ショパン全作品を斬る
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- [15] モーツアルト「ドン・ジョバンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2
1830年出版。
ショパン無二の親友ティトゥス・ヴォイチェホフスキに献呈。
管弦楽とピアノ独奏のための協奏的作品。
シューマンが1831年「音楽時報」で「諸君、天才だ! 脱帽!」
と評論したことで有名な曲。
ショパンの協奏的作品は6曲あるが、
ほとんどはパリに出る前の十代の時の作品である。
当時ピアノの名手として世に出るためにはこのような曲をひっさげてデビューするのが効果的だったが、
その目論みは十分果たされ、
ショパンの地位を築くために重要な意味を持った作品群である。
これらはもちろん作品1路線([11]ロンドヘ長調参照)。
パリに移ってからショパンは急に協奏的作品を作らなくなるが、
その理由はよく言われているように (1) ワルシャワで天才ショパンの伴奏をオーケストラが快く務めていたのに対し第一級の芸術国際都市パリではそう簡単に行かなくなったことと (2) ショパン自身オーケストレーションに向いていないことを自覚し以後ピアノ作品に的を絞ったことである。
私は(2)の方が大きかったと思う。
理由は、
パリに移ってからもピアノ協奏曲はよく協演したので (1) の理由がそれほど強くはなかったと思われることと、
作曲家にとって(2)のような理由はより本質的であるからである。
最低音F1、最高音F7。
曲は長い序奏付きの華々しい変奏曲で、
ピアノ技巧は非常に進歩的だがそれ以上の曲では無い。
第2変奏がシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」の第3変奏の影響を受けたであろうことや、
この曲がシューマンの「アベッグ変奏曲」に影響を与えたであろうことは想像に難くない。
跳躍が繰り返す第4変奏のピアノ技巧は難しく、
後にエチュード作品25第4番に結実するし、
シューマン「謝肉祭」第16曲にも現れる。
- [16] ノクターン第19番 ホ短調 作品72の1(遺作)
1855年フォンタナ出版。
なぜこれを生前出版しなかったのかと思わせる遺作がショパンにいくつかあるが、
これはその一つ。
イギリスの作曲家ピアニスト、ジョン・フィールドが創始した「ノクターン」というジャンルをショパンは大きく取り上げたが、
これはその最初の作品。
ベートーベンが死んだ年に17才の青年がこのような繊細な和声を持つ沁み入るような作品を作ったという事実に驚かされる。
メランコリックな主題は感傷に流れるきらいはあるが、
大変大人っぽい。
魅力的なのは23小節目から始まる第二主題とも小終結句ともつかない長調終止のところで、
夢のかなたから響いて来るようだ。
ここは和声的にシベリウスを先取りするようで、
たとえば交響曲第2番第2楽章の第2主題を彷彿とさせる。
さらにこの同じ句が47小節目からホ長調で再現するところ、
一回目にはあった音符を省略している(52小節目の二分休符)!
これは省略した無音の部分に聴く者の頭の中で旋律の埋め合わせをさせるもので、
ジャズでもよく使われる(アーマド・ジャマルなど)非常に効果的な技法である。
普通なら二回目はより凝った再現をさせるところ、
ため息を入れてとぎれさせ、
終結に向かう感じを出している。
ショパンらしさが溢れる最初の名曲ではないだろうか。
- [17] マズルカ第49番(ヘンレ版第47番)イ短調 作品68の2(遺作)
1855年出版。
あまり聞かれないマイナーな曲だが、
ジプシー風の特異な雰囲気を持ち、
妙に惹かれる曲である。
ショパンのマズルカには世界共通音楽から逸れた、
おもしろい曲が多い。
この曲はクヤヴィヤクである。
中間部はマズルで poco piu mosso となる。
とつとつとゆっくり奏するのがよい。
ルーマニアのパンフルートに合いそうな曲想である。
- [18] 葬送行進曲 ハ短調 作品72の2(遺作)
1855年出版。
後年のピアノソナタ第2番の葬送行進曲には比べるべくもないが、
しみじみとした曲である。
この年に死んだ妹エミリアのために作られたとする説が有力。
当時は公開演奏もされたらしいが、
ショパンの内面にしまっておいてあげたい曲である。
- [19] コントルダンス 変ト長調
1834年出版。
習作の時期はいろいろな形式の曲を作り実験しているようだ。
当時の純音楽としては珍しいマズルカ、ノクターン、葬送行進曲の他、
コントルダンス(カントリーつまり田舎のダンス)などという他に見あたらない曲を作っている。
ショパンに似合わないフーガまである(次に解説)。
このコントルダンスのリズムは後年のバラード第2番を予感させる。
人目を引く点はないが、
ほのぼのとした曲。
- [20] フーガ イ短調(遺作)
1880年出版。エルスナー先生はショパンに
「君は(元々天才なので)私の弟子とは思っていない。
だが君に対位法を教えるチャンスに恵まれたことを誇りに思う」
と言った。
この2声のフーガはそのときの習作と考えられている。
後年(1842年頃)ショパンが弟子教育のために書いたという説もある。
バッハのフーガほど緻密ではないが、
主題自体魅力的で、全体としても悪くない曲だと思う。
2声しかないフーガだがストレッタもある。
ドミナント(主音から5度上)の音から始まる場合、
普通は旋律が3度上の音で小終止すると同時に、
ドッペルドミナント(5度で始まる旋律に次の声部がさらに5度上で入るとオクターブに戻らず2度上になってしまう)を避けるため二番目の声部を2度上でなく主音から始めるのが原則だが、
このフーガはそれを踏襲していない。
まあ、それはどうでもよく、
聞いてよければそれでよい。
再現部の手前(第44〜50小節)音楽が正気を逸脱し、
狂ったように小終止する所は面白い。
音の動きに近代的なところがあるので、
後年作曲説もあながち否定できないと思われる。
全体としてピアノだと少々もの足りなく聞こえるので、
弦楽合奏か木管二重奏であまりゆったりなりすぎないよう活き活き奏されるといい音楽になると思う。
- [21] 歌曲「消え失せよ」ヘ短調 作品74-6(遺作)
ミキェヴィチ詩。1859年出版。
20曲あるショパンの歌曲はすべて出版を意図していない遺作である。
これはその最初の曲。
ショパンの歌曲はヴォーカルもピアノ伴奏部も技術的には容易なものばかりで、
「聴かせる」ことをねらって作られてはいない。
したがってピアノ曲の代表作のように大きな感動を与えるものではない。
しかしどれも素朴で暖かみのある音楽である。
世界の第一級の作品を次々と生み出す一方、
このような私的な音楽を書いて、
よそ行きでない場で家族や友人と楽しむショパンの姿が思い浮かべられる。
失恋を詠む劇中詩に付けられたものだけに、
失恋を振り払うかのように決然と始まる。
後半の変イ長調は一転して柔和。
後に二度味わう失恋をこのときショパンは知る由もなかっただろう。
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