34号

2002.3.31

三月三〇日を花炎忌として


▲桧森孝雄君の焼身死のしらせを、31日犬山の花吹雪の中で聞いた。

▲何となく予期しながら、その死をやっぱり私らはとめられなかった。しかし桧森くんの最後は、自ら死ぬことで尚生きる行為だったと思う。

▲花炎仏という語が思いうかんだ。桧森くんのからだを包んだ炎は日比谷公園の夕やみをどのように照らし出したのだろうか。

「黒」八号の彼の遺文「水平線の向こうに――72・5.30リッダ覚書を改めて胸つまるおもいでよみかえしている。(向井 孝)



お知らせ

あるいは新聞報道などでご承知かとも思いますが、残念なお知らせを緊急にお伝えしなければなりません。

私たちの友人にして同志、かつ不屈の戦士にして心優しき酔っ払いでもあった桧森孝雄さんが、さる3月30日の夕刻近く、日比谷公園の「かもめの噴水」広場で焼身自殺をとげられました。この日がパレスチナ人民が国際的連帯の誓いを新たにする「土地の日」であること、さらにこの広場が、桧森孝雄さんを中心に昨秋、イスラエルのパレスチナ侵攻への抗議とアフガン非戦の旗印のもと、72時間のハンストを敢行した時の現場であることを考え合わせると、桧森さんが焼身自殺の道をあえて選び取って、自ら抗議の意志表示としたことの意味は明白であります。しかし、今ここで、その自死の意義をあげつらうことは、生者の倣岸を犯すことになりかねません。今はただ、自死の現場に残されていたと聞くメモから、「故郷(秋田)の海をたどればシオンにいたる」という一節を取り出して、桧森さんが自らの生命存在を賭してまで、パレスチナ人民と一体化しようとした事実を、しばらく沈思黙考することにしましょう。

以下、あえて事務連絡とします。

故人の遺体は自死の現場から丸の内署によって3月31日午後慶応病院の霊安室に運ばれ、入棺ののち4月1日いっぱいは冷凍室で保存されています。連絡の取り合えた近しい友人たちが31日夕刻まで霊安室で故人と最後のお別れをし、パーシム奥平とサラーハ安田の遺影ともども献杯の儀をも執り行いました。

4月2日の正午、遺体は冷凍室から東京・代々幡斎場(京王新線幡ヶ谷駅・小田急線代々木上原駅下車)へ運ばれ、12時半すぎには荼毘に付されます。最後のお別れはこの機会しかありません。付け加えれば故人の遺骨は上京されたお兄さんによって故郷へ運ばれ、秋田の地で葬儀と納骨が執り行われる予定と聞いています。私たちとしてはできるだけ早い機会に、悲しみを込めて桧森孝雄さんの追悼と、怒りをもってその死の真の犯人であるイスラエル国家を公然と弾劾する機会をもちたいと考えております。以上、悲しみをこらえつつ取り急ぎお知らせする次第です。

二〇〇二年三月三十一日

友人一同



ぼくらが桧森君とやや親しい交流をもったのは、ほんのこの一年足らずに過ぎない。しかし、いつごろからか、月に一回、時には二回犬山へ訪ねてきて二〜三泊する親しさとなった。その最晩年、この二月末から三月にかけて四泊、三月中旬に二泊である。

彼は別れの立ち去りぎわには、いつも改めてこちらの手をとって、まるでおがむように額をこすりつける奇妙なあいさつをしたことは忘れられない。それ以上にいまどうにもうまく語れぬまま、たまたま消し残した彼からのメールの一部を余白にうつしておこう。そのことですこし桧森君の最近の心境が伝わるかもしれない。

2 11月25日、飢える側の立場

転送文[註・1]の終りにある排除の傾向は、ここまで戦争に引きずり込まれている象徴と思っています。

仲間を殺しに出かける軍隊へテロを敢行する者が日本で現れたら挑発者として断罪されるでしょうか。

どちらの側に立つのか。

(略)……僕は花岡で蜂起した人々を虐殺する側に生まれ、二十五歳でパレスチナで蜂起する側に立ったけれど、こうした原風景は誰でも持っている類のものかもしれません。

最近の向井さんの文に、殺す側か殺される側か、がありました。僕の二つの原風景は、2つとも殺す側にあり、同居しています。[註・2]反国家、反権力で拭えない虚無を道連れにしながら、飢える側にしかたてなくなっている自分があります。なぜかはわかりません。

[註・1] 
水田ふうが「風」に、坂口君が「黒」にかいた、「テロにも戦争にも反対とはいいたくない」の趣旨で、テロと戦争を同列に扱ってしまう立場の問題としてでてくる「排除」である。
[註・2] 
ここで桧森君の原風景は2つとも殺す側にあるという。

その展開論旨からはずれてしまうが、その後に彼と語ったぼくの革命運動論というか「非暴力直接行動論」をすこし書き加えたい。

 いまは七〇年代と相違して、運動の中でも「暴力」は否とされ非暴力は是として強調される風潮だ。そしてテロは暴力の最悪たるものとされる。しかし無縁の市民を巻きこんだ無差別テロであったとしても、それは耐えに耐えかねた弱者が、個人の生死を賭してする強者への報復であるかぎり、いわばどうしようもない抵抗として、もはや暴力の是非や論理を超えたものという外ないのではないか。

 しかしそのように、負けても負けても負けてしまわないことで闘いつづける弱者の意志としてのそのテロもその暴力に付随する本質的な勝敗の原則、つまり強者が弱者に勝つという単純明白な事実によって、直ちにそれが人員の多寡、機械装備などの優劣と組織化の追求とならざるをえない

つまりゲリラ、パルチザン、人民軍へと組織化され、さらに国家の軍隊として、外へだけでなく自国人民の抑圧の性格を帯びはじめる。その志向の一たんが党派的運動内部の内ゲバにもあらわれることであまりに明らかだろう。

 ここで突然だがぼくの「革命運動助っ人論」を引き合いに出すと、映画「七人の侍」を革命家及びその党派とすれば、山賊との戦いが終われば武闘派の武士たちは忽ち不要のものとなる。村に娘といっしょになって百姓になる1人をのぞいて、その他は半ば追われる如く村を立ち去らねばならないのが定めというものなのである。

つまり、ぼくらははじめから覚悟して、自らそれをのぞんだ革命のただの「助っ人」であるだけにすぎない。そういう立場から飢えた人たちの側にようやくより添うことができるのではないか。

3 11月26日、赤と黒との再融合

「直接行動派の時代」[註・3]プロローグの1は、これまでの向井さんの一連の運動に対する光の当て方を鋭く定式化した文章だと感じています。(略)反論ではありませんが、コミュニストにも無名の人々がたくさんいます。コミュニストの中にも既成の党から抹殺され、無視されている無数の人々がいることをつくづく感じるようになっています。運動の歴史ではなく党の歴史を語ることに軸点をおいてきた逆立ちを元に戻すために、党―コミュニストの側に立とうとする者として作業を続けたいと思っています。(略)運動の未来は赤と黒の再融合でしかないだろうと僕には思われますが、それには足で立つ厳しい自己点検が必要です。

[註・3] 
2001年12月10日付発行のパンフ

4 3月20日、くつろがせてもらいました

犬山から、無事帰りつきました。

Oさんの文章で、この半年間の無常をつくづく思い知らされた感じでしたが、二項対立思考は僕の中にも色濃くはびこってます。敵―味方は固定した関係でないのに自分の目線から見えないものへ矢を放つ在り方にずいぶんと甘いままでした。居場所のなさを論理のゴウマンさでしのごうとする在り方にオサラバするには僕の場合、どんな選択があるか、車中、考えさせられました。

「黒」[註・4]で書いた文章は叙情的すぎるという意見をいくつか受けました。初めの稿で向井さんからもそのような意見をいただきました。この20年ほど武装闘争―軍事についての総括を考えていましたが、単線的な階級闘争史観で革命戦争を最後の戦争と規定した楽観が内ゲバに至り、ソ連―東欧などの新たな支配―服従関係を生み出した今、階級―組織の戦略・戦術を通した総括は虚しい堂々巡りとなっていました。そこで暴力を巡る領域に転じましたが、国家―クニの成立と共同体の狭間で生じた暴力への態度を問う時、支配―服従の関係が問題の中心で暴力という形態の問題はズレたままです。出発点に舞い戻る他ありません。

支配―服従の関係を第一にしていくこと、それは、例えば、北朝鮮への大国による強制への反対では一致できるとしても北朝鮮の人々による金体制への不服従では一致できないなどの、支配―服従を具体的に確かめ合っていく時代であり、或る面では一致できるが或る面では異なるといった関係がますます拡がる時代だろうと思われます。国家を巡ってどう煮詰まるか想像もつきませんが、混沌がより世界同時的に進み、ある種の単純化が台頭しやすい状況にあってどんな姿勢が問われているのかです。混沌の中にいつか、新しい労働者階級の可能性が語れるようになるかもしれません。(略)

あと、伊藤信吉さんを取り上げた新聞記事がありましたので近々に送らせてもらいます。大変な方だと改めて思わさせられた記事でした。

十三階でも犬山でも、不作法なまでにくつろがせてもらいました。素人仕事のベッド柵、応急とはいえできが悪く済みません。

[註・4] 
「水平線の向こうに」のこと

5 3月27日、サクラ満開

ふう&向井さんへ

花冷え、雨の連日、サクラがしょんぼりしているようですが昨夜も痛飲してしまいました。新聞では犬山あたりの昨日はあったかそうでしたがこちらは寒いかなと感じました。今日は犬山はどうでしょう。

Tさんとの花見ができなくなったとのこと、Tさんも残念だったろうと思います。あの方の向井さんと会われている時の目元は本当に涼しさを感じますから。

僕の方は3/30、パレスティナ土地の日集会の関連でまだ関東にいます。昨日はシャロン・巷の民衆法廷をやりましたが6名の出席でした。かなり突っ込んだ議論になりましたが、パレスティナの情勢がちらついて力が抜けていく感があります。

伊藤さんの切り抜き、明日送ります。一緒にCさんからの手紙も同封します。ちゃんとした手紙のやり取りでお互いの正直な、肩の力が少し抜けた言葉が漏れ出るようになったかなと、少しホッとする手紙です。「黒」はその仲介をしてくれてます。

今日、テレビを見てたら86才の方が小学校5年生の授業に通い、足腰の力が戻ったドキュメントが流れてました。ふうさんはウーンとなるかもしれないけど、向井さんに外の楽しみが増えますように。

余白に

それにしても「死んだらしまいや、もうどうしようもないわ」とぼくは何どかいままでよういうてきた。

けど、桧森君の死はそうでない。彼は3月30日を死を終止符としないで、いつまでも生き続ける日としたのだ。

もう何年も行かなくなって久しいが、その頃は毎年吉野山の奥にいって、一年に一度だけ、かつて戦友で便所のなかで残してきた貧窮の妻や子をおもってよく泣いて軍歌をうたっていたHのことをおもい出すことにしていた。

三月三〇日を花炎忌と名付けたい。

そして来春、もしその日に行けたら、日比谷公園のかもめの噴水のそばで、花束を献じて軍歌をうたって桧森くんにもきかせたいと思う。

吉野をいでて打ち向かう

飯盛山の松風に

なびくは雲か白旗か

ひびくは 敵のときの声……

楠正行が討死覚悟の出陣のうたである。

(向井 孝)


ここまで版下をつくってたら桧森さんから郵便がきた。

ふうさん、向井さんへ

春 三月二八日

関東が南より桜開花の早い異常な気象です。桜を見ようと昨日は早めにアパートを出たのですが雨に降られて早々と居酒屋に入ってしまいました。花よりダンゴになるのは女気のない集りの宿命かもしれません。

(略)

この春寒、ふうさんからもらったTさんのセーター、向井さんの作務衣であったかい思いをしています。ふうさんの体調がすぐれないということですが、天気の日は外が何よりの薬と思います。犬山駅から鵜飼亭への町並みが手に取るように思い出され、それをサカナに一杯やってます。

三月二八日投函

ひもり拝

ああ桧森さん! 桧森さんはもう犬山にはきいひんねんな。

Tさんのセーターとおいちゃんの作務衣を着て花炎になったんやろか。

これが死んでしもてる四月一日に着いた桧森さんからの最後の手紙やった。

(水田ふう)


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