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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2000 part 3
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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パーフェクト ストーム(ウォルフガング・ペーターゼン)

ディザスター・ムービーというより戦争映画。まあ戦争も一種のディザスターではあるが。(「史上最大の作戦」がそうである程度には)実話に基づいている。「敵陣突破」を試みるジョージ・クルーニー率いるカジキマグロ漁船は連合軍陸軍小隊で、嵐の渦中に突っ込んでいく沿岸警備隊の面々は海兵隊のパラシュート部隊だ。命知らずの男たちが「嵐」という史上最強の敵に挑む。 ● 美男美女のいない映画である。ジョージ・クルーニーもマーク・ウォルバーグもむさくるしいヒゲ面。他に出てくるのが、ジョン・C・ライリー、ウィリアム・フィッチナー、マイケル・アイアンサイド…。こいつらは どんなにいけ好かない野郎でも「海の男」であるという一点で−−海の怖さを知る者同士として、その海に挑む勇気を共有する者として−−つながっている(前線の兵隊たちのように) 男が男なら、女も化粧っ気のない女ばかり。“普通の”キャスティング・ディレクターならシャーリーズ・セロンかキャメロン・ディアスあたりを配するであろうヒロインを務めるのはダイアン・レイン35才。極めつけがメアリー・エリザベス・マストラントニオで、ライバル漁船の女船長に扮して素晴らしい「侠気」をみせる。だから、この人の船が帰港するシーンはカットしちゃマズいでしょう>監督 ● そして忘れちゃならない本篇最大の見せ場である「嵐」という魅力的な悪役を創造したのはILM。サスガである。何しろはじめからCGとわかっているのに、エンドロールで「そうか今のは実写じゃなかったんだ」と改めて驚くほどのリアルさ。SFXシーンの構成力において他の工房より2レベル飛びぬけている。監督は「U・ボート」のウォルフガング・ペーターゼン。天地左右もわからないほどの、船が一回転しちまうような大嵐の中で、観客に何が起こっているのかを明確に伝えて、手に汗握らせるってのは並大抵の演出力ではない。 ● それにしてもこの映画を見ると、船乗りがなぜ船長に全幅の信頼を寄せ、船長の命令に絶対服従するのかがよくわかる。あと、ジョージ・クルーニーの別れた家族だけ最後まで登場しないのは、本人の了解が得られなかったのかね。

★ ★ ★
英雄の条件(ウィリアム・フリードキン)

アメリカ映画お得意の法廷もの。ただ軍事裁判だから、この映画でいう“英雄の条件”とはすなわち“軍人の条件”のことであって、「正義」はあくまでも“軍人としての”正義である。つまり「仲間の命を守るためなら敵は女子どもだろうと容赦なくブチ殺して良い」と。それで米国海兵隊の法は許したとしてもお天道さんは赦さないと思うぞ、人として。おれがイエメン人だったらこの映画観てテロリストになるね間違いなく。 ● 交戦条件(=原題)に違反したとして軍事裁判にかけられる大佐にサミュエル・L・ジャクソン<今回、あんた泣きすぎ。かつて命を救ってくれた戦友のため、不利な弁護を引き受ける軍人弁護士に、やっぱり上手いトミー・リー・ジョーンズ。検事役になる若き野心家の(しかし実戦経験のない)軍人に、「L.A.コンフィデンシャル」のイメージそのままのガイ・ピアース。どうせ「軍人正義主義」で行くんなら、この役は中途半端な悪役にせず「彼は彼なりの正義を貫く」という描き方にすればよかったのに。腐敗した政府高官への「脅し」はトミー・リー・ジョーンズではなくガイ・ピアースにやらせるべきだった。ちなみにこの映画、女っ気はゼロである。 ● 久々にメジャー・シーンに復帰したウィリアム・フリードキンの演出は、交戦シーンなどにもかつてのシャープな面影は見られずいささか寂しいが、娯楽映画としてはしっかり出来ている。音楽担当のマーク・アイシャムが、イメージに似合わぬジャンルに苦心してる感じがありあり。

★ ★
リプリー(アンソニー・ミンゲラ)

周知とは思うが一応。以下の文章ではメインプロットを割っているので“「太陽がいっぱい」を観たことがない”“どんな話かまったく知らない”という方は映画を観る前にお読みにならぬよう。てゆーか観なくていいけど>「リプリー」 ● 近眼のホモが汗っかきなデブへの嫉妬をきっかけにシリアル・キラーになる話。なんだそれ? しかも2時間20分もある。おれがよくわからないのは、主人公の「犯意」がいつ芽生えたのか不明瞭なんだよな、この映画。最初っから「犯意」を胸にピアノ弾きのバイトをしたわけじゃあるまい? すると、金持ちのどら息子がジャズ好きと聞いて、にわかにジャズのレコードを聞いて予習するのは何のため? 相手の趣味に話を合わせるため? それってただのおべんちゃら野郎ってことじゃん>マット・デイモン。で、痴情のもつれから最初の「犯罪」をおかして、それで「成り代わり」を決意するのはどの時点なの? ホテルのフロントで間違われたとき? それとももっと以前からそう思ってたの? …つまり、この青年が抱いているものが「金持ち息子のすべてを奪い取ってやる」という(若き日のアラン・ドロンと同様の)「野心」なのか、「あのステキな金髪のカレと一緒にいたい」という「恋心」なのか、どっちつかずなんだよ。それが「野心」ならばマット・デイモンにはまったく凄みが足りないし、「恋心」ならば後半の展開は無意味になってしまう。完全にアンソニー・ミンゲラの演出設計ミスである。 ● 「近眼のホモ」にマット・デイモン、「汗っかきなデブ」にフィリップ・シーモア・ホフマン。そして「金持ちのどら息子」に、アラン・ドロンのように美しいジュード・ロウ。彼があまりに眩しいので、その退場と同時にこの映画は輝きを失ってしまう。物語がホモの視線で描かれてるので「憧れの男のフィアンセ」にグウィネス・パルトロウというのは「どーでもいんだよ、そんな女」度において適役である。別の金持ちの娘にケイト・ブランシェット。おれなら破滅のきっかけとして、彼女にマット・デイモンに向かって「ディッキー!」と、ジュード・ロウと一緒にいるところで呼びかけさせるけどな。 ● オープニングのタイトルデザインのセンスだけは「太陽がいっぱい」に伍すると思う。

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死者の学園祭(篠原哲雄)

ホリプロのヒモ付きによる角川映画2本立て。1980年代を角川映画と共に過ごしてきた人ならば、劇中劇とドラマがシンクロする形式からは「Wの悲劇」が、長身の加藤雅也と深田恭子のイメージからは「探偵物語」が、すぐさま想起されるだろう。何より「少女が事件を通して大人になる」というプロットがハルキ大明神プロデュース時代の角川映画2本立そのものなのだ。なんだろうねえ。三十路男のノスタルジー狙いかねえ<ぜったい違う。 ● 原作は赤川次郎の処女作。学園での連続殺人。女生徒の男性教師への淡い恋。曰く付きのピアノ。父1人娘1人の家庭。礼拝堂。「ドビュッシーじゃ殺せない」。謎の転校生・・・と赤川次郎フルコース。まあ赤川次郎も、著作を1冊も読んだことない人間(=おれ)に言われたかないだろうが、「いまどきこんな学校あるのか/こんな女子高生いるのか」という世界観ではある。ところが面白いのだなあ、これが。篠原哲雄って今までのったらのったらした映画ばかり作ってる印象があったが、なんだ緩急つけた娯楽映画も撮れるんじゃないの。終盤、ヒロインの「父に対する想い」と「好きな人に対する想い」が錯綜してしまうのが惜しいが、それまでは演出も脚本(安倍照男&山田珠美)もじつに論理的で、観客は映画が自分の感情の流れに忠実に展開してくれる心地好さを味わえるだろう。黒沢清作品や「リング0」の柴主高秀のカメラも的確なサポート。 ● 「ええっ深田恭子なんてどこがいいの。しょせんはプロダクションの力だろ?」と、ホリプロ1押しアイドルにこれっぽっちも好意的でなかったおれが、映画が終わる頃には「恭子ちゃんってけっこう可愛いじゃん。二の腕のぷっくりしたとこがタマランなあ」などと思ってるのだから、これこそ映画のマジックというものだ(ま、おれがスケベなだけ、って話もあるが) 演技はまだまだ固いのだが、それがかえって現代っ子らしからぬ「乙女」の役柄に合っているとすら思える。篠原哲雄はヒロインの笑顔だけでなく、ふくれっ面や不安な顔などさまざまな表情をフィルムに焼きつけ、本作をアイドル映画としてもきちんと成立させている。彼女の幼い恋愛感情の対象となる寡男教師に加藤雅也。さすがハリウッド在住だけあって日本語の台詞まわしがえらいヘタクソになってるが、松田優作の役回りはなんとかこなしている。そして筒井康隆! そうか文豪はホリプロ芸能部所属であったのだ。学園長=神父役ということで かなり出番も多く、文豪の役者魂が炸裂してるので筒井康隆ファンは必見だ。

★ ★
仮面学園(小松隆志)

ダッセーの。やんなっちゃう。まあ、この野暮ったさが角川映画的と言えなくもないけど。「学園ホラー」ということだが、小松隆志にはホラー映画の才能がまるっきりない。怖がらせようとして撮っているショットがことごとく怖くない…てゆーか、失笑ものなのだ。緻密な計算をするアタマがないんだな。バカ自主映画出身だから?<サベツ発言。どー見てもVシネマ程度の予算しか使ってなさそーなセット美術のチャチさと恥ずかしいセンスも画期的(美術:内田哲也) ● 監督がバカなのは別にしても、観客に映画の進む方向が一向に見えてこないってのは娯楽映画として失格でしょう。そもそも話が破綻してることに誰も気付かなかったのか? 名作「流星」と同じ脚本家(橋本裕志)とは思えんヒドさ。原作は「ぼくらの七日間戦争」の宗田理で、いくらなんでもこんな支離滅裂な話が出版されるはずがない、と本屋で原作本をめくってみたら、なんと原作は「2年A組探偵局」という学校探偵もの(のシリーズの1篇)なのだった。ははぁん。さしづめ同時上映の「死者の学園祭」とジャンルがカブるってんで、タイトルとモチーフだけ残して無理やり話を書き換えたのだろう。それにしても、もう少し脚本を練れよ。プロだろ? ● というわけで本篇最大の見所は、ヒロイン(にして探偵役)を演じる黒須摩耶の笑顔とミニスカである(火暴) デビュー作の「ブギーポップは笑わない」同様の、ショートカットの凛々しい女の子。制服のミニスカートからスラリと伸びたナマ足が眩しい。ビリングトップの藤原竜也は「仮面を作ってる謎の青年」役で、半顔のマスクを付けてるか、うっとりしてるかのどちらかなので、あまり芝居どころなし。てゆーか、この人の芝居は演劇向きだな。

てゆーか、この日、観たなかで1番の傑作は「バトル・ロワイアル」の予告篇かも。東映のスクリーンで久々にヤバいものを観た。これを全国公開の映画でやってしまえる無謀さが東映の強みであり魅力である。それはもちろん性懲りもなく「幸福の科学」のアニメーションを配給したりする無謀さと裏腹なのだが。秋には阪本順治、満を持しての三角マーク登場となる「新・仁義なき戦い」も控えてるし。東映には頑張ってほしいと思う、いやほんとマジで。



ハピネス(トッド・ソロンズ)

ファミリーものソープ・オペラのフォーマットによる「不幸博覧会」。登場人物が不幸になるほどハッピーなBGMが鳴りわたる。後続の「マグノリア」の数百倍は上等な映画である(本作の製作は1998年) 「マグノリア」が傲慢に上から登場人物たちを見下ろしてたのに対して、本作の監督・脚本トッド・ソロンズは明らかに彼らとおなじ位置にいる。彼らの感情を共有している。キャスティングも素晴らしい。おれにアカデミー賞の投票権があったなら主演男優は、ためらいなくフィリップ・シーモア・ホフマンに1票を投じただろう。普通なら(少なくとも) ★ ★ ★ ★ をつけてたと思う。だがたとえ他の部分がどれほど良く出来た映画であっても、11才の少年に催眠薬を服ませてレイプするような男にシンパシーを感じさせるべく演出してる映画など、おれは絶対に許せない。

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ロッタちゃんと赤いじてんしゃ(ヨハンナ・ハルド)

アストリッド・リンドグレーン原作、ロッタちゃん映画の第2弾。…とは言っても、ロッタちゃん役の女の子が「はじめてのおつかい」より小さいので、こちらが先に作られたようだ。全篇がリンドグレーン・ワールドのロッタ村で撮影された いかにも「テレビの再編集で御座い」という「…おつかい」と違って、本作では湖畔にピクニックに行ったり、列車に乗ってお祖父ちゃんの農園に行ったりするし、エピソードの区切りが短いので、これはテレビのパイロット版スペシャルと見た。 ● ロッタちゃんのワガママぶりは健在で、…てゆーか「…おつかい」に輪をかけてスゴくて、「…おつかい」ではまだクリスマスツリーをゲットして来たりして役に立ってたが、本作ではただワガママなだけ。おまけに強情っ張りで、癇癪持ちで、食べ物の好き嫌いが激しくて、決して謝らないという「よくこれで主役が務まるもんだ」と感心するほどの暴走ぶり。傍から見てるぶんには彼女の「小さいってだけでサベツするな!」という苛立ちが可愛いらしく映るけれど、この映画を観た小さなお友だちがロッタちゃんの真似をしてダダをこねたらお母さんは困るだろうねえ。だって映画の中では謝るのはいつもお母さんなのだよ。 ● (以下「はじめてのおつかい」レビュウよりコピペ)子供向けに作られたものだが、そうした低年齢の観客に媚びもせずバカにもせず、きちんと作っているので、大人が観ても(こーゆー他愛ない話が嫌いじゃなければ)充分に面白いだろう。でも本来は日本語に吹替えて日曜日の夕方にNHKで放映すべきものだよな、これは。

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太陽の誘い(コリン・ナトリー)

「たいようのいざない」と読む。舞台は1950年代末のスウェーデン。9年前に母親を亡くして以来、雌鶏と馬2頭がいるだけの小っぽけな農園に犬と2人暮し。齢四十にしていまだ童貞、しかも文盲の農夫が新聞に「住みこみ家政婦募集」の広告を出す。求めに応じてやって来たのは小股の切れ上がった三十路女(←もちろん訳アリ) 農夫はたちまち家政婦に夢中になる。面白くないのが今まで農夫とツルんでは、いいように金を巻き上げてきたアメリカかぶれの青年だ。彼はなんとか2人の仲を裂こうと画策する…。 ● 予告篇を観るかぎり「ミフネ」と似た話かなと思ったが、こちらはもっとストレートな大人のメロドラマだった。知恵遅れではないが図体ばかりデカくて不器用な大男と、世慣れた感じの金髪女のラブ・ストーリー。森と湖の豊かな大自然が美しくカメラに納められているが、それに比べると男女の営みのエロチシズムがちょっと弱いか。無骨な農夫にロルフ・ラスゴード。家政婦に、デボラ・カーラ・アンガー系の顔立ちのヘレーナ・ベリストレム(監督の奥さんだそうだ) パディ・モローニの劇伴が印象的。てゆーか、この映画、銀座のシネ・ラ・セットでは「シュリ」の後番組だったので公開がズレにズレてしまって予告篇の上映期間が史上最長で、すっかり耳にこびりついてしまったよ。 ● これ、セックスの話だしピンク映画でリメイクできそうな気がするんだが、問題は「主人公が文盲」って設定をどうするかだなあ(←これがないと話が成立しない) ま、それは何か代案を脚本の五代暁子に考えてもらうとして、池島ゆたか監督で映画化するってのはどーよ。主演の純情な童貞中年にかわさきひろゆき、訳アリ三十路女に佐々木麻由子、意地悪青年に佐々木恭輔、その彼女に水原かなえ、(本家には出てこないけど)主人公の妹(か何か)に河村栞、[女を追いかけてくる暴力的な夫]に神戸顕一、…ほら「奥様 ひそかな悦び」のキャストでそのままイケるじゃん:)

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ディル・セ 心から(マニ・ラトナム)

マニ・ラトナムは、インドでは社会派監督として知られ、本作も「独立50周年記念式典襲撃を計画する、インド北東部の反政府・女テロリスト(少数民族独立運動家とも云う)と、国営ラジオ局の男性キャスターの恋」というイギリス映画とかにもありがちな題材で、シリアスドラマなのでソング&ダンスはすべて別場面で「空想シーン」として処理される。マニ・ラトナム監督はもちろん社会的義憤に駆られて本気で作っているのだろうが、ドラマが訴えかけてくる社会派のメッセージよりも、歌の力・踊りのパワーのほうがはるかに観客の心に到達するのは皮肉なものだ。1998年の東京国際映画祭で上映された際に、なぜか歌と踊り抜きの海外向けバージョンとゆーものが送られてきてしまって、観に来たインド人観客が暴動寸前の騒ぎになったというのもむべなるかなである。そりゃ怒るわ、おれだって。これ思うに、マニ・ラトナムはソング&ダンスを劇中に挿入することを恥じているのじゃないかな。不幸なことである。歌と踊りのないインド映画なんてカラミのないピンク映画と同じじゃないか。商業的要請により仕方なくソング&ダンスを撮ってるのなら、そんなことやめてイギリスへでも行くがよかろう>マニ・ラトナム。 ● 夜のプラットホームで遭った「謎の女」に一目ボレして、相手の迷惑も顧みずどこまでも追いかける悪質なストーカー、…じゃなかった「愛に生きる男」はもちろんシャー・ルク・カーン。つまり善い者・悪者の違いこそあれ役柄は「アシュラ」と同じである。「アシュラ」と同様、シャー・ルクの望みはただひとつ「ただ一言でいい。愛してるといってくれ」…って、相手も絶対に自分に気があると思いこむその根拠はなんなんだ(←貶してません。褒めてます。こんな役柄を娯楽映画のヒーローとして成立させられるのは世界広しといえどもシャー・ルクだけ) 最初っから最後まで眼をウルウルさせてる不幸顔の美しいヒロインに「ボンベイ」のマニーシャー・コイララ。シャー・ルクの(結ばれる望みのない)フィアンセにダイナマイト・ボディのプリーティー・ジンタ。白い砂と岩山など、チベットとかに近い風景でのロケが新鮮。

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ハンネス、列車の旅(ペーター・リヒテフェルト)

ドイツ映画。ビール会社の運転手をしてるポール・ギルフォイルみたいな容貌の独身中年 鉄っちゃんが、ドイツからフィンランドの北の端まで列車を乗り継いで旅をする。そして行く先々で奇妙な人々とひとときを過ごす、というトボけた味わいの(ロードムービーならぬ)レール・ムービー。この鉄っちゃんはヨーロッパ中の「A地点からB地点へ行く最短距離」と、その発着時間を暗記してるような時刻表マニアで、今回の旅も田舎の小さな町で開かれる「第1回 国際 時刻表コンテスト」に参戦するのが目的だ。ところが、その途上で彼はひとりの中年人妻と遭い、思わぬ道草の愉しみを知ることになる。まあ、つまり「最短距離なんか知ってたって幸せにはなれないよ、もっと道草しなさいよ」いう、わかりやすいダブル・ミーニングだ。監督が大のアキ・カリウスマキ ファンてことで、カリウスマキ組の常連俳優たちも出演している。[註]ポール・ギルフォイルってのは例えば「パーフェクト・カップル」で選挙参謀をやってた小太りの中年俳優で…って、説明しなきゃわからん喩えをするなよ>おれ。 ● この映画、渋谷のユーロスペースで観たんだけど、地味な見た目と、夜1回だけのレイトショーという公開形態からは意外なほど混んでいて、もしやこの人たちみんな鉄っちゃん!?

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京極夏彦「怪」 七人みさき(酒井信行)

「梟の城」を観たときにも感じたことだが、どうやら「時代劇の終わり」はまず役者に訪れたようだ。いくらなんでも全出演者のうち、まともに台詞が喋れてんのが夏八木勲とかろうじて小木茂光(元・一世風靡セピア)の2人だけ…ってのは酷えだろうよ。方言で喋る映画に方言指導が付くように、これからは時代劇にも「時代台詞指導」が必須だな。いやもちろん台詞だけじゃなく所作とか演技全体の問題なんだが。もういいかげんベテランなはずの佐野史郎あたりでも全然ダメ。遠山景織子はいかに見目美しくとも喋ったとたんに萎えちまう。中でも最悪なのが主演の田辺誠一で、こいつが一言 喋るたんびに「うああ、やめてくれえ…」と思ってしまう。下手でもあんた一応プロなんだからテレビドラマそのままの口調で喋んのはやめてくれ。 ● 中味は京極夏彦版の「必殺仕掛人」である。WOWOWでドラマスペシャルとして数本作られたうち、最初のやつを「ディレクターズ・カット」として劇場公開した。御行(おんぎょう)、つまり魔除け札売りの乞食坊主(田辺)だの、傀儡女(くぐつめ)、つまり人形遣い 兼 娼婦(遠山)だの、取材旅行中の戯作者(佐野)だのといった「旅の者」がじつは「仕掛人」であるという設定は面白い>「必殺!」にも山田五十鈴の旅役者ものとかあったな。だが「金で人の怨みを晴らす」という「必殺!」がつねに拘っていたポイントがないがしろにされてるのは問題だろう。自警団じゃねえんだからボランティアでスカッとするから殺すってんじゃ、「楽しいから殺すのだ」とうそぶく悪人と何ら変わりはないではないか。「必殺!」のファンなんじゃねえのか?>京極夏彦。みずから脚本を書いたわりには台詞もなんか雑で、「せっかくだが」と「生憎だが」の使い方ぐらい間違うなよ。 ● 演出の酒井信行は「必殺!主水死す」「必殺始末人」(<ビッグ・トシ主演のやつ)「必殺!三味線屋勇次」などの助監督だった人だが、外連がことごとく陳腐に堕して無惨。仕掛人が勢ぞろいしてテーマ曲が高鳴ってからの「クライマックスの見せ場」を30分もちんたらちんたらやってるのは根本的に演出のセンスがないのじゃないか。ただ無意味に乳出しゃエロくなるってのも大きな勘ちがい。京極夏彦の映画化には実相寺昭雄なんか適任だと思うが どうか。 ● ご丁寧に劇伴まで平尾昌晃チックなフラメンコ・ギター(音楽担当は別人)で、おまけに「あの人」もチラッと出てくるので、出来の如何を問わず「必殺!」なら何でもいいという人にお勧めする(中条きよしは出てません。念の為)

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ゴンゾ宇宙に帰る(ティモシー・ヒル)

モンスターたちが大活躍する「セサミ・ストリート」と違って、「マペット・ショー」のキャラはカエルやブタやクマやネズミやニワトリやイヌやヒトなので正体不明の生物は登場しない・・・曲がった長い鼻の青い奴、グレート・ゴンゾを除いては。で、ある日とつぜんその事実に思いいたったゴンゾが、シリアルスナックからの啓示を受けて家族捜しの旅に出る…という「ティガー・ムービー プーさんの贈りもの」と同じ話だ。…いや、観てないけどさ>ティガー・ムービー。 ● 「エルモと毛布の大冒険」のレビュウではつい「初期のマペット映画には“合成は意地でもしないぞ”という人形遣いの心意気が感じられたのだが…」と書いてしまったが、いや悪かった。本作はパペッティア魂炸裂、基本的に合成なしの創意工夫一本勝負である。ドラマもいつものマペット節で好きものにはタマらぬ味わい。アース・ウィンド&ファイアでファンカデリックなエイリアンのド派手な登場シーンでは思わず画面に拍手しちまったぜ<恥ずかしい奴。 ● 人間ゲストはF・マーリー・エイブラハムズ、アンディ・マクダウエル、デビッド・アークエット、レイ・リオッタ、ハルク・ホーガンなど。ケイティ・ホルムズとジョシュア・ジャクソンがカメオ出演して「ドーソンも来れば良かったのに」などと言う。操演者リストはこちら。 ● 場内に置いてあったアメリカ版の立看板のコピー「SPACE.....IT'S NOT AS DEEP AS YOU THINK.」<いいなあ:)

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エルモと毛布の大冒険(ゲリー・ハルボーソン)

ジム・ヘンソンのマペット映画は今までに5本作られているが、これらはすべてカーミット&ミス・ピギーほかの「マペット・ショー」キャラによるもので、「セサミ・ストリート」のキャラクターをフィーチャーしたものはこの「エルモと毛布の大冒険」が初めてとなる(厳密に言うとビッグ・バードがゲスト出演したりしたことはあったけど) 「セサミ・ストリート」だから当然のごとく子ども向けである。ま、はっきり「幼児向け」と言ってもいい。メインターゲットが幼児だからこそ、観客たちがいちばん共感できるキャラクターである、愛らしくてせっかちで好奇心のカタマリで、靴紐はひとりで結べるけどまだ字は読めない“赤くて小っちゃい”エルモが主演に選ばれたのだ。小さなお友だちが映画を一緒に楽しめるよう、観客は数度にわたって画面上のエルモとのコール&レスポンスを要求される(「聞こえたら返事をして」とか「敵をやっつけるために一緒に○○○と叫んで」とか) 上映時間がわずか1時間13分とはいえ、子どもには長いので、ちょっとでも彼らが退屈しそうになるとタテナガ顔のバートが画面に割り込んできて「この後エルモはどうなっちゃうの?」とか心配して、するヨコナガ顔のアーニーが「大丈夫。エルモはきっと助かるよ」とか言って、子どもたちを安心させる仕組みになっている。 ● エルモの“大親友”の毛布クンが“ゴミ箱”オスカーの故郷グラウチランド(=バイキン国)の嫌われ者、ひとのものを何でも欲しがる「欲張りハクスリー」に取られちゃって、エルモはそれを取り戻しに行く…というストーリー。じつはそんなことになってしまったのも、エルモが「毛布を貸して」という親友のゾーイに対して「ぜーったいダメ!これはエルモの!」と2人で毛布の取り合いをしてたことに端を発するわけで、つまり「なんでも独り占めはいけないよ」と分け合う(シェアする)ことの大切さを小さなお友だちに説いてるわけだ。もちろん「セサミ」のレギュラー陣は総出演で、オスカー・ザ・グラウチは意地悪するし、クッキー・モンスターは「クッキー!」と叫ぶし、テリーはおろおろと心配するし、カウント伯爵は数えるし(2つだけだけど)、給仕のグローバーはオーダーを頼もうとするヒゲの紳士をほっぽらかして「スーパー・グローバー」に変身するし、“優等生”ビッグ・バードはみんなを勇気づけようと「ABCの歌」とか歌い出してブーイングを浴びたりする。人間ゲストは2人。ゲジゲジ眉毛の欲張りハクスリーに扮したマンディ・パティンキンがブロードウェイ仕込みの喉をたっぷり聞かせてくれれば、ゴミ山の女王になったヴァネッサ・ウィリアムズも1曲 歌ってくれる。子ども向けではあっても決して子ども騙しではないので、こーゆーものがお好きなら大人でも楽しめるはず。あー、でも、いちおう断っておくが「マペット好き」とは言っても、おれはエルモのパジャマ着て寝たりはしてないので誤解なきよう。 ● マペットの場合は、操演者がかならずそのマペットの声も担当する。唄も歌う。ここんちが特別なのは(亡くなったジム・ヘンソンとリチャード・ハントを除いては)オリジナル・メンバーがずうっと同じマペットを操演してること。ジム・ヘンソンのかけがえのない相棒だったフランク・オズは、実写映画の監督として確固たる地位を築いた今もバートとグローバーとクッキー・モンスターを操演して台詞を喋ってる。ひとくちに「ずうっと」って言うけど「セサミ」が始まったのは1969年だぜ。なんと素晴らしいチームじゃないか。この中では1980年代なかばからのニューカマーであり、にもかかわらずいまや1番人気のエルモを操るのはケビン・クラッシュ(ちなみにこの人は黒人) 他の操演者リストはこちら。 ただちょっと残念なのは、本作ではフルサイズのマペットを撮るのに合成が頻繁に用いられてること。初期のマペット映画には「合成は意地でもしないぞ」という人形遣いの心意気が感じられたのだが…。

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ひまわり(行定勲)

ある日のこと。ひとつの留守電が入ってる「もしもし…。真鍋朋美です。…憶えてますか」…真鍋朋美? 誰だっけかな? 数日後、テレビから釣り舟の転覆事故のニュースが流れる。遭難者のリストに「真鍋朋美」の名前。…真鍋朋美? …真鍋朋美!? そうだ!小学生のときに転校して行ったきり音信不通の同級生じゃないか。…青いドッヂボール。…日蝕。…あれ?顔も思い出せないってのに、おれはその子との間になにか大切な思い出があったような気がする…。 ● 東京に出てきていたクラスメイト5人が、真鍋朋美の葬式のため故郷の伊豆に集まる。付き合わされる想い出の断片。ここには2つのミステリーがある。その後の彼女の人生、死ぬ直前の彼女の行動、なんで釣り舟なんかに乗ってたのか?というのがひとつ。そして、もうひとつは主人公の心に秘められた彼女との想い出について。 ● 映画が始まった時点でヒロインはすでに死んでいて、1時間近く経つまで顔すら写らない大胆な構成。てゆーか「市民ケーン」なんだけど。薔薇のつぼみにあたるのが「ひまわり」ってわけ。と言っても、これはサスペンス映画じゃなくて、岩井俊二の「Love Letter」なんかに近い、初恋の追憶についての甘酸っぱいドラマである。新進気鋭の演出・行定勲と撮影・福本淳は画面の隅々にまで気合いをみなぎらせて、ひとつとして平凡なショットを撮るまいという野心が好ましい。それぞれの人物の個人的な想い出からヒロイン像を浮かび上がらせる(けれどすべてが明らかになるわけではない)佐藤信介&行定勲の脚本は巧みだが、欲を言えば、主人公以外のクラスメイトたちが、ただ「思い出す人」という役割しか与えられてなくて、「ヒロイン←クラスメイト」だけでなくクラスメイト相互間の感情が描き込まれていたならば、ドラマが現在に繋がったろうにと惜しまれる。朝本浩文(ラム・ジャム・ワールド)の奏でるもろマイケル・ナイマンなピアノBGMはちょっと過剰か。 ● はかなげな存在感のヒロインを麻生久美子が好演。その小学生時代を演じた渋谷桃子ちゃん13才がなかなかの美少女でチェキラウ! 主人公に袴田吉彦。クラスメイトに土屋久美子・粟田麗・ジョビジョバのマギー他。おお、ここにも北村一輝がっ

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源氏物語 あさきゆめみし(三枝健起)[キネコ作品]

「はいからさんが通る」の大和和紀が「mimi」に連載した原作コミックスを宝塚花組総出演で映画化した。おれは宝塚はまったくの範囲外なので(朝1回だけのモーニングショーという興行形態からして明らかにファン限定と思われる)この映画を語る資格はないのだが、「まあそんなものか」と割りきってしまえば、女が烏帽子袴姿で光源氏を演じる違和感はそれほど感じないで観ていられた。…あのさ、宝塚女優だからって全員が美人ってわけじゃないのな。黒木瞳とか天海祐希はやはり特Aランクなのだな。本作に出てるなかでは「紫の上」を演じた彩野かなみって人がなかなか可愛かったけど。 ● 物語はご存知のとおり、なよなよした色男が一発ヤッてホイ、一発ヤッてホイする話である。人妻あり、親子丼あり、ロリコン飼育あり、近親相姦あり。しかもこの時代は夜這いが基本だ。ああ、この時代に生まれたかった(←大きなファクターを無視してます) 若干のアレンジが施されているのだが、おれは原作コミックスを読んでいないので、それが大和和紀の功なのか脚本の唐十郎の力なのかは不明。てゆーか、チラシには「脚本:唐十郎(唐組文芸部・大垣高洋)」ってなってるんだけど、これって弟子が書いたってこと?  監督の三枝健起はNHKのディレクター(本作の音楽を担当している三枝成章の実弟だそうだ) 製作がNHKエンタープライズなのでハイビジョン(ビデオ)撮影したものをキネコ(フィルム変換)している。出演者がみな厚塗りして常に青や赤のライトがあたっているので−−つまり肌が肌色として写っていないので−−キネコの欠点はそれほど目立たない。 ● え?肝心の映画の出来はどうなのかって? …まあ「MISTY」の監督だからな。宝塚歌劇のファンと、ものずきな方にお勧めする。

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さくや 妖怪伝(原口智生)

特殊メイクの第一人者・原口智生の初監督。妖怪退治の家に生まれた17才の少女さくやと、さくやが弟として育てている子河童の冒険道中もの。いわばRPGゲームのノリなのだが、ドラマがいかにも弱い。各エピソードに相互の繋がりがなく、ぶつ切りのまま投げ出されているので、ファースト・ステージのあといきなり最終ステージへ行っちゃうみたいな印象を受ける。だいたい、つかみが弱いよ。せっかく藤岡弘を起用してるのだから、オープニングで殺陣をきっちりと魅せて、観客を劇世界に引きずりこむべきなのだ。合成や特撮もけっこうだが、まずチャンバラの魅力をたっぷりと見せてほしいのに、原口智生が固執するのは安藤希のアップばかり。いや、いいんだけどさ。 ● 監督本人が認めてるとおり大映「妖怪百物語」「妖怪大戦争」(ともに1968)へのオマージュである。劇中には「妖怪大戦争」とそっくりなデザインの唐傘お化けだの、ろくろっ首だの、二面女だの、油すまし(=蓑を着てるデカ頭)だの、ぬっぺっぽう(=ぶよぶよしたやつ)だのが舞い踊る幻想的な(つもりの)シーンまである。巨大化した松坂慶子が覗きこむ「大首」な場面もある。そういうわけで妖怪がCGではなく「着ぐるみ然」としてるのは意図的なのだが「巨大土蜘蛛」が衣裳デザイン:竹田団吾(劇団☆新感線)って、そりゃないんじゃないの。あそこは予算のかけどころでしょうに。押井組の常連・川井憲次の音楽もいまいち派手さが足りず。予告篇で使ってたダニー・エルフマンの「キャプテン・スーパーマーケット ARMY OF DARKNESS」のテーマのように、もっと高らかにテーマ曲が鳴ってほしかった。 ● ヒロインの安藤希は「ガメラ3」のときはいかにも「美少女」だったけど、整いすぎた美貌(老け顔とも言う)が災いして、なんかもう18才にして「美人」て感じ。次はもうちょっと色っぽい映画で観てみたいね。敵の大将に松坂慶子を配したのは大正解。これがそこらのVシネ女優とかだったら目も当てられないところだった。彼女のまともな台詞まわしのお蔭で映画がかなり救われてる(今なら1曲サービス付きだ) 助っ人の伊賀組頭を演じてるのが劇団☆新感線で「卑怯な助っ人」を持ち役とする逆木圭一郎なので、本篇でも「いつ寝返るか」と楽しみにしてたのになあ。 ● 原口智生は「妖怪ものが好き」というわりには、河童を主役に据えておきながら「頭のお皿が乾いて力が出ない」とかのお約束のフォローがないのはちょっと。てゆーか、頭の皿を焼き焦がされたら河童は死ぬだろ普通? てゆーか、背中から串刺しにされたら人間は死ぬだろ普通? 生かすんなら生かすでいいけど、なんらかの説明をしろよ説明を。説明といえば、妖刀・村正を封印するという「桐の箱の機能」はちゃんと説明してやんないと子どもにはわかんないぞ。てゆーか“「学校の怪談」を観に来るような子どもたち”をメインターゲットに据えてるんなら、あのポスター/予告篇じゃだめでしょ。これでは美少女と特撮があればよいという方にしかお勧めできない。

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シャンハイ・ヌーン(トム・ダイ)

「ラッシュアワー」に続くジャッキー・チェンの〈ハリウッド映画〉第2弾。全米公開時はジョン・ウーの「M:I-2」が1位、ジャッキーの本作が2位だった。つまり“香港映画”のワンツー・フィニッシュだ。まさかこういう時代がやってくるとは…。香港映画ファンとしてはちょっと無感量である。 ● アメリカ人の大好きな西部劇のフォーマットを活かしつつ、「ラッシュアワー」で成功したバディ・ムービーでもあり、なおかつジャッキーのセールスポイントである生身のコミカル・アクションをきっちり魅せる・・・バランス感覚に優れたハリウッド・モードのジャッキー映画。だから今回は、自身の監督作品で見せる「そんなことしたら死んじゃうよお!」という決死のスタントはない。バランスが崩れるから(あるいはアメリカの保険会社が引き受けないから) それでも(アジアの少女たち同様に)白人の中学生の女の子たちに「アイ・ラブ・ジャッキー!」と叫ばせてしまうだけの魅力にあふれた唯一無比のエンタテインメント魂は健在だし、老若男女万人にお勧めできる極上の娯楽映画であることに変わりはない。SFXに埋没して魅力を台無しにしてしまったリー・リンチェイの「ロミオ・マスト・ダイ」と並べてみればジャッキー・チェンの聡明さがより際立つだろう。 ● じつはこの映画でいちばん感動したのはエンドクレジットの「武術指導:ユン・ピョウ」の文字。あくまでも義に厚いジャッキー大哥なのであった。あと自身のスキャンダルに応えるかのように、劇中でさりげなく「奥さんがいたって男は恋することがあるのだ」と主張してる気がするのは気のせい? 

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ジュブナイル(山崎貴)

ジュブナイル(少年少女向け)と堂々と銘打つだけあって、ひと夏の冒険を描いた上質な「夏休み映画」になっている。メインに想定している観客はもちろん子どもたちだが、SFとしての構成がしっかりしてるので大人が観ても充分以上に楽しめるだろう。とびっきりの美少女映画でもあるので「そちら方面」の観客にもお勧め。じつはこの映画、一言で簡潔にいいあらわせるのだが、それを言うとネタバレになっちゃうので別ファイルにしておく。 ● 子ども向けの映画だから子どもが主役…なのではなく「なぜ子どもが主役じゃなきゃならないのか」が論理的に説明されているのが偉い。はっきり言ってエピローグが長過ぎて野暮なのだが、まあ、これくらい丁寧に説明してあげないと子どもたちには難しいかな。ただ、この手のSFのメインルールである「同一時間に複数の同一人物が存在してはならない」というシバリを堂々と無視してるのは感心しない。 ● 眩いばかりの輝きをはなつ鈴木杏ちゃん(撮影時12才)が素晴らしい。夏の陽射しの下で汗ダラダラ流してるのが似合う健康的な美少女。それを支える(…ってほんとはこっちが主役なんだけど)男の子3人組も子役臭さのない自然な演技で好感がもてる。子どもたちを助ける「大人」の役に(子どもたちと年令が近い)香取慎吾を配したのは大正解。従来の日本映画だとここに草刈正雄や下手すんと勝野洋とかをキャストしちゃうんだよな。酒井美紀が「悪」のパートを演じるときに目の下にワザとらしい黒い隈とか入れたりしてないのも見識である。監督・脚本・特技監督を兼ねる山崎貴は、これが子ども向けの映画だからこそ、そしてファンタジーだからこそ、描写が陳腐に堕しないよう細心の注意を払っているように見うけられる。もともと視覚効果工房の雄「白組」に所属するだけあって、SFXの出来も「画期的」といえるレベル。ただ、敵宇宙人のデザインが魅力的じゃないのが残念。それとCG部分のピントが甘い気がするけど、これが現在の日本のコンピュータ合成技術の限界なのかな。わざわざアメリカで音を作ったそうだが、それにしちゃあ広がりに乏しくドルビーSRDの音場設計がなってない気がするけど(日劇東宝のスピーカーのせい?)

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ハネムーン・キラーズ(レナード・カッスル)

1970年の低予算モノクロ映画だが、これが日本初公開。本作を評してポーリン・ケール女史はこう書いたそうだ「なんという身の毛のよだつ映画。誰にもお勧めしない」・・・ならば、おれはこう書き換えよう「なんという身の毛のよだつ傑作。誰にでもお勧めできる映画ではない」 年月を超えていきなり見せられた衝撃度からすると「狩人の夜」に匹敵するサイコ・スリラーのマスターピース。 ● 病院で婦長をしているドラッグ・クイーンのような容貌魁偉でぶ女が文通クラプで知りあったのは、結婚詐欺をなりわいにしてる英語もろくに喋れない安っぽいジゴロ。ところが、女を食い物にして生きてきたはずのこのジゴロが、ろくに笑いもしやしないブータレヅラのでぶ女に本気で惚れてしまう。なぜか、…なんて誰にもわかるものか。ともかく惚れてしまったのだ。それでジゴロでぶ女は2人して結婚詐欺ツアーに出る。「女を騙すのに女連れ」なんてどう考えても正気の沙汰じゃないが、ともかく男は妹(あるいは姉)といつわって女を連れて行く。ジゴロが文通でコナをかけておいた相手に結婚をチラつかせて金目のものを奪ったらハイ、サヨウナラ。じつにシンプルな結婚詐欺のはずだった。ところが同行のでぶ女嫉妬する。なに考えてんだ相手はカモだぞ、ここで尻尾出したら元も子もないじゃねえか。それでも女は嫉妬する。狂暴になる。キレる。はずみでカモの女を殺しちまう。痴情のもつれってやつだ。1人殺したらあとは地獄へまっしぐら。「俺たちに明日はない」から「ナチュラル・ボーン・キラーズ」にいたる由緒正しき殺人逃避行カップルの誕生? いやいや、大きく違うのは、こいつらがケチなジゴロと容貌魁偉なでぶ女だってこと。テレビのワイドショーだって取り上げないようなチンケな2人なのだ。ドラマチックになることを、悲劇のヒーローとヒロインになることを、その見た目が裏切ってる。だから当然こんな2人に約束の地などありゃしない。待ってるのはぶざまな結末。…だが驚くべきことに最後の最後で、この「実話」はこの上なく美しいラブストーリーとして着地する。泣いた。いやマジで。ジョン・ウォーターズを愛する人にお勧めする。 ● マーチン・スコセッシの処女作になるはずだったというこの映画、スコセッシが撮入1週間で解雇されてから、お鉢がまわったのはなんとオペラの作曲家レナード・カッスル。後にも先にもこれ1本だけの監督作品である(脚本も) 撮影はこれも映画撮影の経験がなかった当時24才のオリバー・ウッド。あまりカットを割らず、まるで「事件を部屋の中で目撃している第三者」のように凝っと見つめる。ただ、マーラーの劇伴はちと大袈裟じゃないかと思うが。

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ヴァージン・スーサイズ(ソフィア・コッポラ)

「ゴッドファーザー PART III」に頼みもしないのにウィノナ・ライダーを押しのけ出演して、フランシス・フォード・コッポラを除く全人類のヒンシュクを買ったバカ娘の、監督デビュー作である。脚本も彼女自身。製作は親父さんのアメリカン・ゾエトロープが手がけている。 ● 思いっきりネタバレなタイトルなので物語の行きつく先は最初っから明らかなわけだ。すなわちアメリカ映画版「五人少女天国行」あるいは「ファイブ・ガールズ・アンド・ア・ロープ」(「ピクニックatハンギング・ロック」は何人だっけか) 処女(おとめ)5人寄れば死にたがる、という話。舞台となるのは25年前のミシガンの郊外住宅地。美しい金髪の5人姉妹の想い出がナレーションによる回想で語られる。去った時代と去った人・・・2重のノスタルジー。全篇が なんとも女の子らしいセンスにあふれている。だが問題は、ここにはセンスだけがあってドラマが無いということ。まるで女の子が自分の部屋に好きな物だけを集めて可愛らしく飾りつけしてうふふと笑ってるような映画なのである。もう、いかにも渡辺満里奈とかが褒めそう。 ● 語り部となるのは近所に住む4人の少年たち…のうち誰か。「カーラの結婚宣言」のジョバンニ・リビージがナレーションを担当しているのだが、これがどの子が長じての声なのかはっきりしない。てゆーか、この少年たちは「観察者」としての位置を与えられるのみで個々のキャラクターはまったく描かれない。まるきり十把一絡げ(ちなみにこの子たちのうちのどれかが「スター・ウォーズ2」のアナキン・スカイウォーカー役に抜擢されたハイデン・クリステンセン君) あとさあ、これ「25年前」というからには1974年の話だろ。信じてくれ、当時“男子(だんし)”だった者として言うが、いくら25年前だって男子はあんなに純情じゃないぜ。この「男の子」像は嘘っぱちだ。てゆーか、あの少年たちは監督自身なんでしょうな。それと、どうしても気になるのが、死んでしまった少女たちのことを(悲しい記憶としてではなく)甘酸っぱい想い出として描いているように感じられること。そういう感覚は好きになれない。 ● 5人姉妹を演じるのは、17才の長女テレーズに、新人の(この娘だけちょっとブスな)レスリー・ヘイマン。16才の次女メアリーに無名のA・J・クック。15才の三女ボビーに「ロリータ」のドミニク・スウェインの実の妹チェルシー・スウェイン。四女ラックスに、14才という設定にしちゃ発育しすぎのキルステン・ダンスト(ま、実年令は撮影時16才だと思うけど) そして13才の末娘セシリアに「フォレスト・ガンプ」でロビン・ライトの子ども時代を演じてたハンナ・ホール。お父さんに、借りてきた猫みたいなジェームズ・ウッズ。お母さんに、なんかもう胴回りがスゴいことになってるキャスリーン・ターナー。プレイボーイ少年にジョシュ・ハートネット。ダニー・デヴィート、スコット・グレン、マイケル・パレが(たぶんお友達価格で)特別出演している。あと、近所のおばさん役で絵沢萠子が出てくる…いやほんと、あれ絶対 本人だって。

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サイダーハウス・ルール(ラッセ・ハルストレム)

原作・脚色:ジョン・アーヴィング 撮影:オリバー・ステイプルトン 音楽:レイチェル・ポートマン
不幸を不幸のようには描かない演出家と、「おかしな不幸」と「奇妙な幸せ」を縒り合わせる小説家・・・出遭うベくして出遭った2人と言えよう。ジョン・アーヴィングが600ページにもおよぶ長大な原作(←おれは未読)を、みずからの手で140ページの脚本にカット&エディットした。ところが「ガープの世界」「ホテル・ニューハンプシャー」「サイモン・バーチ」と並べてみても、初の原作者自身の脚色による本作がもっともアーヴィングらしくないのだから不思議なものだ。「あまりにも我慢強いのでまったく泣かず、貰い先の夫婦が気味悪がって1日で返してきた新生児(=本篇の主人公)」という冒頭のエピソードこそアーヴィング調だが、それ以降、この作家独特のねじれたユーモアや諧謔味は影をひそめ、映画は堂々たるメインストリームのビルドゥングス・ロマンとして進行する。言い換えれば「万人向けのいい映画」ってことだ。いや、まあ別にいいんだけど。 ● 終盤で主人公が初めて能動的に“ルールを破る”エピソードがちょっとあざといと感じた。あれじゃあ「犠牲となるサブキャラクター」は不幸になるためだけに出てくるみたいなものではないか。ヒロインの「人生の選択」も(時代性を加味しても)納得できない。最初からあの2人、愛し合ってるように見えないんだもん。…というわけで、おれはもっぱらラッセ・ハルストレムの「孤児院もの」としてこの映画を楽しんだのだった。 ● エーテル中毒の院長先生に扮したマイケル・ケインが素晴らしいのは当たり前。特筆すべきはやはり主役のトピー・マグワイアだろう。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のようにいつも静かに笑っている。つい、観客の“保護欲”をかきたてる不思議で曖昧な存在感。同年代の若手俳優のなかでは異色のキャラクターである。ヒロインに、売れっ子シャーリーズ・セロン(うつ伏せ全裸ヌードあり) 孤児院での主人公の弟分に、いまやハリウッドの「不幸せな少年」マーケットを独占した感のあるキーラン・カルキン(この映画のラストカットは彼の笑顔だ) 主人公に想いを寄せる(貰われてくにはちょっと大きくなりすぎた)孤児の女の子パズ・デ・ラ・フエルタがなかなか可愛いかったけど、出番がちょびっとで残念。リンゴ摘み労働者のリーダーに、相変わらずスンゴイ顔で印象強烈のデルロイ・リンド。その娘役になんと(シンガーの)エリカ・バドゥ。 ● パンフが東宝系のパンフらしくない小洒落たデザインで−−800円もするのはいただけないが−−15ページにもおよぶプロダクションノートが圧巻の読みごたえ。まあ多分、翻訳資料をそのまま全文掲載してるんだと思うが、このほうが東宝 商品事業部 御用達のつまらんライター原稿より、よっぽど有用ってもんだ。

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ロスト・サン(クリス・メンジス)

子どもが消える話?「最後通告」ってのもあるよなあ?…程度の前知識で観に行ったらハードボイルド探偵ものだった。劇中で観客にも早々に知らされるし、チラシ裏にも書いてあるので言ってしまうが「子どもへの性虐待」ネタである。つまり無免許探偵バークだ。おそらくクリス・メンジスがこの映画を作った動機もアンドリュー・ヴァクスと同じだと思う。すなわち児童虐待に対する「怒り」と「プロパガンダ」。おれはそういう映画作りを否定しない。共感することもある。だが本作はテーマに囚われるあまり「人道主義教条映画」が陥りがちなキュークツなドラマになってしまっている。ミステリーとしたって、あまりにも穴だらけ&省略のしすぎだ。「ワールド・アパート」とかもキュークツな映画だったし、やはりカメラマン時代に「キリング・フィールド」「ミッション」で組んだローランド・ジョフィの悪影響かね。どうせなら「ケス」のケン・ローチの影響を受けりゃ良かったのになあ。元パリ警視庁の刑事、今はロンドンのしがない探偵にダニエル・オートゥイユ。依頼人に、今回もチョイ役のナスターシャ・キンスキー。

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ソフィーの世界(エリック・グスタヴソン)

ベストセラーとなった哲学ファンタジーを原作者の故国ノルウェーで映画化。ちょっと「ネバーエンディング・ストーリー」を想わせるメタ・ファンタジーである。ただ「ネバーエンディング…」のように力強いメッセージを発っするでなし、テリー・ギリアムのように奇想で魅せるでなし、ヌルーい出来のなまくらファンタジーだが。そもそもこれ「哲学ファンタジー」じゃなくて「西洋歴史めぐり」じゃないか。どこが哲学? おれはすっかり退屈してしまって「どうやってオチを付けるのか」という興味だけで我慢して観てたんだが…、なんやねん、あのオチは! あれじゃ「みんなは天国で幸せに暮らしました。メデタシメデタシ」ってのと一緒じゃないか。 ● クレア・デーンズ似のヒロイン、シルエ・ストルティンは(クレア・デーンズ似だから当然)あまり可愛くない。あと、顔が潰れて見えないほどの逆光撮影が多いのは意図的?(どんな意図だよ)

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スチュアート・リトル(ロブ・ミンコフ)

おれ、予告篇で泣いてしまった(火暴)ので、すごく期待してたんだけど、うーん、こりゃディズニー・アニメだな。…いやもちろん悪い意味で。主人公のスチュアート君があまりに優等生すぎて人間臭さがないのだ(ネズミだから…いや、そうじゃなくて) まわりも平面的なキャラクターばかり(実写なのに) あなたが12才以下なら楽しめるかも。 ● 監督は誰?と思ったらディズニー・アニメ「ライオン・キング」の片割れだった。どうりで。バカバカしさを感動に転化するだけの演出力に欠けている。最初は「ネズミの弟なんてヤダ」とダダをこねていた坊やが、リモコンボート・レースをきっかけにスチュアート君と和解するのだが、リモコンボートを人力(てゆーかネズミ力)で操舵するのって反則では? ズルして勝ってメデタシメデタシって<いいのかそれで! それとこのボート、WASP号っていうんだけど(字幕では「スズメバチ号」)、ひょっとしてこの映画って「白人家族に気に入られて家族同然に扱われてる“チビの外国人”に嫉妬した“飼い猫”が、ストリートのブラザーたちの助けを借りて反抗を試みるが、しょせん飼い猫は白人家族の飼い猫のままが幸せなのだった」というメッセージが込められてる?と言ったら、裏目読みがすぎるかね。 ● スチュアート君の声はマイケル・J・フォックス。1980年代映画世代のおれとしては、パーキンソン病なんかにメゲず、いつまでも頑張ってほしいと心から願う。意地悪な飼い猫の声にネイサン・レイン。下町訛りのきついノラ猫の親分チャズ・パルミンテリと、スチュアートの本当のお母さんとして登場する雌ネズミ、ジェニファー・ティリーの2人は、聞いた瞬間に誰だかわかるほど特徴ある声。愉快な(人間の)おじさん役でジェフリー・ジョーンズが出てて、おれは絶対にスチュアート君をネズミ・ステーキにしようと狙ってるに違いないと楽しみにしてたら、最後まで善人のままで拍子抜け<ワーナー漫画の観すぎ。 血と火薬の世界から還ってきたジーナ・デイビスが幸せそうにお母さんを演じてる。でもアクションシーンが無いもんだから太っちゃって言わんこっちゃない。ダイエットにはアクション映画が1番ですぜ>ジーナ姐。 ● 本作の1番の売りモノであるスチュアート君のCGは、ソニー・ピクチャーズ・イメージワークスがジョン・ダイクストラをスカウトして、意地になって作っただけあって、体毛の表現など「ジュマンジ」の赤毛ザルに較べたら2世代ぐらい進歩してる。だが動きがまだまだ。操演技術はフィル・ティペットや、ジム・ヘンソン・スタジオ(のマペット)に較べて格段に劣る。てゆーか、猫のアニマトロニクスを担当している「ベイブ」のリズム&ヒューズと、猫のCG(?)を手がけたセントロポリス・エフェクツ/パトリック・タトポロス・デザインのエメリッヒ組のほうが、ずっと良い仕事をしている。あと、アラン・シルベストリのミュージカルっぽいスコアは良かったな。 ● ちなみに、ネズミだけが(何の説明もなく)人間の言葉をしゃべることに異を唱えてる人がいるようだが、この世界においてはそういうお約束なのだよ。新版「ガメラ」3部作の世界において「カメという生物は存在しない」ことになってるのと同じだ。

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クローサー・ユー・ゲット(アイリーン・リッチー)

見渡すかぎりの野ッ原と羊とパブしかないアイルランドの田舎町。すべては教会の映画上映会に「十戒」と間違えて「10」のフィルムが送られてきたことから始まった。ボー・デレクのお色気に一発でノックアウト(死語?)された村の独身男どもは「メリケンにゃ こげなおなごさ うじゃうじゃいるんだべか」ってわけで、マイアミ・ヘラルドに「村祭りにご招待」という花嫁募集広告を出して大ハシャギ。面白くないのが無視された格好の村の女たち…という、またもやイギリス(含む周辺部)の田舎町コメディである。例によって変人だけど善人な人々があれやこれやの大騒動をくりひろげる。 ● どんなにめかしこんで髪をブロンドに染めたところで、あたり構わず金玉の位置を直す癖があることを自覚してない肉屋のボンクラ青年にイアン・ハート。そのボンクラに「田舎娘が見栄はるな」とか諭されてアタマに来ちゃう村娘のヒロインに、ちっとも美人じゃないのがイギリス映画らしいキャスリーン・ブラッドレイ。パブのママに、ちょっとジョーン・キューザックみたいなニーヴ・キューザック…えっ、キューザック? 何人兄弟なんだ、ここんちは!と思って IMDb で調べたら、ジョン/ジョーン/アン・キューザックとは別家族だった。それにしちゃ似てるぞ(親戚?) なんと、このアイルランドのキューザック家も女優4姉妹でお母さんも有名な女優(シリル・キューザック)なのだった。うーん、もはや時代はボールドウィンじゃないな。これからはキューザックだよ、キューザック<意味なし。 ● 製作は「フル・モンティ」のウベルト・パゾリーニ。監督は新人アイリーン・リッチー。

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人狼(沖浦啓之)

原作・脚本:押井守 キャラクター・デザイン:沖浦啓之&西尾鉄也
美術監督:小倉宏昌 美術設定:渡部隆 音楽:溝口肇
「ヒトと関わりを持った獣(けもの)の物語にはかならず不幸な結末が訪れる。獣には獣の物語があるのだ」・・・「赤頭巾と狼」の童話をモチーフにした、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」を思わせる愛と裏切りの政治的メロドラマ。構図としては つかこうへいの「初級革命講座 飛龍伝」と一緒。つまり、機動隊の若者(=狼)と革命闘士の娘(=赤頭巾)の苦いラブストーリー。ただ、この映画のオリジナリティは、時代設定を「オリンピック前夜の東京」に設定したこと。それも、反政府勢力による武力テロが激化し、それに対抗すべく首都警察特機隊、別名ケルベロスと呼ばれる秘密警察が暗躍する、有り得たかもしれないもうひとつの東京である。 ● 押井守の劇場版「機動警察パトレイバー」2作がそうであったように街の風景が圧倒的に素晴らしい。くすんだ色合いの、木造家屋の街並み。石畳の舗道には市電が走る。まだ首都高速はなく、街には空があり、どぶ川に蓋をする前の東京。そしてこの「東京」には、パリのような煉瓦造りの「地下水道」が張り巡らされている。その街にはまだ「闇」が「闇」として存在している。すべてが「夜と霧」のなかに沈んでるような、懐かしい…けれど架空の風景。美術スタッフの達成を見るためだけにでも本作は観る価値がある ● しかしその一方で沖浦啓之は、高畑勲の「おもひでぽろぽろ」と同種のおろかな過ちをおかしているように思われる。すなわちアニメーションのキャラクターを生身の俳優と同じリアリズムで演出してしまっている(もちろん意図的に、だ) だが、アニメでそれをやっても生身の役者の表現力にかなうはずもないのだ。そればかりか、リアリズムを基調とするあまり「地下水道に狼の群れがあらわれる」といった秀逸なイメージを殺してしまってる。たとえば「おもひでぽろぽろ」には、それでも「少女時代のヒロインがウキウキと歩くうちに空を飛んでしまう」とか「ラストシーンの列車内に突如として時間を超えて子どもたちが出現する」といった背筋のゾクゾクするイメージの飛翔が存在した。沖浦啓之のアニメーターとしての力量がひしひしと感じられるだけに、アニメーションの大きな魅力をみずから放棄してしまっていることが残念でならないのだ。

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CUT カット!(キンブル・レンドール)

まんま「スクリーム」なオープニングから始まるオーストラリア製のパチもんスラッシャー。撮影中に忌まわしい殺人事件が起こって製作中止になった映画を、映画学校の生徒たちが12年ぶりに製作再開したことから、映画の中のマスク殺人鬼がよみがえって…という話。てゆーか、そもそも映画の出来が学生映画レベルという気が…。12年前に奇跡的に生き残った主演女優で、学生映画に招ばれてのこのこオーストラリアに殺されにやってくるB級テレビ女優にモリー・リングウォルド。うーん、ノーコメント。本篇とはぜんぜん関係ないけど「できれば買いたくない… 呪われた『カット!』フィルム付き前売券」てのは笑った。

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ミラクル・ペティント(ハビエル・フェセル)

スペイン製のキチガイ映画。てゆーか、キチガイしか出てこない映画。いやそれでもいいけど、話そのものをキチガイの論理で組み立てられたんじゃ健全な常識人のおれとは相容れんわな。

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フォーエバー・フィーバー(グレン・ゴーイ)

1977年のシンガポール。頭の中にはブルース・リーとオートバイのことしかなかったボンクラ兄ちゃんが、「サタデー・ナイト・フィーバー」にガツンとやられてダンスに目覚め、ダンス・コンテストの1等賞を目指す話。かつて松竹が得意としていた「下町大衆娯楽映画」である。主演のスーパー店員の兄ちゃん&ラーメン屋の姉ちゃんは渡辺篤史沢田雅美だ。ライバルの金持ちのドラ息子&いいとこのお嬢さんペアは郷ひろみ多岐川裕美である。監督は、そう、渡辺祐介あたりか。いや“喩えて言えば”とかそーゆーレベルじゃなく、演出のセンスから何からまんまそのまんまなのだよ。松竹だからテーマはもちろん「テクよりハート」で、全篇を彩る1970年代ディスコ・ミュージックのシンガポール版カバーが、また当時の日本語詩カバーを思い出させてイイ味。 ● 俳優出身で、これが監督デビューのグレン・ゴーイは人情喜劇の呼吸を心得た「熟練」とも言える演出を見せる。自筆の脚本も「ハーレクイン・ロマンスかぶれの妹」とか「英語がしゃべれないので家族の諍いも何言ってんだかわからない婆ちゃん」とかサブキャラの造形など見事なもの。ひろく万人にお勧めできるプログラム・ピクチャーの傑作である。ただ、この映画を「あのダサさがオシャレだよな」とかそーゆー奴には観てほしくないね。それと「サタデー・ナイト・フィーバー」を観てない人には、主人公の気持ちが共有できないと思う。

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女侠 夜叉の舞い(関本郁夫)

V6の森田剛を強姦罪で訴えた妃今日子主演のVシネマ。監督&脚本が関本郁夫&高田宏治の「極妻」コンビで、「極妻」の新作と2本立てで東映系の映画館で上映されているが、東映は製作には絡んでいない。その製作関係のクレジットがちょっと凄いので書き写してきた>企画協力:フリーハンド/制作協力:フィグラ/制作:イップ・エンターテイメント&ジャパン・アート/製作協力:長良プロダクション/製作:ビイ・アンド・ビイ・プロダクション。…なんか、利権を求めて有象無象の連中がわらわらと群がっている様が浮かんでくるではないか。箸にも棒にもかからん本篇よりも映画の舞台裏のほうがよっぽど面白そう。てゆーか、雇われ仕事だからってあんまり手え抜くんじゃねえぞ>関本郁夫&高田宏治。 ● で、そうまでして主役を勝ち取ったヒロインの妃今日子だが、最初の台詞を一言二言しゃべっただけで観客(と演出家)を絶望のどん底に突き落とす大根ぶり。だいたい華のない陰気な顔は映画女優には向いてないよ。最後の最後にいちおう濡れ場があるんだが「脱がなくていいから引っ込め!」と、このおれが思うくらいなんだからそーとーにヒドいぞ実際。おそらくこれ1本きりだろう。 ● 話としては「親父の仇を娘が討つ」という「極妻」式のやくざものVシネマ。「DEAD OR ALIVE 犯罪者」でヤケクソ・デビューした甲賀瑞穂が、かたせ梨乃の役回りで頑張ってる(ヌードあり)<この娘こそ「極妻」本篇で使ってあげたらいいのに。他に、原田龍二、小西博之、原田大二郎、梅宮辰夫、安岡力也、佐藤蛾次郎、高野拳磁、六平直政、藤田まこと、藤谷美紀らが出演。あと言っとくけど新宿に海はねえぞ。

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極道の妻たち リベンジ(関本郁夫)

そんなVシネマもどき(↑)を観た後だと、撮影・照明・音楽など画面の豊かさがぜんぜん違う。とても同じ監督の映画とは思えん。これが撮影所(東映京撮)の力というものなのだろうなあ。通算13作目、高島礼子版になってから3作目の「極妻」。今回の高島姐さんは、山口組会長の娘婿のところの、若頭(かしら)の女房。会長が長門裕之、その娘が池上希実子、その亭主(組長)に火野正平、高島の亭主(若頭)が田中健、鉄砲玉の女房が裕木奈江という配役。もちろん火野正平がダメ極道で、そこに次期会長を狙うライバルの組(石立鉄男&本田博太郎の極悪コンビ)がつけ入ってきて、まわりはみんなその尻ぬぐいに追われて死んでいく…という話である。それぞれの役者が個性を発揮して最後まで楽しく観ていられるのだが、映画の完成度としては脚本がわやくちゃやねん(脚本:中島貞夫) かつての恋人でライバル組の幹部・豊浦功補が10年ぶりに出所してきて高島の心が揺れ動く…という「姐さんのラブストーリー」が用意されているのだが、描写が中途半端なので「映画に艶を出す」どころか、本筋の流れを中断する役割しか果たしていない。また今回は女性キャストがすべて高島サイドのため、かたせ梨乃の役回りが存在せず、このシリーズの売りである「女vs女の闘い」を欠いているのが物足りない。「脱ぎ」が1人もないのも寂しいが、かといって池上希実子や裕木奈江に脱がれても困るしなあ。 ● とは言え、やくざ映画なんてのは、それなりの役者とスタッフが揃ってればそれなりに楽しめるもので、本篇も傑作には程遠いがプログラム・ピクチャーとしては充分に合格ラインである。なかでも、いつもテレッとしたセーターとかガウンを着てる火野正平のダメ男ぶりが絶品。一見すると「やくざの女」らしくない裕木奈江も妙にリアリティがあった。 ● それにしても、なにも山口組の会長の娘が自分で殴り込まんでも、お父ちゃんに頼んだらええやんか。

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TATARI(ウィリアム・マローン)

「マトリックス」のジョエル・シルバーと「フォレスト・ガンプ」のロバート・ゼメキスという、それぞれ自分の名を冠したプロダクションを持つ大物2人がチンケな安物ホラーを作るため、新たに設立したダークキャッスル・エンタテインメントの第1回作品。ダークキャッスルという社名は往年のホラー映画監督ウィリアム・キャッスルへのオマージュなのだそうだ。ウィリアム・キャッスル? …ほら、ジョー・ダンテの「マチネー 土曜の午後はキッスで始まる」にジョン・グッドマン扮する、映画の中味よりもそれを上映する映画館での「お化け屋敷的なギミック」にこだわるヘンテコな映画監督が出てきたでしょ。あれがウィリアム・キャッスル。 ● 本作自体も同監督の「地獄へつゞく部屋」(1958)のリメイク(おれは未見) まあ、しょせんはコケ脅し演出と大仰な音響効果によるMTVホラーであるが、お代の分だけは楽しませてくれる。てゆーか、どーせなら(一部分だけでも)赤青メガネの3D映画にすればよかったのに。ま、現状でも「ホーンティング」の百倍おもしろいのは確かだけど。あと、幽霊キャラの痙攣&瞬間移動の描写が「リング」を始めとする近年のジャパニーズ・ホラーに影響を受けてる気がするのは、おれだけ? ● 幽霊屋敷のホストは、じつに愉しそうに“地獄大使”潮健児ばりの怪演をみせるジェフリー・ラッシュ。ホステスは、ビッチはおまかせ“ハリウッドの夏木マリ”ファムケ・ヤンセン姐。サバイバルの賞金目当てで屋敷に集まる5人のゲストに、「ゾンバイオ 死霊のしたたり」のジェフリー・コムズ、「アメリカン・ビューティー」のイケイケ不動産王ピーター・ギャラガー、「ラスト・アクション・ヒーロー」(以降 鳴かず飛ばず)のブリジット・ウィルソン、「バーシティ・ブルース」の生クリーム・ヌード娘アリ・ラーター、アーンド黒人の兄ちゃんと通好みのキャスティング。だけど5人のうち「金髪のケバ顔ねえちゃん」が2人、というのはキャスティング・ミスでは? 頭と終わりにマリリン・マンソンがユーリズミックス「スウィート・ドリームス」をおどろおどろしく演ってるのだが、ちょっと笑ってしまった。オープニング・タイトルのデザインがカッコイイ。


グッバイ20世紀(アレクサンダル・ポポフスキ&ダルコ・ミトレフスキ)

マケドニア製の(多分)オムニバス映画>うっかり気を失ってる間に話が変わってた…。前半は2019年。ポスト最終戦争の「マッド・マックス」的な荒野を死ねない男が放浪する。後半は1999年12月31日の夜。葬式中の家庭に気狂いサンタが訪ねて来て一家を皆殺しにする。ラスト、家から出ていくサンタが振りむいて一言「グッバイ20世紀」…って、だから2000年はまだ20世紀だっつーの! ● まあ、ブニュエル的というかマカヴィエフ的というか、ともかくわけわからん映画である。おそらくマケドニアの政治的寓意およびキリスト教的寓意が込められているのだろうが、おれにはちんぷんかんぷんだった。おれはこの映画を語る言葉を持たない。降参します。てゆーか、どこが「マケドニア・ホラー」だよ。こいつぁホラーじゃねえぞ!>アルバトロス。

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マネートレーダー 銀行崩壊(ジェームズ・ディアデン)

学閥廃止で左官屋の息子がイギリス最古の民間銀行ベアリングズに就職する。金も血筋もないが野心だけはある若者はシンガポール証券取引所(サイメックス)のトップ仲買人にのし上がる…。1995年、ベアリングズ銀行が28才の仲買人の不正取引によって破綻した事件を、当の本人の獄中手記に基づいて映画化した作品。ロンドン本社がバブル景気に踊る様子まで描写されているのは、取材なのか創作なのか(頭取なんて、あんまりデリバティブ取引が儲かるもんだから「銀行業務なんて止めちゃおうか?」なんて言うのだ) イギリス人にとっては「労働者階級なんぞを雇うとロクなことがない」という教訓だな。元はと言えば部下の失敗(損失)を庇おうとしたのが始まりなのだ。現地人の部下がミスした時点で切り捨てる冷酷さを持てなかったことがこの若者の命取りだった。自分が左官屋の息子で、オックス=ブリッジのやつらに混じって働くのがどんなことなのか身に沁みて知っていたから。 ● 監督は「コールド・ルーム」「パスカリの島」「死の接吻」のジェームズ・ディアデン。しょせんは「事実の面白さ」であって、映画ならではの「ドラマとしての面白さ」に転じていないうらみが残るものの、主演のユアン・マクレガーのナイーブな好演もあって、最後まで興味が途切れない(←やっぱり「ザ・ビーチ」はこの人で観たかった) さっさと夫を捨てて家に帰っちゃうかと思いきや、最後まで行動を共にする元・同僚の妻に「スカートの翼ひろげて」「真夏の夜の夢」のアンナ・フリエル。 ● 結局この映画を観ても「デリバティブ(金融派生商品)取引」ってのが何なのかはわからなかった。おれには「他人の銭でやってる小豆の先物相場で大穴を開けた」ようにしか見えなかったけど。あと、トドメを刺したのが神戸の地震(による相場の乱れ)だったってのがなんとも。

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クレイジー・イングリッシュ 瘋狂英語(チャン・ユン)

テレビ朝日のプロレス中継でお馴染みの辻義就アナウンサーが中国全土を巡業する。横にはちゃんとスティーブとかゆーインチキ外人まで付いている。広大な中国を東へ西へ。「ゆきゆきて、神軍」の原一男と違って監督のチャン・ユン(張元)は辻アナの内面に土足で踏みこむ気はさらさら無い。映像はただひたすらに無知蒙昧な大衆を前に胡散くさい講釈を垂れてまわる辻アナを映すだけなので30分もすれば飽きてしまう。これはドキュメンタリーというよりは企業PR映画と呼ぶべきだろう。白塗りその子ちゃんが自信たっぷりに「あなたも白くなれる」と断言するCMとか、レオタードを着たおばさんが次から次へと「痩せるって素晴らしい」とまくしたてるエステ会社のビューティ・コンテストの記録映画と同質である。 ● ただ今更ながらに感心したのは中国の広大さと人の多さ。アメリカ以上に、ここは巨大な田舎なのだなあ。もちろん田舎だから「プロレス興行」が受けるのだ(いやマジで中国でプロレス興行をやれば絶対ウケるぜ。“外人”レスラーと日本人レスラーはもちろん悪役ね。垢抜けない中国人レスラーが鬼畜米英&日本鬼に苦しめられながらも最後にはスカッとやっつける。これ絶対、商売になるなあ。橋本とか川田とか高田とか船木とか、いっそ中国へ進出したらどうだ?<映画と関係ありません)

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暗戦 デッドエンド(ジョニー・トー)

おお、これは「太陽を盗んだ男」ではないか! 「ロンゲストナイト 暗花」「ヒーロー・ネバー・ダイ 眞心英雄」に続くジョニー・トー(杜棋峯)+ラウ・チンワン主演の1999年最新作。末期癌の余命いくばくもない身で“ある復讐”を胸に秘め香港警察に72時間のゲームを挑む若者…つまり沢田研二の役にアンディ・ラウ。「血ヘド吐くニヒルな2枚目」なんて役が世界で1番似合う映画スターである(今回、得意技“鼻血ツー”はないけど) アンディに指名されて不承不承ゲームに付き合ううち、いつしか彼に共感を抱くようになる香港警察の凄腕“交渉人”…つまり菅原文太の役が、眉毛男ラウ・チンワン。こちらは余裕で“受け”の演技。ある意味、いま香港で1番のスターはこの人かも。「太陽を盗んだ男」同様あんまり活躍しない池上季美子の役に、「ヒーロー・ネバー・ダイ」ではレオン・ライの恋人だったヨーヨー・モン(蒙嘉彗) ● 「ロンゲストナイト」「ヒーロー・ネバー・ダイ」は極北のバイオレンス描写とウェルメイドなハードボイルド・ミステリーが不可分に結びついた緊張感あふれる傑作だったが、本作ではバイオレンスが後退してる分ちょっとインパクトが弱いか。まあ、それにしても並のレベルの香港映画より面白いことには変わりないんだけど。

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玻璃の城 ガラスのしろ(メイベル・チャン)

なんとも図式的な映画である。「香港に住む香港人の女と、イギリスに留学した香港人の男が、不倫の恋に落ちるが香港返還を前に事故死、その子供たちが中国となった香港で結ばれる」という話。ヒロインの独白曰く「あなたをいちばん愛したのは、あなたがそばに居なかった時」だとさ。 ● 製作・脚本はアレックス・ロー。香港返還という1点シバリのみで あとは100%フィクションである本作よりも、実在の人物だけを使って史実に忠実に描くという制約の下で書かれた「宋家の三姉妹」の方がキャラクターがずっと活き活きとしていたのは何とも皮肉。なんでもメイベル・チャンとアレックス・ローの母校である香港大学の記念講堂が取り壊される事になり「思い出深いキャンパスをフィルムに残したい」との想いから企画されたんだそうだ。まあその程度の映画だ。 ● レオン・ライは「ラヴソング」の百分の1も魅力なし。スー・チーは「ゴージャス」の万分の1も魅力なし。若いカップルに「ジェネックス・コップ」のダニエル・ン(呉彦祖)と日本初お目見えのニコラ・チェン(張桑悦)

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岸和田少年野球団(渡辺武)

「岸和田少年愚連隊」シリーズの第4弾(画面上のタイトルは「岸和田少年愚連隊 野球団」と出る) ココリコが大阪弁しゃべる映画て そないな気色悪いもん観れるか思おとったら、けっこう評判ええし、ほんまは端役やちゅんで観に行ってん。…というわけで、たしかにココリコは“主演”どころか「サイモン・バーチ」のジム・キャリー程度の出番しかなかった。 ● 時は1970年。シリーズ主人公のリイチや小鉄はまだ小学生。働きもせんでろくでもないことばあっか考えてるリイチの親父が思いついたのは少年野球賭博。ガキどもに試合をさせて自分たちはノミ屋で大儲け、という皮算用。かくて、お好み焼き屋の姉ちゃんの“マネージャーさま”の色香に迷ったクソガキ9人あつめて「岸和田ロマンズ」の結成である。さて、本篇の主人公はリイチの仲間の(いつも屁えばっかコイとるからついたアダ名が)ガス。こいつはあんまり野球が上手くないんだが、ある日、学校で体育をいつも見学するので“おんな男”とからかわれてる転校生の東京もんが独りでピッチング練習してるのを見かける。「じぶん上手いやんか野球…」 ● ストーリーの芯となるのは男の子2人の友情。マネージャーさまが叫ぶ「ガンバレ男の子!」という視線が全篇をつらぬいている。1作目の井筒和幸、2・3作目の三池崇史に続いてメガホンを取るのは「チャカ」「なで肩の狐」の渡辺武。じつに丹念に1970年代的な風景を拾ってる(てゆーか、岸和田あたりって普通に撮ってもこんなもん?)浜田毅のカメラにも助けられて、ノスタルジックな快作に仕上がった。音楽はトルステン・ラーチ。 ● 笑福亭松之助の爺ちゃん&伊藤洋三郎の父ちゃんという笑っちゃうくらいサイテーな大人たちが素晴らしい(…映画で見るぶんには。ほんとに自分の親戚がこんなだったらヤダけど) 気風の良いマネージャー、安西ひろこはなかなか健闘。ハゲた頭であくまでも小学生と言いはる「相手チームの卑怯な助っ人」にカズ山本。原作者の中場利一もキッチャテンのおっさん役で顔を見せている。

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地上より何処かで(ウェイン・ワン)

「ここよりどこかで」と読む。わけわからん日本語タイトルというのは数あるが、これだけコンセプトのわからんタイトルってのも珍しいよな。原題が「ANYWHERE BUT HERE」だから「ここよりどこかで」という翻訳自体は間違っていない。だが、なんで「ここ」を「地上」と書く? 誰が見たって「地上より永遠に(ここよりとわに)」を連想するが、スーザン・サランドンとナタリー・ポートマンの「母娘もの」のタイトルを「バート・ランカスターの軍隊告発ドラマ」から引用する必然性がどこにあるのだ?(べつにナタリー・ポートマンが恋人と抱き合って砂浜ゴロゴロするわけでもないぞ) うーん、謎だ>20世紀フォックス宣伝部の頭の中身。 ● で、肝心の中味だが、これはひとえにナタリー・ポートマンの泣き顔を愛でる映画である。なにしろこの娘、5分に1回は泣いてるのだ。2時間弱の映画で20回以上は泣いてたと思われる。いくら母と娘の情愛の物語だっつったって限度ってもんがあるだろよ。「14才から18才くらいまで」の話なのだが、鼻筋の通った美人顔ってこともあって本人がすっかり大人の顔になってしまってるもんだから、とても14才には見えないのは不問にするとしても、だ。監督は「チャイニーズ・ボックス」「スモーク」「ジョイ・ラック・クラブ」のウェイン・ワン。おれが母でも娘でもないことを差し引いても、ちょっとこれは「おセンチ」が過ぎるでしょう。 ● 娘に毛嫌いされてる下品で陽気な母ちゃんにスーザン・サランドン。田舎に残してきた親友役で「アメリカン・ビューティー」のソーラ・バーチがカメオ出演。「音楽:ダニー・エルフマン」ってクレジットが出るんだけど既成曲以外に音楽なんて付いてたか?

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月(君塚匠)

「激しい季節」「おしまいの日。」の君塚匠の新作。浅草ロック座(劇中ではロマン座)で人気ストリッパーをしている母と、田舎で祖母に育てられた18才の娘の、愛憎を描く人情ドラマ。いや、揶揄して言ってるんじゃなくて、君塚匠は本気で「古いタイプの人情劇」を目指しており、その意図はなかば成功している。「母娘の和解」の話ではあるが、娘が母の愛情を理解して「赦す」のではなくて、最後まで母であるよりも女であった母を「1人の女として認める」という決着のつけ方が心地よい。(おそらくは限られた予算の中で)美術スタッフがきっちりとした仕事をしてるのも好感が持てる。 ● 「浅草の月」と呼ばれた人気ストリッパーに黒木瞳。たしかにこの歳でこれだけキレイな踊り子さんがいたら、おれも見に行っちゃうね、きっと。今回はセミヌードまでだが宝塚仕込みの耽美な踊りを見せてくれる。あと、ステージをカットで割らずに撮ってるのはサスガわかってらっしゃる>前田米造さん@撮影。娘役に今村理恵(…って誰?「モスラ」の小人とは違うの?…違う? ああそう。母親の秋川リサが娘の体を奪ってしまう楳図かずおホラー「洗礼」の娘役?…記憶にないなあ) まだまだ演技とか固いのだけど、ラストでは初々しいステージを披露してくれるので許す。黒木瞳の「いいヒト」である寿司屋の三代目のダメ男に、人情劇ならおまかせの中村梅雀。司法試験を目指す照明係に加藤晴彦。そして問題はロック座の支配人・萩本欽一。まあ、怖れていたほどには臭くはないんだけど、閉館を考えてるストリップ小屋の席亭としては若すぎるのでは。 ● さて、しかし本作を手放しで賞賛できないのは、とても大切な部分をないがしろにしているからだ。たとえば、黒木瞳がこっそりとステージに別れを告げる場面で、私服でハイヒールのまま舞台に上がるのだが、ストリップのステージが土足厳禁なのは常識だろう。そこは、あんたが裸で尻をおろす場所なんだよ。また、今村理恵がいきなりピンチヒッターで照明係や、最後にはステージまでこなしてしまうのには唖然とする。ストリップはただ脱ぎゃいいってもんじゃないのだ(そういう人も少なくないけど) いくら毎日 母の踊りを見てたからって、実際に踊ったことのない人間がわずか半日の練習でどうにかなるものではない。これではストリップの世界を描きながらストリップに対する敬意が欠けていると思われても仕方ないよな。

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ドグマ(ケビン・スミス)

監督・脚本・出演:ケビン・スミス 出演:リンダ・フィオレンティーノ アラン・リックマン
|ベン・アフレック マット・デイモン|サルマ・ハエック クリス・ロック|
ジェイソン・ミューズ ジェイソン・リー ジョージ・カーリン|アラニス・モリセット
オリジナリティあふれる大傑作。いやまさか感動する映画だとは思わなかった。カソリックの坊さん連中(と、劇中で反キリスト扱いされた製作会社ミラマックスの親会社ディズニーのビジネスエリートたち)が激怒するのはよくわかるが、これは信仰についての真摯な問いかけの映画であり、これほど宗教的な映画はめったにない。でも心配はご無用…キリスト教に関する事前知識などはいっさい必要ない。最低限、天使と悪魔のどっちが「いいもん」で「わるもん」かってのと、悪魔がもともとは天使だったってことぐらい知ってれば充分。つまり誰でもOKってこと(だよね?) ま、詳しい人なら、どこまでが「引用」でどこからが「パロディ」なのかわかるんだろうが、そんなことわからんでも、このハチャメチャで感動的なアクション・コメディを楽しむには何の差しさわりもない(てゆーか、おれも1つだけ知りたいんだけど、…聖書には、うんこ怪獣は出てくるの?) ● この映画、公開前からカソリックがクレームをつけてミラマックスが配給権を他社に売り渡したという経緯があるので、本篇はいきなり「お詫びの字幕」から始まる。「これはカソリックをからかった映画ではありません云々」と出て、次が「創造主は卓越したユーモアをお持ちなのです。たとえばカモノハシを御覧なさい」と来て、すぐ「カモノハシを愛する方たちにお詫びします云々」…で、「やぶにらみなものの見方はやめましょう」。この後ようやく映画が始まるのだが、最初のクレジットがいきなり「やぶにらみ(VIEW ASKEW)プロダクション製作」だ。ぜんぜん悪いと思ってないじゃん>こいつら。あと、エンドロールも最後まで観ること。 ● キャストは(多いのでいちいち名前は挙げないが)総じて好演&ハマリ役。ケビン・スミス自身もいつもどおりサイレント・ボブに扮して、いつも以上に良い所を持って行ってる。ニュージャージーの教会の神父に扮したジョージ・カーリンが(口をもぐもぐさせて台詞を喋るあたりが)室田日出男にそっくり。 ● 疑問なんだけど、人間に戻って死んだ○○は天国へ行かないの? 「ひと殺し」だから地獄落ち? でも、それだったら、そもそも最初っから2人とも撃ち殺して地獄へ落とせばいいじゃんか。なぜなぜ? ● 大天使アラン・リックマンがイギリス訛りの英語でなげく名台詞「人間は映画化されてない事柄はちっとも覚えようとしない」・・・いや、仰有るとおり。おれなんか人生の中で必要なことの7割は映画から学んだものな。

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レインディア・ゲーム(ジョン・フランケンハイマー)

「レインディア・ゲーム」と「ドグマ」・・・デンゼル・ワシントン2本立てに続いて、東急チェーンが贈るベン・アフレック2本立て。うーん、マニアック(案の定、両方ともガラガラ) ● 観てて退屈するわけじゃなし、決して悪い映画ではないが、うーん…、これはジョン・フランケンハイマーに撮らせる必然性がないなあ。1970年代アクション映画の復活を高らかに宣言してオールドファン(>おれ)を狂喜させた「RONIN」にあった「男同士の連帯感」や「戦いの高揚感」が、この「レインディア・ゲーム」には欠けている。「隣人は静かに笑う」のアーレン・クルーガー脚本なので、およそ有り得ない展開で観客を驚かせることにのみ血道をあげて、登場人物の心理は置き去りにされる。その割りには「疑惑の主人公の正体は刑務所に問い合わせれば一発でわかることなのに、犯人グループは何故そうしないのか」とか「死体の頭数が揃えばOKなので主人公を生かしておく必然性がない」といった、観客が当然 感じるであろう疑問へのフォローが無い。 ● ベン・アフレックは柄にハマると活きるけど演技はド下手だということがよおくわかった。シャーリーズ・セロンはステレオタイプな役だが魅力的。必然性のまったくない「乳ぽろり」もサービスしてくれるし:) そしてゲイリー・シニーズ! 筋骨隆々なボディで水を得た魚のように悪役を演じている。やはり「ミッション・トゥ・マーズ」なんかより、こーゆー役のほうが似合うなあ。いまやこの人が「二十日鼠と人間」の監督・主演でデビューした「演劇界の鬼才」だった事なんか誰も覚えちゃいないのでは? ● しかし「レインディア・ゲーム」ってどういう意味なんだ?(劇中でゲイリー・シニーズがベン・アフレックに「2度とフザけたマネをするなよ」と言うのが、たしか「DON'T PLAY REINDEER GAMES.」と言ってたような)

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ブラウンズ・レクイエム(ジェイソン・フリーランド)

「L.A.コンフィデンシャル」そっくりのサックスがむせび泣く。暗闇に踊る炎。ファーストカットは場末のトップレス・バー。カメラはカウンターに座ってグラスを傾ける失意の男にスローで寄っていく。しわがれ声のナレーションが事件を回想する「そう、あれは1ヶ月半前のことだった…」・・・もう笑っちゃうほど典型的なフィルム・ノワールの幕開けである。主演のマイケル・ルーカーがアソシエイト・プロデューサーも兼ねていて、まあ、役者なら一度は憧れるんでしょうな>私立探偵役。「LAの片隅。依頼人は太ったキャディ、その妹は暗黒街のボスの愛人、やがて、事件は意外な男に辿りつく…」とコピーにあるとおり、ストーリーもいかにも。監督・脚本は新人ジェイソン・フリーランド。ジェームズ・エルロイの処女作「レクイエム」を脚色しているのだが、映画として見た場合、ファム・ファタルが後景に霞んでしまって探偵と絡んでこないのが致命的。暴かれた事件が探偵自身の物語として響いてこないのも弱い。この探偵、終幕では「すべてを失ってしまった…」などとナルシスティックに酒浸っておるのだが、復讐を果たして大金を手にし、そのうえ厄介者が死んでくれたんだから万々歳じゃねえか? ● 探偵事務所の看板を掲げているものの、ふだんは未払いの車の回収屋、つまり「レポ・マン」をやって食ってる主人公にマイケル・ルーカー。「でぶ犬」という名の暑っ苦しくて汗臭い太ったキャディに扮したウィリアム・サッソが出色の存在感。ファム・ファタルになり損ねてる17才のヒロインに(「クルーエル・インテンションズ」でも高校生役だった撮影時25才の)セルマ・ブレア。他にもブライオン・ジェームズやブラッド・ダリフと、いい面子が揃ってるんだがなあ…。

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白い刻印(ポール・シュレーダー)

ジェームズ・コバーンのクソ親父にニック・ノルティのゲス息子、んでもって弟がウィレム・デフォーという、世にもおぞましい一家による「ガマガエルの子どもはしょせんガマガエル」という身も蓋もあったもんじゃない話。脚本・演出が「タクシー・ドライバー」「救命士」のポール・シュレーダーなので、例によって地獄巡りの話である。力はあるので最後まで観せられてしまうが、何が悲しゅうてこんな辛気臭い話に付き合わにゃならんのだ。いや辛い話だっていいけど、もう少しエンタテインメントにしてよ。★1つにしようかとも思ったが、この映画、もともとのタイトルが「AFFLICTION(苦痛をもたらすもの)」…うーん、ここまで正直に自己申告されたんじゃ、観に行ったおれも悪いか。 ● 唯一の救いはニック・ノルティの彼女を演じるシシー・スペイセク。…てゆーか、おれはシシー・スペイセクにセックス・アピールを感じるという特殊な性向なので(火暴)

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ザ・ハリケーン(ノーマン・ジュイソン)

正直言って、デンゼル・ワシントンの正義ブリッコは好きじゃない。この人の映画では「天使の贈りもの」がいちばん好きだ、なんてのはデンゼル ファンとしては邪道だろう<だから、ファンじゃないんだってば。だが、そんなおれから観ても「ザ・ハリケーン」のデンゼル・ワシントンにオスカーを与えないアカデミー賞はクソだ。これはノーマン・ジュイソン監督+デンゼル・ワシントン主演という組み合わせから望みうる範囲で最良の成果をあげている作品で、おそらくデンゼル・ワシントンのキャリアの頂点だろう。ここであげとかないからポール・ニューマンやアル・パチーノみたいに「これで貰ったってあんまり嬉しくないだろう」てな作品で罪滅ぼしをするはめになるのだ。 ● デンゼル・ワシントン最大の弱点は「モラル的に立派な人」というキャラクター・イメージにある。スラム出身の黒人ボクサーなんだから、前半はもっとヤンチャな暴れん坊にしてくれないと、後半でガンジーのような風貌/内面になる展開が活きてこないと思うんだが。「こんな立派な人がひと殺しであるはずがない」という主張は、それはそれで説得力を持っているが、おれはどちらかと言えば(たとえば)オリバー・ストーン+エディ・マーフィーで「どんなにいかがわしい人物でも、それと殺人罪とは別」という映画のほうが好みだ。 ● 病気でもしてたのか、しばらく姿を見なかったロッド・スタイガー(当年とって75才)がこのところ「迷宮のレンブラント」「エンド・オブ・デイズ」そして本作での連邦裁判事と抜群の存在感を発揮しているのが嬉しい。獄中のハリケーン・カーターを常に「ミスター・カーター」と敬称で呼ぶ看守長クランシー・ブラウンが好演。善意のかたまりのような3Pカナダ人カップルを演じるのが「クラッシュ」の変態性欲妻デボラ・カーラ・アンガー&「スクリーム」の偏執狂リーヴ・シュライバー&「ハムナプトラ」の頼りない兄ジョン・ハンナと、ちっとも善人顔じゃないのが面白い。 ● 劇中ではダイジェストで流れるボブ・ディラン「ハリケーン」の歌詞を全訳してみた。

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アメリカン・パイ(ポール・ウェイツ)

「高校3年生の童貞4人組がプロムまでに童貞卒業を誓って、あの手この手で童貞卒業作戦を繰り広げる」というベタベタなセックス・コメディ(←“ベタベタ”は“セックス”じゃなくて“コメディ”にかかってるので。念の為) かなり下品なギャグもあるのだが、ええ乳を見せるためだけに出てくるシャノン・エリザベスまで最後にきちんとフォローするという、捨てキャラを作らない脚本が気持ちよい後味を生んでいる。キャラクターの描き分けもきちんと出来てるし、「いろいろあったけど、格好悪い思いもしたけれど、それもみんなかけがえのないひととき」という終わり方にも好感が持てる。これであと、ミーナ・スバーリとタラ・リードほか数名が乳出してくれてたら言うことなかったのに。予告篇に入ってた「ミセス・ロビンソンの性の手解き」が本篇になかったのは残念。それと、フットボールのスター・プレイヤーであれだけハンサムなクリス・クラインが高3まで童貞ってのはちょっとリアリティないような。主役のユダヤ人少年の、息子思いの理解あるいいお父さんなんだけど、決まってバツの悪いときにばかり邪魔をするお父さん、ユージーン・レヴィが絶品。

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シーズ・オール・ザット(ロバート・イスコーヴ)

うーん…。期待してたのに。「学園一のハンサムで秀才でスポーツマンな生徒会長が、美術部のアングラでネクラなメガネっ娘を6週間でプロムクイーンに仕立てる賭けをする」というベタなストーリーだからこそ「キャラクターの心境の変化をキチンと順を追って描く」という基本が大事なのだ。だが、本作のR.リー・フレミングJr.という29才の脚本家は「ハンサムが賭けの対象でしかなかったネクラ娘に惹かれるきっかけとなるエピソード」も「綺麗に着飾ったりメイクしたりする行為に価値観を見出していなかったネクラ娘が、なぜメガネをコンタクトに変えてメイクをするようになったかという理由」も描写しない。それは手抜きというものだ。演出のロバート・イスコーヴはTVのベテラン監督のようだが、そんな基本も判らないようでは失格。両名とも、もっかい「プリティ・イン・ピンク」を観て出なおして来い。 ● ヒロインのレイチェル・リー・クックはグラビア向き。つまり、動くとあんまり良くない。てゆーか、ジュリエット・ルイスに似てない?(しかも太りそうだし) フレディ・プリンツJr.は役割をきっちり果たしている。フレディの妹に、すっかり可愛いティーンになった「ピアノ・レッスン」のアンナ・パキンちゃん。でもほとんど出番なし。てゆーか、こんな事やってていいのか?これがあなたのやりたい事なのか?>アンナちゃん。「スクリーム」のマシュー・リラードがまたまたキレた怪演。よく役が続くよなあ、あれだけ強いキャラしてて。いつも悪役か損な役回りばっかりのケビン・ポラックが、ヒロインのプール掃除屋のお父ちゃんに扮して、いい味を出してる。

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アシュラ(ラーフル・ラウェイル)

おお、シャー・ルク・カーンなのに東映だ。それも「女囚701号 さそり」とか「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」とかの情念ギトギトの1970年代もの。シャー・ルクが演じるのはいつものキャラクター。すなわち、1人の女を全身全霊で愛しぬく男。ただし本作の場合、ヒロインがシャー・ルクの愛を受け入れない。彼女には愛するフィアンセがいるのだ。だが、シャー・ルクはご存知のように「あきらめる」という言葉を知らない男だ。すると、どうなるか。なんとこの映画ではシャー・ルク・カーンは史上最恐の歌って踊るストーカーと化すのだ。 ● シャー・ルク演じる金持ちのドラ息子はスチュワーデス(→人妻→母親)のヒロインにありとあらゆる極悪非道の限りを尽くす。だがレイプだけはしない。ヒロインは「こんな事なら一発ヤッて消えてくれ」ってほど酷い目に遭うのだが、なぜか躯だけは奪われないのだ。それがシャー・ルクのキャラクターゆえなのか、インド男子としての矜持なのか、はたまたかの国のモラル・コードのせいかは判らんが。そこまでしてシャー・ルクの望みはただひとつ「ただ一言でいい。愛してるといってくれ」・・・あくまでも愛に生きる男シャー・ルクであった。 ● さて、ストーカーものがどう「さそり」になるのか? 焦ってはいけない。東映ならヒロイン受難篇1時間、血の復讐篇30分で作るところだが、これはインド映画。受難が延々2時間で、復讐1時間弱という配分なのだ(おれなんか生理的に「お、ここでエンドマーク」と思ったら、まだインターミッションで思いきり腰がクダけた) ● 壮絶な人生を送るヒロイン、マードゥリ・ディクシトはアーリア人顔の美人。さすがインド映画、「さそり」でもちゃんと歌と踊りはある。そりゃこんな女に薄物1枚で腰くねくね踊られたら植物人間も動きだすっちゅうねん。ヒロインを苛める女刑務所長役の女優がダイアン・ソーン以来の由緒正しき頬骨顔でちょっとムラムラっと来た(火暴) 一連の千葉真一/志保美悦子ものが好きな方にもお勧め。2時間50分。1999年の東京ファンタで「アンジャーム 復讐の女神」のタイトルで上映された。

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グラディエーター(リドリー・スコット)

なるほど史劇スペクタクルの監督にリドリー・スコットってのは良い人選だ。費用がかかりすぎるってんで絶えていたジャンルがCG時代の恩恵で数十年ぶりに復活した。とりあえずそれだけで大満足である。下のほうでいろいろと言ってはいるが気にしないでくれ:) 大スクリーンで観るに足る超大作。4つ(最後の ★ は映画の完成3週間前の日曜日にパブでビールを飲んでてコロッと逝っちまったというオリバー・リードに) ● お話は娯楽時代劇。ドリームワークス子飼いの複数の脚本家たちが精一杯シェイクスピアを気取った台詞を書いている。てゆーか「暗殺された父の復讐」というテーマは「ハムレット」を多分に意識してるのだろう。ハムレット=クローディアス=ガートルードという人物配置も、「追放されたハムレットが宮廷に舞い戻って、不正な手段で玉座についた仇を倒す」という展開も一緒だし、遺骸を高く掲げて運んでいく幕切れはまさに「ハムレット」だ。 ● ただ、娯楽時代劇としてはドラマにメリハリが欠けている。なんたってラッセル・クロウをマイホーム・パパにしちゃったのはマズい。いや百歩譲って普段はマイホーム・パパだとしても、闘いのときはもっと(まわりが怖れるような)猛々しい性格にしてくれないと。で、とーぜん憎っくき皇帝に捕まって地下牢で鞭打たれ、低く喘いでもらわにゃ。もちろん、横恋慕してる皇帝の姉コニー・ニールセンはこっそり地下牢に降りてってラッセル・クロウの胸板の汗をペロリとしてくんなきゃ(火暴) 仇役の皇帝ホアキン・フェニックスが妙に同情をさそうキャラ設定なのも考えもの。このほうが現代的なのかもしらんが、娯楽時代劇なんだから悪役は徹底的に憎らしくあってくれないと。小姓のカマを掘るとか、裏切り者の元老院議員を虎に喰わせるとかしてくんないと。娯楽時代劇なんだからストーリー、とくにエンディングが史実を無視してるのはぜんぜんOK。ただし、あーゆー大法螺を吹くなら「柳生一族の陰謀」ぐらいの外連が必要でしょ。ラッセル・クロウには「夢じゃ夢じゃ!夢でござある」ぐらいは叫んでいただかないと(クライマックスの決闘にいどむ選手がコロセウムにセリで上がってくのは外連演出の最たるもの) あと娯楽時代劇としては(←しつこい)カットを割りすぎてチャンバラの興奮が得られないのはかなり問題だが、まあリドリー・スコットに「カットを割るな」と言うほうが無理か。 ● この映画が成功した大きな要因はキャスティングにある。(いまどきのツルンとした顔ではなく)1970年代風のゴツゴツした顔の男たちが画面を占領している。たとえば、かつては自分も剣闘士だった興行師を演じるオリバー・リード。たとえば、年老いた賢帝に扮するリチャード・ハリス。CGにも豪華なセットにも華やかな衣裳にも負けぬ存在感を持つみごとな「顔」である。そして主役のラッセル・クロウがまた素晴らしい。スティーブ・マックィーン以来ひさびさに現われた汗と埃と傷の似合う男臭いスター。身体にマオリ族の血が流れてるという充たされぬ荒ぶる魂。渋谷のデオドラント娘どもには好かれんだろうが、おれはだんぜん支持だ。そして仇役の皇帝コモドゥスに「誘う女」「Uターン」「8mm」と特異な存在感を発揮しつづけてきて、ついに本作でブレイクしたホアキン・フェニックス! ラッセル・クロウに想いを寄せる皇帝の姉ルッシラ(子連れの未亡人)に「ディアボロス 悪魔の扉」「ソルジャー」の北欧出身のクール・ビューティ、コニー・ニールセン(まさかブリジットと親戚じゃないよな) その子どもルシアス役のスペンサー・トリート・クラーク君が可愛い。ケネス・ブラナー版「ハムレット」でクローディアスを演じていたデレク・ジャコビが、ローマをふたたび共和政に戻そうと画策する元老院議員を演じている。 ● この映画、「製作費1億ドル(百億円)」と喧伝されているので、なんでもかんでもCGで描いちゃってるのかというと、そんなことはなくて、じつはイギリスの森林地帯→モロッコ→マルタ島と大ロケーションを敢行していて、最後のマルタ島には古代ローマ市街や5万人の観客を収容する円形闘技場“コロセウム”の、「イントレランス」もビックリという巨大セットを組んでいる。そりゃかかるわな>1億ドル。そこに「スター・ウォーズ」方式で「コロセウムの上のほう」とか「森の奥のほう」とか「うじゃうじゃいるコロセウムの観客」とか「うじゃうじゃいるローマ帝国の兵士たち」とか、あと「襲いかかる虎」なんかをCGで描き足しているわけだが、はっきり言ってCGは出来が悪い。担当はロンドンのミル・フィルムという工房だが、ILMに比べると数段おちる。 ● しかし、これなら「プリンス・オブ・エジプト」(てゆーか「十戒」)も実写で作れたんじゃないか?>ドリームワークス。

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インサイダー(マイケル・マン)

脚本:エリック・ロス&マイケル・マン 撮影:ダンテ・スピノッティ
録音:リー・オーロフ 整音:アンディ・ネルソン&ダグ・ヘンフィル
編集:ウィリアム・ゴールデンバーグ&ポール・ルーベル
侠気監督マイケル・マンが「L.A.コンフィデンシャル」「グラディエーター」のラッセル・クロウと、アル・パチーノを主演に迎えて放つ仁侠映画の傑作。言っとくが「煙草会社とメディアの欺瞞を断罪した社会派の告発ドラマ」などでは断じてない。これは闘いつづけることを自らの意思で選択した2人の男のドラマである。 ● マイケル・マンが歌いつづけるのは男たちの孤独な闘いの歌だ。前作「ヒート」で、ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノが闘いつづけたのは「彼らの職業が泥棒/刑事だったから」ではない。同様に本篇の主役であるタバコ会社の元重役とニュース番組のディレクターは「科学者としての責任感」だの「ジャーナリストとしての使命感」だのといったお題目のために闘ってるんじゃない。正義感だとか男の誇りとか信念なんてキレイゴトでもない。それは男の馬鹿な意地だ。現に元重役の女房はプレッシャーと恐怖に堪えきれず、子どもを連れて出て行ってしまう。そりゃそうだろう。彼女の亭主は、とてもじゃないが間尺に合わないことをしてるのだから。よく英語で「マイ・ウェイで行くか、それともハード・ウェイか」なんて言いまわしがあるが、彼らは何の因果かハード・ウェイを選んでしまった男たちなのだ。 ● タバコ会社ブラウン&ウィリアムソンの元重役にラッセル・クロウ。実年齢より20も年上の役を体重を20キロ増やして白髪に染めての静かなる名演。一見「L.A.コンフィデンシャル」とは正反対の役のようだが、短気でキレやすいキャラは踏襲されている。一方のCBS「60ミニッツ」の契約ディレクターにアル・パチーノ。「フェイク」に続いてアクターズ・スタジオ大衆演劇のエキスがみごとに溶け合った熱演をみせる。これで今年、還暦だ。信じられん。カッコ良すぎるという批判があるようだが、だってカッコ良い役なんだから仕方ない。アメリカ人と見れば敵と思うような中東の某国に乗り込んでは、イスラム原理主義者のシークにマイクを突きつけて「あんたはテロリストか」と訊けるような連中だぜ。その質問を発する「60ミニッツ」のキャスター、マイク・ウォーレスにクリストファー・プラマー。78才(!)の誇り高きジャーナリストを演じて、主役の2人と同等の存在感をみせる。 ● ラッセル・クロウの妻に(「ヒート」ではアル・パチーノの妻だった)ダイアン・ヴェノーラ。下の娘に(おお「アンドリュー NDR114」のリトル・ミスこと)ハリー・ケイト・アンゼンバーグちゃん。CBS経営陣の嫌味なタカビー女がハマり役、ジーナ・ガーション。タバコ会社の社長を遠藤辰雄のようなねちっこさで演じるのはマイケル・ガンボン。コラムニストにして大衆新聞NYポストの編集長までやったピート・ハミルが、高級紙NYタイムスの記者を演じてるのが可笑しい。 ● 技術的にも、この映画は撮影・編集・録音の芸術品である。ショットにみなぎる力を見よ。今のアメリカ映画界でこれだけ力のある画を撮れる監督が他にいるか(マイケル・マンのような完全主義者と仕事するのは大変だろうなあ…) 2時間40分。たいがいの場合、長い映画が長いのは脚本と演出が下手なだけなのだが、「インサイダー」の2時間40分はその1分1秒にいたるまで価値がある。必見。(…ただしダレ場のまったくない映画なので、体調の悪いとき/体力が弱ってるときに観ると死ぬと思うぞ)

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ネフュー(ユージーン・ブレイディ)

東京は葛飾柴又、帝釈天の参道で、亡くなった叔父から継いだ団子屋を営む独り暮しの老人・車寅次郎のもとに1通の手紙が届く。それは20年前に家を出たきり消息不明だった妹・さくらからのものだった。癌で死の床にあるという妹からの最期の頼み、それは寅次郎にとっては甥にあたる「満男という17才の1人息子の面倒を見てほしい」というものだった。だが出迎えに行った寅次郎の前に京成電車から降り立ったのは大阪弁をしゃべる甥っ子だった…。本人は気にしていないようだが寅次郎にとって「大阪弁の甥っ子」などみっともなくて仕方がない。心配はそれだけに留まらない。満男はよりにもよって、駅前で居酒屋を営む男やもめ・の1人娘・後藤久美子(役名失念)と付き合っているらしい。寅次郎の脳裏に20年前の記憶がよみがえる。さくらが家を飛び出したのは、博との交際を寅次郎に反対されてのことだったのだ…。 ● 「甥っ子」と題されたアイルランド製の人情ドラマ。かなり素人くさい映画だが、下町の人情と荒川土手の自然が目に心地よい。博を演じているピアース・ブロスナンが自分で起ち上げたプロダクション、その名も「アイリッシュ・ドリームタイム」の第1回作品。今まであまりアイリッシュ臭を感じさせなかったブロスナンだが「アイルランド人とスコットランド人は例外なく愛国者」というセオリーをまたもや裏付ける結果となった。寅次郎を演じたアイルランドの名優ドナル・マッカンの遺作でもある。黒人の甥っ子にヒル・ハーパー。メアリー・エリザベス・マストラントニオ似のヒロインにアイリッシュ・マッグキン。 ● なんかもうビデオが出てるらしい。

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DRUG GARDEN(広田レオナ)[ビデオ上映]

「エロス」をテーマとする低予算ビデオ撮り5本連作“MOVIE STORM”の4本目。個性派女優・広田レオナの初監督。広田レオナ・36才や旦那の吹越満(ex.ワハハ本舗)をはじめ全員が実名&実キャラで登場し「実際に広田レオナが住んでる家でロケした」というからドキュメンタリーっぽいかというと、画面はハイキーにトバされ、家(日本家屋)はキッチュにデコレーションされ、さらにこの家には男女モデル各1、ドラッグ・クイーンx3まで同居してるのだから、いくら何でも実録ではありえない(よね?)(あまりにもステレオタイプな表現で我ながら恥ずかしいが)女性ならではの感性で生理のままに描いた、「不安」とか「孤独」とかについてのフィクショナル・ドキュメンタリー。「脚本」とも「構成」ともクレジットはされないが、それなりのちゃんとしたストーリーは存在する。タッチとしては、NYのアート系インディー映画という感じか。当然「エッチな映画」にはならないが、エロスとタナトスの「エロス」と解釈すれば、連作のテーマから外れてるわけでもない。しかし何で最後が(主役の話じゃなくて)ドラッグクイーン・コンテストなんだ? ビデオ作品なのになぜかビスタサイズで作られている。 ● この連作企画、最後の5本目は林海象の「LOST ANGELES」なんだが、「原田芳雄の息子がバンド仲間とアメリカ大陸を旅するロードムービー」ってどこが「エロス」なんだよ! 詐欺じゃねえか。てゆーか、死ぬほどつまんなそうだし。ちくしょう、おれなんか5回券買っちゃったぜ。金返せ!>ギャガ。

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エド tv(ロン・ハワード)

脚本:ローウェル・ガンツ&ババルー・マンデル 音楽:ランディ・エデルマン
一般人の日常生活を24時間ライブ中継するテレビ番組の主役に抜擢された男を主人公とするコメディ…と言うと、まんま「トゥルーマン・ショー」みたいだが観た印象はガラリと違う。あちらは完全なSFだったが、こちらはあくまでリアル。いま現在を舞台にした「スプラッシュ」「バックマン家の人々」「ザ・ペーパー」に連なるロン・ハワードお得意の群像コメディである。「TVの暴力とプライバシー」だの「有名病シンドローム」だのといったお題目はあくまで表層的な素材であって、テーマはロン・ハワードだからもちろん「人間って素晴らしい」だ。「大変な事態に直面した人たちが頑張って何とかする」というストーリーラインも毎度おなじみ・・・などと書くと馬鹿にしてるように聞こえるかもしれないが、いやいや おれはロン・ハワードの映画が大好きなのである。フランク・キャプラの良き伝統をいちばん現在に伝えている人だと思う。なんたって この人の映画は後味が良い。映画を観て暖かい気持ちになりたい人にお勧めする。 ● 31才にもなってビデオ屋の店員という、いわばアダム・サンドラーみたいな主人公のエドに(“有能な新進弁護士”とかより絶対こっちが地に違いない)マシュー・マコノヒー。そのホワイトトラッシュなマッチョ兄貴にウッディ・ハレルソン(100%地のまんま) 兄貴を振って主人公のカノジョとなるヒロインに(TV「ダーマ&グレッグ」のベリー・ベリー・キュートな)ジェナ・エルフマン<この人、髪を下ろすとレニー・ゼルウィガー/ジョーイ・ローレン・アダムス路線だったりするのな。「トゥルーマン・ショー」のエド・ハリスと対照的にとっても人間的な番組プロデューサーにエレン・デジェネアス。テレビ局のいけずうずうしい社長に(「パーフェクト・カップル」「ストーリー・オブ・ラブ」と近ごろ監督より俳優業のほうが好調な)ロブ・ライナー。「売名欲から主人公を誘惑するモデル女」というお約束のキャラをきっちりこなしてみせるのはエリザベス・ハーレー@ザ・プロフェッショナル。いや確かにこの女だったらテレビに映っててもヤッちゃうね、おれも(断言)

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キャリー(ブライアン・デ・パルマ)

しばらく“お藏”になっていた「キャリー2」の公開が何より嬉しいのは(たとえビデオ/DVD商売のために権利を再取得した“ついで”であっても)「キャリー」(1976)をシネマミラノで同時レイトショー公開してくれたこと。ほんとに偉いぞ>ギャガ&ムービー・テレビジョン。この調子で「ジョーズ」25周年版の公開とかしてくれないものか>UIP。「フリントストーン2」やるより絶対、客が入るぞ。 ● さて、20年ぶりにスクリーンで相見えた「キャリー」は、いきなりナンシー・アレンのヘアヌードから始まった(火暴) あの当時のフィルムはどうなってたのかね?(ボカしてた?トリミングしてた?)…って、まあそれは措いといて、いちばん感心したのはホラー映画における落差の取り方の見事さである。ヒロインの日常の〈不幸〉を徹底して描いているから、プロム・パーティでの目がまわるほどの〈幸福〉に「良かったねえ」と思わずもらい泣きしそうになる。だからこそ、その直後の〈地獄〉が切ない。観客はヒロインと完全に同調して「殺せ、殺せえ!もっと殺せえ!」と心の中で絶叫するのである(おれだけ?) ピノ・ドナジオの美しい旋律があるからこそ「サイコ」ばりの弦の悲鳴にショック死しそうになる。それまでのパイパー・ローリーの狂信ぶりの恐ろしさが身に沁みているからこそ最期の顔があんなにも美しいのだ。そして落差を際立たせるために余分な脇筋(わきすじ)はいっさい排除して、一直線のシンプルなストーリーを組み立てている。これらはすべてホラーの基本だが、デ・パルマはその基本を鮮やかにクリアしている。 ● デ・パルマの演出だけなら「良く出来たB級ホラー」で終わっていたかもしれない「キャリー」を、普遍的な青春映画の傑作に押し上げたのが、シシー・スペイセクの(B級ホラーの世界には似つかわしくないほどの)演技における天賦の才である。母親に責められて泣き叫ぶキャリー。先生に鏡に映った自分の顔を見せられて「ほら本当のあなたは美しいんだ」と言われたときの嬉しそうな顔。プロムに行かせまいとする母親を断固とした態度でベッドに縛りつける時の恐怖の予感。プロムでの“まるで火星に行ったような”つかのまの幸せ。プロムクイーンに選ばれて花道を往くとき、こぼれ落ちる涙。そして豚の血を全身に浴びて顔の造作の見分けもつかないほどの中でギョロリと光る瞳の力。…スティーブン・キングが百の言葉を費やして表したティーンのさまざまな感情を、シシー・スペイセクは一瞬の表情で見事に表現してしまう。必見。…ただしビデオ/DVDを借りる/買うときは必ず「ワイドスクリーン版」を借りる/買うこと(クライマックスのスプリットスクリーン演出がトリミング版では台無しなので)

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キャリー2(カット・シーア)

そりゃ前作に比べたら見劣りするのは止むを得んが、なかなかどうして「キャリー2」も学園ホラーものとして退屈しない出来だった。ただ落差の取り方が物足りない=クライマックスにおけるヒロインの可哀想度が足りないので、その後の惨劇が「あんた何もそこまでしなくても」と思ってしまうのはちょっと。時おり画面がモノクロになるのだが、その使い方に規則性がなく支離滅裂なのもなんだか。キャリーは処女のまま死んでしまったけど、本作のヒロインは初体験を惨劇の前夜に済ませる。それなのにせっかくの「念動力者のセックスシーン」を描写しないのは勿体ないでしょ(「クロスファイア」のキスシーンで“雪がジュッと蒸発しちゃう”みたいなやつね) てゆーか「落差の法則」から言えばここでヒロインの〈幸福〉をたっぷりと描いておいてこそ、その同じシーンがヒロインを〈地獄〉へたたき落とす残酷さが映えるってもんじゃないかね。 ● 23年ぶりの続篇の言訳のつもりか、やたらと前作との関連性を持たせようとしてるけどストーリー的には「続篇」じゃなくて「リメイク」なんだから「超能力少女の悲劇」と「学園ホラー」だけクリアしてれば充分だと思うが。「本作のヒロインとキャリーが○○○○だった」なんてのは、単純に「同じ高校に20年ぶりに超能力少女が現われる」って以上に無理のある設定だと思うけど。あと、製作者が同じだからってやたらと「キャリー」のシーンを挿入するのは間違い。だってその度に“ああ「キャリー」は傑作だった”と思ってしまうじゃないか。前作の「講堂の焼け跡」を出したのは良かった。 ● ヒロインの(キャリーならぬ)レイチェルには新人エミリー・バーグル。愛嬌のあるタヌキ顔で「怒らせると恐いゴス少女」には見えないのがツラい。クライマックスの(まったく論理的ではない)特殊メイクはカッコ良かったけど。前作で辛くも生き残った(が、えらく老けてしまった)エイミー・アーヴィングが相変わらず迷惑なおせっかいを焼いてヒロインを死に至らしめる。今をときめくミーナ・スバーリがヒラメ顔の女友達の役で出ている。演出は「ストリッパー殺人事件」「ボディヒート」の職人監督(カット・シー・ルーベン改め)カット・シーア<女性なんですと。

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スパイダーズ(ゲイリー・ジョーンズ)

「コモド」に続くB級巨大生物パニックもの。もっとも「コモド」と違って“B級”たって日本映画の大作ぐらいの金はかけてるし、監督がB級であることを自覚しつつも(「B級SF映画みたいだ」なんて台詞もある)、限られた予算と時間の中で何を見せるべきかを良く把握してるので、その筋の観客(>おれ)は充分に満足できると思う。監督のゲイリー・ジョーンズはサム・ライミ製作のTVシリーズ「ヘラクレス」とか「ゼナ」をやってた人で、これが2本目の映画なのだが、なにしろデビュー作からして「モスキート」ってんだから頭が下がる。 ● 大学新聞にムー系のトンデモ記事ばかりを書いている(しかも本気で)おバカ女子大生が、ふとした拍子で地下基地のエリア51に紛れこんだら、そこではほんとにありとあらゆる秘密実験が行なわれていて、いましもグレイ異星人のDNAを注入された巨大蜘蛛が大暴れしてるところだった…という話。この蜘蛛がほかの生物(>人間とか)に卵を生みつけては孵化する度にどんどん巨大化していく、という“エイリアン”もビックリの設定なのだが、最初の数センチが30センチ→2メートル→25メートルって、あんたそれ宿主生物よりデカいやん。特殊メイクをKNBエフェクツが担当していてお家芸のグチャグチャやヌチャヌチャをたっぷりと堪能できる。

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クワイエット・ファミリー(キム・ジウン)

リストラされた父ちゃんの退職金で、家族でペンションを始めたものの閑古鳥。やっと初めての客が来たと思ったら客室で自殺。このうえ悪い評判がたっては商売あがったりってんで、父ちゃんの号令一下、裏山に穴を掘って死体を埋めたはいいが、まるで死体が死体を呼ぶようにどんどん死体が増えていく…という韓国産ブラック・コメディ。まあ、そこそこ楽しめるがスラップスティックの加速度がまったく物足りない。家族は父・母・叔父・兄・姉・妹の6人と犬1匹。娘2人は最初はつんぼ桟敷におかれていて途中から共犯者になるのだが、善人キャラとして設定されている彼女たちがモラルハザードを乗り越える描写を省略してスッと通りすぎてしまうのは大きな欠陥。「振り出しに戻る」ラストは定石だが、あそこまで大ごとにしてしまって「どうやって警察の追求を逃れたのか」の説明がまったくないのも脚本家の手抜き。普通は「命を助けられた人物が警察に手を回してくれた」とか何とか台詞を入れるわなあ。 ● 高校生らしき下の娘が視点的主役で(韓国ナンバーワン・アイドルだという)コ・ホギョンが演じてる。うん、たしかに可愛い。だけど学校行かなくていいのか? ちょっとカマトトのお姉ちゃんにイ・ユンソン(李允成) 血の気の多い兄ちゃんに「シュリ」の大仏顔刑事のどっちか(←すでに区別が付いてない)のソン・ガンホ(宋康昊) グウタラな居候の叔父さんに「シュリ」の北朝鮮スパイ隊長とはうって変わって人の良さを滲ませる石橋凌…じゃなかったチェ・ミンシク(崔岷植) 監督・脚本はこれがデビューのキム・ジウン(金知雲) ● 劇中やたらとテレビのニュースで北朝鮮の特殊工作員潜入のニュースが流れて、いちおうそれに対するオチはつくのだが、この映画ってなんらかの政治的隠喩が含まれてるんだろうか?

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プランケット&マクレーン(ジェイク・スコット)

リドリー・スコットの息子、つまりトニー・スコットの甥っ子(しつこい)ジェイク・スコットの監督デビュー作。18世紀のロンドンに実在したという「貴族だけを狙う紳士強盗」の話を「明日に向かって撃て!」風に書き換えて「ナチュラル・ボーン・キラーズ」のノリで撮った現代的なコスチューム・プレイ。BGMもドラムンベースとかブルースで、ノリはあくまでも軽く。親父の「デュエリスト 決闘者」のような緊張感はないけど、スコット一族らしい派手なビジュアル・スタイルで軽快に最後まで観せきってしまう腕はなかなかのもの。大がかりな東欧ロケで撮影が「グラディエーター」のジョン・マシスン。ひょっとして1億ドルの製作費の一部を息子に横流ししてないか?>リドリー親父。 ● 「紳士強盗」のリーダーで町人出身のプランケット(つまりポール・ニューマン)に余裕の演技ロバート・カーライル。貴族階級のお坊っちゃんが落魄して紳士強盗の片割れになるマクレーン(つまりロバート・レッドフォード)に「トレインスポッティング」「アフターグロウ」のジョニー・リー・ミラー(予告篇がジョニー・リー・“ミー”になってたのは恥ずかしいぞ>KUZUIエンタープライズ) てっきりリヴ・タイラーがキャサリン・ロスかと思うと、彼女はかなり脇キャラで最後の最後になるまで紳士強盗一味に加わらないのが拍子抜け。リヴのお父さんの食えない最高判事に「スリーピー・ホロウ」「インサイダー」の悪役専科マイケル・ガンボン。紳士強盗をドーベルマンのような執拗さで狩る保安官ならぬ警察長官に(「シャロウ・グレイブ」でも探偵役をやってた)ケン・スコット。なぜかゲイリー・オールドマンがエグゼクティブ・プロデューサーを努めている。ゆっくりと廻るモノクロの地球にスタッフ&キャストの名が刻印されている(旧ソ連映画のような)オープニング・タイトルがカッコイイ。

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サム・ガール(ロリー・ケリー)

1998年のLAインディペンデント映画祭で最優秀監督賞を受賞した作品、…とゆーことで例によって「数組の若い男女がくっついたり離れたりするラブストーリー」である。白子のような肌に真っ赤な髪。額に「ユダヤ人」と書いてあるよなバーブラ系の顔立ちのマリッサ・リビージが脚本・主演して、母親のゲイ・リビージがお金を出して、二卵性双生児の弟 ジョバンニ・リビージが助演して、彼と「カーラの結婚宣言」でも共演した(マリッサと実生活でも親友だという)ジュリエット・ルイスがもう1人のヒロインを演じている。 ● LAに住んでる、親が金持ちで働かなくても食ってけるような20代の女の子たちの生態。マリッサ・リビージは一途だけど想いこみが強すぎて、男がうざったくなって捨てられちゃう女の子。ジュリエット・ルイスは毎晩ちがう男の部屋を泊まり歩くようなアバズレ娘。マリッサは「今度こそ信じられる男性と出会った」と思ったのだが…という話。まあ、退屈はしないけど、どこかで観たことあるよなストーリーと、とりたてて特筆すべき点もない凡庸な演出。 ● 最初に思わせぶりな断片を見せておいて「その2週間前」という字幕で回想時制のメインストーリーを語り、最後にトップシーンに戻らないってのはルール違反じゃないか。

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クロスファイア(金子修介)

撮影:高間賢治 音楽:大谷幸 美術/ミニチュア:三池敏夫 SFX:松本肇
おお、まるで「ガメラ」だ。だってこれ、炎を吐くモンスターが人々から疎まれながらも悲愴な闘いを挑むって話だぜ。藤谷文子、中山忍、螢雪次朗、本田博太郎、永島敏行といった「ガメラ」組が大挙して(「千里眼」とぶつからなかったら、きっと水野美紀も)特別出演してるし。おまけに場内は「ガメラ」ファンとおぼしき男性の1人客ばかり<あんたもそうやがな。 ● 話はスティーブン・キングの「ファイアスターター」の語り直しで、それは原作者の宮部みゆき自身が公言している。「社会から阻害された超能力者の孤独な闘い」ということでは「デッドゾーン」にも通じるか。「少年による残虐犯罪」というリアルなテーマで幕を開けたストーリーは、しかし、後半からどんどんトンデモ映画方面へと膨張していく。金子修介は「ガメラ3」の悲劇的かつ壮大なラストを再現したかったようだが、それならば最後まで少年犯罪がらみのリアルなトーンを保ったほうがカタストロフのやるせなさが高まったのではないか。トンデモでいくのなら最後のアレは(それこそリアリティなんか無視して)派手な火柱でも落としてくれなきゃ。ミニチュアとCG合成による炎のSFXは、よくぞ燃やした!の一言。 ● ヒロインの矢田亜希子が素晴らしい。怒りの感情が炎となってしまうため(…てえことは、おれがファイアスターターだったら渋谷は全焼だな)、小さい頃から喜怒哀楽の情を押し殺すことを教えこまれ、今では都会の片隅でひとり目立たないように目立たないように生きている娘・・・役柄そのままの地味な存在感のなかから大きな瞳が力強い光をはなつ。もちろん金子修介だから「肩出しの入浴シーン」や「太腿見せの素裸に男ものTシャツ姿」など押さえるべき所は押さえてある。 ● 「超常現象を信じない、たたきあげの刑事(デカ)」というよくあるキャラに桃井かおりが扮して、キャスト全体の箍(たが)となっている。この作品で鳴りもの入りのデビューを飾る〈東宝シンデレラ〉長澤まさみ(13才)は、物の記憶を読み取れる能力を持つ、もう1人の超能力少女。口数の少ない女の子という役柄がまだ不慣れな演技をカバーしている。もっとも金子修介が入れ込んでるのは、こっちではなく明らかに「ヒロインの恋人の妹」という(「ガメラ3」の安藤希と同じ)定番ポジションにキャストされている浜丘麻矢ちゃん17才のほう。レンズを通して監督の露骨な愛情がひしひしと伝わってくる。なお、若手男優陣が揃いも揃って大根なのは、言うまでもなく監督が女優にしか興味がないからだ。きっと男には演技指導なんてしないのだ。いや、それはもちろん正しい態度だけど:) ● 最後に、この映画には重大な保留事項がある。それは映画の前半において「観客が好きにならずに居られないキャラを登場させて、物語をドラマチックにするためだけに、そのキャラを無残に殺してしまう」という反則スレスレのワザを使っていること。「主人公の刑事の家族が出てきたと思ったらすぐ爆死する」というように、香港映画がよくやるあざとい手法だ。これは「殺されるために出てくる人物をメインキャラとして設定してはならない」という〈おれルール〉に抵触するので星1つ減だ<あんた何さまやねん。 ● あとそれと「リング0」のときにも言ったが、パンフの配役表がメインキャストの8人だけってのはどーゆーこった! それならチラシで用は足りるのだよ。藤谷文子も中山忍も螢雪次朗も本田博太郎も永島敏行も石橋蓮司も浜丘麻矢ちゃん17才も無視かい! 基本だろ配役表は、パンフのよお。それと主演の矢田亜希子の「燃えてる顔」しか載せないってのもどーかと思うが。

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ラスト・ハーレム(フェルザン・オズペテク)

「カーマ・スートラ 愛の教科書」に続くシネスイッチ銀座の〈エロチカ・エキゾチカ〉第2弾(そうなのか?)のソープランド=イタリア=フランス合作映画(警告:ポリティカリィ・コレクトの概念を間違えています) 場内には欲情に目をたぎらせた中年男性(>おれ)と、エキゾチカ目当て(の振りをしてじつはエロ目当て)のOLがちょうど半々ぐらい。前半が大奥もの、後半が「ラスト・エンペラー(の後半)」という構成。 ● デビュー作の「さよならモンペール」を除いては出演全作脱ぎ記録を更新中のマリー・ジランちゃん(つっても、もう24才)は今回も出し惜しみせず、たっぷりと魅せてくれてはいるが、全体としては、期待したようなシーンは意外と少なくてちょっと肩すかし、…って、そこしか見てへんのんかい! ● いや、だってドラマとしては東映の大奥もののほうがずっと面白いのだよ。オスマン・トルコ帝国最後の夜、すなわちハーレム最後の夜に、後宮で語り部が囲い女たちを前に話を語る。それは「年老いた女が駅の待合室で若い女に、自分がかつてハーレムで過ごした時のこと、そしてハーレムが無くなってから後の悲惨な想い出について話す」という話で、つまり、ハーレムの語り部が未来に起こった出来事を語っているという不思議な入れ子構造になっているのだが、とりたてそれが効果をあげているわけでもなく、ただでさえ不親切なドラマ描写がよけい判り難くなっている。エンドロールが上から下に降りてくるのが変な感じ。トルコ式なのか? ● ハーレムの女たちってのは、みなヨーロッパの奴隷市場で買われてきたキリスト教徒の白人女たちであってトルコ人は1人もいない。だって敬虔なるムスリムの女に娼婦のようなことはさせられないから。で、数百人からの白人女たちがスルタン1人に仕えるわけだが、大奥を構えていた江戸幕府の将軍さまと違ってこのスルタンってのは生涯、独身である。するってえと「お世継ぎ」はどうするのか。もちろん後宮の女が産んだ子が次のスルタンとなるのである。つまり代々の国王がみな奴隷の息子なのである。金で買われてきた夜伽ぎ女が国王の母になっちまうわけだ。しかもこのシステムだと国が続けば続くほどトルコの血が薄くなっていくことになる。なんて国だ。万世一系の神の国とは大違い。


MONDAY(サブ)

サブの映画を観るのはデビュー作の「弾丸ランナー」以来…と書けば、おれがこいつをどう評価してるかお判りいただけよう。あのう、これコメディだよなあ?クスリとも笑えないんだけど。緩急の変化のないのったらのったらした演出。自身の脚本による「酒が入ると人格が変わる弱気なサラリーマンがショットガン片手に大あばれ」という話だが、主人公にとり憑く「悪魔」のビジュアル化が、大駱駝艦そのままの白塗り麿赤児だったりするどうしようもない想像力の貧しさ。警視庁のSWAT隊員はなぜか覆面してるし<おまえら銀行強盗か。それにホテルにはマスターキーってもんがあることも知らんのか。おれ こいつはセンスないと思うんだけど、世間ではそこそこの評価を得てるんだよなあ。あれよあれよという間にもう4本目だし。うーん、不思議だ。 ● 主役の堤真一は露骨にジョン・トラヴォルタ/ニコラス・ケイジのキャラをパクッてるが、動きにキレがない。ポーズがいちいちキマらない。もう、ぜんぜん駄目。評論家役でテレビ画面出演してる田口トモロヲが主演だったらもちっとマシな映画になったかも。この映画で唯一すばらしいのが、人の話をまったく聞かない脳天気な恋人に扮した西田尚美で、彼女が出てるあいだは怒りを忘れて画面に没頭できる。誰か頼むから、もっと西田尚美 主演でくだらないコメディをバカスカ撮ってくれい!

★ ★ ★ ★ ★
ショー・ミー・ラヴ(ルーカス・ムーディソン)

スウェーデン映画。14才と16才の女の子どうしが恋に落ちるお話。隣国デンマークの「ドグマ95」のようなザラついた画面なので、予告篇を観たときは「どうしてキャンディ映画をそんな荒れた画質で撮るのか」と思ったのだが、その疑問は本篇を観て氷解した。これは素晴らしくリアルなイタい青春映画の傑作なのであった。 ● そこは県庁所在地ですらないようなちっぽけな地方都市。もう引っ越してきて1年半にもなろうってのに、16才のアグネスには女友だちもボーイフレンドもいない。家に帰れば、おせっかい焼きでコントロール魔のママと、優しくて理解があるけど それがかえってウザッたいパパ。自分が周りの同世代の女の子たちと少し違ってるってことは自覚してる。でも自覚してるからって心が楽になるわけじゃない。大人になって都会に出れば自分の居場所も見つかるだろうけど、地方都市に住んでる16才にとって周りに溶けこめないのはとても辛いことだ。じつはアグネスは14才の可愛らしいブロンド娘エリンに恋してる。 ● そのエリンは田舎町のプロム・クイーン。嫌んなっちゃうくらい俗物のお姉ちゃんはホッケー部のエースと付き合ってて満足してるみたいだけど、あたしはハタチそこそこで子どもを生んで、こんな“クソッタレの田舎町”(=原題)で埋もれちゃうのは死んでもイヤだ。だから学校を卒業したら絶対ストックホルムに出てモデルになってやるんだ。 ● 映画の最初のほうでエリンは「レズ疑惑」のあるアグネスをからかってキスをする。けれどそれがきっかけでアグネスのことがとても気になりだす。あんまり田舎町にはいないタイプの子。もちろんあたしまでレズだなんて思われたら生きていけないから、そんなことおクビにも出さないけれど、気持ちに無理して男のこと付き合ったりもしてみるけれど、ホッケーとクルマのことしか考えてない頭カラッポの男の子といると気分が悪くなる。あたし、あの子のことが好きなんだろうか…。 ● 2人の女の子がカミングアウトするまでの物語である。念の為に言っとくと「カミングアウト」ってのは「自分がレズ/ゲイだと認める」って意味じゃないよ。それは自分が自分自身であることを認めるってことだ。あなたがあなたであることを隠さないってこと。他の誰とも違うワン・アンド・オンリーの個性を堂々と主張すること。日本の中高生は必見。つーか、読んでねーか>中高生。 ● アグネス役のレベッカ・リリエベリ(撮影時17才)、エリン役のアレクサンドラ・ダールストレム(撮影時14才)とも素晴らしい。監督・脚本のルーカス・ムーディソンはこれがデビュー作。スウェーデン人…とは言っても、目の前がデンマークの首都コペンハーゲンというスウェーデン南端の港町マルメ出身。製作のラース・ヨーンソンはラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を手がけている人。画調が「ドグマ95」っぽいのはそのためか。

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ビッグ・ダディ(デニス・デューガン)

いつものアダム・サンドラーのクッダラなーいコメディかと思ったら「ライアー・ライアー」だった。つまり子どもをダシにした「泣かせ」のコメディ。それもかなりマジで泣かせに来ている。おれもついうっかりホロッときてしまったが、あとで冷静になって考えると、この主人公って死んでも友だちになりたくない自分勝手で人の痛みの判らない嫌あな野郎なのである。「週に一度だけ高速道路の料金所でバイトする以外はのんべんだらりと遊んで暮らしてる三十過ぎのプータロー」と聞くといかにも社会の落ちこぼれみたいだが、こいつじつはロースクール出身のエリートで、親も同級生もみんな高給取りの弁護士。その上(おれの聞き間違いじゃなければ)マイクロソフトの株を大量に持ってるので働かなくても食ってける身分なのだ。いったいマイクロソフトの株なんぞ買う人間が善人であるはずがないではないか!(しかもスティクス・ファンだ) ● シングル・ファーザーとなったアダム・サンドラーの新たなロマンスの相手…って「クール・ドライ・プレイス」とまったく同じ役やん!の女弁護士に(「クール・ドライ・プレイス」のときと同じこと書くけど)見た目も喋り方もレニー・ゼルウィガーとキャラがかぶってて、歳とったらベット・ミドラーになりそうなジョーイ・ローレン・アダムス。てゆーか、あんな声で法廷弁護人がつとまるのか? その妹で、アダム・サンドラーのルームメイトのフィアンセで、巨乳なのでいつもアダム・サンドラーから(ウェイトレスが全員Tシャツ巨乳娘で、店名がそのものずばり「乳乃屋」という意味で、大阪に支店がないのが不思議なくらいの)ハンバーガー・チェーン「フーターズ」でバイトしてたんだろ、とからかわれてるブロンド巨乳娘にレスリー・マン(「彼女は最高」でレズのウエイトレスをやってた人ね) 冒頭で甲斐性のないアダム・サンドラーをフッておいて、最後にもう一度“お約束”の登場をする元カノジョに、「デッドリー・フレンド」のアンドロイド娘(<喩えが古い)クリスティ・スワンソン。他にスティーブ・ブシェーミとかロブ・シュナイダーとかが“お友達感覚”の気の抜けた助演をしてる。てゆーか、映画にあわせて中味のない文章で埋めてみたがどうか。

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ミッション・トゥ・マーズ(ブライアン・デ・パルマ)

がっかりだ。一番の失敗はゲイリー・シニーズを主役にしたこと。人類のかぎりない希望を語るべき「一枚看板」の役にクセ者役者は似合わない。おれなんか最後の最後まで、いつゲイリー・シニーズが裏切るのか?とハラハラしてたもん。デ・パルマ+ILM+NASA全面協力なんだからビジュアルが素晴らしいのは当たり前。でもそれだけ。あいだをゴソッ、ゴソッと中抜きしたような不思議な構成のドラマは最後までクールなまま。これはデ・パルマ映画でも「アポロ13」でもないし、ましてや「2001年 宇宙の旅」でもない。残念ながら、どなたにもお勧めできかねる。…とか言いつつもう一度、今度は日劇プラザのDLP上映を観にいくつもりだったりして>おれ。

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エリン・ブロコビッチ(スティーブン・ソダーバーグ)

寄せて上げるブラで胸の谷間を強調した超ミニのサマードレスにジージャン。素足にミュールをつっかけて煙草をぷうかぷか・・・まるっきり渋谷の街中にあふれてる「いまどきの女の子」とおんなじ。だが、この娘にはとびっきりの笑顔と根性がある。 ● 復活&絶好調のジュリア・ロバーツの新作は「北関東のヤンママが、すっとぼけて公害たれ流してる大企業をギャフンと言わせちゃう」という本宮ひろ志もの。言っとくけど裁判劇じゃないよ。序盤から独特の編集術で軽快に映画のリズムを刻んでいくスティーブン・ソダーバーグは、裁判のシーンなんかには目もくれず、今まで人にバカにされてきて自分でもなんとなくそれを受け容れてしまってた、バツ2で3人の子持ちのヤンママが、だんだんと「自分自身に対する尊敬」を取り戻していく過程にぐぐっとフォーカスして爽やかな感動をもたらす。サブプロットとして描かれる、となりの家の土方のハーレー兄ちゃんとのラブ・ストーリーもとてもいい感じ。 ● ジュリア・ロバーツに振りまわされつつも、いつしか本気で共闘する弁護士を演じるアルバート・フィニーの(アルバート・フィニーとは思えぬほどの)軽い演技が素晴らしい。製作はダニー・デヴィートのジャージー・フィルムズ(いい映画つくるねえ) 編集はソダーバーグの前作「アウト・オブ・サイト」に続いての登板となるアン・V・コーテス。エンディングに流れるシェリル・クロウの「毎日がデコボコ道」てな歌もぴったりハマッて、これは元気がほしい女性たちと、元気な女性が好きな男性諸氏にお勧めできる痛快作。

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ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(ヴィム・ヴェンダース)[キネコ作品]

いや、これがコンサートやCDなら ★ ★ ★ ★ ★ だ。文句なく素晴らしい。特に八十のピアノ弾きの爺さんと、打楽器のようにベースを弾くおっさんがサイコー。でもコンサート映画じゃないのと、ビデオ撮りなので星2つ減。 ● 山下達郎が、靴磨きに落ちぶれたエノケン爺さんや笠置シズ子婆さんを発見して、服部良一やら三木トリローやらのバンド仲間も連れてきて昔懐かしいブギウギのレコードをこしらえたら大受け。レコード大賞を取っちゃって日劇のリサイタルも超満員になった“ことの次第”を岩井俊二がビデオで撮った、というドキュメンタリー。憧れのカーネギー・ホールでのコンサートがクライマックスなのだが、それを満足に見せて(聴かせて)くれないのだ。「演奏シーンの合間にインタビューが入る」んじゃなくて「インタビューの合間に演奏シーンが入る」感じ。邪魔なんだよインタビューが。「演奏9:インタビュー1」ぐらいでいいのよ。演奏をそのまんま見せてくれりゃあ、言いたい事は伝わるって。 ● 本作はソニーのデジタル・ベータカムとハンディカムで撮影されている(とクレジットが出る) ヴェンダースはビデオ撮影の機動性と経済性がお気に入りだそうだが、爺さんたちの美しいチョコレート色の肌が黄疸の浮いた病人のように見えるキネコ画面を見て、なお本気でそう言ってるのか。本作はビデオ撮りにしては黒がしっかりしてるが、白が寝惚けるのはどうしようもないし、スクリーンに拡大したときのジャギーを何とも思わないのか。醜いキネコ画質にどうしたらそんなに無神経でいられるのか。 ● ルーカスが「スター・ウォーズ2」から全面的にデジタル撮影に移行すると表明したすぐ後で「死ぬまでフィルムで撮りつづける」と明言したスピルバーグを、おれは100%支持するぞ(でも、この話にゃ「スピルバーグ、新作を延期して癌の摘出手術」というブラックなオチがつくんだけど…) ● あと憎まれ口を承知で言うけど、爺さんたちを金の力で日本に招ぶってのはなんかヤな感じだ。ヨボヨボの爺さんたちを地球の裏側まで引っ張ってきて満足かね。生で聴きたきゃキューバに行けよ。

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千里眼(麻生学)

松岡圭祐・原作「催眠」の“続篇”の映画化。おれは原作の凄まじさを聞いていたので、このような代物を観せられても驚かないが、予備知識なしで観た人は怒るでしょうな普通。これは「幻の湖」「大霊界」「北京原人」の系譜につらなる人間の想像力の死角を突くトンデモ映画である。 ● 1999年の映画「催眠」では“ミドリの猿”と口走った人々が次々と自殺していく。そこでは“ミドリの猿”というのは何やら「人間の心に潜む悪意の別称」のようなもので、菅野美穂の怪演ともあいまって心に澱のようなものを残すことに成功していた。ところが本作ではいきなり「“ミドリの猿”騒動はショッカーの悪巧みだったのです」という驚愕の解答が示されるのだ。そう、これはまるで「仮面ライダー」そのものだ(つまり“「東映変身ヒーローもの」レベルのストーリー”という意味) 純真な子どもたちは、おそろしい催眠暗示にかけられて都内から大船の巨大な大仏立像まで「超強力電磁波発生装置」の部品をせっせと運んでいたのでした。・・・何のために!?(松竹への嫌味か?) これだけ不明瞭で論理性を欠いた話が書けるってのもひとつの才能かも(普通はもう少し辻褄を合わせようとしてしまう) これがデビュー作となる麻生学の演出には「キチガイには青やミドリの照明 当てとけ」という香港映画に相通じる俗悪さが垣間見える。まあ、ちょっとしたワイヤー・アクションも楽しめるし、ゲテモノ香港映画と思えば腹も立たん。ビデオになってから大人数でツッコミを入れつつご覧になることをお勧めする。 ● 仮面ライダー役には水野美紀@JAC出身。変身はしないがライダー・キックはキメる。しかも彼女、20代の若さで航空自衛隊の二佐で、抜群の動体視力を誇るF-15イーグルのパイロットで、そのことが劇中で何度も何度も強調されるのでてっきり「最後は空中戦か!?」と思ったら結局 最後までF-15には搭乗しない、防空コンピュータ・システムの専門家…にしては自衛隊の機密をべらべら喋ってしまう軽薄な、心理学にも詳しい拳法の達人で事件の探偵役…という「どないして役作りせえちゅうねん!」という複雑なキャラ設定である。脚本読んだら断れよ>水野美紀。そして黒木瞳は「千里眼」の異名を持つ凄腕の心理カウンセラー。「いま、あなたは一瞬 視線をさまよわせてから左上斜め45度を見た、ということは“晩飯はレバニラ炒めにしよう”と思いましたね」とか、微かな表情の変化から相手の心理をスバリと見抜くことが出来る(←んなことあるかい!) で、彼女はじつは(あまりにも歴然としてるのでネタを割ってしまうが)世界征服を狙うショッカーの首領でもある。こちらは原作者と喧嘩して降板させられた当初の監督・井坂聡と“「破線のマリス」つながり”なので嫌々出演か。キチガイAに田口トモロヲ。「痴漢タクシー エクスタシードライバー」の田中要次が、やはりタクシー運転手の役で出演している。 ● しかし東映は何の根拠をもってこの素材で勝負できると踏んだのかね? 東宝の「催眠」がべつに松岡圭祐・原作の力でヒットしたわけじゃないことぐらい自明だろうが。

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ロッタちゃん はじめてのおつかい(ヨハンナ・ハルド)

「長靴下のピッピ」「やかまし村の子供たち」のアストリッド・クンドグレーン原作童話の映画化。…とは言っても、いかにも「30分もののテレビ・スペシャルを3本つなげました」という体だが(ロッタちゃんを演じる女の子が最初のエピソードでは3つか4つくらいなのに、3番目のエピソードでは明らかに小学生くらいになってる) ● ふくれっつらでおしゃまなロッタちゃんが“ぶたくま”のバムセを小脇に抱えながら、お母さんに腹を立てて隣家の物置の2階にお引越しをしちゃったり、お父さんが買い忘れたクリスマス・ツリーをちゃっかりゲットして来たり、故郷に帰るギリシャ人のお菓子屋さんからお別れのプレゼントを貰ったりするお話。子供向けに作られたものだが、そうした低年齢の観客に媚びもせずバカにもせず、きちんと作っているので、大人が観ても(こーゆー他愛ない話が嫌いじゃなければ)充分に面白いだろう。でも本来は日本語に吹替えて日曜日の夕方にNHKで放映すべきものだよな、これは。

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マン・オン・ザ・ムーン(ミロシュ・フォアマン)

げっ。日本劇場(1,008席)から1週間でいきなりシャンテ・シネ(226席)に劇場が変わってるぞ。ま、たしかにこれは日本劇場でやる映画じゃないわなあ。…って、そんなこと観てわからんか、公開する前に?>東宝。 ● 意表を突くプロローグ部分だけなら ★ ★ ★ ★ ★ をあげる。ジム・キャリーがアンディ・カフマンの十八番ネタを模写して見せる冒頭15分ほどは ★ ★ ★ ★ 級の面白さ。で、終わってみると結局はアンディ・カフマンという早逝したコメディアンを描いたお涙頂戴の「知ってるつもり!?」だった。 ● スコット・アレクサンダー&ラリー・カラズウスキーの脚本家コンビによる、ティム・バートン「エド・ウッド」、ミロシュ・フォアマン「ラリー・フリント」に続く〈メディア・クリエーター変人列伝〉の第3弾である。今回、採り上げたアンディ・カフマンてのは「サタデー・ナイト・ライブ」初期の頃に活躍したコメディアンで、嫌われ者を演じてるうちに本当に嫌われてしまい、観客や周囲を騙しつづけたせいで癌になったときにも信じてもらえなかったという逸話が残っているほど壮絶な生き方をした人。ところがこの映画ではカフマンが破天荒な行ないに及ぶたびに「でもほんとはこんなにいい人なんですよ」とか「じっさいはとってもナイーブな人なんですよ」といったフォローのエピソードが付いてくるのだ。たとえて言えば「全盛期のツービートの毒ガス漫才の映像のあとで、たけしがお年寄りの手を引いて横断歩道を渡らせてあげる心温まる姿を紹介する」みたいな。 ● エド・ウッドはとてつもない変人だが、映画にかける情熱は(それが勘違いの情熱だとしても)誰にも負けなかった。ラリー・フリントはとてつもなく嫌な奴だが“お上”が自分のやる事にいちいち口出ししてくるのにはどうしても我慢がならなかった。その伝でいけば、この映画で描かれるべきは「アンディ・カフマンは付き合いにくいキチガイだが、コメディにかけては並ぶもののない天才だった」ということであるはずなのだ。ところがジム・キャリーがうるうる目で演じるのは「とってもいい人なのにキチガイと誤解されてしまって、コメディにかける情熱はとても純粋なのに皆にわかって貰えなかった可哀想な人」だ。観たかないんだよ、そんなもの。 ● 「ラリー・フリント」と同じ脚本家、同じ演出家、同じヒロイン(コートニー・ラヴ!)なのにどうしてこうもテイストの違った話になってしまったのか。それはおそらくアンディ・カフマンへの愛情だ。本作の製作者でもあり、カフマンのマネージャー役として出演もしているダニー・デヴィートの瞳は、かつて同じ釜の飯を喰い、ひと足先にあの世へ行ってしまった戦友への愛にあふれてる。じっさいダニー・デヴィートは素晴らしい演技を見せているのだが、そうした対象への過多な愛情が、伝記ものに必要な冷静な視線を曇らせてしまったのだろう。ラストひとつ前の「フィリピンの奇蹟の指手術」のエピソードは秀逸なのだから、あそこまでは「誰にも理解不能&制御不能のキチガイ男」で押しとおすべきだったのだ。 ● ジム・キャリーがゴールデン・グローブの主演男優賞を2年連続で獲得して、その一方でアカデミー賞からはノミネートすらされなかった事が話題になったが、おれはこの映画でのジム・キャリーの演技をまったく買わない。だって「エース・ベンチュラ」や「ジム・キャリーのエースにおまかせ!(エース・ベンチュラ2)」でのジム・キャリーのほうが百万倍スゴいじゃないか。だから、頼むからアカデミー賞なんかさっさと見切りをつけて「エース・ベンチュラ3」を撮ってくれい!


2番目に幸せなこと(ジョン・シュレシンジャー)

え、なんでコメディじゃないの? だって「男にフラれた三十路もなかば過ぎのヨガ教師が酔ったいきおいで親友のゲイの男と一発ヤッちゃって妊娠→出産、ストレートのママとゲイのパパと可愛い1人息子との家族生活が始まった…」って話だぜ。コメディ以外に撮りようがあるまいよ。それをこの映画の製作者たちは何を血迷ったか監督を「スウィーニー・トッド」でミソをつけたジョン・シュレシンジャーに依頼、嫁きおくれ年増女の湿っぽい愚痴ドラマにしちまった。ほんとなら冒頭の5分で処理すべき「主演の2人が一発ヤルまで」にちんたらちんたら30分もかけといて、後半はなんと醜い親権裁判の話にシフトしてしまう。しかも「とてつもなく自己中心的なブス」と「嫉妬ぶかくて心のせまいホモ」の争いでは観客はどちらにも加担できない。いったい何を考えておるのだ。 ● だいたいなんで性懲りもなくマドンナに主演を依頼するかなあ。これっぽちもチャーミングじゃないし、そもそもマドンナ主演でヒットした映画なんて1本もないのに(「ディック・トレーシー」ってのがあるが、あれはマドンナの力じゃないしな) ● 独立系のレイクショア・エンタテインメントとパラマウント映画の共同製作なのに(タッチストーン映画でもハリウッド・ピクチャーズでもないのに)なぜか日本の配給はUIPじゃなくてブエナビスタ。なんかもう一から十までテンでバラバラな映画。こんな代物を観るくらいならビデオで(ジェニファー・アニストンがチャーミングな)「私の愛情の対象」をご覧になることをお勧めする。

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アウト・オブ・タウナーズ(サム・ワイズマン)

ニール・サイモン脚本「おかしな夫婦」(1970)のリメイク。ジャック・レモンとサンディ・デニスが演じた“おのぼりさん”(=原題)の夫婦を、ここではスティーブ・マーチンとゴールディ・ホーンが演じている。「恋は嵐のように」のマーク・ローレンスの脚色は成功しているとは言いがたいし、「D2 マイティ・ダック」「ジャングル・ジョージ」のサム・ワイズマンの演出はスマートさに決定的に欠けるが、それでもスティーブ・マーチンはスティーブ・マーチンだし、ゴールディ・ホーンは(そりゃ昔のまんまというわけにはいかないが)誰にも真似できないチャームを振りまく。そのうえ「NYの超高級ホテルの意地悪な支配人」を演じたジョン・クリースがうん十年ぶりでシリー・ウォークを見せてくれるのだ。ひとときの時間潰しとしては充分ではないか。ところがこの映画、銀座シネパトスで細々と公開だ。そりゃアダム・サンドラーも結構だよ。スティーブ・マーチン&エディ・マーフィ&ヘザー・グラハム&フランク・オズ監督の「ボウフィンガー」すら公開されない御時世なんだから「まだ公開されるだけマシ」と言わなきゃいかんのかもしらんよ。だけどゴールディ・ホーン&スティーブ・マーチン&ジョン・クリース&ニール・サイモン原作の映画が場末の劇場(こや)で、たかだか10人ほどの客にだけ供されてる世界なんて絶対に間違ってると思うのは おれだけかね? ● 製作は自伝「くたばれ!ハリウッド」が痛快だったロバート・エヴァンス。ジュリアーニNY市長が本人役で(←当たり前)出演している。例によってUIPは本作がリメイクである事をトボけているが、チラシ裏の「ニール・サイモンの傑作脚本を基に“おかしな夫婦”の、オハイオ州から…」という一文に担当者の良心の呵責が垣間見えるので今日のとこは勘弁したる<あんた何者や。

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クール・ドライ・プレイス(ジョン・N・スミス)

「クレイマー、クレイマー」や「ビッグ・ダディ」と同様のシングル・ファーザーの子育て奮闘もの。脚本も演出もヌルいテレビドラマって感じではあるが、いちおう最後まで飽きずに観ていられる。 ● シカゴの売れっ子弁護士が子育てのためにカンザスの片田舎に越してきて…って話で、主人公の新しいロマンスの相手となる「南部の気のいい赤毛の姉ちゃん」に(見た目も喋り方もレニー・ゼルウィガーとキャラがかぶってて、歳とったらベット・ミドラーになりそうな)「チェイシング・エイミー」のジョーイ・ローレン・アダムス。後から子どもを追っかけてくる女房に「都会派のパツキン女」モニカ・ポッター。2人のあいだで恋と子どもの板ばさみになる主人公にヴィンス“ノーマン・ベイツ”ボーン。この映画の最大の問題はこいつが「いい人」に見えないってことなんだよな(…って、それ致命的では?)

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ボクの、おじさん(東陽一)

東陽一がどんどん自由になっている。「絵の中のぼくの村」に続いて監督・脚本・編集を手がけたマジック・リアリズム路線の新作。「男はつらいよ」後期の寅次郎と満男の関係を思わせる「おじさんと甥っ子」の話である。ぎすぎすした都会の人間関係に窒息寸前になってる(だけどデザイナーなんかしててハーレー乗りでもある)若いおじさんと、祖父の死んだ日にホッケーマスクを被って郵便局に強盗未遂→保護観察処分となっている(故郷の熊本に暮らす)甥っ子。都会の喧騒と阿武隈川の大自然の対比とか、露骨な設定と台詞によって示される「大人は仮面をかぶって生きてる」というテーゼは陳腐といえば陳腐なのだが、過去の人物が平気で現在の画面に同居したり、木彫りの仮面をつけた「森の妖怪」がなんの説明もなく出て来たり(しかもプレデターのように透明迷彩のワザが使える!)と、既存の映画文法にとらわれない、まるでメキシコ映画のように素晴らしくデタラメな(=自由な)語り口が、映画におおきな開放感をもたらしている。それは決して「浮世ばなれしてる」ということではない。東陽一はあくまでも真摯に時代と格闘してる。…劇中の甥っ子の年齢は14才なのだ。 ● 一見、頼りなさそで1本 筋の通ったおじさん像を(いつのまにか良い役者になっていた)筒井道隆が好演。甥っ子に(子役臭さのない伸び伸びした演技が素晴らしい)新人・細山田隆人。筒井道隆の、放浪癖のあるカノジョに(この頃ほんとに「美人女優」という形容が相応しい)つみきみほ。「仮面の妖怪」(声でそれとわかる)と「街の浮浪者」に宇崎竜童。この人、いまレコード会社に所属せず、ギター1本かついでバイクで旅まわりしてるそうだから、ほとんどそのまんまかも。厳しい/優しい保護司に扮した出水晃という俳優が−−熊本弁が巧いので地元の役者さんか−−出番は少ないながらも強い印象を残す。 ● ひとつだけ、どうしても判らないのは祖父の葬式に(まるでマニュアル・ビデオのように)いちいち「通夜」とか「四十九日」とか字幕が出るんだが、ありゃ何なんだ?

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