日日雑記 May 2002

10 五月六日のこと、杉浦茂展のこと/
12 樋口一葉の映画と鏑木清方美術館/
21 弁慶橋、文楽『手習鑑』通し見物のこと
23 ヘルダーリンの詩集

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5月10日金曜日/五月六日のこと、杉浦茂展のこと

後半の4連休は毎日外出、またもや糸の切れた凧みたいに都内各所を歩き回っていた。
なので、終わってみると、旅行が終わって帰宅したような気分で、
日常生活に回帰したことが、不思議とちょっと嬉しいのだった。
と、穏やかな心持ちになっていた連休明けの日、
出先にて窓の外の激しい雨模様を眺めつつ、メイルを開いていたら、
「昨日の新聞で久保田万太郎の俳句を見つけた」というお手紙。

は ん け ち の た し な み き よ き 薄 暑 か な

という句が、お天気コーナーで紹介されていたとのこと。
いいなあ……。嬉しい句を見つけるといつもするように、今回も手帖に書きとめた。

で、ふと気付いたのだが、「昨日の新聞」とのことだから、
この句が紹介されていたのは、5月6日ということになる。
5月6日というと久保田万太郎の命日なので、ますますニンマリだった。

昭和20年5月6日、十五代目羽左衛門が死んで、久保田万太郎が詠んだ句が

お も か げ を し の ぶ 六 日 の あ や め か な

18年後、万太郎は梅原龍三郎邸で事故死し、翌年の同日、佐藤春夫が急逝。

それから、久保田万太郎の最後の句にまつわるエピソード、
昭和38年5月6日、急逝の直前、青山墓地の近くを車で通った際に、
ある屋敷の庭のコデマリの花が垂れ下がっているのを見て呟いた句、

小 で ま り の 花 に 風 い で 来 り け り

……というふうに、一連の5月6日にまつわる万太郎俳句を思いつつ、
ますます穏やかな連休明けの曇天の日々なのだった。

★ 本日の別ファイル:連休のある晴れた日のデジカメ日記 >> click



連休最終日の6日月曜日は、ひさしぶりの中央線日和を満喫した。
早起きして阿佐ヶ谷で映画を見て、映画が案外早く終わってしまったので
古本屋を三軒ほどまわって、文庫本を二冊購入、
そのあと待ち合わせて、西荻でお蕎麦を食べて、
三鷹に移動して《杉浦茂―なんじゃらほい―の世界》展を見物、
中央線に乗って、国立へ行って、書簡集でコーヒーを飲んだ。
通りの並木道の木々の葉がソヨソヨとしていて、
書簡集に向かって歩いていた大学沿いは土手みたいになっていて、
そこから二回も猫が滑り降りてきて、サーッと駆け抜けていった。
ここでも木々の葉がソヨソヨと風に揺れていて、静かな午後だった。
5月になると、毎年かならず、萩原朔太郎の詩集にある一節、
《五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする》というのを
胸に思い浮かべて悦に入る日があって、
国立の新緑の下で、さっそくそんな朔太郎気分になった。

《杉浦茂―なんじゃらほい―の世界》展は三鷹市美術ギャラリーにて開催中で、
前日に上野でシャガール展を見学したとき、廊下に貼ってあったポスターで知って、
思いっきりそそられてしまって、さっそく次の日に見物に行ったもの。

杉浦茂の漫画を読んだのは2年前に、書店で追悼コーナーで、
ちくま文庫の『猿飛佐助』の表紙になぜだか心惹かれて衝動買い、
あとで中身の漫画を読んでみると、山田風太郎の忍法帖シリーズを
初めて読んだときとまったく同じような感覚で、大感激だった。
ポップな絵柄だけでも、登場人物の名前だけでも、もうメロメロ。

と言いつつも、「彷書月刊」の杉浦茂特集を買ったくらいで、
その後は特に突っ込まれることなく現在に至っていた。
なので、実のところは、今回の杉浦茂展はほんの物見遊山気分で、
「杉浦茂への招待」という感覚で出かけていった。

物見遊山気分と言いつつも、かなり熱心に凝視してしまって、
ウィンドウの漫画を眺めつつ、何度もクスクスしたり、ポワンと脱力したり。

書斎を再現した空間がなんだかとてもよくて、本棚には映画の本がたくさん。
スクラップブックに貼ってある浮世絵にもつい見入ってしまった。

なにしろ「杉浦茂への招待」なので、珍しく図録を買って、
家に帰ってめくってみたら、冒頭の四方田犬彦の文章がとても面白くて、
思わず、最近忘れかけていた四方田犬彦熱が一気に復活してしまったりも。

最後の方を抜き書きしてみると、

《杉浦茂は1908年に生まれた。ほぼ同じころに生まれた芸術家をあげてみると、
江戸川乱歩が1904年、中原中也が1907年、マキノ正博が同じ1907年、
大岡昇平が1909年、黒澤明が1910年である。このあたりの世代は
雑誌「新青年」に代表される両大戦間のモダニズム文化の流行を受け止め、
ダダイズムから表現派にいたる文化的前衛を目の当たりにしてきた世代であると、
要約することができる。九歳年長の師であった田河水泡が、
若き日に村山知義と組んで実験的な舞台を演じていたように、
杉浦もまた若き日に長谷川利行と親交をもち、
1930年には22歳で帝展に入選している。……
彼らがもっともエネルギッシュな活動を見せた1950年代、
……杉浦がアメリカン・コミックスの影響を受けた漫画を描いていたころ、
マキノ正博は時代劇になんとミュージカルを導入しようと腐心していた。
一連の『猿飛佐助』の漫画と東映映画の『清水次郎長』シリーズは、
同時代の産物である。両者は庶民的なコスモポリタリズムと
祝祭的な気分において、きわめて重なるものをもっている。》

《杉浦茂展》の最初で、画学生の頃に描いた絵の写真を見たときは、
洲之内徹の文章の随所で味わった空気感のようなものがよみがえってきた時間だった。
洲之内徹が昭和5年か6年のころ、芸大建築科にいた頃、
学校の帰りに団子坂のリリオムという喫茶店に行っていたら、
長谷川利行とすれ違っていたかもしれない、というようなことを
書いていたのを、ちょっと思い出したりもした。

思いがけなく、前から好きないろいろな点が線になっていくような気がした、
《杉浦茂―なんじゃらほい―の世界》展だった。





  

5月12日日曜日/樋口一葉の映画と鏑木清方美術館

昨日土曜日はひさしぶりに一人でふらりと外出、小旅行気分で楽しかった。

その前日の金曜日の夜、シネマジャックにて『にごりえ』を上映中、
ということを知って、突発的に横浜行きを決意、気合いを入れて早起きした。

今井正監督の『にごりえ』は、何年か前にフィルムセンターで上映されたとき、
樋口一葉をこよなく慕う身としてはとっても観たいッと思いつつも、
うっかり見逃してしまった懸案の映画だったので、悲願達成だった。
いつも目を皿のようにして観たい映画をチェックして手帖に書き込んでいるのだけど、
当日になって面倒になったり都合がつかなかったりで行き損ねてしまうことが多い。
でもでも、見逃した映画もあとで必ず観るチャンスがめぐってくるから、
映画を見逃すということは、楽しみをあとに残しておくことである、といえそう。

と、よろこびいさんで、電車を乗り継いで、品川から京浜急行に乗って黄金町へ。
京浜急行はほんのたまにしか乗る機会がないのだけど、そこはかとなく好きな電車。
3月に新馬場駅近くの六行会ホールへ久保田万太郎の芝居を見に行ったのを思い出す。
急行に乗るとダイナミックにいくつもの駅を通過するのがなんだか爽快で、
あと洲之内徹のアパートがこの沿線の大森海岸にあったので、
京浜急行に乗るとそれだけで洲之内徹気分を味わうことができて、
車窓からたまに羽田空港からの飛行機が見えるのも楽しい。(昨日は見えなかったけど)

というわけで、無事に時間に間に合って、今井正監督の『にごりえ』を観た。

題名は『にごりえ』だけど、この映画は短篇オムニバスで、
『十三夜』(主演:丹阿弥谷津子)、『大つごもり』(久我美子)、
『にごりえ』(淡島千景と杉村春子)と、緩やかに三話がつながっている。
樋口一葉の小説の映画ということで前々から観たかったのだけれども、
よくよくチェックしてみると、文学座総出演で、ヒロインだけでなく、脇の配役も実に豪華。

脚本の監修として久保田万太郎の名がクレジットされていて、
今年1月に文学座アトリエに行ったり、このところの万太郎読みがあったので、
映画全体を覆う文学座の空気がしみじみととても愛おしい。
今見るのがもっとも適切なタイミングだった。
わざわざ電車を乗り継いで観に来て大正解だった。
文学座の空気だけでなく、一葉世界を味わう時間も格別で、
三編ともとてもよかった。部屋に帰って、さっそく一葉再読の時間だった。

久保田万太郎の戯曲で、何本か一葉の小説を脚本におこしたものがあって、
かねてからどんな感じになっているのだろうと気になっていったのだけど、
中でもとりわけ舞台調だった『十三夜』で、なんとなく様子が見えてきたのも大収穫。
いつか全集を手に入れて、久保田万太郎による一葉シナリオにひたってみたい。
それから、久保田万太郎の前に存在した大きなものとして、一葉を捉えてみたりもした。
一葉は久保田万太郎の文学にも多大な影響を与えている存在ともいえそうだ。

戸板康二の『泣きどころ人物誌』[*] に「斎藤緑雨の女友達」という一遍があって、
樋口一葉を「女友達」という言葉で捉える切り口に見事ッと大感激だった。
戸板康二の文章で、戸川秋骨がどこかのバアの才気活発な女のひとを見て、
「一葉に似ている」と発言していたのを聞いたというのがあって、これも大好きなエピソード。
それから、大村彦次郎さんが『文壇うたかた物語』(筑摩書房)で、
《私は向田邦子さんを思うと、よく一葉を連想する》と書いていて、
「文壇に彗星のごとく現われ名作を残し他界」「生きる上での利発さ」よりも
もっと大きな一葉との共通項は「女友達」という系譜だと大村さんの文章で納得した。

とかなんとか、ちょっと話がそれてしまったけれども、
久保田万太郎にとっても、直接顔を合わせたわけでないにしても
樋口一葉は、彗星のごとく、という感じのキラキラした存在であると同時に、
ちょっと甘酸っぱい「女友達」的なものも感じていたのではないかと勝手に思う。

ままならぬ浮世のなかでの諦念と同時にどこか光が射している、美しい東京言葉の文章世界、
久保田万太郎を読むようになったのはごく最近のことだけれども、
万太郎に惹かれた所以は、昔から大好きだった一葉ともつながるものがあるからかもと、
ここでも、前から好きないろいろな点が線になっていくような感覚を
思いがけなく味わった、映画『にごりえ』だった。

かつての文学座の空気が全面にみなぎっていることで、
戸板康二の文章を通して憧れていたかつての新劇風景にも胸は躍り、
そしてもちろん、一様の小説世界の映像化、これがいちばん嬉しかったこと。



早起きしたので、一日が長い。映画が終わったのは、ちょうどおひるどき。

目についた喫茶店でサンドイッチをつまみ、ミルクコーヒーを飲んで、
それから、関内駅に向かって伊勢佐木町を歩いていった。
その道すがらの古本屋さんを何軒か(四、五軒)のぞくことができるのが、
シネマジャックに映画を観に行くたのしみなのだ。
映画と古本屋さんにコーヒー、そんな植草甚一気分はいつでもどこでも格別。

何を買うでもないのだけれども、横浜の古本屋さんもしみじみ面白くて、
古本屋めぐりの楽しみってこの感覚なのだなあと、そんな感覚の根幹を味わう。
ある本屋さんでペラペラめくった、青山二郎装幀の福原麟太郎の随筆集にあった、
能楽堂で戸川秋骨に出会って一緒に観能することになったことを書いた文章が
とてもよかった。その直後に、他のお店で、戸川秋骨の能楽論集を見つけて、
ここでもペラペラとめくって、今日は購入を見送ったけれども、
いつの日か必ず手に取る日が来るだろうなあと思った。
そんな古本屋めぐりでの一連の流れそのものが、何かの書物を読んでいる感覚だ。
なんて、いつもの習慣の単なる「立ち読み」だけども、ちょっとよい気分だった。

……と、ここまでのんびりと横浜で過ごして、当初の計画では、
このあとは東横線に揺られていって中目黒で下車、のはずだったのだが、
ちょっと古本屋さんめぐりをしただけで、急に鎌倉に行ってみたくなった。

去年の夏以来、鎌倉には足を運んでいなくて、そうだ、鏑木清方美術館にも行きたいし、
鎌倉の古本屋さんめぐりもしてみたいなあと思って、突発的に鎌倉へ。

というわけで、約30分後、鎌倉駅に降り立って、ズンズンと小町通りを歩いて、
雪ノ下の小さな美術館、鏑木清方記念美術館へ。
いつもながら、まずは門から美術館の入り口に至る石畳のひとときがまず幸福。

そして、さらに、ガラスケース越しに鏑木清方の絵に対峙した瞬間、
「ああ、来てよかった……」のしみじみと幸福感でいっぱいになって、
まさしく心がスーッとした。ディテールに目をこらして凝視する瞬間瞬間の至福。

きものの柄や色彩そのもの、絵全体の配色、一緒に描かれる植物の絵そのもの、
それから、植物と人物の配置など、構図の妙、などなど。

まずは、大正七年の《早春》で、スミレ色のショールと黄色の藤の花。
有名な《嫁ぐ人》明治40年の作、着物の柄や色彩はあんまり好みでないものの、
明治のお嬢さんの風俗が伺えて、着物の上にネックレスを重ねたりの舶来品混入が面白い。
というふうに、きものの色や柄、植物、それから小道具などなど、
鏑木清方はいつもディテールに目をこらすのが実にたのしい。
なので、小さな展示室でもいつもかなりの長居をしてしまう。
《僧房春蘭》昭和4年作では、日本家屋と庭木の構図と配色が楽しくて、
家屋の塀や屋根、庭木の色や形などそれぞれでもコントラストが見事。
あと、《春宵怨》だったかな、「道成寺」ものの絵の下絵があって、
着物の文様が、奈良薬師寺の五重塔の「水煙」から想を得て、袂の模様にしていて、
付属の解説書きに「約束の定式から逸脱しない程度に衣裳や帯は自分の好みを扱っている」
というふうにあるのを見て、これからも、清方好みの系譜を追いかけたいなと思った。

などなど、細かく書いているとキリがないくらいに、
鏑木清方美術館の小さな展示室は眼福たっぷりで、むやみやたらに嬉しかった。
今日訪れた鏑木清方美術館は《清方描く―春と夏―》と題された展示で、
6月2日までは春の展示、以降、7月21日まで夏の展示、とのこと。
そんなふうに、清方の絵を通して味わう、季節感というのが格別で、
それだけで生きる歓びが湧いてくる感じ。

挿絵好きとしては、そもそもの出発点だった清方の挿絵や口絵を眺めるのも楽しく、
戦後のうつくしき雑誌「苦楽」をウィンドウ越しに眺めるのもいつも楽しい。
清方のスケッチブックもあって、今日見たのは、桜と菖蒲と牡丹。
花の絵はほかにもあって、白梅と牡丹の花が二枚あった。赤色の牡丹。

それにしても、雪ノ下の鏑木清方美術館での時間の幸福なこと!
挿絵といえば、駒場の文学館だったかな、いつか見た、
清方による、一葉の『にごりえ』の挿絵のことも懐かしく思い出した。
実際に見たことはまだないのだけど、清方による《一葉像》がある。ランプの下の一葉。

そして、いつも雪ノ下の鏑木清方美術館に来ると、
久保田万太郎の句、「鎌倉に清方住めリ春の雨」を思い出すのだった。
というわけで、ここでもしつこく、前から好きないろいろな点が線になっていくような感覚。

★ 本日の別ファイル:鏑木清方美術館のおみやげポストカード >> click



鏑木清方美術館のあとは、いつものように、木犀堂と芸林荘をのぞいた。
いつもながら、その棚を眺めるだけでも至福の古本屋さん。
木犀堂では、まん中のテーブルに並んでいる本がとりわけうるわしくて、
他の棚も隈なく一周して、芸林荘は、お能に行くようになって、さらに楽しくなった。

本日のお買い物は、

● 『演劇講座』全五巻(河出書房、昭和26年)
……戸板康二の書物で知って前々から気になっていたもの。木犀堂にて。
● 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』(新潮社、昭和60年)
……芸林荘にて。この本で気まぐれ美術館シリーズ、全部揃った。未読はあと二冊。ドキドキ。

荷物が重くなってしまったのと、少し疲労してきたのとで、
今日の鎌倉歩きはここまでにして、小町通りの喫茶店、門でひと休みした。

門は初めて入るお店で、いままで目に止まらなかったのは、
帰りの小町通りはいつもミルクホールの前の裏の路地へ行ってしまっていたからか。
中に入ってみると、奥行きのある店内で、窓の向こうに中庭があって、
京都の喫茶店を思い出した。コーヒーを飲んで、ひと休み。
時間が止まったような感覚で、どっぷりと落ち着いた時間をたのしんだ。

今日の鎌倉歩きは小町通りだけだったけど、門でひと休みの時間は、
鎌倉に来る度にいつも味わう感覚、すなわち、ちょっとした隠居気分。

思わず突発的に鎌倉に来てしまったけれども、今回のような観光客らしくない、
ささやかな鎌倉来訪もよいものだなあと、満たされた時間だった。

日が暮れた頃、お土産の鳩サブレを買って、帰りの電車に乗った。





  

5月21日火曜日/弁慶橋、文楽『手習鑑』通し見物のこと

日曜日、国立劇場へ『菅原伝授手習鑑』の通し上演を見物に行った。

ちょうど一年前にその上演を知って以来、
楽しみで楽しみでしょうがなかった『手習鑑』通し上演。

大急ぎで丸ノ内線に乗り込んで、赤坂見附で下車。
いつもは半蔵門線の半蔵門駅からなのだけれども、
今回初めて、赤坂見附から歩いて国立劇場へ行った。
これがなかなか新鮮な気分でたのしかった。

赤坂見附駅から地上に上がると、そこは弁慶橋。

弁慶橋で思い出すのが戸板康二のエッセイ、『女優のいる食卓』[*] 所収の「水のゆくえ」の一節。

《小学の時僕が乗って通った外濠線という都電は、
赤坂見附から、弁慶橋のかかっている濠に沿って走り、
紀尾井町のトンネルをくぐって四谷見附に出、
それから市ヶ谷見附、新見附、牛込見附を通り、飯田橋が終点だった。
この電車の窓から見る水景も、東京の誇りであったが、
今は濠も寸断され、第一弁慶橋は、広く高いハイウェイのかげに、霞んでしまった。》

ここにある「お正月」から「クリスマス」までの歳時記的な12篇は大のお気に入りで、
毎月ページをめくっている。昭和39年に書かれたこれらの文章は、
変貌する東京に敏感な戸板さんの姿が伺えて、いろいろと感慨深い。

丸ノ内線に乗っていると、四谷に通りかかったときに地上に出る一瞬があって、
この瞬間がとても好きで、いつでも心ときめく瞬間。
ひさしぶりの丸ノ内線で四谷から外の景色を見て、
カーヴに沿うようにしてお濠の向こう側を臨もうとすると、
とたんに地下鉄はふたたび地下に入って、赤坂見附に到着したのだったが、
地上に出てすぐ目の前にある弁慶橋はまさしく、
さっき車窓から臨もうとしていたお濠の向こう側あたりなのだった。

……などと、弁慶橋の水面を眺めてよい気分になっている余裕は実はあまりなく、
開演ギリギリの時間になってしまっていて、大急ぎで国立劇場へと向かった。
「はんけちのたしなみきよき薄暑かな」がぴったりの陽気だった。午前11時。

一日中、『菅原伝授手習鑑』の浄瑠璃に身を埋めて、
午後9時、劇場の外に出てみると、路上が雨で濡れていた。
弁慶橋に出たときの、ちょっと蒸した空気は雨の前兆だったのかも。
そんな外の空気とまったく遮断されていた文楽見物の時間、
それにしてもなんて密度の濃い時間だったことだろう。



2月に歌舞伎座で堪能したばかりの『菅原伝授手習鑑』通し上演、
今回は、念願の文楽で通し上演を見ることになった。
文楽での上演は、歌舞伎の名称を使ってしまうと、
昼の部が「加茂堤」「筆法伝授」「道明寺」で歌舞伎と同じ箇所、
夜の部は「車引」のあとの四段目のところで
菅丞相が雷神に変容する「天拝山の段」が入るところだけ歌舞伎と異なり、
そのあと「賀の祝」「寺子屋」と続くのは歌舞伎とまったく同じ。

歌舞伎を通しで見物したときもそうだったけれども、
浄瑠璃の作劇術、それぞれの場の緩急などが人間の生理に合うように
うまく出来ているということを痛感、一日通して見ていても
飽きることはなくて本当にあっという間、ただ浄瑠璃の世界に身を委ねる時間だった。

歌舞伎での上演は、型など歌舞伎のよろこび全開な箇所が多々あって
『手習鑑』を全部見終わって思うことは歌舞伎ってなんて面白いのだろうということ。
それは文楽でもまったくおんなじで、文楽での上演は、
文楽ならではのよさがみなぎっていて、終わってみるとますます文楽に夢中になっている。

文楽の特色を一言で言い表わすとしたら、人形・義太夫・三味線とが
三位一体となっていること、というふうによく言われているけれども、
今回の『手習鑑』を見終わってしみじみ感じたことは、まさしく、
人形、義太夫、三味線のそれぞれの魅力と、それらの融合としての文楽の魅力だった。
本当にもう、一度夢中になると、もうやみつき。

今回の『手習鑑』上演を知って以来、一番の注目はなんといっても玉男の菅丞相だった。

実際、昼の部の「道明寺」の菅丞相といったら!

おととしの9月の『忠臣蔵』の通し上演における玉男さんの由良之助、
判官が切腹したあとの「城明け渡しの段」で、屋敷を立ち退く由良之助、
大夫の語りは無しで三味線の響きだけが鳴り響く中、形見の刃物を握りながら、
虚空を見つめる由良之助の動き、その静かな人形の動きはなんと大きかったことだろう。
玉男の由良之助を見ていると、一夜にして運命が変わった
由良之助の孤独のようなものがまざまざと見えてくるのだった。
それは同時に、『忠臣蔵』全体の宇宙のようなものが迫ってくる瞬間でもあった。

「道明寺」の玉男さんによる菅丞相を見たとき、あのときの由良之助のことを思い出した。

最後の苅屋姫との別れになるまえの、真ん中の文雀の覚寿との対話のところ
上手側に立っている菅丞相の一見なんでもないような動きを見ていると、次第に胸が詰まってくる。
いよいよ夜明けになって、菅丞相が苅屋姫と離れるところで
三味線がポツリポツリとちょっと独特な響きなって、次第に力を増してリズミカルになって、
重厚になって三味線はバチでべんべんと叩くような音型になって、
語りの文句もしみじみ味わい深い、そして、
幕切れの菅丞相、サーッと袖をまくるところでクライマックス、
そこが昼の部の最後の箇所だったのだが、実に見事な幕切れだった。

玉男さんの人形を見ていると、「肚」とは何か、ということが鮮やかにわかってくる感じ。
由良之助のことを思い出したのは、そうした「肚芸」のようなものが見事だったのと、
人形のかしらが両方とも同じ「孔明」というかしらだったせいもあるかも。
愛読書の宮尾しげを著『文楽人形図譜』を参照してみたところ、
「孔明」は智恵のある相で上品な顔をしていて、代表的な役どころは由良之助と菅丞相。

由良之助と今回見た菅丞相の、玉男さんの人形のこと、わたしは絶対一生忘れない。
のぞんでいた通りに、玉男さんの菅丞相を見ることができて本当によかった。

夜の部の「天拝山の段」では、菅丞相のかしらはその名も「丞相」、前段と異なる。
筑紫に流された菅丞相は、鬚が生え、髪も長髪で束ねていて、これは俊寛と同じかしらだそう。

「天拝山の段」で菅丞相は雷神と化して、
パーッと火を吹いたリのあっと驚く派手な場面で、
冒頭のパリパリした三味線の響きと相まって、スペクタクル性に富んでいる。
玉男さんの人形の動きは、まさしく能のシテのよう。
舞っているかのような動きを見るにつけ、前段の奇跡と相まって、
神となる菅丞相、といった、『手習鑑』全体を貫くモティーフを肌で感じることができた。

……と、玉男さんの菅丞相のことだけでついだらだらと書いてしまったけれども、
『手習鑑』で素晴らしかったことは、まだまだたくさんあって、とても書き切れそうにないくらい。

文楽は「見に行く」のではなくて「聴きに行く」ものだということがよく言われているけれども、
今回の『手習鑑』であらためて、義太夫の語りと三味線の音型にそこかしこでゾクゾクだった。

例を挙げていると、キリがないのだけれども、

たとえば「筆法伝授」で、久々に菅丞相と対面する源蔵はひたすら恐縮して
頭を垂れていて、そこの三味線の音型と語りを聴いていると、
源蔵の胸のうちがまざまざと見えてくる。
源蔵夫婦にとって菅丞相とはどんな位置付けだったか。
菅丞相とは、源蔵夫婦にとって、あとの「寺子屋」で
人の子供を無断で殺してしまうくらいな存在だったということが、
リアリティをもって、しみじみ胸に迫ってくる。
そして、自然と、「寺子屋」での観劇姿勢もいっそう真剣になってしまう。

丞相の御台所が「近う近う」と言い、そこへ夫婦がにじり寄って行くところでは、
三味線も義太夫も中断で、まったくの沈黙、人形だけが動いているという、
いわゆる「待ち合わせ」のシーン、そこのなんと厳粛な空気、
それから、御台さまから頂いた小袖だけは手離さかったと言う戸浪、
金銀の刺繍の典雅な雰囲気を醸し出す小袖を着た戸浪の人形の美しさ、
そして、源蔵と菅丞相の対面、真ん中の障子が開いて、
菅丞相が姿を現わすところの三味線のどこまでも澄み切った神々しい響き、
いざ伝授となるところの、大夫の荘重な語り、
参内の命を受けた菅丞相が急ぐところの、リズミカルな三味線の響き、
見送る源蔵夫婦の嘆きでは、三味線のリズムに乗った戸浪のクドキ、
義太夫も三味線も一分の隙もないくらいに見事で、音楽的、視覚的、
その相乗効果としての文楽、まったくもって文楽のよろこびきわまれり、の瞬間の連続だった。



国立劇場での観劇のときは、『上演資料集』を読むのも毎回のたのしみになっている。
プログラムの方は、内山美樹子さんの文章が毎回のたのしみ。とても面白い。

今回の、『菅原伝授手習鑑』では、豊竹山城少掾と三島由紀夫の対談が載っていて、
読んだのは初めてだったので、とても嬉しかった。昭和31年の対談で、
山城少掾にメロメロという感じの三島が熱く語っているのに対し、
山城少掾の方は終始淡々としている感じがして、ほんわかと面白かった。

そのなかの三島の発言で、

《僕は義太夫の語り手というものは、
どういうものであるかということを考えるんでございますけれども、
結局これは俳優でもありますね、同時に演出家でもあり、
それから演奏をリードして行くものでもあり、
ちょっと世界に類例のないものであるございますので、
演出家の部分もずいぶんあるわけでございますね。
山城さんのを見ていますと、主役はもちろんのこと、
端役が実に生々して出て来るんでございますけれども……》

というくだりがあって、そうそう、そうだなあと思った。

そんな大夫の語りの重層性というかなんというか、
「賀の祝」の桜丸切腹の段の住大夫の語りを聴いていると、
本当にそう、桜丸の切腹の一連のくだりが眼前に立体化した感じで、
ヴィヴィッドにクッキリと語りのあやが伺えて、爽快だった。
桜丸の切腹の決意を聞いていた白太夫の心中はどんなだっただろう、
と、それまでの一連の「賀の祝」のことを思って、
八重を「泣くない」とたしなめて「アイ」と八重が答えて、
白太夫が何度も「泣くない」とたしなめてその度に「アイ」と答えて、
だんだん愁いを帯びてきて、しまいには泣いてしまう白太夫の心中、
聴いているこちらも、思わず泣いてしまうそうになった。
「寺子屋」で松王丸が「桜丸が不憫でござる」という、
あとの段のことをも思ってしまうくらい。
「南無あみだ、南無あみだ……」と言っているうちに次第に高揚してくるところ、
そして、チーンと何度も鉦を打っているうちに、次第に手元が狂って床を打つところ、
などなど、聴きどころもりだくさんで、贅沢な時間だった。

歌舞伎で「賀の祝」と呼ぶ箇所は、文楽では3つに分けて上演、
八代目綱大夫が四季にたとえて、「茶筅酒は春で華やかに、喧嘩は夏ではげしく、
訴訟から切腹まではしめやかに秋」と述べていたと、プログラムに紹介があった。
「茶筅酒」で、三兄弟の嫁が三人集まって、料理をするくだりは
2月の歌舞伎ではカットしてあった箇所だったので、観られて嬉しかった。
娘っぽい八重がすり鉢をすれなかったり庖丁で指を切ったりして、
千代が替わってあげるところの人形の動きにクスクス、
その三人の嫁による食事の用意のくだりは、三味線の長めのメリヤスで、
ここに身をひたしている時間の、なんと幸福だったこと。
「道明寺」や「桜丸切腹」や「寺子屋」など厳粛なシーンも素晴らしいし、
冒頭の「加茂堤」や「茶筅酒」などの平和なシーンもしみじみ面白い。
文楽の通し上演は、緩急自在に、いろいろなたのしみが詰まっているなと思う。

……などなど、本当にもう、『手習鑑』の追憶を書こうとすると、
つい収拾がつかなくなってしまって、ここまでタラタラと書き連ねてしまった。

最後にひとつだけ。「寺子屋」の幕切れの「いろは送り」のところ。

文楽の『手習鑑』通し上演は、文楽ならではのよろこびがふんだんに詰まっていたが、
この幕切れの「いろは送り」はその最上のクライマックスだった。

段切れの「いろは送り」を大夫が語るところで客席からも「待ってましたッ」と掛け声、
朗々と「冥土の旅へ寺入りの……」というふう続く浄瑠璃、なんと美しい音楽だったことだろう。

そして、そこに合わさる、蓑助さんの千代の一連の動きのなんと見事なこと!
両手を重ねて腰を落としたり、合掌したり、立ち上がって、
足拍子になったり、後ろを向いて決まるところ、などなど、
「いろは送り」の一連の千代の動き、蓑助さんの人形を、
美しい音楽とともに見とれているとき、すなわち「寺子屋」の幕切れの瞬間は、
10時間もの舞台の幕切れの瞬間でもあったわけで、
これまで続いていた濃密なドラマがスーッと浄化していくような、
まさしく「カタルシス」という言葉がぴったりな、快楽と酩酊だった。

文楽の魅力は、人形・三味線・大夫が三位一体という言葉の通りに、
「いろは送り」は、その魅力の頂点、人形、三味線、大夫が美しくて美しくて、
もうただ、まばゆいばかりで、胸が詰まってしょうがなかった。

『手習鑑』通し見物の10時間は、この「いろは送り」を見るためにあったのかも
という気すらしてきて、それから、『手習鑑』、終わっちゃったなあと、
ちょっと切ない気持ちにもなった。何もかもがあっという間で、ただ見とれるばかりだった。





  

5月23日木曜日/ヘルダーリンの詩集

思いがけない場所で、かつて少しお世話になった先生にばったり遭遇してびっくりだった。

で、「おやおや」「まあまあ」としばし立ち話。

その折、先生がふとおっしゃったこと、
「岩波文庫から新しい訳でヘルダーリンの詩集が出てね、いい訳でね、
今まで出ていたのはあんまりいい訳じゃなかったから、嬉しくッてね、
もしよかったら、ちょっと見てみてよ」とのこと。

目を細めている先生がなんだかいい感じだったので、さっそく、
駅前の本屋で、岩波文庫の新刊、川村二郎訳『ヘルダーリン詩集』を買った。

帰りの混雑した車内で、ペラペラとページを繰った。

このところ、外国の詩集を読む機会なんてとんとなかったのだけれども、
どこがどうというのではなくて、初めて目にしたヘルダーリンの詩、
なんだかとても好きそうで、というか、好きかどうかという次元ではない。
耳をすますようにして、その行間へと身をうずめてゆくときの静かな気持ち、
その研ぎすまされて行くような感覚が、自分自身の遠い昔の本読みのことを
思い出させてくれるような感じで、ちょっとキラキラした時間だった。

巻末の、川村二郎さんの解説をなんとはなしに読んでみた。

あるドイツの文学研究家が、ヘルダーリンの後記の詩の特性に通じるものとして、
ベートーヴェンの後期弦楽四重奏とセザンヌの晩年の絵画を挙げていたとのこと。

それから、アドルノの「ベートーヴェンの晩年様式」と題した文章の末尾、

《晩年のベートーヴェンは同時に主観的とも客観的とも呼ばれる。
客観的なのは脆くひび割れた風景であり、
主観的なのは、この風景を照らして燃え輝かせる光である。
彼は主観客観双方の調和的な綜合を生ぜしめない。
彼はそれを、分裂の力として時間の中で引き裂き、永遠のために取って置こうとする。》

川村二郎さんは、このアドルノの文章に対して、
ベートーヴェンの弦楽四重奏 op.130, 131, 132 などに対し適切であるのと同時に、
ヘルダーリンの後期の作にもふさわしい、というふうに書いていた。

このくだりを目にして、いてもたってもいられず、
もう一度、ヘルダーリンの詩へと耳をすませてみるのだった。

と、そんなこんなで、何度も同じ詩を行ったり来たりしつつ、家路をたどった。

今夜からしばらく、寝る前は、川村二郎訳『ヘルダーリン詩集』。

今日は、思いがけないところで思いがけない本に出会った日だった。





  

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