アナキズムFAQ

I.5.8 犯罪についてはどうなのか?

 アナキストにとって、「犯罪」とは、最も適切な表現を使えば、反社会的行為、すなわち、他者を傷つけたり、他者の個人的空間に侵入したりする行動だと言える。アナキストは、犯罪の根源は人間性の邪悪さだとか「原罪」だとかではなく、人々を形作っている社会の種類のためだ、と主張する。例えば、アナキストは次のように主張する。私有財産を削減すれば、犯罪をおよそ九割減らすことができるだろう。なぜなら、犯罪のおよそ九割は現在、貧困・ホームレス・失業・疎外といった私有財産から生じる弊害に動機付けられているからだ。それ以上に、アナキズムの非権威主義的子育て・教育方法を採用することで、それ以外の犯罪の大部分も減少しうる。何故なら、そうした犯罪は、権威主義的で快楽否定の子育て実践のために発達した反社会的で邪悪で残酷な「二次的動因」に大きく起因しているからである(セクションJ.6「J.6 アナキストが主唱する子育ての方法は何か?」を参照)。

 「犯罪」をそれが生じている社会から切り離すことなどできない。エマ=ゴールドマンの言葉を使えば、社会は自身にふさわしい犯罪者を手に入れるのである。例えば、アナキストは、サッチャーとレーガンの自由市場賛同型資本主義体制の下で犯罪が爆発的に増えたことを、異常だとも予想外だとも思わない。犯罪は、社会的危機の最も明白な兆候であり、英国においては30年間で二倍になった(1950年には100万件だったが、1979年には220万件になっている)。だが、1979年から1992年の間は二倍以上になっており、1992年には500万件を越えている。この13年間は、政府が断固として「自由市場」と「個人の責任」に全力を傾けていたことに特徴付けられる。社会崩壊・個人の原子化・貧困の増加、これらが資本主義を社会的管理から解放することで引き起こされ、社会をバラバラにし、犯罪行為を増加させる。これは完全に予測可能だった。同様に(アナキストの観点からは)驚くべきことではないのだが、我々は、市民的自由の減少・国家中央集権化の増大・地方自治体の破壊も目にした。マラテスタが指摘しているように、こうした政府が代表していた古典的自由主義が、他の効果を持つことなどあり得ない。何故なら、『自由競争がさらに多くの不和と不平等を生むとともに、政府の抑圧的権力は必然的に増大せざるを得ない』からだ [Anarchy, p. 46]。

 爆発的な犯罪増加の最中に在任しながら、国家権力を増大させ、権利を縮小させつつ、「個人の権利」「自由市場」「国家の不干渉」に専心する政府という逆説は、全くもって逆説などではない。キャロール=ペイトマンは次のように論じている。『個人の自由というレトリックと国家権力の莫大な増加という局面とは、契約主義の影響が社会生活の最後の最も私的な隅々にまで拡大している時代には予想外のことではない。一つの帰結を述べれば、契約はそれ自体の存在条件の土台を壊すのだ。ホッブスはずっと昔に、契約には、専制政治と戦争を寄せ付けないための剣とが−−徹頭徹尾−−必要だ、と示していた。』[The Sexual Contract, p. 232]

 資本主義とその土台となっている契約理論は、必然的に、社会をバラバラにする。資本主義は、金と契約以外に何の関連もない孤立した個人という人間性のヴィジョンに基づいている。こうしたヴィジョンは、反社会的行為を制度化せざるを得ない。クロポトキンは次のように論じていた。『社会が基づいているのは人間の愛でもなければ、共感でさえもない。社会は人間的連帯の良心−−それが本能の段階にしかないとしても−−に基づくのだ。相互扶助の実行によって得られる力の無意識的承認・各人の幸福と万人の幸福とが密接な依存関係にあることの無意識的承認・他者の権利を自分自身の権利と平等だと見なすようにさせる正義や平等の感覚の無意識的承認に基づくのである。』[Mutual Aid, p. 16]

 資本主義に必要で資本主義が創り出している社会的原子化は、社会の基本的結び付き−−つまり人間的連帯−−を破壊する。そして、ヒエラルキーは、他者と共通の人間性を共有していることを理解し、そのことで何故自分が倫理的でなければならず、他者の権利を尊重しなければならないのかを理解するために必要な個性を破壊する。

 また、指摘しておかねばならないが、刑務所は社会に対して多くの負の効果を持っており、同時に、犯罪(つまり反社会的)行動を強化することも多い。刑務所を「犯罪大学」として正しく記述したのはクロポトキンが初めてだった。刑務所の中で初犯は新しい犯罪技術を学び、犯罪者の中に蔓延する倫理規範に馴染む。従って、刑務所はそこに収監された人々の犯罪傾向を増加させる効果を持っており、そのために逆効果となるのである。加えて、様々な犯罪を促している社会的諸条件に刑務所が影響を及ぼすことなどないのだ。

 だが、だからといって、アナキストが個人の責任という概念を拒否していると述べているのではない。例えば、強姦は、性欲を抑圧し、家父長制に基づいた(つまり、強姦はセックスよりも権力ともっと関係している)社会システムの結果であると認識しているものの、アナキストは「傍観」して、「社会が悪い」と言いはしない。個々人は、自分の行為に責任を持たねばならず、行為の結果を認識しなければならない。現在の「法律規範」に関する問題の一部は、個々人が自分自身の倫理規範を発達させる責任を剥奪し、その結果、「文明化した」社会的基準を発達させ難くなっていることである(セクション I.7.3 を参照)。

 アナキストは法律と専門化された司法システムという考えを拒絶しながら、反社会的行為が自由社会で完全になくなることはないという事実に目をつむらない。そのため、残存する犯罪を扱い、市民間の争議を裁くために、ある種の「裁判」システムはなおも必要となるだろう。

 こうした裁判所は次の二つの内のどちらかのやり方で機能することになろう。一つの可能性は、当事者双方が第三者にその事件を任せることに同意する、というものである。この場合、関係者でなされた取り決めが、当該の「裁判」となるであろう。第二の可能性は、関係者が合意しない(もしくは、被害者が死んだ)場合である。この場合、この問題は、コミューン集会に提起され、問題を調査するよう「裁判所」が指名される。こうした「裁判所」はコミューンから独立することになろう。判事の行政指名ではなく公選・くじ引きで任意の市民を選定するという陪審員システムの保護・事件の諸事実だけでなく自分の良心に従って法律それ自体を審判する権利を陪審員に伝えること、これらによって裁判所の独立性は高められる。マラテスタは次のように指摘していた。『人々の間に意見の相違が生じた場合、任意に受け入れられた仲裁や、世論の圧力の方が、無責任な判事を通じてよりも、正しいことが何処にあるのかを論証しやすいのではないだろうか?無責任な判事は、あらゆることと全ての人を裁定する権利を持っており、必然的に何もできず、従って不公平になるのだから。』[Anarchy, p. 43]

 「警官隊」に関して言えば、これが、公的な特殊機関・民間の特殊機関・会社といったものとして存在することはないだろう。地元地域が、治安維持のためには、援助が必要なときに召集できる集団が必要だと考える場合、新しいシステムが作られるだろうと我々は考える。そうしたシステムは、『今日のように、特別な公的機関に委ねられはしない。(コミューンの)健常な住人全員が、コミューンによって制定された治安対策に交替で召集されるであろう。』[James Guillaume, Bakunin on Anarchism, p. 371] このシステムは、自発的民兵システムを中心にしたものとなるであろう。自分が望むならば、コミュニティの全メンバーがその役目を果たすことができるようになるのである。この役目を果たす人々は、専門家集団ではなく、その代わり、地元の人々で構成されることになろう。地元の人々は短期間参加し、職権乱用した場合には交替させられる。従って、コミューン民兵が、現在の警官隊や警察の機能を行使する警備会社のように、権力によって腐敗するようになる見込みは莫大に少なくなる。それ以上に、民兵の一部として民衆が反社会的行動に介入することに慣れることで、民衆は、民兵の能動的な一部ではないときにも、反社会的行動に介入する自信を持ち、その結果、さらにその職務の必要性を減じるようになるのである。

 こうした機関は、他者を保護することを独占するのではなく、単に、他者がそれを必要とした場合に応じるだけのものとなろう。これは、現在の消防機関が独占ではないのと同じぐらい、防衛の独占(すなわち「警官隊」)ではない。現在、個人は、消防機関が存在しているという理由で、火を消すことを禁じられてはいない。同様に、アナキズム社会では、個人が自分自身でもしくは他者と共同して自由に反社会的犯罪を止める手助けをすることになろう。

 もちろん、反社会的行為が目撃者なしに起こり、従って、「犯人」がすぐに特定され得ない場合はある。こうした行為が起こると、アナキストのコミュニティでは二つの行動のいずれかが取られると想像できる。被害者は自分で事実を調査するかもしれないし、代理人に調査してもらうかもしれない。もっとありそうなのは、この種の犯罪を調査するために臨時のグループを地域集会が選ぶことであろう。こうしたグループは、犯罪を調査するために必要な「権威」を与えられ、自分達が持つ権威がどのようなものであれその権威を乱用しようとし始めたときに、地域社会による更迭の対象となる。調査機関が充分な証拠を持ったと考えると、影響を受けた当事者だけでなく地域社会にもそのことを伝え、裁判を開催する。もちろん、自由社会は、こうした諸問題に対して様々な解決策を、誰もこれまで考えつかなかった解決策を創り出すだろう。従って、これらの示唆は単に示唆に過ぎない。

 よく言われるように、予防は治療に優る。これは病気だけでなく犯罪にも当てはまる。言い換えれば、犯罪と闘うには、その原因を根絶するのが一番であって、こうした原因に反応して行動している人々を罰することではない。例えば、個人的利益と消費を促す文化が、他者(もしくは自分自身)を尊重せず、他者を純粋に目的(通常は、消費の増加)に対する手段だと見なすような人を生み出すことは驚くに当たらない。そして、名声やプライドといった資本主義システムにおける他のことと同じように、良心もまた適正価格で入手できるわけだ−−他者に対する配慮のみならず自分自身に対する配慮さえも促すような環境ではないのだ。

 さらに、ヒエラルキー型権威に基づく社会も、それが自由な発達と自由な表現を抑圧しているが故に、反社会的活動を生み出すことが多くなるであろう。つまり、理不尽な権威(これが犯罪に対する唯一の治療法だと主張されることが多い)は、実際には、犯罪を生み出す手助けをしているのだ。エマ=ゴールドマンは主張していた。犯罪は『誤った方向に導かれたエネルギーに過ぎない。今日の全ての機関−−経済的・政治的・社会的・道徳的−−が共謀して人間のエネルギーを間違った水路に導いている限り、大部分の人々が自分がやりたくないことを行い、生きたくもない生き方をするという不自然な状態にある限り、犯罪は必然となるであろう。そして、法令集に載る法律が増えるだけで、犯罪がなくなることはないであろう。』[Red Emma Speaks, p. 57]

 エーリッヒ=フロムは、数十年後に、同じ点を指摘している。

 生の拡充性が抑制されればされるほど、個人に見られる破壊性の量は増えるように思える。これは、あれこれの本能的欲望に関する個人のフラストレーションについて述べているのではない。生全体の阻止のことを、人の感覚的・情動的・知的能力を成長させ拡充させる自発性の妨害のことを述べているのである。生はそれ自体の内的ダイナミズムを持っている。成長し、表現され(to be expressed)、生きられる(to be lived)傾向を持っているのだ。生への衝動と破壊への衝動は、相互依存的なものではなく、逆の相互依存関係にある。生への衝動が抑えられれば抑えられるほど、破壊への衝動は強くなる。生が実感されればされるほど、破壊性の強度は減少する。破壊性は生きられていない生の所産である。生の抑圧を進めるこうした個人的条件や社会的条件が、破壊の情熱を生み出す。この情熱は、特定の敵対的傾向−−他者に対するものだったり自己に対するものだったりする−−を育む、いわば貯蔵庫を形成するのである。[The Fear of Freedom, p. 158]

 従って、社会を再組織して、万人に権能を与え、万人の知的・情動的・感覚的能力を行使することを積極的に促すようにすることで、犯罪はすぐに現在のような大きな問題にはならなくなるであろう。こうした社会においてなおも存在する可能性のある反社会的行動や個人間の衝突については、個人を尊重し、問題の社会的根元の認識に基づいたシステムで扱うことになろう。拘束は最小限に留められることになろう。

 アナキストは、世論と社会的圧力がアナキスト社会において反社会的行為を予防する主要手段となる、と考える。反社会的行為を企てる人々にその人のやり方の誤りを納得させるための強力な制裁措置として、ボイコットや村八分といった行動を使う。隣近所・友人・仕事仲間による大きな非協力は、他者を害する行動を止める最良の手段となるであろう。

 記しておかねばならないが、アナキズムの司法システムは、原住民族社会から学ぶところが多いだろう。単にそれは、原住民族社会が国家のない社会秩序の実例だからである。実際、司法について我々が今日必須だと見なしている考えの多くはこうした社会に見ることができる。クロポトキンは次のように論じていた。『例えば、陪審員制を導入したことについて、大きな進歩だと我々は仮定している。しかし、我々が行っていることは全て、支配階級に都合良く変形させられた、いわゆる「野蛮人」の諸制度に戻っているだけのことなのだ。』[The State: Its Historic Role, p. 18]

 原住民族における裁判(ルーパート=ロス著「教育への回帰:原住民族における裁判の研究 Returning to the Teachings: Exploring Aboriginal Justice」で報告されているような)のように、アナキストは、犯罪者を罰するのではなく、関係者全員の教育と治療によって裁判を実現するべきだ、と強く主張する。犯罪を公的に非難することはこのプロセスの重要な側面にはなるだろうが、犯罪者はコミュニティの一部であり続け、その結果、引き起こされた苦悩と痛みという点で他者に対する自身の行動の結果を理解するようになるだろう。犯罪者は、自分の行動のお詫びに、社会奉仕活動を行ったり、被害者とその家族を援助したりしようとするはずだと期待される見込みが高い。

 従って、実際の観点から、ほとんど全てのアナキストが現実的根拠(刑務所は効き目がない)と倫理的根拠(『刑務所が何を意味しているかは分かっている−−身体と精神の破壊・劣化・消耗・狂気を意味しているのだ。』[Voltairine de Cleyre, quoted by Paul Avrich in An American Anarchist, p. 146])に基づいて刑務所に反対しているのである。マフノ主義者は刑務所について次のような通常のアナキズムの立場を取っていた。

 刑務所は民衆の奴隷状態のシンボルである。常に、民衆・労働者・農民を従属させるためだけに建設される。自由人には刑務所はいらない。刑務所が存在する場所に、民衆の自由はない。この態度を順守して、彼等(マフノ主義者)は行くところ全てで刑務所を破壊したのだった。[Peter Arshinov, The History of the Makhnovist Movement, p. 153]

 ベンジャミン=タッカーを除き、主要なアナキスト著述家はこの機関を支持していなかった。私設刑務所(私設警察同様)が自由の諸概念と相容れると考えるアナキストはほとんどいない。しかし、全てのアナキストが現行の「司法」システムに反対している。現行システムは、原因の治療ではなく、結果の処罰と復讐を中心に作られている、とアナキストは見なしているのである。

 だが、いかなる社会にも、あまりにも危険すぎて自由に往来を歩かせるわけには行かない病的精神の持ち主などがいる。こうした場合には拘束だけが唯一の選択肢であり、こうした人々は、自分自身のため、そして、他者の安全のためにも、他者から隔離されねばならないだろう。多分、精神病院に入院したり、その人々のために作られた隔離場所(例えば、島のようなところ)に隔離されることになろう。だが、こうしたケースは稀なものであろう(そう思いたい)。

 罰と復讐という概念に基づいた刑務所と法律規範の代わりに、アナキストは、反社会的行動を止めるための世論と民衆の圧力を、そして、反社会的行為を犯した人々を治療的に社会復帰させることの必要性を支持する。クロポトキンは次のように主張していた。『一部の人々が持つ反社会的本能に対抗できる最も有効な防壁は、自由・平等・人間の実践的共感性』であって、寄生性の(parasitic)法律システムではないのだ。[The Anarchist Reader, p. 117]

I.5.9 アナキズム下での言論の自由はどうなのか?

 全ての形態の社会主義は言論・出版などの自由を危険にさらすだろう、という考えを多くの人々が表明している。この主張がなされるのは通常、国家社会主義との関係においてであり、以下のように論は進む。国家(もしくは「社会」)が情報伝達手段全てを所有すると、政府が支持する観点だけをメディアが入手することになるだろう。

 これは重要な点であり、扱われるべき問題である。だが、この問題を扱う前に、資本主義の下で、主要メディアは金持ちによって上手く統制されていることを指摘しておかねばなるまい。セクションD.3で論じたように、メディアはそれ自身で装いたがっているほど独立した自由の擁護者ではない。これは驚くべきことではない。新聞社やテレビ局などは金持ちが所有する資本主義企業であり、代表取締役も編集者も現状に既得権益を持つ金持ちだからだ。従って、「自由な出版」が資本主義エリートの関心事を確実に反映するようにする組織的諸要因が存在しているのである。

 だが、民主資本主義国家においては公然の検閲はほとんどない。急進的出版社や独立系出版社はなおも、国家の介入なしに新聞や本を印刷できる(市場取引によって、この活動が難しくなり資金的に報いの得られないことを確実にできるにもかかわらず)。社会主義の下では、「社会」が情報伝達手段と生産手段を所有しているために、この自由は存在しないだろう、と主張される。逆に、「実際に存在する社会主義」の全ての実例から分かるように、こうした自由は政府の見解を支持するように押しつぶされてしまう。

 アナキズムは国家を拒否するため、この危険はリバータリアン社会主義下では存在しないと言いうる。しかし、社会的アナキストが生産のコミューン化を主張している以上、言論の自由に対する制限は存在しうるのではないだろうか?我々は次の三つの理由から否と言う。

 まず第一に、印刷所やラジオ局などは労働者が直接運営することになろう。提供は、合意を取り交わした他の様々なシンジケートであって、「中央計画」当局ではない。そんなものは存在しないのだから。言い換えれば、資源(従って、情報伝達手段)を割り当てる(そして統制する)役人の官僚制など存在しない。よって、アナキズムの自主管理は、様々な雑誌や新聞の幅広い選択肢が存在することを確実にする。コミュニティペーパーやラジオ局などが存在し、明かに、これらは自由社会でさらに大きな役割を果たすことであろう。しかし、これらだけが唯一のメディアではない。結社・政党・産業シンジケートなどが自身のメディアを持ち、情報通信労働者のシンジケートが持つ資源を入手できるようになり、そのことで、幅広い意見を確実に表明できるようになるだろう。

 第二に、自由社会における「究極の」権力は、その社会を構成する個々人となろう。この権力はコミューン集会と仕事場集会で表明されることになる。集会において、代理人を更迭し、代理人の意志決定を無効にできる。こうした集会が、人々が読み・見・聞くことができるものとできないものとを決定しようという一群の官僚志望者を許すなど疑わしい。

 第三に、自由社会の個人は、様々な見解を聞き、それについて議論することに関心を持つだろう。これは、批判的思考(自主管理がこれを促進する)の自然な副作用であり、従って、様々な見解を求めて多様なメディアをできる限り幅広く手に入れることを主張する一つの既得権を持っていることになろう。守るべき様々な既得権がないため、自由社会は、資本主義メディアに関係する検閲を促したり、それを認めたりすることなどないのだ(『私は批判に耳を傾ける。何故なら、私は貪欲だからだ。私は批判に耳を傾ける。何故なら、私は利己的だからだ。私は他者の洞察を禁じはしないであろう。』[The Right to be Greedy])。

 従って、アナキズムは多くの重要なやり方で、特に仕事場において(資本主義下で現在無視されている場所だ)、言論の自由を増加させるであろう。これは、自由と人生を享受する願望を最大化することに基づいた社会の自然な帰結となろう。

 さらに指摘しておくが、スペイン革命とロシア革命において、言論の自由はアナキストの地域内では保護されていた。

 例えば、ウクライナのマフノ主義者は『言論・思想・出版・政治的結社の自由という革命的諸原理を十全に適用していた。占領された全ての都市と町で、あらゆる種類の言論・出版・集会・結社の完全な自由が、万人に対して、即座に宣言された。』[Peter Arshinov, The History of the Makhnovist Movement, p. 153] これは、マイケル=マレも確認し、次のように記している。『マフノ主義者の最も注目すべき功績の一つは、いかなる敵対者よりもずっと広範に言論の自由を保持していたことだった。』[Nestor Makhno in the Russian Civil War, p. 175]

 革命下のスペインにおいては、共和主義者・自由主義者・共産主義者・トロツキスト・様々なアナキスト集団、皆が自分の見解を表明する自由を持っていた。エマ=ゴールドマンは次のように書いている。『1936年9月にスペインを初めて訪れた際、最も驚いたのは、至る所に多くの政治的自由が見られたことだった。確かに、これはファシストには与えられなかったが、反ファシズム戦線の全ての人が、いわゆる欧州民主主義のいかなる場所にも存在しなかった程の政治的自由を享受していた。』[Vision on Fire, p.147] これは、「カタロニア賛歌 Homage to Catalonia」の著者ジョージ=オゥエルを含む数多くの他の目撃者にも確認されている(実際、検閲の導入をもたらしたのは、資本主義賛同型共和主義者と共産主義者の台頭だった)。

 どちらの運動も、共産党軍・ファシスト軍・資本主義支持者の軍隊に対する生死をかけた戦いを闘っている最中であり、情況を考えれば、この表現の自由の擁護は特に注目に値する。

 従って、理論と実践双方に基づき、アナキズムは表現の自由を危険にさらすことはない、と言うことができる。実際、現在存在する資本主義的寡占を破壊し、出版の労働者自主管理を導入することで、自由社会には遙かに幅広い意見が手に入れることができるようになるだろう。金持ちエリートの利権を反映するのではなく、メディアは全体としての社会とその内部にいる個人やグループの関心事を反映するであろう。

I.5.10 政党についてはどうなのか?

 政治政党やその他の圧力団体は、それに参加する必要を人々が感じている限り、アナキズム社会に存在することになろう。いかなるやり方であれ「禁止」されはしないし、そのメンバーは他者と同じ権利を持つことになろう。政党や結社のメンバーは、コミューン集会などの集会に参加でき、他者に自分の考えの健全性を説得しようとすることができる。

 だが、こうした活動と資本主義民主制下での政治とには重要な違いがある。何故なら、アナキズム社会における責任ある立場の選任は、パーティ券に基づくものでも、権利の委任を含むものでもないからである。エミール=プージェは、サンジカリスト労組と選挙との違いを次のように書き、この違いの核心を突いている。

 労働組合の構成要素は個人である。民主主義集団に明らかな意気消沈現象を組合員が容認しない限り。普通選挙崇拝のおかげで、こうした民主主義集団は人格の破壊と矮小化に向かう傾向を持っている。民主主義の環境で、有権者が自分の意志を行使できるのは、唯一、譲渡行為を行うためだけである。自分の役目は、自分の「代表者」になって欲しい候補者に自分の「票」を「授与する」ことなのである。

 労働組合への加盟にこのような意味はない。組合に加入することで、労働者は、意志と可能性という点で自分と平等な仲間たちと一つの契約−−いつでも破棄して構わない−−を結ぶだけなのである。組合では、例えば、管理上の事柄の責任を持つ労働組合評議会を任命すべく集まらねばならない場合に、こうした「選抜」は「選挙」と比較されるようなものではない。こうした情況で通常使われる投票形態は、労働を分担できるようにするための単なる手段であり、権威の委任を伴わない。労働組合評議会の厳密に規定された義務は、単に、管理上のものに過ぎない。評議会は、その主役の発言を封じることなく、主役に取って代わったり主役の代わりに行動したりすることなく、委ねられた課題を遂行するのである。

 同じことが組合で合意したあらゆる決定についても言える。全てが明確で具体的な行為に限定される。一方、民主主義で、選挙が意味しているのは、選ばれた候補者が自分の有権者によって「白紙委任状」を交付されることである。あらゆることについて、自分が好きなように決定し、好きなように行動する権限を持つことである。自分を選んでくれた人々からの全く正反対な見解があったとしてもそれにも妨げられることなどない。そんな反対など、どんな場合であろうとも、どのように断言しようとも、選ばれた候補者の任務が自然に消える時まで、全く重要ではないのだ。

 従って、労働組合の活動と期待はずれの政治的日常業務への参加とには、いかなる類似点もあり得ず、ましてや混同する点などあり得ないのだ。[No Gods, No Masters, vol. 2, pp. 67-68]

 言い換えれば、個人が管理的立場に選ばれるということは、自分の職務を遂行すべく選ばれたということであって、党のプログラムを遂行するためではない。もちろん、当該の個人が仲間の労働者と市民に、党のプログラムが正しい、と納得させた場合には、この任務とそのプログラムとは同じものとなろう。だが、実際にこれはあり得ない。コレクティヴとコミューンの決定は、その団体内にいるメンバーや様々な集団の複雑な社会的やり取りと多様な政治的選択肢を反映することになることは想像できよう。

 従って、アナキズムは多くの多様な政治集団・政治思想を含む見込みが高くなるだろう。自由社会で予想されるように、コレクティヴとコミューンの中にいるこうした集団や思想の相対的影響力は、主張の強さと思想の適切さを映し出すことになろう。バクーニンは次のように論じていた。『この相互影響の放棄は死となろう。大衆の自由を守る時、大衆に対して個々人や諸集団が行使する自然な影響力を幾ばくかたりとも放棄することを意味してはいない。我々が欲しているのは、人工的で特権的で法的で役職的な影響力の放棄なのである。』[Malatesta, Anarchy, p. 50 で引用]

 政治的論議が「選挙で選ばれた独裁制」と、社会全体の代弁をすると主張する(あたかも社会全体が一つの意見しか持っていないかのように)単一政党への権力集中とをもたらすのは、代議制政府が自主管理に置き換わってしまったときだけなのだ。

I.5.11 利益団体などの団体についてはどうなのか?

 アナキストは、社会生活を政治的・経済的団体だけに還元できるとは考えていない。個々人は様々な関心と願望を持っている。真に自由で興味深い生活をするためには、そうした関心や願望を表現しなければならない。従って、アナキズム社会では、様々な自発的協会やグループが発達し、その関心事を表現するようになるだろう。例えば、消費者団体・音楽グループ・科学協会・芸術協会・クラブ・住宅協同組合と住宅協会・工芸や趣味のギルド・ファンクラブ・動物権利擁護協会・性やセクシャリティに関わるグループ・信条や人種に基づくグループなどが存在するであろう。人間の関心と活動全てについて団体が作られることになろう。

 クロポトキンは次のように論じていた。

 グランドピアノを欲しい人は、楽器製造者協会に入るであろう。半日の余暇の一部をこの協会のために費やすことで、この人は自分の夢だったピアノをすぐに手に入れるであろう。天文学の研究が好きならば、その人は天文学者の協会に参加する。そして、協会に関係する作業を分担することで、自分の望む望遠鏡を手に入れるであろう。つまり、神聖なる数時間を必要物の生産に当てた後で、一日の5時間か7時間、自分が自由に使える時間で、贅沢の熱望全て−−それがどれほど多種にわたろうとも−−を十分に満足させることになるのだ。無数の協会が贅沢の提供を保証するであろう。[The Conquest of Bread, p. 120]

 従って、アナキズム社会が、個人の想像力を奮い立たせるあらゆる主題に関する協会と利益団体、また、自分たちの興味を表現し促進するために人が集まりたいと思う協会と利益団体に基づくことを想像できるだろう。例えば、住宅協同組合は、住民が自分達の地域を管理し、自分の家や地元の公園や菜園を設計し維持できるようにするために存在することになる。動物の権利などの利益団体は、自分達が重要だと考える問題について情報を提供し、他の人々に肉食など様々なことの誤りを説得しようとする。消費者団体は、製品とサービスの改善についてシンジケートと対話をし、消費者が必要としているものをシンジケートが生産するように保証する。環境保護団体は、生産を監視すべく存在し、生産が損害を与えるような副次的影響を創り出していないことを確かめ、自分達の知見をシンジケートとコミューン双方に情報提供する。フェミニスト団体・ホモセクシュアル団体・バイセクシュアル団体・反人種差別団体は、自分達の考えを納得させるために存在し、社会的ヒエラルキーと偏見がなおも存在する領域を浮き彫りにする。社会全体にわたり、民衆は、自己表現をすべく、そして、多くの様々な問題について自分達の考えを他者に納得させるべく、提携するであろう。

 従って、アナキズム社会では、自由な提携が資本主義下よりももっと強力でもっとポジティヴな役割を担うであろう。このように、社会生活は多くの次元を帯び、個人は無数の団体の中から自分の関心を満たすものを選択したり、同じ考えを持った他者と新しい団体を作ったりするであろう。仕事だけが人生ではない、ということをアナキストが否定するなどあり得ないのだ!

I.5.12 アナキズム社会は保健医療などの公共サービスを提供するのか?

 この答えは、どのようなタイプのアナキズム社会について述べているのかにも依る。それぞれのアナキストがそれぞれの解決策を提起している。

 例えば、個人主義−相互主義社会では、保健医療などの公共サービスは、個人や協同組合が提供し、利用する度に支払う形式を取ることになろう。個人や協同組合などの組織が様々な保険提供者の会員となったり、保健医療提供者と直接契約を行ったりする見込みが高い。従って、このシステムは民間型保健医療に似ているが、競争による利鞘がないため、経費の価格を押し下げると期待されるのである。

 他のアナキストはこうしたシステムを否定し、保健医療などの公共サービスを社会化することに賛成している。こうしたアナキストは、民営化システムは、代価を支払うだけの余裕を持つことのできる人々の要求しか満たせず、従って不公正・不公平なものとなる、と主張する。医療の必要性は収入とは関係ない。文明社会はこの事実を認識するであろう。資本主義の下で、利潤極大化型の医療保険は、被保険者が病気になったり怪我をしたりするリスクに応じて保険料を設定するため、最もリスクのある人はどんなことをしても保険契約を見つけることなどできない。民間保険会社は、危険や病気の可能性が高く自分達の利益にとってあまりにも危険すぎるという理由で、伐木運搬のような産業には全く寄りつかない。民間保険会社は、契約を定期的に再検討し、病気になった人々を契約から落とす。これは、平等と相互尊敬と両立する社会や自由社会を鼓舞するようなヴィジョンではない。

 それ以上に、競争は効率を悪くする。広告費用・競争に関連した管理費用・株主に対する配当などで価格が高騰するためである。例えば、1993年に、カナダの健康保険は諸経費支出の0.9%を当てていたが、米国ではメディケア(高齢者向け医療保険)に3.2%、民間保険会社に12%が当てられていた。カナダは1971年に公的資金援助システムを採用したが、このとき、カナダと米国は共にGDPの7%を少し越える程度を健康保険に当てていた。だが、1990年には、米国は12.3%まで上昇し、一方でカナダは9%だった。

 既にお分かりのように、アナキズム社会における社会化された健康保険システムの利点を論じる際、社会的アナキストは資本主義下で生じていることを指摘する。社会的アナキストは、競争は健康保険の提供に害を与える、と主張する。アルフィー=コーンは次のように述べている。

 病院と診療所が営利目的の企業によって運営されればされるほど、多くの機関が「消費者」をめぐる戦いを強いられ、熟練した介護士よりも熟練したマーケティング担当重役の方をはるかに高く評価するようだ。他の経済部門同様に、利潤競争はコスト削減への圧力へと形が変わる。ここでの最も簡単なコスト削減方法は、収益性の悪い患者、つまり、財産よりも病気の方を多く持っている人々へのサービス量を減らすことである。

 彼は次のように結論付けている。

 その結果、患者をめぐる競争が多い場所では、病院のコストは実際にはより高くなる。[Alfie Kohn, No Contest, p. 240]

 ロバート=カットナーは次のように記している。

 米国の健康保険システムは、不平等と非効率が絡み合っている。民間市場力が健康保険システムを合理化しようとすればするほど、このシステムは悪くなる。普遍的な健康保険システムへと移行することで、この難題は一気に解決されるだろう。健康の明らかに医療的な側面をもっと効果的にもっと公平に提供するだけでなく、貧困者の医療経費を社会化することで、社会全体が第一次予防を強調する強力な財政的動機付けを創り出すであろう。普遍的システムを使っている国は全て、GDPの内で健康保険に使われる割合が米国よりも少い。そして、普遍的システムを使っている国のほぼ二つに一つで、出生直後からの一生の長さが長い(成人期からの一生の長さはおおよそ同じぐらいだが)。普遍的システムを使っている大部分の国は、患者の満足度もより大きい。

 この理由は明らかだろう。本質的に、普遍的システムは無駄な経費に費やす金が少なく、第一次予防に多くの金を使っている。米国の健康保険諸経費だけでも、GDPの約1%を消費している。カナダでは0.1%だというのに。医療費の高騰は、あらゆる場所で問題となっているが、普遍的システムはコストインフレーション率がはるかに低い。1980年から1987年までの間で、米国の全医療コストはGDP成長率の2.4倍まで増加した。普遍的システムを使っている国では、はるかにゆっくりと増加していた。スウェーデン・フランス・西ドイツ・英国の数値はそれぞれ1.2%・1.6%・1.8%・1.7%だった。

 充分顕著なことだが、米国は保健医療に最も金をつぎ込んでいるにも関わらず、人口千人当たりのベッド数は最小であり、入院率も最も低く、利用率も最低である−−これは、日々のコストが最も高いこと・集中治療テクノロジーが最高のものであること・一ベッド毎の従業員数が最大であることと結び付いている。[Everything for Sale, pp. 155-6]

 1993年に、米国はGDPの13.4%を保健医療に支払っていた。一方、カナダは10%、スウェーデンとドイツは8.6%、英国は6.6%、日本は6.8%だった。1991年に関する限り、米国人口の40%だけが公的保健医療を保証され、3500万人以上(人口の14%)は健康保険を持っておらず、その約二倍の数の人々が、同じ年の一定期間、無保険だった。健康指標という点で、米国人は支払っただけの元を取っていない。平均寿命はカナダ・スウェーデン・ドイツ・日本・英国の方が高い。米国の乳児死亡率は最も高いレベルであり、基本的健康指標では最低レベルであり、同時に、1000人毎の医者の数はOECD平均よりも少ない。結局のところ、米国のシステムは他の国々の普遍的システムと大きく隔たっているのである。

 もちろん、米国はアナーキーではないのだから比較しても意味がない、と論じられるだろう。だが、競争的システムであればあるほど、民営化されたシステムであればあるほど、普遍的システムよりも効率が悪く、不公平になるのは奇妙ではないだろうか。同様に、競争を擁護する人々が、大喜びで、自分達の政策を示すために「現実に存在する」資本主義からの事例を挙げ、それに否定的な実例を「不純な」システムの産物だとして却下しているのもおかしな話だ。そうした人々は、一挙両得を狙っているのである。

 従って、大部分のアナキストは、社会化された普遍的保健医療システムを倫理的理由と効率性の理由から支持する。いうまでもなく、アナキズムの社会化した保健医療システムは、国家が提供する現行の普遍的保健医療システムとは多くの点で異なっているであろう。

 社会化された健康保険システムは下から上へ、地元コミューンを中心として構築されるだろう。社会的アナキズム社会では、『医療サービスはコミューンの全住民に無料で提供されることになろう。医者は、不幸な患者から最大の利益を引き出そうとする資本家のようには振る舞わないであろう。医者を雇用するのはコミューンであり、医療サービスを必要とする全ての人を処置することになるであろう。』それ以上に、『医療的処置は医療科学の治療的側面でしかない』のだから、『病人を処遇するだけでは不充分であり、病気を予防することも必要となる。これこそが衛生学の真の機能なのだ。』[James Guillaume, Bakunin on Anarchism, p. 371]

 アナキズムの保健サービスはどのように機能することになるのだろうか?もちろん、それは自主管理に基づき、地元コミューンならびにコミューン連合と密接に関係することになろう。個々の病院や保健センターは自律的であるが、他の病院やセンターとの連合関係を持つことになる。そのことで、必要な場合に資源を共有できるようにすると共に、保健サービスが地元のニーズと地元の要件にできる限り迅速に適合できるようになるのである。

 スペイン革命は、アナキズムの保健サービスがどのように運営されるかを示している。田舎の地方では、地元の医者が村落コレクティヴに参加していることが多く、他の労働者と同じように、自身のサービスを提供していた。地元の医者がいない場所では、『近くの土地の病院で村落メンバーが治療を受けることができるように、コレクティヴが手筈を調えた。コレクティヴ自身で病院を建設した事例もある。多くの場合、地元の医者が必要とする器具などはコレクティヴが確保していた。』例えば、アラゴン地方のモンソン地区コレクティヴ連合は、ビネファルに「カサ=デ=サルー=ドゥルティ」という病院を設立し、維持していた。1937年4月までに、この病院には、40のベッド、一般医療・予防法・婦人科といった科があった。この病院は一日およそ25人の外来患者を診察し、地域の32の村落にいる全ての人が利用できた。[Robert Alexander, The Anarchists in the Spanish Civil War, vol. 1, p. 331 and pp. 366-7]

 カタロニアでは保健医療の社会化は少しばかり異なる形を取っていたが、同じリバータリアン諸原則に基づいていた。ガストン=レヴァルは次のように非常に上手く要約している。

 保健サービスの社会化は革命最大の偉業の一つだった。同志たちの努力を賞賛するためには、7月19日以降の非常に短い期間で、カタロニア全土で保健サービスが再建されたことを覚えておかねばならない。革命は数多くの献身的な医師の協力に頼ることができた。こうした医師の大志は富を蓄積することではなく、苦しんでいる人々や恵まれない人々の役に立つことだった。

 保健労働者組合は1936年9月に設立された。一定産業に従事している様々な職務・職業・サービス全てを統合する傾向に従って、荷物運搬人から医者と行政官まであらゆる保健労働者が一つの大きな保健労働者組合へと組織された。

 我々の同志は新しい保健サービスの基礎を築いた。新しい医療サービスはカタロニア全土を包含した。このサービスは大きな装置を構成し、その部品は様々なニーズに応じて分配された。全ては全体的計画と一致していた。カタロニアは9つのゾーンに分けられた。そして、周辺の村落と町にはこうした中心地から医療が提供された。

 27の町々に総数36の保健センターがあり、これらがカタロニア全土に分配され、全ての村落・部落・山岳地帯の孤立した農民たち・全ての女性・全ての子供たちが、あらゆる場所で、適切な最新型の医療ケアを受けることができるほど徹底的にサービスを行っていた。9つのゾーンそれぞれに、中央シンジケートがあり、バルセロナには中央委員会があった。全ての医局は、それ自身の領域に関しては自律的だったが、この自律性は孤立と同義ではなかった。バルセロナの中央委員会は全ての部門から選ばれ、共通の問題を論議し、一般的計画を実施すべく、個々のセクションの代理人が週に一度会議を開いた。

 民衆は保健シンジケートの計画から即座に恩恵を受けた。シンジケートは全ての病院と診療所を管理していた。バルセロナには6つの病院が開院した。山岳と松林の中の理想的な場所にある豪邸を改造して、8つの新しい療養所が作られた。こうした豪邸を全て最新式の設備を整えた効率的な病院へと改築することは容易い仕事ではなかった。[Sam Dolgoff, The Anarchist Collectives, pp. 99-100 で引用]

民衆は医療サービスに対して支払をする必要はなくなった。それぞれのコレクティヴは、余裕があれば、保健センターへ寄付した。建物と設備は改善され、近代的装置が導入された。他の自主管理産業同様、保健サービスは、全てのレベルで、労働者の総会が運営し、労働者は代理人と病院経営者を選抜した。

 レヴァンテ地方では、CNTは、既存の「ソシエダー=デ=ソコロス=ムトゥオス=デ=レヴァンテ」(多くの医師と専門家を擁する一種の共済団体として組合が設立した保健サービス機関)を基礎としていた。革命の最中、「ムトゥア」には50人の医師がおり、全ての加盟労働者とその家族に医療サービスを提供していた。

 つまり、スペイン全土にわたり、保健サービス労働者は、地元のコレクティヴやコミューンとCNTの組合との協力で、自身の産業をリバータリアンの方向に再組織したのである。ガストン=レヴァルは次のように要約している。

 革命によって変換された町や小都市について研究できる場所全てで、病院・診療所・総合病院などの保健施設が自治体化され、拡充され、近代化され、集産集団の保護の下におかれた。保健施設が存在しない場所でも、保健サービスは改善された。医療の社会化は万人のための作業だった。[Robert Alexander, 前掲書, p. 677 で引用]

 同様のプロセスが将来のアナキズム社会に生じると期待できる。保健産業労働者は、自分の仕事場を組織し、資源と情報を共有するために連合し、計画を策定し、一般の人々に対するサービスの質を改善するだろう。コミューンとその連合、シンジケートとシンジケート連合は、資源を提供し、保健システムを事実上所有することで、万人が必ず利用できるようにするであろう。

 同様のシステムが他の公共サービスにおいても機能するであろう。例えば、教育においては、コミューンのメンバーがフリースクールのシステムを組織すると思われる。これは、スペイン革命にも見ることができる。事実、スペインのアナキストは革命以前に「近代学校」を組織し、様々な場所で50から100の学校が存在し、地元のアナキスト集団とCNT組合が資金提供していたのだった。革命中、スペイン全土で、シンジケート・コレクティヴ・コレクティヴ連合が学校を設立していた。事実、教育は『前例のないペースで進歩した。部分的にもしくは全面的に社会化したコレクティヴと自治体の大部分で、学校が少なくとも一つは設立された。例えば、1938年までに、レヴァンテ連合の個々のコレクティヴが、それぞれ独自の学校を持っていたのである。』[Gaston Leval, Sam Dolgoff, The Anarchist Collectives, p. 168 での引用] CNTのリバータリアン共産主義決議文を引用すれば、こうした学校の目的は、『自分自身の精神を持った男−−ここで「男」という言葉を総称的な意味で使っていることをハッキリさせておくが−−を形成する手助けをすることである。この目的のために、教師は、子供が自分の能力一つ一つを十全に発達させることができるように、子供の能力一つ一つを育まねばならない。』[Jose Peirats, The CNT in the Spanish Revolution, p. 70 で引用] リバータリアン教育の諸原則、学校で権威ではなく自由を促す諸原則は、莫大な規模で応用された(近代学校とリバータリアン教育についての詳細はセクション J.5.13を参照)。

 この教育革命は、コレクティヴや子供たちに限定されはしなかった。例えば、「フェデラシオン=リヒオナル=デ=カンペシノス=デ=レヴァンテ」は、その5つの地方全てに学術機関を設立した。最初の機関は1937年10月に古い修道院に設立され、100人の生徒がいた。フェデラシオンは同時にヴァレンシアとマドリーに二つの「大学」を設立し、多種多様な農業学科を教え、個々の大学に付属する実験農場での実践経験と机上学習とを組み合わせていた。アラゴン地方のコレクティヴはビネファルに同様の専門学校を作った。CNTはカタロニアの教育改革に勤しんでいた。さらに、バルセロナのCNTの地元連合は、軍隊に入隊した男性労働者の代わりとなるように女性労働者を訓練する学校を設立した。この学校はアナキスト−フェミニスト集団「ムヘレス=リブレス」が運営していた。[Robert Alexander, 前掲書, p. 406, p. 670 and pp. 665-8 and p. 670]

 究極的に、社会的アナキスト社会における公共サービスは、その社会のメンバーが何を望むかによって異なることになろう。例えば、一コミューンやコミューン連合がコミューン型保健医療システムを望めば、それを実行するように資源を割り当てるのである。こうしたシステムを創造するという課題は、例えば、関連シンジケート・専門家協会・消費者グループといった関係者からのボランティアに基づく特別委員会に割り当てられる。例えば、コミューンの教育委員会や教育作業部会は、教員組合・親の会・学生自治会などからの代理人を含むことになろう。こうしたシステムの運営は、他の産業同様、そこに働く人々を基盤とするであろう。医者は自分たちの仕事を管理し、看護士は自分たちの仕事を管理するといった具合に、機能的自主管理が標準となるであろう。一方、例えば、病院の全般的運営は、そこで働く全労働者の総会に基づき、この総会が、代理人と管理スタッフを選出し、指名し、病院が従うべき方針を決定するであろう。保健システムでは患者、教育システムでは生徒といった関係者も発言権を持つことは言うまでもない。

 つまり、予想されるように、公共サービスは、シンジケートとコミューンに組織された民衆が組織することになる。それは、日常の仕事の労働者自主管理・システム全体の労働者自主管理を基盤とすることになろう。このシステムを利用する非労働者(患者、学生)が無視されることはなく、サービスの品質管理を保証し、サービスが利用者ニーズに敏感になるよう保証するための重要なフィードバックを提供するという役割も果たすことになろう。このシステムを維持し、拡充するために必要な資源は、コミューン・シンジケート・その連合が提供するであろう。初めて、公共事業は真に公共のものになり、上から民衆に押し付けられる国家主義システムではなくなるのである。

 言うまでもなく、公共サービスシステムが、それを望まない人々に押し付けられることはない。このシステムは、コミューンのメンバーのために、コミューンのメンバーによって組織される。従って、地元コミューンやシンジケートの一部ではない人々は、コミューンの資源を利用するために代価を支払わねばならない。だが、アナキズム社会が、資本主義社会のような野蛮なものになる見込みは低い。病気で支払い能力のない患者を拒否したり、代金を支払うだけの充分なお金を持っていないという理由で救急患者を追い払ったりするようなことはないであろう。他の労働者がシンジケートやコミューンに参加する必要はないのと同じように、医師や教師などがコミューンシステムの外で、個人的な職人として、もしくは、協同組合の一部として自分の仕事を実践することはできる。だが、無料の医療サービスを利用できることを考えれば、そのようにして富を成すなど疑わしい。医療や教育などは、人に最初にその職業に従事したいと思わせたこと−−他者を助け、人々の生活にプラスの影響を及ぼしたいという願望−−に立ち戻るのである。

I.5.13 アナキズム社会は権力の亡者に対して脆弱にならないのだろうか?

 アナキズムに対するよくある反論の一つは、アナキズム社会は暴漢や権力欲のある人々に乗っ取られやすいだろう、というものである。指導部構造のないグループはカリスマ指導者に無防備となり、従って、アナーキーは暴政を導くのみである、という似たような主張もある。

 アナキストにとって、こうした主張は奇妙である。社会は既に暴漢や暴漢の子孫で運営されているのだ。王は元々成功した暴漢に過ぎなかった。一定の領土にその支配を押し付けることに成功しただけである。近代国家はこの支配を押し付けるために作られた構造から発展した。財産も同様である。大部分の合法的な土地所有権は遡ってみれば、暴漢が暴力的に奪取し、その子供たちに譲渡し、その子供たちがその土地を売り渡したり、子孫に譲渡したりしたものなのだ。現行の暴力的システムの起源は、国家と資本家が社会に対する自分達の支配力を強化し保護するために継続的に暴力を使用していることに見ることができる。いざとなると、支配階級はその暴漢的過去を大喜びで再発見し、自分達の特権を維持すべく極度の暴力を用いるであろう。1930年代に欧州の大部分がファシズムに転落したことや、1973年のチリにおけるピノチェトのクーデターは、支配階級がどれ程まで行くのかを示している。ピョトール=アルシーノフは(文脈は少し異なるが)次のように論じていた。

 国家主義者は自由人を恐れている。権威がなければ、民衆は社交性の頼みの綱を失い、放蕩し、野獣へと戻ってしまうだろう、と主張している。これは明らかにナンセンスだ。怠け者・権威の愛好者・他者の労働の愛好者やブルジョア社会の盲目的思想家ならばこれを真面目に受け取るだろう。現実には、民衆の解放が導くのは、権力と特権のおかげで、民衆の腕による労働と民衆の血管を流れる血から生計を立てることができている人々の退化と野獣への回帰であって、民衆の退化や野獣への回帰ではない。民衆の解放は、民衆を奴隷化することで生活している人々の野獣性を導くのである。[The History of the Makhnovist Movement, p. 85]

 アナキストは、アナーキーでは暴漢が権力奪取をすることを止めることができないだろう、という主張には何の感銘を受けない。この主張は、我々が現在、権力の亡者が既に権力を握っている社会に生きているのだという事実を無視している。アナキズム反対論として、この主張は誤っており、これは実際には資本主義・国家主義社会に対する反対論なのである。

 それ以上に、アナキズム社会にいる人々が自由を獲得するようになるのは、他者に対する権力を持っていたり、そうした権力を持つことを望んでいたりする既存のあらゆる暴漢志望者を転覆することによってであるという事実を無視している。自身の権力を再度押し付けようと思っている人々に対して、アナキズム社会の人々は自分達の自由を防衛するであろう。自分達を組織し、自分達自身の事柄を管理し、そのことで、あらゆるヒエラルキー権力を廃絶するであろう。それとも、我々は、こうした人々が、自由になるために闘争した後で、新しい暴漢どもが出しゃばってくるのを黙ってなすがままにしておくと信じなければならないのだろうか?クロポトキンは次のように論じていた。

 アナーキーの状態を確立できる唯一の方法は、抑圧されている個々人が、あらゆる権威を無視して、自分が自由であるかのように行動することである。現実的事実として、特定の個別的革命に永続性を確保するためには、領土の拡大が必要だ。革命について言えば、非常に多くの個人的・集団的叛乱が上手くいっている以上、以前のシステムを支持する敵対権力による阻止や報復を常に恐れずとも、革命化された領土にいる万人が完全に自由に行動できるようになることが示されているのである。こうした情況下では、いかなる可視的な報復も、影響を受ける個人・集団の側に立った同じ革命行為の続行に出くわすことは明らかであり、このやり方でアナーキーの状態を維持することは、これまで揺るぎなかった敵の現前で同じ方法でアナーキーの状態を獲得することよりもはるかに容易いことはハッキリしている。こうした人をボイコットし、労働を手伝ったり、自分が占有している物品を前向きに提供したりすることを拒否することで、人々は迅速にチェックを入れる力を持つ。人々は、その人に対して腕力に訴える力を持つ。人々はこうした力を集団的にだけでなく個人的にも持つ。過去の叛逆者たちが自由の精神に鼓舞されていたにせよ、あるいは自分の幼児性から自由を享受することに慣れていたにせよ、叛逆者たちが、自分達が間違っていると感じたことについて、受け身のままでいることなどない。[Kropotkin, Act for Yourselves, pp. 87-8]

 つまり、自由社会は、直接行動を使って支配者志望者に抵抗をするのである。丁度、既存の支配者から自由になるために直接行動を使うのと同じである。アナキズム社会は、連帯と相互扶助のネットワークに基づくと同時に、この直接行動を促すようなやり方で組織される。一人が傷つくことは万人が傷つくことであり、支配者志望者は、解放された社会全体が自分に逆らった行動をしていることに直面するであろう。住民の直接行動(非協力・ストライキ・デモ・占拠・暴動などで表現される)に直面し、権力の亡者は住民を威圧することは難しいと分かるだろう。既存社会の統治者支配権に慣れきった人々とは異なり、アナキズム社会は叛逆者の社会であり、従って、支配し征服することは難しいであろう。

 アナキストはこの点を証明するためにイタリア・スペイン・ドイツにおけるファシズムの勃興を例に挙げる。強力なアナキズム運動があった場所では、ファシストは最も強く抵抗された。ドイツではヒトラーがほとんどもしくは全く抵抗されずに権力を握った。イタリアとスペインでは、ファシストは権力を手に入れるまで長く厳しい戦いをしなければならなかった。アナキズム組織とアナルコサンジカリズム組織が、全力でファシストと戦い、共和主義者とマルクス主義者が裏切るまでは闘争に勝利した場合もあったのだった。この歴史的経験から、アナキストは次のように主張する。アナキズム社会は、民衆が直接行動と自主管理を実践することに慣れ、直接行動と自主管理の実践を止めたくないと望む限り、暴漢志望者を素早く簡単に打ち負かすであろう。

 自主管理が「カリスマ」指導者を生み出すことについては、その論理は驚くべきものである。あたかもヒエラルキー構造が指導部構造に基づいておらず、カリスマ指導者を必要としていないかのようではないか!こうした主張は−−近代社会とその指導部構造の性質を無視しているだけでなく−−本来的に自己矛盾である。指導者が支配した大衆集会よりも、ヒエラルキー構造の方が独裁者の自然繁殖地なのだ。これまで世界が目にした卓越した独裁者は皆、ヒエラルキー組織の中から台頭してきたのであって、リバータリアン構造の組織からではない。例えば、ヒトラーは、リバータリアン組織を通じて政権を手に入れたのではなかった。むしろ、彼は高度に中央集権化されヒエラルキー型に組織された政党を利用して、中央集権型ヒエラルキー国家を支配したのである。資本主義社会において民衆が権能を剥奪されることこそが、民衆のために活動する指導者を民衆が期待するようにさせる。だから、「カリスマ」指導者は自然な帰結なのである。アナキズム社会は、万人に権能を与えることで、指導者志望者が権力を握ることをもっと難しくするのであって、容易くするのではない−−全くいないとは言わないが、他者の利益のために大喜びで自分自身を犠牲にし、自分自身を否定する人などほとんどいまい。

 予想されるように、上記の見解を前提として、アナキズム社会は国家や私有財産を再導入しようという活動から自身を防衛しなければならない、とアナキストは考える。アナキズム社会の防衛という問題は次のセクションで論じるため、ここでは論じない。

 権力の亡者に関する論議は、明らかに、倫理的行動がアナキズム社会で報いられ得るのかどうかというもっと一般的な問題に関係している。つまり、アナキズム社会は安定するのだろうか、それとも、非倫理的な人に乗っ取られるのだろうか?

 富を獲得すべく突進することが生の唯一最重要の面になっている世界においては、生の最も歪んだ側面の一つが、倫理的指針に従って人生を生きている人々に生じる。

 資本主義の下で、倫理的な人々は、一般に、仲間を裏切る人々や、手抜きをし、悪賢い商法を行い、抗争相手を倒れるまで酷使し、損益に目を向けながら人生を送り、なおも生き残っている人々ほども成功することはない。企業や団体への忠誠など、一生懸命サービスを行い、助けを必要とする人々に手をさしのべ、金よりも友情に重きを置いていても、請求書が来たときには無駄なのだ。資本主義社会で倫理的に行動する人々は、自身の倫理的で道徳的で信念を持った行動のために罰せられ、不利益がもたらされるものだ。実際、資本主義市場は、一般にコストを削減する限り非倫理的行動に見返りを与え、従って、そのように行動する人々に競争力を与えるのである。

 自由社会では違う。アナキズムは提携と、権力と富への平等なアクセスという二つの原理に基づく。アナキズム社会にいる万人には、その人が何を行っていようと、その人がどのような人であろうと、その人がどのような仕事を行っていようと、社会の富を共有する権利が与えられる。地域社会が生き延びたり、繁栄したりするかどうかは、その地域にいる人々の協力があるかどうかにかかっている。倫理的行動はアナキズム地域社会では標準となる。倫理的に行動する人々は、自分がその地域で確立した立場によって、そして、他者が喜んで自分と共に働き自分を手助けしてくれるということによって報いられる。手抜きをしている人・他者に対して権力を行使しようとする人・平等者として協力することを拒む人・その他の非倫理的なやり方で行動する人は、アナキズム社会ではその立場を失ってしまう。隣近所の人々と職場の同僚は、そうした人々と協力することを拒み(もしくは、最小限の協力しかせず)、ある種の活動は不適切だということを示すために別種の非暴力直接行動を起こすであろう。非倫理的な人物とその問題について論議し、そのやり方の間違いを説得しようとするだろう。必需品が保証されている社会では、人々は倫理的に行動するものである。こうした地域社会の中で個人を目立たせ、立場を高めるのは、倫理的行動だからである。資本主義と倫理的行動は相互排他的な概念である。アナキズムは倫理的行動を勇気づけ、それに見返りを与えるのである。

 従って、既にお分かりだろうが、アナキストは、自由社会で暴漢志望者・「カリスマ」指導者・非倫理的な人を恐れる必要はない、と主張する。アナキズム社会は、自由な個々人の協力に基づいており、自由人がこうした行動を容認するとは思えない。彼らは直接行動と社会的・経済的組織を使って、そうした行動と戦うであろう。それ以上に、自由協力の性質が倫理的行動に見返りを与えるようになるだろう。倫理的行動を実践する人々は、自分の仲間によってその行動に見返りを与えられるからである。

 最後にもう一点。アナキズムとは、力を持つ人に他者を抑圧し支配しないように訴えることだ、と考えている人々がいるようだ。全く違う。アナキズムは、抑圧された人々と搾取された人々が、他者に支配されることを拒否することなのである。ボスやボス志望者の「善良な面」に訴えることではない。ボスの支配下にいる人々がボスを排除するために連帯し、直接行動を行うことなのである−−ボスがそれに同意するかしないかは関係ないのだ!一旦、このことをハッキリ理解すれば、アナキズム社会が権力の亡者に対して脆弱だという考えは明らかにナンセンスなのである−−アナーキーは権力に抵抗することに基づいており、従って、本質的に、ヒエラルキー社会よりも支配者志望者に対して抵抗力を持っているのである。

I.5.14 アナキズム社会はどのようにして自衛するのだろうか?

 アナキストは、アナキズム社会は、資本主義と国家を再び強制しようとする内外からの攻撃から自己防衛しなければならなくなるだろう、ということを充分認識している。実際、全ての革命的アナキストは、革命は自衛しなければならないと論じてきた。

 不幸にして、マルクス主義者は、この主題についてアナキズム思想を常に誤解している。例えば、レーニンは次のように論じていた。『プロレタリア階級は、一時的にだが国家を必要とする。我々は、目標としては、国家の廃絶という問題についてアナキストに何ら異議を唱えるものではない。我々が主張しているのは、この目標を達成するためには、搾取者に対して国家権力の道具・資源・方法を一時的に用いなければならない、ということである。丁度、階級廃絶のためには、抑圧された階級の独裁が一時的に必要なのと同じである。マルクスは、アナキストに反対する自分の立場述べる上で非常に鋭くハッキリしたやり方を選んでいる:資本家の拘束を転覆した後、労働者は「自身の武器を捨てる」べきなのだろうか、それとも、自身の抵抗を破壊しようとする資本家に対して武器を使用するべきなのだろうか?だが、他の階級に対して一つの階級が武器を組織だって使用することが「過渡的な」国家でないとすれば、何だというのだろうか?』["The State and Revolution", Essential Works of Lenin, p. 316]

 幸運なことに、マレイ=ブクチンが指摘しているように、アナキストは『アナキズムが一夜にして確立できるなどと信じるほど素朴ではない。この考えをバクーニンのせいにするために、マルクスとエンゲルスは、このロシア人アナキストの見解を故意に歪めたのだ。アナキストは、国家の廃絶が革命の直後に「武器を捨てる」ことを含んでいるなどとは信じていなかった。』[Post-Scarcity Anarchism, p. 213] アナキズム思想家の著作に最小限だけでも親しんでみれば、読者はブクチンが正しいことが分かるだろう。これから見ていくように、アナキストは、一貫して次のように主張してきた。革命とアナキズム社会は、ヒエラルキー・支配・抑圧・搾取を再導入しようとする人々に対して防衛しなければならない(レーニン主義者と同じように「社会主義者」と自称しさえしているのである)。マラテスタは1891年に次のように主張していた。

 アナキストは自身の諸原則の名において、他者の自由と生を侵害し破壊する奇妙な自由が尊重されているのを見たいと願っている、と多くの人々は考えている。多くの人々は、支配者と財産所有者にならねばならないと感じている人々の自由を尊重するがために、政府と私有財産を打倒した後に、この二つが音もなく再構築されるのを許しておく、と信じているかのようだ。全く奇妙なやり方で我々の思想を解釈しているのだ![Anarchy, p. 41]

 アナキストは、革命を防衛すること、また、革命行為そのものさえもが、「国家」を意味しているとか「国家」を必要とするとかいったような考えを拒否している。マラテスタが論じているように、国家は、『権力の移譲、少数の手へ万人の発意と主権を放棄することを意味している。』[前掲書, p. 40] ルイジ=ファブリはこのことを強調し、次のように論じていた。『国家の本質は中央集権型権力、別な言い方で言えば、強制的権威である。「政府」として知られるこの暴力組織の中で、国家はこの権威を独占する。ヒエラルキー型独裁制の中で、司法・警察・軍の独裁が、万人に法律を押し付けるのである。』["Anarchy and 'Scientific' Communism", The Poverty of Statism, pp. 13-49, Albert Meltzer (ed.), pp. 24-5 において引用] 国家は権力の移譲であり、社会の頂点にいる少数の手への権威の中央集権化である。収用された支配階級に対して革命を防衛する手段などではない。つまり、革命の防衛と国家とを混同することは、いわゆる社会主義社会に権力の不平等を導入するという大きな誤りなのである。ヴォーリンの言葉を引用しよう。

 あらゆる政治権力は、必然的に、それを行使する人々に対して特権的情況を創り出す。これは最初から平等主義原則を侵害しており、社会革命の核心を攻撃し、他の特権を創り出す源泉となる。権力は、否応なしに、官僚主義的強制装置を創り出さざるを得ない。この装置は、あらゆる権威に不可欠である。つまり、権力は、最初は政治的に、後には経済的に、新しい特権的カーストを創り出すのだ。あらゆる場所に不平等の種を蒔き、すぐに、社会有機体全体に伝染する。権力は大衆が受動的になる可能性を高める。権力が存在するというまさにそのことのために、権力が行使される範囲の中で、全ての魂と発意は窒息してしまう。[The Unknown Revolution, p. 249]

 予想できるだろうが、アナキストは、革命は、革命自身を組織するのと同じやり方で−−下から上へ、自主管理型のやり方で−−自衛すべきだと考えている。アナキズム社会や革命を防衛する手段は、革命が創り出した自主管理諸機関に基づく。バクーニンの言葉を引用しよう。

 全労働者協会の連合的同盟がコミューンを構成する。コミューンは、常設バリケード連合と革命的コミューン評議会の創設によって組織化される。評議会を構成するのはそれぞれのバリケードから派遣される一人ないし二人の代理人であり、この代理人は正式な任務を与えられるが、説明責任を持ち、解任可能である。革命的方向で再組織化されたあらゆる地方・コミューン・協会は、同様の命令を与えられたその代表者を合意した会議場所に送り、叛乱同盟・コミューン・地方の連合を構成する。これが革命軍を組織し、反動を打倒することができるであろう。叛乱地域間で自衛の目的で革命の拡充と組織をするというまさにその事実こそが、革命の勝利をもたらすだろう。

 あらゆる場所で革命は民衆が創り出さねばならない以上、究極の管理は常に民衆に属していなければならない。民衆は様々な農業協会と工業協会からなる自由連合に団結し、こうした自由連合は、革命代表団によって下から上へと組織される。[Michael Bakunin: Selected Writings, pp. 170-2]

 つまり、革命には二重の枠組みがある。一方では、自主管理型集会に基づく労働者管理連合がある。それぞれの集会は、任務を命じられ説明責任を持つ代理人を任命する。他方、バリケードの連合がある。これもまた、自主管理型で任務を命じられた代理人に基づき、現実に、反動に対して革命を実際に防衛する。革命の成功は革命を広げ、共同の自衛を組織できるかどうかにかかっている。バクーニンは、二年後の1870年に防衛を調整することの重要性を強調していた。

 (革命が)パリで始まったと仮定しよう。労働者が労働者協会に参加し、労働の道具全てを、あらゆる資本と建物を一掃した後で、パリは当然、できる限り素早く革命的なやり方でパリ自身を組織しようとするだろう。武装し、街路とquartiers毎に組織することで、労働者はquartiers全ての革命連合を、連合コミューンを形成するだろう。そして、フランスと諸外国の革命コミューン全てが代表者を送り、必要な共益サービスを組織し、革命の敵に対する共同防衛を組織するだろう。これには、革命の武器であるプロパガンダ、そして、万国にいる敵に対する万国の友人たちとの実際的な革命的連帯を伴うのである。[前掲書, p. 178-9]

 既に分かるだろうが、革命は労働者協会の自由連合によって国家を廃絶するだけでなく、資本と賃労働を収用する。つまり、『政治的革命が社会革命へと変換されるのだ。』[前掲書, p. 171] 付け加えねばならないが、これは、マルクス主義者の神話を破壊する。エンゲルスを例に取れば、マルクス主義者は、アナキストが次のように考えていると述べている。『国家は第一の悪である。何よりも廃絶されねばならないのは国家であり、そうすれば、資本主義は地獄へ堕ちるだろう。』言い換えれば、『社会革命』よりも前に『国家の廃絶』が来るというのだ。[Marx and Engels, The Marx-Engels Reader p. 728] もうハッキリと分かるだろうが、アナキストは、社会革命は、資本主義の廃絶と共に国家の廃絶と同時になされねばならない、と考えているのである。

 従って、バクーニンは、国家を破壊し、資本主義を廃絶した後に革命を防衛する必要があることに充分気がついていたのだった。暴動の成功後、革命的民衆は「武器を捨てる」のではなく、むしろ、革命を破壊しようとする反動的領域に対する防衛を調整すべく連合の中で自己組織するのである。

 バクーニンだけがこの分析をしているのではない。例えば、マラテスタは次のように論じていた。革命中、我々は『全民衆を武装』させねばならない。革命は、『民衆を武装させることで、反動が武装して復興しようとする企てに抵抗できるようになる。』この革命には『志願民兵の創設』が含まれる。民兵は『地域社会の生活に民兵として介入する権限を持たず、反動勢力が復興しようとして行う武装攻撃に対応したり、未だに革命状態にない国による外部介入に抵抗するためだけのものである。』バクーニン同様、マラテスタも労働者協会の自由連合を通じた調整活動の重要性を強調している。『革命の発展は、あらゆる種類の委員会・地元会議・コミュニティ間会議・地方会議・全国会議によって、有志が行う課題となろう。こうした会議は社会活動の調整に励むであろう。』『生産者と消費者の自由な協会と自由連合という手段による社会生活組織は、そのメンバーの願望に応じて創り出され、修正され』、従って、『民衆の直接管理下に』置かれるのである。ここでもまた、バクーニン同様、革命は国家と資本を廃絶するであろう。『労働者は工場の所有物を乗っ取り、自分達自身で連合しなければならない。農民は地主が横領していた土地と産物を奪取しなければならない。』究極的に、『革命を防衛するための最も強力な手段は、ブルジョア階級がその権力の拠り所としている経済手段を剥ぎ取ること・万人を武装させること(無駄で危険な玩具だからと武器を放棄するように万人を上手く納得させるような時まで)・革命の勝利に多くの人々を引き込むことに常に存しているのである。』[Life and Ideas, p. 170, p. 165, p. 166, pp. 165-6, p. 184, p. 175, p. 165, p. 173]

 マラテスタは、革命を防衛するために政府は必要ではない、と強調している。

 だが、もちろん、未だ解放されざる国々の政府は、自由人を再び奴隷状態に陥れたいと思っており、そのように陥れようと企てることができる、ということは認めねばなるまい。自由人は、自衛のために政府を必要とするだろうか?戦争を仕掛けるためには、必要な地理的・機械的知識を全て持っている人々が必要であり、結局、喜んで戦いに行く数多くの人々を必要とする。政府は、前者の能力を高めることも、後者の意志と勇気を鼓舞することもできない。歴史の経験から、自分の国を守りたいと本当に思う人々は無敵だということが分かる。イタリアでは、有志の軍団(アナキスト部隊)の前に皇帝は倒れ、徴兵や傭兵で構成された常備軍は消え失せてしまったことを誰もが知っているのだ。[Anarchy, pp. 40-1]

 スペインのアナキストであるD=A=サンティリャンは次のように論じていた。『緊急事態や反革命の危険がある場合』に、『地元経済評議会は防衛の使命を引き受け、警備のための(必要ならば、戦闘のための)志願兵部隊を集めるだろう。』こうした地元評議会は、仕事場評議会の連合であり、地元評議会同様に『代理人や様々な集会を通じて構成される』地方経済評議会のメンバーから成るだろう。[After the Revolution, p. 80, pp. 82-83] ここでも、革命の防衛は労働者評議会の連合に基づき、従って、革命的人民の直接管理下に置かれることになることが分かる。

 最後になるが、スペインCNTの1936年のリバータリアン共産主義決議に目を向けてみよう。この文書にある「革命の防衛」と題されたセクションには次のように書かれている。

 我々は、革命を通じてなされた進歩を防衛する必要性を認める。従って、国外の資本主義の侵略の危機に対してであろうと、国内の反革命に対してであろうと、新体制を防衛するための必要な措置を講じる。革命の最大の危険は、常備軍であることを覚えておかねばならない。常備軍の影響は、革命を必ずや殲滅してしまう独裁を導きかねないからだ。

 武装した民衆こそが、内外から破壊した体制を回復しようというあらゆる活動に対する最大の保険である。

 個々のコミューンに武器と防衛手段を持たせよう。民衆は敵に対して迅速に立ち上がるよう動員されるだろう。防衛の使命が達成されるとすぐに、仕事場へと復帰するであろう。

 1、資本主義の武装解除とは、コミューンへの武器の引き渡しを意味する。コミューンは、防衛手段が効果的に全国規模で確実に組織されるようにする責任を持つ。

 2、国際的文脈で、我々は、万国のプロレタリア階級に集中的プロパガンダ活動を開始しなければならない。そのことで、万国のプロレタリア階級が、各々の政府の侵略計画のに反対した共感的行動を呼びかける精力的な抗議行動を行うことができるようにするのである。同時に、我々イベリア半島リバータリアン自治コミューン連合は、世界中で搾取されている全ての人々に対して物質的・道義的支援を行うであろう。そのことで、こうした人々は、資本主義と国家の巨大統制から永遠に自身を解放できるようになるであろう。[Jose Peirats, The CNT in the Spanish Revolution, vol. 1, p. 110 で引用]

 アナキズム社会は非国家主義的やり方で自衛する。防衛はリバータリアンのやり方で組織される。自由コミューンと労働者評議会の連合に基づき、自主管理労働者の民兵を組み込む。これは、まさしく、1936年にフランコのファシストに抵抗しようとしてCNT-FAIが行ったことだったのだ。革命時にCNTが実際に形成した民兵隊は、内部的に自治しており、ヒエラルキー型ではなかった。それぞれの民兵部隊は、選挙で選ばれた代理人から構成される独自の「戦時委員会」によって運営されていた。この委員会は、次に、特定戦線における行動を調整すべく代理人を送ることになっていた。同様に、ロシア革命中のマフノ主義者も、民主的やり方で組織され、地元労働者評議会とその大会の決定に従っていたのだった。

 アナキズム理論と実践が示しているように、革命の防衛には、ボルシェヴィキ赤軍のようなヒエラルキーシステムを含む必要はない。ボルシェヴィキ赤軍では、将校の選挙・労働者評議会・自治集会をトロツキーが廃止し、上層部から将校を指名することにした。(「赤軍の方針 The Path of the Red Army」というトロツキーの論文を参照してほしい。この中で、彼は、兵士の『革命的自治の機関』である「兵士代理人のソヴィエト」を、兵士自身による指揮官『選挙システム』と共に廃止し、赤軍が指揮官の指名を『上から行う』方が望ましい、と率直に認めている。)

 既にお分かりだろうが、アナキズム社会を防衛する唯一の武装勢力は、自由コミューンと労働者協会の連合が組織する自主管理型志願民兵隊となろう。コミューン連合が民兵を一元管理し、調整する一方で、それぞれの民兵ユニットからの代理人が実際の戦闘を調整する。平時には、民兵メンバーは一般の人々の中で生活し、労働するため、民兵は仲間の労働者と同じ見解と関心事を持つようになるのである。

 トップダウンの命令とヒエラルキー権力に基づく新しい国家を組織する代わりに、アナキストは、革命的民衆は自身の民兵を構築し、調整することができ、自身の組織(労働組合・生産現場と地域社会から選ばれた代理人からなる評議会など)を通じて直接的に民主的に革命の防衛を管理することができる、と主張する。機会があれば、アナキストはこのことを行ってきており、目覚ましい成功を収めてきた。従って、アナキズム社会は、ヒエラルキーとボス(古いものであろうと、新しいものであろうと)を再び押し付けようという企図に対して防衛することができるのだ。

 この問題に関するさらなる論議は、セクションJ.7.6(J.7.6 アナキスト革命はどのようにして防衛されるのか?)を参照。

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