「リラックスのために」

―V リラックスできなくてもダメではありません―
 
カサイト先生のリラクセイション講座

からだは必ずしも本人の意志通りにはならず、 無意識の心の動きを映し出します。 身体心理療法は、無意識の心と身体の関わりを調整して 素敵に生きていくことを支援します。



「リラックスできなくて苦しいのですが…」

リラックスできなくてつらいことがありますね。特に、不安や緊張が強いときは苦しくてつらいこともよく分かります。こういうサイトを書いているカサイト先生自身が以前はリラクセイションが苦手な人間だったりして(^_^;。
リラックスできなくともダメではありませんが、ここに書いてあるような解説や考え方を読んでも、あまり気が晴れないようなときは本当にシンドイ状態だと思います。そういうときは、ここの説明を読んだりするよりも、できればタイミングをみて友人などに話してみることをお勧めします。

*近くに相談できる友人などがいないときは、臨床心理士の方に相談したり、心療内科や精神科の専門の先生に相談する方が良い場合もあります。特に最近は、本人自身の問題というよりも世の中の厳しい状況のせいで、ウツ状態に見舞われやすい時代だということも知っておきましょう。
なお、ウツ病は「心の病気」ということだけではなく、脳レベルでのトラブル(分泌系などの不調)という身体的な側面もあるので、状況によっては早めに専門家に見てもらった方が良い場合があります。

さてさて、本当にシンドイときや大変なときは、上に書いたように対処してもらうということにして、そこまでシンドイ状態ではない方のためにリラックスについての説明を続けたいと思います。

ここで質問をします。「人間という動物は、楽観的な動物でしょうか?あるいは悲観的な動物でしょうか?」

えっ?楽観的とか悲観的とかがリラックスと関係あるんですか?

はい、そうなんですねえ。楽観的な人は、よほどひどいことがあっても楽観的に楽々と過ごしていけるのに対して、悲観的な人は多少のことでもひどく落ち込んでしまうことを考えてみてください。
私の好きな小話です―。
昔々あるところに、悲観的なお兄さんと楽観的な弟がおりました。お父さんはどんなクリスマス・プレゼントをしたら良いだろうかとか考えていました。(もちろん、普通はサンタクロースが持ってきてくれるのですが、そこの家にはプレゼントが間に合わないとサンタさんから連絡が入ったので、お父さんがサンタさんの代わりを勤めることにしたのは言うまでもありません。)
お父さんは、街で買ってきたピカピカ光る消防車のオモチャを悲観的なお兄さんの靴下に入れました。楽観的な弟の靴下には…何と!…道路に落ちていた馬糞を一つひろってきて入れてしまいました…。
朝になり、お兄さんと弟が居間に走り込んできました!あっ、靴下がふくらんでいるぞ!サンタさんのプレゼントだあ!と二人が靴下の中に手を入れました。兄はピカピカ光る消防車のオモチャを見て悲しそうに言いました。「…なんだ、おもちゃの消防車かあ。ちっちゃいオモチャだ…。」

靴下に手を入れた弟の方は…奇妙な手応えにぎょっとしながら、「あっ、馬糞だ!」。
どうするのかなと見ていたお父さんの方を見てニコニコしながら弟が言いました「お父さん!サンタさんは僕に生きた馬を一頭プレゼントしてくれたんだねっ!どこかに逃げちゃったみたいだからこれから探しに行ってくる!」(カサイト先生翻案)

楽観的な弟の方は、馬糞を見て、生きた馬が一頭プレゼントされたって思ったんですね!?

はい、その通りですが、実話ではなくそういう小話なのでそのつもりでお願いしますね。
私自身があまり楽観的ではないので、昔この話を読んだときにずいぶん驚いたことを思い出します。しみじみ「そんなに楽観的に考えられない」と。でも、そういうように楽観的に考えられればずいぶん楽になるだろうなあとも思いました。
どうしてお兄さんは悲観的で弟は楽観的だったのか…という違いは分かりませんが、「ものごとに向かう態度」が違うということですね。
でもここで突然「プラス思考」とか「ボジティヴ・シンキング」とか、言わないようにしましょうね。

えっ、プラス思考ではダメなんですか?

ここがまたまた説明が難しいところなので、よく聞いてくださいね。
「プラスの方向に考える」という方向性は正しいのですが、「プラスの方向に考えるべきだ」「プラスの方向に考えるのが正しい」と思ってしまったたら、大きな落とし穴にはまるおそれがあるからです。
「プラス思考」といった考え方を必要とする人達の多くは、当然と言えば当然ですが、「悲観的な見方をする傾向のある人達」だと言っていいでしょう。そういう人達はものの見方が悲観的なので、「プラスの方向に考えなければいけないのだ」といったように大変、悲観的に理解するということになりかねないためです。
とりあえずは、「プラスの、良い方向に考えられるといいね」というように穏やかな理解しているのか、「プラスに考えなければダメなのだ」とかたくなに考えているのか…という違いが分かればokです。

そうですか、こういう小さなところにも「悲観的」というのが出てきたりするのですね…。しみじみ。

さてさて一番最初の内容に戻ります。
不安や緊張でしんどいときに、もしかしたら「リラックスできない自分はダメだ」と知らないうちに思い込んだりしていませんか?もしそうならば、どうしてそんな風に思い込んだのでしょうか?
ほとんどの場合は、自分では気がつかないうちにそういう「見方」や「態度」になっていることは確かといえます。
ところで、「自分はダメだ」と思い込んでいたことに気がつくと、またまた「そんな風に否定的にしか考えられないから」「やはり自分はダメだ」というような再び否定的な見方に陥ったりしていませんか? 「楽観的に見られるようになると楽そうだなあ」という考え方ではなく、否定的な見方に何度も何度もはまり込むという、グルグル渦を巻くように落ち込んでいてパターンがあることに気がつきますよね。

このように、「ダメだあ」といった否定的な見方は芋づる式にさらに否定的な見方を引き出してしまうので、これはどこかでなんとか止めておかないといけないわけです。その止め方というのは、実は参考のために書いた「楽観的な弟の発想」の中にヒントがあります。
サンタさんからのプレゼントが入っている靴下の中にまさかの「馬糞」?!普通は、がっかりして「サンタさんは僕が悪い子どもだから馬のフンをよこしたんだ」「サンタさんにも嫌われた僕は最低の子どもなんだ」…となるのが普通の展開ですが、これがどうしてそれとは正反対の方向に発想することができたのか?
答えは単純です。「弟は物事を良い方向に、明るい方向に考えていたから」です。

すると…「リラックスできないときの私は素敵だ」みたいに考えるわけですか?!

はい、そういうことになります。そうなる理屈やそのための根拠はここでは触れませんが、まずは「リラックスできないことは素敵なこと」という「態度」をもつことです。そんなことは無理だ・正しくない・できるはずがない、と再び否定的で悲観的な「態度」へ戻りそうですが、ここをグッとこらえてください。

ここからは(身体心理療法による)実際的なアプローチが必要になってくるのですが、カサイト先生はここでお題目を唱えながら多分、踊り始めたりします。頭で理屈を考えたり理屈っぽく否定したり肯定したりと頭だけで何かをしても限界があるからです。「あ〜、リラックスできないくらい私は誠実で神経質で、そうやって頑張っていて偉いぞー凄いぞー♪♪」とか、踊り出しますね(^_^;

そうそう、こういうのは人前ではなくて自分の部屋でやってくださいねえ。だいたい恥ずかしいし、バカだと思われたりすると困るので、自分のためのこっそりやりましょう(^_^; そうすれば特に実害はありませんので。
こうやって自分の基本的な「態度」を体験的にかつ体感的に動かしていくことを積み重ねていくと、次第に、心の中にある態度スイッチがどっち側に入っているのかに気がつくようになっていきます。そうやって気がついていくことが、まずは大事なことなのです。

*ソクラテスの「無知の知」とは、「自分は、自分がそのことを知らないでいることに気がついている」という気づきのことを言っています。それに対して「気がつかない」ことは二重に無知な状態です。1)自分がそのことに気がついていない、そして、2)気がついていないことにも全く気がついていない、という状態です。

そうした体験の中で気がついてきたこと、これを土台にして自分の態度の向き、すなわち、心の中にある「スイッチ」を切り替えることへと進んでいくことができるようになります。

頭で考えて理屈をこねているだけでは難しいのですね。例えば踊ったりとか「何かをする」という体験に意味があるという…。

はいその通りで、このことが意外にも大きな効果をもつのです。実際にカサイト先生は踊ったり飛び上がったりするのですが、方法はともかく、頭の世界の中だけにいないようにする、ということです。
否定的に考える傾向、悲観的な態度傾向の人は、自分でそうなっていると気がつかないうちに否定的な見方に戻っていくパターンがあるため、これをクリアーするためには、「考えること・思うこと」という頭の中の世界だけではなく、「身体で何かを行うこと」「体験していくこと」というように、別の要素の力を借りる必要があるわけです。
*自分が行った行動がその本人の認識のあり方を変えるという意味での認知行動変容は、L.フェスティンガーの「認知的不協和理論」によってその構造が最初に示されました。数十年前の宗教カルトによる「マインド・コントロール」も、その実質はこのメカニズムに基づいています。


遊びに行きたいのに、トム・ソーヤは塀のペンキ塗りを命令されてしまいます。嫌で嫌でたまらないけれども、仕方なく塀にペンキを塗っているところに悪ガキが遊びにやってきます。トム・ソーヤは、「こんなに楽しいことはなかなかない!」と思わせるような芸術家気取りでペンキ塗りを続けていきます。
すると悪ガキが「ボクにもやらせてくれよ」と頼み始めますが、すぐにハイとは言わずじらします。相当にじらした後に、「じゃーやらせてやるよ…」といかにも残念そうにペンキ塗りのハケを渡すわけですねー。
トム・ソーヤがどこかで「態度の切り替え」をしていること、そして、実際にあることを「実行していること」が見てとれますね。

*このあたりは、実存的なアプローチで知られるフランクルの「態度変容の自由」という考え方につながります。

なるほど…だいぶ分かってきたように思います(^_^)。ところで「リラックスできなくともダメではない」ということについて、まとめて説明してほしいのですが…

はい、人類は基本的に悲観的動物だと考えましょう。楽観的なサルは両手で木につかまっていなかったので、木をつかんでいた片手が滑って落ちて死んでしまいました。のんびり地上に降りたサルはすぐにトラやヒョウに食べられてしまいました。赤いブツブツのついた毒キノコを脳天気にも食べたサルも死にました。後に残ったのは…おびえて悲観的に考えてばかりいる、不安と緊張に満ちたサルたちでした。これが人類の祖先だとしたら…。
そうです。あなたは人類の一員として正しいあり方をしている、ということになります!!

*ここには冗談に聞こえる小話と説明を書いていますが、冗談で書いているわけではなく、リラクセイションに関わる矛盾構造を超えるために、態度変容に結びつく「行為を実際にする」ことを中心に、「創造的な発想」と「問題場面の展開の必要性」の観点(たとえばM.エリクソンのアプローチ)に基づいています。



*無断転載を禁じます。 (C)葛西俊治 2009-2019
*イラスト (C)Tsuzura, 2002