La Nigreco

N-ro.8 2002.2.14


水平線の向こうに
――72・5・30リッダ覚え書き

桧森孝雄


はじめに

一九七二年五月三〇日、イスラエルでリッダ空港襲撃闘争が遂行され、赤軍は同日付けでPFLPとの共同闘争勝利を宣言した。作戦での死者二六人、重軽傷者七二人と言われる。

リッダ闘争は、パレスティナ解放闘争に日本から参加した青年たちによるイスラエルへの闘いだった。パレスティナ―アラブの人々の賛意とは裏腹に、帝国主義諸国では軒並み「非人道的」な「無差別攻撃」との批判が相次いだ。日本でも批判は大きかったが、闘いのやり方への賛否を越えて、パレスティナ解放の側に立つ闘いとして支持を表明する潮流はわずかながらあった。

その後、リッダ闘争を巡って主に岡本公三氏が語られてきたが、戦死した仲間たちの息吹はほとんど伝えられることなく二十数年が過ぎた。

九七年二月十五日、レバノン・ベイルートで岡本公三氏ら五人が逮捕され、それを契機に、リッダ闘争前後を軸とした拙文を九九年春、アナーキズム誌『叛』六号に載せた。この覚え書きで書き送るべき作業は終わったと考えていた。しかし、伝えたと思っていたことが必ずしも伝わっていない事例に度々遭遇し、事実記録がほとんど残されていない現状も指摘される中で、狭い関係で生きる者特有の思いこみを反省してはいたが再整理は手つかずのままにいた。

そして九月十一日。アメリカ合州国世界貿易センター・ビルと米国防総省への同時攻撃が遂行された。世界的な「反テロ」大合唱団が組織され、侵略と抑圧の既得権益を守り、支配への服従を強制する論理が我がもの顔でのさばっている。再び恐ろしい時代に入ったのだ。

侵略・抑圧の側にありながらも解放の立場に立とうとする者は侵略と抑圧への抵抗と叛逆を無条件に支持するしかない。「東西冷戦」後の世界は民族―宗教の色合いを濃くして現れているが、貫かれている大流は何も変わっていない。九・十一でも問われたのは、アメリカや日本、そしてイスラエルなどの侵略と抑圧の国家を亡くすためにどんな立場に立つのか、この一点に絞り込まれている。侵略と抑圧を棚上げして平和を語ることは、パレスティナの場合でみれば、パレスティナ民衆を奴隷の苦海に押し沈めていく行為でしかなかった。強者・富者と弱者・貧者が対等なテーブルに着くということは、実際は、前者が全ての権益を放棄する覚悟で後者に徹底して譲歩する以外には成立しない。その時から真の共生が始まり得る。そのようなテーブルをどう準備していくかが政治だろう。が、現在のテーブルは貧者・弱者に奴隷を強制する舞台でしかなく、政治(―軍事)はそのような段階にある(軍事は政治とは異なる手段による政治の延長である)。この様相は、ベトナム民族解放戦線がパリ和平テーブルに着いた姿勢―政治段階と天地の違いを示す。いま求められているのは、侵略・抑圧者を対等なテーブルに引きずり出すための国際連帯を豊かにすることであって、「反テロ」大合唱団に加わることでは決してない。

僕は九・十一闘争を無条件に支持する。未だ鮮明な説明は容易ではないけれども、武装した独占による世界支配への、命を懸けた叛逆の側に立ち続けたいと思う。七二年リッダ闘争に至る再整理は、九・十一を経て自分自身がどのような立場に立つかの再確認でもある。

改めて二点に絞ってまとめた。一つは共産同・赤軍派と京都パルチザンとのクロス、いま一つはリッダ闘争に至る事実経過である。両者共に僕が全体像を記せるはずもないのは元よりだが、リッダ闘争の後に現れた日本赤軍が昨年四月に解散を宣言し、日本でのパレスティナ解放連帯が模索を続けている下で、運動の中に闘争を捉え返す一記録として扱われれば幸いである。

この覚え書きは内容上、『叛』六号の補となる。

 戦死した仲間たち

リッダ作戦に参加した三人のうち二人が戦死した。サラーハ・安田の遺体写真には首がなく、手榴弾で自爆したと思われる。バーシム・奥平の遺体写真を見ることはなかったから、彼はイスラエル軍に蜂の巣にされたのだろう。

二人の遺体は「テルアビブ市南部の墓地に埋葬し直された」(「朝日新聞」1972.6.21)

バーシム・奥平

遺稿集『天よ、我に仕事を与えよ』を助けにして、彼が赤軍派に入りパレスティナに渡るまでの軌跡をなぞれそうな気がする。ここでは、レバノンで共に暮らした日々の中から二つのできごとを記す。

〈訓練キャンプでのできごと〉

一九七一年十月当時、PFLPでは路線を巡る内部闘争が激しくなっていた。その余波で、食事準備の最中に帰ってきた訓練教官が難癖としか言いようのない態度を示したことがある。教官は用意していた食材をゴミ箱に捨て、メシを食わないのは度々あることだとわめき散らしたのだった。バーシムはその教官に静かに話しかけ、メシを食わないなら食わないでいい、しかし、説明なしのやり方ではお互いにやっていけないと忠告した。その教官はすぐさま僕らに謝罪し、状況の説明をした。それ以降、PFLPの側から不躾な対応をされることは二度となかった。バーシムの毅然とした態度が引き出したのだろうが、日本で権威を笠に着たり、気分で揺れる対応を見慣れていた僕には信じがたい率直な態度だった。

〈仲間への態度〉

僕らはPFLPから週一万円くらいを支給されていたが四人の生活にはそれで十分だった。常に金欠感があったのは特別出費が時折あったからで、たとえば、肺炎になっていたPFLPの仲間へバーシムは病院へ行けと金を渡したが、後でそれだけでは足りないことがわかり、皆から小銭までかき集めて文字通り有り金残らず渡したのだった。そんな美談だけではないにしても、その日その日の関係を大事にした生活だったように思う。

彼は赤軍派のメンバーと言うよりは京都パルチザンの仲間としてあった。赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一度もなく、何をするのか、それがいつも中心だった。

オリード・山田から作戦への異議を出されていた時期、彼が酔って発した「オマエらを利用したんだ」という言葉は僕らに裂け目を創り出したけれども、日本の運動とは異なる関係に跳び出ようとした時、否応なしに入る裂け目を彼は知っていた。僕らも知った。この一幕があってから僕らは、従来の京都パルチザンとは違う関係に入って行った。言いつくろったりごまかしたりしないバーシムの態度は、なにごとにも正面から相対していく姿勢とあいまって互いの信頼をどこかで深めていた。

バーシムは最後に、一人残った弟に親の面倒を頼みたいものだとし、弟を兵士にするようなことは止めてくれよなと笑いながら話していた。その弟が突然アラブに渡るという報せに僕は無言のメッセージを送った。

サラーハ・安田

サラーハに会った時、これでは走るのもしんどいだろうと思わせる体型だった。三ヶ月かけて彼の脂肪腹は見後に締まった。

彼は誰にも好かれた。パレスティナ・キャンプから祝い事があって差し入れがあると、まず最初にサラーハの前に皿が置かれる。その皿の盛り方は並大抵じゃないから必ず残ってしまう。すると平らげる役割としてパレスティナのみんなはサラーハ、サラーハとはやしたてるのだが、彼は涙を流しながら突っ込んでいた。ある時は調子にのった教官が青唐辛子をムリヤリ食え、食えを勧め、僕らが止めとけと言っても彼は全部飲み込んでしまった。翌日も顔色が悪かったが、具合が悪いとも痛いとも言わなかった。

行軍競争は何度かやったが、氷雨下の行軍はさすがにきつく、遅れる者が続いた。互いの距離は山を一つ、二つ隔てるほどになり、設営場所に着くのは数時間おきになっていた。サラーハはしんがりだった。彼はパレスティナの仲間をサポートし、肺炎を起こしかけている最後の一人に付いてきたのだった。

彼にも全部、見えていたような気がする。彼の遺稿集はないが、それが彼には似合っている。

僕らは京都パルチザンの無名の寄せ集めだったけれども、平々凡々な戦士仲間がわけへだてなく一緒に生活できたのは、彼の、何事にも腹を括った対応と明るさが大きかったように思う。

サラーハと別れる際に受けた伝言は、京都に残っている仲間たちへのものだった。「こっちで待っとる」。生きて再会できないのを知った上での伝言だった。長い時間の流れの中で伝達すべき相手の名前も面影も消えてしまったが、出所後まもなく潜行したこともあり、彼の伝言は誰にも伝えていない。

 リッダ作戦

ベイルートへ

七二年二月、共産同・赤軍派の国際根拠地路線の下に重信氏と奥平氏はレバノンに渡り、パレスティナ解放人民戦線(PFLP)と接触した。すでにパレスティナ難民キャンプでの医療ボランティア活動などがあり、赤軍派はパレスティナとの水路を拡げた。国際根拠地路線が国境を越えた直接の共同武装闘争として連帯行動の幅を広げた役割は誰も否定できない。その時すでに、パレスティナは国際共同武装闘争を開始しており、世界各地から武装した革命家たちが集結していた。プロレタリア世界革命と革命戦争路線が通底していたPFLPと赤軍派との間で数ヶ月の内に共同作戦が確認されたことに違和感はない。何をやってきたのか、何をやるのか、そこに極まる相互の信頼が確認されれば共同闘争の条件はそろったことになる。PFLPが赤軍派を信用した決め手はピョンヤンへのハイジャック闘争だったろう。

京都パルチザンからベイルートへ

七一年九月、オリード・山田、サラーハ・安田、そして僕の三人はイスラエルを通ってベイルートに入った。七二年にベイルートへ入った岡本公三氏、丸岡修氏も含めてベイルートに渡った僕らは、六九年全共闘運動敗北の中で新たな武装した戦線を創り出す志向を強くしていたが、赤軍派とは異なる関係にあった。ただ一人、七〇年に京都パルチザンから赤軍派に移籍したバーシム・奥平にしても、赤軍派の路線を口にすることはなかった。京都パルチザンは赤軍派などの組織―政治とは異なり、労働―学習―闘争を日常とする五人ほどの小さなグループが互いに結びあう中で武装し、巷間の大衆が革命を組織するというアナーキーな、柔軟性をもった離合集散だった。

こうした関係に網を拡げて武装闘争を遂行する赤軍派のやり方に、党派からは大衆公募方式の邪道(党解体)として批判があり、非党派からは政治利用主義の批判があった。実際は、運動の現実が赤軍派も含めた党派の政治を既に超えていたのであり、リッダ闘争は赤軍派の最後を介錯し、京都パルチザンの終焉を告げる闘いでもあった。

5・30に至る経過メモ

七一年七月以前、五月末か六月だったろう。三人で封筒から取り出した手紙には、細かい調査項目が列記されていた。空港トイレで旅券を始末できるか、手荷物受け取りコンベアー上のバッグからブツを取り出せるか、その際を含めいくつかの動作に空港セキュリティはどんな反応をするか、そして、できるだけの空港調査。

七月初め、汗ばむようになった京都の街中で三人は歩いては立ち止まり、その都度、互いの歩測距離を確認し合ったが、七月になっても、五〇メートルの距離で五メートルもの誤差が出る日もあった。二月にベイルートへ先行していたバーシムに合流すべく六月以降、三人は会合と訓練を重ねた。

リッダでの空港到着ロビーの見取り図はほぼ正確に記憶されていた。ベイルートに着くまで調査内容を紙に書くことも互いに話すこともなかったが、三人の歩測・目測はほぼ一致した。だが、正確に調査できたのは到着ロビーだけだった。出国の際に撮った空港全体写真を前にしても、管制塔への進入ルートはおろか、その他の位置取りを判別する術を三人は持たなかった。帰りの飛行機に乗る前に通されたのは、人一人がやっと通れるくらいの、迷路のように折れ曲がった通路であり、その途中に手荷物と旅券チェック・カウンターがあった。

十一月、訓練を終えて空港をターゲットにした作戦の打ち合わせが始まった。先乗りしていたバーシムとPFLPとの間ですでに日本人三人の作戦参加が確認されていた。この確認を前提に僕らとPFLPとの関係は進んでいた。

打ち合わせはPFLPの一人と僕ら四人との計五人だけの会議として繰り返され、会議中は常にラジオが音高く流された。ボディガードたちが入室できたのはその他の雑多な確認の時だけだった。そして、管制塔の調査は依然として進展がなかった。

オリードは作戦会議が始まってまもなく、空港襲撃作戦に否定的な意見を僕らだけの席で語った。七二年二月、オリードは恒例の水泳中に溺死した。

オリードの死で事態は急転した。日本人兵士グループの存在が明るみになると判断される中で、それまでの待機ペースは一変し、PFLPは作戦決行を決めた。

僕は急遽、二月の日本に帰り要員候補に会った。一人は作戦参加要員として、一人は現地活動への参加要員として打診・招請し、二人はベイルートに合流した。

七二年 5・30、リッダ空港襲撃闘争は遂行された。

空港襲撃を巡って

作戦は空港管制塔占拠を追求していた。到着ロビー=手荷物受け渡し所から戦闘を開始するかどうかは、管制塔へのルート調査の正否と突入の実際可能性にかかっていた。調査は困難を続けた。

作戦で使用する武器の選択は僕らに一任された形になっていた。希望したのはクラシンコフ(自動小銃)と二つ以上の手榴弾だった。サラーハは、銃での自決は玉切れになる可能性があるとして、手榴弾での最後を強調した。僕らは初めからそのように決めていた。

作戦を巡って出されたオリード・山田の異議は、作戦がどのような選択を採るとしても一般旅客を巻き込むだろうと予測された点にあったようである。荒っぽい作戦に命を懸けることに彼は疑問を呈した。オリードは僕らの中にあって常に冷静さを保っていたが、日本での会合や訓練で既に明らかだったろう作戦形態にベイルート入りしてから疑義を示した彼に、僕は不信感を持った。そして、まったくやるせない気分に陥った。サラーハはオリードを日和見ではないと繰り返したが、オリードの作戦への異議が死への恐れからでないのは百も承知だった。示されていた、作戦へ参加するかしないかの選択の前で、京都パルチザンのやり方をクロスさせる術を創り出すことはできなかった。

無数ともいえる京都パルチザングループは、それぞれに自立し、権威じみたやり方や一方的な強制を卑しむ傾向を強くしていた。同意できない行動から去るのは自由であり、秘密を共有していたとしてもそうだった。日本でのそうした在り方を即座に確認しあえなかったのは、つきつめれば、オリードの今後をどうするかがあったからである。

オリードは僕らと共にあることで既に、選択の幅が限られた現実に入っていた。そして当時、僕らが持っていた関係と条件は極めて乏しかった。しかし、そうした条件が彼の抹殺を必然とする考えは、京都パルチザンの仲間としてあった僕らには露ほどもなかった。僕らは解決を先延ばしにした。

バーシムは跳び、一緒に跳ぼうで、としていた。彼はまた、一緒に跳ばない人間も理解し尊重しようとしていた。引き裂かれた状況で彼の口数は少なくなっていたが、言葉でのオルグを彼が一度もしなかったのは救いだった。

オリードの突然の死で、残された僕らからある種の息苦しさが無くなり、代わりにズシンと重荷がかぶさった。僕らは無言のまま目前の作戦に彼の遺志も込めて臨もうとした。

作戦の空港調査の進展がどうだったのか、今は知る術がない。待機体勢から決行が決まってからの動きは素早かったように思われる。オリードの死が新聞報道されたことでモサドに動き出しのキィを与えたとPFLPの側は判断したのだろうが、それは正しかったと思う。当時の僕らの存在形態は非公然としていたが、その実際は、日本人との接触を含め、公然事務所に出入りしない、という以上でも以下でもなかった。まだ牧歌的な時代で、街で公然活動家に気軽に声をかけられ、あわてたことも何度かあった。ベイルートでの滞在先は同じアパートで、近隣の住民たちとは顔見知りになり僕らは日本人グループとして認知されていた。僕らの存在をモサドはすでにつかんでいただろうが、それ以上の網を敵がかけるのを防ぐためにも、オリードの死で空港調査はうち切られただろうと思う。この時点でPFLPは決行を決めたのだろう。

人を殺すことについては折々に言葉を交わした。

殺したヤツの家族から見たら仇やで、おまえ、耐えられるか、目を開けてじっと見たるがな、どこ見んねん、ん〜ん、水平線の向こうや、ええかっこすな、向こうしかないやろ……。

パレスティナ解放闘争に参加して多くの人々の血を流し、そして散ることに、迷いより勝っていたのは僕の場合、日本による朝鮮を始めとしたアジアへの侵略と植民地政策がもたらした現実だった。また、ゲバラの闘いだった。二六人が死に、七二人が負傷した闘いの報に接した時、僕は歓喜してはいなかった。彼らは死に、僕は生きている、その瞬間が今なお続いているような気がする。

戦争―殺人行為に正義と悪を問うのは無意味である。しばらく続いた夢は、空港で死んだ人々が僕に迫るものだが、夢が醒めても僕には罪悪感と言われるものが一かけらもなかった。重い疲れが続いただけである。戦争を不可避とする侵略と抑圧をどうするか、それを問うことができるだけである。

リッダ闘争後

七二年、新たにベイルートへ合流した岡本公三氏はリッダ闘争でイスラエルに逮捕され、八五年に国際赤十字の下に捕虜交換で釈放された。そして九七年二月にレバノンで逮捕された後、アラブ・レバノン民衆の力で二〇〇〇年、レバノン史上初の政治亡命を認められ現在、ベイルートで生活している。今一人、七二年に合流した丸岡修氏は八七年に日本で逮捕され、ハイジャック等で無期懲役に服している。

オリード・山田については、彼の友人が出所後の僕に連絡をくれ、公安が取り巻く中で会ってくれた。一部で流されていたオリードの死因へのうわさもあり、直接会って話したいということだったと思う。僕はその友人に語れる全てを話した、と思う。友人が最後にもらした、彼らしい、という一言に、大事なことを思い出させられた気がした。その大事なことをまだ大事にできていない。それは、個人と闘争を運動の歴史に照らして捉える関係のことだと思うが、まだ考え抜けていない。

 リッダ闘争への一視角

赤軍派と京都パルチザンがクロスしてパレスティナ解放運動に参加したリッダ闘争は、「二つ、三つのベトナムを……」とする七〇年前後の国際連帯行動の実際を示す一例だろうと思う。運動の歴史は日本共産党を筆頭に党派―政治の歴史として光を当てられがちだが、運動の実際は全ての党派―アナーキーなグループも含めた大衆全ての具体的な関係―営みに他ならず、人はしばしば、巷の細々した営みから運動の実像に触れることの方が多い。確かに、運動に果たした指導的な政治抜きの歴史は教訓となりにくいが、当時の運動で赤軍派の路線が指導的な役割を果たしていたとは言い難い下で、逆に、リッダ闘争を具体的な営みから辿ることで、運動の関係を浮き彫りにする一助となし得るのではないかと僕には思われた。頭ではなく足で立つために、一人一人が自己の位置を運動全体の中に確認する作業は今も課題であり続けていると思うが、その意味でも、この覚え書きは僕自身にとっても不可欠な作業と思われた

赤軍派もパルチザンも絶えて久しい。ゲバラをこよなく愛し、尊敬していた彼らの目指した国境取っ払い運動は二〇〇二年の今、グローバリズムと称される世界支配が現れるほどに一方の条件を成熟させている。資本主義に代わる新たな社会革命への試行錯誤が今ほど、国際主義を豊かにするよう求められている時代はない。

「労働者は祖国を持たない――これは、(α)彼(賃金労働者)の経済的地位が一国的ではなく国際的なこと、(β)彼の階級敵が国際的なこと、(γ)彼の解放の条件もまたそうであること、(δ)労働者の国際的統一が一国的な統一よりも重要であること……」(レーニン イネッサ・アルマンドへの手紙)

一九一六年に書かれたこの一節は二〇〇二年の今、古びるどころか力強く脈動している。リッダの闘いで、常に思い浮かべる一節である。

おわりに

梅内恒夫氏が「戦争を知らない子どもたち」という自己規定を批判していた。僕について言えば四七年、花岡の近く、鉱山に囲まれた山奥の小さな町で蜂起した人々を殺す側に生まされた。花岡蜂起は闇に閉じこめられていたが、中国の方が公にした上等ではない小冊子を手にした時、山峡の牧歌的な情景は一変した。日雇いに転じ、ベイルートで出会ったのは、そうした「戦争を知らない子どもたち」だった。ゲバラに倣い、世界のどこででも死ぬ覚悟を持った、いわば助っ人に志願した者たちだった。

事実が隠され、歴史がねつ造される時代と情報公開が曲がりなりにも進む時代とでは、人の感性や思考に異なりが現れるだろうが、「戦争を知らない子どもたち」の中には、国家―天皇ヒロヒトを殺す他に自分を回復する回路を持たない者もいる。それは、労働者階級、ただそれだけを希望の糸とすることと同居している。

国境と民族を越えて、未来への仲間になろうとした一九七一年の出逢い、そして一九七二年の出逢い。

リッダ空港襲撃闘争で失われた命に、僕が追悼する時はまだ来ていない。

二〇〇二年一月一日記了

「助っ人」は仕事が終われば去る定めにある、と或る人から言われた。「助っ人」はその地の草になるか、新たな転生の場を求めるかしかない。一昨年、レバノンから強制送還されてきた和光晴生氏は前者のようにして南部レバノン戦線で生きていた。その表白を読んだ時、このアジアでも、革命のために各地へ散らばり、その地で生きている・生きた無名の国際主義者たちが彷彿とした。パレスティナ解放連帯では岡本公三氏を含め、まだ七人が国際指名手配攻撃下にあるが、彼・彼女らを権力に引き渡さない国際連帯が求められている。それは難しいことではない、あらゆる侵略と抑圧に立ち向かい続ける中で実現される関係だと僕には思われる。


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