△ 「背中のイジン(再演)」シーン25


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上手灯りのみ。仁志家の一室。周作、思い悩んでいる。椅子に座ると、美香子が入って来る。

美香子 「コーヒーでも淹れましょうか?」写真
周作 「あ、いえ…」
美香子 「あまり根を詰めるとお体に障りますよ。」
周作 「はい。お気遣いありがとうございます。」

美香子、しばらく考え込み、周作の背中を見ている。

美香子 「…周人君を助けるためには自分が死ぬしかない。きっとそれが一番正しい。でも…怖い。」
周作 「美香子さん…」
美香子 「生きたい。まだまだこの世でやりたい事は尽きない。」
周作 「…その通りです。(立ちあがる)いくら綺麗事を言っても、やはり自分の命は惜しい。内心ホッとしているんです。ほっておいても死ぬのは周人君で、僕は生きられる…」
美香子 「ごめんなさい。心を読むつもりはなかったのですが、まるで大波が押し寄せる様にあなたの心が…」
周作 「僕は酷い人間です。ワクチンで何万人もの命を救った僕の心の中は、本当は人を犠牲にしてでも自分だけは生きたいという欲が巣食っている。名医でも何でもない。ただの酷い人間だ…」
美香子 「それが普通の人間です。私の両親も同じでした。人を救いたいという善意は人一倍大きい人たちでしたが、その重さを支える強さがなかった。」
周作 「僕にもその強さが欲しい…」
美香子 「あなたは強いはずです。その強さを忘れているだけ。でも、間違えないで下さい。人の犠牲の上に生きる事が悪とは限らないし、また、自分を犠牲にして人を救う事が必ずしも善とは限らない。」
周作 「…あなたは強い人だ。」
美香子 「いえ、私もやっと思い出したところです。自分の強さを。」

周作、美香子の言葉を噛み締める。そこへ花音が入って来る。

花音 「周作さん。」
周作 「花音さん。…皆さんは?」
花音 「頑張るって。二人とも死なせないように。」
周作 「そうですか…」
花音 「(ポケットからロケットを取り出し)はいこれ。」
周作 「これは…」
花音 「周作さんが持っている方がいいと思います。」
周作 「…はい。(ロケットを受け取る)」
花音 「実は毎晩夢に出て来たんです、ハナさんが。」
周作 「え?」
花音 「『私はあなたのお婆さんのお婆さんです』って。」
周作 「ハナは…なんと?」
花音 「『私の夫を助けて欲しい』って。」
周作 「助ける?…ハナがそんなことを…」
花音 「教えて下さい。ハナさんの事。」
周作 「ハナの事?…何から話してよいのやら…」
花音 「じゃ、最初から。」
周作 「最初からですか…そう、忘れもしません。あれは明治天皇ご崩御の数日前の事でした。七月の終わりの暑い日で、その日は隅田川の川開きの日だったのですが、陛下の御病状を理由に中止になってしまいました。仕方なく川べりを散歩していると、橋から川面を覗き込んでいる少女がおりました。それがハナとの出会いです。ハナは川に落ちた帽子を追いかけて、千住から一里半も歩いて来たのだと言っていました。事情を聞くとその帽子はハナの物ではなく…」

花音にハナが降りている。

ハナ 「母の大事にしていた帽子でした。」
周作 「…え?」写真
ハナ 「こっそり持ち出してお友達に見せようとしたのだけれど、きっとバチが当たったのでしょう。つむじ風に飛ばされた帽子はまっすぐ川へと飛ばされて…」
周作 「…ハナ?」
ハナ 「あの時は子どもながらに生きた心地がしませんでしたわ。」
周作 「ハナ…なんだね?」
ハナ 「はい。今でも思い出しますわ。あなたが帽子を取ろうと川に飛び込んだ時の事を。すぐに警察がやって来てこっぴどく叱られて…」
周作 「えぇ。その横で君は泣いていました。」
ハナ 「母に知れると思って、恐ろしさのあまり。」
周作 「一緒に謝ろうと家まで歩きましたね。」
ハナ 「うちに帰り「あなたの様なイタズラの過ぎる娘は嫁の貰い手も見つかりませんよ!」と大声で叱る母にあなたは 「きっと僕が貰います。諦めずに一里半も帽子を追ったハナさんの根性は見上げたものだ。」と。あなたは十八。私は十四(じゅうし)ですよ。無茶苦茶です。」
周作 「確かに無茶苦茶だ。」
ハナ 「でもそれを聞いた母の驚いた顔、あれも忘れられません。」
周作 「ええ。」
ハナ 「この子…花音はとても良い子です。私は彼女をいつも守っています。背中から。」
周作 「背中から?…じゃあ…」
ハナ 「ええ。」
周作 「そうだったんですか。」
ハナ 「あなたも…まだ、守れます。」
周作 「…はい。」
花音 「…あれ?…えっ?私、立ったまま寝てました?」
周作 「…さあ?どうでしょう?」
花音 「でも、なんか寝言みたいなのを言ってた様な…」
周作 「花音さん。」
花音 「はい。」
周作 「僕も協力します。すぐにみんなの所へ行きましょう。」
花音 「はい!」

花音、先に部屋をでる。周作も出ようとして一度立ち止まり

周作 「あなたですね?呼んで下さったのは。」
美香子 「私にはこんな事くらいしか…」
周作 「ありがとうございます。」

奥から声がする。

花音 「ちょっと待って下さい!」
浜崎 「失礼するよ。」

浜崎、後藤、入って来る。その後から花音も戻って来る。

周作 「あなたは…」
浜崎 「昨日はどうも。あなたですよね。自称瀬名周作と言うのは?」
周作 「ええ。」写真
浜崎 「すいませんがこれから署までご同行願えますか?」
花音 「は?」
浜崎 「実は逮捕した貝塚が、あなたも共犯者だと言い張っていましてね。」
美香子 「嘘です!この人はあの時初めてあそこに…」
浜崎 「なにより現状あなたの身元は不明で、不審な点も多過ぎる。」
花音 「だからこの人はホンモノの…」
周作 「同行いたします。」
美香子 「周作さん。」
周作 「ただし、重病の家族がおります。その治療の後にして頂きたい。」
浜崎 「それは出来かねます。」
周作 「は?」
浜崎 「天星会の件は一刻も早く片付けなければならんのです。今すぐご同行を。後藤。」
後藤 「はい…(周作の行く手を阻み)すいませんがお願いします。」
周作 「一刻を争うのはこちらも同じです!そこをどいて下さい!」

周作、が後藤を押し、腕が浜崎に当たる。

浜崎 「おっと。公務執行妨害の現行犯だ。」
後藤 「え?いや、でも今の…」
浜崎 「後藤、手錠。」
後藤 「…はい。」

後藤、周作に手錠をかける。

花音 「ちょっとなにするの!」
美香子 「警察の横暴です!」
周作 「大丈夫。すぐに戻ります。」
花音 「周作さん。」
浜崎 「行くぞ。」

周作、浜崎と後藤に連れられて部屋を出る。

美香子 「なんて事を…」
花音 「みんなに知らせなきゃ!」

花音、美香子、ハケる。

(作:松本じんや/写真:はらでぃ)

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