ショパン全作品を斬る
1847年(37才)〜1849年(39才)
次は
あとがき
♪ 前は
1846年(36才)
♪
目次
♪
音楽の間
に戻る ♪
詠里庵ホーム
に戻る
いよいよ最後のページとなった。 これよりショパン最後の3年は3つのワルツ以外に自ら出版した作品はない。 全部でも8曲しかないので、 最後の3年はこの一つのページにまとめて記載する。
1847年(37才)
[234] ワルツ第6番 変ニ長調「子犬のワルツ」作品64-1
作品64の3つのワルツは作曲年の1847年出版された。 献呈は3曲でそれぞれ異なっており、 このワルツはデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人に献呈された。
あまりにも有名な曲なので主題の譜例表示は不要であろう。 ショパンはときどきこのワルツのような天真爛漫な曲を書いている。 しかしそのような音楽としてはこれがショパン最後の作曲となった。
チェロ・ソナタでも触れたが、 晩年の作には(というにはあまりにも若いが)青年時代への回帰がところどころ見られる。 たとえば繰り返し記号が現れるところからのパッセージは3つのエコセーズの第3曲変二長調の中間部と和声進行がほぼ同じである。
譜例1:上段がこのワルツ、下段はエコセーズより。いずれも左手は和声のみに簡略化した。
[235] ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
作品64の3つのワルツは作曲年の1847年出版された。 献呈は3曲でそれぞれ異なっており、 このワルツはロスチャイルド男爵夫人に献呈された。
ショパンらしい憂いを湛えたワルツ。 遅いのでワルツというよりマズルカのように聞こえる向きもあるかも知れないが、 これまでマズル、クヤヴィヤク、オベレクを見てきた我々にとってこれがマズルカではあり得ないことは明白であろう。
譜例1
そして速い挿入句が現れ、 変化をつけるが、 メランコリックな雰囲気は変わらない。
譜例2
これが再度繰り返されるが、 スラーや音量記号などが全然異なることに注意。
譜例3
これからすると1回目は1小節ごとに息をつくように丁寧に奏し、 2回目は軽い風のように機械的に弾くのがよさそうである。 もちろんあまりわざとらしくなく。 譜例には示さなかったが1回目も2回目も1小節ごとにペダル指示がある。 しかしここはあまりペダルは使わない方がいいと思われる(特に2回目は)。 ところでショパンより後年のケスラーの練習曲はショパンへの導入として作られたが、 その中に次のような曲がある。
譜例4
これには譜例2あるいは3の音型の影響が見てとれる。 (ケスラーの練習曲はとてもコンサートにとりあげられる類のものではないが、 ピアノ学習者には有益なものである。)
このワルツの中間部は変二長調の優美なトリオで、 嬰ハ短調の主部に挟まれて絶妙の効果を出す。 全体的にスラブ的メランコリーの代表と言える曲だが、 ショパン晩年の寂しさや諦観とはまた異なり、 若いときの感傷を思いだしたかのようだ。 レ・シルフィードに編曲された一曲。
[236] ワルツ第8番 変イ長調 作品64-3
作品64の3つのワルツは作曲年の1847年出版された。 献呈は3曲でそれぞれ異なっており、 このワルツはカタールジナ・ブラニツカ伯爵夫人に献呈された。
舞踏ワルツの変イ長調の伴奏に乗る8音符の動きのあるくねくねした主題は面白い。
譜例1
雰囲気的にはチャイコフスキーの交響曲第5番第3楽章のワルツのような優美さを持っていて、 それでいて弱音器を付けた弦のようなどことなくくすんだ感じもあるワルツである。
[237] 歌曲「メロディー」ホ短調 作品74-9(遺作)
クラシンスキ詩。1859年フォンタナ出版。
局名は「エレジー」とされることもある。 抽象的な歌詞だが後半「彼らの骨は横たわる。記憶にとどめられることもなく」というあたり、 戦場に散ったもののことを歌っているようである。
譜例1
和声が凝っているというわけではないが、 全体として和声進行が自由に進展するので、 確固とした基本の調性が何か不明な感じがある。 しかし最後はホ短調で決める。 その点は前奏曲作品28の2番イ短調を思わせるが、 あれほどエキセントリックではない。
1848年(38才)
心身ともに衰えたショパンを回りが引き立てようとし、 ショパンもイギリス、スコットランド演奏旅行を決行した年である。 このハードな旅行でショパンの健康はますます悪くなったが、 演奏家として最後の輝きを放った。 作曲の方は力無いメランコリーに閉じこもって行く一方であった。
[238] ノクターン第21番 ハ短調(遺作)
ワルツイ短調(遺作)と対の自筆草稿を、 ロスチャイルド家が所蔵していた。 作曲年については諸説あり、 文献4には15才、17才、27才説があるとされ、 文献1のように「リストの証言などから1847〜1848年頃作曲と考えられる」とするものまである。 1938年出版。
和声の変化は多少はあるものの曲想は単調で、 ショパンとしては明らかに劣る曲である。 強弱記号が全く記入されていないことから、 ショパンがこの曲をこれで完成した曲とみなしていたとは考えにくい。 一応最後まで書かれた曲の体裁をなしているスケッチと考える方がよい。
譜例1
[239] ワルツ(パデレフスキー版にはなくヘンレ版第17番)イ短調(遺作)
前項のロスチャイルド家が自筆草稿を所蔵していたワルツ。 前項と同じく作曲年には諸説ある。 1955年出版。献呈はなし。
ワルツ3番路線。 それもさらに力がなくなって来た。 属音のアウフタクトから始まる上昇短音階の旋律は[238]のノクターンに似たところがある。 これも強弱記号が全くなく、 スケッチと考えた方がよい。
譜例1
1849年(39才)
ショパンが生きた最後の年。 彼の唯一の写真がこの年撮られた。 いろいろあるハンサムな肖像画と異なり、 顔はむくみ、苦しそうである。 写真が発明されたのはこの10年前なのだから、 なぜもっと早く彼の写真を撮っておいてくれなかったのか。
[240] マズルカ第45番(ヘンレ版第43番)ト短調 作品67-2(遺作)
第44番(ヘンレ版第42番)ト長調 作品67-1[112]
、
第46番(ヘンレ版第44番)ハ長調 作品67-3[113]
、
第47番(ヘンレ版第45番)イ短調 作品67-4[229]
を含む作品67の4つのマズルカは1855年フォンタナ出版。
冒頭は晩年の力無い作品群の一つかと思わせるクヤヴィヤクだが、 そのあとの展開はショパンらしい。
譜例1
三連符が繰り返し現れる中間部も特徴がある。 譜例1の最後の2小節はそっくりな音型がチャイコフスキーバイオリン協奏曲の第2楽章にも現れる(譜例2)。
譜例2
[241] マズルカ第51番(ヘンレ版第49番)ヘ短調 作品68-4(遺作)
第48番(ヘンレ版第46番)ハ長調 作品68-1[44]
、
第49番(ヘンレ版第47番)イ短調 作品68の2[17]
、
第50番(ヘンレ版第48番)ヘ長調 作品68-3[45]
、 を含む作品68の4つのマズルカは1855年フォンタナ出版。
これが本当の絶筆。 病床で書かれ、 ショパンは自ら弾いてみることすらできなかった。 息絶え絶えのような伴奏に乗る半音階下降の美しくも哀しい旋律。 24才のときマリア・ヴォジンスカとの別れに際し作られた「別れのワルツ」変イ長調作品69-1(遺作)の雰囲気が再現される。
譜例1
病床にあってもショパンらしさを忘れてはいない。 急なイ長調への転調とヘ短調への復帰のあざやかさ。 若くして確立した語法にいささかの変化もない。 あるのは侘び・寂びが付け加わったことだけ。
ショパンは親しかった姉のルトヴィカをはるばるポーランドから呼んだ。 ルトヴィカは臨終に間に合った。 ショパンはルトヴィカとともに故国へ戻るつもりだったが、 病状の悪化はそれを許さなかった。 1849年10月17日、 ルトヴィカに看取られショパンは息をひきとった。 ショパンの遺言どおりモーツァルトのレクイエムのもとに葬式が行われ、 参列者が長蛇の列を作った。 ジョルジュ・サンドは臨終にも葬式にも来なかった。 (しかし誰がそれを責められよう。) そして遺言通り心臓だけはルトヴィカがポーランドへ持ち帰り、 ポーランドの土がかけられ、ワルシャワの聖十字架教会に眠ることとなった。 ショパンの遺骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に眠ることとなった。 緑の木々に囲まれた静かなこの墓地にあるショパンの墓にはジョルジュ・サンドの像とショパンの肖像の石碑が造られている。 そしてショパンと親交のあったバルザックやドラクロワも近くに眠っている。 後世の作曲家であるビゼーやエネスコの墓も近くに建てられている。
ポロネーズに始まったショパンの創作活動はマズルカで終わった。 病身でさえなければその先どんな傑作が生まれるはずだったのか、 そのとき彼の脳には刻まれていたかもしれないその素材も、 今となっては誰にもわからない。 死の直前ルトヴィカを呼んだショパンの手紙から引用してこの連載を終わりたい。
「姉さん、すぐ来てください。 僕は病気です。 旅費が足りなかったら借金してください。 元気になってまた作曲すればすぐ返せます」
(完)
次は
あとがき
♪ 前は
1846年(36才)
♪
目次
♪
音楽の間
に戻る ♪
詠里庵ホーム
に戻る