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亀山郁夫氏の『悪霊』の少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す

 

                          木下豊房   (2006.1/3)

 

亀山郁夫氏の著書「『悪霊』神になりたかった男」が、近来の話題作であることは間違いないだろう。私の記憶する限りでも、朝日新聞で二回にわたって(文芸欄と読書欄で)とりあげられているし、本会の会員の間でも話題になり、議論の的となっている。私も遅まきながら、先日、書店で買って読んでみた。まず、本造りのテクニックに感心した。仮想現実の「理想の教室」という設定で、予備知識のない読者、高校生にでも面白く読ませるという仕掛けである。「第一線の研究者・専門家が講師」というふれこみのシリーズであるから、その点で、NHKテレビのロシア語講師として名を知られる東京外国語大学教授、スターリン時代の芸術家の悲劇を描いた著書で、大佛賞を受賞、NHKブックスで、2004年にはドストエフスキーに関する上下巻の大著を刊行した亀山氏の右に出る者は、いまのロシア文学界にもまずいないであろう。

 その亀山氏が、「スタヴローギンの告白」に新しい解釈を打ち出した、とりわけ少女マトリョーシャの存在について、氏いうところの、「これまで私が見たどの研究書に文献にも述べられることのなかった新しい真実」(102)を解明したというのだから、話題にならないはずがない。その「真相」に「私はひっくりかえりそうになった」と朝日の文芸欄の筆者がのべていたのもいつわらざる感想であったろう。

それほど、衝撃的な解釈とは何か?私の関心もそこに集中せざるを得なかった。問題はマトリョーシャが母親に折檻される場面で、「マトリョーシャの鞭打ちにも声をあげなかったが、打たれるたびになにか奇妙な声をあげて泣いていた。それからまる一時間まるまる大声で泣きじゃくるのだった」という一節の翻訳とその解釈にかかわる。亀山氏はこのゴシック体で強調している訳語をもとに、12歳の少女(亀山氏はなぜか14歳としている)マトリョーシャがマゾヒスト的な快感をおぼえていたと、衝撃的な解釈を提起しているのである。

ところで、亀山氏が訳文をゴシック体で強調し、なおロシア語の引用したロシア語原文のその個所をイタリックにしているのは氏の作為であって、ロシア語原文にはないし、次に見るように、他の日本語訳にも見られない。なお、亀山氏はこの個所の訳に関し、自分の訳と英語訳の二つのバージョンを対比しているが、日本語の先行訳については何故か、ひと言も触れていない。

ロシア語原文を参照する前に、日本語の先行訳では、この個所がどうなっているか見ることにする。

河出書房新社版・米川訳=「マトリョーシャは折檻では泣かなかった。おそらく余が傍にいたからだろう。けれど、一打ちごと何か奇妙なしゃくり声を立てた。それからあとでまる一時間も、烈しくしゃくり泣き続けた

新潮社版・江川 卓訳=「マトリョーシャは打たれても声をあげなかった。おそらく、私がその場に居合わせたからだろう。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた

筑摩書房版・小沼訳=「マトリョーシャは打たれても声を上げなかった。おそらく私がそこにいたからに相違ない。だが打たれるたびになんだか奇妙なすすり泣くような声をもらすのだった。そのあとでまる一時間ものあいだ、はげしくしゃくりあげるようにして、泣いていた

先行訳のなかで、癖のない自然な訳と思われるのは、米川訳と江川訳で、共に、「しゃくり声」、「しゃくり泣き」、「泣きじゃくり」にアクセントが置かれている。この個所で、2回重ねて使われている「泣きじゃくり」の訳(上記、先行訳、下線部)に該当するロシア語は、всхлипывать で、この言葉にはあいまいな解釈をゆるさない厳密な意味がある。

私達、ロシア文学研究者が共通に使い、このような微妙な個所に訳を付ける場合に、通常、神経質なくらい参照するはずの三種類のロシア語辞典、ダーリ、ウシャコフ、科学アカデミー版四巻辞典で、この言葉の語義がどのように説明してあるかを見てみよう。

ВСХЛИПЫВАТЬ

ダーリ:рыдать как-бы задыхаясь; плакать без рыданий, не голосом, но прерывая дыхание икотой (息を詰まらせるかのようにして泣く、泣き声を立てないで、声もなく、しゃっくりで息を切らせながら泣く)

ウシャコフ:Тихо плакать, прерывисто дыша (息を切らしながら、ひっそりと泣く)

科学アカデミー版:Судорожно вдыхать, втягивать воздух при плаче (泣く際に、痙攣的に空気を吸い込み、引き入れる)ちなみに、всхлипыватьの語幹をなす名詞всхлип の意味は「泣く時に吐き出される音」(「声」でないことに注意!)

さて、このロシア語に対応する日本語訳「泣きじゃくる」は広辞苑によると、「しゃくりあげて泣く」で、「しゃくりあぐ」とは、「声を引き入れるようにして泣く」こと。なお、「しゃくり」は「横隔膜の不時の収縮によって、空気が急に吸いこまれる時に発する特殊の音声。さくり、しゃっくり」

これらロシアの代表的な辞書、そして広辞苑から見えてくることは、亀山氏の「新解釈」にとってキーワードとなる語の訳と解釈は、たいへん疑わしいということである。

ここで、あらためて、亀山氏が自分の「新解釈」の決め手としている個所のロシア語原文とそれに付した彼の訳文をもう一度見てみよう。  

 

Матрёша от розог не кричала, но как-то странно всхлипывала при каждом ударе. И потом очень всхлипывала целый час.

マトリョーシャの鞭打ちにも声をあげなかったが、打たれるたびになにか奇妙な声をあげて泣いていた。それからまる一時間まるまる大声で泣きじゃくるのだった

 

ロシア語テキストの下線を引いた動詞が、今、問題にした動詞であるが、亀山氏はその語義に反して、また先行訳と比較しても、マトリョーシャにしきりに「声」をあげさせ、「マゾヒスト的快感」を感じさせたがっていることがわかる。後段の「大声でなきじゃくる」とは不可能だし、前段の「なにか奇妙な声をあげて泣いていた」の個所は、正確には、「何か奇妙なふうに泣きじゃくっていた」であつて、確かにこの動詞がстранно(奇妙な)という副詞に修飾されていて、何かのニュアンスを付け加える余地があるとはいえ、語義からいって、泣きじゃくりかたの異様さを示すもので、声をあげるどころか、声にならない音、呼吸器の音か、引きつけか、もしく震えの様子を示す可能性のほうが強い。亀山氏の訳が正当化されるためには、原文にも何か声の存在を明示する表現がなければならないが、ここにはそれはない。ここに読みとれるのは、泣くのにも、まともに声も出ないくらい打ちのめされ、ひたすら、しゃくりあげるだけの哀れな少女の姿である。しかもその後、まる一時間も激しく泣きじゃくる(しゃくり泣きする)マトリョーシャがマゾヒスト的快感にひたっていて、それを感じさせる声を発していたとは、とうてい考えられない。ちなみに、『地下室の手記』で、歯痛に快感を覚える男が発するのは стоны(呻き)であって、「しゃくりあげ」ではない。

こう見てくると、亀山氏には自分の「新解釈」を成り立たせるために、少女に出ない声を無理に出させなければならない何らかの理由があったと見るべきだろう。亀山氏は、「アンナ夫人は、折檻のさなか「なにか奇妙な声をあげて」泣くマトリョーシャの「なにか」に気づいていた。その声色に」と書き、「スタヴローギンには聞こえない何かを、ドストエフスキーは聴きとっている。呻き声の下に隠されているなにか、別世界から聞こえてくる何かを」と書いている。少女の声にならない「しゃくりあげ」に「声色」を聴き、「呻き声」を聴くとは土台、無理な話である。ましてそこにマゾヒスト的快楽の感覚を感じとろうとしているのは、ドストエフスキーでもアンナ夫人でもなく、亀山氏以外には誰もいないだろう、日本語の先行訳の読者でも、よほどのことでもない限り難しい。としてみれば、読者は氏の次のような奇妙な自我自讃を何と読みとるべきだろうか。

「これは、「告白」全体、いや、『悪霊』全体、そしてドストエフスキー全体の読みを変えてしまいかねない「発見」です。私はいろんな文献にあたりましたが、誰一人そのことに気づいている人はいません。かりにこれが誤読だとしても、「世界的な誤読だよ」って褒めてくれる人がいるかもしれないとひそかに期待しているのです(笑い)」

ここまで読まされると、亀山氏はかなりの確信犯ではないかとさえ私には思えてくるのである。ここで問題にしてきた引用個所(亀山著、資料14)の直前に、「ロシア語原文のほうはあまり気にしないでください」とさりげなく断りが入れてあるのも、あるいは意図的な暗示であったかもしれない。

「理想の教室」ではロシア語の知識は必要としないのかもしれないが、プロの詐術が深刻な社会問題化している昨今、素人もうっかり専門家を信用していると、とんでもないことになりかねない。いずれにせよ、この問題の個所が亀山氏の意図的な誤訳であるとすれば、氏の「新解釈」なるものの耐震構造は一挙に崩壊する、と私は心配している。

 

亀山郁夫の著書について疑問に思うこと

                          冷牟田幸子  (2006.1/5

 

 

     「テクストというのは、いったん作家の手を離れたが最後・・・独立した自由な生き物になるのです」として、亀山氏は通説にとらわれない大胆な仮説を立て、テクスト、創作ノート、研究書を都合よく引用して客観的根拠とし、「真理」に仕立てあげている。作品をどのように解体しても自由だが、事実を歪曲したり、文献を恣意的に用いることには疑問を感じる。数あるなかから二、三具体例を挙げてみよう。

 

   .「告白」の文書は、「スタヴローギンの告白 ――チーホンの許で――」の章の一部であり、スタヴローギンを論ずるのに、チーホンとの意味深い会話を無視して「告白」に終始するのは問題であろう。そこからは、氏が提示する醜悪かつ傲慢なスタヴローギン像(「みずらが神の立場に立ち、神のまなざしで世界を見つめる快感に酔いしれる」スタヴローギン)を導きやすい。「告白」のもつポリフォニックな側面を考慮しないのだからなおさらである。チーホンとの会話で明らかなように、スタヴローギンは「告白」において素面を隠すために過度に自分を醜悪冷酷に描いている。だが氏は、告白とは「本来的に独白的、モノローグ的」として、スタヴローギンの言葉を額面通りに受けとめ、悪魔的な部分のみを拡大解釈する。スタヴローギンの良心的な一面を表す「(マトリョーシャの像を)呼び起こさずにはすまない」という文章は、氏のテクストであるアカデミー版にもあるのに、氏は「感傷」といい「校正刷ないしアカデミー版の精神からするとほとんど裏切りに近い逸脱」といって取り上げようとしない。氏は、スタヴローギンがなぜ「告白」を書いたのか考えられたことがあるのだろうか。単に自分の悪をひけらかすためではない、悔悟の道としてその公表の苦痛に堪えようとして書いたことを。「「告白」が、口頭ではなく、印刷物をとおして行われるという異様さ」に驚く氏には、「告白」の文書による公表の意味はまったく問題になっていないのであろう。

     

  二、「14歳、危険な年齢」とあるように、亀山氏は終始マトリョーシャの年齢を「14歳」としている。昨今、メディアをにぎわしている「14歳」を意識してのことだろう。しかし、本書のテクストで明記されているのは「10歳」であり、本書を読む限り、なぜ「14歳」なのかと疑う。校正刷では、冒頭マトリョーシャを紹介する個所で「彼らの娘」のあとに「14歳ぐらいだと思うが」の一句があったが消されている。また、「10歳」も校正刷で消されている。ここからわかることは、マトリョーシャは「子どもこどもした娘」であることで十分で、ドストエフスキーは彼女の年齢にこだわっていないということだろう。氏の強引さを感じる。

     

  三、「告白」には、校正刷とその修正、そしてアンナ夫人による筆写版がある。その理由は、『悪霊』の掲載誌の編集長カトコフに、内容が「家庭向きの雑誌にふさわしくない」として掲載を拒否され、スタヴローギン理解の要である「告白」の章を何としてでも作品に入れたいと、ドストエフスキーが、カトコフの意に沿うように加筆削除を施したからである。そのため、スタヴローギンの悪魔的な印象は弱められ、宗教性が強調されることになった。

亀山氏は、「その作業はもはや改作というよりも改悪」であるという。しかし。ドストエフスキーは初めから、「ふさぎの虫のために身を持ちくずしたが、しかし良心的で、生まれ変わってふたたび信仰を持つようになりたいと、受難者のように必死の努力を続けている人間のタイプ」(リュビーモフ宛書簡)としてスタヴローギンを描こうとしたのであって、校正刷の修正は、本来「告白」の章以後で明らかにされるはずの意味づけをかいま見せたにすぎない。「問題の本質をそのままにしておいて編集部の潔癖な方針を満足させる程度に本文を変え」たのである(ソーニャ宛書簡)。修正の結果、「告白」の主人公について「わが国の、ロシアの典型です」とまで言い切ることになるのです」と亀山氏はいうが、この「わが国のロシアの典型です」の一句は、『悪霊』第一部をカトコフに送ったときのドストエフスキーの言葉で、「告白」の章とは関係なく当初からスタヴローギンを規定していることが分かる。亀山氏の固執する上記の醜悪・傲慢なスタヴローギン像は、氏のひとりよがりとしかいいようがない。

またアンナ夫人の介在の可能性が否定できないことも、氏が修正の大きい筆写版を斥けた理由の一つにしているが、それは無用の憶測であろう。ドストエフスキーはマイコフ宛の手紙で「小生の仕事に関しては(アンナは)審判者ではありません」といっている。彼女の関与は考えられない。氏も認めているように「私が頭のなかで抱いているスタヴローギン像により近いほうを選」んだというのが実情だろう。自分のスタヴローギン像の肉付けに都合がよければ、ためらうことなく筆写版からも引用しているのであるから。

     

以上のことからも分かるように、筆者のイメージがすべてに先行している。初めに結論ありきで、しかも、その結論が「真理」として読者を納得させるように、論拠として文献が巧みに用いられている。ここでは、さまざまな工夫をこらした知的な作品が、極めて単純化されてしまっているように思う。初めて『悪霊』を本書で知って、いったい何人の人が作品を読みたいと思うだろうか。

 

 

亀山氏の著書に関する私見          福井勝也

〜少女マトリョーシャは、入れ子人形のマトリョーシカ?〜             

2006.1/5

 

(1)    今回のご著書に関する基本的な私の感想(書評)については、すでに「全作

品を読む会」(http://dokushokai.shimohara.net/)の「通信」(No.92)に掲載

され、Web上でも公開もされていますのでそちらをお読みください。

 

(2)  木下氏の原語と対照されての翻訳の問題についてのご指摘については、まず

私がロシア語の読めない一般読者であることをはじめにお断りしたうえで、

何点かの意見を述べさせていただきます。まず、問題の「声」という原語の

有無についてのご指摘は、翻訳上の問題とされても良いでしょうが、それが

亀山氏の著書の論旨展開において決定的な事項とは必ずしも考えられません。

むしろ、私には、「奇妙な」という形容詞的(訳者によっては副詞的)語句が

孕むニュアンスの方により問題があるように思えるのです。そして、この語

句に係る語を含めて注意深く読み直してみるとき、(木下氏引用の)複数の先

行訳者の翻訳文・ロシア語専門辞書の説明を勘案させていただくとき、その

「声」という原語の存在の有無についてはかえって気にならないというのが

私の実感です。

 さらに、木下氏は、翻訳上の言葉の問題にあえて限定されて論難されていま

す。しかし例えば、亀山氏はマトリョーシャ=マゾヒスト説については、ルソ

ーの<悪癖>に絡む<マゾヒズム>の問題を前提的に触れられています。複数

テキストの問題にも関係するわけですが、いずれにしても、これ自体興味深い

発見であり、亀山氏の論旨の重要な根拠にもなっていることは無視できません。

 そしてまた、今回の亀山氏の著書は、単にマトリョーシャ=マゾヒスト説と

いうトピックに限局した神経質な読み取り方をすると、「角を矯めて牛を殺す」

例えになる危惧を感じています。確かに、大変デリケートな問題に入ってきて

いるのですが、ドストエフスキーこそ人間の謎を何重底まで追求した悪魔的な

面を持った作家であった本質を思い起こすべきでしょう。私自身も、やや別の

視点(例えば、分離派等のロシア宗教思想)からドストエフスキーを貫くマゾ

ヒズムの問題を考えるべきだとも思っています。勿論、亀山氏もそのような観

点も前提にされているでしょう。これからおそらくは、他作品についても総合

的な言及をしてゆかれると期待しているのです。とにかく、いろんな意味で、

もう少し亀山説への議論についてはゆとりと時間が欲しいと思います。

 

(3)  冷牟田氏のご指摘についても、何点か反論させていただきます。一見緻密な

論点を投げかけているように見えますが、私は、冷牟田氏にはマトリョーシャ

=マゾヒスト説への感情的なリアクションが根本にあるように感じます。それ

は、反面スタヴローギン像へのある種の思い入れが前提となっているようにも受

け取れるのです。亀山氏の著書を読み誤っていけない点は、確かに亀山氏自身が

ある傾きを持ったスタヴローギン理解を表明されていることも確かなのですが、

それよりももっと根本的にポリフォニックな人物理解を、テキスト理解を前提に

されているということです。この点で、亀山氏の作品解釈は高度に文学的でもあ

り、むしろ冷牟田氏の論難の仕方こそ、ご自分の思い込みに立った狭隘な視線が

前提になっていないでしょうか。例えば、マトリョーシャの年齢にしても、確か

にテキストで読む限り、ご指摘の通り、ドストエフスキーはそれほど年齢に頓着

していないのかもしれません。この点で、亀山氏は確かに、マトリョーシャ14

歳説を安易に採用しているようにも受け取れます。しかし問題は、その実年齢が

いくつかということではなく、結果的には、思春期にかかる少女年齢位の把握で

読めば良いのではないでしょうか。この限りで、テキストの細部に拘泥した年齢

批判は、逆に冷牟田氏自身の固定的なマトリョーシャイメージを露呈していると

感じさせられるのです。また、複数テキストの問題については、私自身、再度注

意深く読んでみたつもりですが、亀山氏指摘のアンナの問題は確かにあるという

のが正直な実感です。編集者、カタコフとの出版をめぐる妥協や<アンナが作品

の審判者でない>とのドストエフスキーの書簡の存在を冷牟田氏は指摘していま

が、亀山氏はそれらを踏まえての議論をしているのでしょう。

    亀山氏はこの著書の最後で、聴講生(=読者)からの自分の「読み」に対話的

に連環したよりアクチュアルな質問を期待されています。ということは、冷牟田

氏が指摘するような、はじめから結論ありきで、それを恣意的な文献で埋めあわ

せて「話」を終わりにしようなどと考えておられないことは確かです。

私自身は本会の会員として、故新谷先生が本邦初訳されたバフチンのより開か

れたテキスト解釈を前提として「会」に臨んできました。確かに、冷牟田氏の従

来の「読み」に拘泥した今回の批判も成立するかもしれません。それだからと言

って亀山説を上記のような言い方で論外とする姿勢は残念の限りです。

    

(4)   実は、私は、このweb上で議論すること自体余り気が進みません。むしろ、

いろいろと問題とされてよい中身の著書として、亀山氏にお話していただく「場」

を設けて、対話的に実りある議論を前進させたいと思っているのです。その時の

ために、もう少し各自の意見を蓄積しておいて欲しいと思うのです。私自身もそ

のつもりでいます。ただ、木下先生からのご要請があったのと、やはりこのまま

ではまずいと思い今回投稿させていただきました。ということで、ご批判は頂戴

致しますが、できうれば会員以外に広く参加を呼びかけた「場」においての亀山

説をめぐるドストエフスキー論の更なる展開を期待いたします。 (福井勝也)

 

       

木を見て森の外を知る? − 亀山郁夫著 「『悪霊』神になりたかった男」を巡って

 

堤 崇弘   (2006.1/12)  

 

(1) 「マトリョーシャ=マゾヒスト説」について

 表記の仮説は、現時点で、先行的に話題になっていますし、当初、私も衝撃を受け、非常に大きな主題だ、と思いました。ところが、今回、この議論のために、この本を読み直してみて、正直言って、さほど重要な論点ではないような印象に変わってきました。亀山氏は、本文冒頭のp38で「ひょっとすると、このエッセー(引用者注:同p3637掲載の「わたしは神さまを殺してしまった」を指す)の中身から大きく外れたことを私は話しだすかもしれません」「気分の乗りや話の流れによっては思いもかけない発見に立ちいたることがあるのです」またp40では「講義という形式をとおして皆さんにお話をするには、適度の興奮とボルテージの高さが求められます」「知性というのは往々にしてたいへんな眠たがりやなのですよ」というような言葉で、この「講義」には、ある程度、意図的な脱線ないし「眠気覚まし」の仕掛けが盛り込まれていることを暗示しています。これは、明確な根拠によってではなく、私の感覚として言明するだけですが、「マトリョーシャ=マゾヒスト説」は、著者が「新しい真実」等と力説しているわりには、そのような「刺激」として盛り込まれた論点であって、この本の本来の主題として提示されている「人間のまなざしのもつ根源的な罪深さ」(p37)に関する議論の中心からは、はずれた話に過ぎないように感じています。よって、この論点に関する議論の結論がどのようなものになったとしても、この本全体が提起している問題には、影響は、あまりないと思っています。

 とはいえ、折角、議論が盛り上がっておりますので、私も、新味に乏しく恐縮ですが、自分なりの意見を書いておきます。私も福井さん同様に、語学的な制約から、マトリョーシャの泣き方が「声」を伴ったかどうかは判断できません。また、そのことは、マトリョーシャがマゾヒストであるかどうかの判断の基準としては、あまり絶対的とはいえない、という点も福井さんと同じです。ただ、逆に、私は、マトリョーシャの泣き方(木下先生の見解に沿って、より正確に言うならば、「しゃくりあげ方」)が、たとえ、いくらか「奇妙」なものであったとしても、それが、マゾヒスティックな快感のためである、という読み方には、どうも違和感が残ります。確かに、福井さんも書かれているように、ルソーの『告白』の中に折檻で「肉感」を感じたという記述がある、ということ(p137、【資料13】)は興味深い指摘です。ただ、私としては、ルソーの『告白』を読んだことがないせいもあるのかも知れませんが、ド氏が『スタヴローギンの告白』の中でしている程度のルソーの『告白』への言及(p11)くらいでは、要するに、「そういう仕掛けだとも解釈できるよね」という程度にしか感じられていません。で、「そういう仕掛けだとも解釈できるけど、私は、そうは解釈しませんねえ」という感覚でおります。それは、「面白いけど、違うんじゃない?」ということであって、好意的否定のニュアンスです。では、マトリョーシャのしゃくりあげ方の奇妙さが何から来ていると考えるかといえば、それは、木下先生が書かれているように、「泣くのにも、まともに声も出ないくらい打ちのめされ」てしまっている、ということ、それが、単にこの一度の折檻のためではなく、生い立ちというか、ずっとそれまでの彼女の人生のためということもあるでしょうし、あるいは、近所や、スタヴローギン自身への遠慮から来ているというのもあるんじゃないか、とごく平凡に理解しています。繰り返しますが、「それしかない」と言っているのではなく、「私は、そう読んでいる」というだけですが。

 今、彼女のしゃくりあげ方が奇妙になったのは、スタヴローギン自身への遠慮のせいかも知れない、ということを書きましたが、これに関連して、少し話がそれますけれども、もう一言させてください。恥ずかしながら、私は、今まで『悪霊』を少なくとも3回は通読しておりましたが、今回、亀山氏の本を読んで、今まで気づいていなかったか、あるいは気づいたけれども記憶に残していなかった点として、マトリョーシャは、スタヴローギンに対して恋をしていたのだ(p99100)という見方がありました。これが、『悪霊』の読解に関して、私が亀山氏の本から得た最大の収穫だった、と今のところ思っております。ただし、これによって、私は、マトリョーシャがスタヴローギンの共犯者になったというよりも、むしろ、より一層深刻な被害者であることを再認識させられたという方が正確です。スタヴローギンの行為は「陵辱」ではないけれども、ある意味では、もっと重い犯罪である「嘲弄」であったのだ、ということが、今回の読書で理解できたと思っています。スタヴローギンが、ただ単に(といっても、女性にとって、それは耐え難い苦痛ではあるでしょうが)力づくの強姦をしたというだけだったならば、彼女はあるいは自殺することはなかったのかも知れません。「神さまを殺してしまった」などとつぶやくこともなかったでしょう。自分の中にいた「蛇」に咬まれたと言っても良い。スタヴローギンは、シャートフやキリーロフに対するのと同様、彼女にも「そそのかす」ことで、性の暴力だけでは与えられない本当に深い傷を与えたのだ、と言えるのでしょう。それを「神」の行為だというのは、やはり何と言っても奇妙な主張ですが。

 

(2) 「神になりたかった男」ないし「神のまなざし」の問題について

 既に、結構、長くなってしまいましたし、亀山氏との対話の場が読書会の方で設定して頂けそうだ、という大変うれしい情報(仲立ちをして下さっている福井さんには深く感謝しています)もありますので、まだまだ自分としてもまとまっていない、上記(1)以外の論点についての話を、今、ここで長く書くのは、皆さんのためにも、あまり有益ではないと思います。といって、これだけでは、あまりに内容がありませんので、もう一点だけ、言及しておきましょう。他でもない、「神のまなざし」の問題です。

 スタヴローギンは、一種の超人であり、彼が凡人とはいくぶんか違う視線で世界を見ていたことは確かだと思います。そこには、いわば宿命的に担わされているニヒリズムの匂いが濃厚に漂っています。しかし、その一方で、チホンだけでなく、数は少ないけれども、キリーロフやリーザとの対話などでも、彼は「人間・スタヴローギン」を感じさせる言葉を発していた、と記憶しています。(本来なら正確に引用すべきですが、今回の投稿に際しては、時間その他の関係で、『悪霊』本文のチェックができておりません。間違っていたら御指摘頂ければ幸いです。) とりわけ、自殺の直前に書かれたダーシャへの手紙(これは一応、再読しています。新潮文庫の下巻、p522〜)などは、彼が自分の人生に苦しみ、生き甲斐を求めてさ迷い続けた人、漱石の『三四郎』にいうstray sheep のような人だったのだ、という感興を与えるものです。そして、そこで書いていることを素直に読めば、彼は、神になりたかったどころではない、つまらないことでも興奮できる凡人達を身を焦がすほどに羨んでいるのです。仮に、彼の無感覚を「神のまなざし」だと称するにしても、彼は「神になりたかった」のではなく、「なりたくないけど、神になってしまった」に過ぎないのだ、と、この手紙を読むにつけて私は思います。要するに、冷牟田さんが書かれているように、やはり『スタヴローギンの告白』だけをもってスタヴローギンを論ずるのは、無理がある。これは、間違いないところだとは思います。(この点については、p73で亀山氏自身が「丸屋根だけを見て、寺院全体を論じるようなところがあるわけです」と率直に書いていますが、いろいろな論点に紛れてしまって、それに対する弁明は結局、私には読み取れていません。)

 しかし、何はともあれ、亀山氏がマトリョーシャ縊死を眺めるスタヴローギンの視線と、9.11のテロ事件をテレビで観ている自分自身の視線とに、何らかの共通点を見出した、という論点そのものは、非常に重要な示唆を含んでいる、と私は感じています。あまり、「神」「神」と安易に連発するのは、どうかと思いますので、さしあたり、「(他者の苦痛に対する)無感覚のまなざし」とでもしておきましょう。なぜ、彼は、そこに共通性を感じたのか。翻って、スタヴローギンと、私たち現代(日本)人との共通点は、何なのか。これは、私の直観ですが、確かに、「人間のまなざし」には「根源的な罪深さ」がある一方で、つまり、それが普遍的な問題を孕んでいる一方で、その程度は、現代の日本において、より強められている、ということがあるように思います。多分、この本を読んだときに、私の身体はそこに反応していた気がしています。例えば、9.11と同じようなニュースを、昭和の始め頃の日本人が見たら、果たして、我々と同じような反応をするでしょうか? そこに違いがあるとすれば、それは何なのでしょうか? そして、その「違い」とスタヴローギンの問題には、何か通底するものがあるのでしょうか? もしあるならば、テロの場面に限らず、一般的ないし包括的な社会的現象として、私たちの「スタヴローギン化」とでも呼ぶべき現象が存在しているのでしょうか? 私としては、来るべき「対話」の場において、こういった問題について、皆さんのご意見が聞けたら、嬉しいなあ、と思っているところです。楽しみにしております。

 大変、散漫な文章ですみませんが、とりあえず、ということで、このくらいにしておきます。よろしくお願い致します。

 

「『悪霊』神になりたかった男」を読んだ感想

熊谷のぶよし(2006.2/16

 

亀山先生の本について意見を述べることがこの文の目的ですが、そのためには自分の「告白」についての解釈やスタブローギン理解について述べなければなりませんでした。自説の開陳みたいになってしまいましたがお許し下さい。

 

1 告白の中心

 スタブローギンの「告白」の中心は、「黄金時代」の夢の直後に、マトリョーシャの姿を思い浮かべ、その後も自分の意志で思い浮かべずに入られないというところにあります。これは単に、良心、人間性というようなものではなく、自己分裂や他者の専制といったドストエーフスキイの中心テーマそのものです。スタブローギンが告白をするのは、この自己分裂の苦痛から逃れたいためです。だから、スタブローギンの「告白」は「マトリョーシャ想起」なしには存在しません。

 この「マトリョーシャ想起」は、『悪霊』の筋を理解する上でも、重要な役割を果たしています。ドストエーフスキイの登場人物は小説の時空の中で、劇的に変化する存在です。(バフチンの影響下にこうした読みがなおざりにされているのが、私は残念でなりません。)スタブローギンは、はじめからスタブローギンではありませんでした。そして一度スタブローギンなった彼がずっとスタブローギンでありつづけたわけでもありませんでした。私たちは彼の変化の軌跡を読み解かなければなりません。

「黄金時代」の夢を見て、生まれて初めて涙を流したと彼が言うのは意図的な嘘です。彼は、かつてはステパン氏と夜中に抱き合って涙を流していた少年です。「黄金時代」の出現は、ステパン氏と過ごした時代に彼に植えこまれた「人類永遠のかの聖なる憂愁」の再現です。しかし、スタブローギンはこの事実を否定したいのです。

語り手アントン氏が言うとおりステパン氏がしたことはスタブローギンに決定的に悪い影響をあたえました。寄宿舎に移った後、崇高なことの虚偽があばかれ幻滅が訪れます。崇高なことを思い浮かべることに対する絶対的な禁欲が、彼の中に生み出されました。のみならず幻滅からの復讐が、人の中の崇高なものへの願望をかぎ出しそれを煽り立て、かつそれを裏切ることへ彼を駆り立てました。スタブローギンはステパン氏にやられたことを人に対してやり始めました。ここに彼の人間関係の原型があります。

それまでは、崇高なものの否定は、スタブローギンの意志によってなされました。しかし、「マトリョーシャの想起」は、取り返しのつかないことをしてしまった人間がもう崇高な幻影を持つことが赦されないという、かれの意志をはなれた悲劇として出現しました。「マトリョーシャ想起」がおこる前と後ではスタブローギンは大きく変化しています。その違いは再登場のスタブローギンの変化になって現れています。

 「マトリョーシャの想起」は毎日行われます。「それ以来、ほとんど毎日のように現れる」と「告白」には書かれています。亀山先生の「告白」の文体についての優れた考察から推論すると、スタブローギンはここで直截な事実を述べていることになります。だとすると二度目に登場したスタブローギンを「マトリョーシャの想起」なしに理解することは不可能になります。死に至る直前までの、彼の行為と彼を中心とした出来事の背後には、日々くり返される「マトリョーシャの想起」が隠されていて、彼を支配しているからです。

 以上は私見ですが、この中心的なテーマ沿った議論が十分展開されていないのが残念でした。

 

2 スタブローギンの三つの顔−カリスマ、自己、一対一

 スタブローギンには、他者の願望が投影されるカリスマとしての顔があります。そこからひるがえってそれと違った自己があることが想像されます。その自己はすべてに興味を失った空虚な存在と一般に考えられています。その空虚な存在が見ることに徹することで自己を維持している。それを神と呼ぶことは理解できます。かつてのスタブローギンは、そうだったかもしれません。しかし、2回目登場後のスタブローギンはすべてに興味を失った存在ではありません。マトリョーシャを思い浮かべること以外には、すべてに興味を失った存在です。告白の意味はそういうことだろうと思います。

 スタブローギンのカリスマ性と自己を明確に区切って、カリスマ性に幻惑されないことが重要だろうと思います。しかし、それよりもさらに、重要なのは一対一の時の彼のあり方です。この次元は、彼の自己とカリスマ性をつなぐ結節点となっています。

「一般論として、ぼくは特定の女性に対する自分の感情を第三者に話すことはできません、いや、その当人以外には、だれに対してもです。失礼ですが、これはもうオルガニズムの不思議な特質でしてね」とスタブローギンはマブリーキーに述べます。ここには、自己でもなくカリスマでもないもう一つのスタブローギンの顔があることが想像されます。

リーザ、マリア・レビャートキナ、ダーリヤに対するスタブローギンは、卑屈といえば言い過ぎかもしれないが、彼のヒールなイメージからは遠いふるまいをします。おそらく、男に対して思想を植えこむ時も、決して高圧的な力を発揮するのではなく、悪魔のように聞き上手だったのでしょう。彼らの未発の思想を言葉にし、たえず賞賛し続ける徹底的に受け身の姿のスタブローギンが私には想像できます。スタブローギンの支配とはこのようなものだったのではないかと思うのです。

ずいぶん想像が入ってしまいましたが、一対一のスタブローギンの顔は他とは違います。このことはマトリョーシャに対するときにもあてはまるでしょう。しかし、その「感情を第三者に話すことはでき」ないので、告白の中に記述されることはありませんでした。ふたりのあいだには、スタブローギンの自意識に抵触し語ることができないような、崇高な瞬間があったように思います。おそらくそれはペンナイフ事件に関わる罪の告白でしょう。また、性的な結びつきが、スタブローギンにとっては予期せぬ偶発的な事故であった可能性も検討すべきだと考えています。

 

3 「神」にとって愛されるとはなにか−怒り、憎悪、恐怖

 スタブローギンとマトリョーシャの間にあったことを一方的にスタブローギンの起こした事件と見るのではなく、マトリョーシャの主体性も考慮に入れて論じられたことに大賛成です。まさにマトリョーシャはスタブローギンを愛しました。逆に言えばスタブローギンは愛されてしまいました。このことが彼の、怒り、憎悪、恐怖の源泉です。

 『地下室の手記』からはじまり『未成年』において解決に至る一つのテーマとして、意識家が愛されるという事態に対してどのように対処するのかということがあります。愛される者は、愛する者の優位に立ちある意味で勝利者ですが、自己意識の観点からはそうはいっていられません。愛されることを受け入れるということは、たとえ自分を愛する者であっても、他者の意識とそこに映る自分のイメージを受け入れるということです。このとき自己意識の絶対性が崩れます。これこそ自己意識が最も避けたい危機的状況です。地下室の男は自己イメージにおける他者の意識の支配を避けようとして自意識の合わせ鏡の迷路に迷い込んでしまいました。アルカージイにおいて初めてこの迷路から抜け出せます。スタブローギンにおいては、彼が供給する限りにおいての彼のイメージを他者が持つことを望み、想定しているわけです。マトリョーシャの突発的な愛(それが性愛であっても慈愛であっても憐れみであっても変わりません)は、スタブローギンの想定外の出来事でした。

 一連の出来事の中で、スタブローギンは、愛されることを否定しようがありませんでした。スタブローギンがマトリョーシャを憎むことはできます。また、怒りを発することもできます。しかし、マトリョーシャがスタブローギンを愛することを不可能にすることがスタブローギンには不可能なのです。自分がスタブローギンを愛せると信じ込んでいるマトリョーシャの姿がある限り、それが可能であることがマトリョーシャの上で成就されてしまっています。このことに気づいたときに、スタブローギンは本当に恐怖を感じます。ある意味ではストーカーに愛される恐怖とスタブローギンの恐怖は似ているかもしれません。彼はこちらの意志によっては否定することのできない他者からの愛に直面してしまっています。

冷たい視線、侮蔑、直接的な攻撃なら、スタブローギンはマゾヒズムで受けとめることができます。怒りにまかせて本気で攻撃する者の行為すら自分の快感に変換し意識の制御下におくことができます。その時他者は自分の想定した他者の枠にスッポリ収まって快感を増幅させる装置として機能します。しかし、愛されるいわれがないと思っている自分を愛してくる他者を、自分の意識の中の要素に還元することがスタブローギンにはできませんでした。愛をマゾヒズムで受けとめることはできません。スタブローギンの怒り、憎悪、恐怖は絶対的な自己意識を持つと自負する人間が、愛されることによって他者の意識に遭遇してしまった結果だと私は考えています。

 

スタブローギンほど他者を必要とする人間はいない、というのが私の印象です。最後の最後、スイスに蟄居するときも、ダーリヤを呼び出さずにいられない男です。彼は、自分には他者は必要ないということを確認するためにたえず他者を必要としていました。不動のスタブローギンというのは私のイメージにはまったく合いません。

 

以上のようなことを考える上で、大変有益な本でした。