ピアノの音域の話

        
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はじめに

 ピアノの鍵盤はいくつあるでしょうか?  88鍵に決まっていると思いますよね。 一番下の音はラ(またはイ音またはA)で振動数は約27ヘルツ、 一番上の音はド(またはハ音またはC)で振動数は約4200ヘルツです。 これより多い鍵盤を持つピアノがあると言っても、 知っている人は驚きませんね。 ベーゼンドルファーの最上位モデル「インペリアル」は下のラからさらに下がって九つ鍵盤があって、 一番下はドの音です。 ピアノを弾く人は普通「最下音はラ」と思って最低音域を弾くので、 それより下に九つも鍵盤があると、 違和感を感じて弾きにくいものです。 多分そのためでしょう、 インペリアルでは九つの鍵盤は白鍵と黒鍵の色を逆にしてあります。 そこだけチェンバロみたいですね。

 ところでインペリアルの一番下のドは約16ヘルツだから、 人間の可聴周波数の下限(20ヘルツと習いましたね)より下です!  実際に一音だけポーンと弾いてみると、 あまりに音が低くて音程がよくわかりません。 どんなに絶対音感のある人でも簡単には聞き取れないでしょう。 曲を弾くと前後関係や和声の関係から分かる可能性も出てきますが。 しかし、 大体そんな音を使う曲があるのでしょうか?  インペリアルでないと弾けないような曲が。 それがあるんです。 そればかりではありません。 インペリアルでさえピアノの最高音は普通と同じC8ですが、 これより高い音を使う曲もあります。 いずれもそれほど現代音楽というわけではありません。 近代音楽に凝っている人なら誰でも知っている曲です。 「えっ、何て曲ですか?」という声が聞こえてきそうですけど、 ちょっと待ってください。 一気にそこに行く前に、 少し歴史を追ってみたいのです。 そもそもピアノは最初から88鍵もあったわけではなく、 鍵盤数は歴史とともに増えていて、 そのことが音楽にも影響を与えているのです。

 バッハの鍵盤楽器曲をいろいろ見て行くと、 バッハが弾いていたチェンバロはC2からC6までの49鍵だったと確信できます (2段チェンバロは鍵盤数を2倍と数えないことにします)。 なぜなら全ての曲がこの音域内に収まり、 これを少しでも逸脱する曲が出てこないからです。 (後年の「半音階的幻想曲とフーガ」や「ゴールドベルク変奏曲」のような例外もありますが) 同様に、 モーツアルトが弾いていたピアノはA2からF6までの57鍵だったに違いありません。 ベートーベンはその生涯中にピアノの音域拡大を経験したと思われます。 これは、 生涯を通じて書かれたピアノソナタの音域を年代順に追って行くと明かです。

 ところでモーツアルトもバッハもベートーベンも、 出現音符のヒストグラム(出現回数の棒グラフ)を作ると(もちろんピアノ曲に限ります)、 鍵盤の音域の両端で徐々に0に近づくのではなく、 めいっぱい音域が使われていて、 音域外でストンと0に落ちるのです。 (だから前の段落のような推測ができるのです)  そのようなことが起こるのは何故か、 よく考えると不思議ではないでしょうか?  この3人はキーボードに触りながら作曲するというより、 まず頭の中で純粋に音楽を思い浮かべ構築するタイプです。 純粋に音楽を先行させたとき、 ヒストグラムはそんなに作為的にストンと落ちないはずです。 問題は、 思い浮かべた音楽が実際の楽器の音域を逸脱したときでしょう。 これは鍵盤楽器に限らず、 特定の楽器を想定して作った楽想がその楽器の音域を逸脱してしまうことは、 よくあることと言えます。

 そのとき作曲家はどう対処するのでしょうか?  対処法の一つとして、 (1)音域に収まるようにメロディーや音を変えてしまう、 という方法が考えられます。 しかしこれはいたたまれません。 別の対処法の一つとして、 (2)音域に収まるようにそのまま移調する、 という方法があります。 しかしこれも嫌なことです。 つまり、ある調を想定して作った楽想を安易に他の調に移し変えることは、 それぞれの調に特有のイメージを持っている場合、 やはりいたたまれないことです。 そこで(3)そのメロディーの担当楽器を変えてしまうことも考えられます。 さらに過激なのは、(4)楽器の調律を変えてしまうか (5)楽器そのものを改造してもらうことも考えられます。 いずれにしても、 こういう問題が起きたとき、 なんらかの不本意な妥協を迫られるわけです。 ヒストグラムがめいっぱい拡がってストンと0に落ちるということは、 そのような妥協の産物と言えるのではないでしょうか。

 ちなみにピアノ以外で前記(1)の「音域に収まるようにメロディーや音を変えてしまった」有名な例としては、 ベートーベンの第3交響曲「エロイカ」第1楽章の終結部でメインテーマが全奏されるときのトランペットで、 メインテーマを二小節吹かせただけで、 音域の問題からテーマの途中なのに伴奏に回されています。 現代のトランペットでは機構上演奏できてしまうので、 現代ではオリジナル楽譜の方を変え、トランペットに心ゆくまで旋律を吹かせる指揮者もいます。 これはトランペット奏者には嬉しい方策ですが、 もちろん作曲者に失礼と考える人もいます。
 (2)の「音域に収まるようにそのまま移調した」例を探すのは難しい。 なぜなら本来別の調を想定して思い浮かべられたという証拠が残らないからです。 でもこれは安易にできるので応急処置としてかなり採用されていると思います。
 (3)の「メロディーの担当楽器を変えてしまった」例としては、 一つの旋律をオーボエとイングリッシュホルンでバトンタッチする例や、 チェロからヴィオラ、さらにバイオリンにバトンタッチする例などがあります。 これに似た変わり種を一つ挙げましょう。 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調の冒頭で情熱的第一主題を弦が奏でるとき、 テーマは終わり際でドー♭シーー♭ラソファと降りて、 最終音はファです。 これはバイオリンの最低音ソより低い音です。 このときラフマニノフはどうしたか?  実は バイオリンパートだけソで終わらせ、 最後のファはビオラだけに残したんですね。 この楽想で最後のファはディミヌエンドの最終音なので、 バイオリンがソでやめてしまうことは、 音量の点でむしろ理にかなっているんですね。 私はこれを見たとき感心してしまいました。 自分だったらこういう処理は思い付かなく、 このファに悩んで、 もしかしたらニ短調に移調してしまうかも知れないと思ったからです。 でもこの曲にニ短調は似合いませんね。 ニ短調はやはり第3番です。
 (4)の「楽器の調律を変えてしまった」例は結構あります。 ギターの最低弦をD(レまたはニの音)に調弦することはよくあります。 コダーイの無伴奏チェロソナタは最低弦をH(シまたはロの音)にしています。 余談ですが、 この曲は聞こえはロ短調ですが、 記譜上、 最低弦を使う部分だけは半音上げて(つまりハ短調で)書いてあります。 つまり、 鳴るべき音を音符に記したのではなく、 指の位置を指定する記号として音符を記したのですね。 このように、 記譜法には、 実音記譜と動作指令記譜(造語です)があります。 移調楽器の記譜は後者と考えてもいいでしょう。 楽譜から実音を思い浮かべるのに慣れている人には後者はやっかいです。
 (5)の「楽器そのものを改造してしまった」例はさすがに具体例を知りませんが、 ひょっとしたら世の中にこれだけいろいろな楽器が開発されてきたのは、 案外これが一番理由になっていたりするかも知れませんね。 以上ちょっと余談でした。




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