アナキズムFAQ

I.8.10 何故、CNTは国家に協力したのか?

 よく知られているように、1936年9月にCNTはカタロニア政府に参加し、その後11月に中央政府に参加した。これは、フランコが敗北するまでリバータリアン共産主義には言及しないという7月21日の決定に従ったものだった。つまり、ファシズムに対抗する共同戦線において、他の反ファシズム政党や労組と協力したのである。

 この協力には、最初から、「反ファシズム義勇軍中央委員会」への参加にCNTが合意することが必要だった。この委員会はカタロニア政府の指導者であるルイス=コンパニイスが起草し、様々な反ファシスト政党とグループの代表者から成り立っていた。他の活動調整手段がない以上、ここからCNTが公式的政府に参加するまでは時間の問題だった(セクションI.8.13を参照)。

 次のような疑問が生じるはずだ。何故CNTはその原則を放棄して国家に協力することを、反革命と戦争の敗北を導くことを決めたのか?これは重要な疑問である。実際、これは、マルクス主義者がアナキストと議論したり、反アナキズムの痛烈な非難を行う際に常に投げかける疑問である。7月19日以後にCNTがアナキズムを実行できなかったということは、アナキズムの政策が間違っていることを意味しているのではないか?というよりもむしろ、スペイン革命中のCNTとFAIの経験はアナキズムの失敗ではなく、アナキストの失敗、困難な客観的情況下でなされた失敗であり、アナキストが教訓としてきた失敗なのではないか?言うまでもなく、アナキストは後者の答えが正しいと主張する。つまり、ヴァーノン=リチャーズが論じているように『(自分の)批判の根本は、アナキズム思想がスペインの経験によって役に立たないと証明されたということではなく、スペインのアナキストとサンジカリストは、その理論を検証できず、その代わりに敵の戦術を採用してしまった、ということなのである。』[Lessons of the Spanish Revolution, p. 14] このFAQの著者も同じ意見である。

 ならば、何故、CNTはスペイン内戦中に国家に協力したのだろうか?単純に言って、その根源は、アナキズム理論の誤り(マルクス主義者が主張することが多いように)にではなく、カタロニアのアナキストが7月20日に直面していた情況に見出すことができよう。CNTとFAIの主導的闘士たちが直面した客観的条件がその決定に影響を与え、彼らは後にアナキズム理論を用することで、その決定を正当化したのである。

 7月20日にカタロニアのアナキストが直面した情況はどのようなものだったのだろうか?単純に言えば、不測の状況だった。ホセ=ペイラツは、CNTが国際労働者協会に対して作成した報告書を引用している。

 レヴァンテ地方は無防備で流動的だった。我々はマドリードでは少数派だった。アンダルシアの情況については分からない。北部からの情報は全くなく、スペインの残りの地方はファシストの手中に落ちていると思われる。敵は、カタロニアの入り口であるアラゴンにいた。外国の領事館員は緊張しており、大量の軍艦が港を取り巻いている。[Anarchists in the Spanish Revolution, p. 180 で引用]

 同時に、彼は次のように記している。

 この報告書によれば、CNTは1936年7月19日にカタロニアを絶対的管理下においていたが、その強さはレヴァンテ地方よりも弱く、中央政府と伝統的諸政党が支配的だった中央スペインよりも弱かった。スペイン北部では、情況は混乱していた。CNTは「多分成功するだろう」という見込みで独力で蜂起を開始できたものの、このようにして奪取してしまえば、三つの戦線での闘争を導く事になっただろう。ファシストに対する闘争・政府に対する闘争・外国の資本主義に対する闘争である。こうした取り組みの困難さを鑑みると、他の反ファシスト集団との協力は唯一の選択肢だった。[前掲書, p. 179]

 CNT報告書それ自体の言葉を引用しよう。

 カタロニアで国家を完全に破壊し、反逆者(ファシスト)・政府・外国資本主義に対する戦争を宣言する、つまり、カタロニア社会の完全管理を引き受けるのか。それとも、他の反ファシズム党派と政府機関の責任に関して協力して取り組むか。CNTは、困難な選択肢に直面して誠実な良心を示したのである。[Robert Alexander, The Anarchists in the Spanish Civil War, vol. 2, p. 1156 で引用]

 それ以上に、ガストン=レヴァルが後年論じていたように、『(民衆の大部分が)一様にファシストを打ち負かすことに没頭していた』ことを考えれば、『アナキストが国家に対する反対の意志を表明していたならば、民衆の大多数の反感を呼び起こし、アナキストはフランコと協力している、と非難されたことであろう。』アナキズム革命を実行することが、同時に、『前線の即時の閉鎖と、ファシストと民主主義諸国双方による海上封鎖をもたらす』ことはほとんど確実であろう。『兵器の供給は完全に中断され、アナキストは間違いなく破滅的結果の原因となってしまうだろう。』[The Anarchist Collectives, p. 52 と p. 53 で引用]

 レーニンとトロツキーの支持者たちは、常に、ロシア革命中に自分のヒーローたちが決定を行った際の客観的情況を指摘するが、1936年7月20日にスペインでアナキストが直面していた情況について言及することはほとんどない。スペイン内戦の勃発時にCNT-FAIが立ち向かった諸勢力について沈黙したままで、労働者階級に(実際、人間性に)対して行ったボルシェヴィキの犯罪全てをロシア内戦のためだと説明するなど偽善であろう。もしCNTがカタロニアでリバータリアン共産主義を実行すると決断していたら、CNTはファシスト(スペイン軍の大半を指揮していた)と共和国政府(残りの軍隊を指揮していた)に加えて政府を支持していたカタロニアの地域にも立ち向かわねばならなかった。この事実に言及されることはほとんどない。それ以上に、協調路線の決定がなされたのは、バルセロナでの軍部叛乱の敗北の直後だったのだ−−国内の他の場所の情況がハッキリとせず、社会革命が着手されたばかりの時だったのである。

 スチュアート=クリスティーは、当時のCNT指導部が直面したジレンマを指摘している。

 カタロニアのCNT−FAI−FIJLの様々な高次委員会は板挟みになっていた。社会革命か、ファシズムか、ブルジョア民主主義か。ファシズムと国際的資本主義と闘うことに伴う困難にも関わらず、社会革命が示す解決策に献身するか、ファシズム(もしくは民衆)を恐れて、アナキズム諸原則と革命的目的を犠牲にして、ブルジョア国家の一部を支持し、その一部となるのか。不完全な情勢に直面し、実際にあり得るピュロス王的勝利よりも敗北を選ぶことで、カタロニアのアナキスト指導部は、便宜を名目にアナキズムを放棄し、スペインの社会変換をその基本方針から除去してしまった。

 だが、CNT−FAIの指導者たちは分かっていなかったのだ。リバータリアン共産主義を実施するかどうかの決定は指導者たちが行うべきではなかった。アナキズムは、組織的命令によって理論から実践へと変換し得るようなものではない。7月19日の自発的防衛運動こそが、それ自体の政治的方向性を発展させていたのだ。[We, the Anarchists!, p. 99]

 ファシスト賛同の軍隊は、なおもスペインの三分の一以上(アラゴンを含む)を統制し、CNTがスペインの中央部と北部では優勢ではなかったことを考え、三つの戦線における戦争はフランコを助けることにしかならないと確信された。それ以上に、カタロニアやアラゴンなどの場所でリバータリアン共産主義を導入することで、労働者義勇軍と自主管理産業は兵器・資源・預金の不足に陥る可能性が明らかだった。孤立が真の問題になっていたことは、CNTが政府に参画した理由に関してデ=サンティリャンが後年述べていたことからも分かる。

 義勇軍委員会は、武装した民衆の優位性を保証していたが、我々は次のように言われ、延々と繰り返し言われ続けていた。義勇軍委員会を保持し続ける限り、つまり、民衆の権力を下支えし続ける限り、兵器はカタロニアにはやってこないだろう。とすれば、我々は、外国から兵器を入手するために外貨をもらうことも、産業に必要な原料を供給してもらうこともなくなる。そして、戦争に負けることは全てを失い、フェルディナンド七世下のスペインに蔓延していたような状態に戻ることを意味している以上、我々と民衆が生ぜしめた動きが新しい経済生活から完全に消え去ることはあり得ないという信念の下、我々は義勇軍委員会を断念し、ヘネラリダード政府に参加する。[Stuart Christie, 前掲書, p. 109 で引用]

 CNTは、戦争が終わるまで協調路線を取り、アナキズムの基本的思想を拒絶することを決めた。とんでもない過ちだったが、決定がなされた情況を鑑みれば理解できるものであった。強調しておくが、だからといって、その決定が正当化されるわけではなく、むしろ、その決定を説明し、文脈におかねばならない。究極的に、内戦の経験が目にしたのは、二つの戦線に対する戦争だけでなく、「民主的」政府とファシスト政府双方による共和国の封鎖、義勇軍と自主管理型集産体からの資源と預金の剥奪だった。これは、国家が、CNTを、そしてそのメンバーが開始した半革命状態を充分破壊できると感じたときに行われたのだった。不幸にして、アナキズム運動は将来を予言するための水晶玉を持ってはいなかった。結局、ファシズムの危険に直面しても尚、自由主義者・社会主義右派・共産主義者は、CNTを攻撃することで反ファシズム闘争を弱体化させることを望ましいとしたのだった。このことについて、歴史はドゥルティが完全に正しかったことを証明している。

 「俺たちにとって、これは、今回限りでファシズムを壊滅するという問題なんだ。そう、政府がどうあろうともだ。

 「世界中のどの政府も最後までファシズムと戦ってはいない。ブルジョア階級は権力がその手中から滑り落ちているのを見て、自身を維持し続けるためにファシズムを頼みにしている。スペインの自由主義政府は、だいぶ前に、ファシスト分子を無力にすることができたはずだった。その代わり、政府は妥協し、ぐずぐずしていた。今この瞬間でさえ、この政府には反逆者どもを大目に見たいと思っている人々がいる。誰にもわかりゃしないさ、なぁ(彼は笑った)、今の政府は、労働者の運動を破壊するためにこうした叛逆勢力をまだ必要としているかもしれないんだ。

 「俺たちは自分達が何を求めているのか分かっている。俺たちにとって、世界のどこかにソヴィエト連邦があるなんて何の意味もない。ソ連の平和と平穏のために、スターリンによってドイツと中国の労働者がファシスト野蛮人どもの生け贄にされたんだ。俺たちはここスペインでの革命を求めているんだ。恐らく次の欧州戦争後に、なんてことじゃねぇ。今だ。ロシアの赤軍全体なんかよりも、俺たちの革命の方が、今やヒットラーとムッソリーニをよっぽど怯えさせてるんだ。俺たちはドイツとイタリアの労働者階級にファシズムの扱い方の手本を示しているんだ。

 「俺は、世界のどんな政府からもリバータリアン革命の援助を期待しはしない。様々な帝国主義の対立する利権が、俺たちの闘争に何らかの影響を持っているかも知れない。だが、俺たちは援助を期待しはしない。とどのつまりは、スペイン政府からだって期待しないんだ。」

 「あなた方が勝利した際には、山のような廃墟の上に座ることになるでしょう。」と(ジャーナリストの)ヴァン=パアセンは言った。

 ドゥルティは答えた。「俺たちはいつだってスラムやみすぼらしいところで生きてきたんだ。当座をしのぐ方法を知っている。忘れちゃいけないが、俺たちは作ることもできる。スペインやアメリカやあらゆるところに宮殿や都市を造ったのは俺たち労働者だ。俺たち労働者は、他のものを作ってしかるべき場所に据えることができる。もっと上等なものをな!廃墟なんぞは少しも恐れちゃいない。俺たちは大地を受け継ごうとしているんだ。そのことをこれっぽっちも疑っちゃあいない。ブルジョアどもは、歴史の舞台から離れる前に自身の世界を爆破して、崩壊させるかも知れない。俺たちはここで、心の中に新しい世界を身ごもっているのさ。その世界はこの瞬間も成長しているんだ。」[Vernon Richards, Lessons of the Spanish Revolution, pp. 193-4f で引用]

 孤立・スペイン全土でのリバータリアン革命に対する支持の不均衡・ファシズムの危険は、現実の問題だった。だが、だからといって、リバータリアン運動の犯した様々な過ちの言い訳にはならない。セクションI.8.11セクションI.8.13で論じるように、こうした過ちの中でも最大のものは、基本的アナキズム思想を忘れ、スペイン民衆が直面する問題に対するアナキズムのアプローチを忘れたことだった。こうした考えがスペインで適用されていたなら、内戦と革命の結果は異なったものになったであろう。

 要約すれば、協調路線の決定は理解できるものではあった(それが決定された情況のため)が、アナキズム理論という点では正当化されるものではない。次のセクションで論じるように、アナキズム諸原則という点でその決定を正当化しようというCNT指導部の試みは説得力がなく、アナキズムを愚弄しているとしか言いようがないのだ。

I.8.11 協調路線の決定がアナキズム理論の産物だとすれば、アナキズムは間違っていると示されているのではないか?

 前セクションで示したように、CNTは、孤立を恐れて国家との協力を決定した。リバータリアン共産主義を宣言すれば、CNTは、軍事クーデターだけでなく共和国政府と外国の介入とも戦わねばならくなる。この可能性がカタロニアのアナキズム闘士たちが到達した決定に影響を与えた。彼らは、こうした情況はフランコを助けることにしかならないと主張したのである。

 この決定は、アナキズム=イデオロギーの産物というよりも、目下のファシズムの危険とスペインの他の場所における情況という点でなされたのである。協調路線が決定された情況についてマルクス主義者が言及することはほとんどない。これが事実である。マルクス主義者はCNT闘士のガルシア=オリヴェルが一年以上後に述べたコメントを好んで引用する。

 CNTとFAIは、革命的全体主義を放棄し、協力と民主主義を決定した。革命的全体主義は、アナキストと連合の独裁による革命の窒息を導くであろう。我々は、アナキストの独裁を意味するリバータリアン共産主義と、協力を意味する民主主義との間で選択をしなければならなかったのだ。[Vernon Richards, Lessons of the Spanish Revolution, p. 34 で引用]

 マルクス主義者がアナキズム思想を攻撃するときに儀式的に見せびらかすのが、この引用やこれに類する引用である。彼らはアナキズム理論の破産を暴くと主張する。非常にこのことを確信しているため、前のセクションで論じた軍部クーデター敗北後にCNTが直面した諸問題をわざわざ論じることも、アナキズム理論(彼らはアナキズム理論がCNTを動かしたと主張する)とこうした引用とを比較することもない。これにはもっともな理由がある。まず第一に、CNTがいつの間にか入っていた客観的情況を示すならば、読者は、この決定は、誤ってはいるが、理解できるものであり、アナキズム理論とは何の関係もなかったと分かってしまう。第二に、こうした引用とアナキズム理論を比較すれば、すぐに、こうした引用がアナキズム理論とどれほど食い違っているのかがすぐに分かってしまう。実際、彼らはアナキズムを持ちだして、アナキズム理論と正反対の結論を正当化しているのだ。

 ならば、ガルシア=オリヴェルの議論をどう考えれば良いのだろうか?

 アベル=パスは次のように記している。『示された弁明が、政治的効果のために作られ、こうした決定がなされた雰囲気を隠していることは明らかである。こうした宣言は、一年後になされたのだ。その時に、CNTは既にその元々の立場から遠く離れてしまっていた。この時期は、また、CNTは協調路線政策に参加するようになり、そのことで中央政府に参加することになった時でもあった。だが、これは、ある意味では、歴史的総会に参加した人々に非常に重くのしかかっていた知られざる要素を明らかにしている。』[Durruti: The People Armed, p. 215]

 例えば、この決定が行われたとき、革命は未だ始まっていなかった。市街戦が丁度終わり、総会は『スペインの一部がファシストの手にある限り、リバータリアン共産主義について語らない』と決めた [Mariano R. Vesquez, Paz, 前掲書, p.214 で引用]。革命は、この決定が行われてから数日で、総会の意志とは無関係に下から行われた。アベル=パスの言葉を引用しよう。

 労働者が仕事場に来ると、自分達が見捨てられたことを知った。主要な生産センターを所有者は放棄していた。CNTとその指導者たちはこの情況を明らかに予見していなかった。予見していたならば、ゼネストを中止し、仕事に戻るように命じた際に、適切な指示を与えたであろう。その後に起こったことは、自分達の手で事を行おうという労働者の自発的決定の結果だった。

 工場が見捨てられ、組合から指示がないことが分かると、労働者は機械を自分達で動かすことにしたのだった。[The Spanish Civil War, pp. 54-5]

 CNTの一般組合員は、自身の発意で、国家権力崩壊を上手く利用して、カタロニアの経済と社会生活を変換した。パスは次のように強調している。『収用や集産化の命令は出されていなかった−−このことは、7月18日まで組合員の意志を代表していた組合が、今や、様々な出来事に追い越されてしまったことを示していた。』そして、『CNT委員会の組合指導者は予測していなかった革命に直面し、労働者と農民はその指導者を無視して、集団的行動を行っていたのだ。』[前掲書, p. 40 と p. 56]

 革命がまだ始まっておらず、CNT総会が革命の開始を呼びかけないと決めていた以上、「リバータリアン共産主義」(つまり、革命)がどのようにして『革命の窒息を導く』事になり得たのかは分からない。言い換えれば、ガルシア=オリヴェルが示したこの特殊な論理は、CNT総会にいた人々の本当の考えを反映することなどできず、従って、実際に、CNTの行動を後から正当化していただけなのである。

 同様に、リバータリアン共産主義は自主管理に基づいており、本来、独裁には反対である。1936年5月のサラゴサ大会でのCNT決議文によれば『この統治の基盤はコミューンになるだろう。』それは、『自律的』で、『地方レベルと全国レベルで連合する。』コミューンは『どのような一般規範であれ、自由討議後の多数決合意を忠実に守ると約束するであろう。』この決議文は、CNTが目的とする社会の自由な性質を強調していた。

 コミューンの住民は、その内部の諸問題について住民間で議論する。連合は、一地方や一地域に影響する大きな問題について詮議する。全てのコミューンは、その再結集と集会に代表を派遣し、その結果、代理人は各自のコミューンが持つ民主的観点を伝えることができるようになる。関係する全てのコミューンは自分の意見を述べる権利を持つ。地方的性質を持つ問題については、合意を取り付けるのは地方連合の義務である。よって、出発点は個人であり、コミューンを通じて連合へ、そして、最終的には連邦へと進んでいくのである。[Jose Peirats, The CNT in the Spanish Revolution, vol. 1, pp. 106-7 で引用]

 「アナキストの独裁」のイメージなど全くないのだ!実際、オリヴェルが「民主主義」だと記した資本主義国家よりもはるかに「民主的」なのである。

 明らかに、頻繁に引用されるガルシア=オリヴェルの言葉を額面通り受け取ることなどできない。1937年に作られたこの言葉は、CNT指導部の反アナキズム活動を防衛すべく、アナキズムの理想を誤用しようとする試みであって、1936年7月20日に行われた決定の有意義な説明などではない。

 それ以上に、当時、フランコが敗北すればリバータリアン共産主義は政治課題として復活する、とハッキリと述べた決定がなされていたのである。オリヴェルのコメントは、コメントがなされた時だけでなく、フランコが敗北した後にも適用できるものだった。協調路線を決定した真の理由は別なところにある。つまり、1936年7月20日にバルセロナで軍隊が敗北した後にCNTが直面した客観的情況にあるのであって、アナキズム理論にではない

 このことは、CNTが、アナキズム理論を忘れ、ブルジョア政党と協力し、政府に参加するという決定を正当化するために国際労働者協会に提出した報告書からもハッキリと分かる。この報告書は次のように述べている。『CNTは、その理想と純粋にアナキズムの本質に忠実であり、国家の諸形態を攻撃しておらず、公然と国家に参加しようとも、国家を支配してもいない。政治的・司法的機関は一つとして廃絶されてはいない。』[Robert Alexander, The Anarchists in the Spanish Civil War, vol. 2, p. 1156 で引用]

 言い換えれば、この報告書によれば、「アナキズム」の理想は、実際、国家の破壊を意味しているのではなく、国家の無視を意味しているのだという。これはナンセンスであり、CNT指導部がその理想を裏切ったことを正当化するためにでっち上げられたものだ。このことはハッキリしている。ハッキリさせるためには、バクーニンとクロポトキン、そして、内戦開始前のCNTの活動を見ればよい。

 バクーニンは次のように述べている。『革命は最初から、国家の徹底的・全面的破壊に着手しなければならない。』『この破壊の自然で必然的な結果』には、『軍隊・判事職・官僚・警察・司祭職の解消』が含まれる。資本は収用され(つまり、『あらゆる生産資本と生産手段はそれを使用する労働者協会が没収する』)、国家は『全労働者協会の連合的同盟』によって置き換えられ、これが『コミューンを構成する。』[Michael Bakunin: Selected Writings, p. 170] 同様に、クロポトキンは『コミューンは国家を破壊し、国家を連合によって置き換えねばならない』と強調していた。[Words of a Rebel, p. 83]

 つまり、アナキズムは国家をどのように扱うべきかについて常にハッキリしていたのであり、これは明らかにCNTが行わなかったことなのだ!CNTはこの観点を常に採用していたわけでもなかった。内戦開始前、CNTは国家に対する数多くの蜂起を組織していた。例えば、1932年1月のCNT炭鉱労働者の自発的叛乱で、労働者は『市役所を占拠し、CNTの赤黒旗を掲げ、コムニスモ=リベルタリオを宣言した。』同じ年、タラッサでも、労働者は『市役所を占拠し』、町には『市街戦が広がっていた。』1933年1月の叛乱は『バルセロナの軍兵舎に対するアナキスト行動隊の襲撃』で始まり、『労働者階級のバリオスとバルセロナ郊外で本格的な戦いが行われた。タラッサ、サルダノーラ−リポリェット、レリダ、そして、ヴァレンシア地方とアンダルシア地方の幾つかのプエブロで暴動が起こった。』1933年12月、労働者は『バリケードを築き、公的建物を攻撃し、激しい市街戦を行った。多くの村落がリバータリアン共産主義を宣言した。』[Murray Bookchin, The Spanish Anarchists, p. 225, p. 226, p. 227, p. 238]

 CNT指導部が『国家の諸形態を攻撃』する必要のない『その理想と純粋にアナキズムの本質に』忠実だったのは、非常に最近の発展だったのだ!アナキズムの敵が、アナキズム理論について結論を引き出すために、1937年のガルシア=オリヴェルの言葉やこのCNT文書やそれに類する文書から引用しているということは、アナキズムについてというよりも、そうした引用をしている人々の政治についてより多くを物語っているのだ!

 既にお分かりだろうが、アナキズム思想とスペインの革命的労働者に対する裏切りを正当化するために後年作り出された理由付けは、アナキズム理論とは何の関係もない。ファシズムに対する非アナキストのアプローチを、下からの闘争を無視しトップにいる政治政党と組合との同盟を無理矢理作り出すことに基づいたアプローチ(UGTの「労働者同盟」流のアプローチであり、CNTは正しくも内戦前には反対していた)を正当化するために、この理由付けは創り出されたのだ。

 上層部レベルで他の組織との団結を強固にしようとせずに、CNT指導部は、アナキズム思想を適用して、抑圧された側がその利益を拡大し、強固にするよう刺激すべきだったのだ(どのみち、抑圧された側の人々はそのようにしたのだが)。そうすれば、この国が持つ全ての潜在的エネルギーが解放されたであろう。このエネルギーは、7月20日の運命的な総会後に生じた自発的集産化、そして、フランコの手に落ちたスペインの地域を解放すべく自主的に創設された労働者義勇軍部隊からも分かるように、明らかに存在していたのだ。

 従って、アナキストの役割は、『少数が大多数を搾取するための権力行使の道具となっている資本主義的財産と諸制度を廃絶するよう民衆を扇動すること』そして、『社会革命の進展を鼓舞・促進し、ブルジョア資本主義国家を再組織しようという試みを挫くこと』だった。これには、『革命的な有機的組織体の創造を通して、ブルジョア諸制度を破壊しようとすること』が含まれるのである。[Vernon Richards, 前掲書, p. 44, p. 46, p. 193]

 つまり、バクーニンが『拘束力のある命令書を与えられ、いつでも更迭可能な代理人』から成り立つ『常設バリケードの連合』と呼んだことを促すのである。これが革命を防衛し、拡充する最初の枠組みになり得るだろう(『革命を防衛する』ために『コミューン義勇軍』が組織され、革命は『外へと放射状に広が』り、コミューンは『共同防衛のために連合する』だろう [Michael Bakunin, No Gods, No Masters, vol. 1, p. 155 と p. 142])。これは、フランス革命の「地区」に相当するものであり、クロポトキンは『新しい自由な社会組織の基盤を』しき、『アナキズム諸原則』を表現するものだと論じていた [The Great French Revolution, vol. 1, p. 206 と p. 204] 実際、こうした組織は、CNTのバリオス防衛委員会に既に未熟ながら存在していた。これが、この都市全土での軍部クーデターに対する闘争を主導し、調整したのである。

 その後、『コミューンを構成』し、『常設バリケードの連合』を補完する『労働者協会の連合的同盟』(バクーニンの言葉を再び引用すれば)を組織すべく、様々な仕事場から(CNTとUGTが組織していた場所だけでなく、組合未加入の仕事場からも)の代理人会議を準備するはずだった [前掲書, p. 155]。もっと最近の言葉を使えば、労働者義勇軍とコミュニティ集会の連合と協力する労働者評議会連合である。これがなかったために、革命は、フランコ軍に対する戦争と同じ運命をたどったのだ。

 アナキズムの基本思想を適用(リバータリアン共産主義に関するCNTの5月決議文に詳しく書かれているように)すれば、こうした進展は可能だった。曲がりなりにも、CNT−FAIは、アラゴンで類似した組織を作ったのだ。。リバータリアン共産主義が実行されれば、反ファシスト勢力内部で内戦が起こる(そして、フランコを助ける)懸念は現実的なものだった。不幸にして、この懸念から引き出された結論−−つまり、革命について語る前にフランコに対する戦争に勝利する−−は間違っていた。結局、共和国側内部での内戦は、国家がそれを充分行えるほどまでに回復すると、確かに起こった。同様に、外国政府による妨害の恐れもあった。妨害はすぐに起こり、ドゥルティのコメントを追認したのだった。彼は『世界のどんな政府からもリバータリアン革命の援助を期待しはしない。とどのつまりは、スペイン政府からだって期待しないんだ。』[Vernon Richards, 前掲書, p. 194f で引用] 十全で適切な代理人会議を革命初期に組織していれば、CNTの全組合員がこうした思想を論じることができ、協調路線の問題について異なる決定がなされた可能性がある。

 戦争後になるまで革命を延期できたことを考えると、CNT指導部は二つの過ちを犯した。まず第一に、その組合員は自分の思想を実行する機会を逃しておらず、指導部の決定は余計なことであった(そして国家主義者の反動を必然的なものにした)、ということをに指導部は気がつくべきだった。第二に、指導部はアナキズム思想を放棄した。労働者階級の能動的参加がなければファシズムに対する闘争は絶対に有効なものにはならないことを理解できなかったのだ。こうした参加は、革命よりも戦争を優先し、トップダウン型の国家主義構造や国家内部で活動することで達成されはしない。

 実際、CNTが犯した過ちは、理解可能だとしても、正当化できはしない。この結果は多くのアナキストが以前から予測していたことだった。クロポトキンはパリコミューンに関するエッセイで数十年前に指摘していた。このエッセイで、彼はCNT指導部が持っていた二つの前提−−革命よりも戦争を優先させるという前提、そして、権威主義構造や国家を使って闘争を行うことができるという前提−−を論駁している。

 クロポトキンは、「叛逆者の手中にあるスペインの一部を我々が奪取するときまで」リバータリアン共産主義について語らないというCNTの公式的方針の裏にあるメンタリティと論理とを明らかに攻撃していた。クロポトキンは「まず勝利を確実にしよう、それから何ができるか考えよう」と主張していた人々を激しく批判していた。彼のコメントは詳細にわたって引用する価値がある。

 勝利を確実にしよう!あたかも、財産を奪わずとも、社会を自由コミューンに変換する方法があるかのようじゃないか!あたかも、革命の勝利に、万人の物質的・道徳的・知的幸福の到来を目撃することに、大部分の民衆が直接関与していないのに、敵を打ち負かす方法があるかのようじゃないか!こうした人々は、社会革命を後回しにし、最初にコミューンを強固なものにしようとしていた。だが、物事を進める唯一の効果的方法は、社会革命によってコミューンを強固なものにすることだったのだ!

 政府の原理についても同じだ。自由コミューンを宣言することで、パリの人々は本質的にアナキズム原理を宣言したのだ。実際、中央政府が絶対的に無用で、各々のコミューン間の諸関係を調整することなどできないと認めるならば、何故、コミューンを構成する様々なグループの相互関係を調整するために国家が必要だなどとと仮定するのだろうか?コミューン内部の政府など、コミューンに対する政府と同じように生存権などないのだ![Words of a Rebel, p. 97]

 CNTが理解したように、クロポトキンの主張は妥当だった。戦争の勝利まで待つことで、CNTは敗北したのだ。クロポトキンは、国家と協力し、代議制組織に参加する際のCNTの行動の必然的結果をも示していた。彼の言葉を引用しよう。

 パリは、その孝行息子たちを Hotel-de-Ville(市役所)に送った。実際、官僚的形式主義の足枷によってそこで動けなくなり、行動が必要なときに議論をするよう強制され、大衆との継続的接触から生まれる感性を失い、孝行息子たちは結局無能になってしまった。革命の中心−−民衆−−から離れてしまうことで麻痺状態になり、自分自身も民衆の発意を麻痺させてしまったのだ。[前掲書, pp. 97-8]

 一言で言えば、これが、国家と強調したCNTの指導的闘士たちに起こったことだった。クロポトキンが正しいことは証明された。バクーニン以来のアナキズム理論も正しかったと証明された。ヴァーノン=リチャーズが論じているように、CNTの決定について『弁解をすることはできない。』何故なら、『これは判断の誤りではなく、CNTの諸原則を意図的に放棄したのだ』から[Lessons of the Spanish Revolution, pp. 41-2]。アナキズム理論は反対の立場を示しているのに、CNTの決定についてアナキズム理論を非難することは難しいのではないだろうか。

 だが、スペインの経験はアナキズム理論を否定的に追認している一方で、同時に、アラゴン評議会によって肯定的にも追認している。アラゴン評議会は、アラゴン民衆が創っている新しい社会を保護するために、CNT組合・村落集産体・義勇軍部隊からの代理人会議で創られた。評議会の創設は、アナキズムがスペイン内戦中に失敗したという主張は間違いだと明らかにしている。アラゴンにおいて、CNTはアナキズム思想を確かに追従し、国家と資本主義双方を廃絶した。カタロニアでこの実例に従っていれば、内戦の結果は異なるものになったであろう。

 カタロニアの義勇軍指導者から反対されながらも、ブハラロス集会に集まったアラゴンの代理人たちは、ドゥルティに勇気づけられて、この計画を支持し、リバータリアン共産主義を実行するという特定の目的を持ってアラゴン地方防衛評議会が生まれた。会議では、アラゴンで今確立されたものと同様の諸原則で組織された一連の地方諸機関を結合する全国防衛委員会の設立を強く求めることも決まった。

 地方防衛評議会の形成は、リバータリアン共産主義諸原則に献身的に関与することの確認だった。社会的・経済的変革に対するこの原則的立場は、スペイン内戦がアナキズムの失敗を示しているという主張とは食い違っている。曲がりなりにも、アラゴンで、CNTはアナキズム理論・アナキズムの歴史・アナキズムの政策と調和するように行動したのだ。

 つまり、内戦中のCNTの活動を利用してアナキズムを中傷することはできないのである。CNTの活動は、アナキストは困難な情況で酷い決定をしかねないし、そのような決定をしているということを示すために利用されている。マルクス主義者がアナキズム史におけるこの出来事を常に指摘しているのは驚くには当たらない。それは酷い誤りだったのだから。

 だが、このことを利用してアナキズムについて一般化をすることは誤りである。何故なら、まず第一に、決定がなされた客観的情況を無視しなければならず(前セクションを参照)、第二に、それはアナキズム理論と歴史を無視することを意味しているからである。同時に、これは、革命理論としてアナキズムは歴史の一つの出来事から純粋に評価しなければない、との印象も与えている。ウクライナのマフノ主義者・U.S.I.とU.A.I.・イタリアにおける1920年代の工場占拠とファシズムとの戦い・1930年代のCNTの蜂起・スペイン内戦中にCNTが創設したアラゴン評議会など、こういった経験はアナキズムを評価する際に全て無視されている。マルクス主義者には便利だろうが、全く納得いくものではない。例えば、マフノ主義者とアラゴン評議会の経験から明らかなように、アナキズムは、政治的にも経済的にも、革命情況において大規模に適用され、成功してきたのだ。

 エマ=ゴールドマンは論じている。『スペインの指導的同志たちがアナキズムに失敗したから、アナキズムには何か間違っていることがあるという主張は、非常に誤った推論ではないだろうか。一人もしくは数人の失敗が、理想の深部と真実の価値を落とすことなどあり得ない。』[Vision on Fire, p. 299] ましてや、アナキストは、アナキズム理論を示し、アナキズム思想を十全に追従した様々なアナキズム実施例を示すことができるのだから、なおさらこれは真実なのだ。アナキズムの敵対者たちがこうした実例に言及することができていないことは、スペイン内戦におけるCNTの経験に基づいたアナキズム反対論は、全く誤っていることを示しているのである。

 スペイン革命の経験は、アナキズムの失敗というよりも、アナキストがその思想を実践に移すことができなかった、ということを示している。極度に困難な情況に直面して、アナキストは、反ファシズム団結の名において、その思想を妥協して解決を図った。悲しいかな、この妥協は、革命内戦双方の敗北を導き、アナキズム理論を追認した(反駁したのではない)のだ。

I.8.12 協調路線の決定はCNT組合員に強制されたのか?

 7月19日以後のCNTとFAIの発展について幾つか述べねばならないことがある。CNTとFAIは本質的に変わってしまい、1936年7月以前と同じ組織ではなかった。どちらの組織もより中央集権型で官僚主義的になっていった。組合員は多くの主だった意志決定から除外されていた。ペイラツは次のように主張している。

 CNTの内部と戦闘的アナキストの間には、連合主義組織の草の根である集会の審議・決定を最も実直に尊重するという伝統があった。行政機構にいる人々はこうした決定の単なる受任者に過ぎなかった。全国大会が採択した通常動議は、連合と様々な代表委員会に詳細に説明され、どの地域や地方にいるかに関わらず、加入組合員に対して行う義務のある基本的・一般的性質を持った必然的義務だった。そして、こうした一般的動議を作ることは全組合の直接的責任であり、それぞれの一般集会で採択された動議を通じて形成されていた。同様に、地方大会や地域大会は、地方や地元のレベルでのみ通用する要件と諸問題の指針を確立していた。どちらの場合でも、主権は常に組合なり集団なりで行われる労働者集会にあった。

 こうした厳格な日常的連合主義手続きの感覚は、革命的段階のまさにその勃発から突然修正された。組織規範をこのように修正することについては、様々な出来事が例外的転換をし、決定と決議をこれまで以上に素早く行わねばならない、つまり、下から上へと運営される連合主義実践という遠回しな手続きから離脱することが必要だ、と釈明された。[The CNT in the Spanish Revolution, vol. 1, p. 213]

 言い換えれば、CNTは次第にヒエラルキー型になったのだった。高次委員会は、管理機関というよりも、執行機関へと変わっていった(『組織における重大な決議は、委員会が採択し、大衆支持者が採択することは稀になった、と言ってよいだろう。明らかに、情況は組織からの迅速な決定を必要とし、情報漏れによる損害を防ぐために予防措置を講ぜねばならなかった。こうした必要のために、委員会は、組織の連合主義手続きを放棄するようになったのである。』[Jose Peirats, Anarchists in the Spanish Revolution, p. 188]).)。

 皮肉なことに、CNTの「アナキスト指導者たち」はトロツキーとその支持者が嘆いていたように「権力奪取」をできなかったわけではない。自身の組織で「権力奪取」をしたのだ。こうした発展は大惨事となることが証明され、ヒエラルキーと中央集権型組織に対するアナキストの批判を再強化した。CNTの高次委員会は、組合員から孤立し、独自の政策を続行し、妥協し、一般組合員が行った創造的作業を混乱させた−−アナキズム理論で予測されていたとおりだった。だが、いずれにせよ、下記するように、こうした高次委員会がその組合員に協調路線の決定を単に強制したと主張するのは誤りであろう(例えば、ヴァーノン=リチャーズは著書「スペイン革命の教訓 Lessons of the Spanish Revolution」で示しているようだが)。委員会は多くの決定を既成事実として提示していたことは真実であるが、CNTとFAIの一般組合員は単に命令に従うだけで、全ての決定を盲目的に承認したわけではなかった。

 あらゆる革命的情況において、決定は素早く、時として組織の底辺の意見を聞くことなく、なされねばならない。だが、こうした決定は組合員への説明責任があり、組合員は決定について論議し承認しなければならない(これは、例えば、CNT義勇軍内部での方針だった)。数え切れないほどのストライキ・蜂起・キャンペーンでのCNTとFAIの経験は、分権型の連合構造は階級戦争を追求することができる以上のものであることを証明してきた−−革命も、階級戦争の最も集中的な形態である以上、例外ではない。言い換えれば、CNTとFAIの組織原則は革命的情況にとってこの上なく適切だったのだ。

 従って、中央集権化の傾向は、戦争という例外的情況のせいだとすることなどできない。むしろ、協調路線政策こそがこの傾向を説明してくれる。1936年7月19日以前に起こった数多くのストライキや叛乱とは異なり、CNTの高次委員会は国家構造の内で活動し始めていた。関与している人々が国家の基本構造と形態に順応しなければならない以上、本質的に、ヒエラルキー型で中央集権化の傾向を生み出さざるを得なかったのだ。CNTの政策違反は「反ファシズム団結」の名の下に妥協するという最初の決定から続いており、悪循環が発展したのである−−一つ一つの妥協がCNT指導部を国家の手中にどんどん押し流していったのだ。ヒエラルキー型傾向が増加し、次にCNTの高次委員会は大衆から孤立し、その次にはこうした委員会による懐柔政策が促されていった。

 だからといって、このヒエラルキー型中央集権傾向のために、CNTの高次委員会が単にその意志を組織の残りの部分に押し付けていたという意味ではない。協調路線の決定は、当初、CNTとFAIの大多数が受動的に支持していたに過ぎない(多分、戦争が数週間か数ヶ月で終わると考えていたからだろう)。これは様々な事実から見ることができる。訪問していたフランスのアナキスト、セバスチャン=フォールは次のように書いている。『中央権力への効果的参加は様々な組合とFAIに加入している集団の大多数が承認していた』が、『この決定は、多くの場所で、相当数の少数派から反対されていた。従って、全員一致というわけではなかった。』[Jose Peirats, The CNT in the Spanish Revolution, vol. 1, p. 183 で引用]

 ペイラツの言葉を引用しよう。

 闘士全員が同じ気持ちだったのだろうか?自分達の報道機関や委員会・会合・総会・集会で抗議を表明した声高な少数派を除き、組合員の大半が、それ自体が戦争の悲劇的現実の直接的結果だったというある種の運命論に捕らわれていた。これが陰鬱な真実だった。[前掲書, p. 181]

そして、

 我々は、経済計画について、戦闘的アナキズムがどれほど経済変換の作業を怯まずに推進したのかを既に見てきた。堕落が始まるとすぐに、声を殺した争いが総会や集会で時折勃発し、幾つかの報道機関で声明が突然出された。これは疑うべくもない−−疑ってしまえば、CNTのリバータリアン一般組合員の心理を無視することになる。これに関して、戦術と原則を逸脱する可能性に反対する多くの意見は、完全に、勇猛な戦士たちを当てにすることができたのだった。[前掲書, p. 210]

 つまり、リバータリアン運動内部に相当数の少数派がおり、協調政策に反対し、様々な出版物や会議で自身の意見を述べていたのである。多くの(大部分ではないにせよ)革命的アナキストは義勇軍に志願し、そのことで、以前同様に組合で積極的に活動できなかった。その一方で、様々なグループ(カタロニア青年リバータリアンやドゥルティの友などのFAIグループなど)がおり、協調路線に反対で、街路・集産体・組織の会議などで公にその主張を論じていた。それ以上に、リバータリアン運動の外にいた二つの小さなトロツキスト集団も、POUMの支部がそうしていたように、協調路線には反対の主張をしていた。従って、この優勢な主張への反論にCNT組合員が気付かなかったなどと言うことはできない。同時に、例えば、カタロニアのCNT高次委員会は、1937年のメーデー後に、組合集会や総会で、ドゥルティの友を除名させることができなかったし、協調路線への反対をその出版物で活発に表明していた青年リバータリアンに対する資金援助を差し止めさせることもできなかったのである。また、様々な労働者グループに要請して、こうした反対者たちが公共交通システムや毎日の牛乳配達で方針反対の出版物を配布することを止めさせることもできなかった。[ Gomez Casas, Anarchist Organisation: The History of the FAI, p. 10 の Abe Bluestein]

 このことは、中央集権に向かう傾向にも関わらず、CNTの高次委員会は、なおもある程度まで民衆の影響下にあり、民衆管理の対象となっており、組織に対する独裁的権力を持っていたと見ることはできないことを示している。多くの決定が、過去のCNT手続きを違反して、組合総会(多くの場合、総会は委員会が直前に召集した)に対して既成事実として提示されたが、総会は、委員会が求めた決定を承認するよう強行採決することはできなかった。フランコとファシズムに対する戦争に関わる客観的情況が、国家内部で他の政党や組合と共に活動することが唯一実行可能な選択肢だ、と大部分のCNTメンバーとリバータリアン活動家を納得させたのである。別な選択肢を取ることは、反フランコ陣営にもう一つの内戦を引き起こし、戦争の準備を弱めてしまう。こうした政策は上手く行かなかった(共和国国家がCNTに対する内戦を開始できるほど強力になり、ファシズムに対する闘争を骨抜きにしたために)が、組合員にこの政策が押し付けられたとか、反対意見に耳を貸さなかったなどと主張することはできない。悲しいかな、反ファシズム団結の呼びかけが、リバータリアン運動の精神を支配してしまったのだ。

 初期の段階で、一般の闘士たちの大部分は、戦争は何週間かで終わるだろうと信じていた。結局、バルセロナなどの産業中心地で軍隊を追い出すには数日あれば充分だったのである。このことによって、闘士たちは、第一に、CNTが「反ファシズム義勇軍中央委員会」と協調することを許容(実際、支持)しようと思うようになり、第二に、革命はすぐに復活すると信じて資本主義を収用し始めようと思うようになった(アナキズム思想を導入し始める機会は、CNT総会の望みが何であろうとも、無駄にはできなかったのだ)。彼らは、革命とリバータリアン共産主義は、その年の5月に行われたCNTサラゴサ大会で論議され、採択されたように、経済的・社会的抑圧に対する闘争が持つ切り離すことのできない側面だと信じ、適切に続行したのである。国家を破壊せずに無視することは、短期的な妥協であり、すぐに修正されると思われていた。悲しいかな、それは間違っていた−−協調路線は独自の論理を持ち、戦争が延々と続くと悪化していった(そしてすぐに手遅れになった)のである。

 ここで記しておかねばなるまい。マルクス主義者はアナキズムを攻撃する際にCNTを重要な証拠だとして利用するが、上記の通り、この攻撃は浅はかだということが分かるだろう。結局、集産体と義勇軍を組織し、スペイン社会の変換を開始したのはアナキストとアナキズムに影響を受けたCNTメンバーだったのだ。彼らは、アナキズムに影響され、アナキズムのやり方でそれを行ったのだ。「アナキズム」を攻撃しながら、その行動を賞賛することは、論理の破綻である−−そうした行動を鼓舞したのはアナキズムだったのだ。実際、こうした行動は、CNT指導部の行動と論理的根拠よりも、アナキズム思想と多くの共通性を持っている。つまり、大多数のアナキズム的行動を無視しながら、少数の指導者が取った反アナキズム的行動を示すことで「アナキズム」を攻撃するなど、誤りなのだ。

 従って、要約すれば、国家に協力することでCNTの内部構造の土台が壊れ、権威主義的諸傾向が増加した一方で、CNTは組織の高次委員会に対する単なる付属物に変質したのではなかった。これはハッキリしている。組合総会は、CNT指導部が行った要求を拒絶することができ、実際に拒絶していた。「反ファシズム団結」の支持はCNT組合員の中で広がって(相当数の少数派アナキストの活動と主張にも関わらず)おり、それが、組織が続行した協調路線政策に反映された。CNTの高次委員会は官僚主義的指導部へと変質し、次第に一般組合員から孤立していったが、その権力が絶対だったとか、組合員の願望と完全に矛盾していたと主張することはできない。CNTは、それが以前持っていたリバータリアン組織原則から逸脱した。この逸脱は、アナキズム理論を追認し、革命を妨げ、敗北の一要因となってしまったのだ。これは皮肉ではあるが、当然のことだった。

 セクションI.8.11で論じたように、初期の段階で国家と妥協したこと・初期の段階でアナキズム理論とCNTの方針を裏切ったこと、これらによって、その後の全てが封じ込められてしまった。それ以上に、アナキズム理論を拒否した後のCNTの経験は、アナキズムを論駁するのではなく、アナキズム諸原則を追認した−−中央集権化されたヒエラルキー型組織は革命を妨げ、最終的には革命を破壊してしまうのだ。

 CNTとFAIの経験が示しているのは、さらなる中央集権化と民主的ヒエラルキー構造に賛同するレーニン主義者のような人々が、歴史を理解することを拒んでいる、ということである。こうした人々が歴史から学ぶことを拒んでいるのは言うまでもない。CNT内部で増大する中央集権化が指導部(少数)を支援し、力づけ、組合員(多数)から力を奪ってしまった。連合主義が革命を阻害するのではなく、阻害しているのはいつものように中央集権主義だったのである。

 従って、CNTとFAI内部の相当数のアナキスト少数派が「反ファシズム団結」と政治的協力という優勢な政策に反対を主張していたにも関わらず、この政策はCNT組合員によって基本的に承認されたのであって、一般組合員に押し付けられたのではなかった。CNTの組合員は、指導部の示唆を拒絶できたし、実際に拒絶していた。だからこそ、協調政策のためにCNTに生じた権力の集中化にも関わらず、この政策が一般組合員の願望とは無縁だったと主張することはできないのである。

I.8.13 革命からどのような政治的教訓を学んだのか?

 スペイン革命から分かる最も重要な政治的教訓は、革命は既存権力構造と妥協できない、ということである。これに関しては、アナキズム理論を追認したに過ぎない。

 スペイン革命は、『革命を半分しか行わない者は自分の墓を掘っているのだ』という古い格言の明確な実例である。本質的に、スペイン革命の最も重要な政治的教訓は、社会革命が成功するのは、それがアナキズムの方針に従い、「大きな悪弊」と戦うという名目で妥協しようとしない場合だけだ、ということである。クロポトキンは次のように述べている。『半分で止まった革命は必ずやすぐに敗北するに違いない。』[The Great French Revolution, vol. 2, p. 553]

 7月20日、ファシストのクーデターがバルセロナで敗北した後、CNTは組合員の代表団を送り、カタロニア政府の指導者に会った。CNT組合職場代表総会は、ファシストのクーデターを考慮して、リバータリアン共産主義をフランコが敗北するまで「延期する」ことに同意した(一般組合員はそれを無視し、自身の仕事場を集産化した)。総会は、カタロニア大統領を訪問する代表団を組織し、この情況について議論した。

 代表団は非妥協的だった。コンパニイス(カタロニア大統領)が支配的組織として(反ファシズム義勇軍)中央委員会の創設を受け入れるか、CNTが一般組合員に相談し、労働者に現状を暴露するか、どちらかだった。コンパニイスは引き下がった。[Abel Paz, Durruti: the people Armed, p. 216 強調はFAQの筆者]

 CNT委員会メンバーは、スペインの見地からすれば新しく見つかった影響力を使い、他の組織・政党指導者と団結したが、一般組合員と団結したのではなかった。このプロセスによって、労働組合だけでなく政治政党をも代表する「反ファシズム義勇軍中央委員会」が創設された。この委員会は、仕事場・地域・バリケードから命令を受けた代理人からではなく、様々な委員会が任命した既存組織の代表者から構成されていた。本物の連合機関(仕事場・義勇軍・町内集会から命令を受けた代理人からなる)の代わりに、CNTは、一般の労働者階級民衆に対して説明責任を持たず、労働者がそれぞれの集会で表明した考えを反映することもない機関を作った。国家と政府を自主管理によって廃絶せずに、単に無視しただけだった。

 アナキズム原則のこの最初の裏切りがその後の全てを導き、革命と内戦の敗北を導いた。エマ=ゴールドマンは論じている。スペインのアナキストは『いわゆる統一戦線に加入すれば、さらに先へと進む以外にできない、ということを実感するようになった。言い換えれば、一つの失敗、間違った一歩が必然的に他の誤りを導いたのである。いつもそうなのだ。私は、同志たちがその土俵で自身の立場をかたくなに守り続けていれば、今よりももっと強くあり続けていただろう、とこれまで以上に確信している。だが、もう一度言うが、反フランコ主義戦争の時代に協調路線を取った以上、彼らは、出来事の必然性に動かされて先に進んでしまったのだった。』[Vision on Fire, pp. 100-1]

 もちろん、最も明確な問題は、国家との協力のために、ファシズムに対する闘争と社会革命とを調整する労働者協会連合が確実に作られなくなった、ということであった。スチュアート=クリスティーは次のように論じている。『上からその指導力を押し付けることで、こうした党派的委員会は、急増していた民衆の自律的革命センター−−草の根工場と地元の革命委員会−−を窒息させ、情報伝達・防衛・供給を調整する効率的で実行可能な手段としての民衆自身の能力を示せなくしてしまった。同時に、地元の様々な革命委員会がお互いに結合できないようにし、社会的・経済的再構築という革命的課題を促す地域・地方・全国の連合ネットワークの形成を妨げたのだった。』[We, the Anarchists!, pp. 99-100] こうした連合がないため、CNTがブルジョア政府に参加するまでは時間の問題に過ぎなったのである。

 1936年7月20日に創設された「反ファシズム義勇軍中央委員会」は、多くのトロツキストが主張しているように「二重権力」の実例というよりもむしろ、実際には、階級協調の機関であり、革命に対する障害物だった。スチュアート=クリスティーは、正しくも、それを『人工的混合物』であり、『妥協、人工的で政治的な解決策、ヘネラリダード政府公認の付属物』だと呼んでいた。これが『CNT−FAI指導部を、それまで第一の敵だった国家装置へと容赦なく引き込んだ。』[前掲書, p. 105] 田園・工場・仕事場からの代理人からなる真の連合だけが、(バクーニンの表現を使えば)『労働者大衆の社会的(結果的に、反政治的)権力』の真の組織の枠組みになり得るのだ [Michael Bakunin: Selected Writings, pp. 197-8]。

 従って、CNTは、アナキズムの基本原則、つまり『国家の破壊』を忘れてしまったのである。そのかわり、パリコミューン同様、CNTは『反動と戦うために、反動的ジャコバン派のやり方で自身を組織しなければならなかった。革命的社会主義の第一条件だと自身が分かっていたことを忘れてしまったり、犠牲にしたりしていたのだ。』革命の真の基盤、アナキズムの基本原則は、『未来の社会組織は、労働者の自由提携や自由連合によって、最初は組合で、次にコミューンで、地方で、全国で、最後には国際的・世界的な大連合へと、下から上へ作られねばならない。』[Bakunin, 前掲書, p. 198, p. 202 and p. 204] これを行わずして、労働者評議会連合を作らずにトップダウンの妥協組織で活動することで、CNT指導部は最終的に戦争を支持して革命を犠牲にせざるを得なくなったのだ。

 もちろん、CNT組合とバリオス防衛委員会の全体総会がUGTや組合未加入の仕事場からの代理人を招待して行われていれば、アナキズム理論に沿った決定に到達したという保証はない。反ファシズム団結の感情は強かった。だが、義勇軍に参加して前線へと出発するのが遅かった革命的アナキストの影響下で、一般組合員がこの決定を十全に議論することになったであろう。集産化の波とアラゴンで起こったことを考えれば、決定が異なったものになり、この総会を労働者協会自由連合の基盤−−つまり、アナキズム自主管理社会の枠組み−−に変えるよう最初の段階が取られたこともあり得ると思われる。これが、国家を粉砕し、他のものが国家の地位につくべく出現しないように保証できたかも知れない。

 アナキズムの基本思想、労働者評議会連合創設の必要は、無視された。「反ファシズム」団結の名において、CNTは、政治政党や、CNTも革命も憎んでいる階級と共に活動した。サム=ドルゴフの言葉を引用しよう。『7月19日以前も以後も、革命運動を破壊しようという断固たる決意が、政権与党かどうかに関わらず、共和国政府の政策の背後にある基本思想だった。』[The Anarchist Collectives, p. 40] 労働者階級の「社会権力」を組織する手段を創り出さなかったため、国家が再編してしまうと、CNTはこうした政党に対抗するには無防備だったのだ。

 その協調路線を正当化するために、CNT−FAIの指導者たちは、協調路線を取らなければ内戦の中に内戦をもたらすことになり、フランコに容易く勝利をもたらしただろう、と主張する。実際には、革命に対するリップサービスを行いながら、共産党員と共和主義者たちは集産体を攻撃し、アナキストを殺害し、集産化された産業(軍需産業さえも)に対する供給を削減し、武器と弾薬を渡さないようにした(CNTをそして革命を破壊すべく後衛にいた治安警察隊を武装させることを優先した)後でアナキスト義勇軍を解体してしまったのだ。協調路線を取っても内戦は避けられなかった。どのみち、国家が充分強力だと感じるようになるとすぐに、内戦は起きた。被害者は労働者階級だった。

 ガルシア=オリヴェル(史上初めての、そして望むらくは最後の、「アナキスト」法務大臣だ)は1937年に次のように述べていた。協調路線は必要であり、CNTは『革命的全体主義を放棄した。革命的全体主義は、アナキストと連合(CNT)の独裁による革命の窒息を導くであろう。我々は、一人のカタロニア民主主義者の言葉と人柄を信頼した。』カタロニア民主主義者とはコンパニイスであり、過去にアナキストを投獄していた人物だ。つまり、国家・政治家・資本家と共に活動することによってのみ、アナキズム革命を真にリバータリアンにできるというのだ!さらに、ヴァーノン=リチャーズの言葉を引用しよう。

 この主張には二つの根本的誤謬がある。CNT−FAIの指導者の多くがそれ以後に認めているが、これらは言い訳できない誤謬である。なぜなら、それは判断の誤りではなく、CNTの諸原則の意図的な放棄だったからだ。第一の誤謬は、ファシズムなど様々な形態の反動に対する武装闘争は、国家の枠組みの中で、戦争に勝つために、国の経済的・社会的構造を変換することを含めた他のもの全てを従属させることで、もっと上手く行うことができる、というものである。第二の誤謬は、権力が二つの労働者組織の手中にある時に、政治政党−−つまり政治家−−と正直に誠実に協力することは不可欠であり、可能だ、というものである。

 全ての発意は労働者の手中にあった。政治家は、武器を持たずに不毛な砂漠でもがいている将軍のようなものだ。政治家と協力することは、想像力をどれだけ広げてみても、フランコに対する抵抗を強めることはできなかった。逆に、政治政党との協力が政府の諸機関を再建し、武装した労働者から執行権力を持つ中央機関へと発意を移すことを意味していたことは明らかだった。労働者から発意を引き剥がすことで、闘争とその目標を実行する責任も支配的ヒエラルキーに譲渡してしまっていた。そして、革命的闘士たちの士気に対して逆の効果しか持ち得なかったのである。[Lessons of the Spanish Revolution, p. 42]

 1937年に提起された「アナキスト独裁」か「協調路線」かのジレンマは、根本的に間違っていた。アナキズム体制下で政治政党などの組織が禁じられるというのは誤っていた。全く逆だった。言論の自由や組織の自由などの十全な権利は万人に存在しなければならなかったが、政治政党は、組合・仕事場・地域・義勇軍集会で影響力を行使するしかない。実際、そうあるべきなのだ!一般組合員の中での、アナキズム的やり方で組織された組織の中での「協調路線」ならば結構だ。アナキズムはボスや政治家になる「自由」など尊重してはいないのだ。

 ヒュアン=ゴメス=カサス(1936年に積極的なFAIメンバーだった)によるFAIの歴史で、このことがハッキリ示されている。

 リバータリアン共産主義は他にどのような方法でもたらされるというのか?それをもたらす方法は、権力という思想に献身していた昔の政治政党を解消するか、少なくとも、政党が権力掌握を目的とした政策を追求できないようにするか、を常に意味している。新しい経験に対しては常に少数の反対が存在し、従って、「全会一致の大衆の自発性」に参加することに対して抵抗が存在するであろう。さらに、大衆は、組合と革命の経済組織だけでなく、地区と地域における政治的組織においても、表現の自由を完全に持つことになるであろう。[Anarchist Organisation: the History of the F.A.I., p. 188f]

 バクーニン以来のアナキストが主張してきたような、労働者協会・地域集会・義勇軍部隊の連合という手段によって、下から上へのこうした「協調路線」を取る代わりに、CNTとFAIの委員会は上から下への「協調路線」を支持した。指導者たちは、国家を無視し、反ファシズム義勇軍中央委員会において他の労働組合関係者だけでなく政治政党とも協力した。言い換えれば、彼らは自分達の政治思想を無視し、より大きな悪弊だと考えたこと−−つまり、ファシズム−−に対する統一戦線を支持したのである。これが必然的に反革命への道を開き、義勇軍と集産体は破壊された。こうしたグループが国家とは無関係に自身の活動を調整できる手段を持っていなかったからである。

 特に、国家が継続して存在していたことで、集産体間の経済的連邦主義(つまり、シンジケートの指示下で革命を拡充すること)が自然に発展できなくなり、また、あらゆる場所で十全に発展することもできないように保証されてしまった。CNTの政治的妥協のため、調整と相互扶助の傾向が自由に発展できなくなったのである(次のセクションを参照)。

 スペインの敗北は、アナキズム理論と戦術の失敗のためではなく、アナキストがその理論と戦術を適用することができなかったためであった。国家を破壊する代わりに、CNT−FAIは国家を無視した。革命が成功するためには、効果的に国家と市場に置き換わることのできる組織を創り出す必要がある。つまり、労働者階級民衆が自身の基本方針を設定し始めることができるように、社会的・経済的意志決定のための広範囲に及ぶリバータリアン組織を作らねばならなかったのである。このルートを進んで初めて、国家と資本主義は効果的に破壊できるのだ。

 新しい世界を構築する際に、古い世界は破壊されねばならない。革命は本質的に権威主義的であるが、不公正・ヒエラルキー・不平等を促す構造と社会関係に関してのみ権威主義的なのだ。権威を破壊することは「権威主義」ではないし、暴君を退位させることは暴政ではない!何にもまして、革命は、抑圧された側に関してリバータリアン的でなければならない。つまり、革命前には社会的・経済的問題に関する意志決定から排除されていた大多数の民衆を巻き込んだ構造を発展させねばならないのである。そのようにして、革命は最もリバータリアンになるのである。

 ドゥルティの友が論じていたように、『革命は、労働者組織の絶対的優位性を必要とする』["The Friends of Durruti accuse", Class War on the Home Front, p. 34 より] このようにして初めて、実行可能なアナキズム社会組織の創造が国家と資本主義を破壊し、それらを自由・平等・連帯に基づく公正なシステムと置き換えることができるように保証できるのである。バクーニンやクロポトキンなど多くのアナキスト思想家が数十年前に論じていた通りである。

 スペイン革命から得られた最も重要な教訓は、単に、国家を破壊するために労働者協会自由連合によって労働者階級の「社会的権力」を組織する必要性について、アナキズム理論は正しかった、ということである。これなくしては、いかなる革命も継続できない。ゴメス=カサスは正しくも次のように論じている。『(協調路線の)経験を非難する代わりに、この運動はその言い訳を探し続けているのであれば、将来も同じ道のりが繰り返されるであろう。例外的情況が再び国家の前にアナキズムを跪かせてしまうであろう。』[前掲書, p. 251]

 第二の重要な教訓は反ファシズムの性質に関するものである。CNT指導部は、多くの(大部分ではないにせよ)一般組合員と共に、反ファシズム団結の問題によって完全に盲目になっていた。このために「ファシスト」国家に対する「民主的」国家を支持するように導かれてしまった。新世界の基盤は労働者階級によってあちこちに創られていたものの、ファシズムに対する戦いに鼓舞されて、CNT指導者はファシズムを生み出したシステムに協力した。実際、CNT指導部の反ファシズム感情は誠実なものだったが、同じことをその「同盟者」に言うことはできない(ファシズムと戦うよりも、進行中の革命の成果の方を大喜びで攻撃していたように思える)。ドゥルティの友はハッキリ述べている。『スペイン人民を敗北させたのは民主主義であって、ファシズムではなかった。』[Class War on the Home Front, p. 30]

 ファシズムに反対するだけでは不充分である。同時に反資本主義でなければならない。ドゥルティは協調していた。『世界中のどの政府も最後までファシズムと戦ってはいない。ブルジョア階級は権力がその手中から滑り落ちているのを見て、自身を維持し続けるためにファシズムを頼みにしている。』[Vernon Richards, 前掲書, p. 193f で引用]

 スペインでは、反ファシズムが革命を破壊したのであって、ファシズムではなかった。スコットランド人のアナキスト、エセル=マクドナルドは当時次のように論じていた。『ファシズムは、何か新しいもの、社会に敵対する新しい悪の勢力ではなく、新しく恐ろしい感じのする名前で昔ながらの敵−−資本主義−−が出てきたに過ぎない。反ファシズムは労働者階級を裏切るための新しいスローガンなのである。』[Workers Free Press, Oct 1937]

 第三に、リバータリアン共産主義は戦後まで延期できるというCNTの主張は誤っていた。ファシズムは、それを生み出したシステム(つまり、資本主義)を終わらせることでのみ打倒できる。さらに、士気とインスピレーションという点で、ファシズムに対する闘争が有効になり得るのは、それがより良いもの−−つまり、自由社会−−を求めた闘争だった場合だけである。労働者階級を抑圧してきた資本主義的民主主義を求めてファシズムと戦うことが、前線にいる人々を鼓舞することなどなかった。同様に、労働者自主管理の唯一の希望は、革命をできる限り押し進めることだった。つまり、ファシズムと戦いながらリバータリアン共産主義を導入することだったのだ。リバータリアン共産主義を延期するという考えは、究極的に、戦争の準備のために、リバータリアン共産主義を犠牲にするということを意味したのだった。

 第四に、社会革命におけるアナキストの役割は、常に、「下からの」(バクーニンお好みの表現の一つを使えば)組織を、国家を効果的に破壊できる革命的組織を、促すことである。バクーニン自身は、地域集会(バリケードの連合)と自主管理型義勇軍によって補完される労働者評議会を望ましいと主張していた(上記したように)。このモデルは今日もまだ適用できるし、CNTによってアラゴンで上手く適用されたのだった。

 従って、CNTの経験から得られる政治的教訓は意外なことではない。政治的教訓は、概して、アナキズム理論を追認している。バクーニンが論じていたように、国家が破壊され、資本が収用され、労働者協会自由連合がリバータリアン社会主義の枠組みとして創設されない限り、革命など不可能である。スペイン革命の経験は、アナキズムを論駁するというよりも、それを追認しているのだ。

I.8.14 革命からどのような経済的教訓を学んだのか?

 この革命の最も重要な教訓は、普通の人々が産業の管理を掌握し、非常に悲惨な情況に直面して生産維持(そして生産向上!)という驚くべき仕事を行った、という事実である。ほとんど何もなかったカタロニアで、労働者は軍需産業を創り出しただけでなく、労働条件を改善し、新しい技術と処理過程を導入した。スペイン革命は、自主管理が可能であり、理想に鼓舞された一般民衆の建設的力が社会を変換できると示している。

 個人的自由という観点について言えば、自主管理によって、それ以前には軽視されていた人々が自身に影響する決定に積極的に参加できるようになったことは明らかである。平等主義的組織は、参加と個人の自治を莫大に増加させる枠組みとなった。これは、集産体が実行した大規模な技術革新に示されている。集産体はシュティルナーの次に言葉を物語っている。『この組合においてのみ、君は唯一者として自分の存在を主張できる。なぜなら、この組合は君を所有せず、君が組合を所有する、もしくは、自分に役に立つように君が組合を作るからだ。』[The Ego and Its Own, p. 312] これは、エマ=ゴールドマンが集産体を訪問し、そのメンバーと議論した際に確認した事実である。

 集産化によって労働者が実際に得たものは何か、という私の質問に対する答えは、特に印象深かった。まず最初の答えはいつも、より大きな自由、だった。より多くの賃金とより少ない労働時間という答えは、二番目にしか出てこなかった。ロシアでの二年間(1920年〜1921年)、私は、労働者がより大きな自由という考えを表明するのを聞いたことがなかった。[Vision on Fire, p. 62]

 アナキズム理論で予想され、実際の経験が支持しているように、普通の人々は大きな未開発のエネルギーと発意をため込んでいる。そして、これは自主管理によって呼び覚ますことができる。集産体は、協働作業はもっと生産的だというクロポトキンの主張を証明した。もし、経済学者が『他の所有形態全てよりも私有財産が望ましいという命題』を証明したいのならば、『共有財産下の土地が私的に所有されている場合と同じぐらいの豊作を生み出すことはない、と経済学者は証明するはずではなかったか。だが、彼らはこのことを証明しえなかった。実際、逆のことが観察されているのである。』[The Conquest of Bread, p. 146]

 従って、リバータリアン社会主義経済の現実経験から五つの重要な教訓を引き出すことができる。

 まず第一に、アナキズム社会は一夜にして創造されるのではなく、様々な影響力と客観的諸条件の産物である。このことについて、アナキズム集産体は、バクーニンやクロポトキンといったアナキズム思想家の考えを追認した(セクションI.2を参照)。

 民衆自身の解放プロセスで犯された誤ちは、民衆のために創られる諸制度がもたらす結果と比べれば、常に小さなものだ。これが全ての革命から得られる教訓である。スペイン革命はこのことの明らかな実例である。「集産化法令」は良い結果よりも害を多く引き起こした。幸運なことに、スペインのアナキストは失敗をする自由を持つことの重要性を認識していた。これは様々な形態の集産体と連合が試みられたことからわかる。

 スペインでの産業調整と社会化に向けた実際のプロセスは、そこに参画した労働者の願望に依存していた−−真の社会革命でそうあると期待されるように。バクーニンは次のように論じていた。『革命は民衆のためになされてはならない。革命も民衆が行うべきなのである。』[No Gods, No Masters, vol. 1, p. 141] 社会革命が直面した諸問題は、労働者階級民衆が自身でそれらを解決して初めて、労働者階級のために解決される。これがなされるためには、労働者階級民衆が自身の事柄を直接管理する必要がある−−これがアナキズムを意味するのだ。中央集権や国家管理や国有ではない。スペインの集産体の経験は、アナキズムのこの基本思想を支持している。

 第二に、自主管理は技術革新と新しいアイディアを莫大に増加できるようにした。

 スペイン革命は、ヒエラルキーに反対するアナキズムの主張の好例であり、アイザック=プエンテの次の言葉の正当性を立証している。『自由集産体において、個々人は、万人の知識の蓄積と専門経験から利益を得、万人も個々人から利益を得ていた。情報が継続的に循環するところには、互恵関係が存在する。』[The Anarchist Collectives, p. 32 で引用]

 第三は、分権型管理の重要性である。

 建具師組合の経験は、産業が中央集権化されると、産業管理が常に少数者の手に吸収され、一般労働者が軽視されるようになる、ということを示している。このことは、民主的に運営された産業であっても生じ得、すぐに、産業内部での無力感の発達をもたらす。クロポトキンなどのアナキズム理論家(そして、当時のスペインのFAIメンバーの多く)はこのことを予見していた。資本主義のヒエラルキーよりもましなことは明らかだが、こうした民主的に運営される産業は、アナキズムの自主管理思想に少しばかり近いという程度に過ぎない。だが、重要なことは、集産化実験によって、協働には中央集権化が必要ではない(これはバダロナの集産体からも見ることができる)、と示されたことである。

 第四は、仕事場間の連帯の繋がりをできるだけ早く構築することの重要性である。

 ファシスト蜂起後の生産開始の重要性が協働で事業を行うことを二次的なものにしたようだが、仕事場間で最初に生じた競争によって、国家が自主管理を攻撃しやすくなってしまった。人民銀行などの貸付金と生産とを調整する共産主義的機関が存在しなかったため、貸付金と金準備を国家が管理することで、共和国が(貸付金を独占することで)革命の土台を攻撃し、集産体を管理し、適切な時期に集産体を(効果的に)国有化することを容易くできるようになった(ドゥルティなど少数の人々は、金準備を押収する計画を立てていたが、デ=サンティリャンが行わないように忠告した)。

 革命に対する攻撃が始まったのは、カタロニア国家が1936年10月に集産体を合法化(そして管理)する法令(有名な「集産化法令」)を発布したときだった。国家管理を受けることに合意するまで、集産化された産業−−軍需産業すらも−−は、反革命によって資金提供を止められた。この法令が創り出した産業の組織化はアナキズム思想と他の政党(特に、共産党)の思想との妥協案だった。ガストン=レヴァルを引用しよう。『この法令は、労働者シンジケートがその利益を拡充できないようにする有害な効果を持っていた。産業における革命を妨害したのである。』[The Anarchist Collectives, p. 54]

 そして最後に、経済的革命が成功するのは、既存の国家が破壊されたときだけである。クロポトキンは次のように主張していた。『新しい経済組織には、新しい政治構造が必ず必要となる。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 181] 資本主義は国家を必要とし、社会主義はアナーキーを必要とする。新しい政治構造がなければ、新しい経済組織がその十全な潜在的可能性を発達させることはできない。

 革命を政治的に強化できなかったため、経済的に失敗したのである。この法令は『集産化を合法化し』、『全てのことを最初から歪めてしまった。』[Collectives in the Spanish Revolution, p. 227] そして、集産体の相互主義がリバータリアン共産主義へと自由に発展しないよう保証することで、革命の土台を崩す手助けをしたのである(この法令のために『集産体は当初勝ち得た経済的自由を失ってしまった』とある参加者は述べている [Ronald Fraser, Blood of Spain, p. 230])。

 フレイザーが述べているように、『この時以前に、CNTが産業の集産化を真剣に想定していたとは考えにくい。』[前掲書, p. 212] CNTの方針は、集産化法令には反対だった。ある目撃者が指摘しているように、CNTの『方針は、このように、この法令が達成しようとしていることと同じではなかった。』[前掲書, p. 213] 実際、アバド=デ=サンティリャンのような主導的アナキストは、法令に反対し、民衆に法令を無視するように説得していた。

 私はこの法令の敵であった。それが時期尚早だと思ったからだ。評議員になったとき、私はこの法令を考慮したり、実施したりする意図を持ってはいなかった。私は、偉大なる民衆が、自身のひらめきに従って、自身が最も適していると考えるように仕事を実行できるようにしようとしたのだ。[前掲書, p. 212]

 だが、革命が政治的に敗北すると共に、CNTはすぐに妥協を強いられ、この法令を支持するように強いられた(CNTは仕事場間の調整についてもっとリバータリアンな方法を提案していたが、この方法は国家によって台無しにされた)。効果的な相互扶助組織がないために、国家が集産体に対する権力を獲得し、自主管理を台無しにし、破壊することができるようになった。労働者階級による経済管理(実際に重要なことである)は、国家を自動的に破壊しない。つまり、革命の経済的側面は政治的側面と切り離して考えることはできないのである。

 だが、こうした点はスペイン革命の様々な成功を損ないはしない。ガストン=レヴァルは次のように論じていた。『こうした欠点(完全な社会化がなかったことによる)にも関わらず、大切な事実は、工場が稼働し続け、所有者・資本家・株主・経営上層部ぬきで様々な仕事場と業績が生み出されたことなのである。』[Collectives in the Spanish Revolution, p. 228]

 スペインで経済的自由があった数ヶ月は、疑いもなく、リバータリアン社会主義が機能するということ、そして、労働者階級民衆は自身で社会を管理し運営できるということを示しているが、それだけでなく、生活の質を改善し、自由を増大させることができる、ということも示している。時間と熟考の機会があれば、この実験は疑いもなく様々な問題を解決しただろう。内戦(そして、他の政党や組合のほとんど全てが敵対していた)という非常に困難な情況においてさえ、スペインの労働者と農民はより良い社会が可能だと示したのだ。彼らは、以前には単なるヴィジョンでしかなかったことの、資本家・経営者・政治家・官僚が運営する世界よりももっと人道的で・もっと自由で・もっと平等で・もっと文明化された世界の、具体的実例を示したのだ。

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