセンターで電話応対係をしてるダメダメ君。死ぬほどつまらないギャグばかりやるもんだから同僚からは煙たがられ/バカにされ、憧れの彼女には4年も同じ職場で働いてるのに顔さえ憶えてもらえない。「ああ神様、もう何でも捧げますから彼女をぼくのものに」と祈ったら神様じゃなくてランボルギーニ・ディアブロに乗った美貌の悪魔が出てきちゃって「魂と引き換えに7つの願いを叶えてあげる」と誘惑されて(=原題)「えーでも魂はちょっと…」とかぐずぐず言ってると「魂なんて盲腸みたいなもんよ。無くたって困りゃしないわ」とか説得されて、ついつい分厚い契約書にサインしちゃったものの…という話。スタンリー・ドーネン監督/ダドリー・ムーア主演の1967年作品のリメイクだそうだが、たぶんタイトルと基本設定以外はまったくの新脚本だと思う。よーするに「ファウスト」もののコメディだし。 ● ユーモア・センスがグンバツでみんなの人気者なモテモテ・ボーイのおれ様には、この映画の主人公と共通する部分がひとつもないんだけど、なんでかな、ついつい主人公の気持ちに同化して観てしまったよ。こんな映画で泣いてしまうなんて、おれったらなんて繊細なんでしョ。てゆーか、おれが主人公だったら最初の願いは「貴女(エリザベス・ハーレー)と一戦お願いしたい」だな(火暴)←どこが繊細やねん。 ● ハロルド・ライミスの前作「アナライズ・ミー」がそうであったように本作はブレンダン・フレイザーとエリザベス・ハーレーを楽しむ映画である。ブレンダンは7つの願いをするたんびに別のキャラに変身するという趣向。どんなキャラに変身しても基本線はジミー・スチュアート/トム・ハンクス路線の「マヌケなイイ人」である。じつに上手い。どうかこのまま(トム・ハンクスのように転向せずに)コメディ路線で行ってほしい。対してリズ・ハーレーはナイスバディで目の醒めるような美女。「エドtv」に続いてタイプキャスティングを鼻で笑うかのように、最小面積の衣裳をとっかえひっかえコスプレして見せてくれる(予告篇にあった赤ビキニにヘビ巻きつけがカットされちゃってたのは残念) アメリカで問題になってる(俳優労組のCM出演に関する)スト破りもぜったい確信犯だと思うね。彼女の人柄をよく表している感動的なエピソードを下(↓)に引いておく。おれはすっかりファンになってしまったよ。さて、誰もが指摘していることだがキャラの濃い2人に較べて「主人公の憧れの人」の存在感が弱すぎる。「キス・オア・キル」ではなかなか良かったフランシス・オコナーだが、ここではミスキャスト。リズ・ハーレーとは対称的な素朴&キュートなタイプで、なおかつ変身キャラに対応できる芸達者ってことでジョーイ・ローレン・アダムスかジェナ・エルフマンあたりが良かったのでは? ● あと、謎なのはチラシ裏に、ブレンダンが「ロックンローラー」に変身した写真が載ってるんだけど本篇には登場しないのだ。てゆーか「7つの願い」なんだから、キャラが1つ増えたら帳尻が合わなくなっちゃうんだけど、これってどゆこと? 10個ぐらいエピソードを撮っといてモニター試写の受けが良かったキャラを残した?

ぢごくみみ」より無断転載 ● ヒュー・グラントはデイリー・メイルにこんな話をしている。「僕はロンドンに素敵な部屋をもっていたんが、リズにチェルシーにある豪邸を買うように説得されたんだ。私が半分もつからって。ところが、いざお金を払うときになると『今小切手帳をもってないわ』と言って逃げられたのさ。数週間後、彼女が何かを小切手で払っていたので、『今だったらあの家のお金を払ってくれるよね、ダーリン』と言ったら、『考えてたんだけど、払わない事にしたの』と言われたんだ。怒るべきだったんだろうけど、あまりにあっけらかんとしているので感心するしかなかったよ」(Daily News 9/15/2000) 翻訳文章 (c) ako


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グリーン・デスティニー(アン・リー)
臥虎藏龍

上に掲げたのはこの映画の原題なのだが、つくづく漢字のイメージ伝達力って素晴らしいよな。これが英語だと「CROUCHING TIGER, HIDDEN DRAGON(しゃがむ虎、かくれし龍)」だぜ。かっこ悪りぃ。なんだよ「しゃがむ虎」ってのは? もっとも配給元のソニー・ピクチャーズはしょせん毛唐の会社だけあってそうは思わなかったらしく、タイトルを「グリーン・デスティニー」という物語のカギを握る名剣の名にしたのは、まあ良いとしても、その漢字名「青冥剣」を字幕ではなぜか勝手に「碧名剣」に変えてしまった。「冥」の字があると無いとじゃ字面から受けるイメージがぜんぜん違うでしょうが。劇中では明確に「シャオロン」と発音されるヒロインの名前「玉嬌龍」が、なぜか字幕では「イェン」だし、その運命の恋の相手の名「羅小虎」も「ロー」にしてしまった。もう一度よおく2人の名前とこの映画の原題を見比べてみろよ。ヘンテコなカタカナ名前にしちゃダメなんだよ。最悪なのがチョウ・ユンファ師の所属する武術会派の名前で、字幕では「ウーダン」とか「ウーダン山」とか出てくるが、じつはこれ、香港映画ファンにはおなじみ、「少林」と並ぶ武林世界のもう一方の雄である「武当」派のことだ。少林寺の拳士が仏教の坊さんたちであるように、武当の修行者はすなわち道教の「道士」さんたちである。したがって劇中でチョウ・ユンファが使っているのは太極拳ということになる。「ウーダン」てなあ何だよ「ウーダン」てのはよ。 ● 「いつか晴れた日に」、「アイス・ストーム」、そしてアメリカでは公開済の南北戦争もの「楽園をください」(←なんちゅうタイトルや)と、いまやアジア人という出自を必要としない「ハリウッド監督」になったアン・リーが「台湾人の李安(リー・アン)」に戻って作りあげた武侠アクション超大作。中国人作家による長篇武侠小説の「第4部」の映画化で「無頼の徒にあこがれる名門のお転婆娘」の数奇な運命を描く。同じ「武侠片」とはいえ、香港映画に特有のしょーもないギャグを排除して、代わりにハリウッド資本ならではの潤沢な予算の賜物である本格的なセット美術とCG合成による北京城市の荘厳な街並みで彩った本作は、台詞が北京語ということもあって香港製の武侠片とはずいぶんと趣きが違う。初めての「A級武侠片」と呼んでもさしつかえないほどの風格に満ちているのだ。ユン・ウォピン(袁和平)が武術指導の腕を存分にふるったワイヤーワークと、思わず拍手せずにはいられない見事な呼吸の殺陣は、まさに映画の快楽ここに極まれりである。必見。 ● デビュー作「初恋のきた道」に続いて抜擢された北京出身の新人チャン・ツィイー(章子怡/撮影時19才)は2時間の映画のうち1時間半ほどにわたって観客の視線を釘づけ。「いいとこのお嬢さま(だけどオテンバ)」という少女漫画のヒロインのようなキャラに扮して、美麗な花嫁衣裳から凛々しい男装姿まで、そして華麗な立ちまわりから可憐な透け乳まで魅せてくださる。うーん、天女だ。伝説的な剣士リー・ムーバイ(李慕白)を演じたチョウ・ユンファと、女剣士ユー・シューリン(兪秀蓮)に扮したミシェール・キングは、若い恋人たちをサポートする大人のカップルとしてドラマに奥行きを与えている。写真だとそんなに美人には見えないのに、動き、戦い、台詞をしゃべる姿に内面からの美しさがにじみ出るミシェールは「宋家の三姉妹」に続いて素晴らしい演技力を披露するが、撮影開始早々に左脚の靭帯を切るというアクシデントにみまわれたため、せっかくの殺陣がほとんどスタント・ダブルだったのは残念。蒙古という設定だと思うけどそうは見えない馬賊の頭領に、台湾から「カップルズ」のチャン・チェン(張震) ● ひとつ驚いたのは、武術の達人たちがまるで忍者漫画のようにピュンピュン空を翔ぶこと…ではなくて、それに違和感をおぼえたという感想が思いのほか多かったことだ。そりゃ翔ぶさ空ぐらい。武術の達人だぜ。リンゴが木から落ちるのと同じぐらい常識じゃないか。あと何の理由かしらんけどエンドロールを倍速で流すのはやめてくれんかな。“常人”には速すぎて読めんぜよ。

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東京ゴミ女(廣木隆一)[ビデオ上映]

脚本:及川章太郎 撮影:鈴木一博&飯岡聖英 音楽:岡村みどり エンディング曲「さあいこう」wyolica
いまさら何を言うておるかと笑われそうだが、デジタルビデオは新しい8ミリ映画なのだな。いや今までそう思わなかったのは「フィルムで撮る予算がないからビデオ撮り」という作品ばかりで、「8ミリを撮るようにビデオを撮った」と思える作品にめぐりあわなかったからだ。そう、廣木隆一は明らかにそういうスタンスで撮っている。それにまあ「8ミリなんだ」と思えば画質の悪さも我慢できるか。 ● 6人の監督がデジタルビデオ作品を競作する「ラブシネマ」シリーズの第1弾。マンションの上の階に住んでいるアマチュア・バンドのギタリストに憧れて、夜な夜なそいつのゴミ袋をあさっている女の子の生態観察ムービー。時代おくれの喫茶店でウエイトレスをしているヒロインは、仕事の後はデートもせずお酒も飲みに行かず、まっすぐ部屋に帰っては彼の東京都推奨ゴミ袋の中味をチェック。彼と同じマルボロを吸い、同じフルーツブラン・シリアルを食べ、けれど実際に声をかけたりとかは絶対しない、そんなストーカーそのものの女の子を、演出の廣木隆一(と脚本の及川章太郎)は観客に「おぞましい」ではなく「可愛い」と思わせることに成功している。ヒロインには「ファザーファッカー」の中村麻美(劇場に「イベントで監督作品を上映」とか貼ってあったけど自主映画少女なんだろうか?) ギタリストに(1時間たつまで顔が映らない)鈴木一真。ロケハンと音楽/選曲のセンスが抜群なのはいつもどおり。(廣木と親交の深い)坂手洋二が主宰する「燐光群」の芝居で「東京ゴミ袋」ってのを観たことあるけど、なんか関連があるのかな? ● 上映館のシネマ・下北沢に設置されているのは(RGB3管式ではなく)たぶん液晶プロジェクター。プロジェクターのせいかデジタルビデオカメラの性能ゆえかしらんが暗部がつぶれて顔とかが見えない。喫茶店の、裁縫上手のマスター役・田口トモロヲなんて(声でそれと知れるけど)最後まで彼とわからない客もいるんじゃないか。

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