日日雑記 January 2003

05 チェーホフの手紙、新年の年中行事
16 銀座マロニエ通り、古本お買い物帖#02/
18 落語と俳句、文楽の『寝床』と『かんしゃく』
23 更新メモ、洗亭忌の夜、戸板康二の『句会で会った人』
28 車谷弘の『銀座の柳』、古本お買い物帖#03/

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1月5日日曜日/チェーホフの手紙、新年の年中行事

年末に、新装オープンした、神保町の東京堂に行った。
開店まなしだったせいか、まだ棚ができきっていない様子だったけれども、
とりあえず、ニュウオープンが嬉しい。
洋書コーナーがなくなってしまったのは残念だけれども、
文学書コーナーの濃さは相変わらず、と予想されるので、
また東京堂でいろいろ読みたい本が見つかると思うと、たのしみたのしみ。

その東京堂での初買い物は、新潮文庫の新刊の『日本少国民文庫 世界名作選』2冊。
ふと目次を繰ってみると、チェーホフの「兄への手紙」が収録されているのが嬉しくて、
買うつもりはなかったのに、思わず買ってしまった。装幀は恩地孝四郎だった。

思い起こすと、ちょうど1年前の去年の1月は、
年明けにひいた風邪がなかなか抜けなくて、くさくさした日々だった。
そんななかで読んでいたのが久保田万太郎で、思いっきり夢中だった。
ほかに心に残っているのが、みすず書房の「大人の本棚」シリーズの、
山田稔編『チェーホフ 短篇と手紙』のこと。万太郎とチェーホフの月だった。

短篇の方はすべて再読だったのだけれども、それにしても、チェーホフは深い。
この本に感謝しなければいけないのが、チェーホフの手紙のことを教えてもらったことだ。
チェーホフは戯曲、短篇、旅行記、それから手帖など、約10年にわたって読み続けていて、
もっとも思い入れの深い書き手のひとりだったにも関わらず、
うっかりしていて、書簡にはあまり接したことがなかったので、
『チェーホフ 短篇と手紙』でチェーホフの書簡の素晴らしさを知って、
中央公論社の全集を取り出して、初めて、手紙にじっくりと触れることとなった。
これからも、いろいろな局面で、生涯にわたってひもときたいチェーホフ全集だ。

その『チェーホフ 短篇と手紙』に収録されていた「兄への手紙」が
新潮社の『日本少国民文庫 世界名作選』にも入っていたので、ふと懐かしくなった。

《教養を身につけ、自分のいる環境の水準を下まわらないでいるためには、……
それには、日夜たゆまぬ骨折りと、たえざる読書と勉強と、意志が必要です。
……そのためには、一時間一時間が大切なのです。》

教養ある人びとはたえず自分の内部で美学を養うなどなど、
教養について、26才のチェーホフが30歳を目前に控えた兄に、いろいろ書いている。

去年1年間、もっとも耽溺したのが久保田万太郎で、
じっくり読んでみると、すぐにわかることは、
万太郎に流れるのは、江戸趣味などというものではなく、
チェーホフの影響が色濃く、そこにあわさる樋口一葉の影響、
カチッと動かせぬ万太郎独自の文学世界は
実は独特のモダンさがある、ということ。

チェーホフ、一葉は昔から大好きな書き手、
久保田万太郎に耽溺することになったのも決して偶然ではなかったのだと思う。

そんなこんなで、先月、念願の久保田万太郎全集、全15冊を購入した。
こちらも、いろいろな局面で、生涯にわたってひもときたい全集だ。

チェーホフの手紙のなかの、「何よりも快活でいらっしゃるように。
人生を難しく考えてはいけない、本当はもっと簡単なものなのだから」
という一節が妙に心に残っている。チェーホフの小説に出てくる、
人生を難しく考えている人びとのことを思い起してみると、ますます心にズシリと響く。

新しい年は、何よりも快活な年月になるとよいなあと、心から思う。

そんなこんなで、全然まとまっていませんが、御慶。

新年あけましておめでとうございます。



元日は、「圓生百席」の『双蝶々』を聴いて「クーッ!」となってから、
あわててラジオのスイッチをひねって、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを流した。
ちょうど、ブラームスの《ハンガリー舞曲》の第5番が流れているところで、
わたしはたぶん初めて聴いたアレンジだったと思う、
まあ、ニューイヤーコンサートでブラームス! とはしゃいでいたら、
もう1曲、第6番も流れて、嬉しかった。アーノンクール、ありがとう。

2日は、歌舞伎座昼の部の見物に行った。
朝、部屋を出ると、木々には雪が積っていて、空は青く澄んでいる。
歌舞伎座にたどりつくと、あちこちにまゆ玉がかかっていて、
幕間のお茶の時間に、花びら餅を食べた。それにしても、まゆ玉がまぶしい。
家に帰って、『久保田万太郎全句集』を繰った。

ま ゆ 玉 や つ も る う き 世 の 塵 か る く

なにがしかの俳句的瞬間を見つけるたびに、万太郎俳句を読みふけってしまうのだった。

『白浪五人男』で落語の『居残り佐平次』のことを思い出して、志ん朝のディスクを聴いた。
忠信利平のセリフが引用される箇所があって、いつもクスクスしている。

3日は、国立劇場で『双蝶々曲輪日記』を観た。
劇場に向かう途中、軽く雪が舞っていて、雪曇りでどんよりしていた。
お正月でボケボケしていたせいか頭痛持ちの一日で、
「角力場」のあと気持ちが散漫になってしまい、「引窓」で急に目が覚めた。
初めて見たこともあって、まずは何よりもそのドラマツルギーにうなる。

家に帰って、『戸板康二劇評集』[*] をめくってみると、

《合作だから、正確には、この場面を、竹田出雲・三好松洛・並木千柳という
『忠臣蔵』『菅原』『千本桜』トリオの誰が書いたかはわからないが、
ぼくは、『忠臣蔵』七段目の執筆者と同一人だと推理する。
「同じ人を殺しても、運の好いのと悪いのと」
「欠け腕の一膳もり、つい食べて帰りましょう」
「鳥が粟を拾うように、貯めおかれたその金」
「猫が子をくわえ歩くように、隠しぎょうとしたは何事」
といった修辞のうまさが、茶屋場の由良助の
「青海苔もらうた礼に太々神楽」という例の警句を思い出させるからである。》

という一節があって、本当のところはどうなのかよくわからぬけれども、
ああ七段目かあ、と、去年10月の舞台のことを思い出したりもした。
お軽が二階に登場するところ、酔いざましをしている風情の見事さ、
絵画と詩と文学(のようなもの)の深みが渾然一体となっている空間、
こういう場面に夢中になるあまりに、歌舞伎や文楽がやめられないのだなあと思った。

そのあと、ふと思い出して、芸談集『四代越路大夫の表現』を繰りつつ、
越路大夫の追悼番組から録音した「引窓」の義太夫を聴いた。

4日は、国立能楽堂で、『御裳濯』『熊野』、狂言『隠狸』を見た。
お能はいつも舞のところでむやみやたらと興奮していたのだけれども、
今回の『熊野』では作り物の車の中のシーン、
道中の謡曲の本文の一節一節がとてもよかった。
『熊野』みたいな全体的に静かなじんわりと深い曲もよいなあと、
いろいろとお能のよろこびが広がる思い。
国立能楽堂の展示室では能面の展覧会が開催中で、
いつもここに来ると、お能見物と同時にちょっとしたお勉強ができるのが嬉しい。

……などなど、寝正月になるのをおそれるあまりに、
むやみと観劇予定を詰め込んで、あたかも旅行中の日々のようだった。

ニューイヤーコンサート、初芝居、花びら餅、と新年の年中行事を順調にこなしたところで、

The Joy of Music を再開しました。





  

1月16日木曜日/銀座マロニエ通り、古本お買い物帖#02

お正月明けのはじめの二、三日は毎年とっても上機嫌、
長い休みのあとの日常生活への回帰がなんだかとても嬉しくて、
いつものふつうの生活が一番だなあと、そこはかとなく幸せな気持ちになる。

が、10日もたつと、身体が冬眠モードになってくるせいか、
日に日に生活が冴えなくなっているような気がする。
で、そのまま花粉症の季節到来となり、さらに冴えなくなる。

さてさて、お正月休み明けの上機嫌が最高潮だった、先週のある日のこと。

日没後、手帳のリフィルを買わなくてはと伊東屋に立ち寄ったあと、
そのまま、築地方面へと歩いていった。あそこの道はなんだっけと、
今確認してみたら、そうそう、マロニエ通りだ。

テクテクと銀座を横切って、マロニエ通りを築地に向かって直進、
その目的地は、中央区立京橋図書館

去年9月に利用者登録をして以来、頻繁に利用している図書館で、
読みたい本の蔵書率が高くて、たいへん重宝している。
他の図書館にはあまりないような本がけっこうあって、つい興奮。
ウェブで予約できるので、倉庫の奥にあるような本を借りるときも、
気兼ねがいらないのがたいへんありがたい、と、ズにのって、
チョクチョク利用して今日に至っている。

この図書館に来るのはほとんど平日なので、
午後5時で閉まってしまう地域資料室はあまり利用したことがないのだけれども、
旧東京市十五区でいうと京橋区と日本橋区が合併した現中央区の
擁する「地域資料」、なにかと見逃せない資料がそろっている感じで、
いつかゆっくり眺めたいものだッ、と、つねづね思っていたりもする。

そうそう、京橋図書館の地域資料室には面白い地図が売っていて、
ウェブで知って非常にそそられ、ぜひとも手中に収めたいッと思って、
張り切って、買いに出かたことがあった。

その地図というのは、その名も「京橋地区図」。
日本橋区と京橋区の二種類あって、いずれも4枚セット。420円也。

説明書きをそのまま書き写してみると、

《中央区発展の礎は1590年、家康の江戸入府にさかのぼり、
さらに1603年にはじまる埋め立てなどによって姿をかえ、現在に至っています。
区内の町並みは埋め立てのほか、大火事、戦災などのたびに大きく変化しています。
今回、複製刊行した地図4枚は、その意味で各々大きな変化を経験した時期のものを選びました。
時代でいえば、(1) は江戸時代後期、(2) は明治の市区改正実施後、
(3) は関東大震災後の復興区画整理後となります。
なお、(4) は現在の地図でトレーシングペーパー版なので、
各時代の地図の上に重ね合わせることで、現時点から4枚で
約150年間のおおよその土地の移り変わりを、見ることができます。》

とのことで、まあ、なんて楽しいのでしょう!

旧京橋区というと、現在の銀座と築地あたりということになり、
築地というと、戸板康二が戦中戦後の6年間演劇記者として働いていた、
日本演劇社のあった場所。と、その年代の地図もあればよかったのだけど、
この4枚重ねの京橋区の地図、もっともよく眺めているのは昭和7年のもの。
大正昭和初期あたりの銀座が出てくる某かの書物を頭に浮かべつつ
昭和7年の地図を眺めていると、気分は桑原甲子雄の白黒写真、
もしくは、織田一磨のリトグラフ。と、昔の地図はそれだけで魅惑的。

……などなど、なにかとたのしい京橋図書館なのだが、
ウェブ予約していた本を借りたあとはたいていすぐに退散、
今まで、館内に長居したことは実はあまりない。

というのは、この図書館、あとさきの行程がいつもいい感じなのだ。

先週も、本を2冊借りて、すぐに外に出た。

空には、花王のマークそっくりの三日月が浮かんでいた。
心持ちよくうかうかと、ひよ子という喫茶店に寄り道した。
夜8時まで空いていて、京橋図書館の帰りにいつも通りかかっていたのを、
ある日気が向いてふらりと中に入ってみると、
インテリアとかメニュウとか、これといって何ということはない
昔からあるような喫茶店なのだけども、
その「特になんということがない」ところが妙に気に入ってしまって、
たまに気が向くと、中に足を踏み入れて、
角のカーテン越しのテーブルでしばしの間、本を読んでいる。
「昔からあるような」というのはインテリアだけではなく、
価格にも当てはまり、とってもリーズナブル。
いったい何年前の値段だろう。なにはともあれ、不思議と落ち着く。

先週のひよ子、隣のテーブルは、着物姿のお師匠さん4人連れだった。

いつものすみっこのテーブルで、眺めたのは、
借りたばかりの本と買ったばかりの本。

伊東屋から京橋図書館に至る銀座マロニエ通りの道筋で、
必ずと言っていいほど足を踏み入れるのが、奥村書店2店舗、
先週は銀座から築地だったけれども、図書館のあと
銀座に向かうことの方がいつもは多かったかな、
夜空の下、マロニエ通りを北上して、ふらりと足を踏み入れて、
という感じで、安価な古本を購う、ここ数ヶ月だと、
永井龍男の『石版東京図会』(中公文庫)と
車谷弘の『わが俳句交遊記』(角川書店)が嬉しい買い物で、
2冊ともがそれぞれ、読後がなんとも滋味あふれる本だった。

先週は、松屋裏の奥村書店で、本を2冊買った。
初天神ならぬ初古本だった。

買ったのは、安藤鶴夫の『落語鑑賞』(苦楽社、昭和24年)と
福原麟太郎の『変奏曲』(三月書房、1961年)。

2冊とも、前々から欲しかった本で、ひさびさの嬉しい買い物だった。

というわけで、2003年の初古本、シリーズ化なるか別ファイル。

★ 本日の別ファイル:古本お買い物帖 >> click





  

1月18日土曜日/落語と俳句、文楽の『寝床』と『かんしゃく』

ここ数ヶ月、落語ディスクに思いっきり夢中で、
次々と買いあさっては、次々と聴きあさっている。
今のところは、圓生と志ん朝が圧倒的に多くて、
ついで、文楽、正蔵、小さん、馬生、といった感じ。
ほかにも聴いてみたい噺家は目白押し。
志ん生へはまだ足を踏み入れていない。将来の楽しみ、とっておきだ。

ひとつの噺を聴いて、連句的に次はこれ、
というふうにつながってゆくのもあれば、
別の局面で、ある本で読んで、あるディスクを買って、
そこから思いがけなく、他の噺、他の噺家へと連句のようにつながる、というのもある。
それから、月曜日と火曜日の夜は「ラジオ名人寄席」も欠かせない。
とにかく、まさしく連句のよう、ことが派生し発展し、
どんどんふくらんでゆき、もうどうにもとまらない。

このところ落語ディスクに夢中になっている、
その一番の導き手は、矢野誠一さんの文章。

たとえば、『落語歳時記』(文春文庫)という本がある。

《「歳時記」をつくる場合の、包丁さばきみたいなものについて、
戸板康二先生から有益な助言をいただいたのは、
たしか伝法院で行われた安藤鶴夫氏の一周忌の集いの席だった。》

というふうな成り立ちの『落語歳時記』、その中入りとして、
「落語と、落語家と、俳句」という文章があるのだけれども、
この江戸落語と俳句との類似性についての文章、モクモクと刺激的。

《歳時記をひらく楽しみと、落語をきく楽しみが、
あまりに似ていることに、おどろかされることがある。
つまり、俳句と落語には、かなり共通した要素が見いだされるということだ。
いい俳句というものは、それ自体が果てしないような、
人の世の営みだの、宇宙だののなかから、これはまたごく些細な一断片を、
ひょいと抽出して、残された大きな影のごとき部分を感じさせてくれる。
このあたりは、落語にとって得意なところで、
それが、おなじ語りの芸でありながら、
講談や浪曲とは、明確な一線を画してみせるゆえんなのである。……》

という書き出しになっている。

俳句と落語の共通性が「季節感とは無縁でいられない」こと、
「四季とりどりの風物」が散りばめられているところにあるのはもちろん、
こうした「煮詰められたような言葉の選択」という要素にもあるのだなあ、
と、しみじみ感じ入ってしまい、余白の芸術としての俳句の歓び、
そこに合わさる季節感にふんわりと接する至福は、
久保田万太郎の俳句を通して始終味わっていたから、
つねひごろの万太郎耽溺とわが落語鑑賞(のようなもの)とが一体化して、
両者のよろこびがますますひろがってゆく、そんな気持ちになった。



落語と俳句と久保田万太郎というと、
安藤鶴夫の『落語鑑賞』に序文かわりに添えられた、
おのおのの噺にあてた万太郎の俳句があって、
この句ととともに掲げられている落語を聴いてみるというのも
たいへんたのしいひとときで、まだまだきいていない噺が多いので、
これまた、将来のたのしみ、とっておきかもしれない。

安藤鶴夫の『落語鑑賞』の序文の久保田万太郎の俳句について、
戸板康二は『万太郎俳句評釈』[*] で次のように書いている。

《これは、私は万太郎の連作の白眉といってもいい見事な作品だと思っているが、
はなしの筋とつかずはなれず、その季節感、登場人物の姿などを、
ツボをおさえて、句に仕立てた技巧と、万太郎の積み重ねた蘊蓄から生まれたものである。》

と、念願の一冊だった『万太郎俳句評釈』を買ったのは、去年の6月のこと。

この戸板さんの一節を目にして、あらためてじっくりと
何度も聴いてみたのが、桂文楽の『寝床』。

『落語鑑賞』の万太郎俳句、『寝床』は、

短 夜 や ら ち く ち も な く 眠 り こ け

というもの。

これもまた、いっけんなんでもないようでいて、
何度か胸のなかで反芻してみると、まったくもって見事だなあとしみじみとなる。

「埒口もなく」という言葉を知ったのは、このときが初めてだった。
講談社学術文庫の『江戸語の辞典』をひもといて、ふむふむとなった。
「らちくちもなく」、まったくもっていい響きだなあと思う。

「短夜」というのは「明易し」とおんなじ意味で、
六月下旬の夏至あたり、日の短いさかりのことを指す。
歳時記を参照すると、「春分の日から昼が長くなり、夏至になると最も夜が短くなる。
この前後の明けやすい夜のことをいう」というふうに書いてある。

『短夜』というタイトルの戯曲が万太郎にはあるが、これもまた名作。
おもえば、『春泥』『末枯』『花冷え』などなど、
万太郎の作品は季題をタイトルにしたものがたくさんある。
戸板康二は、久保田万太郎の文学全体には「俳諧のこころ」があると書いていたが、
万太郎を知ってから、ますます歳時記をひもとくのが楽しくなった。

と、万太郎俳句を胸に、文楽の『寝床』を夜な夜なきいたのは去年の6月のことだった。

NHK の「ラジオ深夜便」を流していると、毎日、日付けが変わる時間に、
明日の日の出の時刻を教えてくれて、その時刻に耳をすませてみると、
6月下旬の夏至の日に向かって、緩やかなカーヴに乗るようにして、
毎日毎日日の出の時刻が早くなって、夏至を折り返し地点に、
そこからまた、緩やかな曲線を描くように、日の出の時刻が遅くなってゆく。
そのカーヴを頭のなかに思い浮かべて、「短夜」という言葉を胸のなかで反芻してみるうちに、
なんとなくよい気分になってきて、その気分がなんとなく心地よかった。

と、そんな心地よさのなかで、夜な夜な文楽の『寝床』を聴いて、
宵っ張りの毎日だった。聴いている噺と季節感とが絶妙にマッチしていて、
いまでもあのときのこと、あのときの気分は鮮明な記憶。



それから、もうひとつ、桂文楽のディスクのことを。

去年10月、演劇博物館で《よみがえる帝国劇場展》という展覧会を満喫した際に、
高野正雄著『喜劇の殿様 益田太郎冠者伝』(角川書店)を再読していたが、
実は落語作者としての仕事も残している益田太郎、
「彼は落語を作り、高座にかけるためにヒイキの落語家に祝儀をはずみ、
ひそかにたのしんでいた」と筆者は推測している。

まったくもって、太郎冠者をとりまく諸々のこと、なにもかもが面白い。
おっ、これはよい機会と、太郎冠者作の落語を聴いてみようと思い立った。
とりあえず聴いてみようッと思ったのが、太郎冠者を知る人たちが、
「本人そっくり」といっていたという『かんしゃく』。

『かんしゃく』は、矢野誠一著『落語読本』(文春文庫)によると、
三遊亭圓左、三遊亭圓馬から桂文楽に伝わり、現在は小三治がたまに高座にかけている、とのこと。

ワオ! ぜひとも文楽できいてみたいッ、意気揚々とレコード屋さんに出かけてみると、
わたくしの目論みどおり、文楽のディスクが売っていて、大喜びだった。

わーいわーいと手中に収めてからも、嬉しいことはまだまだ続き、
ディスクに添付されていた、大野桂による解説に、
益田太郎の『かんしゃく』に樋口一葉の『十三夜』を類推しているくだりがあり、
まあ、なんということだろう、思いがけないところで一葉に遭遇したものだから、
ここを読んで、胸がジーンとなった。

《『かんしゃく』を聞くと、樋口一葉の名作
『十三夜』が連想されてくるのが一興である。
かんしゃく亭主に耐えきれず、
静子が実家へ帰って両親に訴えると、父親にさとされる。
そのしっとりとした場面は、父親がおせきをさとす、
「……得て世間に褒めものの敏腕家などと言われるは
きわめて恐ろしいわがままもの、外では知らぬ顔に切って廻せど
勤め向きの不平などまるで家内へ帰って当たりちらされる……
(略)なれどもあれほどの良人を持つ身のつとめ……」
あの名場面と同じ雰囲気である。これが明治の父親の典型なのだろうか。》

と、この文章にある通り、『かんしゃく』のプロットは、
樋口一葉の『十三夜』ととてもよく似ている。

とあるお屋敷、ブーブーと音をたてて自動車に乗ってご帰宅のご亭主、
帰宅早々、かんしゃくを爆発させ、あたりかまわずどなりちらして、大騒ぎ。
奥様の静子さん、耐えきれず「実家に帰らせていただきます」となったが、
実家でお父さんにさとされて、すぐに、旦那さんのもとに戻ることになる。
お父さんの言い付けを守って、旦那さまがかんしゃくを起こさないように、
のべつきちんと準備をした静子さん、さてブーブーと自動車に乗ってご帰宅の亭主、
今度は隙なく万事ととのえてあって、一分の隙もない。小言を言う対象がない。
う、う、うッ…と「オイッ! これじゃ俺が怒ることができないじゃないか」がサゲ。

とまあ、筋だけみてみると、どうってことない感じなのだけれども、
この十数分の短い一席、細部のあちこちに耳をすませてみると、しみじみ素晴らしい。

たとえば、ご主人帰宅のくだり、書生、使用人、奥さんが次々と
「おかえりなさいませ」と畳み掛けるようにおじぎをするくだりは、
ルビッチの『極楽特急』で、マダム・コレに向かって、
「イエス、マダム」「イエス、マダム」……と次々と
マダムを取り囲む人々がスクリーンに登場するシーンそっくりのおかしみがある。
それから、かんしゃく亭主が怒り狂っているくだりも、
怒っている人を第三者的な視点で観察すると結構おかしかったりするが、
まさしくそんなおかしさに満ちていて、つい何度もニンマリ、『小言幸兵衛』のハイカラ版のおもむき。
細部だけでなく、緻密に設計された文楽の一席、場面の切り替えの見事さも特筆に価する。

が、やっぱり、圧巻は、お父さんが娘を諭す『十三夜』的くだりの
しっとりとした情趣。お父さんの一言一言がしみじみ胸にしみいる。

なにかと身につまされる気がしないでもないなあと、
夜な夜な『かんしゃく』に聴き惚れていたのは、去年の10月中旬のこと。
くしくもちょうど、十三夜の頃だった。

と、そんな十三夜の季節感とともに文楽の『かんしゃく』にひたる時間はそれはそれは至福だった。

本当は、『かんしゃく』の舞台は夏の暑いさかりなのだけども、
わたしのなかでは、十三夜の季節に聴きたい一席だ。



月というと、くだんの大野桂によるディスク解説に次のようなくだりがあった。

《よく引き合いに出される、古今亭志ん生の芸風との対比でいえば、
文楽の芸は、人物の陰影をくっきり浮かび上がらせ、くまなく照りわたる名月、
志ん生は、あるときはおぼろ月、あるときには雲間に隠れ、
あるときには月食にすらなってしまう変幻常なき自在の月といえようか。》

なんて、こんなくだりを見てしまうと、ますます、
将来の志ん生聴きが、楽しみで楽しみでたまらなくなってしまう。

ちなみに、戸板康二の『万太郎俳句評釈』[*] によると、万太郎は、

《桂文楽を大いにみとめたが、その一方古今亭志ん生については、
「いくら経っても固まらないカルメラ焼のようだ」などと批評した。》

とのこと、そんな志ん生、ひとたび入り込んでしまうと、
夢中にさせて離さない魔力があるに違いない。

なにはともあれ、将来のたのしみ、とっておきだ。

今のところは、文楽をもっともっと聴きたい心境で、
次にぜひとも聴きたいのが『愛宕山』。

戸板康二の『演劇の魅力』[*] 所収の「ある季節感」という文章に、

《文楽のレパートリイで「愛宕山」となれば、春である。
特にいつということを口演では断っていないが、はなしそのものが、
京の野遊びであり、一八が旦那と登っていく途中で、息がきれ、汗を拭く描写にも、
山のてっぺんで景色を見はらしている描写にも、やや埃っぽい四月のおわり頃の風や、
桂川あたりを曖昧に見せている霞が、よく出ている。
しかも、土器投げという遊びである。あの土器が宙を飛んでいく空は、
絶対にもう、春の空でなければならない。
文楽の「愛宕山」には、漱石が「虞美人草」で描破した都の春の風土が、
何気なく、しかも立派にでているのである。》

こんな一節があって、安藤鶴夫の『わが落語鑑賞』によると、
この噺は春のなかでも「ちょっと汗ばむ季節」とのこと、ぜひともこの季節に、と思う。

久保田万太郎の俳句、『愛宕山』にあてた句は、

は る 風 を き り 土 器 の と び に け り

なんだか春がくるのがフツフツとたのしみになってきた。





  

1月23日木曜日/更新メモ、洗亭忌の夜、戸板康二の『句会で会った人』

The Joy of Music、更新しています。(1月20日付け)

わーい、こやまさんも FUGATA がお気に入りなんですって!
うれしいあまり FUGATA を再生したとたんハマってしまい、何度もリピートしてしまいました。



さてさて、今日は戸板康二先生の命日、洗亭忌である。今年没後10周年。

去年の洗亭忌の夜は、信濃町の文学座アトリエで、久保田万太郎の『大寺学校』を見た。

今年の洗亭忌は雪が降って、やがて雨に変わって、夜になって止んだ。

冬になってからというもの、毎日のように湯豆腐を食べている。今日も夕食は湯豆腐。

車谷弘の『わが俳句交遊記』によると、辻嘉一の『現代豆腐百珍』という本には、
序文がわりに、万太郎による「湯豆腐」というタイトルの小唄が掲げられているのだそう。

身の冬の
とゞのつまりは
湯豆腐の
あはれ火かげん
うきかげん
月はかくれて雨となり
雨また雪となりしかな
しよせんこの世は
ひとりなり
泣くもわらふも
泣くもわらふもひとりなり



書くことがたまっていたはずの戸板康二のダイジェストの再開は後日にまわして、
ここから先は、戸板康二の『句会で会った人』に関する二、三の事柄について。

去年一年間で新たに読んだ戸板康二の著書のうちで、
もっとも面白かったもののひとつが『句会で会った人』[*]
図書館で借りて読んで興奮のあまり、一刻も早く手中に収めたいッと、
以来、古本屋に足を踏み入れるたびにまっさきに探す一冊となった。

去年の秋から初冬、それは、『句会で会った人』探求の歴史であった。
と、思わず大げさなことを言ってしまいたくなるのは、
熱意だけ先走りして、なかなか見つけることができなかったから。

『句会で会った人』で知った本で
ぜひとも読んでみたいと思った本が何冊かあって、
そっちの方から先に購入する機会が矢継ぎ早にめぐってくるというあんばい。
ジワリジワリと周辺から攻め込むようにして待つこと三ヶ月、
「待ちかねたーッ」とまさしく淀五郎状態で、
『句会で会った人』を発見、購入したのは師走のこと。

『句会で会った人』はタイトルそのまま、
戸板康二が参加した句会とそこで会った人びとについて時系列に句会別の章をたて、
各章のなかは戸板さんお得意の「螺旋階段」方式の軽やかな筆致、
全体を見通すと、俳句というフィルターを通した人物誌で、
『回想の戦中戦後』[*]、『わが交遊記』[*]、『思い出す顔』[*] に続くメモワール的な一冊。

戸板康二に夢中になっているゆえんは、著書そのものの歓びはもちろん、
戸板康二の文章で知った著者なり書物なりを読んでいるといつのまにか、
あるひとつの大きな文化圏のようなものに接していることに気付く、そのグルーヴ感にある。

なんて、きわめてあいまいな言い方ではあるけれども、
その「ひとつの大きな文化圏」とはなにか、少しだけ探ってみようとすると、
『句会で会った人』で知って買って読んだ書物を眺めればおのずと見えてくるのかもしれない。

その書物というのは、以下の三冊。

● 永井龍男『文壇句会今昔』(文藝春秋、昭和47年)
● 車谷弘『わが俳句交遊記』(角川書店、昭和51年)
● 銀座百店会三十周年記念『銀座百点 撰集』(非売品、昭和60年)

それぞれが「魅惑的な、あまりに魅惑的な」という感じで、
そのよろこびはなかなかうまく言葉にできそうにない。

戸板康二の本をきっかけで気にとめるようになった「銀座百点」、
30周年記念のこの撰集は400ページにわたる豪華な1冊、
30年間の銀座百点の誌面に掲載されたエッセイ、連載記事、座談会、句会、
巻頭に「あやとり」というタイトルの久保田万太郎の詩が掲げられ、
たとえばエッセイコーナーは、清水一の「銀座二丁目」で幕を開け、
次いで戸板康二の「銀座の書割」と続き、
あと、三島由紀夫、河盛好蔵、徳川夢声、永井龍男…と続き、
エッセイコーナーどんじりに控えるのは前田愛の「銀座本あれこれ」。

目次全体を見通すうちに頬が緩んでしまって、あらためて銀座百点がいとおしくなる。
執筆陣やタイトルが醸し出す都市の空気、そのすべてがぜいたく。
日頃の本読みを通してこよなく慕っているいろいろなことがふんだんに詰まっている。

昭和30年の創刊当初から「銀座百点」に関わっていた戸板康二、
『句会で会った人』[*] では、年末恒例銀座百点の忘年句会の章があるが、
そのひとつ前の章にある「文壇句会」について、しっかりと認識したのは今回が初めてだった。

銀座百点の醸し出す空気感というのは多分に文壇句会の系譜にあるものだといえそう。
そして、永井龍男の『文壇句会今昔』によると、
「文壇句会」の源流のひとつが「いとう句会」なのだそう。
と、それはそのまま、戸板康二の『句会で会った人』の章の順序なわけで、
戸板康二のいる大きな文化圏というものもおのずと見えてくるというわけだ。

文壇句会というのは、文藝春秋が開催していた、文士の集う句会、
昭和12年に始まって、昭和38年6月の万太郎追悼句会を最後に途絶したとのこと。

文壇句会の催しに大きく関わっていたのが、文藝春秋に籍をおいていた永井龍男と車谷弘。

永井龍男の『文壇句会今昔』は、横判の歳時記風の装幀で、
巻頭には「或る日の文壇句会」の白黒写真、戸板さんは奥野信太郎の隣に座っている。
永井龍男の句を並べつつ、その合間にさまざまな回想録が挿入され彩りを添える。
文壇句会の回想を通した編集者と文士のよき時代と
永井龍男の歩んできた時代、昔の東京、鎌倉の風土とが絶妙に絡み合った秀逸な構成。

文士の時代やら古き東京やら永井龍男のいた鎌倉のことやら、
これまた、日頃の本読みを通してこよなく慕っているものがぎゅっと詰まった
重層的な読後感の、ぜいたくな一冊だった。

『文壇句会今昔』のあとがきには、永井龍男にあてた万太郎の句があり、

草 笛 を ふ い て 神 田 の 生 れ か な

というものなのだが、これもまあ、しみじみ巧いものだなアと思う。
何度か胸のなかで反芻してみると、永井龍男のポートレイトが
すーっと心に浮んでくるのだった。才気闊達、チャキチャキとかっこよい。

それにしても、永井龍男は、文章がとてもいい。
永井龍男は去年初めて読むことになった書き手、
今後少しずつその文章世界に触れていきたいところ。
それにしても、世の中には素晴らしい本がたくさんあるなあと思う。

文藝春秋を退社して小説家として一家を成した永井龍男だが、
彼より二歳年下の同僚、車谷弘はやがて文藝春秋の重役となった。

戸板康二によると、昭和30年の「銀座百点」の創刊当初から企画をたてていたのが、
すでに文藝春秋で各誌の編集長をしていた車谷弘なのだそう。

『句会で会った人』で知って買って読んだ代表的な三冊、
文壇句会に銀座百点あれこれ、そのキーパースンが車谷弘ということになる。

魅惑的な、あまりに魅惑的なとクラクラしっぱなしの車谷弘の仕事。
その著書もこんなにおもしろいなんて! と、びっくりの『わが俳句交遊記』。

『わが俳句交遊記』は戸板さんの言葉にある通り、挿話の数々が本当におもしろい。

内容はタイトルそのまんまの俳句にまつわる交遊記なのだが、
ここに登場する文士の風貌、その顔ぶれは豪華きわまりない。
古きよき文士の時代、といったものがすーっと心に浸透すると同時に、
車谷弘の筆致、対象への接し方もいいなあと思う。車谷弘の文章そのものがとてもいい。



俳句をたくさんつくった名編集者にして名文章家、永井龍男と車谷弘。

上記のふたりの本を読んで、しみじみ思ったことが、
みんな久保田万太郎の俳句が大好き、ということ。

永井龍男の言葉を借りると「繊細な都会句」、みんな万太郎に惹かれる。

となると、『句会で会った人』[*] で知って買って読んだ三冊の書物、
その精神的支柱は、とどのつまりは久保田万太郎なのかも、とそんな気もしてきた。

永井龍男は、文壇句会とその源流のいとう句会について、
世の句会の常識とはおよそかけ離れた「一座の空気の自由闊達さ」について書き、
世の俳人とはまったく違う態度で余技である俳句に真剣に取組んだことを書いている。
その中心にいたのが久保田万太郎だった。

戸板康二の俳句への態度は永井龍男のそれとまったくおんなじで、
『句会で会った人』の最終章の「東京やなぎ句会」の洒脱さにも相通ずるものがある。
東京やなぎ句会のメンバーは、矢野誠一、小沢昭一、江國滋、入船亭扇橋…といった感じで、
彼らに共通するキーワードは落語だということにも注目したい。
ここでも都会人の自由闊達な句会の数々の挿話があってとても面白い。
いとう句会の流れていた空気が脈々と受け継がれているのだと思った。

そうした一本の大きな潮流の上を軽やかに渡っていたのが、戸板康二だった。

久保田万太郎や落語にむやみやたらと夢中になっている最近の嗜好やら、
わが戸板康二の歳月やら、それにまつわる本読みやらが、いろいろつながっている。

まあとにかく、それをひとつひとつ解きほぐしていくのが、現在のわたしの最上の娯楽なのだ。





  

1月28日火曜日/車谷弘の『銀座の柳』、古本お買い物帖#03

戸板康二の『句会で会った人』[*] で知って読んだ本のうちの1冊、
車谷弘の『わが俳句交遊記』(角川書店、昭和51年)がとても面白くて、
明治生まれの名編集者にして名文章家、その歩んできた時代と
文士たちとの交遊、彼らを交わりから生れた仕事の数々、
……といったふうな、車谷弘をとりまくいろいろなことが
眩いばかりに日頃の自分自身の嗜好とリンクしているものだから、
これはぜひとも、車谷弘の著作を追いかけなければと思った。

が、よくよく調べてみると、車谷弘の著書は句集以外には二冊のみ、
上記の『わが俳句交遊記』以外にはあと1冊、
『銀座の柳』(文藝春秋、昭和55年)が出ているのみ、
しかも『銀座の柳』の方は没後の刊行なのだ。

これほどの文章家なのに著作が二冊しかないなんて、いかにも残念ではある。
これはぜひとも『銀座の柳』を読まねばッ、と張り切ったところで、
なんというグッドタイミング、古本屋の中公文庫コーナーで、
『銀座の柳』を発見、文庫になっていたとは不覚にも知らなかった。

死の2年後に刊行された『銀座の柳』は、車谷弘の遺文集。
跋として、盟友永井龍男の文章が添えられているのが、まず嬉しい。

永井龍男によると、車谷弘は嫌いなものからはすぐに身を退く一方で、

《好きなものには用心深く、ある時は大胆に近寄って行った。
彼の趣味性はこのようにして養われ、戦後文藝春秋新社が設立されて、
文藝春秋誌その他、出版局の責任者としての業績にも、かなり彼の好みが強く出ている。
たとえば PR 誌である「銀座百点」の編集にタッチしてからは、
一種の道楽としてその趣味性が色濃く編慮なく表現されている。》

とのこと。

ここで言うところの車谷弘の趣味性と道楽、
その賜物のあれこれが、わたしは、たまらなく好きなのだ。そう思った。

永井龍男と車谷弘は、ともに文藝春秋の編集者であり、
永井より2歳年下の車谷は明治39年生まれ、
二人の交流は二十代前半のころから50年にわたった。
車谷は昭和6年頃から薬剤師として文藝春秋との関わりが生じ、
やがて才が認められ、編集者となったという、ちょっとだけ異色の経歴。

● 車谷弘『銀座の柳』(中公文庫、1989年)

『わが俳句交遊記』とまったくおんなじようにまずは挿話の数々がとても面白い。
まずは、「俳句的アルバム」という『わが俳句交遊記』の延長のような章。

ここに、さっそく登場するのが清水一(しみず・はじめ)。

「暮しの手帖」初期から二世紀のはじめまで、断続的に目次に名前を連ねている清水一、
その建築エッセイのファンになってしまって、暮しの手帖社発行の著書、
『すまいの四季』(昭和31年)と『家のある風景』(昭和35年)を取り寄せて、
ドキドキしながら梱包を開くと、花森安治の装幀がほんわかと素敵で、
中身の、住居と生活に関わる文章の集積もノーブルでしみじみ好きな文章だった。

『銀座の柳』の冒頭という、思わぬところで清水一に再会することとなり、
やっぱり車谷弘をとりまくいろいろなことはなんと魅惑的なこと! と、
さっそく心がスウィング。そういえば、清水一は、戸板康二の『句会で会った人』にも
「文壇句会」のところでちらりと登場していたっけ。

車谷弘の伊東の住居の設計をしたのが、なんと清水一で、
好きなパイプをくゆらしながら設計図を描いてくれて、
それは鉛筆で水墨画のような味わいの垢抜けたスケッチだったとのこと。
清水一は車谷弘に対して、「住居というのはね、いくら小住宅であっても、
合理主義一点張ではいけない。やっぱりある程度の無駄がないとあきちゃいますよ。
ですからね、住居というのは、そこに住むひとと、設計家とが、
同世代で、趣味教養もだいたい似てるというのが理想的なんだな」
と語っていたのだそう。

そう、まさしく車谷弘と清水一は趣味教養がだいたい似ていたに違いなくて、
俳句もそのひとつ。暮しの手帖社から清水一の句集が出版されていて、
そのタイトルは『匙』、去年夏の展覧会でもその展示があった。黄色い本。
タイトルの由来は「生活の些事ばかりよんでいるので」とのこと、その洒落っけもいい感じ。

車谷弘によると清水一の俳句は、「建築家らしい住居への愛情があって、
たとえば、ちゃぶ台とか、抽斗とか、梯子段とか、下駄箱とか、
そんな句がやたらと多い」のだそう、と、ここを読んで、
いい話だなア……、と胸がいっぱいだった。

春 を 待 つ 薬 鑵 の 上 の ふ き ん の せ

といった句が紹介されている。と、建築家・清水一の俳句は、
「暮しの手帖」掲載の建築エッセイとまったくおんなじ味わい、
清水一の建築エッセイの味わい、カラッとしつつもしみじみとした日常へのまなざし、
あの文章の魅力はとどのつまりは「俳諧のこころ」なのだ、
ということにハッと気づいて、目から鱗だった。

……というふうに、『銀座の柳』、このあとも「いい話だなア」と
うっとりする場面が目白押し、何度も顔をあげてしみじみとなってしまうのだった。

たとえば、神田ッ子、水原秋櫻子の描写がとてもよくて、
永井龍男が錦華小学校に通っていた頃の校医が秋櫻子のお父さんだった、
という巡り合わせにもニンマリ。明治の東京下町の街かどが目に浮かぶよう。
水原秋櫻子はもちろん『わが俳句交遊記』にも登場していて、
今までその句に接したことはあまりなかったので、これも将来の楽しみだなあと思った。
戸板康二の『女形余情』[*] の「秋櫻子先生の芝居の句」をしみじみ読み返したりも。

俳句というと、「俳句の師」という文章があって、
車谷弘が師として名前を挙げているのが、久保田万太郎と渡辺水巴。
「水巴先生の俳句の深さと、久保田先生の俳句の高さ」という一節に胸がジンとなった。
万太郎俳句は、ピアニストにたとえると、フィッシャーのようなのかもしれない。

車谷弘は、芥川龍之介の序文付きの万太郎の第一句集『道芝』の頃からの
愛読者なのだそうで、やっぱりみんな大好き、万太郎俳句という感じで、
水上瀧太郎の『貝殻追放』とか久保田万太郎、などいろいろな局面に登場する
銀座の出雲橋の小料理屋「はせ川」のくだりも、しみじみいいなあと思った。

万太郎俳句というと、散見される季節の間違いに関して、

「つまり、久保田先生は、浅草、田原町うまれだから、
自然や、花鳥に、なじみがないんだ。すべて人事の感覚でよんでいる。
そこがいかにも、明治の下町っ子らしくて、先生の面白いところだなァ」

と、辻嘉一がこんなことを言っていて、これもまた、
万太郎俳句を読んでいく際の大きなヒントになる感じで、目から鱗であった。
やっぱり万太郎俳句が好きな辻嘉一、ある句を間違って京都弁で覚えてしまっていたのを、
車谷弘が発見するというくだりがあって、そこで締められている、二人の問答。

「それより、先生御自身、京都弁でよんだ句がありますのや」
「ほう、それは、何という句……」
「祇園『杏花』にて、と前書があって、『仰山に猫ゐやはるわ春灯』……」

仰 山 に 猫 ゐ や は る わ 春 灯

戸板康二の『万太郎俳句評釈』[*] で知って以来、わたしもこの句大好き、
うつくしい東京言葉を駆使する万太郎だけど、たまにチラリと登場させる遊びも実にいい。

「歌舞伎のバラック時代」という、震災後の歌舞伎のことを回想した文章もとてもよかった。
同時代の文士のおかげで、大正昭和初期の芝居にまつわるあれこれが、ますます興味深い。

芝居というと、「大福帳」というタイトルの少年時代を回想した文章で、
地方のお坊っちゃんとして、得意先の本屋さんでいろいろ本を買っていたというくだり、
大正時代のその頃、芝居の雑誌といえば「演芸画報」と「新演芸」、
車谷弘は「新演芸」の方のひいきだったのだそう。

《「新演芸」の「演劇合評会」や「社中日記」みたいなものが、
後に創刊された「文藝春秋」に影響を残すことになるのだが、
それらの企画はいかにも清新で、溌溂としていて、
編集陣のいかにも才人ぞろいであったことがうかがえる。》

『銀座の柳』読了後に、戸板康二の文章で車谷弘が登場するのはなかったかしら、
と、少し探してみたところ、『目の前の彼女』[*] に、
「回想の銀座サロン」という、「銀座百点」が初出の文章があった。

「銀座百点」が創刊された年の夏から、久保田万太郎を中心にした座談会が毎号掲載された。
それが「銀座サロン」、車谷弘の企画で、戸板康二もレギュラーだった。
久保田万太郎は、「新演芸」の「演劇合評会」にも名前を連ねていて、
永井荷風が出席しているものだったら、荷風全集で読むことができる。
荷風全集で唯一持っている巻なので、わたしも、ちょくちょくページを繰っている。

戸板康二は、以下のように書いている。

《昭和十三年から「三田文学」に、
久保田先生が企画して「三田劇壇会」というのがのりはじめた。
これは明らかに「新演芸」の会のような形を考えている。
慶応を出た劇作家と劇評家による月評座談会で、ぼくも末席にまねかれた。
「銀座サロン」は、今書いた二つの会の延長と思っていい。》

とまあ、車谷弘の仕事をつらぬく精神的支柱はやっぱり万太郎なのだ。
そこの一本の大きな線を、今後の本読みでいろいろ探ってつなげていけたらと思う。

ところで、「回想の銀座サロン」にはこんなくだりもあった。

《たしか正月だったが、桂文楽、桂三木助、柳家小さんの三人をゲストに招いた。
三木助さんが酔ってしまって、畳の上に長々と腹ん這いになり、
久保田先生は嬉しそうにそれを見ていたが、車谷さんは苦い顔をした。
それを知っていながら、ぼくも酔っ払ってしまったら、車谷さんに小声でたしなまれた。
翌月になって、「この前は、ぼくまで酔っ払ってしまってすみません」
とあやまったら、車谷さんはなぜか狼狽して、しばらく黙っていたが、
ポツンと、「今ごろ詫びたりするものじゃありません」といった。
車谷さんがなくなった時、このことを、いちばん先に思い出した。》



車谷弘の『銀座の柳』には二つの要素がある。

ひとつは、これまでだらだらといくつか挙げてきたような、
万太郎を始めとする文士とその時代、
日頃の本読みとリンクする交遊記的くだりで、
もうひとつが、車谷弘の本談義、「かたち」としての書物、
「魅惑的な、あまりに魅惑的な」書物への「かたち」としての偏愛といったくだりである。

車谷弘の『銀座の柳』は「いい話だなア……」とうっとりしてしまう箇所の目白押し、
背景が日頃の本読みの嗜好とリンクしているからというのももちろん、
車谷弘の「かたち」としての書物への偏愛、という面にも思いっきり共感してしまって、
本全体で、共鳴という感じで、なんとも嬉しい本読みの時間となったのだった。

書物の「かたち」としての愉しみ、と書くと、なんだか変だけれども、
要するに、本にまつわるデザイン談義がとても面白かったということ。

『銀座の柳』、「俳句的アルバム」の次は「装幀一夕話」というコーナーとなる。
この冒頭が「五十八歳の本棚」という文章で、以下のようなくだりがある。

《私は中学生時代、本屋に文学書がないものだから、
春陽堂と新潮社の「図書目録」をとりよせては、直接注文ばかりしていた。
大正時代の文学書は、この二社が主流だったが、春陽堂はややマンネリ化し、
新興の意気にもえた新潮社に、清新の気がみなぎっていた。
直接注文した書籍小包が届いたとき、その装幀には私なりのイメージがあって、
果して予想があたるかどうか、あけてみるまでの楽しみといったらなかった。
その瞬間の感触は、今でもありありと残っているほどである。
春陽堂本は布製が多く、どちらかといえば派手好みで、
装幀にお金をかけているのはわかるが、どこか重厚の感をまぬがれなかった。
そこへゆくと新潮社は軽快で、簡素ななかに、
かえって近代的な、感覚の新しさというようなものがあった。
フランス装という言葉が出たのも、その頃だったように記憶している。》

本当にもう、まさしく「いい話だなア……」とうっとりするしかない。

書物は内容もさることながら、その形態の愉しみもはかりしれないものがある。
車谷弘は、そんな本好きの共通感覚のようなものを、
心地よくしたためてくれていて、心がスウィング、
これまた、なんともたのしいひとときであった。

車谷弘自身、自称道楽で何冊も装幀を手かげていて、
久保田万太郎の句集『流寓抄』の装幀のくだりは、
『わが俳句交遊記』の久保田万太郎の章で、絶妙な小道具としての役割だった。

先月、師走に買って読んだ本に、奇しくも車谷弘の装幀本が一冊あった。
というわけで、最後に、性懲りもなく別ファイルを。今回はちと長い。

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