オーディオ日記 第34章 ブレークスルー(その3) 2014年2月21日


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いろいろな方のオーディオシステムを聴かせていただいて思うこと。音は人なり、という言葉もあるように皆それぞれ素晴らしい音楽を再現してくれるシステムであり、そこにオーナーのこだわりと個性がある。そしていずれも納得できる良い音である。その一方で同じ音源を聴いたとしても、「同じ音」ではないことは歴然としている。オーナーの数だけオーディオの音がある、と云っても過言ではないと思う。目指している方向も実現ビジョンももちろん同じではない。

これは謂わば当たり前、常識のことだとも思うが、それは何故だろうという素朴な疑問が拭えない。周波数特性の違い?響き(残響特性)の違い?質感の違い?おそらくはオーディオ機器の持ついろいろな科学的要因の違いであり、個性そのものなのか?オーディオがある種のイルージョンによって音楽を再生する装置である以上、全く同一かつ普遍的な音と音楽の再現はない、あり得ない、ということがひとつの真実か。ならば、逆説的には「真の音」は存在しないとも考えられる。オーディオとは永遠の迷宮なのか?

この先の自分のオーディオシステムの展開を思いつつそんなことをつらつら考えていると、ここに永遠の迷宮に入り込んでしまった迷える自分自身の姿が見える。自分自身が心底納得できる音楽を聴かせてくれるならそれで良いのでは、と思いつつもこの先があるのではないか、そこにはどうやって辿り着けるのか、それを真剣に考えている自分がいる。

今は使用を止めているが、かなり昔よりイコライザーに 取り組み その効果、限界を探ってきた経緯がある。ここにおいても「周波数特性をフラットにしても良い音にはならない」と云われ、半ば常識化している。自分自身でもそう感じるところもある。しかしこれは、何故だろう?音源の持つ周波数帯域を厳密にそのまま再生することが良い音ではない、のであれば何がいったいオーディオの目指す良い音なのだろうか?そこにある種の変化(劣化あるいは付帯)があって始めて良い音になるのだろうか?おそらくこれは違うだろう。本来的には音源の持つ帯域をきちんとフラットに再生してこそ、本来の音楽を聴かせてくれるものと思う。しかし、どこかにイコライザー自身の持つ隘路もあり、その他の相反する複雑な要素が絡んでこのようなことになってしまうのだと思う。ここには素人の考えるレベルの科学的アプローチだけでは捉えられない難しさがある。

自然界の音は高域に向かって-6dBで減衰しているとも一般的には云われているし、低域に比して高域は距離に伴う減衰が大きいことは事実である。従って、この距離に応じた正確かつ自然なる減衰を再現しなければ正しくはないとも考えられる。(イコライザーによってはこのような高域の減衰を行う設定を持つ機種もある)また、低域についても特にクラシック音楽においては充分な量が確保されないと音楽の支えが無くなってしまい味気ないこともある。一方で、このような高域に減衰をかけたイコライジングではジャズなどの生身の臨場感は得難くなる。となれば、そもそも周波数特性フラットなど意味が無いことと考え込んでしまう。

また、ライブ演奏におけるPA装置の咆哮と爆裂、映画館における恐怖を煽るような音量の低音。これらを高忠実度と呼ぶのだろうか?決してHi Fidelityとは思わないが、自分のオーディオとは異なる次元の音の表現でもあると思う。また、真空管アンプにおける高調波変調(いわゆるチューブディシトーション)は何故か音楽を輝かせる効果があるし、真空管アンプによって録音された1960~1970年代の録音には素晴らしいものが多い。ここにもオーディオの不思議がある。

判っているようで判っていないことが多く、感性と理性の狭間にあって、やはりオーディオは魔物である。求めても得られないものもある。それに魅せられた自分はその焦燥の中で身を焦がすだけなのだろうか。

若かりし頃はショパンやマーラーに魅了され、ある年齢になってからはモーツアルトに無上の喜びを見出すようになってきた。もっと昔にはビートルズやサイモンとガーファンクルなど今でも大切な音楽の世界があった。思えば、自分にとってこれがオーディオの原点と呼べるような 衝撃を受けた時 から、既に45年ほどになる。時に山谷はあったが、音楽とオーディオへの情熱が消えることは無かった。多分お金もまあ人並みには投入したと思う。

結果として今ある、手にしている システム とそれが再生してくれる音楽について総括するのはとても難しい。時に「もうこれ以上はいらない、充分」とも思うし、時に「大いに不満」ということもある。近年は大いに不満という比率が大分減ってきたのが唯一の救いかもしれないが、一喜一憂することは相変わらずにある。

音楽そのものが持つ大きな魅力の前では、オーディオシステムそのものは絶対的な価値を持たないのかもしれない。感動できる音楽が無ければオーディオの存在意義すらない。どれだけ多くの音楽に出会えたか、そしてそれに感動できているか、おそらくそれが本来目指しているところの終着点なのかもしれない。この観点から考えると、幾多の音楽との出会いは幸せそのものであったと思う。小学生の頃を回顧してみれば自分は途方もない音痴であり、音楽の時間などは正に苦痛そのものであった。後にカラオケなるものが隆盛してきたが、これも酔いに任せなければとても恥ずかしくてマイクを握れない。そんな自分が聴くことに目覚め、いつしかクラシック音楽の世界にも親しむようになるとは意外という他はない。

ただ、音楽とその再生に於いて自分の感性だけがすべてとは思わないし、冷静かつ客観的な部分も必須だと思う。見栄を張る必要もないし、今ある機器を卑下することも誇ることも必要ないと思うけれど、出ている音には自分自身の歴史と責任があるとも思う。また趣味としてきた以上、あまりみっともない音では恥ずかしいと思うこともある。難行苦行をしているつもりはないが、多少そういう面もこの趣味にはあるのかもしれない。

最近我がオーディオに於いて重要と思うことは、楽器が持つ音色や響きの美しさであり、心の琴線に触れてくるしなやかな人の声の表現である。周波数特性が、残響特性がということはオーディオの基本として重要と思うが、音楽の美しさ、愉悦そのものはこのような尺度では表せない。

この先まだまだ我がオーディオの変遷もあるだろうし、それが「真の音」に辿り着けていなくとも、「目指せ究極のマイベストサウンド」ということは変わらないと思う。モーツアルトの弦楽四重奏を聴きながらこの駄文を書いているのだが、今はただ安らかにこのモーツアルトを聴ける環境がここにあることが幸せである。


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