試写会日記

 仕事柄、ちょくちょく行く試写会。最新映画の感想をお届けします。

6月19日(火) 『ダイ・ハード4.0』

 大阪四ツ橋厚生年金会館芸術ホール。

 十数年ぶりに続編、おまけに4作目ということで、「ああ、企画がねえんだな……」とこちらが思ってしまうのは必然。そこをいかに『ダイ・ハード』のシリーズとしてのカラーをキープし、キャラクターの変遷を描くことで4作目である今作が生まれてくる必然を演出できるか。まあ注目してたのはそんなところだ。

 容疑者を護送中、その容疑者を狙う真犯人のグループに襲われる……って『16ブロック』と一緒じゃん! その挙げ句に娘が人質に取られて……『ホステージ』かよ! とまあ、筋だけ追えばそんな程度の話。が、別れた嫁はんと娘の名字の問題やら、「人殺しには慣れてる。……昔ね」という台詞で、頑張って過去シリーズとのつながりを演出。一刑事のキャラクターとは一線を画す「ジョン・マクレーン」のキャラクター性を出すことに、どうにか成功しているかな?

 しかしやはり最大のポイントは、その東海岸中で物を壊しまくるスケールの大きさだろう(笑)。デジタル犯罪で粛々と進むはずが、一アナログ刑事の登場でここまで無茶苦茶な大破壊劇になってしまう強引さ。この大被害を演出しているのは誰なんだろう、と後から思えば不思議になる。そして、この破壊のスケール感を映像化し、なおかつ「ありえへんわ」ではなく「まあ、しようがないか」と思わせるにはやはり、『ダイ・ハード』というブランドが必要不可欠なんだねえ。


6月14日(木) 『アーサーとミニモイの不思議な国』

 大阪梅田ピカデリー。

 前作『アンジェラ』のあまりの幼稚さには、リュック・ベッソンの才能の枯渇ぶりを思い知らされた。今作で本格的に子供映画を作る、ということでその幼稚なメンタルには丁度いいんだろうなあ、と思った次第……。

 しかし意外にも見られる出来でちょっと安心。妖精と一緒に小さくなって、自分ちの庭で宝探しするというだけの話で、ヒロインがベッソン好みの「強いけどか弱い」女。さりげなく続編につながりそうな伏線も張ってある。

 が、こういう商業的なものに対する「色気」を感じさせる作品は、プロデュースにとどめておいて欲しかったねえ。


4月23日(月) 『ゾディアック』

 大阪梅田ピカデリー。

 実話ってことで当たり前なんですが、犯人は捕まらない。最初からカタルシスとかを求めるのはお門違い。しかし映画という媒体でこうねっちりやるぐらいなら、ドキュメンタリー見るか本読むかした方が手っ取り早いなあ。「事実」を追いかけてるにしては作りごとすぎる。陰惨なシーンや、心理描写など見るべきところもあるのだが、事件の亡霊に取り憑かれているのは監督自身のことだったのか?


4月16日(月) 『アパートメント』

 自宅(笑)。

 向かいのアパートで起きる謎の猟奇殺人。犯行時刻には、必ずいくつかの部屋の照明が一斉に消える。向かいに住む女は、当のアパートに住む車椅子の少女と知り合いになったことで、彼女を救おうとするのだが……。

 ジャンル映画としては実に手堅い内容で、なかなか楽しませていただきました。残酷シーンの連発、恐怖を煽る演出も悪くないし、テーマも実に陰惨。しかし、本当の「悪」はなんだったのか……これは作中に答えが出ていると思うのだが、その「悪」が生まれたわけについては綺麗にスルーされている。あのおぞましさを生んだものはなんなのか、それを解明しようとしないことは、そういった「悪」が生まれでること自体も否定しないように感じられて、実に気分が悪いな。


4月5日(木) 『300』

 大阪梅田ブルク7。

 ギリシャ軍300人VSペルシャ軍100万人! 血湧き肉踊るアクション! しかしこの映画、イランとかから物凄い抗議を受けてるんですよね。差別的な内容、史実をねじ曲げてるとかなんとか。その記事だけ読んだ時は、「うーん、どんな描き方をしてるのか知らないが、たかが映画だし、そんな目くじら立てなくてもいいんじゃないかな」と思ったのである。

 が、が、が、見てドン引きとはこのこと! 「民主主義」「平和主義」「正々堂々」の白人が、「神秘主義」「覇権主義」「卑怯者」の黒人、アラブ人、障害者をぶち殺しまくるひでえ内容! こりゃ怒るわ、当たり前だよ。アメリカはイランとの戦争を正当化するために、こんな姑息な仕掛けをしているのか。覇権主義で、数と武力にもの言わせて戦争してるのはてめえらだろ!

 もう内容とか以前の問題。こんな狂った妄想が大ヒットしてるんだから、どうしようもないな。


3月29日(木) 『女帝』

 大阪梅田三番街シネマ。

 「新世紀の女ドラゴン」チャン・ツイイーが主演! ということで、ついつい壮絶ワイヤーアクションに期待してしまうのだけど、これは『ハムレット』を下敷きにした宮廷内の愛憎劇なのである。さすがにそれは無理だろう……と思っていたら、試写状に書いてあった名前。

 「ユエン・ウーピン」

 ……うーむ、なぜこのワイヤー界の第一人者の名前がここに? もしや……。

 まあまあ暗殺者が王子を襲うシーンなどもあるだろうし、多少はワイヤーアクションもあるのかなあ、と思っていたのだが、もう冒頭から大ワイヤー! 空飛びまくり! 血みどろの壮絶な大空中戦の展開! なんじゃあ!? 皇帝に反逆して百叩きの刑に処される老人が出てくるのだが、そのシーンもワイヤー! 殴られた老人が3メートルぐらい空を飛んでいき、待ち構えた処刑人に野球みたいに打ち返される! 飛ぶ必然性が一切ないのだが……。

 思いを寄せる王子が、叔父である皇帝に狙われ、演舞の練習と見せかけ暗殺されそうになるシーン。我等が女帝チャン・ツイイーはハラハラしながら見守るだけかと思いきや、取り囲まれた王子が真剣で止めを刺されそうになったその時……玉座から5メートルぐらい飛んで暗殺者に飛び蹴り! 来たー! ツイイーさんサイコー! というか、王子より強いんじゃ……。

 まあだらだらとテンポは良くないし、アクションシーンもいささかカタルシスには欠ける。テーマ的にはそれなりにまとまっているのだろうが、こういう登場人物がうだうだと悩みまくる話は香港映画には合わないよね(笑)。

 さて師父ユエン・ウーピンの今回の仕事は「エグゼクティブ・プロデューサー」、ウーピン・スタントチームが「武術指導」。師父はなにやら立派な肩書きがついている。出世したものだ。しかし出世した分、「もっと頑張らねば!」と張り切って、ついついいつものワイヤーアクションに凝り過ぎてしまったのではないか、プロデューサーの仕事はちゃんとしたのか、ちょっと心配である。


3月26日(月) 『プレステージ』

 大阪四ツ橋厚生年金会館芸術ホール。

 当初は『イリュージョンVS』という邦題だったのだが、直後に原作通りに変更。なぜだ?と思っていたのだが、原作を読む、あるいは映画を見ればすぐわかる。ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール演じるマジシャン二人が、「まったくバーサスしない」のである。正々堂々と奇術比べしたりせず、お互いのステージに乗り込んでせこ〜く邪魔をしあうのだ。日頃はかっこいい役も演じる人たちなのだが、今回はただただ心の狭い人同士の対決!

 ただ、それが善悪やモラルなど無視した、マジックに対する恐るべき執念とプロフェッショナリズムにつながっていく。究極のマジックとは? 回答はすでに冒頭で提示されているのだ。

 ただ、原作の悪夢的な結末の美しさに対して、本来なら二段落ちの一段目に来るはずの部分をラストに持ってきたのは、少々パンチを弱くしたようにも思える。


3月8日(木) 『ラブソングができるまで』

 大阪梅田ピカデリー。

 試写状をもらった時に、「ルシフ(仮名)くんのジャンルじゃないけど……」と言われたが、どういう意味だ! 俺はロマコメ大好きだ! ドリュー・バリモアも大好きだ!

 今まで今ひとつヒュー・グラントの良さというのがわかっていなかったのだが、今回は素晴らしかった。80年代の大人気スターで、今はさっぱりという役柄なのだが、当人のヨレヨレさ加減がまさにそんな感じ。ヒュー自身はかつては売れない青春スターで、中年の坂に入ってからヒットを飛ばすようになったわけだが、そんな実際の姿とは裏腹に、くたびれたイメージが役にぴったり。しかしながら、ステージでピアノを叩き歌いはじめると、ムードも全開。音楽は全然やったことがなかったらしいが、とてもそんな風には見えない。驚きました。

 ドリューはもうこんな役はお手の物、という感じだったが、ヒュー・グラントは今までの路線を崩さずに新境地を開いた感じ。いや、素晴らしかったですね。ところで、試写会場にはヒューのファンと思しき女性がたくさん来ていたわけですが、劇中でも80年代スターのいまだにファンがたくさん出てくるんですね。映画の中のファンの姿を見て、周りの女性に、うーん、これは貴女がたのことですね、とちょっと思ってしまいましたが、そこらへんのシンクロ率も映画を楽しめる度合いに貢献しているわけです。


2月1日(木) 『ロッキー・ザ・ファイナル』

 大阪肥後橋リサイタルホール。

 「ロッキー、まだ亀飼ってた?」「飼ってましたよ」 オールドファンのこだわりを決して外さない、シリーズ完結作。還暦寸前のロッキーが、チャンプ相手にエキシビジョンながら現役復帰。しかしこの作品の最大のポイントは、やはり「勝たなくてもいいんだよ。チャレンジすれば、頑張ればいいんだ!」というロッキー=スタさんの変わらぬメッセージが貫かれている点かな。『ドリヴン』なんかもそうだったが……。

 スタさんの説教シーンの連発はとにかく圧巻だ。殴られてもいないのに顔腫れてて、微妙にろれつも回っていない。演技なのかメイクなのか、それとも素なのか、その顔のままで、チャレンジについて熱く語るスタさん。いい加減にフラストレーションが溜まってきたところで、ラストの試合では口をつぐんで拳で語る。ボクシングシーンは、こんなシーソーゲームありえんだろ、と思いつつも手に汗握る。勝負の行方は劇場で!

 ところでマイケル・バッファーがコールして、リングサイドにタイソンがいたりすると……これはK−1じゃないかね。そういうところも楽しめる、きっちりリアリティも守られた映画なんであります。


1月30日(火) 『バベル』

 大阪梅田TOHOプレックス。

 超話題のアカデミー賞最有力映画! 前日の『ナイトミュージアム』を蹴って行ってきましたよ。上映20分前には完全に満員でした。

 アメリカ、メキシコ、日本、モロッコと四つのパートが代わる代わる、時系列を入れ替えつつ描かれ、それらが微妙にクロスしていると言う構成。要は四つのストーリーが一本の映画に詰め込まれてるわけだ。だからして、140分の長尺もさほど気にならない。が、が、が……見事なまでに薄い! カットごとの人物描写や最低限の時間での掘り下げは素晴らしいが、ドラマが話短過ぎて展開しないから、結局は表面的な役割しか見えて来ない。ワイルドぶる夫、潔癖性でヒステリー起こしそうな妻が、思いも寄らぬアクシデントを乗り越えることで結束し、夫婦の危機を回避する……。モロッコ人の銃弾が原因だろうがなんだろうが、こんな話、今さら犬だって食わないんだよ。

 大熱演の菊池凛子、という触込みだったが、4回ぐらい下の毛を見せられて、すっかりお腹いっぱいになりました。殺風景なモロッコと、熱そうなメキシコ、人工的な東京という対比で、まあ確かに日本なんてこんなもんだ。若者がラリってても別に驚かないよ。メキシコ人がニワトリを絞めても、モロッコの子供がオナってても、そりゃやるだろうな、としか思わん。しかし……アメリカ人はこれ見て何かショックを受けるのか?

 なんか、観光行った日本人とアメリカ人がチョロチョロと余計なことをすんな! と言われてるように感じるところがいやあねえ。ただ、メキシコ人とモロッコ人にしても、あからさまに自業自得な雰囲気もプンプンとつきまとう。こうやって四つの民族を対比させることで、なぜ人と人は分かり合えないのかってなことを描く、その象徴がバベルの塔……ってわけだが……。バベルの塔なんて所詮はフィクションで、世界中の民族はもともとバラバラで暮らしてて、それがここ最近、たかだか数百年のあいだにようやく出会ったわけでしょ? そんな簡単に分かり合えるわけないだろう。「元は一つだった」という出発点がデタラメなんだから、いくら寓話だからってそれに沿って描こうとしても無理無理。

 世界ありのままを描こうとしても、所詮、映画という媒体では短過ぎてそんなことは無理。広く浅く描こうとしたら、結果的に一面的になっていく矛盾。世界の一部を切り取り、それが象徴する何かを描く……それが映画だが、世界そのものを象徴させるには、世界の一部では荷が重すぎるのである。


1月16日(火) 『ホリデイ』

 大阪難波TOHOプレックス。

 クリスマス前に男と別れ、偶然見た広告からホーム・エクスチェンジで家を取り替えた二人の女。二週間の休暇で見つけたのは、新たな恋との出会いだった……。で、その片方であるキャメロン・ディアスが出会うのがジュード・ロウなのだが……この男、常にアップ! なのに一分の隙もなく、完璧なまでの男前! ついついあら探しのために画面を睨むんですが、くそっ、どこにも瑕疵が見当たらんよ。しかし彼も35歳になり、ようやく人間になった感じ。今まではAIか吸血鬼だったが、ようやく人間の男前になりました、おめでとう!? まあオレもかつては和製ジュード・ロウと言われた(誰に?)ものだが……いや、今もかな? フフフ。

 対してケイト・ウィンスレットと付き合うのが、なんとジャック・ブラック。ジュード・ロウの向こうを張って……というとなんだが、実際の出番は若干少なかった(笑)。しかしこのキャラクターはちょっと優し過ぎて、いつもの危険さが見られなかったのはちょっと残念。

 珍しいキャスティングで、なんとなく恋がしたくなる気分にさせてくれる映画。


12月14日(木) 『パフュ−ム』

 大阪梅田ブルク7。
 始まる前にチラチラとプレスを見てたら、「衝撃のラスト」と書いてある。いやだねえ、こんなこと書いてあってほんとに衝撃だったためしがないのよね。ここ数年で本当にぶっ飛んだと言えば「ソウ」の一作目ぐらいか。147分という長尺も心配で、寝てしまわないか心配だった。
 嗅覚が異常に発達しながらも情緒に欠けた青年が、ある日出会った少女の匂いに取り憑かれ、それを再現、保存するために香水作りを学ぶ……というニオイフェチ映画。これだけだったら悪い話じゃないが、冒頭はその主人公の死刑執行直前から始まるんですな。で、匂いに取り憑かれた少女もうっかり殺してしまっている。やがて香水作りの奥義を学んだ彼は、師匠から聞かされた十三の香りを調合した「究極の香水」を作ることに取り憑かれ、次々と女を殺してその香りを保存していく……。
 ああなるほど、これは倒叙ものサイコ・サスペンスの文脈で見ればいいのか。しかし「女の子っていい匂いがするよね」というのは現代にも通じる大いなる幻想であり、例えば「ブーツ女の足は臭い」という厳然たる事実の対極に位置するよな。美しい映像で嗅覚さえも表現するような演出に酔いつつも、どこか覚めた目で見てしまう。主人公が自分を一切語らないので、ちょこちょこと入るナレーションも必要悪ではあるんだろうが、興を削ぐ。
 終盤、展開は加速し、ついにシーンは冒頭の死刑判決に。まあ、色々と想像はしてたんですけどね……。

 ぶっ飛んだ。

 えええええええええ、と、しばし呆然。でもって爆笑。いや、これは凄すぎる。想像もしてなかった。ちらちらと伏線はあったが……やられた。息もつかせぬ急展開。なに考えてるんだこの作者は。絶対に頭がおかしいよ。
 終わった後、同じく観に来てた同僚S氏とも大興奮。これは来年、大プッシュですね。しかしRー15は確定か? 女性向けではあると思うが、たいがいの女性は怒りだしそうな内容でもあるのがまずいな。


11月21日(火) 『ディパーテッド』

 大阪梅田ブルク7。
 傑作『インファナルアフェア』のリメイク……ただし血まみれの。香港版とほぼ同じ筋をなぞっていく中で、残酷描写のオンパレード、そしてジャック・ニコルソンの○○○が……。
 元の脚本が良く出来てるので安心して観られるが、細かい変更点も色々。まず主人公二人の心の交流をばっさりカット! もしも運命が変わっていたら?という視点は一切なく、ただお互いに憎み合っている。こんな気弱そうなやーさんがおるかいな、という役だったトニー・レオンに対し、ディカプリオは「出自の卑しさ」にコンプレックスを持った男。自分を変えるために警察官になったのが、マフィアに潜入捜査させられ「お似合い」の汚れ役を演じさせられる。その苛立ちは、のうのうと警察に潜むマフィア側の「ネズミ」に向けられる。対するマット・デイモン……空っぽの邪悪。飽く事なき上昇志向と権力欲。アンディ・ラウ演ずる香港版では、トニー・レオンに対する憧れのようなものもほの見えたが、デイモンには無邪気なまでの悪意しかない。
 無間という仏教的視点がアメリカ版から消えるのは当然だが、キリスト教的視点さえもまるで感じられない。ただ欲望のままに生きる者たち。救いは……ない。香港版にはなかった決着もまた……血まみれだ。


10月11日(水) 『父親たちの星条旗』
11月14日(火) 『硫黄島からの手紙』

 大阪梅田ピカデリー。
 個人的に戦争という行為のなにがダメかっていうと、要は弾丸が頭の上をピュンピュン飛んで、足下には死体が転がってる……という単純極まりないシチュエーションがたまらなくイヤだ。日常生活じゃありえない。当たり前だろう、とか言う奴はもっとリアルに想像してみろ! まして、自分が流れ弾かなんかでうっかりその死体に変わってしまう可能性も、大いにあるわけだ。そんなもんに意味なんかあるわけないだろう。というわけで、戦争ダメ、絶対。
 アメリカ編、日本編通して、この映画はその戦争のイヤ〜な現実を克明に描写する。もうそれだけで傑作認定。戦争とはこういうものだという圧倒的な現実を、国の内外含めて、観客の前に放り出す。そういう状況の中でどういう選択をするか、というのは個々のキャラクター、ひいてはいつか戦争に関わることになるかもしれない我々個人個人が判断すればいいことで、それはそいつの勝手である。

 ジョン・ウーの太平洋戦争映画『ウインドトーカーズ』も、やたら派手な爆発が起きまくることを除けば、その点でも結構がんばっていたんじゃないか。この映画でニコラス・ケイジとコンビを組むネイティブ・アメリカンの兵士アダム・ビーチが、エセ日本通のケイジに日本語を教えられるシーンがある。その中で抱腹絶倒ものだったのが、日本兵に変装して捕虜のケイジを引っ立てて行くシーンで、言わされた台詞……「ホリョダ!」。
 で、よせばいいのにこの『父親たちの星条旗』、同じようなネイティブ・アメリカンの兵士役で、アダム・ビーチが出ているのである。あれから月日も流れ、織田裕二似だった彼もすっかり太ってしまい、『ウインドトーカーズ』でクリスチャン・スレーターと組んでいた方の人そっくりになってしまっていたが……。いや〜、いつ「ホリョダ!」と言い出すかと、見ていて気が気でなかったよ。

 日本側視点の『硫黄島からの手紙』は、栗林中将を演ずる渡辺謙が垢抜けすぎていて、今にも携帯電話を取り出しそうでハラハラしたものである。その点では、嵐の二宮君はなかなか好演であった。ジャニーズというと、ネット上での写真の使用の規制がある。SMAP主演の数々の映画や、来年のイノッチ主演作……公式サイトを見ても、見事に写真ゼロだ。二次使用を防ぐためとうたっているが……これでは宣伝にならんだろう。さて、ほとんど主演になってしまっているこの映画でも、やっぱり公式サイトではなかったことになってるのかな……と思って見たら、ああ!? 二枚だけだが載っているじゃあないか! うーむ、さすがはWBとイーストウッド、ジャニーさんの権威も通用しなかったか……。

 アホなことばかり書いてますが、両作ともに傑作ですので、よろしく。


8月28日(月) 『ブラック・ダリア』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 うーん、原作というのはあのハリウッドが華やかなりし、言わば虚飾に満ちた時代が舞台なわけですよ。そんな中、主人公はそういうカッコばかりの見せ掛けだけの世界を冷ややかな目で見ながら、小利巧に実利を取る生き方をしようとしている。だが、次第にその虚飾の時代の裏に隠された闇に引き込まれ、理解して避けていたはずのものに取り憑かれて身を滅ぼしていく。あの時代ならではの狂熱と、そこにあった人間の負の面を描いたのがエルロイの『ブラック・ダリア』だったんじゃないでしょうか。
 それがどうしてこう、わざとらしい三文芝居みたいなサスペンスになっちゃうのかねえ。まあデ・パルマに長回しやめろって言っても無理ですわねえ。ジョシュ・ハートネットも複雑な心理を描くには、いかにも演技力不足。アーロン・エッカートも健闘してるんだが、いかんせん演出が記号的でわざとらしいんで、割を食ってますな。
 エリザベス・ショートのオーディションの映像の、白痴的な美は素晴らしい。が、やりすぎてわざとらしい。そしてそれと全然似てないマデリン=ヒラリー・スワンク……。誰だよ、監督とキャスト決めた奴は。まあただのドッキリ・サスペンス映画として見ればまずまず。


8月22日(火) 『ワールド・トレード・センター』

 大阪四ツ橋厚生年金会館。ここもじきに無くなるという噂ですな……。
 映画の序盤でいきなりビル崩壊が起こってしまい、ニコケイ他一名は、早くも生き埋めに。そして救出される終盤まで、埋まってる二人の会話と、安否を気づかう家族のシーンが交互に……。見せ場らしき見せ場は一切なく、人物描写も通り一遍でどうしようもない。なんかの災害映画で見たような展開が延々と続く。災害映画、と書いたがほんとにそんな感じで、政治色はまったくなし。映画撮って「テロ撲滅!」とか吠えるのも何だかなあ、と思うが、この題材でもって「助け合いの素晴らしさ」を訴えられてもねえ。
 実際に現地で災害救助にあたったスティーブ・ブシェミにぜひ出演してもらいたかった。一方、ニコラス・ケイジは映画のほとんどの時間ホコリかぶって埋まったままで、おそらく撮影はセットに潜り込んで台詞を順番に言っていくだけでほぼ終わったんではなかろうか。実は低予算?


7月31日(火) 『マイアミ・バイス』

 大阪四ツ橋厚生年金会館。
 マイケル・マンの映画に、もはやこれっぽちも期待してないわけだが、まあ予想通りの内容。
 バディなのにてんでバラバラ、微妙に信頼関係のない主役二人。おなじみマン監督のキメキメの映像が、無言の男たちの横顔を舐めて行く……。FBIのコンピュータにまで侵入されているハイテク時代に、思いつきによる潜入捜査という設定がまず無理なんだが、監督はひたすら女を口説き引き立て役の犯罪者と渡り合う「男」の生き様を描きたいだけなんで……。
 中身スカスカのお話が、マイケル・マン監督のスタイリッシュな映像に救われていると取るか、監督の映像感覚があるが故にこんな手抜きのシナリオがまかり通ってしまうと取るか……。


7月18日(火) 『グエムル』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 『ヤンガリー』に続く、韓国映画史上二本目の怪獣映画……ということだが、ジャンル的にはモンスターパニックのくくりですな。ソウルの町中を流れる川から怪物が上陸し、河川敷で大暴れする冒頭十五分は圧巻の一言。こりゃいったいこの映画はどうなっちゃうんじゃ!?と思ったが、それ以降は急速に腰砕けしていく。とことん低能に描かれた主人公が、わからずやの政府国家に邪魔されて、折り合う気配もなくただただ時間だけが過ぎて行く。登場人物全員がバカなので、展開が無闇に引き延ばされ、結果として、生き餌として捕獲された娘の安否、というサスペンスが生きてこない。
 怪物の映像は素晴らしく、人間との絡みのシーンも迫力充分。もう少し登場人物を魅力的に描けないものかねえ……。


7月13日(木) 『スーパーマン・リターンズ』

 大阪梅田ピカデリー。
 さて、『XーMEN』を降板したブライアン・シンガーが次に挑むのがこれ。設定は、かつて地球を守ったスーパーマンが、自分の故郷の星を探しに宇宙へ去って5年後。かつてスーパーマンの恋人と言われたロイスは彼の留守中に一児の母となり、新聞社の同僚と新しい家庭を築こうとしていた……。
 いや、大して期待してなかったのだが、正直ぶっ飛んでしまった。2時間30分と言う長尺に関わらず、一切ダレ場なし! おなじみ心理描写が細かい細かい。スペースシャトル打ち上げ用の飛行機が、シャトルとの連結を解除できず、凄まじい速度で成層圏に向けて上昇開始。このままでは空中分解という大ピンチ、取材で乗っていたロイスも絶体絶命! 加速する飛行機の中でベルトの外れたロイスは壁に叩き付けられ、もうろうとした目でこれがこの世の見納めか、と窓の外を見る……その視界を超高速で横切る青い影! 「え!? マジで!?」といったその瞬間の表情が、かつて幾度となく危機を救ってくれた男、5年前に黙って姿を消してしまった男への複雑な心情と重なり、その後の壮絶なカタルシスへと還流していくわけであります。
 そのロイスと現在つき合っている男、『XーMEN』のサイクロップスことジェームズ・マ−ズデン。『君に読む物語』などでもヒロインを手に入れながらもどうしてもおいしいところをもらえない、永遠の準主役男。今回も、ロイスが今もスーパーマンを愛している事に薄々勘付き、「ちっ、スーパーマンだと〜?」と嫉妬の感情を覚えている。しかし、沈没する船内にロイスと子供と一緒に閉じ込められ、閉まったデッキのドアから海面を見上げ、これがこの世の見納めかと思ったその時……がっちりと船を掴んで空へ引っ張り上げる青い影! まっぷたつに折れた船体が一人の人間によって空高く持ち上げられる、何かの冗談としか思えない光景。「手を貸そう」というスーパーマンに対し「あ、ありがとう」と返すマ−ズデン……その時、彼の中にあった嫉妬は完全に吹き飛んでいた。あまりのスケールの違いに……。
 はあ〜、スーパーマンってこんなに凄かったんだ……そして、ラストで心を満たす静かな感動。宇宙をさすらい、同族を見つけられなかったスーパーマンが最後に見いだした物とは……。
 試写が終わり劇場を出て、空を見上げた時……バットマンはゴッサムシティにしか現れない。スパイダ−マンは摩天楼にしか似合わない。だが、梅田の空に、僕は確かにスーパーマンが飛び去る姿を見た。


6月29日(木) 『XーMEN ファイナルデシジョン』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 あああ〜超大作やらすには小ぎれいにまとめ過ぎる男(というかゲイ)、心理描写の達人ブライアン・シンガー監督は降板してしまいました。脇役キャラの心理やら、アメコミ原作のアホ映画でここまでやらんでも、というぐらい丁寧に描きまくった監督が『スーパーマンリターンズ』に行ってしまい、代わりはブレット・ラトナー。無難にまとめるチャンピオンである。
 ただ、やはり3作目ということで、もう心理なんて描いてくれなくてもキャラクターのことはみんなわかってるわけで。そこらへんは前作を思い出しながら見れば無問題。シリーズ完結編ということで、スケールだけは倍増。完結編ということで、まとめのためにあるキャラは消え、あるキャラは背景と化し、あるキャラははしょられ、あるキャラはキャラ自体が変わり……取りあえず展開の速さは倍速。某チームリーダーの扱いの悪さ、某ヒロインの存在感の薄さはファンなら激怒ものだ。
 金属を操る能力を持ち、このシリーズを戦車やミサイルの飛び交わないどこか地味なものにしてきた元凶、マグニートーことイアン・マッケランは相変わらず絶好調。脂ぎったところは微塵もないジジイなのに、なぜここまで野心的でなぜここまで自信に満ちて見えるのか。やりたい放題には今回で一応、終止符が……打たれ……?
 え〜、ファイナルと銘打たれてますが、はっきり言ってなにも終わりません! 続けようと思えばいくらでも続けられる内容。ただ、それを批判するのはお門違い。原作を含めてこのシリーズが描き続けたのは、他者、他種族への差別と偏見、そこから生まれ際限なく繰り返される闘い、戦争そのもの。それらがこの世からなくなることが絶対にない以上、このシリーズには安直なハッピーエンドもまたありえないのだ……。闘いは続く。


6月9日(金) 『サイレントヒル』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 ゲームをやったことがないのだが、『ジェヴォーダンの獣』のクリストフ・ガンズ監督ということで、超期待! だったんだけどねえ……。
 全然予備知識がなかったんだけど、これって怪物がワンサカ出てくるアクションゲームだったのね。しかしいきなりCGの怪物が明るい場面でババ−ンとこれ見よがしに出てくるとは思わなかったよ。いや、頑張って作ったCGを見てもらいたいのはわかるんだが、どのシーンもクリーチャーの動きをこれ見よがしに見せつけてくれてしまっては、恐怖感など盛り上がりようがない。灰の降る街にサイレンが鳴り響くと、闇が降りてきて怪物が暴れ出す……という設定なのだが、これって「安全地帯」を設定する、いかにもゲーム的な設定だわね。ああ、昼間は安全なんだ、今の内に謎を解こう、という風に、どうしてもゲーム的な思考に陥ってしまい、たった2時間ぽっちの映画なのにいやに気が抜ける。
 いやはや、ここまで怖くないホラーは久しぶり。事件の真相を描いたショートフィルム的な映像はなかなかの出来で、なぜこのタッチをもっともっと使わなかったのか……。街を闊歩する闇よりも、それを生み出した人間たちの偏見と集団心理の方がよほど恐ろしい、というのは実に真っ当なテーマで、それゆえにクライマックスの大殺戮になんとも言えないカタルシスが生まれる……という展開はいいんだが、演出がそこまで引っ張れなかった。言っては悪いが、ホラー撮れる監督じゃなかったということ。はあ。


6月8日(木) 『ブレイブストーリー』

 大阪梅田ピカデリー。
 いや、やっべ! 試写だってのに劇場ガラガラ!
 アニメ界に燦然と輝く映像集団「GONZO」の映像はさすがのクオリティで、演出もなかなか頑張っている。が、やはりゲームみたいな世界設定の薄っぺらさと、そのゲーム感覚を徹底して描けない尺の短さが響いた感じ。テーマも真っ当だし、つまらなくはないんだがなあ。子供が能天気に喜ぶには重いし、大きなお友達が惹かれる要素もない。理屈に合わないラストにも、オレはおかんむりだ。
 普通にしょぼいウェンツと、ダメすぎる常盤貴子がなければ、もうちょっと高評価だったんだが。つうか、ミツル役は普通に石田彰あてとけばいいのに……。


5月30日(火) 『ウルトラヴァイオレット』

 大阪梅田ブルク7。
 『リベリオン』のカート・ウィマー監督の最新作、例によって全米では大コケ。これまた1時間27分という上映時間。その中で60分間、撃って撃って撃ちまくる、銃と居合いを組み合わせた必殺の武術「ガン・カタ」の嵐! もうドラマ性とかはそっちのけで、ジョヴォヴィッチ先生の大暴れだけ。ちょいと端折り過ぎで、主人公の心理やクライマックスへの伏線がいまいち機能してないので、映画としては断然前作の方が上だが、ガン・カタは無闇にスケールアップしている。アメコミへのこだわり、『マトリックス』への露骨なオマージュもあり、どことなく『リベリオン』のアクションシークエンスを逆になぞっていくような構成にもニヤリ。ヒマな人は、ジョヴォヴィッチが何人倒したか数えてみて下さい。


5月17日(水) 『ポセイドン』

 大阪梅田ピカデリー。
 ハリウッドの企画のなさを裏付けるリメイクもので、海映画経験豊富なぺーターゼンを監督に起用……で、なんか見る前から消化試合の雰囲気がプンプン。ただまあ、無駄に長い映画を撮るぺーターゼンがめでたく100分以内にまとめた映画を作ってくれたわけだから、せっかくだし見ましょう。ランニングタイムの短さ通り、開始十分で転覆する船。その際になぜ津波が来たか、なんて説明は一切なし! あとは主人公グループが船底から脱出するまでを延々と描き続ける。いや、それだけの物だと思えば、全然退屈はしませんよ。『海猿』とか、途中で休憩しすぎ、ダラダラと外としゃべりすぎなんだもの。
 我々一般人でも、微妙に真似して脱出できそうな演出でつなげるあたり、なかなか上手い。全編に渡って横たわる死体の山もナイスだ。


5月16日(火) 『M:i:3』

 大阪梅田ナビオシネプレックス。
 良くも悪くも監督の作家性バリバリだった一作目、二作目。それはそれで面白かったものの、プロデューサーも兼ねるトムは、こいつらの手綱は締めておけなかったのか?との疑問もチラリ。あ、私は意味なくジョン・ウー節満開の二作目が一番好きですが。今作はそれとは打って変わって新人監督を起用。わはははは、さすがに作家性は微塵も感じられず、よく言えば大作感があり、悪く言えばただのアクション映画。
 終盤までタイトル通りミッション、ミッションの釣瓶打ちで通した構成は買いますが、肝心な終盤の盛り上がりのなさが致命的。完全敗北を喫しながらも悪役のお情けで助けられたトム、という状況は、こりゃ単なる脚本のミスじゃないかと思えてしまう。挙げ句に食堂の裏で殴り合うクライマックス……最後は大作感も吹き飛び、いかにもこじんまりとしたラストにまとまりました。お願いですから、これ以上続編作るのはやめて下さい。


4月18日(火) 『インサイドマン』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 スパイク・リー監督の、銀行立て籠りサスペンスもの。すっかり商業監督になったのかと思いきや、いちいちマイノリティに対する差別意識なんかを盛り込んで、最低限の自己主張は忘れない。「ビンラディンの甥」には笑った。そんなこんなで演出もかったるいし、サスペンスとしては5割過ぎた辺りでだいたい展開が読める。どことなく古き良き時代の映画のムードも残しているため、あまりバッサリと切り捨てることもしたくないのだが、まあ物足りない出来であった。
 なんのためにこんな役を受けたのかわからんジョディ・フォスターとウィレム・デフォーなどもそうだが、「黒人」でありながら「ヒーロー」と「成功者」、両方の役割を背負わなければならないデンゼル・ワシントンに、今のスパイク・リーの苦しいところが見えたような気がしたなあ。


3月27日(月) 『小さき勇者たち ガメラ』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 いや〜見ましたか、あのガメラの弱々しげなデザイン、堂々と子供向けと言い切られたストーリー。もうね、見る前から、やばい匂いがプンプンと漂っていたのですよ。特に同じようなコンセプトを掲げた『妖怪大戦争』というクズみたいなものを見た後でしたからねえ。あ〜あ、幼稚でガキに媚びたつまらんものを見せられるのか。イヤなら試写なんて行かなきゃいいんだけど、一応押さえておきたい気持ちになるオタクの宿命か、怪獣映画ファンとしてのなけなしの義務感か、いずれにせよ損な性分だな……てな事を考えながら見てきました。

 ……泣いた。

 そして燃えた。冒頭の、平成三部作をパロッたようなカメラワークで展開されるガメラVSギャオスの闘いに、まずいささか引いた。その後のガメラ自爆という思いもよらぬシークエンスの衝撃は、そのシーンを「ガメラはオレたちを守るために自爆したんだ」と、わざわざ台詞で説明してくれる村人に対するいらだちでぶち壊されたのだが、まさかこれさえもが、この後、映画全編を徹底して貫いたある描写の一環であったとは……。

 まずは母を失った主人公の少年の心理が、徹底して描かれる。もともと大した会話もなかった父とは、心も通じない。寂しさを拾ってきた亀で紛らわす日々。その亀、後に空を飛んだりするのだが、これが驚くことにほんとにただの亀。少年はあれやこれやと亀に話しかけるが、意志の疎通はまったくできない。当たり前ですよ、は虫類なんですから。車に轢かれそうになったりして少年に助けられるんだが、ぷちっと潰される瞬間まで、何も考えなかったのではないかと思わせる、マジなは虫類ぶり。人格というものが感じられない……当たり前だよ。
 紆余曲折あって巨大化してガメラとなるわけだが、この後もこのスタンスはまったく変わらない。主人公の少年はこの亀に「トト」と名付け、ガメラとは呼ばないのだが、この「トト」に対して少年がいくら呼びかけても、この亀は一切応えない。当たり前だ、亀なんだから。人間の言葉が通じるわけないよ、怪獣なんだから……。

 しかしこの部分が、近年の怪獣映画がもっともなおざりにしてきた部分だったのではないだろうか。すなわち生物である「怪獣」の、人間との決定的な断絶である。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』以降のゴジラに至っては、作品ごとに違うテーマの中、まったく違う役割を付与されて描かれてしまっていた。その描写、テーマ性のオリジナルとの差異はもちろんのことだが、それ以上に気になったのが、あまりにも過剰な、役割に対する「意味付け」だった。戦争の怨霊、侵略者、倒すべき敵、最強の怪獣……まずその役割ありきで、結果「ゴジラ」という怪獣のパーソナリティ、本来、映像から読み取られるべきもの、我々観客が解釈すべきものは描かれず、制作者はその役割に応じてゴジラを動かすことに汲々とするようになった。まさに本末転倒であった。
 平成ガメラシリーズにも、そのきらいはあった。人類の味方から地球の守護神へ、という設定を付与し、三部作の中でそれを一貫して描こうとしたことは面白い試みであったが、それに拘泥し過ぎたつけが、結局のところ「ガメラ3 邪神覚醒」における説明過多な脚本という形で噴出したように思える。

 今作の「亀」には、そういったあらかじめ決められたテーマは、一切付与されていない。亀はただ成長し、街を襲う巨大なエリマキトカゲに立ち向かって行く。その行動原理は、謎である。設定だけ読めば、飼い主、友達である少年を救うため、という解釈も可能であろう。だが、結果的にそういう形にはなるものの、亀側の描写にはそういったシーンはまったくない。少年の言葉が通じたという明確な描写、人語を解したという反応は、いっさいないままなのだ。これは対象を人間全体に広げても同じことである。亀は、いったい、何のために戦っているのだろうか? 血を流しながら、自分より倍も巨大な相手に、なぜそこまでして立ち向かうのか? 謎である。まったくの謎である。少年は言う。「トトはまだ子供なのに、なんで戦わなければいけないんだ。戦わなくていいはずだ」。かつてガメラの自爆を目撃した少年の父は言う。「あれはガメラだ。ガメラはオレたち人間のために戦うものなんだ」。それに対する解答は出ない。
 別にわからなくていいのである。怪獣なんだから。怪獣には怪獣の、亀には亀の生き方があって、人間にはわからないけれど、彼はそれに従って生きている。行動を都合良く解釈するのは勝手だが、それが本当なのかはわかるわけがないのだ。ぴんとこない方は自分のペットを思い出してもらいたい。しつけられた生き物なら、いくらか言うことを聞きもするだろうが、時に逆らったりすねたり……まして、何のために生きてるかなんて、まったく謎のはずだ。

 ……だが、謎ではあっても、愛することはできよう。

 この映画は、それを描いた物語だ。少年は、自分の全てを理解してくれた母親を失った。寂しさを埋めるように、物言わぬ一匹の亀を愛した。心の通じなかった父は、その愛に動かされ、息子と言葉を通わせた。その愛は、幾多の子供たちを捉え、動かした。それは、その思いは、亀には伝わったのだろうか? わからない。わからないが……彼は、勝ち抜いた。

 去り行く「亀」を見送る少年の呟く「さよなら、ガメラ」という言葉は、かつて「来るよ、ガメラはきっと来るよ」と呟いた少女とは、対象的だ。ある種の脳天気ささえ感じられる後者とは対象的に、その台詞には去っていく友に対する惜別の情と、その自由な生を尊重しようという大人としての分別さえもが込められていた。
 その「亀」は、小さくて弱々しくて、だが一個の生物としての意志を持ち、人間とは決して交わらぬ、自由な、孤高の魂を持っている。それこそが「怪獣」なのだ。
 そこに、テーマに縛られた窮屈さはない。つながりもないのに「シリーズ」と奉られ、役割を演じさせられる「役者」の悲哀はない。一つの闘い、一つの物語。それはこの一本の映画で完結し、それでいて今後も無限の可能性を感じさせてくれるものであった。

 うーん、素晴らしかった。「ガメラは少年のために 少年はガメラのために」というコピーがまったく看板倒れになっていないところも良かった。「ガメラは子供(人間)の味方です」という設定は、いかにも「無条件に」守ってもらえるという臭いがして、そんな都合のいい話があるわけないだろう、幼稚だな、とかねがね思っていたのだが、今作は「いや、子供もガメラの味方なんです」と、言わば相思相愛に仕立てた。恐るべき力技、納得せざるをえない。これらは同時に、愛なくば努力なくば何も得られはしない、ましてや戦わずして……という人生の最大の教訓を、子供を甘やかさず、苛烈なまでに歌い上げている。これこそが真の「子供向け」な内容であると言えよう。

 痛いのは、少なくともシナリオレベルにおいては、「ここ20年間に作られた数々の怪獣映画は、一切、参考にされていない」であろうことだな。我々は、多くの時を無駄にしたのだろうか?


3月23日(木) 『アンジェラ』

 大阪梅田ピカデリー。
 今年の試写会は外れが多く、クソみたいな映画を多数つかまされてきているわけだが、世の中は広い。下には下がある。リュック・ベッソン監督10本目にして、才能の枯渇をまざまざと印象づける最悪の映画。
 チビでもてなかった僕でしたが、いい女に愛されて自信を持てました。君は僕の天使です。……ということを、おそらく今つき合ってるんであろうヒロインのリー・ラスムッセンに向けて言いたかったのであろう映画。んなこと映画にせずに家で言えよ! 娼婦=天使という安直なイメージは、いい大人の恋愛観とは思えない。ジョヴォヴィッチに負わされたトラウマは、よほど根深いのだろうか……?


2月28日(火) 『V・フォー・ヴェンデッタ』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 ウォシャウスキー兄弟プロデュースということで、ちょっと期待していた映画。ファシズム描写が通り一遍の域を出ないのがいささか期待外れで、そのファシズムに立ち向かう主人公を描く映画としては、ちと弱いか。ただ、支配と革命の歴史というのは、バカみたいな連鎖を延々と繰り返し続けるものであろうから、ベタな描写でOKと言えばOKだ。
 警官をぶち殺しまくるテロリズム万歳映画、ということで批判もあるだろうが、全てを奪われた男の復讐譚として単純に見れば面白い。ビジュアル的に弱いのと、原作のコミックがそうなのだがテーマを状況でなく台詞で語り過ぎなのが物足りない。『巌窟王』のファンとしては万々歳な面もあるのだが……。


2月23日(木) 『SPIRIT』

 大阪梅田ピカデリー。詳しくはこちら


2月7日(火) 『プロデューサーズ』

 大阪梅田ナビオシネ。
 トニー賞12部門受賞のミュージカルの映画化……ということで、そこそこ楽しめるかと思ってたのだが……。いやね、もう終始ドン引き。むさくるしいおっさんが延々ともだえ続けるオープニング。今どきゲイとババアを笑い者にして笑いを取ろうというセンス、いやナンセンスか。ついでに黒人も笑い者にすればどうだ。ちょちょっと端折れば30分に収まりそうな話なのに、ムダに踊り続けるかったるさ。脳みそ空っぽの女と薄っぺらな友情の、ホワイトトラッシュのサクセスストーリー、アメリカの夢。低能にはお似合いの内容だな。


2月2日(木) 『イーオン・フラックス』

 大阪梅田ナビオシネ。
 美人女優が2丁拳銃を撃ちまくる近未来アクション……ということで、つまらないわけがないと期待したのだが……どうしてこんなにつまらないんでしょう……。まず台詞でだらだら語られる世界観に、まったく魅力がない。世界中を覆い尽くしたウイルスから隔絶された都市で、人々が迫害を受けている。それに主人公とその組織が立ち向かっている……という話なのだが、この迫害の内容がまったく不明。それに対して主人公がどういうポリシーでいるかもまったく謎。そもそもの立ち位置がわからんのだから、その後の状況や心情の変化がいくら語られようが、感情移入のしようがない。
 93分の上映時間で10分も寝ちゃったよ。ひどい映画だった……。


1月25日(水) 『美しき野獣』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 冷徹な検事と、直情型の刑事が一つの事件を追う……と、設定自体はアメリカ映画でも散々やったもの。が、ベタでもこういう話は、アクション主体に描くもよし、主人公のキャラクターの描き分けで見せるもよし、料理の仕方でいくらでも面白くなる。韓国映画は技術的には高い水準にあるので、少し期待していた。
 まさか、ここまでつまらないとは思わなかったよ。
 クォン・サンウ演ずる主人公のキャラクターが、とにかく酷すぎる。『美しき野獣』というのは単に邦題に過ぎないにしても、まずむさくるしいばかりで、ちっとも美しくない。
 冒頭、ヤクザの親玉が刑務所から出所してくるシーンがあり、そこでこの刑事がいきなり絡む。ストーリー的に絡むという意味ではなく、本当に絡む、因縁をつけるのである。見ていて、「ははあ、何かこのヤクザとの間に、過去の捜査か何かで因縁があるのだな」と思わせるところであるが、これが実は面識も何もなかった。単にこの主人公は、同じ日に出所してきた弟の出迎えに来ただけで、通りすがりにヤクザがいたからちょっとむかついただけだったのだ。いくらヤクザでも、出所したてのところに理由もなく罵られる言われはないだろう。いきなり人格の破綻ぶりを見せつけてくれる。ところでこの出所して来た弟というのもヤクザの下っ端であって、救いようのないバカ。入院した母親の手術代を捻出しようとして、いきなり全額スッてしまう。でもって、出所早々、他のヤクザに始末される。
 弟の仇を取ろうと、クォン・サンウ刑事はゴルフクラブを握りしめ殴り込み。これによってもう一人の主人公である検事は、捜査をぶち壊されてしまう。この検事こそが冒頭で出所してきたヤクザを一度ぶち込んだ本人であり、過去の犯罪を暴いて再び刑務所に送り返そうと捜査を続けている。しかし、ここで徹底的に反目するのかと思いきや、検事は刑事が賄賂に屈しない人間であることを試した後、自らのチームに引き入れてしまうのである。こんな私怨で動いてる人格破綻者をなんでそんな簡単に信用するんだろ……と不思議だったのだが、これは後で明らかになった。検事は、刑事が事件を追っているのを職務と正義感ゆえと思い込んでいて、殺されたのが「弟」だったということを知らなかったのだ……って最初に調べろよ!
 捜査のための書類を揃えている時に、刑事はまだるっこしいとマジギレ。取りあえず捕まえて吐かせればいい、とのたまう。検事の部下はやな顔だが、検事は自分が見込んだためか、この男に甘い。しかし容疑者を殴り参考人を殴り、カメラが回り続ける取調室で執拗に殴り続けるあたりで、この刑事には本当に脳みそがあるのか、と疑いたくなる。果たして、刑事はヤクザの罠にはまり、取調中の暴行を理由に逮捕され、検事もそれを黙認した罪に問われて逮捕。当たり前だろ、としか言えないと思うのだが、裁判の最中に冷徹なはずの検事までが涙ながらに「僕は細かいことはともかく、原則は法を守ってきた。なぜもっと悪いヤクザを捕まえないんだ」と訴える。バカ丸出しである。結局、検事も刑事も法の護り手としてのモラルもなにもなく、ただひとりよがりの正義を振りかざしているに過ぎない。それらを職業上のプライドと同一視し、混同している。
 家庭を持てない刑事と、家庭を顧みず妻に逃げられた検事が、対照的と見えて本当は同じようなメンタルの持ち主であることが、次第に明らかになるのだが、お互いの存在が何もプラスにならず、逆に倍の速度で坂道を転がり落ちて行く展開には、失笑するしかない。
 法律は二人を最後まで助けず、彼等はそのひとりよがりの正義を最後まで振りかざし続けて破滅し、映画は終わる。これは、いったい何を言いたい映画なのだろう? 刑事は弟とも分かりあえず、母親を世話してくれた女を愛することもできず、検事以外の誰にも理解されない。検事は妻には見放され、やり手として部下には恐れられるが、無理な捜査に固執し、なんの信望も得られないでいる。共感するには、あまりにも幼稚すぎる。
 では、涙を誘う悲劇として捉えるべきなのか? 否、彼等は不幸ではない。法は裏切られたからこそ彼等を見放したにすぎないし、女たちはどこまでも寛大だった。二人は自ら破滅したのだ。
 それでは、正義が成されず悪が栄える社会への批判と受け取るべきなのか? これも違う。主人公の行動理由はあまりに安直で独善的で、そもそも正義などでは断じてない。まずなにが正義かを描かずして、悪への批判などがまかり通るはずがない。
 幼稚でわがままなキャラクターと中身のないストーリー、うわべだけの社会批判。これに共感する人間、涙する人間の神経と品性、知性を、私は疑う。


1月17日(火) 『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』

 大阪梅田ピカデリー。
 原作への思い入れ、という点では『指輪物語』よりも深いこの作品。と言っても、小学生の時に読んだくらいだから細部は記憶ナッシング。そんな状態で見始めたわけだが、見てたら段々と思い出した。
 やっぱり楽しいね。動物がベラベラとしゃべったりとか、微妙に嘘っぽいところが、いかにもファンタジーです、という感じで良いな。原作は結構説教臭い内容だったような気もしたが、映画版は楽しい冒険ものの要素が強調されていて、気楽に楽しめる。確か原作では、主人公たちが疎開先の田舎で、地元のガキにいじめられるシークエンスがあった。ナルニアとは、現実逃避だったのか? その後、アスランと共に一回現実世界に帰って来て、そのガキどもを脅かしてもらい、剣でしばき回して仕返しする、というオチ。いやあ、非常にさもしいですね。ここらへんが映画ではばっさりカット。良かった良かった。
 ま、大の大人が真面目に見るほどのものではないが、終盤は盛り上がるし、なかなか楽しめた。


12月15日(木) 『PROMISE』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 気取った映画を撮りくさる巨匠、チェン・カイコーのビジュアル巨編。武術指導に『風雲』『ロミオ・マスト・ダイ』のディオン・ラムということで、重力を無視した三次元クンフーを期待……無理だろうな、チェン・カイコーだし。デューク真田、久々のアジア映画主演ということで、往年のアクションを期待……無理だろうな、チェン・カイコーだし。ちらしを見てたら運命とかなんとか小難しいことが書いてあって、んなことどうでもいいからわかりやすい恋愛話でまとめようぜ……無理だろうな、チェン・カイコーだし。などと期待は多分に抱えながらも、わりと諦め気味であった。……が、しかし、なんぞ知らん、これらのバカ映画好きの願望が、まさかすべて叶えられた映画であったとは……!
 二十万の大軍勢を相手に大暴れし、勝って胴上げされる真田博之。牛よりも速く走る男、チャン・ドンゴン。カリスマ全開で悪の魅力を発散しまくるニコラス・ツェー。それら豪華キャストによって、宙を舞い繰り広げられる華麗なるワイヤーアクション! 原作こそないが、テイストは『風雲』『中華英雄』などに近い、ほぼマンガ。バカみたいな三角、四角関係も、セシリア・チャンの美麗さ一つで納得。セシリア・チャンもこれは代表作になるんではないか(声は吹き替えみたいだけど)。白塗りして、誰やねんというぐらいの美しさだが、時折ふっと空気が緩んだ瞬間、セシリア・チャンの素顔がのぞく。これはデビュー作『喜劇王』において、ホステスやっててえらい厚化粧なのだが、夜明けを迎えて化粧を落とした時、初めて素顔がのぞく……あの演出を思い出した。チャウ・シンチーとチェン・カイコーが、どっちもセシリア・チャンの良さを引き出しているのが読み取れて、感動である。
 しかし女っちゅう生き物は、とりあえず「いい人」であれば「いい顔」をするもんなのだなあ。そして、それをすぐに勘違いしちゃう男たち……。いやあね。度しがたいね。アホくさいけど真理ですね。


11月17日(木) 『フライトプラン』

 大阪梅田ピカデリー。
 飛行中の旅客機の機内で行方不明になった娘を探す、サスペンス。序盤は結構ハラハラさせてくれるのだが、真相が明らかになるにつれ、怒濤の勢いで腰砕けになっていく。うわあ、無理あり過ぎ! 流行りの母性愛キャンペーン映画だが、これなら『フォーガットン』の方がなんぼかましだろ。いい人も悪役もどっちもできる役者、ピーター・サースガートとショーン・ビーン、いったいどっちが犯人なんだろう、と思いつつも驚天動地の展開を期待していたが、そりゃないよ、というオチだった。やたらとアラブ人が疑われるとことかは、ちょっとぞっとしたものだが……。


8月25日(木) 『ブラザーズ・グリム』

 大阪梅田ブルク7。
 テリー・ギリアム久々の新作ということだが、独特のビジュアルセンスがこういう借り物の内容で生きるのか疑問だった。グリム兄弟の童話はすべてが現実に基づいていた、というのが骨子だが、それぞれのエピソードがいかにも後からあてはめたように見え、実に苦しい。性格の違う兄弟二人の対比もうまくいっておらず、脚本が良くないらしい。悪趣味なキャラクターや展開は、好きな人は好きなんだろうが、きれいごとの裏返しの偽悪というのは、同じぐらい胸くその悪いものである。
 スケール感のない森や、幾度も繰り返される動く木のどっきり。才能が枯渇したんじゃなかろうか。


8月23日(火) 『ステルス』

 大阪梅田ナビオシネ。
 無人戦闘機の反乱と、それを止めようとする人間のパイロットたち。当初はその対決を主軸にしたシリアスドッグファイトムービーを想像していたのだが、見たら全然違った。ほとんどドラえもんのような内容だ。さすがはロブ・コーエン監督、禅の思想に傾倒するだけのことはある。作中、延々と挿入されるタイの仏像のシーンには、禅の奥深さに圧倒される思いだ。自我とモラル、因果応報、深いテーマのこめられた、ものすごいアホ映画であった。いや、笑った。
 『マクロスプラス』とか『戦闘妖精雪風』とか、戦闘機アニメの好きな人は必見。「必殺、竜鳥飛び!」を生で(CGだけど)見られるとは思わなかった。


7月19日(火) 『奥さまは魔女』

 大阪梅田ピカデリー。
 名作テレビドラマのリメイクだが、作中でリメイク版ドラマの撮影をしているという、メタフィクション的な構成だ。「魔女」ニコール・キッドマンはマジに年齢不詳な感じに仕上げて来て、いい感じ。対するダーリン役はウィル・フェレル。サタデーナイトライブなどで活躍するコメディアンである。これが見事なサル顔で、ロン・パールマンの甥のようだ。
 しかしこの男がなぜか面白い! 表情か? 動きか? とにかく躍動するこいつを見ているだけで、なぜか笑いが込み上げてくる。いつのまにか、女性ばっかりの場内が爆笑の渦! オレも声を殺して笑いながら、しかしなぜ笑っているのかさっぱりわからない! あまりに非論理的! 内容はどうでもいいが、意外にも面白かったのであった。


7月7日(木) 『私の頭の中の消しゴム』

 大阪梅田ピカデリー。
 オレの嫌いな(笑)韓国映画の恋愛もの。『武士ーMUSA』のイケメンが主役ということで、まずまず安心して見られる内容になっていた。韓国映画の恋愛ものの何が嫌かって、親しみやすい容貌の主演男優が、その親しみやすさを強調するためか実に幼稚な行動に走るところ。誰にだって子供の頃や若い頃はあるけれど、いい大人になってからそんな事をしても、みっともないだけなんだが。その点、このチョン・ウソンは徹頭徹尾シリアス・フェイス。幼稚さの介在する隙はない。もちろん、失敗もしたり相手の気持ちがわからなかったりするが、「未熟」ではあっても「幼稚」ではない。そこらへんに共感できる。
 キム・スジンは綺麗で可愛いが、『ラブストーリー』の頃からオレは嫌いである。アクがなくてつまらない。日本で言うと松嶋奈々子的人気が出そうなタイプだ。
 なかなかいい話なんだが、ラストが完全にギャグすれすれで、惜しくも泣けなかった。まわりは女性ばかりで、ものごっつう泣いてたが……。


6月27日(月) 『妖怪大戦争』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 宮部みゆき、京極夏彦、荒俣宏などがプロデュースし、自らもゲスト出演した映画。それだけに、妖怪を数だけ出して喜ぶオタク的発想が伺え、ノスタルジーに浸る自己満足的な感覚が充満している。だからこそ監督がゴジラをおかずにオナニーした『ゴジラ ファイナル・ウォーズ』よりはましなんだが。
 中途半端なギャグとテーマの混在が、映画の焦点をぼかしていて、非常に散漫な印象だった。寒いギャグも物量で攻めれば盛り上がるだろうに、絶対的な勢いがないのは、雇われ監督三池崇史に確たるビジョンがなく、プロデューサー陣も妖怪の総登場と自らのゲスト出演で満足してしまっているからだろう。時間のムダ。


6月9日(土) 『亡国のイージス』

 大阪梅田ピカデリー。
 今回は、なんと舞台挨拶があったのだ。監督、原作者と、サプライズで中井貴一が登場。中井貴一は別に好きな役者ではないが、本物はやはり渋い。
 長大な原作をどこまで映像化できるか、という危惧は当然あったが、実際は『ローレライ』などは倍の厚さがあったのだ。それに比べれば全然まし。自衛隊の全面協力ということで、イージス艦ももちろん本物。舞鶴に旅行した時に見たが、やはり実物はいい。甲板の上を走るだけで、何もかもが絵になる。これに比べりゃ『ローレライ』はアニメだ。
 原作の見せ場が多々削られているが、2時間しかないんだから仕方ない。テーマもキャラ描写もアクションも全部ほどほどにしてバランスを取った感は否めないが、時々超かっこいいカットなどもあるので、許せてしまった。如月行役の勝地涼も、なかなかいい感じ。エピローグもばっさり削り、絵が届いたところで終わり。映画なら、もちろんこれでいいのだ。映画化として及第点だった。原作を読んでいない人にどう映るか? がちょっと心配だが。


4月18日(月) 『デンジャラス・ビューティー2』

 大阪肥後橋リサイタルホール。
 サンドラ・ブロックの映画は割と見ている気がする……。前作も観たし『微笑みをもう一度』とかも観ている。前作は超いけてない捜査官が、ミスコンに潜入捜査することで若干垢抜けるものの、やっぱり「自分が一番!」と再確認する話であった。今作も構造はほぼ同じで、顔が売れ過ぎた主人公がセレブデビュー。しかしおっかなびっくりミスコンに参加し、最後まではまり切らなかった前作に対し、ほぼ完全に嫌みなセレブに染まるも、やっぱり元の「自分が一番!」と再確認する今回の方が、テーマ的にはより重い気がする、わけないか。


4月7日(木) 『ホステージ』

 大阪梅田ブルク7。あの大殺戮おフランス映画『スズメバチ』の監督、フローラン・エミリオ・シリが、禁断のハリウッドデビュー。
 元人質交渉人ブルース・ウィリスが、金持ちの家の人質事件と、その金持ちの家に隠された秘密を狙う組織によって起こされた自分の家族の誘拐事件を同時に解決しなければならなくなる……。ああややこしい。
 冒頭、大失敗で目の前で人質を殺される、ブルース・ウィリスの過去。いきなり幼児の射殺シーンから物語は幕を開け、この後の容赦のない残酷展開を予感させる。なぜか人が死ぬ度に、断末魔の表情が大写しになる、いい感じの趣味の悪さが最高! さすがはシリ! この後もクライマックスに向けて地獄絵図! 主人公を翻弄する顔の無い悪意と、金持ちの子供達に迫る顔のある犯人。物欲と狂気、二つの異なる悪の猛攻に、最後まではらはらしっぱなし。ほぼホラー映画なクライマックスの演出は、近年の同種の映画とは一線を画す迫力。
 ちょっと原作も読みたくなった、久々に一見の価値ありのサスペンス映画です。


3月28日(月) 『ダニー・ザ・ドッグ』

 大阪肥後橋リサイタルホール。詳しくはこちら


2月10日(木) 『Shall we Dance?』

 またも大阪四ツ橋厚生年金会館芸術ホール。椅子が狭いことをのぞけば、悪くないかな。
 実はオリジナルを観ていないのだが、これは面白かった。ジェニロぺの下半身の異様なでかさには、ちょっとびっくり。演技その他どれも悪くないんですが、悪名高いジェニロぺだけあって、つい色眼鏡で見てしまう。あまり社交ダンスっていうタイプには見えないのが難点でしょうか。リチャード・ギアは下手さ加減が悪い方向に出ていないので、まあ良し。
 ただ、これはあくまで社交ダンス教室と挫折したダンサー、日常に飽いたサラリーマンの関係を描いてストーリーで見せる映画なので、ダンス自体にはさほど見るべきところがない。やはりスポ根もののようなアスリートの美とでもいうべき内容を期待してしまうのだが……。
 いつも嫌みな上司役でしか見たことのなかったスタンリー・トゥッチが、珍しくいい役だったので驚き。実は芸達者な人だったのですね。


2005年1月13日(木) 『THE JUON 呪怨』

 大阪梅田ブルク7にて。こちらを参照。


12月14日(火) 『ナショナル・トレジャー』

 大阪四ツ橋厚生年金会館芸術ホールにて。本日はトラブルも無し。
 ジェリー・ブラッカイマーのプロデュース作品であり、なおかつニコラス・ケイジ主演作である。これは『ザ・ロック』『コン・エアー』級の大作を期待するところだが、残念ながらそこまでスケールの大きな作品ではなかった。同じブラッカイマー印ならば9デイズぐらいの規模と予算であろう。あちこちロケはしているものの、大掛かりなセットやCGはほとんどない。代わりにというか、やや余ったのであろう予算で、ヒロインにダイアン・クルーガー、悪役にショーン・ビーン、他にもジョン・ボイトにハーヴェイ・カイテルと、地味に豪華キャスト。
 フリーメーソンの隠された秘宝を求めて全米を冒険……と言えば聞こえはいいが、町中を普段着で捜しまわる展開に、『インディ・ジョーンズ』のような興奮は何もない。多彩な仕掛けが秘宝の隠し場所に絡んで用意されているのだが、そのあまりの回りくどさは、ほとんど陰謀史観的に荒唐無稽で、現実味が感じられない。ニコケイも、学者という設定だが、単なる宝探しオタクにしか見えない。これが本当に全米で三週連続ナンバーワン? 監督はジョン・タートルトーブ。無難なファミリー向けを撮るにはいいのだろう。ショーン・ビーンの悪過ぎない個性など、良かったとこもあるのだが、見どころのない映画ではあった。


10月25日(月) 『カンフー・ハッスル』

 大阪梅田ブルク7にて。冒頭、オープニングタイトルから、画面が時々横ブレする。ノンリワインド映写機ならではのトラブルだな……って殺すぞ! 映写屋なめんなよ! 幸い、数分以内にほぼなくなり、一安心。
 我らがチャウ・シンチー(少林サッカー)が「世界の中心にはブルース・リーがいて、彼が全てを動かしている」という思想と、「本当に心の底からドラゴンになりたいと思えば本当にドラゴンになれる」というテーマを込めて作ったこの映画。わずかな試写状をシンチーファンのI課長に託され、使命感に燃えて観に行きました。
 少林サッカーの圧倒的なまでの不条理性、『喜劇王』の純愛、『食神』の成長物語を期待すると、いささか肩透かしを喰らうかも知れない。期待が過剰すぎるゆえに……(笑)。だが、この映画の神髄は、派手なCGを多用しながらも正統派クンフー映画らしい「わびさび」の境地を実現しているところにある。激しい動の中の、一瞬の静。そして、あまりに激しく壮絶に炸裂する、奥義「如来神掌」。『キル・ビル2』の奥義「五点掌爆心拳」に続き、幻のショウ・ブラザーズの秘技が、銀幕に甦った。まさに、奇蹟。
 続編、希望。激しく期待する。


10月21日(木) 『エイリアンVSプレデター』

 大阪梅田三番街シネマにて。冒頭、FOXのロゴが出た直後、ブツリと言う雑音と共に、音声がデジタルからアナログへ落ちる。プリントが悪いのか、スタッフの不手際か、機械の調子か、原因は何かわからんがとにかく映写屋としては怒り心頭。
 その瞬間から、充分悪い予感はしていたのだ。低下したボリューム、前方からしか聴こえてこないサウンド、そして間延びしたストーリー展開と、新味のないビジュアルに、オレのイライラは頂点に!
 激しくどうでもいい設定を造り出してしまった『プレデター2』を下敷きにしているため、ストーリーはその辻褄合わせに終始。オタク監督ポール・アンダーソンの悪い面が存分に発揮されてしまった。
 かつての『エイリアン4』の時代から大きく進化したCG技術は素晴らしく、新たに描かれたエイリアンの美しさには、まさに言葉も出ない。造型の秀麗さはもとより、濡れて光る質感、闇の中でなお輝く光沢、全てが美しい。最新技術でエイリアンを描くというのは、まさに芸術的行為である。故に、プレデターというクリーチャーのデザイン的醜悪さ、完成度の低さが浮き彫りになる。ウエポンのギミックにはそれなりに見どころがあるが……。
 一応、この正月の目玉作品ではあるはずですが、まあ観る価値無し。

地下劇場に戻る。