サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経


一 身体のサティパッターナ

6. 九段階の死体  [ENGLISH]

[第1段階]
修行者は、死体置き場に捨てられ、死後一日、二日、三日と経ち、腫れあがり、 青く変色し、膿の流れている死体を見たならば、その死体と自分の身体とを比 べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第2段階]
修行者は、死体置き場に捨てられ、カラスに貪られ、鷹に貪られ、ハゲワシに貪られ、サギに貪られ、犬に貪られ、虎に貪られ、豹に貪られ、ジャッカルに貪られ、さまざまなうじ虫に貪られている死体を見たならば、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第3段階]
修行者は、死体置き場に捨てられ、血と肉がまだついている、腱でつながった 骸骨でしかない死体を見たならば、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中 の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第4段階]
死体置き場に捨てられ、腱でつながり、血のついた肉のない骸骨でしかない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第5段階]
死体置き場に捨てられ、腱でつながり、血も肉もついていない骸骨にすぎない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中 の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第6段階]
死体置き場に捨てられ、骨があらゆる方向に散らばり、ばらばらの骨にすぎない死体を見るのです。ある所には手の骨が、ある所には足の骨が、ある所には足首の骨が、ある所には脛 (すね) の骨が、ある所には腿 (もも) の骨が、ある所には尻の骨が、ある所には肋骨が、ある所には背骨が、ある所には肩の骨が、ある所には頸 (くび) の骨が、ある所には顎の骨が、ある所には歯が、ある所には頭蓋骨が、散らばっているのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中 の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第7段階]
死体置き場に捨てられた、ホラ貝のように白くなった骨にすぎない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第8段階]
死体置き場に捨てられ、一年以上経ち、山積みの骨となった死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中 の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


[第9段階]
死体置き場に捨てられ、骨が粉々になり、塵 (ちり) にすぎない死体を見るのです。 そうして、その死体と自分の身体とを比べるのです。

「間違いなく、この身体はあの死体と同じなのだ、この身体もあのようになるのだ、それは避けられないことなのだ」 と。

このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。

身体が存在する原因と、実際に身体が存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、 いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。 (九段階の死体 了)



次項の 二  感覚のサティパッターナ はこちらからでも入れます。




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