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m @ s t e r v i s i o n
Archives 1999 part 2
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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ウェイクアップ!ネッド(カーク・ジョーンズ)

またもやイギリス(含スコットランド、ウェールズ&アイルランド)の田舎町コメディである。ここ数年でこの手の映画が急に増えたのは何故? それともイギリスでは常に一定の本数が作られていて、日本での公開本数が増えたってだけの事か(ま、どーでもいいが) ● 「12億円相当もの宝くじに当たったショックでおっ死んじまったジイさんの賞金を村人全員でネコババする話」である。これがアメリカのテキサス州あたりなら血で血を洗う生臭い話になるところだが、ここはアイルランドの田舎町なので、あくまでも映画はのどかな調子であっさりと計画は成功し、最後はのうのうと人間讃歌のハッピーエンドにしてしまう。なにせ、ひとり頭2,500万円もの大金がすべてギネスビールに化けちまうような奴らである。しかも主演は70才のジジイ2人だ。クライム・ムービーにはなりようもないわな。後味の良い快作。

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秘密(滝田洋二郎)

セックスをしなくなった中年夫婦が、おたがいに性的欲求不満でイライラをつのらせるが、ウジウジする夫を尻目に妻がさっさと若い男を見つけて幸せになる話。「ちゃんとオメコせなあかんよ」という教訓である。「アイズ・ワイド・シャット」と同テーマだな(ほんとか!?) ● おれは「20世紀ノスタルジア」で広末涼子に好感を持って「鉄道員 ぽっぽや」で大キライになったクチだが、ここでも高倉健の名演を台無しにしたデレッとした喋り方と、喋るときにアゴを突き出す癖は健在。「うわ、雪だあ」という最初の台詞で、すでに広末涼子の演技に辟易する。おまけに劇中でのヒロスエは「一念発起して勉学に励み、ちゃんと試験を受けて大学に入学し、デートの誘いも「いまは勉強に集中したいの」と断って毎日、大学に通うほどの娘(中味は妻)」の役なのだが、これってギャグのつもりか?(笑うべきところなのか?) ● しかも おれは岸本加世子が反吐が出るほどキライだ。あの台詞まわしを聞くと虫唾が走る。開巻5分で死んでくれるのでまだ良いのだが、それでもクライマックスにまたしゃしゃり出て来たりして、スクリーンに向かって「お前は死んでろ」と叫びそうになった。 ● とは言え、滝田洋二郎の手慣れた演出と、小林薫のベタに徹した演技のおかげで、全体としては面白く観られるんだが、この映画にはひとつ致命的な欠陥がある。死んでしまった娘への想いが無視されている点だ。この夫婦は、かけがえのない一人娘を失ったというのに、(娘の身体に入った)妻は妻で若返ったと大喜びだし、夫は夫で「娘と夫婦になる」という世の男親が密かに妄想せずにはおれない夢が実現して頬が緩むのを押さえられない。いいのか、それで!? …いや、コメディなんだから、もちろんそれでいいんだが、それでも「日常のふとした瞬間に“ああもう娘はいないのだ”と実感して涙する」といった描写が必要だろうよ>プログラムピクチャーなんだから。

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シャー・ルク・カーンの
DDLJ ラブゲット大作戦(アーディティヤ・チョープラー)

なんとも観賞意欲を萎えさせるタイトルではあるが(↑)このタイトルに引いて見逃すなかれ。なぜなら本作はインド映画の実力を余すところなく知らしめる傑作エンタテインメントなのだから。すなわち、大笑いできるコメディであり、このうえなく楽しいミュージカルであり、目頭が熱くなる人情ドラマであり、そして何よりもまず胸の奥が痛くなるラブストーリーである。「女優に見惚れて台詞を聞き逃がす」などという幸福な体験はそうそうあるものではないぞ。 ● ストーリーは単純。「ロンドン在住のインド人の男女が大学の卒業旅行で恋仲になり、故郷のインドで結ばれる」というもの。3時間の長尺を1時間半ずつ ちょうど半分に割って、2本分の映画を楽しめる構成。前半が“出逢いのヨーロッパ旅行”篇。「常にケンカしながら仲良くなっちゃう」というお馴染み「或る夜の出来事」パターンの、じつに楽しいスクリューボール・コメディ。 ● で、休憩を挟んで後半がインド篇で、こちらは人情コメディ。ヒロインは親の決めたニコラス・ケイジみたいな許婚(いいなずけ)との結婚のため、故郷の北インドに連れ戻される。もちろん主人公も彼女を追ってインドへ。いわば「お城に幽閉された姫君を救い出す若武者」パターン。いかにもインド映画らしいのは、主人公がむりやりヒロインをかっさらうのではなく、あくまでも父親の許しを得ようとする事。作者はハードルを思いきり高く設定する。主人公は自信過剰の軽薄なプレイボーイ。そしてヒロインの父は鬼瓦みたいな面をした寺内貫太郎おやじなのである。 ● ここに描かれる価値観は言ってしまえば旧弊なものだ。ヒロインの女親の口を借りて「誰かの妻や娘である事」で女の幸せを犠牲にしなくてはならないインド社会のシステムを痛烈に批判しつつ、一方では、親や目上の者を敬う心の大切さを描き、主人公は「育ててくれた両親の心を傷つけて、自分たちが幸福になる権利はない」とまで言いきる。そしてこれらすべてが「♪お戻り異郷の人 故郷が呼んでいる」と歌われる故国への想いへ直結する。それは「大統領が戦闘機に乗ってエイリアンと戦っちまう」ようなお手盛りの愛国心ではなく、かつて志村喬が車寅次郎に語った“懐かしい故郷への想い”といったものだ。まさに大衆娯楽映画のお手本のような脚本である。 ● この映画が、どこか1960年代のプログラムピクチャーを彷彿させるのは偶然ではないだろう。おそらくかの国では、日本やハリウッドが失ってしまったスタジオシステムがいまだ有効に機能しているのだ。最新CG合成などとは無縁だし、劇伴の付け方なども泥臭いのだが、卓越した説話技法や、過不足ない的確な撮影&編集など、インド映画の方がよほど洗練されているではないか。監督・脚本のアーディティヤ・チョープラーはなんとこれがデビュー作。スタジオシステムの技術的蓄積/サポートがいかに厚いかという証拠だろう。 ● タイトルに名を冠されたシャー・ルク・カーンはボンベイを中心とする北インド=ヒンディー語圏のスーパースター。「ラジュー出世する」に続いて“お調子者だがイザという時は熱血漢”なヒーローを熱演(おお、顔だけじゃなくキャラまで織田裕二とカブってるぞ) ヒロインは撮影時 20才の美しきカージョル。インド女優のお約束として見た目はスリムでも巨乳&太腿ムッチリなのがベリーナイス。以下、名前が長ったらしいので略すが、最初っから最後まで血走った目をかっ開いてる寺貫をはじめ、脇役の一人一人にいたるまでじつに個性豊かで、この辺りも往年の日本映画をおもわせる。ともかく幸せになりたければ観に行くべし。 ● ちなみに「DDLJ」とは原題の頭文字で「勇者が花嫁を奪う」という意味。

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コリン・マッケンジー もうひとりのグリフィス
(ピーター・ジャクソン&コスタ・ボーテス)

ピーター・ジャクソンが「乙女の祈り」と「さまよう魂たち」の間に撮った53分のドキュメンタリー。冒頭からジャクソン監督本人が登場して、映画史から忘れ去られていたニュージーランドの偉大なる映画作家コリン・マッケンジーの、失われたフィルムが隣家の裏庭から発見されたという歴史的大ニュースを告げる。ニュージーランドという地理的にも映画史的にも辺境の地を活動の場としていた事情もあり、諸賢はまだコリン・マッケンジーという映画作家をご存知ないやもしれぬが、実は世界で初めてトーキーを発明した人であり、世界で初めてカラーフィルムでの撮影に成功した人であり、ついでにライト兄弟に先だって飛行機で空を飛んだ人物の記録映像を撮影した人でもあるのだ。「そんな馬鹿な」と諸賢は思われるかもしれないが、これはミラマックスの社長やら、高名な映画評論家のレナード・マーチンやら、NZ出身のサム・ニールやらが登場して証言しているのだからもちろん全部ほんとうの話である。 ● さらに驚くべき事にはNZのジャングルの奥地に巨大なスタジオ都市を建設して、D・W・グリフィスの「イントレランス」に先んじて超大作「サロメ」を製作していたというのだから恐れ入る。ピーター・ジャクソンと仲間たちは意を決して前人未到のジャングルに踏み入り、失われたスタジオの遺跡を捜し求める。命がけの探検行の果てにジャングルの中から忽然とアンコール・ワットのようなスタジオ都市が姿をあらわした瞬間の感動をどう表現すればよいだろう。一行はついに地下フィルム倉庫を探し当てる。数十年の永きにわたり静止していた時間が再び生命を得て流れ出す、その歴史的瞬間を、暗闇に光がさしこむ映像で見事に表現した倉庫の中に据えたカメラからのカットが印象的。 ● コリン・マッケンジーには弟がいて、これがガリポリの戦いに従軍して前線の兵士たちを撮影しているのだが、なんとピーター・ウィアー&メル・ギブソンの感動的な「誓い」は、この時のニューズリールのパクリだったという事実が露呈する。本篇の白眉とも言える瞬間である。 ● 映画の最後には当然クレジット・タイトルが流れるのだが、ドキュメンタリーなのでもちろん“出演者名”が表記されるのみ。ちゃんと「サロメ」復元に尽力したニュージーランド映画協会のクレジットも出てくる。本作はニュージーランドのテレビでドキュメンタリーとして放映され、映画史をすべて塗りかえる地元のヒーローの出現に大きな話題になったそうである。本邦でも筒井康隆あたりが実家の藏の中から江戸時代のまぼろしの映画作家のフィルムでも見つけてくれないものかしら…。

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金融腐食列島 呪縛(原田眞人)

おおカイル・クーパーだ。日本映画でこの手のオープニング・タイトルは初めてではないか?(タイトルデザイン:畑島浩) ● この映画はあなたが会社員かどうかで随分と印象が違う気がする。おれは銀行員でこそないが、会社員として糊口をしのいでいる身なので、この映画が他人事でなかった。ああして検察の強制捜査で自分の勤めている職場に検察局員がどやどやと乗り込んできて、一切合財をダンボールに詰め込み、自分のプライベートな手帳すら押収されたとしたら、どういう気がするだろう。ヤクザの事務所じゃねえんだぞ、まとも(と信じていた)会社だぞ。本作は、ズタボロにされた自分たちの“会社員としての誇り”を取りもどす闘いを、腐った会社を“自分たちにふさわしい会社”に再生させようとする苦闘を描いた傑作である。原田眞人の意図は“金融腐食列島”のカラクリを暴いたりすることにはない。つまり前作「バウンスkoGALS」と同じテーマなのだ。 ● 男、男、男の映画である。さながら現代男優名鑑のよう。いっそのことTVレポーター役も男にして(役所広司の妻&仲代達矢の娘役の)風吹ジュン以外は全員男にしてしまえばよかったのに。個々の俳優でいえば、ひさびさに佐藤慶をたっぷり観られるのが嬉しい。それに引き換え仲代達矢はどうしてこれほど薄っぺらな役者になってしまったのか。映画の悪を1人で受け持つ大役なのに、出てくるのは失笑ばかり。片足をわざとらしく引きずるのはありゃギャグのつもりか? ギャグといえば若村麻由美の役作りは「バリバリ一線で働く有能な女性レポーター」のパロディにしか見えないのだが、べつにコメディ・リリーフじゃないんだよな? あと新頭取となる根津甚八にまったくカリスマが感じられないが、あれでいいのか? 脚本で一箇所ぐらい新頭取の見せ場を作ってやらないと説得力がないと思うが? なお、ここで悪口を書かれてない役者はすべて好演。 ● スウェーデン製の軽量ステディカム(イージーリグと言うそうだ)が効果絶大。部谷京子によるバロック様式の壮大なセットの中を、阪本善尚のカメラが縦横無尽に滑りまわる。 ● 若村麻由美の勤めてるテレビ局が「ブルームバーグ」といって、ニューヨークに本社のある金融・ビジネス専門の実在するテレビ局なのだそうだが、諸賢はご存知か? 本篇中ではなんの説明もなしに、やたら外人の多い局内の様子が描写されるので、おれはてっきり原田眞人お得意の、わざとらしい架空のテレビ局なのかと、なんかデパートみたいな名前のテレビ局だなあ(←それはブルーミングデイル)と思っていたよ。

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シンプル・プラン(サム・ライミ)

世の中には2種類の映画がある。人間を性善説で描いた映画と人間性悪説に立脚した映画だ。「たまたま手に入れた440万ドルの金を巡って骨肉の争いをくりひろげる兄弟・親友・夫婦を描いたサスペンス映画」とくれば、ふつうは性悪説映画だろう。だが、この映画が哀しいのは、あくまで人間性善説で始まり性善説で終わる物語だからだ。金を手にした4人はよこしまな人間ではない。どこにでもいる善良な人間だ。しかし、すべてが終わった後で彼らに待っているのは、一生 罪の意識を背負って生きなければならないという現実。いっそ良心とは無縁の悪党だったならどれほど楽だろう。そのとき彼らは生まれて初めて神を呪ったはずだ、どうして人間を善良な生物として創造したのか、と。 ● カルト&コミックな作風がトレードマークだったサム・ライミが、縦横無尽に走り回るカメラアイや魚眼レンズなどの得意技をすべて封印して挑んだ新作サスペンスは、ヒッチコックより むしろギリシャ悲劇に近いずっしりと見応えのある映画に仕上がった(正直に言うと、従来のクレージーな作風で観たかった気もするが) 次回作はなんとケビン・コスナー主演のベースボール・ロマンスだそうで、なんか悪友が一足先に不良を卒業してしまったような侘しさをおぼえる。残念といえば、音楽をダニー・エルフマンが担当しているのだが、「どこが?」というほど“らしさ”のない平凡なBGMで、エルフマンもまたクセの強い“ジャンル作曲家”からの脱却をもくろんでいるのだろうか。哀しいことである。 ● 出来損ないの兄に“カメレオン・マン”ビリー・ボブ・ソーントン。真面目で優秀な(だが社会的に成功しているわけではない)弟にビル・パクストン。互いに一歩もゆずらぬ迫真の演技で対峙する。事件のさなかで明らかになっていく兄弟の愛情と確執が、この映画の通低音だ。1995年の「このミス」1位にもなったペストセラーの、原作者自身による巧みな脚色。ライミの親友、コーエン兄弟の「ファーゴ」の宣伝コピーに倣って言うならば「人間は愚かで哀しい」−−必見。

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裸の銃ガンを持つ逃亡者(パット・フロスト)

“ZAZ”の新作パロディ…とは言っても、もはやザッカー(兄)もエイブラハムズもザッカー(弟)もいないのだが。本作の監督・脚本のパット・フロストは小劇場で「ケンタッキー・フライド・シアター」をやってた頃からのメンバーで、「裸の銃を持つ男」シリーズや「ホット・ショット」シリーズでは脚本家の1人としてクレジットされている(「ポリス・アカデミー1&2」の共作者でもある) ● 邦題からも明らかなように今回はハリソン・フォードの「逃亡者」のストーリーを大筋にしている。ともすれば「チープでクダらなくて内容がない」などと評されがちだが、この人たちの映画がチープでクダらなくて内容がないのは今に始まったことではない。「Wrongfully Accused」などと自虐的なタイトルをつけてる人たちに目くじら立てるのも大人気ない気がするし。ただ「裸の銃を持つ男」の頃は数人で書いていた脚本を、本作ではパット・フロスト1人で書いているわけだから、その分個々のギャグやパロディのレベルが低下するのは致し方ないところ。しかもこのフロスト氏、ギャグ作家としては優秀かもしれないが、脚本の構成力がはなはだ弱い。今回、元ネタでトミー・リー・ジョーンズが演った連邦保安官の役をリチャード・クレンナが演じているのだが、これをトミー・リー・ジョーンズ本人に演じさせるとか、ヒロインに有名女優を起用するとかの“本気”があれば、もう少し演出もしまって面白くなるはずなんだがなあ。まあケリー・ルブロックの淫乱人妻艶技が見られるので良しとしよう<いいのか、それで? ● なんでもこの監督&主演コンビ、「Titanic Too : It Missed the Iceberg(続タイタニック 氷山にぶつかり損ねて)」なる次回作を準備中だそうで、よくよく懲りない人たちではある。

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双生児(塚本晋也)

腐肉。蛆虫。江戸川乱歩。祝福された兄。疎まれた弟。貧民窟の女。座布団のような髷。旧家。甘美なる退廃。古着。白塗。潰された眉毛。あんぐら。大駱駝艦。パンク。まとわりつく視線。復讐。復讐。復讐。覗かれた私生活。入れ替わり。空井戸。閨房の秘事。絡みあう肉体。きらびやかな悪夢。蛇の形の痣。人格交換。欠落した記憶。乞食親子。もう一人の自分。本当の自分。おれは誰だ。殺人。燃え上がる貧民窟。84分。地獄のオペラ。 ● 「妖怪ハンター ヒルコ」以来の“雇われ仕事”だそうだが、いつものように監督・脚色・撮影・編集を一人でこなして、ファースト・カットから骨の髄までどっぷりと塚本ワールド全開である(但し、コマ撮り撮影はなし。音楽はいつもの石川忠) 「東京フィスト」の藤井かほり、「バレット・バレエ」(2000年公開)の真野きりな、そして本作の りょう と、塚本晋也は骨ばった顔にエロスを感じるタイプのようだ。脇を固める助演陣も怪優が勢ぞろい(この人工的な世界では浅野忠信の“自然な”演技のみミスマッチだ) 「東京フィスト」に主演した実弟・耕司との関係をつい邪推したくなる塚本晋也の“プライベート・フィルム”。

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リアル・ブロンド(トム・ディチロ)

「ジョニー・スウェード」「リビング・イン・オブリビオン 悪夢の撮影日誌」に続いてトム・ディチロの新作は またもNYを舞台にしたショウビズ底辺泣き笑いコメディである。この映画に登場するのは〈有名になること〉への どうしようもない渇望にさいなまれつつ、それゆえにメディア(=日常)にはびこるブロンド信仰にどっぷり冒されて、ステロタイプなセクシュアリティへの意識的/無意識な呪縛から逃れられず右往左往している〈非有名人〉ばかり。ま、もちろんコメディだから茶化して描いてるのだが、トム・ディチロ自身がNYインディーズの人なので、対象との距離があまりにも近すぎて無邪気に笑えないのも事実。いわば自分自身をも含めた悲惨な現状を自虐をこめて笑いのめしているわけで、相当にシャレのキツいコメディではある。 ● シャレのキツさは3人登場する〈ブロンド女優〉のキャスティングにも明らか。すなわち「スプラッシュ」の人魚役で大ブレイクした事が枷となってステロタイプな役しかまわってこなくなってしまったダリル・ハンナに「リアル・ブロンドだけが取柄のTVのソープ女優」、“超大作のヒロインに大抜擢”と思ったらじつは“地獄へ一直線”だった「ショーガール」のエリザベス・バークレーに「実力じゃ食えないので髪をブロンドに染めてマドンナのボデイダブルをやってる女優の卵」、そしてシュワルツェネッガーの超大作のヒロインになったと思ったら大コケして疫病神あつかいされた「ラスト・アクション・ヒーロー」のブリジット・ウィルソンに「世間がイメージする“ブロンドのスーパーモデル”という虚像に実像をあわせようと無理をして心身ともにぼろぼろになるモデル」の役(一瞬 パイモロあり)を割り振るという、「これっぽっちも悪意はありません」と言っても誰も信じない配役である。トム・ディチロ、見上げた根性の悪さだ。ま、受けた彼女たちも大したもんだが、その辺、シャレが判って受けたのか、背に腹は替えられず引き受けたのか、白黒つけがたい所がなんとも「ザッツ・ショウビズ」であるな。 ● いちおう主役は「まったく売れない役者志望の、現状はケイタリングのウェイター」マシュー・モディーンと「ブロンドでなくて悪かったわね、だいたい男どものそういう処が…の、バリバリ活躍中のメイク係」キャサリン・キーナーの同棲6年目カップル。この2人にまあ色々あって、最後はいちおうハッピーエンドになるんだが、この予定調和のエンディングがじつはいちばん面白くなかったりして(大体、これ「ジョニー・スウェード」と同じ話だよな) ● 他にバック・ヘンリー、クリストファー・ロイド、キャスリーン・ターナー、デニス・リアリー、スティーブ・ブシェーミなどの面々が(たぶんとても安いギャラで)出演している。

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マトリックス(ウォシャウスキー兄弟)

SFの意匠にまどわされがちだが、本質的にはアクション映画である。2時間16分のうち、きっちり最初の1時間でダークなSFミステリーのネタを割って、あとはひたすらSFXアクションが全開。その意味でこれはまぎれもなく(製作を手掛けた)ジョエル・シルバー印の映画でもある。聞くところによると本篇はトリロジーとして構想されたストーリーの〈エピソード2〉にあたるそうで、なるほど“これから”ってところで終わってしまうのはそのためか。ヴィジュアル面だけでの評価なら文句なく ★ ★ ★ ★ ★ ● 本作はウォシャウスキー兄弟の2作目。デビュー作の「バウンド」はスタイリッシュなフィルム・ノワールだったが、あれは“引き出しのひとつ”に過ぎなかったようだ。「マトリックス」は1980年代以降のアメリカン・コミックスの世界と「ターミネーター2」、そして大友克洋の「AKIRA」や、押井守の「攻殻機動隊」といった日本製アニメーションと、ワイヤーワークを駆使した香港製カンフー・アクションを融合して、デジタルSFXの力ワザでハリウッドで“リメイク”した映画、といえる。そればかりか、この映画はブライアン・デ・パルマやデビッド・クローネンバーグの遺伝子を濃厚に受け継いでいるし、インターネット、RPG、さまざまなフェティシズムといった現代のヲタク文化全般に対する広い造詣が顕著。ひとつの偏った分野への偏愛ではなく、サブカルチュア全般への広い目配りが感じられる“遍愛” ● だが、そこがこの兄弟の強みでもあり弱みでもある。かれらは1つの唄を歌い続ける映画作家タイプではなく、あらゆるモノを吸収して、それを等価に(クールに)配置する、まさしくデジタルな感性を持っているように見受けられる。「運命を切り拓くのは自分の力だ」というこの映画のテーマは、そうした飾りのひとつに過ぎず、おそらくウォシャウスキー兄弟は信じちゃいないだろう。どれほど巨大な映画を手がけようと、全体のバランスを崩してまでもエモーションにこだわり続けるジェームズ・キャメロンとの、そこがいちばんの違いだ。 ● 何より特筆すべきは香港の袁和平(ユン・ウォピン)が武術指導を手がけていること。つまりキアヌ・リーブスやローレンス・フィッシュバーンが「ワンス・アポン・ア・タイム/天地大乱」のリー・リンチェイと同じ“型”で華麗なるカンフー・アクションを披露し、びゅんびゅん宙を舞うのだ! 例の、左手を体の後方に掲げ、右手を前に突き出して、おいでおいでをするキメのポーズもやってくれる^^) もっともクレジットを見ると袁和平は自分のスタント・チームを連れていったようだから、もしかしたら後で顔だけデジタル合成ですげ替えてるのでは?という疑惑もなくもないが…。

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グロリア(シドニー・ルメット)

なんとしても不可解なのは、オリジナル版の監督ジョン・カサベテスより5つも年上のシドニー・ルメットにリメイクを依頼したプロデューサーの意図である。オリジナルの「グロリア」は1980年の映画だから、カサベテスが51才の時に撮ったアクション映画を今年75才になる老人がリメイクしたわけだ。この守りの姿勢が敗因のすべて。 ● シャロン・ストーンが最悪。“優しさ”とセンチメンタルを勘違いしてる。キーキー喚くだけの感情まるだしのバカ女が、どうしてマフィアと対等に渡り合えるというのか。ガキにガキは救えない。だいたい本作は“ギャングの娼婦と黒人坊やの心の交流を描く”映画ではない。何よりもまず“身一つでマフィアと対決するタフで強い女”のハードボイルドなアクション映画であるべきなのだ。脚本家はこの事をまったく理解していない・・・てゆーか、こいつ頭が悪すぎ。そもそもオリジナル版のシチュエーションを改変した本作ではグロリアがガキを連れて逃げる必然性がまったくないし、他にも「マフィアの追っ手が電話を借りにダイナーに入ってきて、目の前に座ってるブロンド女(グロリア)に気付きもしない」とか、「逃亡するグロリアの前に丸腰で立ちはだかって逆にホールドアップされクルマまで奪われる」とか、「そのクルマを乗り捨てたグロリアが(見つけてくれと言わんばかりに)真正面にある教会でちんたら時間を過ごす」とか、とてもプロの脚本ではない。最悪なのはラストの展開で(ネタバレだが、ええい構うものか)グロリアはギャングの手からガキを取り戻して、神父に紹介されたNY郊外の寄宿学校に預けに行くのだが、「おいおいまさかもうアクションは終わりじゃないだろうな、このまま“母もの”のエンディングにするつもりじゃあるまいな」と危惧していると、まさしくその通りに“母もの”の展開となり、一度預けたガキをやっぱり取り戻して涙、涙、の再会劇となるのである。だが、その後に空港のベンチに座って2人でやくたいもない会話をたらたらと続けるので「なるほどオリジナルとは逆のパターンで、執念深く追ってきたギャングのボスに、ここで2人ともブッ殺される悲劇の結末か」とホッとしたのも束の間、2人は何事もなく新しい生活へと飛び立ってしまうのだ<それなら空港のシーンは要らねえだろ!…てゆーか、それじゃアクション映画にならねえだろ!…てゆーか空港のベンチに置き忘れたハンカチ(?)を延々と写してたのはどういう意味があるんだあ!(スッゲー気になる) ● シャロン・ストーンは脚本の酷さを差し引いても、まったく魅力的に見えない。マフィアの老ボス(ジョージ・C・スコット!)に「おまえを手放すんじゃなかった」と言われた時の“受け”の顔など、グロリアという女のすべてを凝縮したとてつもない笑顔を見せるべきシーンで、なすすべもなく薄ら笑いしか出来ないデクノボーぶり。 ● グロリアの愛人であるマフィアのボスの役者が弱い。どう見てもシャロン・ストーンより一回り年下に見えるのが困りもので、最悪の出来のシャロン・ストーンにすら位負けしてしまっている。ここはゲイリー・オールドマン級の役者が欲しかったところ。 ● …と、さんざんに貶しておいてナンだが、映画ファンたるもの本作を決して見逃してはならない。なぜならこれが9月22日に亡くなったジョージ・C・スコットの遺作だからである。晩年はTV出演が多くあまりスクリーンでその勇姿を拝むことが適わなかった老優の、あいかわらずの豪快な演技につつしんで ★ ★ ★ ★ ★ を捧げよう。また、遺作が映画館で上映中だというのに死亡記事(“追悼”ですらない)で一言も触れない日本の新聞/テレビには心の底から罵詈雑言を浴びせたい「テメーら映画なんか好きじゃねえんだろ! テメーらの口から“ジョージ・C・スコット”とか“パットン大戦車軍団”とか聞きたくねえんだよ、名前が穢れらあ!」 それから、確かに客の入りは悪いかもしれないが「追悼ジョージ・C・スコット」の貼紙ぐらい出したってバチは当たらんぞ>ニュー東宝シネマ1。

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リトル・ヴォイス(マーク・ハーマン)

マイケル・ケイン! 以上。 ● 一にも二にも、うらぶれた芸能マネージャーを演じるマイケル・ケインを楽しむ映画である。三流ドサ廻り芸人専門のマネージャーで、業界歴だけは長いから“永年のよしみ”ってやつだけで細々とクズ芸人をブッキングして糊口をしのいでる。時代遅れの真っ赤なオープンカーを乗りまわす、金箔刷りの名刺が自慢の、体に染みついた負け犬の臭いが、もう一生ぬける事はないであろう初老の男。そんな男がふとしたきっかけで“リトル・ヴォイス”の歌声を耳にする。自分では偽物しか扱った事がなくても、本物を聞き分ける耳ぐらいは持ってる。あの娘の歌声がどれほどの金の卵か判らないほど呆けちゃいない。この歳になってようやく捜し当てた幸運に、聞きほれているその泣き出しそうな顔。渋る娘を説き伏せる際にみせる名人芸の話術。まだ手にしたわけじゃない札束の山を、もうすっかり自分のポケットに入れた気で、いい気になって威張り散らすその愚かさ。結局、青い鳥は今回も自分の手から飛び去ってしまったと悟って、がなり散らす歌のやるせなさ。…絶品である。 ● タイトルロールの“リトル・ヴォイス”にはジェーン・ホロックス。劇中で歌われるジュディ・ガーランドやマリリン・モンローの歌真似を、なんと全部 自分で歌ってるそうでビックリ。それもそのはず元々 彼女のために書かれた芝居の映画化なのだそうだ。ステージのシーンは文句なく楽しい。彼女に想いをよせるハト気狂いの内気な青年にユアン・マクレガー。エキセントリックな役柄の多い俳優だが、案外こちらが地なのかも。ヒロインの自堕落な母親にブレンダ・ブレシン。じつはビリング・トップはこの人で、達者は達者なんだが悪達者。人情コメディの許容範囲を越えた嫌な女/母親ぶり。市原悦子を思わせる不快さで、観ていてマジで殺意を覚えた。

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サイコ(ガス・ヴァン・サント)

アルフレッド・ヒッチコック監督、1960年のモノクロ映画「サイコ」のリメイク。もし貴兄がまだ(どちらの)「サイコ」も観たことがないという幸せな人ならば、迷うことなく(例えビデオであっても)オリジナルのモノクロ映画をご覧になることをお勧めする。 ● [以下、オリジナル版を観ていることを前提としたネタバレあり]一言でいうなら矛盾だらけの映画。いや中身じゃなくて作り方が。カラー映画にしたことによって、シャワー殺人に流れる血もみごとに赤いのだが、そこにモノクロ版で流されたドス黒い血の衝撃はない。撮影監督として、わざわざ香港からウォン・カーウェイ作品で名を成したクリストファー・ドイルを連れてきて、ヒッチコック版のカメラワークをなぞらせている。客室を覗くノーマン・ベイツにマスまでかかしておいて、殺されるヒロインのセックス・シーン/シャワー・シーンは露出なし。そもそもこのリメイクでは「それまで主人公だと思っていたヒロインが冒頭30分で殺されてしまう」という史上空前のミス・ディレクションを観客が最初から知っているのだ。もちろんガス・ヴァン・サントには何らかの意図があって「オリジナル版を忠実にリメイクする」という方法を選択したのだろうが、それがどんな意図なのかおれには全く判らんね。こんなものを捧げられてもヒッチコックは迷惑顔で「もっと観客のための映画を」と答えるのじゃないか。たとえばロバート・ロドリゲスのエロ・グロ・バイオレンス「サイコ」とかなら(たとえ玉砕してても)まるきり別物として楽しめると思うのだが…。 ● この映画のポスターは、アメリカ版ポスターのビリングを和訳して英語タイトルロゴにカタカナで「サイコ」と乗っけただけの代物。コピーはなんと英語のまま(Check in. / Relax. / Take a shower.) 翻訳ぐらいしろって。舐めとんのんか>UIP

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サイコ(アルフレッド・ヒッチコック)

[ビデオ観賞]つまらない「サイコ」を観たら、面白い方の「サイコ」が観たくなって、ビデオ屋でヒッチコック版「サイコ」を借りてきた。で、あらためて観て驚くのはヒッチコック版「サイコ」はストーリーを知って観ても面白いという事実だ。これが演出力(とキャスト)の違いでなくてなんだろう。 ● 同じ脚本と、同じ構図で撮られた両作の最大の相違点は、マリオン・クレイン役とノーマン・ベイツ役のキャラクターの違いだ。えっ、同じ台詞を喋ってるのに? そう、同じ台詞を喋っていても、役者の違い、喋り方のニュアンスの違い、微妙な目配せひとつでキャラクターはまったく別人となりえる。ヒッチコック版でジャネット・リーが演じたマリオン・クレインは、安ホテルの一室のファースト・シーンから煮詰まっている。美貌には自信のあった自分も、もう若くはない。不倫の関係の恋人は、金がなくて女房と別れる目途すらたたない。彼の出張にかこつけての安ホテルでの逢瀬も自分が惨めになるだけだ。ああ、あたしは不幸だ。だから勤めてる不動産屋のお客さんが、4万ドルもの大金と、18でお嫁に行く幸せな娘の写真を見せびらかした時、あたしは「不幸を金で追い払う」気になったんだ。ヒッチコックとジャネット・リーは、追い詰められたマリオンの絶望的な気持ちをきちんと表現している。それだから観客には、投げやりになった彼女が金を持ち逃げする気持ちが理解できるし、パトカーの警官に疑われるサスペンスでも彼女の側にたって映画を観ることが出来るのだ。[以下、ネタバレ]彼女が悪女ではないと知っているから、ノーマン・ベイツとの会話で金を返して人生をやりなおす気持ちになったのも自然に納得できる。ここまでに観客がマリオンに完全に感情移入できているからこそ、突然の乱入者によって彼女が殺されたとき、観客は大変なショックを受けるのである。 ● ヴァン・サント版のアン・ヘッシュは1998年の働く女性だ。“嫁き遅れた”なんて言葉はとっくに死語になってる。しかも相手が色男ヴィゴ・モーテンセンじゃ手軽に大人のセックスを楽しんでるようにしか見えない。だから40万ドルの札束を見たときに、ジャネット・リーのようにそれが「人生の脱出口」に見えたわけじゃなくて、ただ単に遊ぶ金が欲しかったからネコババしたとしか見えない。しかも旅支度をする彼女はウキウキと楽しそうにカラフルな衣装にイヤリング…まるでバカンス気分だ。こういう女が40万ドルを手にしたら決して腐れ縁の不倫相手の元へなど向かうものか。独りで南の島へ直行するに決まってる(だからベイツ・モーテルへ泊まるはずもない) 従ってそんな女が殺されても観客は別に痛くも痒くもないのである。 ● ヒッチコック版のノーマン・ベイツ役はもちろんアンソニー・パーキンス。結局はこの役に役者人生を摂り殺されちまったような決定的な役だ。ほかのどの役者に代役が務まるはずもない。そう、つまるところリメイク版のもっとも無謀な点はアルフレッド・ヒッチコックの傑作をリメイクしようとした事でも、オリジナルの脚本&構図をコピーした事でもなく、アンソニー・パーキンス以外の俳優にノーマン・ベイツ役が出来ると考えた事なのだ。 ● ノーマン・ベイツは登場した瞬間に観客が好意を抱かずにはいられないような、人の良さそうな青年である。母親を愛する心優しい青年。母親に怒鳴られてしょんぼりしているノーマンに同情すらする。この基本的な感情は食事中のマリオン・クレインとの会話で、エキセントリックな影がチラリと見えた後でも変わることはない。だからこそ、壁にかかった額を外して、そこに覗き穴があるのを知ったとき観客は大いに驚くのである。狂った母親を必死でかばう青年…ヒッチコックのミス・ディレクションは第一の殺人の後でも有効に作用する。観客が母親の存在を完璧に信じているから、保安官の口から母親が10年前に死んでいることを知らされても「それではあれ墓から甦ったこの世のものではない者か」と更なる恐怖に怯えることになる。 ● 一方、ヴァン・サント版で“母親”の存在を最後まで信じているのはガス・ヴァン・サント自身とノーマン・ベイツだけだろう。少なくとも演じたヴィンス・ヴォーンは信じてないな。だって、この浅はかな男優は端っから「おれが殺した。おれは異常者だ」ってな顔してるもの。人を小馬鹿にしたヘラヘラという薄ら笑い。観客に反感を抱かせるのに充分すぎるほど。観客に最初からこいつが犯人だと知れてしまうので、カツラをかぶったノーマン・ベイツが登場しても、アンソニー・パーキンスのときのような本物のキチガイを目にしてしまった時の何とも言えん戦慄は感じないし、警察署の留置場で毛布をさし入れたときの「ありがとう」という女の声に背筋がゾクッとなることもない。ラストシーン、正面からノーマン・ベイツを写したカットの、その唇の歪みの怖さが、ヴィンス・ボーンからはまったくもって感じられないのだ。 ● というわけで前言訂正:すでにヒッチコック版「サイコ」を観ている人は、ぜひガス・ヴァン・サント版「サイコ」もご覧になることをお勧めする。映画が演出家によってこれほどまでに変わるものかという事を実感できるから。リメイク・ブームとはいえ、同じ脚本&同じ構図でリメイクするような愚挙はこれ一度きりだろうし(ヒッチコック自身だって「暗殺者の家」と「知りすぎていた男」とでは別ものだ) ガス・ヴァン・サントがいかに大馬鹿者であるかという事が改めてよおくわかった。もっとも一番の大馬鹿者はこの原稿を書くためにもう一度ヴァン・サント版「サイコ」を観に行ってしまったおれかも…(火暴)

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実録外伝 武闘派黒社会(那須博之)

製作:大映 製作協力:東映東京撮影所 脚本:那須真知子 撮影:森勝 美術:和田洋
的場浩司|押尾学|中園りお|川本淳一|哀川翔|峰岸徹
世が世ならば東映番線で全国公開されていたであろう傑作。これだけの品質の映画を、おそらくは雀の涙ほどであろう製作予算で作りあげたスタッフの力量に心から敬意を表する。それをなし得たのは「製作協力」とクレジットされる東映東撮の底力と「客にみっともない代物は見せられねえ」というプロとしての誇りだろう。 ● 本篇には3人の主人公がいる。1人目は「不夜城」の健一を思わせる男 リュウ。間諜と知らず日本人と結婚したことを紅衛兵に責められ母が自殺、孤児となって歌舞伎町の闇に流れ着いた。自分を捨てた日本人を、母を自殺に追いやった中国人を、…世の中すべてを恨んでるガチガチのハードボイルドなキャラは、血走った目をかっぴらくしか能のない的場浩司にまさに適役。2人目はポルノショップの店員ユウジ。演じるのはV6の若い方の長髪(名前知らん)に良く似た押尾学。この若者は兄貴分(哀川翔)を組の命令で殺して少年院に入っていた元ヤクザだ。かつての仲間で今は組長にまで成りあがったイサオ(Vシネマのスター、川本淳一)は、執拗にユウジをヤクザの世界へと引き戻そうとする。そして3人目が18才のホテトル嬢ナルミ(中園りお)。客のヤクザを殺してシャブを持ち逃げ、リュウが用心棒をしている中国人マフィアと、イサオの率いる日本人ヤクザの双方から追われることになる。そこに峰岸徹 演じるシャブ中のマル暴刑事がからんで三者三様の複雑にもつれた〈宿命のドラマ〉が展開する。 ● ジャンル映画でありながらジャンルの枠を大きくはみ出すスケールの物語を紡いでみせた那須真知子の脚本が特筆に価する。それだけで映画が1本撮れるほどのドラマを抱えた主人公を3人も設定したことによる“無謀”とも言えるドラマの総量をかっちり100分に収めてみせた力業はお見事。そして那須博之の力強い演出−−1988年に「ビーバップ・ハイスクール」シリーズを完結させて以来、那須博之はまともな新作を撮れずにいる。本作とて「ビーバップ…」の焼き直し企画「ろくでなしBLUES」と、ジュブナイル「地獄堂霊界通信」を1996年に撮って以来3年ぶりの新作。それも三池崇史がはじめた中国人マフィアものの後追いVシネマの雇われ監督だ。やっつけ仕事になってもおかしくない状況で、那須は腐ることなく果敢に挑戦をつづける。自己の“縮小再生産”に陥ることなく、ジョン・ウーやウォン・カーウェイまでパクッてみせる旺盛さである。撮影は日活ロマンポルノ以来の盟友・森勝。“プロのカメラマン”の手にかかれば映画の格が2割も3割もアップする事を今更ながらに実感させられる。そして和田洋のセット! どうしてこのクラスの作品でこれほどのセットが組めるのか見当もつかない。揃いも揃ってまさにプロの仕事である。 ● と、なると非難さるべきは大映の宣伝&営業スタッフだろう。スクリーン上にはシンプルに「武闘派黒社会」と映し出されるタイトルに「実録外伝」という、内容とかけ離れた看板をぶら下げ、ポスターデザインはまるっきり「仁義なき戦い」のパチ物。それも新宿昭和館で旧作に混じっての捨て公開というテイタラク。せっかくの傑作を見殺しにしてしまった。

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ノッティングヒルの恋人(ロジャー・ミッチェル)

まさにヒュー・グラントの十八番(おはこ)。つまり、ハンサムで愚図な男がおろおろする映画。 ● おそらく作者にとって計算外だったのは「ハリウッドの映画スターとロンドンの本屋」のカップルが意外と不釣合いに見えない事。ジュリア・ロバーツは「たまたま女優という仕事をしてる、ちょっとワガママなヤンキー娘」という感じで、とうていヒュー・グラントと別の世界の人間には見えない。したがって王女様と新聞記者のようなカルチャー・ギャップが生まれないのである。よくある遠距離恋愛って感じ。これはジュリア・ロバーツのせいではなくて(彼女はロマンチック・コメディのヒロインの役割をきちんとまっとうしている)、他のハリウッド女優を起用しても同じ結果だったろう。いまどきの女優に神聖とか高貴とかいった要素を求めることが無謀なのだ。かえってマドンナあたりの方が別の意味でギャップは大きかったかも。 ● ということで、単純に「フォー・ウェディング」の脚本家の新作として観るぶんには、ロンドンの友人たちの描写は相変わらず上手いしお話もほとんど同じなので楽しめる。

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Hole(ツァイ・ミンリャン)

世紀末。降りつづく雨。蔓延する正体不明のウイルス。廃墟化した高層アパート。孤独な男と女・・・「ブレードランナー」? いやいやこれは唐十郎だ。かれが得意としてきた“孤独とその救済”をテーマとするノスタルジック・ファンタジーの世界。それが証拠に幕間には、笠置シズ子ライクなミュージカル場面まで用意されているではないか。石橋蓮司&緑魔子の劇団第七病棟で上演したらピタリとハマりそう。この“映画版”の主役はツァイ・ミンリャンの座付き役者にして世界一 ランニングシャツと白ブリーフの似合う男、リー・カンション(李康生)と、疲れた年増っぷりがなかなか艶っぽいヤン・クイメイ(楊貴媚) これでラストに書割の背景が倒れて台北の夜の街に歩き去ってくれたら完璧に紅テント(唐組)だったんだが。

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ビートルズ イエロー・サブマリン[UKバージョン](ジョージ・ダニング)

製作30周年を記念して、画・音ともにデジタル・リマスタリングされたビデオ&DVDが発売された。そのプロモーションの一環として全国何館かで35mmフィルムによる限定公開が行われている。この「UKバージョン」はUS版と較べて「HEY! BULLDOG」が全曲収録されているほか、細かいカットに違いがあるそうだ(おれは初見なので詳細不明) ● サイケでシュールでナンセンスでラブ&ピースなアニメーション映画。「モンティ・パイソン」でコントのブリッジに使われていたテリー・ギリアムのアニメや、昔「11PM」でやってた九里洋二のナンセンス・アニメに近い味わい。まあどうという事のない内容だが、WMCの最新鋭の音響設備でDTS再生されるサウンドはクリアなので、90分のビートルズのMTVに付き合える人にはお勧めする。但し、端からヨーロピアン・ビスタサイズのことなど考えに入れてない設計のWMCなので、天地が少しずつ切れて上映されるのを覚悟すること。 ● なお、東京ローカルでは恵比寿ガーデンシネマで2日間のみレイトショー上映。この時のチケットはあっという間に売り切れたが、その後、追加で一週間興行を行ったワーナーマイカルシネマズみなとみらいの日曜日 夜9時25分の回は、観客が10人だった。横浜にビートルズ・ファンはいないのか? [追記]その後、12月に渋谷シネパレスでレイトショー上映された。

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葡萄酒色の人生 ロートレック(ロジェ・プランション)

19世紀末のパリはモンマルトルを主舞台にした風俗メロドラマ。フランス映画だから〈起承転結〉とはいかず〈起承だらだら転だらだらだら結〉なのだが、いちおうちゃんとした〈結〉のある娯楽映画に仕上がっている。画家にして史上初の広告絵師ロートレックを主人公に、ルノワールやゴッホ、ドガといった有名人や、華やかなりしムーラン・ルージュの“フレンチ・カンカン”の饗宴、そして沢山のキレイなネエちゃんたちが賑やかに画面を彩るなか、青年ロートレックの“愛と別れ”“夢と失意”が描かれる。 ● それにつけても忘れがたいのはパリの娼館の素晴らしさよ。由緒あるホテルのような荘厳な建築。華やかな飾りつけを施されたロビーでは、でっかい回転テーブルの上で下履きすら着けてない何人もの美女たちが、しどけないポーズでぐるぐると廻っているのである! まさに天国だ。くそぉ、生まれる時代を間違えた。おれは19世紀末のパリに貴族の子として生まれるべきだった。

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ヴァーチャル・シャドー 幻影特攻(ジングル・マ)

しかし、およそ世の中で広東語ほどSFに不似合いなものは無いな。いくら海外ロケを敢行して、CG-SFXを多用して、格好良いセットを組んでも、ひとたび例の尻上がりのイントネーションで台詞が発せられたとたんに、すべてのSF的リアリティは銀河の彼方に吹っ飛んでしまう(ま、外人が聞いたら日本語も似たようなもんかも知らんが) ● 本作では〈VR戦士〉というもっともらしい設定が出てくるのだが、そこは香港映画なのでSF的裏付はテキトーにうっちゃって、さっさとアクションに突入する。それは良いのだが、なんとこの映画、ウォン・カーウェイの手法で撮られたアクション映画なのだ。つまりきちんとドラマやアクションを描写することをせずに、延々とスローモーションやらセンチメンタルな心象映像やらが たれ流される。監督はベテラン・カメラマンの馬楚成(ジングル・マ)。本作が監督デビューであるが、今回は料理の仕方を間違えたとしか言いようがない。たしかに今をときめく「欲望の街(古惑仔)」「ストーム・ライダーズ(風雲)」のアンドリュー・ラウもカメラマン出身で映像派だが、まず骨格のしっかりしたドラマを構築した上での、あの映像なのだ。ナルシスティックな映像をだらだら観せられても眠くなるばかり。 ● イーキン・チェン、陳小春(チャン・シウチョン)、ケリー・チャンの出演。

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オースティン・パワーズ:デラックス(ジェイ・ローチ)

「期待したほど面白くなかった」というのが前作の感想だが、この続篇はくすりともしなかった。(正直に言うと「スターバックス」ネタだけは笑ったが) 何処がいけないのか?・・・真面目に作ってないからイカンのだ。いやいや、冗談で言ってるのではない。〈B級スパイ・アクション〉のパロディ(スプーフ?)を作りたいのなら、まず脚本でジャンルの基本的な骨格をきちんと踏まえて、そこから逸脱することによって初めて面白さが生まれるわけだ。前作にはまだかろうじて残っていた“プロット”と呼べるものが本篇には影も形もない。ハナから骨格もクソもあったもんじゃない、まさしくフニャチン映画。 ● ヘザー・グラハムはミスキャストでしょう。こんなチンチクリンな、女子学生のような女スパイなどいるものか。前作のエリザベス・ハーレーの方が“グラマー”という言葉に相応しかった。 ● 映画の内容とはまったく関係なく、エルビス・コステロのおっさんがバート・バカラックのじじいと共演するシーンのみ必見。

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ヒーロー・ネバー・ダイ 眞心英雄(ジョニー・トー)

香港“四大天王”の1人レオン・ライと眉毛男ラウ・チンワンが、がっぷり四つに組んだガチガチのハードボイルド。明らかに「男たちの挽歌」へのオマージュだが、本作を観たあとではジョン・ウーがおままごとに見えるほどのハード・アクション。なにしろ、ある者は両足を失い躄(いざり)になり、ある者は全身大やけどでミイラのようになり、あらゆる登場人物が虫けらのようにブチ殺され、最後には全員が死に絶えるという凄まじさ。香港以外では絶対に映画化不可能。深作欣二「仁義の墓場」をも凌駕する荒涼たるバイオレンスの極北。大傑作。 ● 激しい抗争を続ける2大やくざ組織。それぞれの組にはバリバリの武闘派で“切れ者”の頭(かしら)がいる。切れすぎて組長から煙たがられているのも同じ。だから両組織が面子よりも金子(きんす)を選択したとき、2人の男は組織の汚い裏切りにあう…。と、ここまでが前半で、レオン・ライとラウ・チンワンの火花散る激突は、大映が誇る2大スター 市川雷蔵と勝新太郎のそれを思わせる。クールで寡黙な優男(やさおとこ)と がさつでスケベな荒くれ。かたやスタイリッシュなブラック・スーツ、かたやテンガロン・ハットにウェスタン・ブーツ。何から何まで対照的な2人は、だが互いが互いの鏡像でもある。「おれの事を本当に理解できるのはアイツだけ」なのだ。だから組織から糞のように捨てられ、愛する女も失ったとき、2人の男は共闘する運命にある。 ● それにしてもスゲー。特に後半、物語が暗転してからの陰惨きわまりない展開は常軌を逸している。はっきり言ってムチャクチャである。そして、こんな終わらせ方を観るのは初めてだ。まさしくヒーロー・ネバー・ダイなのだが、うーん、ビックラこいた。 ● そして男どもを支える女たちがまたいいのだ。レオン・ライの恋人は女子大生かと見紛うような素人女(蒙嘉彗/ヨーヨー・モン)、ラウ・チンワンの情婦は秋野暢子似の伝法なガラッパチ(梁藝齢/フィオナ・リョン)。だが、どちらの女も肝の座り方は一級品で、ひとたび惚れた男の危機ともなれば、文字どおり命を張って敵と立ちむかう烈しさを持っているのである。 ● 監督はジョニー・トー(杜棋峯) 本作だけでなく、自らは製作にまわりパトリック・ヤウが監督としてクレジットされた「ロンゲストナイト 暗花」(★ ★ ★ ★ ★)まで「実際は私がほとんどの部分、監督として働いたようなもの」(パンフより)と言われては、従来の「さまざまなジャンルの作品をそこそこにこなす便利屋」というイメージを全面撤回せざるを得まい。それにしても、どこにこんな資質が潜んでいたのか。だって「城市特警」「俺たちは天使じゃない」「過ぎゆく時の中で」「チョウ・ユンファ ゴールデン・ガイ」「ワンダーガールズ 東方三侠」「風よさらば 天若有情2」「マッドモンク 魔界ドラゴンファイター」「アンディ・ラウ 戦火の絆」の監督だぞ。謎だ。こうなったら「ロンゲストナイト」&本作と三部作をなすという「非情突然」もぜひ公開していただきたい(おそらくサイモン・ヤム&ラウ・チンワンという渋すぎるキャストがネックとなっているのだろうが…)

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肉屋(アウレディオ・グリマルディ)

これはやっぱりタイトルの勝利だろ。イタリア製ソフトコア・ポルノでタイトルが「肉屋」だぜ。こう…グッとくるものがあるよな(ない?) 千円サービスデイに観たのだが場内はスケベな善男善女で満員だった。内容はよくある欲求不満人妻もの。ところが・・・開映して1時間たっても焦らすだけ焦らせておいて期待してたコトがまったく始まらないのである。おれは退屈して出てきてしまった(まあもう少し我慢してりゃご褒美がもらえたんだろうが) それにしても、肉屋はきっとアントニオ・バンデラスのような汗臭い若者だろうと思っていたら、出てきたのはウォルター・マッソーのような すっとぼけた おっさんだった。どうもイタリア女の好みはよく判らん。

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エリザベス(シェカール・カプール)

脚本:マイケル・ハースト 撮影:レミ・エイドファラシン 編集:ジル・ビルコック
美術:ジョン・マイヤー 衣裳:アレクサンドラ・バーン 音楽:デビッド・ハーシュフェルダー
「仁義なき戦い フランス死闘篇」(「王妃マルゴ」ともいう)に続く海外跡目争いシリーズ第2弾は題して「仁義なき戦い 英国頂上作戦」。カトリック対プロテスタントの宗教対立を背景にした血なまぐさい英国王朝の権力抗争が深作欣二を彷彿させるダイナミックな演出で展開する息をもつかせぬ2時間4分。大傑作。 ● 16世紀のイングランドでは、同じ“親筋”の関東カトリック一家プロテスタント興業が熾烈な縄張り争いを演じていた。権勢をふるっていた血まみれマリー(ブラディ・マリー)の異名を取るカトリック一家系の当代組長(金子信雄)が病死、先代組長の妾腹(めかけばら)の子であるプロテスタント興業系のエリザベスが若干25才で跡目を継ぐ。エリザベスは強引に組を、英国国教会連合会として一本化するが、関東進出を狙う“神戸”(バチカン)はエリザベスを破門、各国の親分集にエリザベス暗殺指令を出す。長年に渡り敵対関係にあるスコットランドの女傑ファニー・アルダン(清川虹子)や、フランス、スペインなどの列強がエリザベスの縄張に触手をのばす。一方、組うちではカトリック一家の残党である千葉真一室田日出男梅宮辰夫らが虎視眈々とエリザベスの首を狙う。頼りとすべきプロテスタント興業の代貸しリチャード・アッテンボロー(内田朝雄)は近隣の強大なフランス一家の“若”ヴァンサン・カッセル(松方弘樹)や、老獪なスペイン一家組長(遠藤辰雄)との“杯外交”ならぬ“結婚外交”に逃げを打とうとするばかり。エリザベスは関東処払いから戻った切れ者の若頭ジェフリー・ラッシュ(成田三樹夫)を参謀役に起死回生の反撃に打って出る…というじつによく笠原和夫脚本を研究したストーリー。組の人足頭ジョセフ・ファインズ(菅原文太)との身分違いの恋が重要なサブ・プロットとなっている。 ● 監督のシェカール・カプールはなんとインド人(これって崔洋一が昭和天皇を映画化するようなもんか?) この監督が“「仁義なき戦い」を観たことがない”と言い張ってもおれは信じない。なにしろ“脱ぎ役”のネエちゃんまで出てくるのだからな。さらに言えば、合戦の描写は黒澤明の「乱」であり、クライマックスは見事なまでに「ゴッドファーザー」だ。まさにマサラ・ムービーで鍛えた娯楽映画魂! ● 過去の名作からの“引用”が顕著な本作にあって唯一無比、オリジナルな存在が主役の“ヴァージン・クイーン”エリザベス1世であり、演じるケイト・ブランシェットである。宣伝コピー曰く「愛を脱いで、王冠を着る」稀代の烈女を個性豊かに演じきり、岩下志摩もはだしで逃げだす胸のすくような啖呵まで聞かせてくれる「私には男妾(おとこめかけ)が1人。夫は持たぬ」。うーん、思わず「姐さん!」と声をかけたくなるカッコ良さだ。 東映オールスターキャストの名だたる助演陣のなかでは(役柄で得してるが)ジェフリー・ラッシュが出色。出番が少ないながらもファニー・アルダンが「リディキュール」に続いて時代劇演技の粋を魅せる。 ● 「仁義なき戦い」をはじめとする現代ヤクザものを観なれておられる諸兄ならば、事前の予備知識などいっさい不要。新宿昭和館ではおなじみの血沸き肉踊るヤクザ映画である。

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黒猫・白猫(エミール・クストリッツァ)

脚本:ゴルダン・ミヒッチ 撮影:ティエリー・アルボガスト 演奏:NO SMOKING
映画を観て語る言葉をなくすのには2通りある。あまりにも酷い場合と、あまりにも素晴らしい場合だ。この豊穣な傑作を前にして言葉など何の意味があるというのか。(でも書くが…)はっきり言ってストーリーはメチャクチャ。いい加減このうえない。死んだはずの人間が何の説明もなくしゃあしゃあと生き返ったりするような映画である。脈絡も論理も整合性もない。いいのだ、それで。おれが連想したのはフェデリコ・フェリーニの「私が目指しているのは、映画を観終わった後に、まるで一枚の絵画を見た後のような単一のトータルなイメージの残る映画だ。今まででは『サテリコン』がそうしたものに一番近かった」という言葉。「人生は祭りだ」って台詞もあったな。その通り。「黒猫・白猫」は祭りの映画だ。このイカれた狂騒の後で観客の脳裏に残るのは、あらすじなどではなく、さまざまな妙チキリンなイメージの数々・・・テメエの腹の上で一人二役ポーカーをやって負けてマジで悔しがってるヒゲのおっさん。オンボロ自動車をむしゃむしゃ喰ってる(牛のようにでかい)野良豚。活気にあふれた大阪市西成区の大衆食堂の光景。踏切遮断機の首吊りシーソー。やたらめったら大量に画面を走りまわるガチョウ。大立者が乗っている奇妙奇天烈な乳母車ビークル。ひまわりひまわりひまわりひまわりひまわり。「カサブランカ」のラストシーンだけを繰り返し繰り返し観てるジジイ。ケツで釘を抜くオペラ歌手。白猫をバックからカマしてる白猫。逃げまわる木の切りかぶ。そして船は行く…。 ● フェリーニと違うところは、かのローマ人の映画が過去を懐かしむノスタルジーの映画であったのに対して、このユーゴの悪たれは、大いなる希望を抱いて明日を見つめているということだ。そして、おれたちの希望はエミール・クストリッツァがまだ44才だってこと。控えめに見積もってもあと20年はコイツの新作を観られるって訳だ。生きる希望が湧いてくるってもんじゃないかね?

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メッセンジャー(馬場康夫)

ホイチョイ・プロダクションズ 8年ぶりの新作は、自転車便を題材にしたゴールディ・ホーンもの。つまりプロのコメディエンヌが必要とされる映画である。飯島直子には荷が重過ぎた。軽快さを欠いた馬場康夫の演出に喜劇の才なし。それになんかどうしようもなく1980年代してないか、この映画? 30分で途中退出。

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アルナーチャラム 踊るスーパースター(スンダル・C)

シャー・ルク・カーンが北インドのスーパースターなら、マドラスを中心とした南インド=タミル語圏のスーパースターは言わずと知れた「ムトゥ 踊るマハラジャ」のラジニカーント兄貴である。北インドと南インドのあいだには、東京と大阪のそれにも似た対抗心があるようで、去年の東京ファンタに「DDLJ」を持ってきた北の人は「ムトゥ」が日本で大ヒットした事について聞かれて「あんな田舎者の映画と一緒にしてくれるな」と露骨に南インドを見下していた。たしかに映画のタッチも「DDLJ」を東宝映画とするならば、ラジニ兄貴の映画は東映映画だ。それも鈴木則文・牧口雄二の路線の。つまり何事にも南の映画は泥臭いのだ。ギャグの質も吉本新喜劇。なにせ主演が若山富三郎だからな。もちろんそれもまた魅力ではあるのだが。 ● 本作もいつものラジニ映画。すなわち、ラジニ兄貴はオープニングからすでに皆の尊敬を一心に集めるスーパースターで女にもモテモテ。お約束の青天の霹靂的な出生の秘密が明かされて一度は奈落に落とされるものの、落ちこむ間もなく一発大逆転を決めて、名誉も女も手に入れる大団円。物語の整合性とかは二の次で、すぺては「兄貴なら何をやっても許される」という前提の基に成立している映画である。出来としては「ムトゥ」に一歩も二歩も譲るのだが、こーゆー映画の前で出来の良し悪しを論ずるのは無意味という気もする。 ● いつものようにダブルヒロイン制で、インド美人のサウンダリヤーと、白人顔のランバーが美貌と肢体をあでやかに競うのが目の至福であった^^)

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少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録(幾原邦彦)

脚本:榎戸洋司 美術:小林七郎 音楽:光宗信吉+J・A・シーザー
おれは深夜アニメやビデオ・アニメをまったく観ない人間なので、本作との接点はゼロ。予告篇を観ても「何がなんだかわからない」状態。ただ、(演劇実験室 天井桟敷の出身で、演劇実験室 万有引力を主宰する)J・A・シーザーが音楽を担当していて、(やはり演劇実験室 天井桟敷の出身の)高取英の月蝕歌劇団が演劇化していると聞いて、なるほどそっち方面の話かと思って観に行ったわけだ。で、見事にそっち方面の話であった。一言でいうなら「アングラ宝塚のメタ演劇」(これだけで意味が通じる人にはお勧めの傑作) ● 全篇を覆いつくす薔薇の意匠。全寮制学園。天空の楼閣。男装の少女。王子様の不在。墨と朱。薔薇の刻印が刻まれたリング。セーラー服のパンツより短いスカート。天上薔薇園。デュエリスト。薔薇の花嫁。生きながら死んでいる。エクスカリバー。世界を革命する力を。鳴りわたる鐘。あんぐら。天から世界に降りそそぐ薔薇の花弁。満点の星空。埋められた死体。失われた記憶。空に舞い上がる薔薇の花弁。閉じられた世界。永遠。世界の涯て。麦藁人形。青空。 ● なんでもオリジナル・シリーズとは設定をずらしてあるそうで、初めて観る人間でもとまどうことなく物語に入っていけるように作ってある。しかし「エヴァンゲリオン」映画版のときにも思ったことだが、オリジナル・シリーズを愛してきた人たちは映画版でその世界を(その世界を耽溺しているファンを)完全否定されて怒らないのだろうか? 学園の王子様の声を、ミッチーこと及川光博が演じているのがハマりすぎ。 ● この映画、↓の「アキハバラ電脳組」と2本立なのだが、まるで完全入替制のようにごそっと客が入れ替わってしまう。こんな光景は初めて見た(何のための2本立だ) それぞれのアニメ(とミッチー)に熱烈なファンが憑いていて、おたがいほかの映画に興味はないってことなんだろうが、それって監督が映画版「ウテナ」に託したメッセージが誰にも伝わってないってことだぞ。

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アキハバラ電脳組 2011年の夏休み(桜井弘明)

おれは深夜アニメ(以下同文)で、本作もまったくの初見。こちらはオリジナル・シリーズのファン以外は観なくてよしと開き直った作り方。「セーラームーン」のような美少女変身戦隊ものがもともとのフォーマットのようだが、それが判明するのはラストの10分になってから。それまでは髪の毛の色以外はまったく同じ顔をした5、6人のキャラクターによって自己言及的ギャグが、けたたましく、とてつもない早口で延々と繰りひろげられる。おれのような年寄りにもわかる表現で言えば、ヒョウタンツギとアッチョンブリケと欄外フキダシだけでストーリーが進行していくのである。典型的な自家中毒症状だ、それもかなり重症の。これもひとつの生き残る手段ではあろうが、結局は自分の首を絞めてるだけなんじゃねえのか、というのは年寄りの繰言か。 ● まあ、それなりに飽きずに観てしまったわけだが、宇宙に浮かぶ「王子様」の正体と、女の子たちが(変身しない子も含めて)全員連れている犬のような「不思議な生き物」が何なのか最後まで判らなかった。こーゆーことを冒頭3分のナレーションで説明してもらうってのは、そんなに無理な相談かね? だったら、そういう基本的なことぐらい解説しとけよな>東映HP。調べようにもパンフは2本別々で各1,500円(!)

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セレブリティ(ウディ・アレン)

(シリアス系統ではない)いつものウディ・アレンもの。今回は主人公が40才を迎えてあたふたと不安感に苛まれるお話なので主演を若いケネス・ブラナーに任せているのだが、このシェイクスピア役者、なにを思ったかウディの“完コピ”で全篇を押し通すのである。どもり方や声の上擦り方までソックリで、何のためにそこまでしてるのか皆目検討がつかないってのがまたスゴイ。まあそれを言うならウディの書いた脚本に問題があるんだが、お馴染みの小心者&見栄っ張りキャラはウディの冴えない顔&貧弱な体格だからこそ似合うんであって、ケネス・ブラナーの顔と胸板でやられても違和感が残る。こんなことなら自分で演れば良かったのに>ウディ。 ● 先ほどからウディ、ウディとなれなれしくファースト・ネームで呼んだりしてるが、じつはウディ・アレンは古今東西でおれが一番好きなコメディアンなのだ。とても他人とは思えない。出来ればああいう中年→老人になりたいものだ。 ● 今回いつもとちょっと違うのは、ジュデイ・デイビスがケネス・ブラナーに離婚される妻の役で、もう1人の主人公としてフィーチャーされていて、彼女の物語も同時進行していくところ。もっとも彼女の方も完全にウディ・アレン的キャラで、だからこの映画は「男のウディと女のウディに分裂したウディ・アレンが有名人の世界でおろおろうろうろするお話」と言えるかもしれない。 ● 「甘い生活」のウディ版と評する人が多いようだが、おれは全然違うと思う。だってこれ、人生を振り返ったり、自己の内面を分析するような映画じゃないし、ラストだってフェリーニの詩情とは無縁だ(“だから駄目だ”と言ってるのではないぞ。“違う”と言ってるだけだ) ● なんでも次回作には満を持してヒュー・グラントが登場するそうで、いやじつに楽しみだのう^^)

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エントラップメント(ジョン・アミエル)

頭のわるぅーい「ルパン三世」もの。〈年をとった世界的な大泥棒〉などという非現実な役を演じて不自然でないのはショーン・コネリーかロバート・デ・ニーロぐらいのものだろう。峰不二子にキャサリン・ゼータ・ジョーンズという選択もかぎりなく正しい。ああそれなのに! ● 〈虚々実々の駆け引き〉とか〈不可能を可能にする華麗なる盗みのテクニック〉が売物の映画のはずなのに、脚本家チームの頭と演出家のカンが悪すぎて画面で何が進行しているのかよく判らないのだ。ではせめて派手な見せ場でもあるかといえば、アクション映画としても二流品とくる。 ● じつを言うと、つまらん映画だということは予告篇で察しがついたので、おれはキャサリン・ゼータ・ジョーンズのお色気だけを目当てに劇場へ足を運んだのである。ああそれなのにジョン・アミエル、おまえはゲイか! せっかく思う存分ダイナマイト・ボディを視姦するチャンスを得ながら、レーザーセンサーを潜るアクロバティックなシーンで、なぜレオタードを着せない!? 水泳のシーンがあるのに、なぜ薄さ0.1ミリのハイレグ水着を着せない!? 「サイズは6号だが4号を着ると似合う」など前振りまでしといて、なぜボディコンの胸の谷間を強調したドレスを着せない!? 御大に「裸の女の言うことは信じるな」とまで言わせておいて、なぜ肝心のバストが影になって見えないのだ!? 御大と共演する栄誉を得たのだぞ。騎乗位のセックス・シーンのひとつも見せるのが礼儀ってもんだ(←筋ちがいな期待) ● それにつけてもマイケル・ダグラスとはなあ。「ショーン・コネリーと共演中にくっついた」とか「白豚女房に嫌気がさしたアントニオ・バンデラスと不倫」とかなら、まだわかる。だが、よりによってセックス中毒のおっさんとはなあ(嘆息) まるで藤原紀香と中尾彬のような組み合わせだ(違うか) キャサリン・ゼータ・ジョーンズの滑らかな背中も、この肌の上をマイケル・ダグラスの舌が這いまわってるなどと考えただけで、ありがたみ半減である(泣)

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ファミリー・ゲーム 双子の天使(ナンシー・マイヤーズ)

製作:チャールズ・シャイアー 脚本:ナンシー・マイヤーズ&チャールズ・シャイアー
撮影:ディーン・カンディ 美術:ディーン・タヴラリス 音楽:アラン・シルベストリ
互いの存在を知らぬまま、離婚した両親に別々に育てられた双子の姉妹がサマーキャンプでぐうぜん再会、洋服を取りかえっこして互いの親のところへ戻り、両親の仲直り作戦を開始する・・・おなじみケストナーの「ふたりのロッテ」の映画化。ただし、ママはロンドンの裕福な実家でウェディング・ドレスのデザイナーとして大成功、パパは北カリフォルニアのブドウ農園を経営する大金持ち、かろうじて東洋人の子供とメキシカンのメイドが出てくるが、黒人なんてものがこの世に存在しないパラレル・ワールドを舞台にした夢物語である(もしかしたらディズニー映画には「黒人を出してはならない」って規則があるのかも) ● 「赤ちゃんはトップレディがお好き」「花嫁のパパ」「アイ・ラブ・トラブル」「花嫁のパパ2」と、“新しい皮袋に古い酒を注ぐ”ことにこだわり続けるナンシー・マイヤーズ&チャールズ・シャイアーの夫婦脚本家チームは、本作でも頑としてオールドスタイルの価値観と幸福を描きつづける。ケータイ電話とプラダのリュックを取り除いて、モノクロ画面にすれば、そのまま1950年代の映画でとおるほど旧態然とした映画を、まるでそれが唯一のあるべき姿とでもいうように。 ● 言うまでもなくこの夫婦は確信犯である。大人にとっても…子供にはそれ以上にハードな この1999年という時代に、自分たちがディズニー映画の観客に対して何を見せるべきなのか。「嘘でもいいから幸せな夢を見せてあげたい」というのが、彼らの選択だ。観客はひととき辛い現実を忘れて約束されたハッピーエンドを堪能する。いまのところ、本年度のベストワン。 ● 大きな男の子のようなデニス・クエイドと、ヒステリックに怒ったりしない優しいナターシャ・リチャードソンは、まさに子供が“こんなパパとママがほしい”と願わずにいられない理想のカップル。そして、なんといってもこの映画を支えているのは、コンピュータ合成の力を借りて一人二役で双子になるリンゼイ・ローハンちゃん(撮影時11才) 自分が親なら“こんな子供がほしい”と願わずにいられない、お転婆でけなげな そばかすだらけの赤毛の女の子を元気いっぱいに演じている。3つのときからモデルやCM出演をしていたそうで、いかにも子役然とした演技もかえってこの映画には似つかわしい。 ● 原作ではたしか、双子の片方がお転婆、もう片方がお淑やかで、だから取りかえっこして、今までお淑やかだったお嬢さんが突然 お転婆になったり、お転婆娘が急にしおらしくなったり、という面白さがあったのだが、今回の映画化では双子が2人とも悪戯好きのお転婆娘という設定で、そのため2人の出逢いのサマーキャンプのシーンが溌剌としたし、2人を性格までそっくりにすることで“双子性”は強調されたが、そのぶん原作の魅力の大きな要素が捨てられてしまい、これは少し残念。 ● ちなみに映画のラストに「For Hallie」という献辞が出るのだが、これ、じつはナンシー・マイヤーズとチャールズ・シャイアーの娘、ハリー・マイヤーズ=シァイアーのことである(サマーキャンプの女の子の役で出演もしている) つまりこの映画は、パパとママが(ディズニーおじさんのお金で)作って、愛する娘にプレゼントした映画なのだ。もうなんというか…。

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ウォーターボーイ(フランク・コラーチ)

アダム・サンドラー主演&フランク・コラーチ監督という「ウェディング・シンガー」コンビの新作。手堅いロマコメだった前作と違って、ひじょーに危ない橋を渡っているスポーツ・コメディである。なにしろヒーローが31才にもなっていまだフットボールの水汲み係しか能のない愚鈍で吃音の童貞マザコン。なぜだかこんな男に惚れてるヒロインは窃盗常習犯の前科者のケバいブス。そして夫に捨てられた恨みで主人公を心身ともに支配する母親はといえばルイジアナ名物のワニやヘビのステーキとかカエルのパイしか作れない厚顔無恥の鬼母(おにはは)で、おまけにキャシー・ベイツだ。主役だけじゃないぞ。出てくるのはプア・ホワイトとレッドネックと田舎者ばかり。この映画じゃ金髪碧眼のチアガールまでアル中である。およそ観客が好感を抱きそうにないキャラばかりをそろえて、しかも低脳ギャグと差別ネタだけで90分を戦い抜いてしまう。これで1998年の全米年間興行成績第5位ってんだから、やっぱりアメリカは病んでると嘆くべきか、理屈を超えたアダム・サンドラー人気にあきれるべきか。 ● ヒロインのファイルーザ・バークがイイ(ブスだけど) ノータリンのダーリンのためならサツに捕まる事もいとわない侠気にあふれた女っぷり(ブスだけど) めくれあがった下品な大口と歪んだ口元がなんともいえずセクシーなのだ(ブスだけどね) ● ま、大した映画じゃないが上映時間が89分なら大抵の事は許せるってもんだ。

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アムス→シベリア(ロバート・ヤン・ウェストダイク)

オランダのアムステルダムって街は売春とか大麻が合法で、それを目当てにヨーロッパ中の不良青年や不良娘が貧乏旅行にやってくる。で、本篇の主人公2人はそうした不良娘をひっかけては日銭をパクって暮らしている。ところがそんな2人組の根城に、シベリアから来たしたたか娘が転がりこんだものだから、すっかりペースが狂っちまって…というお話。 ● 騙し騙されの脚本の面白さで見せる類の映画で「リトル・シスター」という妹ストーカー映画を撮ったロバート・ヤン・ウェストダイクの2本目(脚本も) ダニー・ボイルの「シャロウ・グレイブ」「トレインスポッティング」や、ヤン・クーネンの「ドーベルマン」あたりの映画にとても近い。演出にリズムの変化をつけるつもりか、所々にMTVライクなモノクロ画面や絵ブレ・スチール画面などが挟みこまれるが、これは煩いだけで効果薄だった。オランダ映画なので見知らぬ役者ばかりだが、みな適役/好演。

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恋は嵐のように(ブロンウェン・ヒューズ)

「或る夜の出来事」のようなスクリューボール・コメディかと思って観に行ったら、「結婚式を目前にした“ナイスガイ”が、自然災害とマリッジ・ブルーと疫病神女におそわれて おろおろ&うじうじする 締まりのないコメディ」だった。ナイスガイ、裏を返せば人畜無害な優柔不断男、…つまりベン・アフレックってよりヒュー・グラントの持ち役である。ビッチな誘惑者のサンドラ・ブロックは悪かないが、ジェニファー・ロペスとかサルマ・ハエックとかのナイスバディ系が演じた方が説得力が出たはず。 ● この映画の原題「Forces of Nature」は“自然の猛威”と“止められない本能”の掛け言葉で、そのとおりにハリケーンやらヒョウやら大雨やら、気象状況のやたらと悪い映画なのだが、そういった自然災害がドラマとまったく絡んでこない。意味ないじゃん、それじゃ。てゆーか脚本のレベルが低すぎ。いまのハリウッドにはタランティーノみたいなタイプの脚本は書けても、こーゆーウェルメイドなコメディが書ける人が払底してしまってるのだろうな、きっと。

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ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ(ガイ・リッチー)

なるほどたしかに今のイギリス映画には1980年代の香港映画を彷彿とさせる“ツキ”と“勢い”がある。そんな時はすべてが巧く転がってB級の素材がとんでもない傑作に化けちまったりするものだ。本作がその典型的な例。 ● ロンドンに巣食うさまざまな悪党どもが入り乱れて、大金と大麻と2丁の古銃(トゥー・スモーキング・バレルズ)を奪いあう中を、とぼけたアマチュア4人組がひょうひょうと泳いでいく話。監督自筆の脚本が抜群に上手くて、時制を巧みに操作しつつ語られるパズルのようなクライム・ストーリーで、数多い登場人物のキャラが1人1人きちんと立っているとなれば、これは面白くて当然。キャスティングのハマり方も奇蹟的。「トゥエンティ・フォー・セブン」と同様、全篇に流れるR&B系ブリティッシュ・ロックも最高。そして映像は典型的なMTV世代。単純に技法だけをいうならスコセッシなんかもこういう撮り方をするが、生理的な部分(はっきりと指摘できない。たぶん編集のリズムだと思う)で決定的な断絶を感じる。おれなんか、つい「もっと普通に撮れないものか」などと思ってしまうが、MTV世代の観客にとってはこれが普通なのだろうな(あーやだやだ歳は取りたくないもんだ) 

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パラサイト(ロバート・ロドリゲス)

「スクリーム」のホラー映画おたくが脚本家のケビン・ウィリアムソンの大学時代の自画像だとしたら、本作でイライジャ・ウッドが演じる苛められっ子は高校時代の自画像と言えるだろう。それほどに本作には、脚本を手がけたウィリアムソンのトラウマが濃厚に反映されている。すなわち、教師なんて全員が宇宙人で、女はみんなバケモノだという主張が。で、それを「デスペラード」「フロム・ダスク・ティル・ドーン」のロバート・ロドリゲスが監督したわけだが、よくもまあ、こんな不細工な映画に仕上げたものだ。そもそも、こんな場あたり的な脚本みたことないというほど構成がなってないし、カット割りがまた信じられないほど下手とくる(撮影はエンリケ・チェディアック。編集はロドリゲス自身) ● それでも観ていられるのは、悪の教師たちの顔ぶれのおかげ。ロバート・パトリックとかパイパー・ローリーなど何の説明がなくてもエイリアンに見えるし、気弱なハイミス教師(死語?)からビッチに変身するファムケ・ヤンセン様も相変わらずお麗しい。ただサルマ・ハエックはファムケ様とキャラが被ったせいか地味な役柄にまわされお気の毒。かくも個性的な悪の教師陣と較べると、生徒たちはちと頼りない。デミ・ムーアもどきとか、ファイルーザ・バークもどきとか、ブラッド・ピットもどきとか、なんか怪しいコーラとかジュースばっか売ってる地方の自動販売機状態。金髪の転校生を演じたローラ・ハリスの赤ん坊っぽい ぽちゃっとした顔つきは可愛かったが。


スウィーニー・トッド(ジョン・シュレシンジャー)

つまらない映画だということは予告篇で判っていたし、近年まれにみる悪評ぞろい。それでも観に行ってしまう。そして、オープニング・クレジットが終わる頃にはすでに1800円をどぶに捨てたのを確信している・・・ジャンル映画ファンの哀しき性(さが)である。 ● ジョン・シュレシンジャーのフィルモグラフィには「サンタリア 魔界怨霊」なんてのもあるんだが、本作での鈍重でクソ真面目な演出は完全な計算ミス。リチャード・ロドニー・ベネットの軽快なテーマが鳴り響くたびに、ああこれが当初 名前が挙がっていたというティム・バートンの手によって映画化されていたならば…と虚しい想像をしてしまうのは、おれだけではあるまい。 ● これだけなら〈たんにつまらない映画〉で星2つなのだが、「子供に犯人を殺させる」というハリウッド映画のモラルに反する結末なので星1つとした。

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アイズ・ワイド・シャット(スタンリー・キューブリック)

製作する1本1本が賛否両論を巻きおこす、つねに真に革新的な映画を撮りつづけてきたスタンリー・キューブリック監督の最後の映画。撮影&編集に3年半もかけて、死ぬ3日前にようやく完成したというのだから正真正銘の遺作だ。だが出来あがった映画は「こんなの3か月で撮れよな」といいたくなるぐらい何も起こらない映画だった。 ● 一言で要約すると「夫婦間の信頼が完全なものではないと知り、自分を見失い地獄巡りをするが無傷で生還し、闇から目をそむけ生きていくことを決意する夫婦」の話。2時間40分も費やして出た結論が「ちゃんとおめこせなアカンよ」だと。わかっとるわい、そんな事! ストーリーはモロ、洋ピン(=外国製ポルノ映画)である。ただし、性をテーマとしているにもかかわらずキューブリックはきちんとセックスを描写しない。性の深淵に足を踏み入れるかわりに中途半端なサスペンスでお茶をにごす。この手の話ならかつての洋ピンや、あるいはティント・ブラスの映画に、描写においてもテーマの追求においても確実に優れた作品があった。 ● だが、そんなどーでもいい話を2時間40分も見せきってしまうのはひとえに、なにげない場面にも圧倒的な緊張感をもたらすキューブリックの演出手腕のたまものだ。そして、この映画はなによりカメラアイとライティングの映画である。撮影はラリー・スミス(ライティング・カメラマンとクレジットされる)。舞台としているのがクリスマス直前の数日間というせいもあり、あらゆる場面でクリスマスツリーが発光し、装飾用の豆電球が画面をまばゆい光で埋め尽くしている。これが「シャイニング」のボールルーム(バーだっけ?)のように非現実感をかもし出すのだ。そう、すべては夢だったのかもしれないというふうに…。 ● ニコール・キッドマンは脱ぎまくりという言葉をここで使わなかったらいつ使う?というほど脱ぎまくり。いきなりファースト・カットから全裸である。ただこの役はこの映画でいちばん演技力を必要とする役なのだが、いかんせん彼女では力不足。酔った演技や大麻でハイになった演技など、いまひとつわざとらしいし、そもそも「誘う女」のようなチープなブロンドがハマる女優なので、今回のようなNYのハイソサエティの女は似合わないのだ。その点、トム君はこの映画においても「生意気な青二才」という、いつもの持ち役なので安心してみていられる。あ、ちなみにリーリー・ソビエスキー嬢は下着姿で妖しいロリータの魅力を発散させてますが脱いでません(残念) ● シドニー・ポラックとマリー・リチャードソンが演じた役には当初、ハーベイ・カイテルとジェニファー・ジェイソン・リーがキャスティングされていた。だが、カイテルは早々にキューブリックと衝突して降板。ジェイソン・リーは、ほとんどのシーンの撮影を終えていたが、次回作であるクローネンバーグの「イグジンテンズ」の撮影が始まってしまい降板。そのため該当シーンはマリー・リチャードソンによって一から再撮影された(おかげでさらに完成が遅れた)。キューブリックが存命ならこれは幻のシーンで終わっただろうが、うるさいのが死んでしまった今、ワーナーは間違いなくカイテル&ジェイソン・リー バージョンをDVDに収録するだろう。今から楽しみなことである。

「アイズ・ワイド・シャット」オリジナル版公開は日本だけ

「アイズ・ワイド・シャット」はアメリカでは、映倫(正確にはMPAA=アメリカ映画協会)のNC-17(成人映画)指定を避けるため、65秒の乱交シーンにデジタル修正を加えたR指定(保護者同伴なら未成年も入場可)版で公開されている。 ● 乱交シーンといってもトム・クルーズのちんぽやニコール・キッドマンのおまんこが大うつしになるわけじゃなくて、秘密パーティを訪れたトム・クルーズがマスクにマント姿で各部屋を徘徊するというシーンで、性器のいっさい見えない、いわゆるソフトコアな映像である。ここにデジタル処理で人物を重ねてバックの性交場面を見えにくくする、と。「エマニエル夫人」とかにあった肝心なところにとつぜん花瓶が出現する、あれですね。まあキューブリックが生きてたら到底、許可しなかったろう行いではある。 ● 日本ではこうしたデジタル修正は加えずいさぎよくR-18(成人映画)指定で公開となる。日本国税関および映倫の修正も施されていないのでキューブリックが意図したとおりのオリジナル版が公開されるのは日本だけのようだ(ヨーロッパは公開が秋なので修正版のネガを使うらしい) 時間的に修正版が間に合わなかったというのが真相だろうが、それはそれとして、偉いぞワーナー日本支社!

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オフィスキラー(シンディ・シャーマン)

変態セルフ・ポートレイト写真で有名なアーティスト、シンディ・シャーマンの初監督作品。芯から心が病んでいる人間にしか作れない戦慄の傑作。世の中には慧眼の製作者がいるものだ。 ● 内容は、あまり笑えない「シリアル・ママ」ならぬ「シリアル・OL」。笑えない?…そう、笑えない。たしかにユーモアにはあふれている。シンディ・シャーマンに言わせると〈ファニー・ホラー〉だそうだが、これはもはやブラック・ユーモアを通り越したシック・ユーモアの域。まともな神経の人間(おれのことだ)は笑いが力なく凍りつくしかない。この映画に屈託なく爆笑できたというのなら、あなたは幸せである。 ● そもそも、この映画は〈ホラー映画〉なのだろうか。怖がらせようという意図やサスペンス演出はほとんどない。ウォーホルの「悪魔のはらわた」のようなキッチュを目指すでもなく、トビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」のように不快感を覚えるかといえば、そんなこともない。だが、人の心の闇(病み)を描くのがホラーならば、これは間違いなくホラー映画だ。何が恐ろしいかって、ヒロインが殺人を重ねる動機が決して、リベンジのためや、殺人の快楽に目覚めたからではないところが恐ろしいのだ。 ● シンディ・シャーマンの自画像とも思えるようなヒロインを演じるキャロル・ケインは、ヘンテコな眉&メイクと、何をするにもふんふんふんと擬声を発するのがコワすぎ。この人もわりと特殊女優だなあ。狙われるクソ女にお久しぶりモリー・リングウォルド(いまや三十路のいい女) 他の犠牲者として、シャーマン作品のコレクターで、頼み込んで出してもらったというジーン・トリプルホーンや、個人的な友人だというバーバラ・スコーヴァが共演。きっと2人とも変わり者に違いない(←断定) ● ゲロゲロなシーンも“ごく普通に”存在する。特殊メイクはロブ・ベネヴィデス。不快指数100%の怪作「クリーン、シェーブン」で主人公が指を刻むシーンを手がけた人だそうだ(ひえぇぇぇぇ…) そうそう、エヴァン・ルーリーの音楽も出色。

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アナザー・デイ・イン・パラダイス(ラリー・クラーク)

まんま「KIDS」から抜け出てきたような無気力なガキンチョの男の子と女の子が、ガチガチのタフな犯罪者カップルと出逢って…というロードムービー。はじめのうちはプロの犯罪者の世界に無邪気にコーフンして、またなんとなく疑似家族が出来たような気がして喜ぶコドモたちだが、やがて大人の世界の汚くつらい部分にも直面せざるをえなくなり、苦い結末を迎える。でもそれだって、なんにも変わりゃしない昨日と同じ一日(=アナザー・デイ・イン・パラダイス)だ。人生はまだまだ長い…。 ● スチール写真家ラリー・クラークの「KIDS」に続く2本目の映画。前作とちがってだいぶドラマっぽくなってきた。ジェームズ・ウッズとメラニー・グリフィスというばりばりのハリウッド俳優の出演が大きい。まるでジャニーズJr.のようなヴィンセント・カーシーザーは、ファースト・カットからちんちん丸だし(検閲済)で、何かというとハダカになって華奢なコドモの身体を見せびらかす。「バスケットボール・ダイアリーズ」や「太陽と月に背いて」の頃のレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせる危険な美少年ぶりである。ナタリー・ウッドの娘さんだというナターシャ・グレッグソン・ワグナー(ロバート・ワグナーは義父)は、撮影時28才とはとても思えぬあどけなさ(ヌードあり) ● 全般としては面白かったので ★ ★ ★ を付けたのだが、この映画にはどうしても許せない点がひとつある。終盤で主要人物のひとりが死ぬのだがその殺し方に作者の登場人物に対する愛情がまったく感じられないのだ。どこがどう冷淡なのかを、うまいこと論理的かつ具体的に説明できないのがもどかしいが、「キャラクターが物語を生きている」のではなく「物語の犠牲になっている」感じ? これは「KIDS」のときにも感じたことで(おれは「KIDS」は大キライ)、どうもこのラリー・クラークって人とは生理的に合わないようである。

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ザ・メイカー(ティム・ハンター)

ちょっと正体不明の映画だな。おれはジャンル・ムービーをこよなく愛する者で、ジャンルの約束事に沿って(あるいは裏切って)ストーリーが進んでいく様を客席で楽しんでいるので、こういうジャンル不明の作品を観るのはとても座り心地が悪い。だからといって「ストーリーがどちらへ進むのか皆目 見当がつかない映画」というのでもないのだ(それならそれで面白い) 要するに「煮え切らないどっちつかずの映画」という事だ(ついでに言うと予告篇も画期的なほど訳の判らん代物だった) ● で、結局、話としては青春映画寄りの「ロンリー・ブラッド」だった。悩める弟に(「ベルベット・ゴールドマイン」に主演する前の)ジョナサン・リース・マイヤーズ。反目する兄にマシュー・モディーン。最後はストリート・ギャングもののような撃ち合いになるのだが、たしかマシュー・モディーンって「銃で人を殺すだけの低脳映画には出たくない」と、本作で共演しているマイケル・マドセンが聞いたら頭に血が昇りそうな台詞を吐いてアクション映画への出演を拒否してきたはずではなかったか? どの面さげて今さらショットガンぶっ放してるんだか。なお、美人警官役でメアリー・ルイーズ・パーカー、不良レズ娘役でファイルーザ・バークと、おれのお気に入りのヒロインが2人も出てるので、女の趣味だけは誉めておこう^^)

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スカートの翼ひろげて(デビッド・リーランド)

「あなたがいたら 少女リンダ」のデビッド・リーランド監督の新作は、第二次大戦下のイギリスを舞台にした風俗メロドラマ。 ● 本篇の主人公は、とある農場に派遣された女子挺身隊の三人娘。海軍士官のフィアンセがいる聡明なキャサリン・マコーマック、大学出の秀才お嬢様で26才でいまだバージンのレイチェル・ワイズ、そしてロンドンの下町で美容師をしている尻軽娘のアンナ・フリエルと、判りやすいキャラクター分けが成されている。戦時下のドラマだが(恋人が死んだりカタワになったりするが)悲壮感はこれっぽっちもなく、波乱万丈の大河ドラマというより、あくまで惚れたハレた/ヤッたヤラれた/引っ付いた別れたのお話である。最終的にドラマはキャサリン・マコーマックにフォーカスするのだが、この女優さんが台詞で“高嶺の花”と持ち上げられているようなイイ女にはとても見えない貧相な老け顔なので映画を支えきれてない。“女同士の友情”押しもいまひとつ弱いし、全体に中途半端な出来映え。 ● その分、農場のクソ親父を演じるトム・ジョージソンがイイ。第一次大戦の地獄から生還して、静かな暮らしを望んで農場を購入、「あれから23年。また戦争か!」 牧草地を耕地にして作物を生産せよ、と政府に指導されると「この美しい景色を畑にしろってのか」 そんな、たかが草原じゃないか、「ここの春の美しさを知らないからだ」 物語が夏、秋、冬と続いていくので、なるほど〈この世のものとも思えぬほど美しい、牧草地の春景色〉がラストシーンだなと思ってたら…あっ、終わっちめえやんの。自分が書いた台詞の責任ぐらい取れよな>脚本家。

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テックス・エイヴリー作品集

おれのキッドボックス魂に火をつけるなつかしのカートゥーン(短編漫画)作品集。テレビ東京がまだ東京12チャンネルと称していた頃に朝から夕方から湯水のごとく放映されていたギャグ漫画の傑作選である。ま、もちろんガキの頃はテックス・エイヴリー(テックス・アヴェリー)なんてカートゥーン作家の名前を知る由もないんだが。おれはたまたま幼少のみぎりから今にいたるまでディズニー・アニメとはまったく縁のない人生を送ってきているが、ワーナー/ハンナ・バーベラ=MGMを浴びるほど観て育ったガキ(>おれ)と、ディズニーに情操教育をほどこされたお子様ではその後の人格形成に大きな差がでる気がする。それはなにかある決定的なところで永遠に判り合えない違いとなって現れていると思えて仕方がない。 ● 大人になって観なおしてみてビックリするのは「必死で逃げるオオカミが勢いあまってフレームをはみ出してしまったりする」類のメタ・レベルのギャグ楽屋オチの多さ。いまのアメリカではとうてい放映できないような政治的に正しくないギャグの数々。つまり、約束事を笑い飛ばす精神である。そして何よりもスピード!スピード!!スピード!!! ● エイヴリーの金言をパンフから引用する「一つのアクションは(1秒24コマのうち)フィルム5コマで十分理解できる。そこに2、3秒も費やしてしまうと面白さが半減どころか全く何の意味もないんだよ。カナヅチが落ちるとすると、それが直撃する4、5コマ前から始めれば十分さ。どこから落ちてきたかなんてどうでもいいし、その方がギャグも面白い。落ちるところから始めてカメラが下方向に動いてカナヅチを追って直撃するところを見せたって“ああそうか”ってなもんだ」・・・実写映画ではサスガに5コマってこたあないが、これはすべての映画に共通する描写の基本である。プロデューサー/監督/編集者がこれを正しく理解してるなら普通の映画が軒並み2時間を超えるような恐るべき事態にはならないはずなんだが…。

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EM エンバーミング(青山真治)

やはり映画には〈内容に見合った演出スタイル〉というものがあると思うのだ。橋本以蔵の手になる荒唐無稽でVシネマ・ライクなストーリーを、いつもの青山真治のスタイルで(というか黒沢清 風にというか)演出されてもチグハグなだけである。てゆーか それ以前に この映画、ちゃんと話の結末がついてねえぞ。 ● 高島礼子はテレビで憶えてきたのか、演技に変な癖がついていて不快。台詞を投げやりに言えば〈物憂げな都会の女〉に見えると思うのは大きな勘ちがい。意外にも柴俊夫がレクター博士の役で場面をさらう。 ● 低予算のなかで作っているのは判るが「廃屋にベッドを持ちこんでネオン管を発光させたセット」ってのはいいかげん法律で禁止すべきじゃねえのか?

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"DOWNSIDE EUROPE"/"BLUE MOVIE BACCHANALIA"

東京・渋谷のアップリンク・ファクトリーで行われた短編の特集上映。 ● “ダウンサイド・ヨーロッパ”は1990年代のヨーロッパ産アングラ短編集。ほとんどはドイツ製で、ほんとドイツという国は変態のよく獲れる国である。アングラといえばエログロゲロで、この辺の事情は30年前から変わっていない。普通の人にはお勧めしない。好き者物好きウンコを食べる映画ゲロを吐き続ける映画に抵抗感がないのなら一見の価値はあるかも。 ● “ブルームービー・バッカナリア”の方は1930年代のアメリカ産ブルーフィルム集。コペンハーゲンとNYの個人コレクターの所蔵品だそうだが、これは貴重だ。この時代のスチールのヌード写真は見たことがあるが、モノクロ・サイレントのブルーフィルムは初めて観た。なかに1本だけ1915年前後に撮影された史上初のブルーフィルムと言われている作品が交じっていて、あーた1915年って言ったらグリフィスの「國民の創生」の年ですぜ! 今の視点で見るとたいしてエロではなく牧歌的なユーモアを感じさせる。まるでサイレントの短編喜劇を観ているようなおもむきすらある。こちらのプログラムは万人にお勧め。

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メビウス(マイケル・アルメレイダ)

よく言えば耽美的な、正直に言えば退屈なホラー映画。「アメリカで結婚して子供も生んだヒロイン(アリソン・エリオット)がアイルランドの実家に帰郷すると、おりしもそこでは2,000年前に殺された 自分と同じ顔をした魔女のミイラが目覚めたところだった」というお話。どうも監督に、客を怖がらせようっていう気がないようで、ちっとも怖くない。後半は復活した魔女vs人間という対決の構図になるのだが、ホラーのみならずアクション映画の感性も欠如しているので、テンポが悪いことはなはだしい。全体にスケールの小さい、ちまちまっとした話なのである。もっと終末感とか絶望感を強調してエイベル・フェラーラ版「ボディ・スナッチャーズ」やロメロの「ゾンビ」シリーズのような方向に持っていけば、少しは観られる映画になったのじゃないか?

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凶犯(HIDE)

脚本:斉藤猛 撮影:小川洋一 製作:ビジョンスギモト+マグザム
野本美穂 中村綾 | 小沢仁志 菅田俊 白竜 | 竹内力
どうせVシネマとナメてかかっていたが、ファーストカットで座りなおした。お、こりゃ「バウンド」だ。それを巧みな換骨奪胎で「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」に連なる〈篠原とおる的女性アクション〉のまぎれもない傑作にしあげている(篠原原作ではないが) 「ヤクザ組織のイザコザに巻き込まれた2人の女が、男どもに酷い目に遭わされながらも最後に胸のすく反撃を見せる」といういつものパターンだが、手練れ・斉藤猛による脚本がかなり本格的で、ハメット的な裏切りの連鎖でドラマをラストまで牽引していく。 ● Vシネの帝王・竹内力をさしおいてのビリングトップは、金髪&皮ジャンに北斗晶のような面構えの野本美穂(元AV女優?) 陰謀うずまく渦中にあらわれる謎の女という役まわりで、お世辞にも巧くはないがドスのきいた低音の台詞まわしと柄(がら)で見せる。だが実質的な主役は中村綾の方でいわゆる武田久美子の役である。つまり女の武器だけを使って世渡りをしていくタイプ。バカにしちゃいけない、この女はヤクザに殴られても蹴られても公衆便所のように扱われようと絶対に日和らない。牙は見せないが決して飼い慣らされない、ある意味でいちばん肝のすわった女なのである。作者はそんな女2人の友情(愛情かも)を「仁義なき戦い」の菅原文太と松方弘樹のように、あるいは「さらば友よ」のアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンのように…つまり戦友同士としてハードボイルドに描いてゆく。そう「凶犯」とは共犯だ。この手の映画に付きもののサービスカットを排除したのもいっそいさぎよい(野本美穂のレイプシーンとシャワーはあるんだが、なにせ北斗晶なのでまるで色っぽくない) ● 男優陣は全員がテンションの高い怪演でこの手の映画には じつに正しい態度である。監督のHIDEとカメラマンの小川洋一は初耳だが、やはりVシネマ系の人だろうか? ●[追記]その後の調べによると、なんとビジョンスギモトは今までにVシネマとして飯島直子の「Zero Woman 警視庁0課の女」、井上晴美の「82(ワニ)分署」、斎藤陽子の「SASORI in USA」、小松千春の「サソリ 女囚701号&殺す天使」を製作している篠原とおる映画専門の会社だった! おまけに監督のHIDEとはビジョンスギモト社長の椙本英雄(すぎもとひでお)がついに自分でメガホンを握ってしまったのだった!

★ ★ ★
セレブレーション ドグマ#1(トマス・ヴィンターベア)

「ドグマ95」というデンマークの監督集団の第1回作品。この集団には禁欲的な10項目の〈純潔の誓い〉ってやつがあって、曰く【1】ロケ撮影に限る、【2】BGM禁止、【3】カメラは手持に限る、【4】撮影用の照明禁止、【5】オプチカルやフィルター処理禁止、【6】殺人・武器禁止、【7】回想禁止・舞台は1箇所のみ、【8】アクション・SFなどのジャンル映画禁止、【9】スタンダード・サイズに限る、【10】監督名の表示禁止というものだそうだが、それ以前の問題としてこの映画ってビデオ撮りじゃねえか? 画質がキネコそのものだぞ。いやフィルム撮りなのかもしらんが、撮影用の照明を使わないので夜のシーンなんて現像でむりやり感度を上げてるもんだから粒子が荒れて画面はザラザラ。醜いことこの上ない。当たり前だが人間の眼はもっと感度がよいのでこんな風には見えていない。つまりこいつらのように撮影用の照明を使わない方が不自然だと思うのだが? ● で、この〈純潔の誓い〉を守ると、さぞかしつまらんロベール・ブレッソンのような映画が出来上がるかというと、あにはからんやさにあらず。画面は「奇跡の海」や「キングダム」のラース・フォン・トリアーを想像してもらえばよい(トリアーも「ドグマ95」に参加) つまり、フィルターを使ってるとしか思えない人工的な色調。物陰から覗いたり、とつぜん俯瞰になったり、一瞬たりとも静止することなく不安定に浮遊しつづける幽霊視点カメラ。当主の還暦パーティで身内が秘密を暴露しあうというえげつないストーリー。出てくるやつらはキチガイばかり。もうまさしく人工的な不自然の極みのような映画なのだ。どうもこの「ドグマ95」ってのは、言ってることとやってることの違う一筋縄ではいかない連中のようだ(それともこれはデンマーク人なら誰でも普遍的に持ち合わせてる変態性なのだろうか?)


ホーホケキョ となりの山田くん(高畑勲)

ああびっくりした。「ストーリーがない」とは聞いていたが本当にないとは。5分前後の短いエピソードが20個以上もただ脈絡なく団子の串刺しになってるだけなのだ(オープニングとクロージングの説教臭い演説だけは対応している) 体裁としては4コマ漫画の羅列なのだが、いったい高畑勲という人は4コマ漫画のリズムをまったく理解していない。予告篇に使われていた「ご飯に味噌汁か、味噌汁にご飯か」というネタを例にとって説明すると、4コマ目の、父ちゃんの「ご飯に味噌汁を掛けるんだ」という台詞がオチなのであって、スケッチはここで終わらなければいけない。息子の「お言葉ですが父上」という反論や、母ちゃんの「勝手にしなはれ」という呟きは、吹き出し外の飾りであって台詞ではないのである。これらはすべて4コマ目に入っていて同時に読者の目に入ることに留意されたい。しかるに、高畑演出では父ちゃんの台詞の後に、カメラを息子に切り返して「お言葉ですが父上」と反論させ、さらに父ちゃんに「なんだ文句あるか」と余計な台詞を喋らせ、追い打ちをかけるように母ちゃんに「勝手にしなはれ」と言わせている。台無しである。オチのなんたるかがまったく判ってない。しかも(これが一番悪質なのだが)自分で脚本も書いている高畑勲は各エピソードのオチの後に、いしいひさいちが描いてもいないし描く気もなかったはずのしみじみとした蛇足を付け加えるのである。今のままの脚本でも、こういうカット尻をきびきびと30分ぐらいカットすれば、もう少しは笑える映画になったはずだと思う。だいたいストーリーもなくて笑えもしない映画を1時間45分も観てられるか。おまけにその中にはすでに3種類の予告篇で使われていたネタ4つがそっくりそのまま使われているのである。 ● 高畑はチラシ裏に「山田家の人たちは、高邁な目標を掲げてそれを達成すべく必死の努力をしたり、今の私はまだ本当の自分じゃない、と自分探しを始めたりはしません。近代人特有の内面とか自我から発する心の呪縛から自由なのです」と製作意図を記す。これってそのまま、妹の命を救うという高邁な目標を掲げてそれを達成すべく必死の努力をする「火垂るの墓」の兄や、紅花農家に自分探しの旅に出る「おもひでぽろぽろ」の主人公や、戦後民主主義の成果を顧みて近代人特有の内面とか自我から発する心の呪縛にとわられる「平成狸合戦ぽんぽこ」の狸ども・・・つまり高畑勲自身のことじゃないか。さらに高畑は雑誌インタビューで『“生きろ”という「もののけ姫」のアンチテーゼとして作った。これは現代人への「肩ひじ張らずに生きてみたら」というメッセージだ』などと語っているが、だれよりも一番肩ひじ張っているのは高畑勲だ。 ● 原作は朝日新聞の朝刊連載である。ということは大雑把に言って何百万人もの人が すでに原作を読んでいるわけだ。そういうものを映画化しようという場合に、オリジナル・ストーリーも作らずに原作をそのまま活かして、しかも原作よりもだらしなく間延びした映画を作るという戦略そのものが前提からして間違っているのだ。結局、この映画が1時間45分を費やして表現し得たものは、いしいひさいちの4コマ漫画の一篇に、芭蕉や蕪村が詠んだ一句に、そして矢野顕子の歌う一曲に遠くおよばない。 ● 話題のフルデジタルアニメの出来だが、よくアニメのパイロット版とかで、ラフスケッチにちゃちゃっと彩色して、コンテ通りに仮撮影したものがありますわなあ。あーゆーよーなもんである。別の言い方をすれば世界一金のかかった実験アニメだ。おそらく日本映画では初めてのドルビーデジタルとDTSのダブル・デジタル仕様もこの映画に限っては宝の持ち腐れでしかない。 ● 作品自体の評価としてはただのつまらない映画なので ★ ★ 相当なのだが、こんなものに23億6千万もの金が費やされたと聞くと能動的な糾弾をさぜるを得ない。こんなものを納品してディズニーに契約を打ち切られたら どう責任とるんだよ! 封切り3日目の新宿ピカデリー1最終回は50人ほどの入りだった。

★ ★ ★ ★ ★
マイ・ネーム・イズ・ジョー(ケン・ローチ)

おれはハリウッド映画の絵空事を心から愛する人間で、それらの映画が唱える愛だの希望だのといったものに勇気づけられたり慰められたりしているわけだが、時にはそうしたスタジオメイドの娯楽映画をどうしようもなく嘘くさく感じてしまうことがある。それはたとえばケン・ローチの映画を観た後だ。 ● ローチの映画にヒーローは出てこない。主人公はそこらにいる失業中のおっさんだったり、保健所に勤めてるたいして美人でもない三十女だったりするわけだ。女をデートに誘いたくても、いい歳してたかだか5,000円かそこらの食事代も工面できない。金がない、仕事がない、家族もない、あるのは「ジョー」という名前だけ。だがこいつはべつに卑屈になったりせず、ダチに借りたなけなしの金で女をボーリングに誘う。べつに撮影がとびぬけて美しいわけでもない、たかが中年のおっさんとおばさんのボウリングのスケッチがこんなにもロマンチックなのはどうしたわけか。登場人物の胸の高鳴りや不安や怒りが我が事のように胸にせまるのは、いかなるトリックか。観終わった後もささいな仕種や台詞が目に焼きついていて、まるでこの連中を自分の親戚のように感じてしまうのは、なぜなのだ。 ● チラシに山田洋次が讃辞を寄せているが、当然である。なぜならローチこそは「現実性を失わずに社会派の映画を撮りつづける」という困難を達成している世界でただ1人、現役バリバリの左翼映画作家なのだから。現実にコミットする能力を失い、社会派の暖簾を下げたファンタジー映画しか撮れなくなってしまった山田洋次など、激しく嫉妬してしかるべきなのだ。必見。

★ ★
オープン・ユア・アイズ(アレハンドロ・アメナーバル)

オブセッションで身をほろぼす男の物語=四谷怪談である。ただしこの映画では顔が崩れるのは伊右衛門の方。なるほど下司な心の持ち主が醜い形相に成りはてるのは因果応報にかなっている。 ● 夢がうつつか、うつつが夢か。ま、魅力的なテーマであることには間違いないが「今まで現実だと思っていた世界が夢だった…と思ったらやはり現実だった…と思ったところで目が覚めた…というのも夢だった」って、戸板返しも一度なら効果的だが2時間も続けられちゃあ飽きるってもんだ。そもそもタイトルからネタバレしてるし。 ● そーなると見所はとーぜん お梅役の(←違うって)“世界で最もエロティックな上唇を持つ女優”ペネロペ・クルズということになる。しかもこの映画では騎乗位のセックスシーンまでたっぷりと披露してくれるのである。ぬおおおぉ!そのたぷんたぷんに ★ ★ ★ ★ ★ だあ!(火暴) ● それにしてもこういうジャンルの(しかもこの程度の出来の)映画にグランプリを与える東京国際映画祭のレベルっていったい…。

★ ★ ★ ★ ★
踊れトスカーナ!(レオナルド・ピエラッチオーニ)

フランス映画社ライクなデザインのチラシ&予告篇と、日比谷シャンテ・シネという上映館にすっかり騙されていたが、これは浅草や上野のコヤで観るのが似つかわしい瀬川昌治の映画のような泥臭い喜劇である(ちゃんとフランキー堺南利明やらの役や春川ますみの役が用意されている) 登場人物たちが執拗にくりかえす小ネタの数々はビートたけしのコントのよう。この映画の良さが理解できなかったOL諸姉は「喜劇 ○○旅行」シリーズでも見て勉強するよーに。 ● 見渡すかぎりに ひまわりの花が揺れているイタリアはトスカーナ地方の田舎町(日本だと北海道だな) 主人公は農家の長男だが堅物で会計士なんぞをやっている(布施明あたり?) で、この家に道に迷ったフラメンコ・ダンサーのネエちゃんたちが転がりこんだものだから、田舎の町にときならぬ恋の嵐が巻き起こる、というお話。フラメンコだから当然ネエちゃんたちはスペイン人で、これがワーオ!級のボディのべっぴんぞろい(梅宮アンナ、井上晴美、武田久美子、木下優、白鳥智恵子でどうだ! あ、日本の場合はもちろんストリッパーという設定ね) 主人公のチビで元気な短髪の妹(西田尚美か)がなんとレズだったりして兄妹で女の取り合いをしたりする。で、なんやかや てんやわんや あって落ち着くところに落ち着いて、ラスト、隣の家のじいさんの吐くキメ台詞が「オーレ!」(これはもちろん由利徹だ) …いったい何を書いておるのか>おれ。

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天使に見捨てられた夜(廣木隆一)

今度の直木賞をとった桐野夏生の同名本が原作。かたせ梨乃が新宿を根城とする女探偵に扮して、40代の爛熟した裸体を惜しげもなく晒しての熱演。だが、卑しき街をいく探偵というより、言っちゃ悪いが(言ってるけど→)でぶの保険外交員のおばさんにしか見えないのが致命的だ。事件の解決よりも探偵の生き方を描くことに主眼をおいたタイプのフィルム・ノワールで、まともなストーリーは存在しない。いちおう「撮影中に本当にレイプされて失踪中のAV女優を捜す」というプロットがあるのだが、演じる女優(嶋田博子)があんなブスでは、どうしたって「こんな女どうなろうと知ったこっちゃねえや」と思ってしまい話が成立しない。 ● 監督はピンク映画時代から東京の街を切り撮るのを得意としてきた廣木隆一。「夢魔」「魔王街」「君といつまでも」といったスタイリッシュなサスペンスでの手腕を買われての登板だろう。本作では最低限の照明のみでの長廻しにこだわっている。いくら廻してもかたせ梨乃がジーナ・ローランズになれるわけではないのだが。廣木隆一の「痴漢とスカート」(1984)で郵便配達夫を演じて以来の大杉漣が、2丁目で洒落たバーをやっているゲイの中年男に扮する。かたせの隣室に住んでいるという設定で、じつに思わせぶりな演技をするもんだから「なるほど探偵が女だからファム・ファタル(=犯人)はゲイになるわけか」と思ってたら最後までただのゲイだった。一事が万事。思わせぶりなだけで中身のない映画。

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インディアナポリスの夏 青春の傷跡(マーク・ペリントン)

朝鮮戦争直後のインディアナポリスの田舎町を舞台にした「祭りの準備」。「隣人は静かに笑う」のマーク・ペリントン監督のデビュー作。それまでMTVを中心に活躍してきた人だけあって、苦さや影のない ただ甘酸っぱいだけのまさしくプロモーション・ビデオやジーンズのCM的なフィフティーズの世界だが、まあ、その限りにおいてはそこそこ面白い。 ● ストーリーは駄目男と伊達男のバディ・ムービーで、「プライベート・ライアン」でも駄目男だったジェレミー・デイビスが駄目男を、ベン・アフレックが伊達男を演じる。ひょんな事から親友になった それまでまったく接点のなかったこの2人が町を出て行くまでのお話。チラシに同等の主演であるかのように表記されているレイチェル・ワイズは、ほんの刺身のつま程度の役。チラシには表記すらされていないが、レスリー・アン・ウォーレンが伊達男の母親の色気ばばあを、ジル・クレイバーグが駄目男の母親のキリスト気狂いの世話焼きばばあに扮している。

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ラン・ローラ・ラン(トム・ティクヴァ)

「今から20分以内に10万マルクの大金を工面して届けないとカレシの命が危ない。さあ、走れローラ!」という短編を3パターン見せる・・・てなワン・アイディアだけで成立している作品。3パターンってことはとーぜん失敗・失敗・成功となるわけで、そのヒネり方がこの映画の眼目で、また脚本家の腕の見せ所でもあるのだが、どうやら脚本を練りあげる工程を省略して勢いだけで突っ走ってしまったらしく、各エピソードごとの展開に何の芸もない。特に成功篇となる第3話の無策ぶりにはあきれた。 ● また、各エピソードをどう“繋ぐ”か、…言いかえれば「なぜ時間がリプレイするのか」というキーポイントが完全に無視されている。なんの説明もなくリスタートしてしまう作劇は信じがたい怠慢。自ら脚本を書いたトム・ティクヴァ監督は「これはSFではない」と反論するかもしれないが、おれの言ってるのはSFかどうかの問題ではない。 ● ありとあらゆる技法を駆使してのカラフルな画面作りも「MTVのビデオジングルみたい」という印象を残すのみ。画面に凝る間があったら、その前にまず脚本である。

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スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス(ジョージ・ルーカス)

この映画を退屈だのドラマがないだのとクサす職業評論家たちには映画が何も見えていない。たしかにジョージ・ルーカスの演出は以前のままで、観客に“手に汗にぎらせる”ところまでは到達していない。新シリーズ1作目の今回は、基本的に「スター・ウォーズ(IV)」と同じお話で、作劇も熟練とは言いがたい。だが、それだからといって2時間13分のビジュアル・イメージの洪水を楽しめないのは明き盲(あきめくら)だ。アナキン少年の旅立ちに涙できないのは感性が枯れている証拠である。 ● おれの不満はただひとつ。ライトセーバーの殺陣が相変わらず下手なのだ。なんかフェンシングのベテランが振り付けているらしいが、フェンシングじゃねえだろって。ジェダイの騎士は誰が見ても明らかなように日本の侍をイメージしてるのだから。であれば、日本のベテラン殺陣師、あるいは香港から武術指導を連れてくるべきだろう。ちなみにジェダイの騎士が侍ならば、悪役ダース・モールは歌舞伎の隈取りメイクに忍者の衣裳、アミダラ姫は芸者ヘア&メイク&ファッションと、今回もルーカスの東洋趣味が炸裂してるんだが、相変わらず、いまひとつセンスが悪い…。 ● SFXはことさら言うまでもなく、他に比する映画のない最高のレベルである。これだけハードルを上げてしまうと、他のSFX製作者たちはさぞかし、やりにくいだろうなあ…。ILMが他の工房から頭一つ抜け出ているのは、モデル撮影&ブルーバック合成といった、つちかってきたアナログ技術の蓄積にある。もはやフルCGアニメーションと呼んでも差し支えないほどの場面も多々あるのだが、それを実写に見せているのは登場するCGキャラクター&メカの重さを感じさせる質感なのだ。 ● 新3部作はすべてジョージ・ルーカス本人が監督するらしいが(小さな声でお願いしておくけれど)できれば演出はもっと上手い人を連れてきて欲しいものである…。

スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス[日本語版]

作品評価については↑を読んでもらうとして、ひとつ言えるのはリーアム・ニーソンの演技力よりも津嘉山正種の声の力のほうが上だということ。結果としてクワイ=ガン・ジンの存在感が強まった。オープニングの[下→上]スクロール字幕も日本語になっているのだが、あんな難しい漢字、小さい子は読めないと思うぞ(もっとも読めたって何のことやらワカらんだろうけど)

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クンドゥン(マーチン・スコセッシ)

撮影:ロジャー・ディーキンズ 美術&衣裳:ダンテ・フェレッティ
編集:セルマ・スクーンメーカー 音楽:フィリップ・グラス
超一流のスタッフによる絢爛たる異文化観光絵巻<もちろん当人たち(↑)はそーゆー意図で作ってるんじゃなかろうが。おれにとっちゃチベットの僧院の中なんて、タトゥーイン星と同じくらい“遥か彼方の知らない世界”だ。だから大したドラマがなくたって、絵を観て音を聴いてるだけで最後まで十二分に楽しめる。 ● 周知のように本作はダライ・ラマ シンパの西欧人たちによる親チベット/反中国のプロパガンダ映画である。中国政府の“ろくでもなさ”に関して異論はないが、“仏陀の生まれ変わり”を頂点とした社会システムってものが、はたして住みやすい幸せな社会かどうかについては大いに疑問の余地があるな。“我らの偉大なる首領さま”に盲目的に従う国家や、巨大な仏の顔像が鎮座するサティアンで修行する宗教集団とどう違うのか。まあダライ・ラマはテポドン飛ばしたり、サリンガス撒いたりはしないが。

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ダーク・スター(ジョン・カーペンター)

脚本&美術&特撮&編集:ダン・オバノン 製作&音楽:ジョン・カーペンター
ビーチボールとプラモデルからでもSF映画は作れることを証明した1974年の傑作。ダン・オバノンとジョン・カーペンターが映画学科の卒業製作として作った自主映画をリメイクした、2人の商業映画デビュー作。つまりルーカスの「THX1138:4EB」→「THX1138」パターンだ。“商業映画”といってもノースター&ノーマネーで、技術的にも今日の学生映画と大して変わらないレベル。何が違うかといえば、オバノン脚本の独創性(センス・オブ・ワンダー)と、カーペンター演出の正統性である。一例をあげるならば「宇宙船内で飼っていたエイリアンが逃げ出して1人の乗務員(オバノン自演)を窮地に陥れる」シークエンスがあるのだが、この“エイリアン”てやつが大型のビーチボールに色を塗って、足を付けただけの代物なのだ。当然のごとく“エイリアン”が画面に登場した瞬間は場内に失笑が起きる。だが、カーペンターはこのちゃちなビーチボールひとつで、ちゃんとサスペンスを演出してみせる。そしてラストの、誰が見てもプラモデルとわかるミニチュアを撮影して宇宙空間にはめ込んだだけの“宇宙のサーフィン”には、上質のSFのみが持つ詩情が漂う。物体が大気に突入したことを示す小さな発光。流れだす能天気なカントリー・ソング「ベンソン・アリゾナ」(カーペンター作曲) ♪ここはアリゾナ州ベンソン。空にはいつもと同じ星空…。観客は静かに感動し、ああ良い映画を観たという満足感にひたる。冒頭の言葉を言い換えるならば「まともな脚本と心意気があれば面白い映画は作れる」のである。

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学校の怪談4(平山秀幸)

おおシネスコだあ! 日本映画のスコープ・サイズといったら「寅さん」以来じゃなかろうか。横長画面を活かした迫力満点の画づくり。画面いっぱいにどーんと出るメインタイトル。…やっぱりいいよなあ、シネスコは^^) ● じつを言うと前3作のゲーム性を強調した密室劇はあまり楽しめなかった(年寄りなもんでキャラクターに感情移入できない映画は苦手なんである) 本作ではガラッと趣向を変えて古典的な怪談仕立てになっている。トイレの花子さんや人面犬、口裂け女といった都市伝説は登場しない。こうした過去を背負っていないキャラクターに頼らず、普通の人間がなぜ幽霊となったかという因縁がプロローグで説明されるので、意味もなく怖いのではなく、怖さの裏にある悲しさ、無念さといった感情がきちんと伝わってくる。そしてラストではしっかり感動させてくれる。子供から大人まで万人におすすめできるエンタテインメント。 ● なにが偉いって、この映画はいまどき学校でも家庭でも教えてくれない事をきちんと子供たちに説いていることだ。曰く「死んだ人の魂はけっして恐いもんじゃないんだよ」とか「かくれんぼは全員を見つけるまで止めちゃだめだよ」とかね。おそらく作者たちは(自分たちが作った「学校の怪談1・2」を含めた)最近のホラー映画ブームの怖けりゃなんでもありという映画作りへ異議を申し立てているのだろう。 ● 集団劇だった前3作と違って、本作のカメラは1人の女の子に焦点をしぼる。夏休みに東京から田舎に遊びに来た小学生の女の子が、お兄ちゃんや友だちを救うために ものすごくがんばって 生きてる人と死んでる人をそれぞれの本来あるべき場所へ戻す、というお話。オーディションで選ばれた さらの新人・豊田眞唯ちゃん(撮影時9才)が素晴らしい。とてもシロートとは思えぬ達者さ。それでいて子役特有の臭みがない。しかも可愛い!(念の為に書き添えると、この映画はコドモをコドモとして可愛く撮っていて、間違っても大林宣彦のようにコドモにエロスを求めたりはしていない) 重要な役どころで笑福亭松之助が出ているのだが、無理して標準語で喋っているので羽をもがれた鳥のよう。整合性とか一切無視して関西弁で喋らせちゃえばよかったのに。身体演技が抜群だっただけに惜しかった。 ● 特筆すべきはSFXの素晴らしさで、それが合成であることを全く意識せずにドラマに没頭できるレベルにまで達している。あ、特撮画面に入ったな、と分かる画質の劣化もない。 ● 音楽は宇崎竜童。エンディングにかかるのは吉田拓郎の「蒼い夏」(どーせなら「夏休み」にすりゃ良かったのにな)

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豚の報い(崔洋一)

崔洋一という人はよほど沖縄が好きとみえて「友よ静かに冥れ」「Aサインデイズ」に続いて、また沖縄を舞台にして映画を撮った。いや“舞台にして”などという表現では生ぬるいか。もはやかの地の〈風土映画〉と呼んでも差し支えないほどだ。フォーマットとしては〈道中災難コメディ〉で、「大災難P.T.A.」とか、チェビー・チェイスの「バケーション」シリーズと同ジャンル(←ほんとか?)なのだが、もちろん崔洋一の意図はそこにはない。チラシの文章が的確なのでそのまま引用するが「神と豚と人間が同居する島」でくりひろげられる「豚小屋生まれの男とめげない女たちの三泊四日の役払い珍道中」で、つまりは「すべてが豚によって導かれる、ユーモアとエネルギーに満ち溢れた幻想譚である」 ● 3人のヒロイン(あめくみちこ・上田真弓・早坂好恵)が出色。スケベで人が良くて“テーゲー”な、まるで倍賞美津子のような沖縄女をじつに魅力的に演じている。ゆっくりと横移動していく佐々木原保志のエロチックなカメラも素晴らしい。

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恋はワンダフル!?(マーク・ジョフィ)

「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男」「ウェールズの山」の系譜に連なるイギリス産ほのぼの田舎コメディの1本。工夫の跡があまり感じられない類型的なストーリーの凡庸な脚本。まあ、悪い映画ではないが「アメリカの大都会で上院議員の選挙スタッフをしているぶーたれブスのキャリアウーマン(ジャニーン・ギャロファロ)が仕事でアイルランドの田舎町にやってきて、町の人たちの素朴な人情に触れるうちに自分の生き方を見なおし、ローカル新聞記者くずれの世の中のことを何もわかってない青臭い田舎者とくっついて幸せになりました」と言われても「だからどうした?」という感想しか浮かばんよ。悪いが おれはジャニーン・ギャロファロの幸/不幸については関心がないのである。

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お受験(滝田洋二郎)

矢沢永吉 主演のリストラ父ちゃん奮戦記「お受験」ってタイトル付けといて受験騒動が脇筋(わきすじ)なのは詐欺じゃないのか?という根本的な問題はあるものの、ばかばかしくて一生懸命 という、ピンク映画時代からの滝田洋二郎の持ち味が存分に発揮されたウェルメイドなエンタテインメント。先行き不安なお父さんへの、疲れぎみのお母さんへの、そして生きにくい時代を生きてかなきゃならない子供たちへの応援歌。 ● 脚本は一色信幸。名コンビの滝田演出を得て快調だが、ラストのお父さんの行動がどうしても突飛に見えてしまい、感情移入が途切れるのは大きな欠陥。たしかに家族が揃わないと話を終われないのは判るが…。 ● おれはテレビドラマを見ない人間なので演技者としての矢沢永吉を初めて観るが、意外に良いのでびっくりした。「走ることでしか自分を表現できない、生き方の下手な中年の実業団マラソン・ランナー」という役柄も良かったのだろう、演技とか滑舌とか以前の問題として、たたずまいに、立居振舞にバツグンの存在感をしめすのはサスガ。母親役は田中裕子。オーバーアクトとの境目を片足 踏み越えたあたりで達者な芝居を見せるが、コミカルな演技を強調した分、熟れきってちょっと欲求不満な年増女の色っぽさや生々しさってものが二の次になってしまい残念。子役の大平奈津美ちゃん(7才)は まるで昔の学習雑誌の表紙に載ってるようなけなげで元気な女の子。ほっぺまで赤いのはちょっと出来すぎか。 ● ちなみに劇場内には松竹サイドの期待したであろう永ちゃんファンの姿は見えず、コヤが変わっても客の入りはいつもの松竹映画だった。

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あの、夏の日 とんでろ じいちゃん(大林宣彦)

大林宣彦という人がキライである。だってどーみても偽善的な臭いがする。この映画も「尾道市政100年記念映画」だそうで、エンディングに「文明の尻尾たるより文化の頭たれ」などと偉そうな字幕を出している一方で、相変わらず年端もいかない女の子を必然性もなく裸にしてるのはどーゆーことだ。 ● 都会に住んでる“ボケタ”というアダ名の小学生が、惚けはじめたお爺ちゃんのお守り役として夏休みを尾道で過ごす。爺ちゃんは心に子供時代の辛い思い出を抱えていて、2人は不思議な体験を通して、その真相を解き明かす…というお話で、それによって爺ちゃんは心の重荷から解放されるのだが、これが「人の心の醜さを知ったかわりに自分は悪くなかったんだと判明する」という、ものすごぉく後味の悪い“真相”なので観ているコッチは救われない。 ● 爺ちゃん役は小林桂樹。岡本喜八の「江分利満氏の優雅な生活」に主演して「あんな戦争は2度とごめんだ」と呟いた18年後に、戦争大作「連合艦隊」に出演、キャンペーンで「若い者が国を守るのは当然の義務」と言い放った裏切者である(お気づきかもしれないが おれは小林桂樹もキライだ) 11才の男の子と恋に落ちるショタコンの高校生のヒロインに、ガタイの良さがキャシー中島 似で、大根っぷりが勝野洋に似たとおぼしき勝野雅奈恵。可哀想にやはり監督に騙されて服を剥ぎとられるわ、おっぱいを揉まれるわ、受難の連続。 ● SFXが時代錯誤なほどにショボいのは、おそらく確信犯だと思うが、ノスタルジックな話だからといって特撮技法までノスタルジックにするのが間違いなのは「学校の怪談4」の達成を見れば明らか。軽快なスラップスティック・コメディ調をねらった演出スタイルも成功しているとは言いがたい。 ● ってここまでケナしておいて ★ ★ ★ もつけるのか。いやすまん、不覚にもラストでじんわり感動してしまったのだ。主人公の男の子の自然な演技と情けなさそうな笑顔がバツグンに良いし、なんだかんだ言っても小林桂樹や菅井きんの演技力はやはり大したものである(そして、大林宣彦がそうしたベテラン俳優に最大限の敬意を払っているのは間違いない) まあ、今回は監督自身によるウットリ声のナレーションが入ってたり、怪物の着ぐるみに入ってピアノを弾いたり、いい歳した大人が「おぉい、さびしんぼぉぉう」などと言ったりしないのが幸いしたのかもしれん。気色悪いメルヘン趣味が控え目な分、山中恒(原作)の清々しさが前面に出た良質なジュブナイル映画になった。“ティーン”になってしまったらもう体験できない、子供だけの特権である特別な夏休み。その輝きの片鱗が確かにこの映画には捉えられている。

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暗殺の瞬間(シェル・スンズバル)

1986年2月28日の夜、パルメ首相が暗殺された事件に材をとったスウェーデン映画。「プロの暗殺者の仕事の遂行と、それに気付いてしまった刑事の孤独な捜査」を同時進行で描いていく正統的な暗殺ものである。作者は暗殺者と刑事に等分の視線をそそぐ。暗殺者の段取りを描くパートは、演じるイギリス人俳優マイケル・キッチンの好演もあり魅力的なのだが、いかんせん刑事のパートが弱い。刑事の私生活のトラブルをかなりの比重で描いているが、そんなこたぁいいからもっと知力の対決を見せろ!と思ってしまう。暗殺者のその後のエピソードも蛇足。刑事の回想から始まり、ところどころで時制が現在に戻る構成も、サスペンスの高まりを疎外してしまい逆効果。まあ「ジャッカル」よりはマトモだが、「ジャッカルの日」よりは数段 落ちるといったところか。 ● 刑事の妻役の女優(パニッラ・アウグスト)が、最近どこかで観た顔だなと思ったら、おおアナキン少年のお母さんではないか。

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ラ・ジュテ(クリス・マルケル)

黒澤明の「AK」を撮ったドキュメンタリスト、クリス・マルケルの監督・脚本による30分の短編。とはいっても、これは“Motion Picture”ではなくて、モノクロのスチール写真をモンタージュして、そこに音楽とナレーションをかぶせた代物。“Un Photo-Roman de Chris Marker”とクレジットされる(日本語にすると“写真小説”か) ● 「12モンキーズ」に“原案”としてクレジットされていたのをご記憶の方もあろう。たしかにその通りで「12モンキーズ」のオリジナリティと思えた部分はすべてこの1962年の短編に存在する。すなわち「悲惨な近未来」「マインド・タイムスリップ」「空港での鮮烈な記憶の真実」「メビウスの輪」など。なかでもスチール写真のモンタージュという特異な構成が最大限に効果を発揮するのが「夢と記憶の混在」の主題である。フェイドイン/アウトする写真の連続は、はたしてこれが主人公の体験した出来事なのか、それとも主人公の見た夢なのかを判別しがたくする(ワンカットだけ挿入される“動画”の鮮烈さ!) また“近未来”を基本時制として、そこから“現在”へタイムスリップするという手続きによって生じる「懐かしい今」「追憶としての現在」という魅惑的な感情。…この詩情を「12モンキーズ」はついに持ちえなかった。

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交渉人(F・ゲイリー・グレイ)

「天才交渉人がみずから人質を取ってたてこもるはめになり、交渉相手としてもう1人の天才交渉人を指名する」というプロットを考えついた時点で、この映画の勝ちは約束された。おすぎの大口も嘘ではない完璧な娯楽映画。  ● なんといっても沈着冷静な“もう1人の天才交渉人”を演じるケビン・スペイシーが素晴らしい。曲者助演者として映画界に登場したが、この人には「L.A.コンフィデンシャル」といい本作といい十二分に主役をこなせるだけの華(色気)がある。ロバート・デ・ニーロになれるのではないか(もうなってるか) 主役の熱血交渉人にはサミュエル・L・ジャクソン。ケビン・スペイシーが演じた方の役も出来る人だが、今回は主演ということで曲球を抑えてストレート勝負。デビット・モース、ジョン・スペンサーをはじめ、脇を固める面々も素晴らしい。そして本作はJ・T・ウォルシュの遺作でもある。偉大なる悪役に相応しい壮絶な最期をみせてくれた。…黙祷。 ● 監督は黒人ご近所コメディ「friday」、黒人女チンピラもの「SET IT OFF」(共に邦題)を手がけてきた黒人監督F・ゲイリー・グレイ。本作がはじめてのメジャー作品だが、2時間20分を息をもつかせず見せきる卓越した交通整理能力を発揮した。 ● 本篇に疵がないので、パンフに文句をつけておくが^^)、“娯楽映画研究”といういかがわしい肩書きの佐藤利明なる輩は、なんとデビッド・モースのことを“「コンタクト」でジョディ・フォスターの父親を好演したアダム・ベック”などと書いている。←それは役名だってーの! 「インディアン・ランナー」や「クロッシング・ガード」のデビッド・モースを観てるなら死んでもこんな間違いはしないはず。てゆーか普通、気付くだろ誰か。文字校正とかしないのか?>松竹事業部。

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