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舞踏「偶成天」レッスンについて


〜 ノスタルジック 暗黒舞踏 〜
:舞踏ダンスリフトまたは舞踏アダージオ

森田一踏: 2015年1月11日(英語版) 
日本語翻訳版、2025年9/1 掲載 
「舞踏にはテクニックはない」とあえて言う舞踏家(おそらく日本人)に遭遇するかもしれません。もちろん、そんなことはありえません。しかし、「テクニックがない」という本当の意味を伝えることに失敗しているものの、舞踏にはいくつかの本質的な考え方と技術があるのは確かです。

実際、舞踏のトレーニングには学ぶべきテクニックがたくさんあります。私たちの舞踏ワークショップでは、少なくとも20〜30種類のボディマインドエクササイズを実施していますが、パフォーマンス中にそれらを意識しすぎると、舞踏のパフォーマンスとしてはリアルにも本物にも見えないでしょう。私たちは、舞踏は異なる意識状態、つまり、計画通りに演じようとする意図を失うことで、ある種の無我の状態や非自己中心的な精神状態で演じられるべきだと考えています。
「舞踏ダンスメソッド」(一踏/葛西)には、ボディマインドエクササイズと野口体操が含まれており、これらは、舞踏に敢えて飛び込むあなたの感情や理由を、指、手足、頭、喉、胴体、腹部、骨盤、肩甲骨、その他の身体領域で具体化するための経路を、あなたの心身に作り出します。 それらの心身のエクササイズを経験しなくても、しばらくの間は舞踏を演じることに問題ないでしょうが、その後、単純な心身の混乱や混沌は、徐々にあなたの動きを本物のものではなくしてしまいます。 (森田一踏, 2019年9月5日)
現実的に考えると、舞踏とは2つの相反する要素の組み合わせであるべきです。一方は正確で高度に発達した心身のテクニックであり、もう一方は舞踏を演じる際にそれらを超越する能力です。後者は、「舞踏体(態)」、つまり、普通のダンスを暗黒舞踏として神秘的なものに変える舞踏の身体や姿勢(態)とよく結びつけられます。



舞踏におけるリフト

 さて、このコーナーでは、土方巽の時代から舞踏のパフォーマンスで使われてきた、舞踏ダンスリフトや舞踏アダージオについて紹介いたします。「アダージオ」(おそらくイタリア語)という言葉は、暗黒舞踏のやり方で「リフトダンス」やダンスパートナーを持ち上げることを説明するために舞踏で使われました。
*山海塾は自らの舞踏スタイルを維持するためにダンスリフトを避けてきました。


土方巽は、1960年代の舞踏の初期(1986年まで)、ダンスや舞踏についてほとんど何も知らない若い舞踏の生徒たちに、正確な振り付けをしなければなりませんでした。たとえば、「牛の歩き (Ox Walk)」は、土方巽による公演「疱瘡譚(ほうそうたん)」等でも見られる舞踏の歩行方法の一つです。土方巽の生徒たちは、この歩行方法を完全にマスターするのは本当に大変で、レッスン中に裸足の足の裏がついに出血し始めたと回顧するかつてのお弟子さんもおりました。
 
実花と一踏による舞踏ダンスリフトまたはアダージオ

 白黒の実花の画像は、偶成天の一踏による舞踏ダンスリフトの一例です。(ポスター用に逆さまにされています)。このリフトポジションでは、実花は緊張した姿勢にもかかわらず、完全にリラックスして微笑んでいるように見えます。
 舞踏は、しばしば、リラックスと緊張、曲線と直線、速い動きと痛々しいほど遅い動きなど、2つの相反する要素で構成されます。リフトやアダージオでも、これらの基本は重要です。
 どのような形であれ、相反する要素が共存することで、人々は不安になったり当惑したりし、未解決の矛盾のために、その姿勢や動きに注意を向けさせられます。私たちはこれを重視し、パフォーマンスでそれを具現化するために肉体的にも精神的にも厳しい訓練をしてきました。

 人間の体は重く、扱うのはそう簡単ではありません。ダンサーは、残念ながらリフトで体を痛めたり、怪我をしたりもします。しかし、他のダンススタイルとは異なり、舞踏では、そうしたリスクの可能性そのものも極めて重要です。なぜなら、それらが私たち自身や観客を不安にさせたり、怯えさせるからです。実際、私たちの舞踏「偶成天」では、肘や肩や脚の関節をひねるリスクを冒しています。
 しかし、体を痛めるリスクを冒すことは、自分自身を傷つけることを意味するものではありません。もし肉体的に傷つき、パフォーマンスをキャンセルしなければならないのであれば、それは意味がありません。重要な点は非常に明確です。筋肉、骨、腱などを痛める恐れなど、肉体的および精神的な限界を探求しながらも、いかなる損傷も避けるために、訓練によって心身の感性を深めなければならないのです。
 そうそう、高いところから飛び降りるのが大好きだったある舞踏家を思い出しました。彼は、成功した時のスリル、恐怖、喜びで、落ちるリスクを冒すことを楽しんでいるようでしたが、最終的に足を骨折してしまいました...。回復するまで稽古も公演もできなくなりますー。
 
       
 *舞踏 GooSayTen パフォーマンス for ECArTE 2013 パリ - [ビデオサイト]  
 
  • 土方巽と元藤Y子のデュオダンスリフト

       左側の土方巽の写真は、土方巽の妻である元藤Y子(あきこ)が執筆した本の表紙です。
     Y子さんは土方巽と一緒になり、その後、舞踏活動を始める以前には、生計を立てるために日本中の多くのキャバレーでダンスとリフトのテクニックを披露するツアーを行っていたと、著書に書いています。また、そうした内容を私たちに語ってくれました。元藤さんは、バレエダンサーとしてロシアのボリショイ劇場(モスクワ)のバレエツアーに参加したこともあったそうでした。
     Y子さんと土方巽は、若い生徒たちにダンスリフトのテクニックを教え、彼らはその後、東京にある舞踏の根城「アスベスト館」を維持するために、ファイヤーダンス、ダンスリフト、ヌードダンスなどを披露するためにキャバレーに送られました。大駱駝館のボスである麿赤兒も、土方巽の若い生徒の一人だった頃のキャバレーツアーの経験を話してくれました。

    * この本のタイトルは「土方巽と共に」筑摩書房 1990年(日本語)です。
     
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  • 「あんま」:土方巽のパフォーマンス(1963年)

    1963年に「Butoh Experience 舞踏体験の会」が開催した「あんま」と題されたパフォーマンスで、土方巽は、写真にあるように一人のダンサーを肩に乗せ、もう一人を抱えながら、サーカスのようなリフトと速い回転を披露していました。
       
     これらのリフトテクニックがかつて舞踏ダンスのトレーニングに属し、舞踏パフォーマンスで頻繁に登場したのは確かです。*山海塾のように全く用いないグループから、頻繁に用いたグループ(大駱駝艦、白虎社など)まで様々です。
     ダンスリフトは、重いが柔らかく壊れやすい人間の体を扱う方法を学ぶための良いトレーニングです。この点において、リフトトレーニングは野口体操、つまり人間の体の重さに関係する野口の身体運動システムと関連しています。これは、「寝ニョロ ね・にょろ」というリラクゼーションレッスンなどを思い出させます。
     
     
      * 「アフォーダンス」は、J.J.ギブソンが1966年の著書「知覚システムとしての感覚」で特別に造語した心理学用語です。物理的な環境、または物体、または自分自身やパートナーの体そのものの形や重さや滑りやすさなどの物理的特性が、自身と相手の身体を現実的にどのように扱うべきかを決定します。その結果、野口体操のように精緻・精密な動きへの感覚覚醒とともに、リフトの場合は恐怖、畏怖、平和、快感などの心理的・精神的な要素への開かれも養われます。(一踏, 2019年)


  • 「月下の畝(うねび)」 北方舞踏派(1982年)

     若い舞踏家グループが、1970年代後半に突然東京から札幌近郊の海沿いの街、小樽に移り住み、「北方舞踏派」として独自の舞踏活動を開始しました。魚藍館(ぎょらんかん)は彼らの拠点となった古い映画館の名前で、女性舞踏家グループ「鈴蘭党」もそこを根城にしていました。 *竹之内淳志は、1980年代後半に北方舞踏派に所属していました。
     北方舞踏派が解散した後、魚藍館は小島一郎によって「万象館(ばんしょうかん)」と改名され、そこで彼は自身の舞踏グループ「古舞族アルタイ」を始めました。そして、小樽の有名なレストランの一つである「海猫屋(うみねこや)」は、北方舞踏派の元メンバーの一人であるマコトさんが経営していました。

     
         
     
     
     これらの画像は、1982年に札幌で行われた彼らのパフォーマンス「月下の畝」で撮影されたものです。写真に見られるように、この公演では頻繁にリフトパフォーマンスを使用しました。
  • 京都の白虎社

     大須賀勇が率いた京都の白虎社は、1980年代から1990年代にかけて「下品で不条理な」パフォーマンススタイルとして、悪名高い舞踏グループの一つでした。(1996年?解散)
     白虎社と大駱駝館などをフィーチャーした、当時の有名な舞踏DVD「Dance of Darkness」(海外DVD)を通じて、欧米の観客にうまくアピールしました。
     私たちのワークショップの海外からの参加者の中には、舞踏を白虎社や大駱駝館が演じるようなダンスだと認識している人がいることに時々驚かされます。おそらく、白虎社と大駱駝館は舞踏の軸の一方の極端な端に位置し、山海塾のスタイリッシュな舞踏はその正反対に位置しているといえます。


     右端の画像には、エロティックなリフトテクニックの一つが示されています。女性ダンサーの尻は微笑んでいる男性舞踏手の顔の下にあり、男が女性の尻を叩き始めます…。 個のグループでは、女性舞踏手はおおむね上半身は裸でパフォーマンスを行っていました。ヌードはもともと舞踏そのものとは何の関係もありませんでしたが、彼らのパフォーマンススタイルのために、ヌードが日本国内外の多くの観客によって舞踏に不可欠なものだと誤解されていました。ヌードダンスの一種として見られることを山海塾は嫌ったともいえます。左の画像は、数名の男性と女性のペアがリフトを始めようとしている様子を示しています。

  • 小樽の古舞族アルタイ

     小島一郎は、北方舞踏派が解散した後、1986年頃、小樽「万象館」にて、舞踏グループ「古舞族アルタイ」を始めました。彼はダンスリフトを愛し、かつ非常に得意で公演でも頻繁にリフトを使用しました。私がダンスリフトについてのこの記事を書いている理由は、かつて私がそのグループに所属し、1980年代後半に「アルタイ」の他のメンバーと切磋琢磨していたためです。

     
    古舞族アルタイによる「銀色王国」より、札幌 1991年
    パフォーマンスには、約20以上のリフトパターンがありました。
    (ステージが暗く良い画像がありませんでした…)。

     アルタイで非常に珍しかったのは、ボスがパフォーマンスの約1ヶ月前から食べ物を減らし始めたことでした。そして、断食を始めていきパフォーマンス当日には踊ったりリフトしたりするエネルギーがほとんどありませんでした。私たちは食べるのをやめることを強制されませんでしたが、ほとんどすべてのメンバーがなぜか、それぞれのやり方で断食を始めました。パフォーマンス当日、誰も元気ではありませんでした。私たちは、極度の飢餓と疲労の下で、幽霊のように踊り、リフトしました。ダンサーが、ダンスパートナーの重い体を持ち上げて運び回らなければならないのに、あえて飢餓に苦しむのは本当に不条理でした。

     しかし、私たちはすぐに、それが「北方舞踏派」の一種の伝統であり、その伝統が土方巽の舞踏パフォーマンスに対する姿勢からずっと伝わってきたことを知りました。私たちは飢餓に関するいくつかの伝説的な話を聞きました。ある舞踏手は、1日にリンゴ1個だけを食べて生きるように土方巽に命じられた、など...
     この飢餓状態でのリフトの経験を通じて、私は多くのことを学びました。舞踏は単に観客のためのダンスショーではなく、肉体的および精神的な苦難を経験しなければならない、舞踏手にとって何か霊的なもの、または試練だったということなのです。



  • 舞踏 GooSayTen:森田一踏と竹内実花

      この写真は、実花の「人魚姫」の一場面です。パフォーマンス中、彼女は人魚であり、立つことや歩くことが許されないため、非常に強い腹筋を使って20〜30分間この姿勢を保ちます。「人魚腹筋」のレッスンでは、あなたは「身体学習」のプロセスを非常に多く経験する必要があり、最終的に「ひれ」(縛られた2本の足)を優雅に振ることができるようになるでしょう。
    [人魚姫 2011] (写真)

      私たちの舞踏パフォーマンスはかつて約2時間でした。1回の通し稽古だけに2時間以上もかかりました。その後、海外のダンスフェスティバルや舞踏イベントに招待されると、パフォーマンスを短くするように求められました。それ以来、私たちのパフォーマンスは約90分、またはそれよりもずっと短く、70分以内程になりました。

     私たちは通常、いくつかのリフトを加え、パフォーマンスに異なる要素を与えるようにしています。しかし、リフトは失敗すると非常に危険な場合があるため、リフトのすべての動きは事前に決定されています。それにもかかわらず、私たちは通常の判断能力を失った異なる精神状態(変性意識状態)でパフォーマンスを行うため、事故が起こることがあります。実花の衣装の服や帯が、リフトや回転中に突然私の首や腕に絡みつくことがあります。もがいて抜け出そうとすればするほど、それらは私の喉に深く食い込み腕を締め付け、私は苦悶でもがき苦しみました。これは実際に起きた本当の出来事であり、そしてリアルな舞踏にとっては非常に良いことともいえるでしょう…。





(C) Butoh GooSayTen: Itto Morita 2015 Jan.11
* 日本語翻訳版 2025年9/1





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