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亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』第5巻

「エピローグ」の重大な誤訳を改めて問う

― または十三年後のアリョーシャ ―

 

2017.3.9  森 井 友 人

 

20082月に、私は、木下豊房氏および新出登氏(NN氏)の協力を得て、当サイトに「一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」を公開させて頂いた。これは亀山新訳第1巻の誤訳を点検したものだが、それに先立つ1月に、私は、当HPと相互リンクが貼られている「ドストエフ好きーのページ」の掲示板の議論に導かれる形で、新訳第5巻「エピローグ」に重大な誤訳のあることに気がついた。これについては、上記「点検」と同時に公開された木下氏の「亀山郁夫氏の「踏み越え」(«преступление») ―『カラマーゾフの兄弟』テクスト改ざんと歪曲の疑い―」でも取り上げられているが、今回、同氏の近著『ドストエフスキーの作家像』の第7章(「ドストエフスキー文学翻訳の過去と現在」)で、この点も含めて、いわば亀山問題が総括されているのを目にして、改めてこの誤訳について、私も一読者として、問題を提起しておくべきではないかと考えるようになった。これが、今回この一文を草することになったいきさつである。この誤訳を今また取り上げる必要性については、叙述の流れの中で申し述べたい。

さて、その重大な誤訳箇所とはどこか。

まずは、前後の脈絡を思い出してみたい。該当の「エピローグ」が物語るのは、一連の事件がドミートリーの有罪判決で終わった5日後のことである。この日、判決の2日後に亡くなったイリューシャの葬儀が行われる。家の前では、すでに十二人ほどの少年たちがアリョーシャを待ち受けており、やって来たアリョーシャに、コーリャが、お兄さんは無実なのか有罪なのかと真顔で尋ねる。これに対してアリョーシャは、「殺したのは召使(スメルジャコフ)で、兄は無実だ」と明言する。それを受けた二人のやりとりの部分を、亀山訳、原卓也訳の順で(大差がなくて恐縮だが)引用してみる。

なお、以下で引用・参照するテキストを一括してここに掲げておこう。

・亀山郁夫訳:光文社古典新訳文庫第5巻(2007年第1)

・原卓也訳:新潮文庫下巻(2004年改版(文字が大きくなった版)初版=1978)

・江川卓訳:集英社版世界文学全集第46(1979年刊)

・英訳:The Brothers Karamazov, trans. by R.Pevear & L.Volokhonsky, Farrar,Straus and Giroux, 2002 (初版=1990)

・ロシア語原文:http://az.lib.ru/d/dostoewskij_f_m/text_0130.shtml

(Lib.ru/Классика)

では、亀山訳から。

@亀山訳(42)

〈 「それじゃあ、お兄さんは真実のために、無実の犠牲者として死ぬわけですね!」コーリャが叫んだ。「たとえ死んでも、お兄さんは幸せです! うらやましいぐらいです!」

「まさか、どうしてそんな、いったいなぜ?」アリョーシャは驚いて叫んだ。

「だって、ぼくもいつかは、自分の命を真実のために捧げることができたらって願っているからですよ」コーリャが熱をこめて言った。

「でも、こんな事件じゃなくたって、こんな恥さらしなことじゃなくたって、こんな恐ろしいことじゃなくたっていいでしょう」アリョーシャが言った。

「もちろん……人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね。でも、恥っさらしになったからって、ぜんぜん気になんかしませんよ。だって、ぼくたちの名前なんて、いずれ消え去ってしまうんですからね。ぼく、お兄さんを尊敬してるんです!」 〉

A原訳(638)

〈 「それじゃお兄さんは、真実のために無実の犠牲になって滅びるんですね!」コーリャが叫んだ。「たとえ滅びても、お兄さんは幸せだな! 僕は羨みたいような気持です!」

「何を言うんです? よくそんなことが、いったいなぜです」アリョーシャはびっくりして叫んだ。

「ああ、僕もせめていつの日か、真実のためにこの身を犠牲にできたらな」コーリャが熱狂的に言い放った。

「でも、こんな事件でじゃなくたって、こんな恥辱や恐怖なぞなくたっていいでしょう!」アリョーシャは言った。

「もちろんですよ……全人類のために死ねればと思いますけど、恥辱なんてことはどうだっていいんです。僕らの名前なんか、滅びるにきまってるんですから! 僕はお兄さんを尊敬しますよ!」 〉

 注目して頂きたいのは下線部のコーリャのセリフだが、この箇所で両者に違いはない。江川訳、英訳も同様である。これも下線部のみ引用し、最後にその原文を掲げよう。

江川訳(498)

ぼくはできたら全人類のために死にたいんです。〉

英訳(769)

I should like to die for all mankind,

ロシア語原文

Я желал бы умереть за всё человечество,……A

(ついでながら、Aの原訳で波線を施した「滅びる」の原語(不定形)は3箇所とも «погибнуть» であり、下線部の「死ぬ」の原語 «умереть»とは異なる。これを江川訳(498)も原訳と全く同一に訳し分けており、上記の英訳(768-769)もそれぞれ、«perish»«die»とで使い分けている。

 以上のように下線部はどれもほぼ同一の訳であるが、問題はこのあとである。葬儀が終わったあと、イリューシャの家の近くの大きな石のそばで、アリョーシャは、少年たちを前にして短い演説をする。アリョーシャはまずイリューシャについて語り、よい思い出の大切さを訴えて、先ほどの下線部のコーリャのセリフに言及する。その箇所を亀山訳、原訳で引用しよう。

B亀山訳(58)

〈さっきコーリャ君は、『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが、そういう人たちを(…)〉

C原訳(653)

〈さっきコーリャが叫んだみたいに『僕はすべての人々のために苦しみたい』と言う人たちを(…)〉

 先の@とAでは、下線部のコーリャのセリフに違いはなかった。だが、それを受けてアリョーシャが引用するコーリャの言葉はBとCで明らかに異なっている。これはいったいどういうことか。原訳が単にここで訳し方を変えているということなのか。ここでも下線の箇所を、江川訳、英訳、そして原文で挙げてみよう。

江川訳(505)

〈 『ぼくは万人のために苦しみたい』 〉

英訳(774)

I want to suffer for all people

ロシア語原文

"Хочу пострадать за всех людей" 〉……(B

ご覧のとおりである。ここの原文(B)は、一見して先の原文(A)とは異なる。使われている語彙からして違っている。つまり、Cの原訳は、ロシア語原文(A)を恣意的に訳したものでは決してない。ここの原文は(B)であり、原訳はそれを忠実に訳しているのである。そして、それは、江川訳でも、英訳でもまったく同様である。(なお、岩波文庫の米川訳も同じで、それぞれを忠実に、〈僕は全人類のために死ぬことを望んでるんです。〉、〈『すべての人のために苦しみたい』〉と訳している(第4巻392頁、403)。)要するに、アリョーシャはここで、コーリャのセリフをそのまま引用するのではなく、それを自分の言葉で言い換えて引用しているのである。

では、なぜ、亀山訳はBで、(B)を原文のままに訳さずに、コーリャの元のセリフに戻して訳したのか。これは、単なるうっかりミスなのか。「さっきコーリャが叫んだ」という句に惑わされて勘違いしただけなのか――。だが、(A) (B)とが異なることは、誰が見ても、見違えようがない。であれば、これはひょっとして、勘違いではなく、訳者が意図的におこなったことではないのか。そういう疑いが生じる。この疑いは、上のBの前後の文脈を読めば、さらに色濃くなると思う。以下にその部分を亀山訳で引用しよう。前述のように、よい思い出、特に子供のころのよい思い出の大切さを強調したあとに、アリョーシャはこう言葉を続ける。

D亀山訳(58-59)(長いので途中をすこし端折りました。)

〈もしかしたら、ぼくらはこれから悪い人間になるかもしれません。悪いおこないを前にして、踏みとどまれないときがくるかもしれません。他人の涙を笑ったりするかもしれません。さっき、コーリャ君は、『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが、そういう人たちを、意地悪くからかったりするかもしれません。でも、ぼくらがどんなにか悪い人間になっても(…)こうしてイリョーシャを葬ったことや(…)石のそばで、ともに仲よく話しあったことを思い出したら(…)いまこの瞬間、ぼくらがこれほど善良な人間であったことを、心のなかであざけることなんてできないでしょう!〉

この亀山訳を素直に読み、理路をたどるとどうなるか。亀山訳では、〈コーリャ少年は「全人類のために死にたい」と叫んだが、その純粋な気持ちを大人になっても嘲ってはいけない〉とアリョーシャが説いていることになる。端的に言えば、子供たちを前にしたこの演説で、アリョーシャは、コーリャのこの言葉と気持ちを暗にそのまま肯定していることになってしまうのである。

ところが原典ではどうか。実際には、コーリャのこの言葉をアリョーシャは「すべての人々のために苦しみたい」と言い換えて、それを肯定しているのである。では、なぜアリョーシャはこのように言い換えたのか。それは、コーリャの言葉をそのままに肯定することに抵抗があったからだと考えられる。確かにコーリャのセリフには少年らしい純粋さが表れている。だが、明敏なアリョーシャはそこに純粋さゆえの危険性も感取している。そこで、アリョーシャは少年たちの前でこの言葉を取り上げるに及んで、巧まず自分の言葉に置き換えることになったのではないか。つまり、この言い換えでアリョーシャは、コーリャの未熟な過激性をやんわりとたしなめているともとれるし、そこに彼の優しい包容力を感じとることもできよう。さらに、アリョーシャのこの言い換えには明らかに宗教的な祈りが込められているとも感じられる。これに宗教的な響きがあることは、原訳、江川訳、また、英訳の訳文からもうかがい知れるが、原文を見ればそれはいっそうはっきりする。

原文(B)には、(A)«умереть»(死ぬ)にかわって«пострадать»(苦しむ)という単語が使われているが、これと同根の語に«страсть»という名詞がある。そして、この語は、岩波ロシア語辞典、また、ネット上の辞書で調べると、英語の«passion»に相当する単語であることが分かる。英語の«passion»には「情熱」と並んで「受難」の意味があるが、«страсть»もまったく同様である。ただし、「受難」の意で用いるのは複数形に限るとされ、用例として、«страсти Христа»(キリストの受難)が挙がっている。バッハの「マタイ受難曲」のタイトルも«Страсти по Матфею»となるとのこと。(ただし、この用法はすでに廃れており、「苦痛、苦しみ」を表す名詞としてはこれも同根の«страдание»という語が使われているようだ。)

以上のことから、上のアリョーシャの言い換えに、キリスト教の「受難」を想起しても決して不当なことではないと分かる。つまり、アリョーシャは(そして作者は)この言い換えに宗教的な祈りを込めたのだろうと推測がつく。ところが、である。亀山訳は、あろうことかそれを、「人類全体のために死ねたら」と、政治的な響きを帯びた言葉に置き換えたのである。そうして、その言葉を発したコーリャをアリョーシャに肯定させているのである。なぜそんなことをするのか。それはひょっとして自説に沿わせるために意図的にそうしたのではないのか。そんな疑いが湧き起こってくる。

その疑いについて敷衍する前に、コーリャの発したこの言葉の政治性について、ひとこと付言しておきたい。これに政治的な響きのあることは、最初に挙げた@ないしAの引用だけでも感じ取れるが、江川訳には、これに次のような注が施されている(524)

〈全人類のために死にたいんです……フランスのジロンド派の政治家ヴェルニョーの言葉の引用で、ツルゲーネフもこの言葉を評論『「父と子」について』で使っている。〉

江川訳の注はソ連時代のアカデミー版全集によったと見られるが、この人物についてさらに、小学館日本大百科全書等の記述を要約してみよう。

〈ヴェルニョー(ベルニオー Vergniaud)1753年の生まれ。雄弁家として名を馳せ、フランス革命のジロンド派の政治家として、しばしば弁論でロベスピエールと対決した。1793年、革命裁判所および公安委員会の創設に反対し、山岳派(この中核がジャコバン派)によって国民公会から追放され、なおも同派の独裁を告発し続けたが、逮捕され、同年10月末に断頭台に消えた。〉

この事実を念頭にコーリャがこの言葉を叫んだ(つまり、作者がコーリャに叫ばせた)とすれば、そこに政治性が潜んでいることはいよいよはっきりしてくるのではないだろうか。

なお、上のアリョーシャの言い換えについては、«умереть»(死ぬ)を«пострадать»(苦しむ)に変えたのに加えて、もう一つ改変がなされていることにも注意したい。それは、単数扱いの«человечество»(人類)から、複数扱いの«люди (людей)»(人々)への変更である。(A)でコーリャは «за всё человечество»(全人類のために、for all mankind)と言っていた。それをアリョーシャは(B)«за всех людей»(すべての人々のために、for all people)と言い直しているのである。この点については、私同様に一市民の立場から、亀山郁夫氏を鋭く批判している木下和郎氏のブログ「連絡船」(2008102日の記事の第2節)でも取り上げられている。

http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama/kameyama(8).html を参照。)

そこで指摘されているとおり、コーリャの使う、いわば人間を十把一絡げにして地に足の着いていない、いかにも抽象的な「全人類」という概念を、アリョーシャは、「すべての人々」という、一人一人の顔の見える具体的な存在に置き換えているのである。そして、それをも無視して亀山訳は、「人類全体のために死ねたら」(ないし「全人類のために死にたい」)というコーリャのセリフを、アリョーシャにそのまま繰り返させ、肯定させてしまっているのである。

こんな「改ざん」をしているのはむろん亀山訳だけであるが、これについては、さらに重大な問題がある。それは、亀山訳を信じて読んだ場合、読者は、アリョーシャがここでコーリャの言葉を言い換えていることに、当たり前の話だが、まったく気づくことができないということである。他の正しい訳であれば、この箇所で立ち止まり、いろいろ思いをめぐらすこともできる。なぜアリョーシャはコーリャのセリフを言い換えたのか、などと。そして、それは間違いなく作者ドストエフスキーが望んでいたことでもあろう。読者からその機会を奪い、作者の願いも踏みにじる。それを改ざんは引き起こす。だから、改ざんはこれに限らず決して許されないのである。

にもかかわらず、亀山郁夫氏はなぜそんなことをあえてするのか。そこには何か意図があるのではないのか。ひょっとして、これは自説に合わせるための細工ではないのか。ここでわれわれは先の疑いに立ち戻る。

端的に言おう。この疑いが向けられている「自説」とは、他でもない、アリョーシャとコーリャたちの未来をめぐる氏の言説のことである。

新訳『カラマーゾフの兄弟』が完結して二か月後の20079月、亀山氏は、『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』と題する新書を出された。周知のように、この大長編には、物語に先だって「作者より」という前書きが置かれている。ここで「作者」と呼ばれているのはこの物語の虚構の語り手のことと考えるべきであるが、それによれば、この物語は主人公アリョーシャの伝記の前編(第一の小説)をなすものであり、今から十三年前の出来事であるが、大事なのは主人公の今(つまり十三年後)を描く後編(第二の小説)であると断られている。ところが、現実の作者ドストエフスキーはこの前編を完成させて間もなく亡くなり、結局、後編は書かれなかった。その書かれなかった後編(つまり続編)を大胆に空想してみようというのがこの新書の趣旨である。この構想は、「あとがきに代えて」によれば、翻訳の途中から芽生え、新書の出版も早々に決まっていたようだ。

さて、この十三年後については、アリョーシャは皇帝暗殺者になるのではないかという噂や証言が当時からすでにあり、江川卓氏も『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(1991年刊)でこの件に触れて、皇帝暗殺の実行犯はコーリャで、アリョーシャはその思想的黒幕ないし教唆者として処刑されるのではないかと述べている(128頁、279頁など)

一方、亀山氏は、ドストエフスキー文学を解くキーワードとして「使嗾(しそう)」を前々から挙げている。このことから、氏も、江川氏同様に、実行犯はコーリャで、アリョーシャは使嗾者と想定しているかと考えたのだが、氏の新書を読むと、これはすこし早呑み込みだったようである。ただし、疑いの方向は変わらない。これについて以下に説明していきたい。

亀山氏の「空想」をここで詳述することはできないので、肝心のところだけ要約してみよう。亀山氏によれば、コーリャは秘密結社を組織して皇帝暗殺を企て、その象徴的存在とすべくアリョーシャを訪ねる。二人はテロルか融和かをめぐって議論する。これに続いて、新書218頁にはこうある。

〈議論の終わりに、アリョーシャはコーリャに無言のキスを与える。コーリャはそのままN市に戻る。〉

さらに242頁にはこう記されている。

〈半年後、いよいよテロの決行のときを迎える。ところが決行を目前にして、とつぜんアリョーシャが姿を現し、コーリャは思わず、胸に秘めていた暗殺計画をほのめかすと、アリョーシャは無言のまま、去っていく。皇帝列車爆破を予定していた日の前日、深更、皇帝直属第三課による家宅捜査が入り、全員が逮捕される。二ヶ月後、裁判が開かれる(アリョーシャはメンバーのために弁護台に立つ?)。コーリャに対して有罪判決が下る。〉

また、「あとがきに代えて」(274)ではこうも書かれている。

〈アリョーシャは皇帝暗殺者にはなりえない、ただし皇帝暗殺やむなしという考えにいたる〉

 曖昧な点も多々あるが、亀山氏は、十三年後、コーリャが皇帝暗殺を企て、アリョーシャは結局それを黙許ないし黙過すると、この新書で想像しているようだ。すでにお分かりと思うが、これは、亀山訳で、「エピローグ」の恣意的な改変によって、「人類全体のために死ねたら」というコーリャのセリフがそのままアリョーシャによって暗に肯定されてしまったのと軌を一にする。そして、原文(B)を無視してこのような改変がなされたのは、このアリョーシャ黙許の自説に沿わせたいという思いが勝ったためではないのか。これが疑いの正体である。コーリャのセリフの政治性に鑑みれば、このセリフは、将来コーリャが死を賭して独裁者に刃向かうことを暗示しているとも受けとめられ、亀山訳ではそれをそのままアリョーシャが是認していることになるのである。

 疑り深いと思う読者もあるかもしれない。だが、疑うに足る根拠がある。というのも、自説のために亀山氏が原文を歪めた例はこれだけではないからである。以下にそれを見ておこう。その一つは、他ならぬこの新書の中で亀山氏自身によってひけらかされている。

 『カラマーゾフの兄弟』第四部で、十四歳のリーザは、婚約者であったアリョーシャに、イワンへの手紙(ラブレター)を託す。そして、アリョーシャを追い出した後でリーザは、隙間に指をはさんでドアを閉めて、自分の指をつぶす。そのときリーザがつぶやいたセリフを亀山氏はこう訳したと新書の中で披露している(196)

〈「ああ、わたしって、なんていやらしい、いやらしい、いやらしい、いやらしい!」〉(亀山訳第4巻212頁)

 この指づめ行為を、亀山氏は、リーザの自傷願望、マゾヒズム性の証、またおそらくは「異端派」にまつわる暗示であるとして、こう言葉を継ぐのである。(以下、新書197頁からの引用。)

〈ここはいささか妄想めくが、もしかしたら彼女には、自慰でもたらされる興奮に由来する原罪意識があったと見ることもできるのではないか……。

 翻訳するにあたって、わたしはここで引用した最後のセリフ、つまり「わたしって、なんていやらしい――」以下の部分を、あえて〈意訳〉した。原語では「なんて卑劣な」となるのが第一義で、先行訳もおおむねそちらをとっている。しかし、それでは印象が散漫になり、リーザの内面から発せられる肉感的な叫びが伝わらない。そこで、あえて確信犯的に意訳を試みたのだ。〉

 この言を読者はどう思われるであろうか。なるほど、「卑劣な」と「いやらしい」ではずいぶん印象が違う。同じ嫌悪の表現でも、前者が倫理的なものであるのに対して、後者は明らかに性的な響きを帯びている。では、リーザのセリフの原文はどうなっているのか。こうである。

ロシア語原文

-- Подлая, подлая, подлая, подлая!

ここで使われている«подлый»( подлаяはその女性形)を研究社露和辞典で引くと、「@(a)卑劣な、きたない;〈表情などが〉卑劣そうな (b)《俗語》劣悪な A《旧》下賤の出の;下賤の出の人間らしい」と語釈されている。そしてこの語に当てた原訳(193)の訳語は「恥知らず」。以下、江川訳(274)は「悪い女よ」、米川訳(第4巻54)は「恥知らずだ」。そして英訳(585)はこれに「mean」の訳語を当てている。それぞれ訳語を選ぶのに工夫しているようだが、どれも原語の「卑劣な」というニュアンスから離れるような訳語は採用していない。ところが、亀山訳はこれに、原語にはない性的なニュアンスをにおわせる「いやらしい」という訳語を当てているのである。そして、それをみずから「確信犯的な意訳」だと豪語している。つまり、自分の解釈に合わせて意図して誤訳し、その行為を誇っているのである。

 断っておくが、ここで問いたいのは、亀山氏の解釈の当否ではない。問いたいのは、原文を、自分の解釈に沿うようにあえて歪めて訳すというその行為である。なぜ、小説の本文の中でそんなことをするのか。翻訳はいったい誰のためにあるのか。それは一義的には、原文を読めない読者のためではないのか。原文は読めないが、できるだけ原典に近づきたいと願う読者のためにあるのではないのか。「超訳」と銘打った翻訳ならいざしらず、ドストエフスキーの読者の誰がいったい、「確信犯的な意訳」という名の恣意的誤訳をおこなってほしいと望んでいるのか。ここは原語のとおり、「卑劣な」のように訳し、その上で、後書きないし解説で自説を開陳すればよいではないか。なぜ、それができないのか。そうすれば、そこで読者はその解釈の当否を自分で判断できる。しかし、物語の本文が勝手に改変ないし改ざんされていては、原文の読めない読者は手も足も出ない。(ちなみに、当該の第4巻にこれに関する解説はなく、リーザの指づめに触れた第5巻の「解題」(300)にも「確信犯的な意訳」をしたとの断りはない。)

 さらに言おう。新訳『カラマーゾフの兄弟』が刊行されたのは、20062007年のことであるが、亀山氏がドストエフスキー関係でこの手の改変をおこなったのは、これが初めてではない。2005年に氏は『『悪霊』神になりたかった男』を出された。そこで、亀山氏は、少女マトリョーシャの折檻シーンを取り上げて、彼女をマゾヒストとする持論を繰り広げているが、その際に、その箇所の原文を自説に沿うように捻じ曲げて訳出して、説明に利用しているのである。これについては、2006年に木下豊房氏から厳しく指弾されたのを受けて、新訳『悪霊』(2011)においても、『謎とき『悪霊』』(2012)においても、氏は訳文を改めている。ところが、それではすまなかった。同じ『謎とき『悪霊』』で、なおもこの持論を温存するために、「スタヴローギンの告白」の三つの異稿から折檻シーンの異同を利用するにあたって、氏は、自説に不都合な2番目の稿に関して、1番目の稿に該当する部分の訂正はない(すなわち、1番目の稿と同じ)と虚偽の叙述をおこない、その訳文も原文も引用しないのである。(実際には第2稿のこの部分には、作者によって重要な加筆が施されている。)

なお、上記の木下氏の指弾については以下を参照。

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost118a.htm

『謎とき『悪霊』』の問題点については、当サイトに掲載中の「亀山郁夫著『謎とき『悪霊』』の虚偽を問う」、ないしは、これを圧縮・再構成した下記のアマゾン・レビューを参照いただきたい。

https://www.amazon.co.jp/review/R3LWQV8MCHL514/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=4106037130&channel=detail-glance&nodeID=465392&store=books

以上が、亀山氏がアリョーシャの言い換えにおいても、自説に合わせて「確信犯的な意訳」つまり「改ざん」をおこなったのではないかと疑う根拠であるが、最後にもう一つ付け加えよう。

この「改ざん」については、始めに述べたように、木下豊房氏の論文「亀山郁夫氏の「踏み越え」(«преступление»)」の中で20082月にすでに指摘されている。そしてこの論文は、「一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」に合わせて公開されたものであった。一方、亀山氏は、翌3月の新訳第1巻第22刷でこの「点検」の指摘をなぞって誤訳を訂正している。(なお、氏は1月の第20刷でも、2007年末に公開された「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」をなぞって第1巻に誤訳訂正を施している。訂正箇所は合わせて45箇所。)明らかに、亀山氏はこのサイトを訪問し、誤訳批判に目を通しているのである。当然その際に、木下氏の論文も読んでいるはずである。にもかかわらず、そこで指摘されたこの重大な誤りを亀山氏はその後もずっと訂正してない。(先日、市内の書店で新訳第5巻を確認したところ、すくなくとも2013年の第17刷では未訂正であった。)ケアレスミスであったのならすぐにでも直したらよかろう。だが、亀山氏は直さない。直すつもりがないのである。この事実も、これが単なるケアレスミスでなく、亀山氏による意図的な改変、つまり自説に合わせた「改ざん」であることの証拠になろう。そして、亀山訳の読者は、この箇所でいまなお、この「改ざん」をそれと知らずに、作者がそう書いたものとして受けとめることを余儀なくされているのである。それは訳者として、そして、学者として許されることなのか。否。そんなことが放置されていいはずがない。今回私が改めてこの「改ざん」を取り上げておく必要を感じた理由もそこにあった。

***

さて、以上が今回の小文の本題であるが、せっかくの機会なので、ここで十三年後のアリョーシャについてすこし考えてみることをお許し願いたい。

先の引用のようにアリョーシャは、「エピローグ」の石のそばでの演説で、少年たちが大人になったときのことについて言及していた。そのことから、この箇所とその前後に、続編への伏線が張られているのではないかと想像することはあながち間違ったことではないと思われる。そしてその場所で作者は、「全人類のために死にたい」とコーリャに叫ばせたうえで、アリョーシャにそれを「すべての人々のために苦しみたい」と言い換えさせているのである。先にも述べたように、コーリャのセリフはその政治性から、十三年後、26歳になったコーリャが、死を賭して独裁者に立ち向かうことを暗示していると想像することもできる。これを亀山訳は、アリョーシャが暗にそのまま肯定してしまう形に「改ざん」していた。だが、実際には、作者はそうはせずにこれをアリョーシャに言い換えさせたのである。では、そこで発した「すべての人々のために苦しみたい」という言葉の宗教性をアリョーシャの十三年後に引きつけて想像してみるとどうなるか。このセリフにイエスの受難がオーバーラップしていることはすでに述べた。そしてイエスはまさに人々の罪を背負って受難したのであった。であれば、アリョーシャは? イエスと同じく33歳になったアリョーシャも、人々の罪を引き受けて受難するのではないだろうか。そしてその罪とは、直接には、死を賭した企てに対してコーリャたちに負わせられたはずのものであったのではないか。

以上はまったくの素人の想像である。実際にドストエフスキーがここに十三年後の伏線を張っていたとして、それが何を暗示するものであったか。作者が続編を書かずに死んでしまった以上、それは永久に分からない。だが、作者が残したテキストに従って想像してみる自由は私たちに与えられている。また、先述のように、なぜアリョーシャはコーリャのセリフを言い換えたのかと、登場人物の立場からここであれこれ思案してみることも読者にはできる。ただしそれもこれも、原テキストが正しく訳されてあってのことである。読者にとっても作者にとっても大切なその機会を、亀山訳の「改ざん」が奪った罪はやはり重いと感じられる。

ところで、亀山氏の『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』には終章の末尾に次のような一文がある(259)

〈「第二の小説」における「物語層」のストーリーは、コーリャの皇帝暗殺計画と、それにかかわるアリョーシャの人間的「成熟」の物語となる。〉

この考え、特に、「第二の小説」でアリョーシャの人間的な成熟が描かれるという考えについては、「第一の小説」の冒頭に置かれた「作者より」で、この物語はアリョーシャの伝記であると宣言されているのだから、大方の異存はないだろう。ただし、亀山氏のこの新書では、アリョーシャがどう成熟するのかは具体的に想像されていない。そもそも、皇帝暗殺やむなしという考えにいたったアリョーシャがコーリャの暗殺計画を黙過するという氏の空想は、アリョーシャの人間的成熟に結び付きにくい。

では、残された「第一の小説」に、アリョーシャの具体的成熟を暗示するものは何もないのだろうか。これについて最後に考えてみたい。考える糸口となったのは、ある疑問である。それは、重要な登場人物の一人、スメルジャコフにかかわる。まずはここから始めよう。

アリョーシャが心優しい素晴らしい青年であることはいうまでもない。けれども何度かこの小説を読み返すうちに私は、彼について一つの疑問を抱くようになった。スメルジャコフに対する彼の態度のことである。いったいなぜアリョーシャはあんなにもスメルジャコフに対して冷淡なのか。

これが糸口になった疑問であるが、こう思うようになったのには理由がある。それは、読み返すたびに、スメルジャコフに対する同情の気持ちが私の中に募ってきたからである。一見すると彼は根性のねじまがった唾棄すべき人物と見える。だが読めば読むほど、彼がそうなったのは、私生児として彼の置かれた劣悪な環境、そしてそこで受けた差別のせいではないのかと感じずにはいられなくなる。ドストエフスキーは晩年に「偶然の家族」の問題を繰り返し取り上げている。「偶然の家族」とは、個人雑誌「作家の日記」(18777-8月号)の説明によれば、〈人と人また家族と社会とを結合するところの普遍的理念を喪失した父親の無責任(また無思慮と怠惰)のために、子供たちの命運が偶然性にゆだねられているような家族〉のことである。それにしたがえば、『未成年』のアルカージイの家族もそうだが、カラマーゾフの一家も典型的な偶然の家族であり、三兄弟はそれぞれにその被害者であるといえる。だが、もう一人ここに忘れてはならない人物がいる。スメルジャコフである。この召使の父親は誰なのか。スメルジャコフの父親が噂どおりフョードル・カラマーゾフであるのなら(スメルジャコフ自身はそう信じていると思われる)、彼こそはこの偶然の家族の最大の被害者ではないのか。いや、仮にフョードルが父でなかったとしても、スメルジャコフが名も知れぬ父親の無責任の悲惨な犠牲者であることに変わりはない。

ところで、なぜこのようにスメルジャコフこそは最大の被害者ではないのかと思うに至ったかというと、それは、よく読めばそう読めるように作者が書いているからとしかいいようがない。そして、そこからあの疑問が湧き起こったのである。では、なぜ、そのことに、他の登場人物ならともかく、あの明敏で心優しいアリョーシャが気づかないのか。なぜアリョーシャはスメルジャコフにかくも冷淡なのか。――他者に対するアリョーシャの共感力はとびぬけて高い。しかもスメルジャコフは、自分の異母兄ですらあるかもしれない。だのにアリョーシャはスメルジャコフの内面に同化しようとしない。それはいったいなぜなのか。これが私にとって長く謎であった。

こういう疑問を抱いていた私に強い刺激を与えてくれたのが、昨年8月に出版された木下豊房氏の『ドストエフスキーの作家像』であった。その第3章「作品における作者の位置」には次の二つの論文が収められている。

・「スメルジャコフの素顔、もしくはアリョーシャ・カラマーゾフの咎について ―― 倫理と芸術のアポリア」

・「仮の作者と真正の作者 ―― 『カラマーゾフの兄弟』の序文「作者より」の意味するもの」

(なお、前者は当サイトの「木下豊房ネット論集」にも収められている。)

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost131b.htm (当該論文)

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost200.htm (論集の目次)

驚いたことに、そこには、私の長年の疑問が、専門家の広い視野をもってはるかに精緻に分析され提示してあったのである。そして、前者を受ける形で書かれた後者(「仮の作者と真正の作者」)において私は次の指摘に遭遇したのである。

〈アリョーシャはスメルジャコフに対して心を開いた態度で接するのを、作者によって、固く禁じられている。そこには語り手的仮の作者の明らかな傾向性が感じとれるのではないだろうか。〉(上掲書208頁)

〈アリョーシャには、スメルジャコフの身の上に率直に反応するのを、作品内の教訓的な作者によって厳しく禁じられている……〉(同210頁)

これを読んで私ははっとした。この物語の中で出来事を語っているのは「作者より」で「作者」と呼ばれている仮の作者つまり虚構の語り手であるが、その語り手を操っているのは、他ならぬ真正の作者つまりドストエフスキーである。それを踏まえて振り返ってみよう。

先に私は、なぜアリョーシャはスメルジャコフに対して冷淡なのかと問うた。それが長いあいだ謎であった。ところが、その問いの答えは木下氏の上記引用文に示されていたのである。なぜ冷淡なのか。それは、語り手、そしてひいてはその背後にいる作者が、アリョーシャに対して、スメルジャコフに共感することを禁じているからである。

翻って、なぜ私は上の疑問を持つに至ったか。それは、スメルジャコフに同情するようになったからであった。彼こそは「偶然の家族」の一番の被害者ではないか、と。そして、そう思うようになったのは、よく読めばそう読めるように書かれているからだと述べた。(それを例証、詳述する力は私にはないが、これについては木下氏の上記論文「スメルジャコフの素顔」で精緻な分析がなされているので是非ご覧いただきたい。)

以上を総合するとこういうことである。作者ドストエフスキーは、よく読めば読者が同情するようにスメルジャコフを描いた。一方で作者はアリョーシャを、とびぬけた共感力を持ちながらスメルジャコフには同情しない人物として造型した。だから、読者は、なぜアリョーシャはスメルジャコフに同情せず冷淡なのかと疑念を抱くようになる。そこにアリョーシャの「咎(とが)」があるのではないか? と、そう疑う。然り。そういう咎があるように作者はアリョーシャを造型しているのである。すでに人格の完成されたあのアリョーシャにもそのような咎、言い換えれば不完全さがあることが、よく読めば分かるように作者は書いているのである。そういうことになる。

では、なぜ、作者はそんな造型をし、そんな書き方をしたのか。それは、続編の構想があったからではないだろうか。いくら老成し人格が完成していると見えてもアリョーシャはなんといってもまだ若々しい二十歳の青年である。これからさらに彼は様々な経験を積むだろう。人を愛し傷つき苦しむこともあるだろう。そして、それを描くのが続編だとすると、アリョーシャには、いつの日か、スメルジャコフのことをスメルジャコフの身になって思い出し、そうして、まさに若き日の自分の咎について自ら思い至り思い知る、そんな契機が訪れるのではないだろうか。それはアリョーシャの人格をさらに一段高いレベルに引き上げるきっかけにもなるだろう。

これこそが、この「第一の小説」で作者が、アリョーシャにあたかもスメルジャコフに対して心を開くことを禁じた理由ではないか。アリョーシャがスメルジャコフに対して冷淡である理由。それは、登場人物の立場からいえば、彼がまだ未成熟であったから。そして、若いアリョーシャをそのように造型した作者の立場からすれば、それは、「第二の小説」でアリョーシャの人間的な成熟を描破し、苦難と経験を経て無差別の愛の真の実践者となった彼の姿を、読者に届けるためであったのではないだろうか。

素人の私は、このように十三年後のアリョーシャを想像しました。ご参考になる点があれば幸いです。