アナキズムFAQ

I.8.5 スペインの農業協同組合はどのように組織され、調整されていたのか?

 ホセ=ペイラツは農民間の集産化を次のように記述している。

 収用された土地は、農民シンジケートに引き継がれた。最初の集産体を組織したのはこうしたシンジケートだった。一般に、小さな土地の保有は、農民もしくは農民の家族がその土地で働き、賃労働者を雇わないという条件で常に尊重された。小規模農家の所有という伝統が蔓延しているカタロニアのような地方では、土地保有は散在していた。大規模な私有地は存在していなかった。こうした農民の多くが、CNTと共に集産体を組織し、土地・動物・道具・鶏・穀物・肥料・さらにはその収穫物さえをも出し合っていた。

 私有農場は、集産体のただ中にあり、集産体を離ればなれの区画に分けてしまい、効率的な耕作を邪魔していた。所有者に移動してもらうようにするために、集産体の農民たちは集産体の境界にあるもっと良い土地を与えた。

 集産体に全く貢献できない集産体メンバーは、他者と同じ権利と同じ義務を持つことで承認された。集産体の中には、参加した人が金銭で貢献しなければならないところもあった(カタロニアのヒロンデリャ、アラゴンのラフナロッタ、ヴァレンシアのセルヴェラ=デル=マエストラがそうである)。[The Anarchist Collectives, p. 112 で引用]

 ペイラツは、集産体内部の事柄を扱う際、全ての集産体が几帳面に熱心に民主的手続きを遵守していた、と述べている。例えば、『オスピタレート=デ=リョブレガートは、三ヶ月に一度定期的な組合員総会を開催し、生産を再検討し、新しい仕事に関心を向けていた。経営評議会などの全ての委員会は、全てのことについて完全な報告を提出した。総会はこれを承認したり、不可としたり、修正をしたり、指導を与えたりしていた。』[前掲書, p. 119]

 ドルゴフは次のように述べている。『最高権力は総会の組合員に与えられ、実際に総会の組合員が執行していた。全ての権力は民衆の草の根組織に由来し、そこに帰っていったのである。』そして、ガストン=レヴァルを引用している。

 定期的な組合員総会が召集されたのは、毎週だったり二週に一度だったり毎月だったりした。こうした会議では、少数の個人に意志決定権限が与えられているときには必ず−−たとえその個人が民主的に選ばれていても−−生じる対立や非難は全くなかった。集会には誰もが進行に参加できた。集産体のメンバーではない「個人主義者」さえもが議論に参加でき、集産主義者は彼らの意見に耳を傾けていた。[前掲書, p 119f]

 集産体内外での資源の分配に関わる決定が行われたのは、こうした顔を付き合わせた集会においてだった。相互扶助の重要性を考慮する際には、個人の共感に訴えられた。ある活動家は次のように思い出している。

 共有を望まず、個々の集産体は自立していなければならないと述べる人々もいた。だが、こうした人々は集会で説得されるのが常だった。私たちは彼らが理解する表現で彼らに話をしようとした。私たちが「カシーケ(地元のボス)が、充分な仕事をしなかったという理由で人々を飢えさせるのは、公平だと思いますか?」と聞くと、彼らは「もちろん公平だとは思わない」と言った。彼らは結局は意見を変えた。(アラゴンには)30万人の集産主義者がいたが、私たちCNTの組合員は1万人だけだったことを忘れてはならない。私たちは多くの教育を行わねばならなかったのだ。[Felix Carrasquer, Martha A. Ackelsberg, Free Women of Spain, p. 79 で引用]

 さらに、集産体の地方連合がスペインの多くの地域で形成された(例えば、アラゴンやレヴァンテで)。連合は、地域の様々な集産体がその代理人を派遣して行う大会で創られた。こうした大会は、連合がどのように運営されるのか・加入した集産体はお互いに対してどのような責務を持つのかについて、一般的な規則を承認した。大会は運営評議会を選抜し、この評議会は合意したポリシーを実施する責任を負っていた。

 こうした連合は多くの課題を抱えていた。連合は、中間業者を廃し、搾取を確実に終わらせながら、剰余生産物を前線と都市へ確実に分配した。同時に、集産体間の交換が行われるよう手筈を調えた。さらに、連合は個々の集産体が共同で資源を貯蓄できるようにした。そのことで、地域の社会基盤(道路・運河・病院など)を改善し、一つの集産体では手に入れる余裕がなかった生産手段に投資できるようになったのである。

 このように、個々の集産体はその資源を貯蓄し、利用できる生産手段を増加・改善し、同時に、その地方の社会基盤を改善したのである。これら全てが、生産地での消費のの増加・前線でファシストと戦っている義勇兵への食料提供と合わせて行われていたのである。

 田舎の集産化は、田舎の労働者と農民に存在していた潜在的創造力が爆発できるようにした。私有財産下で、このエネルギーは浪費されていたのだ。民衆集会は、コミュニティの問題と改善案を特定し、万人の考えと経験に頼りながら直接解決し、議論と討議によって充実していた。これが、田舎のスペインを、貧困と恐怖に特徴付けられていた場所から、希望と実験の場所へと変換できるようにしたのである(幾つかの実験例については、次のセクションを参照)。

 このように、集産体における自主管理は、田舎の連合における協同と結合することで、田舎の生活の質を改善できたのである。純粋に経済的観点から見れば、生産は増大した。ベンジャミン=マーティンは次のように要約している。『田舎の土地奪取について一般化をすることは不可能だが、協同組合と集産体に参加した大部分の農民の生活の質が顕著に改善されたことは疑いもない。』[The Agony of Modernisation, p. 394]

 だが、もっと重要なのだが、生活の質におけるこの改善には、消費の増大だけでなく自由の増大も含まれていた。セクションA.5.6で引用したアラゴンのベセイテ集産体のメンバーを再び引用しよう。『集産体での生活は素晴らしかった。そこは自分が思ったこと発言できる自由な社会であり、村の委員会に何か不満があれば、それを述べることができた。村の全員を集めた総会を召集せずに、委員会が大きな決定を下すことはできなかった。こうしたこと全てが素晴らしかった。』[Ronald Fraser, Blood of Spain, p. 288]

I.8.6 農業集産体は何を成し遂げたのか?

 ホセ=ペイラツを引用して幾つかの例を挙げよう。

 モントブランクでは、集産体は、古い無用なブドウの木を引き抜き、新しいブドウ園を作った。この土地は、トラクターを使った近代的耕作によって改善され、より多くのより良い作物を生産した。アラゴンの多くの集産体が、新しい道路を建設し、古い道路を補修し、近代的な製粉所を導入し、農作物と動物から出る廃棄物を有用な工業製品へ加工した。こうした改善の多くは集産体が最初に始めた。カランダのような村落では公園と浴場が建設された。ほとんど全ての集産体が図書館・学校・文化センターを設立した。[The Anarchist Collectives, p. 116 で引用]

 ガストン=レヴァルは次のように指摘している。『レヴァンテ地方の農民連合は、スペインの全オレンジ収穫量の半分以上を生産した。それは、ほぼ400万キログラムの量であった。そして、生産量の70%以上を独自の商業組織を通じて(中間業者はいなかった)輸送・販売した。(連合の商業組織は倉庫・トラック・汽船を持ち、1938年初頭、輸出部門はフランスのマルセーユ・ペルピニャン・ボルドー・シェルブール・パリに独自の代理店を設立した。)スペイン全土で米の生産に当てられたのは総計47000ヘクタールだったが、その内、ヴァレンシア地方の集産体は30000ヘクタールを耕作していた。』[前掲書, p. 124 で引用]

 再びペイラツを引用しよう。

 文化的・教育的改革の重視は、スペインの田舎では前例のないことだった。アンポスタ集産体は読み書きが僅かしかできない人や幼稚園児向けの教室を組織し、人文職業校(a school of arts and professions)さえもあった。セロスの学校は集産体に加入しているかどうかに関わらず、町内の人々全員が自由に利用できた。グラウはその最も著名な市民ホアキン=コスタの名前を付けた学校を開設した。カランダの集産体(人口わずか4500人)は1233人の子供たちに学校教育を提供した。優秀な学生はカスペの教育機関に送られ、費用は全て集産体が支払った。カルコリサ(人口4000人)の学校には600人の子供たちが通っていた。学校の多くは、放棄された修道院で開設されていた。グラナデリャ(人口2000人)では、放棄された治安警察隊の小屋で教室が運営されていた。グラウスは印刷図書館と人文職業校を組織し、60人の生徒が参加していた。同じ建物には美術学校と素晴らしい美術館があった。初めて映画館が開設された村もあった。ペナルバ映画館は教会の中に設置された。ヴィラデカーナは実験的農業研究室を建設した。

 集産体は、戦闘隊に食料などの物資の莫大な蓄えを自発的に提供した。マドリー戦線には1490リットルの油と300ブッシェルのジャガイモが実際に送られた(豆・米・ソバなどの莫大な蓄えも送られた)。ポラレス=デ=チュハナは、膨大な量のパン・油・小麦粉・ジャガイモを前線に送り、陸軍病院に卵・肉・牛乳を送った。

 最も若く最も元気な労働者が各所で戦っていることを考えると、集産体の活動はさらに重要な様相を呈する。ヴィラボイの小さな集産体からは、200人のメンバーが前線に行った。ヴィレデカンスからは60人、アンポスタからは300人、カランデからは500人だった。[前掲書, pp. 116-120]

 ペイラツは農業集産体の成果を次のように要約している。

 分配という点で、集産体の協同組合は中間業者・小売商・卸業者・悪徳業者を排除し、その結果、消費者価格を非常に低くした。集産体は田舎の生活から寄生的要素の大部分をなくした。腐敗した役人と政治政党に保護されていなければ、完全に一掃してしまったことだろう。集産化されていない地域は、低価格から間接的に恩恵を受けていただけでなく、集産体がしばしば行っていた無料サービス(洗濯・映画・学校・理髪・美容院など)からも恩恵を受けていた。[前掲書, p.114]

 レヴァルは(数ある中でも)以下の成果を強調している。

 農業集産体では、連帯が最大限実践されていた。全ての人が必需品を保証されただけでなく、地区の連合が次第に集産体間で相互扶助原理を採用するようになった。このために、連合は、本来はあまり有利ではない村落を手助けするために、共通の蓄えを創り出した。カスティールではこの目的で特別な機関が創設された。工業において、この実践は、カタロニア鉄道のオスピタレートで始まったようである。そして、その後にアルコイでも行われた。政治的妥協によって公然たる社会化が邪魔されなければ、相互扶助の実践はもっと一般化したことであろう。女性は、職業や職務に関わらず、生計を立てる権利を持った。これは非常に大きな重要性を持っている。農業集産体の約半数において、女性は男性と同じ賃金を受け取った。残りの集産体では、恐らく、女性が一人で生活していることは滅多にないという原則のために、女性の取り分は少なかった。アラゴン・カタロニア・レヴァンテ・カスティール・アンダルシア・エストラマドゥーラの農業集産体全てで、労働者は労働や土地を分担するためにグループを作った。各グループは、通常、明確に規定された地区を割り当てられた。労働者グループが選抜した代理人が、集産体の代理人と会議を持ち、農作業の計画を立てた。この典型的組織は全く自発的に地元の発意で発生した。さらに、全体としての集産体は週に一度、二週に一度、もしくは一ヶ月に一度といった頻度で集会を開催した。集会は、指名した評議員の活動を精査し、特殊な事例と不測の問題を論議した。全住民−−男も女も生産者も非生産者も−−この議論と意志決定に参加した。土地を耕作する上で次のような最も重要な進歩があった。機械と潅漑の利用が急速に増大し、多様な作物が耕作されるようになり、植林が行われるようになったのである。畜産においては、品種の選定と繁殖が行われ、地元の諸条件に品種を適合させ、大規模な共同家畜納屋が建設された。[前掲書, pp. 166-167]

 マーサ=A=アッケルスバーグはこの経験を次のように上手くまとめている。

 こうした集産体の成果は広範囲に及んでいた。多くの地域で、農業生産が増加しないまでも維持されていた(青年男性が前線にいたことを忘れてはならない)。多くの場合、新しい耕作方法・肥沃化方法が導入された。集産体は、地域の家畜を世話し養うために鶏小屋や納屋などの施設を建てた。集産体の連合は、道路・学校・橋・用水路・ダムの建設を調整した。これらの中には今も残っているものがある。集産体は、スペインの田舎の社会基盤に対して、永続的な貢献を行ったのである。[The Free Women of Spain, p. 79]

 彼女は、同時に、集産体間の連帯を指摘し、次のように記している。『集産主義者は、また、裕福な集産体から品不足に悩む集産体へ剰余産物を運ぶよう手配もしていた。』[前掲書]

 つまり、集産体は、重要な経済的成果と同時に、社会的・政治的成果も確保したのだ。連帯が実践され、以前は疎外されていた人々が地域の事柄を直接・十全に管理し、自分達のニーズと願望を満たすべく地域を変えていたのである。

I.8.7 田舎の集産体は力ずくで創られたと聞いたことがあるが、本当なのか?

 違う、本当ではない。田舎の集産体が、アナキスト義勇軍が組織し実行した「テロ」によって創られたという神話は、スペイン共産党のスターリン主義者が言い始めたことである。最近では、右翼リバタリアンの中に、こうしたスターリン主義者のでっち上げを焼き直し、繰り返している人々がいる。アナキストは1936年以来、こうした主張が誤りであることを証明し続けてきた。ここで再度それを行っても無駄ではあるまい。

 ヴァーノン=リチャーズは次のように記している。『スターリン主義が今日どれほど信頼されていないものになっていようとも、スペイン内戦に関わるスターリン主義の嘘・解釈が未だに主流になっているという事実に変わりはない。多分、これは、現在スペイン内戦を解釈している歴史家が持つ政治的偏見と合致しているからであろう。』[Gaston Leval, Collectives in the Spanish Revolution, p. 11] ここで、我々は、田舎の集産体が暴力によって創られたという主張を反駁する証拠を示していく。

 まず第一に、田舎の集産体は、レヴァンテ(900の集産体)・カスティール(300)・エストラマドゥーラ(30)といったようにスペインの多くの地域で創られたが、そこにはアナキスト義勇軍が存在していなかったということを指摘しなければなるまい。例えば、カタロニアでは、CNT義勇軍がアラゴンに向けて多くの村落を通過していったが、アラゴンに450の集産体があったにも関わらず、通過した村落では40の集産体しか創られなかった。言い換えれば、田舎での集産化プロセスが生じたのは、アナキストの軍隊が存在したかどうかとは無関係だったのである。1700あった田舎の集産体の大部分は、アナキスト軍が優勢ではない地域で創られていた。

 歴史家ロナルド=フレイザーは、アラゴンの集産体はアラゴン民衆に強制されたと暗に述べているようだ。彼は次のように述べている。『集産化は、CNT義勇軍部隊の−−直接機関ではなかったにせよ−−全面的庇護の下で実行され、平等主義的目的と戦争ニーズのために、生産だけでなく消費も管理しようという革命的少数派の試みを意味していた。』[Blood of Spain, p. 370] 彼が、アナキスト義勇軍が実際に集産体を強制した−−これはほとんど、もしくは全く証拠のない主張である−−と述べていないことに注意して欲しい。それ以上に、フレイザーは、彼が示している事実に対して幾分矛盾した物語を提示している。彼は、一方では、CNTが農民に強制した「義務的な」集産化政策について語り、他方では、集産体のメンバー率が100%だったわけではないという多数の証拠を提示している。集産体に加入していない民衆がいるのに、集産化をどのように義務化できるのだろうか?同様に、彼は、CNT義勇軍指導者の数名が、強制的集産化に反対したCNTの公式的政策を知りつつ、戦争の準備という点から見てどのように強制的集産化を正当化したのかついて述べ、実際に強制的集産化が行われたのは全集産体の5%だけだったと述べている(そして、彼自身の著書の中でインタヴューした集産主義者たちは、集産体に加わらなかった人々がいたことを繰り返し話しているのだ!)。

 つまり、アラゴン集産体をCNTが民衆に押し付け、万人の義務とした「戦時共産主義」の一形態だとフレイザーが描こうとしていることは、彼が提示している証拠と合致していないのである。

 それ以前に、彼は次のように述べている。『銃口で彼ら(農民)を脅して(集産体に)入らせる必要はなかった。「ファシスト」が撃たれた際の強制的雰囲気で充分だった。集産体内部に、意欲的な集産主義者も嫌々ながらの集産主義者もいたように、「自発的な」集産体も「強制された」集産体も存在していた。』[前掲書, p.349] つまり、アラゴンの集産体は田舎の人々に押し付けられたのだという彼の示唆は、当時、アラゴン地方に「強制的雰囲気」があったという洞察に基づいているのである。もちろん、ファシズムに対する内戦は、特に前線では、「強制的雰囲気」を創り出しただろう。そのことでCNTを批判することなどできない。さらに、ファシズムに対する生死をかけた戦いで、ファシストは莫大な数のアナキスト・社会主義者・共和党員をその管轄地で組織的に殺害しており、幾つかのアナキスト部隊が勝手に制裁を加え、ファシストを支持していたりファシストの手助けをしたりしていた人々の何人かを殺したところで不思議ではない。ファシストのスペインで進行していたことと、ドイツとイタリアでのファシズムの経験を考えれば、CNT義勇軍は、自分たちが負けたら自分たち・友人たち・家族に何が起こるか正しく分かっていたのである。

 だが、地域の雰囲気は、戦争によって、そしてアナキスト義勇軍が側にいることによって、個人の選択不可能なほど非常に強制的なものになっていたのか、という疑問が生じる。

 事実が雄弁に物語っている−−アラゴンの田舎の集産体はファシズムから救い出された地域住民の70%以上を受け入れていた。人口の約30%は集産体に参加しなくても安心感を得ていた。これは相当な割合である。

 集産体がアナキストのテロや武力によって作られたとすれば、集産体のメンバー数は100%になるだろう。真実は違っており、集産体の性質が基本的に自発的なものだったことを示している(他の数字によれば集産主義者の数はもっと少なく、強制的集産化があったの可能性はさらに低い)。歴史家アントニー=ビーヴァーは(『疑いもなく圧力はあり、蜂起後の熱情の中のある情況では疑いもなく武力も行使された』と書いている一方で)、次のように当然のことを述べていた。『全ての村落に集産主義者と個人主義者が混在していたというまさにその事実が、農民は銃口を向けられて共同農業を強制されたのではないということを示している。』[The Spanish Civil War, p. 206] さらに、CNT義勇軍が農民を強制的に集産体に参加させていたなら、集産体のメンバー数は、時間をかけてゆっくりと増えるのではなく、ほとんど一夜にして頂点に達していただろう。だが、実際には次のように増加した。

 1937年2月中旬にカスペで開催された集産体地方大会は、「その地方のほとんど全ての村落」にいる約8万人の集産主義者を代表していた。だが、これは始まりに過ぎなかった。4月の終わりには集産主義者の数は14万人に増加し、5月の第一週の終わりには18万人になり、6月の終わりには30万人になった。[Graham Kelsey, "Anarchism in Aragon," pp. 60-82, Spain in Conflict 1931-1939, Martin Blinkhorn 編, p. 61]

 集産体が武力で創られていたなら、そのメンバー数は、4ヶ月で徐々に増加するのではなく、2月に30万人になっていたことだろう。新しい村落が集産化されたためこのように増加したのだと主張することもできない。2月にほとんど全ての村落が代理人を大会に送っていたからだ。つまりこのことは、共同労働に利点があり、自分たちが使える資源が増加し、以前のシステムでは少数者に独占されていた剰余の富をコミュニティ全体の生活水準向上のために仕えるようになったために、多くの農民が集産体に参加したことを示しているのである。

 集産体が持つ自発的性質は多くの集産体で強調されており、小自作農家が集産体の外部に居続けることができるようにしていた。フレイザーが(366ページで)示している証拠によれば、あるFAIの学校教師が小自作農家を強制的に集産体に加入させることは、『広く蔓延した問題ではなかった。集産化が全面的に行われ、集産体の外部にいることを許されなかったのは20箇所程度の村落に過ぎなかったからだ。』村落にいる少数派を多数派の願望に無理矢理同意させるのではなく、アラゴンの集産体の大多数(95%)がそのリバータリアン諸原則に忠実であり、集産体に参加しない人々を外部に居続けることができるようにしていたのである。

 従って、20カ所程度だけ(450カ所の内)が「全面的な」集産体であり、民衆の約30%が集産体に参加しないでも安全だと感じていた。言い換えれば、集産体の大多数で、参加した人々は、参加しなかった人が安全であるように配慮していたのだった。この数字を軽視してはならない。この運動が基本的に自発的で任意的な性質を持っている事を示しているのだから。7月19日以後に創られた新しい自治体評議会の構成も同様だった。グラハム=ケルシーは次のように書いている。『この結果から直接明らかなことは、この地方は他の勢力が完全に排除され、アナキストに管理されていたとレッテルを貼られることが多いが、CNTは、頻繁に暗示・推測されているほどの絶対的支配を享受してはいなかった、ということである。』[Anarchosyndicalism, Libertarian Communism and the State, p. 198]

 田舎の革命に関して説明する中で、バーネット=ボロテンは次のように述べている。解放されたアラゴンで革命は『住民の70%以上を受け入れていた。』そして『この地方にある450の集産体の多くが概して任意のものであった。』ただ、『この目覚ましい発展は、近隣のカタロニア地方からやってくる義勇軍(そのほとんどがCNTとFAIのメンバーだった)の存在による部分もあったことは強調しておかねばならない。』[The Spanish Civil War, p. 74]

 ガストン=レヴァルは次のように指摘する。『こうした軍隊の存在が、ブルジョア共和国とファシズムの支持者による活発な抵抗を防ぐことで、建設的成果を間接的に助けていた。』[Collectives in the Spanish Revolution, p. 90]

 つまり、義勇軍の存在は、資本主義国家を破壊することで、アラゴンにおける階級勢力のバランスを変え(つまり、地元のボス−−カシーケ−−はその財産を守るために国家の手助けを手に入れることができなくなったのだ)、多くの土地なし労働者が土地を接収したのである。義勇軍の存在は、革命前に存在した資本家による「武力の独占」(この権力については以下で明らかにする)を破壊することで、土地を確実に奪取できるようにし、CNT義勇軍はアラゴン人民による実験を可能にしたのだった。

 田舎におけるこの階級戦争は、ボロテンの次の言葉に示されている。『個人農家は、急速に広がった農業の集産化に愕然としていた。アナルコサンジカリストCNTと社会党UGTの農場労働者たちは集産化を新しい時代の始まりだと見なしていた。』[The Spanish Civil War, p. 63] CNTもUGTも共に大衆組織であり、集産化を支持していた。

 従って、アナキスト義勇軍は、田舎の労働者階級が、私有財産によって創り出された(国家によって強制された)人工的土地不足を根絶できるようにしたのだった。田舎のボスたちは、明らかに、自分達が日雇い労働者を搾取できなくなる可能性に怯えていた。ボロテンが指摘しているように、『集産農業システムは、田舎の賃労働者の労働市場を枯渇させる恐れがあった。』[前掲書, p. 62] 金持ちの農家と地主が集産体を憎んでいたのは不思議ではない。

 ボロテンはヴァルデロベス地区に関する報告書も引用し、集産体を民衆が支持していたことを示している。

 それでもやはり、右翼と左翼の敵対者たちは集産化に反対していた。土地を没収された永遠の怠惰者に集産化をどう思っているのか尋ねれば、窃盗だと答えるものもあれば、独裁だと答えるものもいよう。だが、大地主と無慈悲な高利貸しに常に支配されてきた老人・日雇い労働者・小作農・小規模経営者にとって、集産化は救済だと思われたのだった。[前掲書, p. 71]

 大部分の歴史家は田舎に存在した階級の違いを無視している。彼らはこれを無視しながら、アラゴンにおける集産体の(彼らはそれ以外の集産体は無視するのだ)増加をCNT義勇軍のためだと説明する。例えば、フレイザーは次のように述べている。『集産体の出現は非常に早かった。これは、CNT指導部からの指導の下に出現したのではなかった−−バルセロナの(工業)集産体と同じだった。そこでの場合同様にここでも、イニシアティヴはCNT闘士によってもたらされた。そこでの場合同様にここでも、後衛にいる社会革命の「雰囲気」はCNTの軍事力が創り出していた。バルセロナの街路のアナルコサンジカリスト支配がアラゴンで再現された。主としてカタロニアのアナルコサンジカリスト労働者を配属したCNT義勇軍部隊が雪崩れ込んできたからだ。アナルコサンジカリストの中核となる人々が村落に存在している場所では、長く待ちわびた革命を実行する瞬間を捕らえ、自発的に集産化が行われた。中核となる人々がいない場所では、村落住民は義勇軍から集産化の圧力を大きくかけられていたのだった。』[前掲書, p. 347]

 言い換えれば、彼は、革命は主としてカタロニアからアラゴンに持ち込まれたと述べているのである。しかし、CNT部隊の指導者の大部分は、アラゴン評議会(集産体の連合)を設定するのに反対だった [Fraser, 前掲書, p. 350]。カタロニアCNTという規範が社会革命を押し付けたわけではないのだ。これまで既に、アラゴンのCNTは幅広い民衆組織だったという証拠を示してきた。カタロニアCNTが集産体をアラゴンに持ち込んだという考えを示すことは、単に欺瞞でしかない。

 フレイザーは次のように述べている。『(アラゴン村落の)幾つかではCNTが活躍しており、UGTが最も強い場所もある。ほとんどの場所では残念ながら組合は全く作られていなかった。』[Blood of Spain, p. 348] その強さはどれほどの規模だったのか、という疑問が生じる。我々が知る限り、CNTは規模が大きく、強く、増大しつつあった。従って、田舎のアラゴンでCNTの支持体がない場所はなかったということを示している。これが集産体を押し付けたという示唆を誤謬だとしている基盤である。

 マレイ=ブクチンは、田舎のアラゴンにおけるCNTの強さを次のように要約している。

 正真正銘のCNT農民支持基盤は、今や(1930年代)、アラゴンにある。(サラゴサにおけるCNTの成長は)アラゴンの下層階級の、特に、乾燥したステップ気候にいる困窮労働者と負債に苦しむ農民の間での、非常に効果的なリバータリアン扇動の出発点となった。[The Spanish Anarchists, p. 203]

 グラハム=ケルシーは、1930年〜1937年のアラゴンにおけるCNT社会史の中で、CNTの成長について欠くことのできない証拠を示している。これはブクチンの主張を支持する以上の証拠である。ケルシーは次のように指摘する。『リバータリアン集団の広がりとリバータリアン理論に関するCNTメンバー間での意識の増加が、アラゴンにおけるアナルコサンジカリズム運動の成長に寄与している』一方で、『農民動乱(の存在)もこの成長にとって重要な役割を演じていた。』[Anarchosyndicalism, Libertarian Communism and the State, pp. 80-81]. これは、全て、『アラゴンにおけるCNTネットワークの復活』[p. 82] を導き、1936年までに、CNTは『1933年に築かれた基盤』に基づき、『最終的に、サラゴサにある都会の労働組合組織が持つ大きな長所を、大規模な地方ネットワークへと上手く翻訳できたのである。』[前掲書, p. 134]

 ケルシーなどの歴史家は、1860年代後半に遡りながら、アラゴンにおける長いアナキズム史を記している。だが、1910年以前には、地元のボス(カシーケと呼ばれる)の権力のために、CNTはアラゴンの田舎をほとんど獲得していなかった。

 地元の地主・小規模実業家・アラゴンの田舎にいるカシーケは、(1915年以後に作られた)最初の田舎のアナルコサンジカリスト小集団を強制的に排除すべくあらゆる活動を行った。1923年の夏に行われた第一回アラゴンCNT地方大会までに、この組織が行った相当量のプロパガンダ活動によって多くの進歩が達成されたが、これは他の場所での弾圧によって反撃されていた。[Graham Kelsey, "Anarchism in Aragon," p. 62]

 あるCNT活動家はこうしたボスの権力を示し、アラゴンで組合員になることがどれほど難しかったのかを示している。

 弾圧は、大都市でのものと同じではなかった。村落では、誰もが知り合いで、治安警察が同志のちょっとした動きにも即座に気付くからだ。友人も親戚も容赦されなかった。国家の弾圧勢力に加担しない人は誰であれ無条件に追いつめられ、迫害され、ぼこぼこに殴られることもあった。[Kelsey, 前掲書, p. 74 で引用]

 だが、田舎の組合を上手く組織できた場合もあったものの、1931年にさえ、『村落で多くの労組小集団を確立したプロパガンダキャンペーンは、その後に、村落のカシーケから逆襲され、強制的に閉鎖された。』[前掲書 p. 67] だが、この弾圧に直面しても、CNTは成長し、『1932年の終わりから、アナルコサンジカリズム運動は、以前には浸透していなかった地方の幾つかの場所へと拡大することに成功した。』[Kelsey, Anarchosyndicalism, Libertarian Communism and the State, p. 185]

 この成長が1936年の足場となった。田舎の活動主義が増大し、カシーケの権力をゆっくり腐食していった(カシーケがファシストのクーデターを支持した理由の一つがこれである)。人民戦線が選挙で選ばれた後、数年間にわたるアナキズムのプロパガンダと組織化が報われ、CNTの地方メンバーが莫大に増加したのだった。

 総選挙以降の六週間で田舎のアナルコサンジカリズム支持を劇的に増加させることは、(アラゴンCNTの4月)大会の議題で強調されていた。この大会は、田舎の諸問題に注目を向け、(プログラムに合意し)このプログラムはまさにその四ヶ月後、解放されたアラゴンで正確に実行されたのだった。[Kelsey, "Anarchism in Aragon", p. 76]

 4月初旬にサラゴサで開催された地方大会の直後に、アラゴン地方連合の各地域で一連の集中的プロパガンダキャンペーンが組織された。以前には一度もアナルコサンジカリズムのプロパガンダを聞いたことがなかった村落で多くの会合が持たれた。これは非常に上手く行き、1936年6月初旬までにアラゴンの組合数は400を越えた。一ヶ月前にはたった278であり、四週間で40%以上の増加をしたことになる。[前掲書, pp. 75-76]

 この組合員の増加は、アラゴン労働者による社会闘争の増加と生活水準を向上させる活動を反映している。大部分のアラゴン労働者の生活水準は非常に低かった。保守系カトリックのエラルド=デ=アラゴン紙のジャーナリストは、1935年の夏にアラゴン南部を訪れ、次のように記していた。『男性が働いていない家庭の多くが飢えており、このために、青年は人を惑わす教えに同意する気になり始めている。』[Kelsey, 前掲書, p. 74 で引用]

 従って、CNT組合員と社会闘争の増加は何ら不思議ではない。ケルシーは次のように述べている。

 アラゴンにおける戦闘的労働組合主義が増大していたことに関しても様々な証拠がある。1936年の2月中旬から7月中旬の5ヶ月間で、サラゴサ地方は70回のストライキを経験し、これはこれまで一年間に記録されていたストライキよりも多く、他の二つの地方でも事態は明らかに同じだった。こうしたストライキの大部分は地方都市や村落で生じていた。ストライキは地方を翻弄し、少なくとも、三つの事例では、実際にゼネストへと転化した。[前掲書, p. 76]

 1936年の春と夏にCNT組合員が莫大に増加したことは、アラゴンの都会と田舎の住民による戦闘的闘争が増加したことの表れだった。CNTの数年にわたるプロパガンダと組織作りが、CNTの影響力がこのように増加するよう保証した。この増加は、革命中に、解放されたアラゴンで集産体が創り出されたことにも反映されている。従って、集産化された社会の建設は、第二共和国の五年間で、リバータリアン原則・アナキズム原則を注ぎ込まれた大衆労働組合運動の出現に直接基づいていたのである。こうした集産体は、1936年4月のアラゴンCNT大会で合意されたプログラムに沿って作られていた。このプログラムはアラゴン地方の組合員の願望を反映したものだった(そして、それ以後のCNTの急速な成長によって、この地域の民衆感情を明らかに反映したものとなった)。

 グラハム=ケルシーを引用しよう。『暴動後のアラゴンで、リバータリアンが優勢となったことは、アナキストが内戦前に確保した優位性を表していた。1936年の夏までに、CNTは、アラゴン中に、厳密にリバータリアンの方向性を持った大衆労働組合運動を作ることに成功していた。広範囲に及ぶ十全に支持されたこのネットワークに基づいて、広範な集産体実験が築かれることとなるのである。』[前掲書, p. 61]

 また、CNTが組織した1933年12月の暴動の中心地はアラゴンだった。この事実は、アラゴンの田舎でCNTが非常に高い水準で支持されていたことを示すもう一つの証拠である。ブクチンは次のように記している。『アラゴンだけが、特にサラゴサが、深刻な規模で蜂起をした。村落の多くがリバータリアン共産主義を宣言し、最も激しい戦闘は、リオハにいるブドウ園労働者と当局との間で行われたものだったと思われる。』[M. Bookchin, 前掲書, p. 238]

 CNTが、支援や影響力の少ない場所で蜂起を組織することは考えにくい。ケルシーによる綿密なアラゴン社会史によれば、『1933年12月に最も重要だったのはまさにこれらの地域だった。この地域は、今や(1936年)、新しい経済組織・社会組織を創り出そうと、リバータリアンのアラゴンの基盤を形成しようとしていた。』[G. Kelsey, Anarchosyndicalism, Libertarian Communism and the State, p. 161] 叛乱の後で、数千人の労働者が投獄され、逮捕者の数が多いため、当局は閉ざされた監獄を再開し、少なくとも一つの使用されていない修道院を監獄にせざるをえなかったのだった。

 従って、アラゴンの集産体の大部分は、CNT(とUGT)に影響された労働者の産物だと考えられる。こうした労働者たちは、新しい社会生活形態を、自発的で直接民主主義的な性質に特徴付けられる社会生活形態を創造する機会を捉えたのである。田舎のアラゴンで知られていなかったなどということとはほど遠く、CNTは定着しており、速いスピードで成長したのだ−−『都会の本拠地から広がりながら、CNTは、1933年に初めて、そして、1936年にはもっと広範囲にわたって、本質的に都会的な組織を真に地方的な連合へと転換することに成功したのである。』[前掲書, p. 184]

 従って、こうした証拠によれば、フレイザーのような歴史家たちが、アラゴンの集産体はCNT義勇軍が創り出し、嫌がる住民に強制されたと示していることは誤っている。アラゴンの集産体は、アラゴンの田舎で長年にわたりアナキストが活動してきた自然な結果であり、1930年から1936年にCNTが莫大な成長を遂げたことと直接関連していた。ケルシーは次のように正しく述べている。

 リバータリアン共産主義と農村の集産化は、都会のアナルコサンジカリストの特別チームが敵対的住民に押し付けた経済的関係や社会的諸原則ではなかったのだ。[G. Kelsey, 前掲書, p. 161]

 だからといって、前線の「強制的雰囲気」のために不本意ながら集産体に参加した人々の例がなかったと述べているのではない。そして、もちろん、内戦前にCNT組合を持たなかったため、CNT義勇軍の存在によって集産体を創設した村落も存在した。しかし、これは特例だと見なすことができる。

 それ以上に、CNTによるこうした情況への対処方法は注目に値する。フレイザーはアリョサ村における情況を示している。1936年の秋に、CNT地区委員会の代表が、村民に集産化を提案すべくやってきた(ここで強調しておきたいのだが、この村を通過したCNT義勇軍はここに集産体を創り出そうとはしなかったのだ)。

 村民集会が召集され、CNTは自分達の思想を説明し、集産体を組織する方法を提案した。だが、誰が参加し、村民がどのように集産体を組織するかは、完全に村民に委ねていた(CNTの代表者たちは『誰も手荒に扱われることはない、と強調した』)。集産体の内部では、自主管理がルールだった。

 一人の集産体メンバーは『友好的な形で作業グループが確立され、その土地で仕事が行われると、誰もが充分上手くやっていくようになった』と回想している。『強制の必要はなく、規律や懲罰も必要なかった。集産体は全く悪い考えではなかった。』[前掲書, p. 360] この集産体は、大部分の集産体同様、自発的で民主的だった−−『私は、人を無理矢理参加させるなどできなかった。私たちは独裁下に生きているのではなかったのだ。』[前掲書, p. 362] 言い換えれば、集産体を創り出すために腕力は使われなかったのである。集産体は、地元の民衆が直接的に組織したのである。

 もちろん、公益(経済の専門用語を使えば)に関して言えば、コミュニティの全成員が戦争の準備に対価を払い、義勇軍に食物を提供しなければならなかった。ケルシーは次のように記している。『軍事蜂起は農業カレンダーで重要な時に行われた。アラゴン南部全土の穀物畑が収穫の準備に追われていた。アルバラテ=デ=シンカの集会で合意されたプログラムの冒頭の節は、自営農家も集産主義者も同様に、この地区にいる誰もが平等に戦争の準備に貢献するよう求めていた。その結果、叛乱直後の時期で最も重要な考慮事項の一つを強調していたのである。』

 さらに、集産体は穀物価格を管理し、投機とインフレを確実に制御できるようにしていた。だが、こうした政策は、個人主義者と集産主義者に平等な戦争準備義務を課しているのと同じように、内戦のために集産体にも課せられたのだった。

 最後に、田舎の集産体に民衆的性質があったことを支持するために、共産党による1937年8月の集産体弾圧活動−−ハッキリ言えば田舎の経済崩壊活動−−を示しておこう。このことは、集産体に対する民衆の態度に関する問題を明らかにしてくれる。

 10月、共産党支配下にある地方農業改革派遣団は次のように認めていた。『大部分の村落において、農作業は混乱しており、我が国の農業経済に大きな被害を与えている。』これは共産党員で農業改革協会の書記長ホセ=シルヴァによって追認された。リステルがアラゴンを攻撃した後、シルヴァは次のように述べていた。『田畑での労働はほとんど完全に一時停止状態だった。土地の四分の一は種蒔きの準備がされていなかった。』アラゴン共産党農業委員会の会議(1937年10月9日)で、ホセ=シルヴァは『仕事に対する農民全体のやる気はほとんどな』く、集産体の解体によってもたらされた情況は『深刻で危機的』だ、と強調していた。[Bolloten, 前掲書, p. 530 で引用]

 ホセ=ペイラツはこの経済崩壊の理由を民衆のボイコットの結果だと説明している。

 次の収穫の準備をするときが来ても、小自作農は(共産主義者が)設定した土地で自力で働くことはできなかった。立ち退かされた農民たち・非妥協的な集産主義者たちは、私有財産システムで働くのを拒否し、自分達の労働力を貸そうとさえしなかった。[Anarchists in the Spanish Revolution, p. 258]

 集産体の評判が悪く、アナキスト勢力に創り出されたものだとすれば、弾圧後に経済崩壊が起こったのは何故なのだろうか?リステルが全体主義的アナキズム体制を打倒したのだとすれば、農民が自身の労苦の結果を収穫しなかったのは何故だろうか?集産体は本質的にアラゴン住民が自発的に発展させたものであり、地元住民の大部分が集産体を支持していたからなのではないだろうか?この分析はヤーコヴ=オーヴェド(Yaacov Oved)の記述で裏付けられている(1990年7月にマドリーで行われた第12回社会学会に提出された論文より)。

 (アラゴン集産主義者を「自由にする」という)この政策の責任者たちは、農民は集産体に無理矢理加入させられたのだから、喜んでこの政策を受け入れるだろう、と確信していた。だが、彼らは間違っていた。自分の土地が戻ってきたことを喜んだ金持ち地主を除き、農業集産体のメンバーの大部分はこの政策に反対し、全くやる気を失って、農業に対する同じ努力を再開することに気乗りがしなかった。この現象が蔓延していたため、当局と共産党の農業関係大臣はこの不利な政策を撤回せざるを得なくなった。[Yaacov Oved, Communismo Libertario and Communalism in the Spanish Collectivisations (1936-1939)]

 共産党による弾圧にも関わらず、大部分の集産体は継続していた。このことは、少なくとも、集産体が民衆機関だったことを証明している。ヤーコヴ=オーヴェドは、集産体の崩壊について次のように論じている。

 集産主義者が新しい政策に進んで協力しようとはしなかったことから、大部分の集産体メンバーが自発的に集産体に参加したことは明らかだった。政策が変わるとすぐに、新しい集産体が相次いで設立されたが、動き出した車輪を元に戻すことはできなかった。集産体と当局の間に不信感が広がり、発意は抑圧されてしまった。[前掲書]

 ホセ=ペイラツは、集産体に対する共産党の攻撃と集産体合法化後の情況を次のように要約している。

 集産化の第二段階は、メンバーの誠実な信念をもっと良く反映していると考えられる。メンバーは厳しい試練を経験し、それに抵抗した人々は折り紙付きの集産主義者だった。だが、この第二段階で集産体を捨てた人々を反集産主義者だとレッテル貼りすることは軽薄であろう。恐怖・公的な強制・不安感が、多くのアラゴン農民の決意に重くのしかかっていたのだ。[前掲書, p. 258]

 集産体が存在している間、生産は20%増加していた(内戦前の『豊作』時の収穫と比較して [Fraser, p. 370])が、集産体の崩壊後、経済も崩壊した。集産体が嫌がる農民に押し付けられていたならば、こんな結果は期待できないだろう。ロシアにおいて、スターリンが行った強制的集産化は飢饉をもたらした。ファシズムの勝利だけが、スペインの田舎において資本主義的財産といういわゆる「自然の秩序」を保持できるようにしたのだ。我々は確信している。共産党による集産体の弾圧を歓迎していたのとまさに同じ地主たちが、自由よりも所有の永続的勝利を確実にするファシストを歓迎したのだ。

 従って、証拠が示しているように、全体的に見れば、アラゴンの集産体は、レヴァンテやカタロニアといった他の場所同様に、田舎の住民が自分達のために創り出した民衆組織だったのだ。本質的に、自発的な民衆社会革命の表現だったのである。集産体は武力でアナキスト義勇軍が創り出したという主張は誤りである。暴力行為は実際にあり、強制的行為も何度か実際に行われた(CNTの政策に反して、と付け加えておく)。だが、これらは特例である。下記のボロテンの要約が事実に適合している。

 だが、権力の現実で汚されたときに常にスペインのアナキストを悩ませていた主義と実践との分裂にも関わらず、強制と暴力の多くの実例があったにせよ、1936年7月の革命は集産主義運動が持つ全般的自発性と広範囲にわたる特徴によって、そして、道徳的・精神的再生の見込みによって、他の革命全てよりも卓越していた、ということを強調してもしすぎることはない。このような自発的運動がこれまで起こったことなどなかったのだ。[前掲書, p. 78]

I.8.8 だが、スペインの集産体は新しい技術を導入したのか?

導入した。私有財産が存在しなければ誰も技術革新しない、という資本主義者の昔ながらの主張とは逆に、労働者と農民は、民間企業システム下でよりも、リバータリアン社会主義下での方がはるかに多くの動機付けと創造性を示していた。これは、カルカヘンテにおける集産化の結果に関するガストン=レヴァルの記述から明らかである。

 カルカヘンテは、ヴァレンシア地方の南部に位置している。この地方の気候はオレンジの栽培に特に適している。社会化された土地全てが、例外なく、計り知れない注意深さを持って耕作された。果樹園は徹底的に除草されている。樹木が必要な養分全てを確実に得ているようにするために、農民たちは絶え間なく土壌をきれいにしている。「以前は」と彼らは誇りを持って私に話した。「これら全ては金持ちのもので、みすぼらしい給料をもらっている労働者が仕事をしていた。土壌をきれいにするだけでもっと良い収穫を得ることができたのに、土地はほったらかしで、地主は膨大な量の化学肥料を買わねばならなかったんだ。」誇りを持って、彼らは私に、良質な果実を付けるように接ぎ木された樹木を示したのだった。

 多くの場所で、私は、オレンジの木の陰で植物が生えているのを見た。「これは何ですか?」と私は問うた。レヴァンテの農民たち(創意があると有名だ)はオレンジ林の間にジャガイモをたくさん植えていたのだと知った。農民たちは、農業省にいる官僚たち全員が束になってもかなわないほどの知性を実際に示している。農民たちはジャガイモを植える以上のことを行っている。レヴァンテの全地域で、土壌が適している場所ならば何処でも、作物を育てている。田圃の四ヶ月間(作付けをしない期間)を巧みに利用している。農業省が共和国領域全土でこうした農民の実例に従っていれば、パンの欠乏という問題は数ヶ月で克服されたであろう。[Dolgoff, Anarchist Collectives, p. 153 で引用]

 これは、工業集産体と田舎の集産体双方に関する報告の中で示された無数の例の一つに過ぎない(詳細は、セクションC.2.3とセクションI.8.6を参照して欲しい。セクションC.2.3では「労働者管理は技術革新の息の根を止める」という非難を論駁する多くの実例が示されている)。集産体のメンバーは生産を増加させ、労働をより軽くもっと興味深いものにするために、投資と技術革新の重要性に鋭く気付いており、なおかつ、集産体はこの気づきを自由に表現できるようにしていたことを証明する多くの証拠を手にいれることができる。スペインの集産体は示している。万人は、機会があれば、自分の業務に関心を持ち、環境を変えるために自分の理性を行使したいという願望を表現するのだ。実際、資本主義は、ヒエラルキー下での技術革新の在り様を歪めている。コストを削減し、投資家の利益を最大にするやり方へと純粋に技術革新を導き、他のもっと重要な問題を無視しているのである。

 ガストン=レヴァルが論じているように、自主管理は技術革新を促していた。

 自由主義経済の理論家と支持者たちは、競争が発意を刺激し、その結果、創造的精神と発明が休止状態のままにはならない、と確信している。集産体・工場・社会化された仕事場について著者が行った多くの観察では、全く正反対の見解を取らざるを得ない。なぜなら、集産体において、個々人が自分の仲間の研究に対して貢献をしたいという願望に刺激されているような集団においては、技術的完成などを求める願望も同時に刺激されるからである。だが、その結果、最初に集まった人々に他の人々が参加するようにもなる。さらに、現代社会では個人主義的発明家が何かを発見すると、資本家やその人を雇用している個人だけがその発見を使う。一方、コミュニティに住んでいる発明家の場合、その発見は他者が入手し、発展させるだけでなく、公益のためにすぐさま利用される。私は、社会化された社会において、このことの優越性がすぐに現れると確信している。[Collectives in the Spanish Revolution, p. 247]

 したがって、スペインにおける実際の自主管理経験は、セクションI.4.11で示した主張を支持しているのである。ヒエラルキーから自由になることで、個々人は創造的に世界とやり取りし、自分のおかれた情況を改善していく。これは、「市場要因」のためではなく、人間精神が能動的動作主であり、権威によって破壊されない限り、地球が太陽の周りを回るのを止めないのと同じように、考えることと行動することを止めることができないからなのだ。さらに、バクーニンが論じているように、自主管理は議論によって思想を充実できるようにしている、ということを集産体は示している。

 最高の知性があるからといって、全体を理解しているわけではない。それ故、労働分業と労働結合が必要なのだ。私は受け取り、与える。これが人間生活なのである。個々人は指図し、自分の番になれば指図される。したがって、固定した普遍の権威などなく、相互の、一時的な、とどのつまり自発的な権威と服従とを常に交互に繰り返すのである。[God and the State, p. 33]

 自主管理の経験は、バクーニンの主張を証明していた。社会は、最も知的な個人よりももっと知性を持っている。様々な観点・経験・考えがそこに含まれるからだ。資本主義はその人工的境界と権威的構造によって個人と社会を衰えさせるのである。

I.8.9 それほどまでに良いものだったなら、何故存続しなかったのか?

 単に、良いことだからといって、それが存続するわけではないからだ。

 例えば、ナチスに対するワルシャワ=ゲットーの暴動は失敗したが、だからといって、暴動が不当な理由で行われたとか、ナチ体制は正しかったとかいうことを意味してはいない。全く違う。同様に、共和派スペイン中で着手された労働者自主管理と共同生活はそれまで行われた自由社会における社会実験の中で最も重要なものの一つなのだが、このことが、フランコ軍と共産党の方がより多くのより良い兵器を入手していたという事実を変えることはできない。

 フランコの攻撃とテロ、その背後にあるファシストイタリアとナチドイツの軍事力、共産党の裏切り、西洋ブルジョア「共和国」のよそよそしい態度(その「非介入」政策は、自国の市民がフランコを支援していた際には、奇妙にも無視されていた)に直面して、革命がこれほどまで長く持続していたことは驚くべきことである。

 だからといって、アナキスト自身の行動が正当化されはしない。よく知られているように、CNTは他の反ファシズム政党や共和国側の労働組合と協力していた(次のセクションを参照)。この協力のために、CNTは反ファシズム政府へ参加し、「アナキスト」が国家の大臣になってしまった。この協力こそが、何よりも、革命の敗北を確実にする手助けをしたのだ。こうした「指導者たち」は、大部分の指導者同様に、自分自身を交代不可能だと考え、自分がメンバーとなっている組織の代弁者だと考え始めるようになった。こうした自称「指導者」の鼻先に多くの非難を向けることはできたのだが、運動に関わっている一般の人々がこうした人々を止められなかったことを述べておかねばならない。大部分の戦闘的アナキストは前線におり(従って、組合の会議や集産体の会議には参加できなかった)、仲間の労働者に影響を与えることはできなかった(「ドゥルティの友」グループが主として元義勇軍兵士だったことは当然であった)。だが、反ファシスト団結の幻覚はCNTメンバーの大多数には強烈過ぎたように思える(セクションI.8.12を参照)。

 アナキストの中には、スペインのアナキズム運動には選択の余地がなく、協調路線(不幸な効果を持っていたものの)だけが唯一の選択だった、と今も主張している人々がいる。この観点は、サム=ドルゴフが主張しており、ガストン=レヴァルやアウグスティン=ソウヒなど多くのアナキストの著作でそれなりに支持されている。だが、今日、大部分のアナキストは協調路線に反対しており、これは重大な誤りだったと考えている(当時、この立場は、スペイン以外のアナキストの大部分とスペインの運動で規模の大きな少数派がとっており、協調路線が何を意味するのかが明確になるに従い、大多数がこの立場をとるようになった)。この観点は、ヴァーノン=リチャーズ著『スペイン革命の教訓 Lessons of the Spanish Revolution』において最もうまく表明されており、部分的には、ホセ=ペイラツ著『スペイン革命におけるアナキスト Anarchists in the Spanish Revolution』、ヒュアン=ゴメス=カサス著『アナキストの組織:FAIの歴史 Anarchist Organisation: The History of the F.A.I』といった著作や、革命以降にアナキストが書いた様々なパンフレットや文献でも表明されている。

 従って、社会システムがどれほど良いものであろうとも、客観的事実が実験を圧倒するのである。サトゥルニーノ=カロド(アラゴン戦線のCNT義勇軍部隊の指導者)は、革命の成功と客観的限界を次のように要約している。

 常に裏切られると予想し、我々が問題を引き起こしたら、向こう側の敵が得をすることを常に分かっている。アナルコサンジカリズム運動にとってこれは悲劇だった。だが、もっと大きなもの−−スペイン民衆−−にとっての悲劇だったのだ。絶対に忘れることはできない。工業と農業を集団的に運営する自身の能力を証明することで、共和国が32ヶ月間闘争を継続できるようにしたのは、労働者と農民だった。軍需産業を作り出したのも、農業生産を増加させ続けたのも、義勇軍を形成し、その後に軍隊に参加したのも民衆だった。民衆の創造的活動がなければ、共和国は戦争を行うことなどできなかったであろう。[Fraser, Blood of Spain, p. 394 で引用]

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