日日雑記 June 2002

03 更新メモ(The Joy of Music, リンク)
05 六月大歌舞伎の初日のこと:歌舞伎座夜の部見物記
09 午後の散歩:日本民藝館と十二月文庫
16 国立西洋美術館の常設展示

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6月3日月曜日/更新メモ(The Joy of Music, リンク)

The Joy of Music に、先月分の音楽的生活ダイジェストを。

LinksYozeng's HP を追加しました。



昨日日曜日は、歌舞伎座の初日、夜の部の見物に行ってきた。
帰ってきた新之助がひときわ大きくなっていて、びっくり。
期待通りに、豪華キャストの『船弁慶』、素晴らしい!
『船弁慶』と『魚屋宗五郎』とで六代目菊五郎を思い、今日も戸板康二を読み返す。

先週末は五月大歌舞伎、夜の部と昼の部を立続けに見物して、
二週間連続で、松緑襲名興行を満喫した。詳しい感想はまた後日に。(たぶん)

土曜日はお呼ばれで池尻へ。思いがけなく古本屋さんに大興奮だった。
文庫本を数冊買って、こぉーんなに買っても1000円未満、
古本ってばなんて安あがりの道楽なのだろう(← junneさんの真似)という感じだった。
江口書店ではフランス語のペーパーバックを数冊、こんなに買っても1000円未満、以下同文。

先週は、三百人劇場の《清水宏と島津保次郎》を何本か観た。どれもこれもが愛おしい。
戦前松竹のモダニズム映画の系譜、一番好きな世界だなあとしみじみだった。
去年9月にフィルムセンター展示室で見た、河野鷹思デザインの映画ポスターを思う。

今、ナボコフの『賜物』(福武文庫)を三年ぶりで再読しているところで、
三年前いったいわたしは何を読んでいたのだろうというくらいに、興奮している。
アマゾンに注文したナボコフの "Speak, Memory"、 届くのが待ち遠しい!

今夜も「ラジオ深夜便」を聞いている。明日の日の出は4時26分とのこと。





  

6月5日水曜日/六月大歌舞伎の初日のこと:歌舞伎座夜の部見物記

今日は、日曜日の夜の歌舞伎座のことを。

初日の歌舞伎座に行ったのは、ずいぶんひさしぶり、去年のお正月以来だ。
三百人劇場で島津保次郎の『家族会議』を観て(←モダンガールたちに惚れ惚れ!)、
日比谷に出てコーヒーを飲み、日傘片手にくねくねと散歩したあと、歌舞伎座へ行った。

先月から続いている四代目尾上松緑襲名興行の二ヵ月目、六月大歌舞伎、夜の部。

● 『鬼次拍子舞』……新之助、菊之助
● 口上
● 『船弁慶』……松緑、團十郎、玉三郎、吉右衛門
● 『魚屋宗五郎』……菊五郎、田之助、松緑

という感じの狂言立て。もともと大好きな松羽目もので、さらに、
襲名興行ならではの豪華な配役の『船弁慶』が前々からとっても楽しみで、
明治の黙阿弥を音羽屋で観る『魚屋宗五郎』にもワクワクだった。

『船弁慶』と『魚屋宗五郎』とで、明治の黙阿弥が続いており、
明治の黙阿弥に思いを馳せていると、おのずと心は、
五代目菊五郎→六代目→二代目松緑、そして現松緑というふうにつながってゆく。
なかなか味な組み合わせ。それはつまり、新しい松緑を観ると同時に過去の松緑、
家の芸、役者、演目などなど、演劇史的ないろいろなことを思う時間となる。

去年の三津五郎のときもそうだったけれども、
襲名興行は、現代の歌舞伎へとつながるいろいろなことが
重層的に見えてくるのが格別で、歌舞伎のよろこびの原点に立ち返って、
また新しい気持ちで歌舞伎に接しようという決意がモクモクと湧いてくるのが嬉しい。
(怠惰なわたくしのことなので、その決意はまたすぐに忘れてしまうにしても……)

そんなわけなので、夜の部を見通したあとで思ったことは、
歌舞伎ってなんて面白いのだろう! ということだった。
このところ、毎月のように歌舞伎座に通っているというのに、
あらためてというかなんというか、初めて歌舞伎に開眼したかのように、
ああ、面白かった! と、もうウキウキだった。

歌舞伎の面白さとは何か。

まず、劇場の幕が開く前の独特の雰囲気。ツンと幕が開く瞬間、
それから、三味線や唄、竹本、下座の全てが融合した音楽、
色彩感覚やデザイン感覚といった衣裳の美、
踊りや芝居そのもの、そこに彩られる様々な型、
現在の歌舞伎につながっている演劇史的なことを思う愉しみ、
……などなど、ちょっと考えてみても、なかなかまとまらぬ、
とにかく、いろいろなことが渾然一体となって形成される歌舞伎の面白さ、
そのことをしみじみと感じて、むやみやたらに嬉しくなった芝居見物の時間だった。

さてさて、ちょっとだけ具体的に振り返ってみることにして、まず『鬼次拍子舞』。

このところ(といっても先月から)、歌舞伎座に行く前に、
上演される演目の台本のコピーをとって、事前に読むということをしている。
前もって謡曲を読んでおかないと確実に寝てしまいそうッ、というわけで、
能楽堂に行く前に図書館で、中央公論社発行の戦前の書物、
野上豊一郎の『謡曲全集』(←派手な装幀がキッチュでかわいい)からコピーして読んでいるうちに、
そんな事前の資料集めがなんだか楽しくなってしまって、歌舞伎にも導入することに決めた。
というわけで、かなり自己満足的に、事前に大急ぎで台本を読んでいるのだけれども、
これが案外たのしくて、もっと前から始めていればよかったかも。
セリフのところに、ちょこちょこっと型のメモを書き入れて、悦に入る。
そうすると、来たる芝居見物がさらにフツフツとたのしみになってきて、
読んだりメモしたりすることで、自分の頭が冴えたような錯覚をおぼえて、
芝居見物への期待がさらに高まるのだ。

……しかーし、「頭が冴えたような錯覚」はもちろん錯覚でしかなくて、
いざ舞台が始まってみると、ただポーっと見とれているうちに、
終わってしまうというのが毎回のパターン。
理屈云々はほとんど忘れて、見とれてるだけで終わってしまう。
それはお能でも歌舞伎舞踊の場合でもまったく同じなのだった。

というわけで、『鬼次拍子舞』でも長唄の文句を読みつつ、
このあたりでこんな感じの振りになるらしい、とさらってはいたが、
いざ舞台の幕が開くと、長唄の唄と太鼓と三味線のかもしだす音楽的陶酔にワクワクしながら、
振りのうつりかわりをぼーっと見とれて、さらにウキウキになっているうちに終わってしまった。

新之助と菊之助がセリ上がって踊りが始まるのだが、
二人がセリ上がってきた瞬間に、先月はその休演がちょいと残念だった新之助が、
「おー!」と思わずどよめいてしまうくらいに風貌が立派で、
いかにも歌舞伎な衣裳のデザインが実によく似合っている。まさしく錦絵。
群青色とグレーが混じった感じの頭巾に、緑と黒のストライプのどてらに、柿色の裃、
……だったかな詳細はちょっと曖昧なのだが、まず衣裳がとてもよかった。これぞ歌舞伎。
あとで、緋色の襦袢を出して、見あらわしとなったところで衣裳を引き抜くところなど、
視覚的にどこまでも贅沢で、赤姫姿の菊之助も人形のようで、二人の醸し出すフレッシュさがよかった。

というふうに、視覚でまず見とれてしまうのだったが、
長唄の音楽のうつろい加減を耳で追いつつ、踊りの動きで目で追う、五感で堪能、という感じで、
ところどころの足拍子が実に気持ち良い男っぽい振り、
新之助のいくつかのパッと見得をするところ、石投げの見得ふうのところなど、とてもよかった。
進行とともに、長唄も、独唱になったり、三味線だけになったりと変幻自在、
その変幻自在さにうっとりしつつ、舞台の躍りの動きひとつひとつを見つめる、理屈抜きで楽しい。
音楽が三味線と太鼓だけになる箇所がいくつかあって、そのときの劇場の空気感がとてもよかった。

先月の歌舞伎座、松緑襲名一ヵ月目は、2日連続で見物に行って、
一日目が夜の部、次の日に昼の部、というふうにして見物したので、
わたしにとっての松緑襲名の舞台は、三津五郎の『舌出し三番叟』でその幕が開いた。
この『舌出し三番叟』、大堪能してしまって、おかげでやたらと嬉しくなってしまって、
その後の観劇のテンションがさらにアップして、昼の部の最後までハイテンションだった。

今月も、先月とまったくおんなじふうに、幕開けの踊りにウキウキだったおかげで、
その後の観劇の絶好の導入となってテンションアップ、夜の部全体、密度の濃い芝居見物と相成った。

『船弁慶』で、松緑登場、前シテの静と後シテの知盛。
弁慶は團十郎で、義経に玉三郎。
前半と後半のつなぎの船頭が吉右衛門、さらに新之助と菊之助も。
という感じの、襲名興行ならではの「あっ」と驚く豪華な配役。
まさしく「御馳走」の吉右衛門、去年9月の『紅葉狩』を思い出す。
いつも大堪能している、時代物の立派な吉右衛門とはまた違う、
「御馳走」的な登場のときの吉右衛門の飄々ぶりもとっても好きなので、嬉しかった。

『船弁慶』を観るのは、今年1月の浅草公会堂の勘太郎に続いて二度目。
どこまでも研ぎすまされた劇世界、松羽目もの特有の空気に夢中だった。

『船弁慶』に関して解説書の類に必ず書いてあることは、
初演は明治の九代目團十郎なのだが、昭和初期に六代目菊五郎が新演出を試みたことで、
急に脚光を浴びた演目で、菊五郎の息吹がたっぷりと吹き込まれている『船弁慶』、
以後、六代目型は、勘三郎、松緑に受け継がれ、云々ということ。
なので、今回、その六代目→松緑に続くというわけで、
新松緑の襲名興行に『船弁慶』が観られるということはとても意義深いことなのだった。

演目そのものが大好きということもあった上に、
松緑襲名に直面することでいろいろと心構えもあったしと、
そんなわけで、実際の舞台も思いっきり堪能、実に素晴らしいものだった。

『船弁慶』の幕切れは『勧進帳』と同じで、いわゆる幕外の引っ込みで、
下座の鳴りものとともに、笛と太鼓の人が登場し、独特の雰囲気になり、
観客の方も気分がさらに昂揚したところで、知盛の引っ込みとなる。
知盛の引っ込みでも存分に六代目菊五郎の息吹が吹き込まれていて、
その型は、「花道の半ばまで長刀を振って六方で荒れ廻り、
そのあと巴になってグルグル廻りながら揚幕へ入る演出」。
後シテの銀の装束の知盛の、クルクル廻る振りにゾクゾクだったのだけれども、
花道の引っ込みはゾクゾクの頂点で、まさしく「見ごとな幕切れ」であった。

実を言うと、先月の歌舞伎座では、思わず個人的趣味に走ってしまって、
主役のはずの新松緑よりも、富十郎の方に目が行ってしまったわたしなのだが、
今月の歌舞伎座では、『船弁慶』と『魚屋宗五郎』、松緑がとても印象的だった。

『船弁慶』の幕開け、弁慶の名乗りのあとの長唄にまずうっとりしてしまって、
謡ふうの掛け声に太鼓の調子、三味線の響き、思わず手でリズムをとってしまいそうな心地よさ、
そして、義経の登場となる。男役の玉三郎を見るのは今回が初めてだった。
先ほどの、『鬼次拍子舞』の新之助とおんなじように、その姿の立派さにまず驚く。
筋書きのインタヴュウで「能で使っている装束をいろいろ当って
衣裳を新しくしようと思っている」と語っていた玉三郎だが、
その言葉の通りに、衣裳の美しさにまずびっくりだった。
それから、静と対峙しているときの、たとえば「今落人の身となりて」のところの、
座ったままで上半身というか手だけを振る、それだけでこぼれる哀愁と気品の見事なこと!

玉三郎と團十郎と吉右衛門、新之助に菊之助、というふうに、
まわりの役者陣が豪華なだけでなくて、主役の松緑の踊りそのものにも見とれた。
能面のような表情のない静の、烏帽子と扇といった小道具がきいている舞い、
そのところどころの動き、長唄とともに、キリキリッと動く、そのひとつひとつを注視。
後シテの知盛の、謡風のリズミカルな長唄に乗った舞いなどもよかった。
知盛になってからは、幕切れに向かって最高潮に盛り上がって行く、
そのズンズンとした進み具合にただただ見とれてしまった。もう一度観たい。

……とかなんとか、『魚屋宗五郎』のことを書く時間がなくなってしまったけれども、
五代目菊五郎初演のこの演目、現菊五郎で音羽屋型をいろいろ確認できて、よかった。
去年3月の『忠臣蔵』の勘平のときのような、音羽屋の美意識が
ふんだんに詰まっているのを垣間見ることができる演目がとても好きだ。
禁酒を破って、一杯、二杯……と飲んで行く過程はなんだか魔法のような鮮やかさ。
「世話のなかにも時代あり」といった感じの、ところどころの時代世話とまではいかなくても、
ちょっと様式的になるところの菊五郎のかっこよさは無類だ。
この4年ほどの観劇のなかでもとりわけ印象的だった、
髪結新三の悪人ぶり、五郎蔵の時代世話なところ、などなど、
かっこいい菊五郎の系譜、音羽屋独特の瞬間のいろいろが胸に甦ってきた時間。

あと、田之助の女房ぶりがとてもよかった。
この人にも、今までずいぶんよいものを見せてもらっている。
それから、殿様を演じる松緑、気品があって、これもとてもよかった。
先月の『義経千本桜』の「四ノ切」ではむしろ本物の忠信の方が好きだった。
そういう系譜の気品を感じた。

実は殿様の方も、酒で踏み外していたという円環。
黙阿弥の芝居を見ると、いつも幕切れのところで、最初から見ていた世界が
ひとつの円になったような感覚を味わうことができる。
その作劇術を彩る美しいセリフ、江戸と明治を生きた黙阿弥にまつわる
役者や演劇史のいろいろなこと、などなど、
黙阿弥をとりまく、歌舞伎のよろこびは尽きないなあと改めて思った。

……というわけで、六月大歌舞伎夜の部、終わってみると、
細かいことは記憶の彼方に行ってしまって、ただ単純に、
ああ、歌舞伎ってなんて面白のだろう! という気持ちで胸がいっぱいだった。





  

6月9日日曜日/午後の散歩:日本民藝館と十二月文庫

午前中はちょっと大がかりな掃除と整理整頓にいそしんだ。
今日はいいお天気。青い青い空で、それでいて空気はカラッとしている。
早起できて満足満足。梅雨と夏の日々に備えて、部屋の模様替えをした。
午後から外出。電車に乗って、日本民藝館へ行った。

日本民藝館は今回が初めて。
ずっと気になっていはいたのだけれども、どういうわけかずっと機会を逸していた。

さらにふつふつと日本民藝館が気になったのが、去年の秋のことで、
ある晴れた土曜日の午後の松濤散歩がきっかけだった。あの日はなかなかの佳日だった。

まず、ギャラリーTOM で《ようこそ!村山知義です》なる展覧会を見た。
石神井書林の目録で MAVO のことを知ってからというもの、
東京都現代美術館の《水辺のモダン》展、それからさらに洲之内徹の文章で、
まずまず MAVO をとりまく時代背景とか都市風俗に興味津々だったので、
これは見逃せないッと思って張り切って見に行ったのだったが、
いろいろな能書きは抜きにして、葵ウィークリーの表紙デザインなど、
視覚的に「かっこいい!」の連続で、ギャラリーの空間を満喫した。

よい気分で、帰り道に立ち寄ったのが、松濤美術館
そのとき催されていたのが《眼の革命》なる展覧会で、これも実に面白かった。
「アートを探せ!」的な内容で、岡本太郎の発見した縄文土器、
赤瀬川原平による「超芸術トマソン」をはじめとして、
ほかにも歌川国芳の浮世絵などいろいろな展示物があったのだが、
もっとも印象的だったのが、いままで断片的にしか見たことのなかった
柳宗悦による「民芸の発見」の数々を初めて体系的に概観することができたこと。
そこに展示されていた李朝陶器の数々にはまさしく至福の思いで眺めて、
沖縄の布、「いつも静であり控えめがちである」という言葉が添えてある、格子の織物もよかった。
あと、大津絵も大好き。歌舞伎好きとしては、どうしても『大津絵道成寺』という踊りを思い出す。
そして、なによりも面白かったのは、数々の展示物を柳宗悦の視線とともに、
柳宗悦の視線でもって事物を見つめてみること。これはぜひとも日本民藝館に行かねばッと思った。

といっても、なんだかんだで行き損ねて秋は過ぎてしまって、
今年に入って、東京国立近代美術館の《未完の世紀》で、
1910年代コーナーで岸田劉生に大感激したあとで見た柳宗悦に関すること、
ロダンの彫刻を見せてもらうために訪れた客の手みやげがきっかけで
李朝陶器に熱中することになった柳宗悦のことを、
同時代の、たとえば岸田劉生の《B.L. の肖像》といった絵の余韻とともに眺めるのは、
李朝陶器の美しさと相まってまさしくスーッとした心地よさだった。
そして、再び、これはぜひとも日本民藝館に行かねばッと思った。
で、張り切ってスケジュールを練ってみたのだったが、
日本民藝館は改修工事のため、しばし休館中ということだった。

というわけで、ようやく、日本民藝館行きが実現して、嬉しかった。

日本民藝館では現在、改修記念と銘打って、《日本民藝館名品展 東洋編》が開催中。
東洋編は6月30日までで、7月9日から西洋編がはじまるとのこと。
西洋編はどんな感じなのだろう。真夏の散歩に繰り出すのも面白そう。

……などと、さっそく次の計画をたててしまうくらい、
日曜日の午後の日本民藝館でのんびり過ごす時間は、とても満ち足りていた。
蕎麦猪口とか陶器といった日用品の美しさを見つめることで、
逆に、ふだんのしがない日常を忘れ「命の洗濯」という言葉がぴったりの時間なのだ。

スリッパに履きかえて、二階建ての木造建築を練り歩き、
ときおり(というかしょっちゅう)、椅子に腰掛けて、ひと休みだった。
やっきになって凝視というのではなくて、
そうやって何度ものんびりするのがいかにも似つかわしい感じ。
格子の窓とか、各部屋の引戸の様子とか、見学者用の椅子とか、
もちろん、展示品を陳列しているガラスケースとか、
日本民藝館の空間を構成する諸要素が一分の隙がないくらい、
研ぎすまされていて、全体を形成している。細部と全体の調和が見事。

空間に居合わせるよろこびだけでなく、
もちろん、展示品ひとつひとつを眺めるのも実にたのしい。

鎌倉から江戸にいたる古画を紹介した部屋の、
室町時代の物語の絵巻がキッチュでかわいくて、さっそく大好き。
江戸時代の「曾我物語」を描いた屏風は、
そこにいる大勢の人物の一人一人の表情や服装が面白くて、
登場人物の顔や動きの面白さという点で、黒澤明の映画を見るよう。
梅原龍三郎寄贈という百人一首を材にした画帖も、もう大好き。

絵では、「泥絵」が五枚ほど展示してあって、
江戸末期の西洋人やら居留地やらの外国の風物を描写していることで醸し出す独特の味わい。
霞ヶ関の大名屋敷の絵も、浮世絵とはまた違った構図と色使いで面白かった。
「泥絵」はいずれも、青がとても印象的で、その青に見とれた。

色彩といえば、李朝陶器の染め付けの藍色が大好きだった。
李朝初期の茶色っぽい色彩や模様も面白くて、
日本の諸品を紹介している二階の大部屋で見る裂織や伊万里などなど、
いちいち挙げているとキリがなくなってしまうくらい、
日本民藝館のあちこちで目にする「色」そのものが好きだ。

陶器や織物など、色だけではなくて、素材そのものの風合いを見るのもたのしい。
一階の「日本染織」の部屋では、去年秋の松濤美術館で目にした瞬間に釘付けだった、
木綿と屑繭(だったと思う)の丹波布四種、幕末から明治のものだそうで、
四種とともが格子で、ああ、もうなんて素敵なの! と、格子好きとしてはもう眼福。
沖縄の織物の素材や色合い、文様も目にたのしかった。
きものというと、やはり江戸小紋のような地味きものが好みなのだけれども、
そういったふだんの好みとは離れて、木綿や麻の風合いとともに色と文様を見る愉しみ。

などなど、いろいろと尽きない感じだった。
初期伊万里の蕎麦猪口を見て、また新たに、湯呑用の蕎麦猪口が欲しくなってしまった。
来るべき夏の日々、また去年みたいに、熱い煎茶ですっきりと過ごしたいなと思う。
というふうに、日本民藝館のあちこち見ることで、日常生活のよろこびも湧いてくるのがよかった。



日本民藝館のあとは、駒場公園でのんびり過ごした。
今日の午後はのんびりしてばかり。
木蔭のベンチで飲む、手持ちのエヴィアンの美味しいこと!
本当に今日は青い青い空で、空気はカラッとしていて、日射しは眩しくて、日傘日和。

駒場公園に来たのは、去年の九月以来。
あのときは 東京都近代文学博物館にむやみにはしゃいでいて、
帰宅後は、ひさびさに、一葉全集の日記を読みふけったりと、なにかと楽しかった。
その 東京都近代文学博物館は3月31日をもって閉館してしまったので、
なおのこと、あのとき東京都近代文学博物館で過ごすことが出来てよかったと思う。

文学博物館の建物は、「旧前田侯爵邸洋館」として公開中で、
ちょっとだけ、中に入ってみた。文学の展示物のない空間を見ると、
どうしてもガラーンとした印象。入口近くの旧応接室の椅子でまたもやのんびり。

そして、駒場公園のあとは、去年9月のときとまったくおんなじように、
てくてくと池ノ上方面へと歩いて、十二月文庫に行った。無事開店中だった。

十二月文庫は 今日で何度目になるのかな、ちょっとわからぬけど、
十二月文庫に入る瞬間はいつだってドキドキ、どうしても胸は高まる。

中に入ってみると、本日の音楽は、短調の弦楽四重奏の響き。
耳をすませてみると、まあ! モーツァルトの弦楽四重奏曲 K.421 ではないか。
入ったときは最終楽章でほどなくして曲が終わってしまって、
次の曲は、まあ! 今度は K.387 の弦楽四重奏曲、《ハイドンセット》の一曲目だ。
わたしも昔から、ディスク三枚組のモーツァルトの《ハイドンセット》を持っていて、
じっくり聴いていこうと決心したものの、いまだに一枚目で止まっている。
一枚目はト長調の K.387 とニ短調の K.421。
この二曲が素敵なあまりに、まだこればっかりを聴いていて、
《ハイドンセット》、なかなか先に進めないでいるのだ。
それにしても、十二月文庫ではいつも、わたしの好きな曲ばかり流れている。

いつものように、店内の棚をくまなく眺めて、さらにいい気分。
そして、いつも必ず、欲しい本があるのが、また嬉しい。
初期の暮しの手帖も売っていて(1冊500円)、しばし迷ったのだけれども、
去年に衝動買いしたのがまだ未整理なので今日は見送って、
ほかにも、モーツァルトの弦楽四重奏をバックにいろいろと本を手にとってはたのしい。

本日のお買い物は、

● 『世界ユーモア全集3』(筑摩書房、昭和36年)
……ケストナー『雪の中の三人男』とクールトリーヌ『陽気な騎兵隊』を収録。
花森安治の装幀が有名のこのシリーズ、買ったのは今回が初めて。
ひさしぶりにケストナーを読みたいと思ったのと、
クールトリーヌの訳者の一人として獅子文六がクレジットされてのとで決定。
クールトリーヌの短篇は戦前の「新青年」でよく紹介されていたとのことで、
この点でもとても楽しみ。フランスがらみの男という面での獅子文六を
これから追いかけていきたいところだったので、その点でもグッドタイミングだった。

● 源氏鶏太『初恋物語』(角川文庫、昭和34年)
……このところ、古本屋さんでは、古い文庫本の棚を見るのが好きだ。
まだカバーがかかっていなくて、帯とパラフィンだけの古めかしい文庫本。
ついこの間、神保町の書肆ひぐらしの均一棚にて100円で、
源氏鶏太の『向日葵娘』(角川文庫)を買ってさっそく読んだ。
先が見え過ぎな少女小説風プロットは、映画『青空娘』を彷彿させた。
かわいかったけれども、獅子文六ほどは楽しめなかった。
けど、映画化作品の多い昭和30年代くらいの風俗小説を
いろいろ読んでみたいところなので、短編集の『初恋物語』はどんな感じなのかな、
あまり期待はしていないのだけれども、ちょっとたのしみ。解説は十返肇。

十二月文庫を出る頃も、音楽はモーツァルトの K.387 のまま。
それにしても、十二月文庫はなんて素敵なお店なのだろう。
今度来るときは、どんな音楽がかかっているのかしら。

そのまま、池ノ上に出て、線路沿いの小道を歩いて、
下北沢に行って、コーヒーを飲んで、家に帰った。





  

6月16日日曜日/国立西洋美術館の常設展示のこと

国立西洋美術館に行くときはいつも企画展目当てで出かけていて、
そのついでに常設展を見るというパターンだった。
常設展だけでもかなり充実していて手に余るくらい、
今度はゆっくり常設展だけを集中的に見物したいものだ、といつも思って、
その計画にずっと胸を躍らせていたのだけれども、これまでなかなか実現に至らなかった。

念願の国立西洋美術館常設展ゆっくり見物がやっと実現した。

けっこう何回も来ているにも関わらず、とても新鮮な気持ち。
絵を見るのって、本当にもう、なんて楽しいのだろうと思った。

部屋に帰って、いろいろ書棚の本をめくって、
いろいろな文章を垣間みて絵の追憶にひたって、
そんなこんなで、これから先、出会う絵、
再会する絵のことを思って、ますます心ときめかしている。



国立西洋美術館の常設展示は、西洋美術史の流れを大まかに概観できるようになっていて、
入場料420円を払って、絵画の展示室に入ってまず見ることになるのが、ルネサンス以前のイタリア絵画。

わたしは、ルネサンス以前と初期ルネサンスあたりがとても好きで、
時代的には全然違うのだけれども、モンテヴェルディやJ・S・バッハの
宗教音楽、特に合唱曲を聴いている時間のような、浄化されていくような気持ちになる。
なので、国立西洋美術館に来ると、いつでも入口付近でさっそく嬉しくなる。

一番最初に目に入るのが「15世紀フィレンツェ派」と銘打ってある《聖ヴェロニカ》という絵。
平面的な構図、背景の美しいタピストリーを見て、さっそくよい心持ちになってくる。

そして、次は「14世紀シエナ派」の《聖ミカエルと龍》。
背景はゴールドで、持っている楯は鮮やかに赤と白の二色、
着ている鎧は黄色と藍色、槍の下の龍のキッチュさともども、絵全体の色彩と構図が好きだ。
龍とたたかう騎士というモティーフといえば、いつかのパリ旅行の折に、
ジャクマール・アンドレ美術館で見た絵のことを鮮やかに思い出す。
ウッチェロの《龍と闘う聖ゲオルギウス》という絵のこと。

部屋に帰ってさっそく、当時買った絵はがきで、ウッチェロを眺めたのだったが、
ウッチェロは誰につながってゆくのかなと美術史の概説書を参照すると、
ピエロ・デラ・フランチェスカの名前が挙がっていて、まあ!
いてもたってもいられなくなって、須賀敦子さんの文章をひさしぶりに読み返した。

須賀敦子さんの、絵画が登場する文章がとても好きで、
イタリア絵画に心惹かれる所以は、実のところは、
須賀敦子さんの文章のことを思い出してのことだったのかもとすら思う。
たとえば、『トリエステの坂道』の「ふるえる手」というタイトルの、
ナタリア・ギンズブルクとの出会いと死のことと、
カラヴァッジョの《聖マタイの召命》のこととが織り込まれた文章のこと。
それから、『時のかけらたち』の「空の群青色」で登場する、
シモーネ・マルティーニの《フォリアーノのグイドリッチョ》。
ピエロ・デラ・フランチェスカのことは、
「空の群青色」の次の「ファッツィーニのアトリエ」という文章に出てくる。

ピエロ・デラ・フランチェスカのことを「深さ」という言葉とともに、
ファッツィーニらが語っているのを耳にして以来、かねがね、
《そのすばらしさを自分なりに理解したい》と思っていたある日、

《絵と自分の中間にある空気がふいに透明になって、
ピエロ・デラ・フランチェスカを、目が、
なにも交えないはだかの目が、見ているのに気づいたのである。》

という瞬間を迎えたことを回想したあとで、以下のような文章がある。

《出会いは、音もなく、ふいにおとずれる。
それまで本質を秘めていた垂幕がはらりと落ちて、
対象と自分をつなげる根源のつながり、
まるで地下トンネルで結ばれたふだんは見えない網の目のようなつながりが、
そのとき、地上にかたちをあらわし、対象と自分が、
あたらしい、いきいきとした関係で結ばれていることに気づくのだ。
目をあけてもあけても紗のヴェ−ルを通しての理解だったものが、
肉眼で見えるようになる。》

絵を見るという行為は、こういう瞬間を迎えるのを待つ行為なのだと思う。

須賀敦子さんの文章を読んでからというもの、
名前の挙がっていた、カラヴァッジョ、シモーネ・マルティーニ、
そして、ピエロ・デラ・フランチェスカの絵を本でいくつも探して、
これらの画家と絡めた須賀敦子さんの文章を胸の中で反芻するのが快楽だった。

西洋美術館の常設展見物から帰って、ひさびさに
須賀敦子さんを初めて読んだ頃と同じ行為をして、胸がいっぱいだった。



2枚のルーベンスの絵の隣にあった、フィリップ・ド・シャンパーニュの
《マグダラのマリア》を見ていると、気分はバッハの《マタイ受難曲》で、
バッハの音楽と同様に、一見暗い画面のなかにも光と影があって、
マリアが着ている洋服の織物の様子と手前の香油の壷の光沢などが
どこか典雅な雰囲気を醸し出していて、色調のわりに明るい。好きな絵だ。
そして、ルーベンスの絵はいつ見ても、見ているうちになんだか幸せな気持ちになってくる。

《マグダラのマリア》とルーベンス2枚の直後に見ることになるのが、
ファン・ダイクの《レガネーヌ伯爵》という、わりと大きめの肖像画。
わたしはこの、ファン・ダイクの肖像画が大好きで、いつもしばし立ち止まる。

ルーベンス→ファン・ダイクというふうにたどってくると、
気分は、一気にフロマンタンの『オランダ・ベルギー絵画紀行』。

ファン・ダイクの肖像画に関するところを抜き書きしてみると、

《ヴァン・ダイクはリュベンスより二十四歳年下だった。
もはや彼には十六世紀の名残は認められない。
彼は十七世紀の最初の世代に属しており、われわれにそのことを感じさせる。
彼自身の美貌と、彼の美貌好みに現れているといってもよい。
十七世紀の第一世代だということがとくに顕著に認められるのは、肖像画においてである。
この分野では、ヴァン・ダイクは世間の趣味と驚くほど一致していた。彼の時代の世間である。
自分の目を現実から逸らせてしまうかもしれない支配者タイプというものを創造しなかったので、
彼は正確であり、的確に、ありのままにモデルを見ている。
ただ、もしかすると、彼の前でポーズをとった人々全員に、
彼自身の優雅さをいくぶんか分け与えているかもしれない。
肖像画に描かれた人々は、現実よりももっと高貴な様子となり、
部屋着姿も粋に現わされ、衣装の皺や襞はもっと整ったものとなり、
手は、美しさといい、白さといい、いっそう完璧の度を高めたのである。
いずれにしても、ヴァン・ダイクは師のリュベンスよりも、
巧みな着こなしに対する感覚、流行に対する感覚を豊かに持ち合わせているし、
絹地や繻子、飾り紐やリボン、羽根飾りや風変わりな剣に対して、
師よりもずっと深い愛着を示している。》

……などと思わず長々と抜き書きしてしまったけれども、
ファン・ダイクの肖像画に関して、目が覚めるくらいに鮮やかで的確な一節。

このあと、フロマンタンは、ファン・ダイクの絵に登場するのは、
騎士ではなくて「紳士」なのだと書いているのだけれども、
この《レガネーヌ伯爵》、かなりのお洒落さんで優雅な物腰。
背景の茶色の色彩、カーテンや床の織りなす茶色の変化ぶりも素敵で、
伯爵の着ているお洋服は黒くて、絵全体の色彩は暗めのはずなのに、
絵を見たとたんにパーッと印象的なのは、全体の醸し出す優雅さだ。



このあとも、エル・グレコの《十字架のキリスト》の前にしばし立ち止まり、
それから、18世紀のロココ絵画を見て、あまり好みではないものの細部をいろいろ凝視、
そのあと、幾何学模様の素敵な扉があって、その奥へと歩を進めると、
ドラクロワの絵が目に入って、そのあとの、ドーミエの《観劇》が大好き。
桟敷席から舞台を覗く構図、暗い場所からわずかに光がもれる奥の舞台はよく見えず、
桟敷席の人々は向こうの舞台の何を見ているのだろう。
絵からははっきりわからないけれども、絵の中の観劇中の人々との一体感、
この絵を見ている瞬間の、被写体との一体感が、ふだんの観劇の趣味と相まって、とてもよかった。

そのあと、印象派へと至る。この美術館は印象派がとても充実していて、
今まで、美術史をたどりつつ、いろいろな絵を見た後で目にすると、
絵の色彩、柔らかさ、明るさが際だつ感じで、パッと視界がひらける感じでたのしい。

マネの《花の中の子供》と《ブラン氏の肖像》はいつ見てもよいなあとしみじみ嬉しい。
その近くの、ルノワールの《木蔭》という絵とともに、
これらの絵をまとめて見ていると、ジャン・ルノワールの映画のような気分になる。

このあと一階へと下る前に、備え付けのワイヤーメッシュの椅子にすわって、
のんびりする時間が、国立西洋美術館の毎回のおたのしみ。

新館一階には、好きな絵がたくさんあって、いつもはしゃぎまくりだ。

ゴーガン、ドニ、ボナールの絵、特に2枚のボナールがどこまでも素敵。

ドニの絵がわりとたくさんあって、19世紀末のかわいらしい絵はどこか絵本を見るようで、
20世紀になってからの平面的な構図の絵もよい。その変化ぶりが興味深い。

あと、ヴュイヤールの《縫いものをするヴュイヤール夫人》という小さな絵が好きだ。
室内の様子などを描く絵具が、対象を描きつつも筆そのものが装飾のよう。

藤田嗣治の《坐る女》も、国立西洋美術館の毎回のおたのしみ。
背景の黄金の屏風の絵のような雰囲気の鳥と花や草模様と、
女の人のワンピースの花柄、見ていると、やっぱりドビュッシーのピアノ曲の気分。

そして、最後の部屋。ここでは、マックス・エルンストの《石化した森》にいつも凝視。

スーティンの《狂女》とルオーの《道化師》など3枚の絵が並んだ壁も大好きで、
ドンゲンの《カジノのホール》は、昔のヴォーグみたいにかっこいい。

ジャン・ルノワールの最初の奥さんのカトリーヌを描いた絵も、
ルノワールファンとしてはとても嬉しくて、いつの日か『女優ナナ』を観たいと思う。

それにしても、絵を見るのって、なんて楽しいのだろう。

ある絵では、バッハの音楽を思って、別の絵ではフローベールの小説を思って、
はたまた、ジャン・ルノワールの映画のことを思い出したり、
舞台装飾のことを思ったり、……などなど、絵を見ながら勝手気ままに、
類推の虫を働かせて、自分自身の好きなものをいろいろつなげるのが快楽だった。

あと、美術史的ないろいろなことを、本からの知識だけではなくて、
自分の眼で見ることで、実感として感じることができたりするのもモクモクと刺激的。

乏しい知識ながらも、これから先、いろいろな絵を見て、
自分自身の好みの系譜をたどったり、前よりの知識が増えたあとで
あらためてその絵に再会することでますますたのしくなってきたりとか、
そんなことを続けていきたいなあと思っている。





  

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