アナキズムFAQ


J.6 アナキストが主唱する子育ての方法は何か?

アナキストは、子育てと教育の重要性を長いこと意識していた。例えば、我々は、子育ては、『多彩なる個性』を発達させることを目的としているべきであって、『忍耐強い労働奴隷・専門的オートメーション・納税する市民・立派な道徳家』を作り出すことではない(エマ=ゴールドマン著、赤のエマ語る、108ページ)。FAQのこのセクションで、我々は、子育てに対するアナキスト的アプローチについて次のことを心に止めながら論議する。『成人発達は子供の方向性を通じて進まねばならない。(中略)教育や訓練(中略)に関する現在の考えは、子供の自然な成長を窒息させているようなものだ。』(前掲書、107ページ)

権威主義的家族が個々人の心理的問題と政治的反動双方の温床だ、ということを受け入れるなら、当然、アナキストは心理的に不具になるのではなく、逆に、自然な自己統制を発達させる一方で自由と責任を受け入れることの出来るような子供を育てる方法を発達させようとしなければなるまい。我々は、このように育てられた子供達を自由な子供達と今後呼ぶことにする。

この分野における著作は、いまだにその幼年期(別に語呂合わせをしているわけではないが)にある。ヴィルヘルム=ライヒは、ここでもこの分野におけるパイオニアだ(彼の考えの簡潔で素晴らしい紹介は、モーリス=ブリントンの政治における不合理に見ることが出来る)。未来の子供達の中で、ライヒは、リバータリアン的子育て法を模索している両親・心理学者・教育者に対して、自分の研究と臨床経験に基づいて数多くの示唆をしている(彼は、「リバータリアン」という言葉を使わなかったが、彼の方法は正にそうなのだ)。

したがって、このセクションと以下のセクションにおいて、我々は、ライヒに影響されたリバータリアン心理学者と教育者、例えば、A=S=ネイルとアレキサンダー=ロゥエンのものと共に、ライヒの主要な考えをまとめることになるだろう。セクションJ.6.1は、自由な子供達を育てるときの理論的原理を検証し、その後のセクションでは具体的な例を使って実際の適用例を示す。最後に、セクションJ.6.8で、我々は、青年期の諸問題に対するアナキスト的アプローチを検証する。

子育てに対するこうしたアプローチは、以下の洞察に基づいているものである。子供達は、『誰の所有物でもない。彼らは両親の所有物でもなければ、社会の所有物ですらない。彼らは、自分自身の将来の自由に属しているだけなのだ。』(ミハイル=バクーニン著、バクーニンの政治哲学、327ページ)。つまり、成長しているときに子供に何が起こっているのかが、その子供がなる人間と子供達が住んでいる社会を形成しているのだ。自由に関心を持っている人々にとって鍵となる疑問は、『子供は、個人として見なされるべきなのだろうか、それとも、子供に関して人々が持っている気まぐれと空想にそって形作られるモノとして見なされるべきなのだろうか?』(エマ=ゴールドマン著、前掲書、107ページ)である。リバータリアン子育ては、子供の個性を尊重し、発達させる手段なのである。

これは、標準的な資本主義者(個人主義的アナキストもそうだと述べておかねばなるまい)が、子供はその両親の所有物だと主張していることとははっきりと異なっている。我々が子供はその両親の所有物であると認めるということは、暗黙の内に、子供は発達期の数年間を奴隷として過ごす、と述べていることだ。これは、子供やもっと大きな社会の個性と自由を促している関係などではない。大部分のアナキストはこうした主張に驚きはしない。その代わり、次のように論じるのである。『両親の権利は、その子供を愛し、子供のことで悩むことに制限されるであろう。(中略)これは、子供の道徳・精神発達・将来の自由に反することのない権威である。』(バクーニン著、前掲書、327ページ)。誰かの所有物(すなわち奴隷)になることは、これらすべてのことに反しているのであり、『だからこそ、社会、すなわち適切な教育と子供の養育(中略)に依存している全未来は、子供を見守る権利を持っているだけでなく、義務を持っているのである』(前掲書、327ページ)

つまり、子育ては、社会の一部なのである。それは、子供が、他者によって個人だと尊重されることによって一個人になるということが何を意味しているのかを学ぶ共同体的プロセスなのだ。バクーニンの言葉を借りれば、『真の自由−−すなわち、自分の尊厳の感情と、他者の自由と尊厳を誠実に尊重すること、つまり正義に優位的に基づいた、全ての個人における十全な自覚とその結果としての実現−−このような自由は、子供の精神・性格・意志の理性的発達を通じてのみ発展できるのだ。』(前掲書、327ページ)

膨大な研究この分野でなされ続けているということをまず最初に指摘しておこう。だから、子育てと教育を研究している人々によってなされる更なる批判と研究があるであろうから、我々のコメントは単に暫定的なものであると見なしてほしい。自由な子供達を育てるための「ルールブック」などありもしないし、ありえないであろう。何故なら、堅苦しいルールブックに従うことは、それぞれの子供とその環境が唯一無二のものであり、従って、その両親からの唯一無二の反応を要求しているという事実を無視しているからだ。そこで、我々がこれから述べるリバータリアン子育ての「原理」を、ルールとして考えてはならない。むしろ、実験的仮説と見なされ、両親が自分の状況の中で、自分の知性を適用し、自身の個別的な結論を導くことで検証されねばならないのである。

子供を育てることは、教育のようなもので、同様の原則、つまり『子供の内的諸力と諸傾向の自由な成長と発達に』に基づいていなければならない。『このような方法でのみ、我々は自由な個人と、最終的には自由な地域社会をも期待できるのである。こうした地域社会は人間的成長の妨害と強制を不可能にするであろう。』(ゴールドマン著、前掲書、115ページ)実際、子育てと教育は、人生それ自体が教育であるように、分かつことのできないものであり、だからこそ、同じ原則を共有し、『子供の本能を抑制し服従と規律を叩き込むプロセスではなく、発達と探求』のプロセスと見なさねばならないのである(マーサ=アッケルスバーグ著、スペインの自由な女性、132ページ)。

さらに、親の例証の役割は、自由な子供達を育てるために非常に重要である。子供達は、その両親を真似して学習するものだ−−親が言っていることではなく、行っていることを子供達は行うものなのだ。母親と父親がお互いに嘘をつき合っていたり、叫んだり、喧嘩をしたりなどしていれば、その子供が同じことを行う見こみは高くなるだろう。子供の行動は、無から生じるのではない。それは、子供が育てられた環境の産物なのである(部分的には、少なくとも当初は、両親を模倣することで)。子供は、例証によってのみ励まされるものであって、脅しや命令によってではない。両親がどのように行動するかが自由な子供の発達の障害物となりえるのである。従って、両親は、正しいことを単に言う以上に、自由な子供達を生み出すためにはアナキストとして行動しなければならないということに気付かねばならないのだ。

大部分の現代人が自由な子供達を育てる能力を失ってしまったということは悲しむべき事実である。この能力を回復することは、試行錯誤と親教育という長いプロセスになるだろう。そこでは、各々の後継世代が前の世代の失敗と成功から学習し、そのようにして改善されて行くのである。最良のシナリオとしては、数世代にわたって、数多くの進歩的な両親がそれ以前よりも自由な子供立ちを育てつづけ、この子供達が次にはもっと進歩的な両親になり、その結果、次第に大衆の心理をリバータリアンの方向に変えていくであろう。世界中の様々なコミューンで見られるように、こうした変化を非常に早く生じさせることはできる。特に、イスラエル−パレスチナのキブツでは、社会がリバータリアン原理にそって組織されており、子供達はその集産集団的家庭で主として育つのである。ライヒは以下のように指摘している:

我々は、未来の子供達の領域に一気にジャンプするのではなく、一貫した進歩だけを期待できるということを学んできた。そこでは、新しいものがゆっくりと古いものを脱しながら、健康な新しい構造が病的な古い構造にオーバーラップして行くのである。(未来の子供達、38ページ〜39ページ)

アナキストは、既存社会秩序に対する抵抗を奨励し、意識的子育ての様々な方法と共に自由に基づいた子育てと教育を使って、権威主義的制度と価値観からリバータリアン的なものへの社会的パラダイムシフトを行う心理的基盤を準備することを望んでいる。例えば、A=S=ネイルがサマーヒルの中で書いているように、『性やその他のことで、自由へのゆっくりとした傾向が見られる。私が子供の頃は、女性は海水浴のときにストッキングとロングドレスを着ていたものだ。今日、女性は素足も体も見せている。子供達は世代毎により多くの自由を獲得している。今日、指しゃぶりを止めさせようとして赤ちゃんの親指に唐辛子を付けておくなどキチガイぐらいしかやらないものだ。今日では、学校で子供を叩くことはほんの一握りの国で許されているだけなのだ。』(115ページ)

大部分のアナキストは、慈善事業が家庭で始まるのと同様に、アナキスト革命も家庭で始まると信じている。資本主義社会内で自分の子供を育てたり、他人の子供を育てたり教育したりすることに参画したりしているアナキストがいるように、アナキストは、革命前であっても、部分的に、リバータリアン原理を実践できるのである。だから、我々は、リバータリアン子育てを詳しく議論することは重要だと考えているのである。

J.6.1 自由な子供達を育てる主要原理とその原理を実行するときの主要な障害物は何か?

まず、障害物について考えてみよう。ライヒが指摘しているように、その最大のものは、大部分の両親・医者・教育者の訓練と性格である。ライヒは、自分の臨床経験に基づいて、我々の社会にいる実質的に全ての成人は、何らかの心理的問題を抱えており、それは硬い筋肉のとして肉体的に現れている、と主張していた。つまり、様々な身体部位における筋肉の慢性的緊張と痙攣である。この鎧の主要機能の一つは、鎧のない体を自然に流れている、もしくは氾濫している生体エネルギーの持つ快楽の感覚を抑制することである。ライヒは、体には一つの基本的な生体エネルギー(オルゴン)があると仮定していた。それは、フロイトがリビドーと呼んだものと同じものであり、身体組織と器官を動かしているだけでなく、性と情動のエネルギーでもあるというのだった。(大部分のアナキストは、ライヒの「オルゴン」という考えに賛同してはいない、ということを記しておかねばなるまい−−言っておくが、これは証明されたことのない存在なのだ。だが、ヒエラルキー社会の中で個々人が自己の周りに心理的壁・防衛を作りだしているという意味での性格的鎧という考えは、大部分のアナキストが受け入れているものである。こうした壁が、個人の精神的・身体的状態双方と、自由な人生を歩み、快楽を経験する能力に影響していることは明らかである。)つまり、筋肉の鎧が緩めば感じることの出来るこの生体エネルギーの快い「流れ」は、エロティックな、もしくは「淫らな」性質を持っているわけだ。鎧のない有機体(新生児のような)は、呼吸する毎に、快楽を、体の中にある自然な生体エネルギー作用という感覚から導き出されている快楽を、経験しているのである。世界の中でのこうした存在様式は、人生を本質的に生きる価値のあるものにし、人生の「意味」とか「目的」に関するあらゆる疑問を表面的なものにしてしまう−−こういった疑問は、鎧を付けた人々にのみ生じるものであり、そのような人々は自分の生体エネルギーの中核である身体感覚との接触を失っており(もしくは、それが歪んでしまっており、その結果、快楽の源泉から苦痛の源泉へと変化してしまい)、だからこそ、人生を十全に享受する能力が限られてしまっているのだ。

子育てと教育に関わっている人々が、新生児にどのようにして鎧が発達するのかを理解することは重要である。ライヒは、脅迫的で快楽を否定した道徳の影響下で、子供は体内の生体エネルギーの自発的氾濫を抑制するように教えこまれる、と指摘している。同様に、子供達は大部分の身体感覚を無視するように教えこまれる。家父長制度的家族におけるエディプス的葛藤(後述する)のため、両親は子供の生体エネルギーの性的表現形に対して極度に抑圧的で懲戒的な見なし方をするものだ。したがって、エロティックな色合いを持った「氾濫」の感覚を含めた全ての性的感情は、「悪い」とか「動物的だ」などと見なされるようになっている。両親の知覚は不安を喚起し始め、悪しき産物の中でも、慢性的な筋肉緊張をもたらす。これが、そうした知覚と付随する不安を遮断したり、それに対して防衛したりする方法なのである。例えば、浅い呼吸をすれば、興奮したときや感情をあらわにしたときのために利用できる生体エネルギーの量を減少させる、とか、骨盤床(pelvic floor)と腹部の筋肉を硬くすれば、性的感情を減じるなどといったものである。これらの緊張が慢性的で無意識的になるに従い、筋肉的鎧の層を次から次へと積み重ねることになり、最終的に内的空虚感や「無感覚」の感情が取り残され、驚くまでもなく、人生を楽しめなくなってしまうのである。

これらの感情と感覚を抑圧するために身の回りに強固な身体的・心理的鎧を構築できなかった人々は、こうした感情をねじ曲げ、集中的で不快な感情と感覚に幾度も襲われる。

筋肉の鎧は、背中の痛みと様々な呼吸障害にその最も奥深い効果を持っている。ライヒは、この社会にいる「普通の」男女は、胸部と腹部双方を含んだ、十全で深い自然な呼吸を自発的にできない、と見出した。逆に、大部分の人々(意識的努力を行っているとき以外)は、様々な筋肉の無意識的緊張によってその呼吸が制限されているという。呼吸能力の制限に対する自然な反応は不安である。したがって、我々のように抑圧的な文化で育っている人々は、慢性的不安傾向に悩まされているのだ。この不安に対する防衛として、人々は筋肉的鎧の層をさらに発達させる。そして、さらに、この背徳の循環の中で呼吸能力などが制限される。換言すれば、マックス=シュチルナーが述べていたように、罰・脅迫・恐怖に基づき生を無視した雰囲気を持った権威的社会では、『息を出来ない』ということは、文字通り真実なのだ。

もちろん、性だけが両親が子供に対して窒息させようとしている生体エネルギーの表現ではない。例えば、子供の自然な言語表出(大声を出したり、叫んだり、怒鳴ったり、泣いたり)や自然な身体運動もそうだ。ライヒは以下のように述べている:

『幼少の子供達は、声帯筋の活発な活動が特徴となっている発達時期を経験する。幼児が大きなノイズ(泣き声、金切り声、など様々な音を出すこと)から導き出している楽しみは、多くの親からは病的な攻撃性と見なされている。したがって、子供は叫ばないように、「静かにして」いるように注意される。発生器官の衝動が抑制され、その筋肉組織が慢性的に収縮され、子供は静かに、「良くしつけられ」、引きこもるのだ。こうした虐待の効果は、節食障害・全般的無気力・顔面蒼白などにすぐに現われる。発声障害と発話発達の遅れは、このようにして引き起こされると考えられる。大人の場合、こうした虐待の効果は喉の痙攣という形で現われることが分かる。特に特徴的なことは、声門と喉の奥の筋肉組織が自動的に抑制されると、その後に、頭部と頚部の攻撃衝動が抑止されることだと思われる。』(前掲書、128ページ)

(全ての子供が持っている動く衝動を抑制することは、動く衝動を抑制しにくい「多動の」子供達の15%ほどにとっては最も破滅的なものである、ということを付け加えておかねばなるまい。)

『臨床経験が教えてくれることは、』と、ライヒは結論付けている。『快楽によって刺激されている場合には、幼少の子供達が「自身を叫ぶ」ことが出来るようにしなければならない。このことに賛同しない親もいることだろうが、教育の問題は、大人の関心事ではなく、専ら子供の関心事で決められなければならないのである。』(前掲書)

体内にある生体エネルギーの快楽氾濫を滅してしまう一方で、筋肉の鎧は、心の中の反社会的で、残酷で、よこしまな衝動(ライヒが「二次的」動因と呼んだ衝動)−−例えば、破滅的行為・サディズム・貪欲・権力渇望・残虐行為・レイプ妄想など−−の存在によって生み出された不安を抑制する機能も持っている。皮肉なことに、これらの二次的動因は、第一動因の抑圧(例えば、セックス・身体活動・発話表現などの抑圧)と、その抑圧に関連した快楽の感覚から生じる。二次的動因が発達するのは、筋肉の鎧を装着し、自分の生体エネルギーの中核と情動的衝動とのコンタクトをと失ったときに、鎧の厚く硬い壁を通じて得ることの出来る唯一の感情表現が、歪んでいたり、粗雑だったり、機械的だったりするからなのである。例えば、厚く鎧を付けた人が愛情を表現しようとしているときには、感情が鎧の壁によってずたずたになり、愛している人を傷つけるような衝動(サディズム)として歪んだ形で現われるのである。これは、不安を引き起こすがために抑圧されねばならない衝動なのである。言いかえれば、脅迫性そのものが生み出した二次的動因を制御するために、脅迫的道徳性(すなわち、外的に押し付けられた規則にそって行動すること)が、必要となるのだ。こうしたプロセスによって、権威主義的子育ては自己を正当化するようになっているのである。つまり、

『精神分析家は、一次的で自然な動因と二次的で退廃した残虐な動因との区別を出来ないでいる。そして、精神分析家は、「獣のような小動物」を消滅させようとしながら、新生児の自然を繰り返し殺しているのである。精神分析家が完全に無視している事実は、いわゆる人間の本質と呼ばれている二次的な歪んで残酷な性質は、正にこの自然原理を殺していることによって創り出されており、これらの人工的文化的創造物こそが、その後、強迫的道徳実践と獣的な法律を必要となさしめる、ということなのだ。』(前掲書、17〜18ページ)

道徳実践が二次的動因という問題の根源に手を加えることなど出来はしない。実際、犯罪と罪に対する圧力を増加させるだけのことだ。本当の解決策は、子どもを、ライヒが自然の自己統制と呼んでいることのように育てることだ。これは、自然な生命衝動に関する子どもの自発的表現を抑制しようとして子どもを罰・矯正・強迫・道徳的説教や警告・愛からの阻害などの対象としないことによってのみ達成できる。幼児の強力な諸傾向の体系だった発達が、「社交的に」なり、他人に対する有害な活動を制限する最も良い方法なのである。ネイルが指摘しているように、『自己統制とは、人間の本質の善性を信ずることである。原罪など存在しないし、過去にも存在しなかったという信念である。』(前掲書、103ページ)

ネイルによれば、生れたときから自由を与えられ、両親の期待に従うように強いられていない子どもたちは、体を清潔にしておく方法を自発的に学び、礼儀・常識・学習への関心・他者の権利の尊重などのような社会的性質を発達させる(次のセクションを参照)。しかし、一旦こうした性質を発達させるよう強制する権威主義的方法を通じて鎧を着せられると、子供はライヒが『生命病理的』と呼んだものになってしまうのだ。生命の中核に触れることなく、その結果、もはや自己統制を発達させることも出来なくなってしまうのである。この段階では、社会賛同型の情動が社会の新メンバーに発達しつつある生の形態を形成することが困難になってしまう。この時点で、二次的動因が発達し、両親の権威主義が必要になるのだ。ライヒは以下のように指摘している。

『生命病理的行動と権威主義的対応との密接な相互関係は無意識的なものだと思われる。自己統制は、直接の生命中核からではなく、あたかも分厚く硬い壁を通じるようにして生じる情動の中ではいかなる余地もなく、そうした情動に影響を与えることもないと思われる。それ以上に、二次的動因は自己統制的存在条件を維持できないという印象がある。二次的動因は教育者や親による厳しい懲罰を強制する。本質的に二次的動因構造を持った子供は、懲罰的指導なしで機能したり存在したりすることは出来ないと感じているように見えるのだ。健康な子供の自己統制が、環境の自己統制と同じだとされているのだ。健康な子供が機能できるのは、決定と運動の自由を持っているときだけである。健康な子供は、鎧を着た子供が自由に耐えることが出来ないのと同様に、懲罰に耐えることなど出来ないのである。

自由に耐えることができないということ、これはほとんどの人が育てられているやり方から無意識に発達させていることであり、鎧を着けることとそれを防ぐことという全主題を、アナキストにとって非常に重要にせしめているのである。ライヒは、親がまず第一に自然を抑圧しなければ、いかなる反社会的動因も創り出されることはなく、権威主義が反社会的動因を抑圧する為に必要だなどとされることもないだろう、と結論づけている。『それほどまで絶望的にそして無意味に強迫と警告を使って確立しようとしていることは、既に、生き、機能するために新生児に備わっているのだ。自然が要求するように育てたまえ。それに従って、制度を変革するのだ。』(前掲書、47ページ、強調は原文より)

アレキサンダー=ロゥエンが生の恐怖の中で指摘しているように、両親は子供の生体エネルギーの性的表現を抑圧しようと特に躍起になっている。なぜなら、解消されていないエディプス葛藤が自身の中にあるからなのだ。

だから、心理的に健康な子どもを育てる為に、両親は自己知識、特にエディプス的葛藤・兄弟姉妹の敵対心・その他の内的葛藤がどのようにして家族関係の中で発達しているのか、を獲得しなければならない。そして、自身を出来るだけ神経的鎧から解き放たねばならないのである。こうした自己知識を獲得し、自身を充分に脱条件することの困難さが、明らかに、自己統制された子どもを育てるときのもう一つの障害物なのだ。

だが、最大の障害物は、鎧をつけることなどの歪みのメカニズムが人生の非常に始めの時、つまり生れた直後にセットされている、という事実なのである。ライヒは、最初の鎧の障壁が出来ると、幼児の自己統制力は弱まり始める、と強調している。『子どもの自己統制力は、鎧が有機体全体に広がって行くに従い、どんどん弱くなってくる。そして、子どもがその与えられた環境の中に存在し、生きつづける以上、自己統制力は強迫的な道徳諸原理によって起きかえられねばならないのである。』(前掲諸、44ページ〜45ページ)そこで、親が鎧などの厳格な抑圧構造がどのようなもので、どのように機能しているのかについて徹底的な知識を持つことが重要になる。そのことによって、最初から、子どもにそれが形成されることを予防する(少なくとも減じる)ことが出来るのである。どのようにしてこれを行うのかに関する実例は、次のセクションで議論する。

最後に、ライヒは、諸概念をごちゃ混ぜにしないことが重要だと警告している。『自己統制を少々、道徳的要求を少々、などと混ぜてはならない。自然を基本的に適切で自己統制的なものだと信じていようが、信じていまいがどちらでもよいというのなら、ただ一つのやり方しかない。強迫観念による訓練だ。躾に関する二つのやり方が共存することなどないという事実をつかむことが大切なのだ。』(前掲書、46ページ)

J.6.2. 新生児の養育に適用されたリバータリアン子育て法にはどのような実例があるのか?

ライヒに依れば、自由な子供を養育するときの問題は、実際に受胎以前に始まっているという。これから母親になる人が自分自身を慢性的筋肉緊張、特に、胎児の適正な発達を妨げる可能性のある骨盤の緊張を解き放つ必要があるというのである。ライヒが指摘しているように、母親の体は子供にとって、胎児が形成されてから生まれる瞬間までの環境である。性的抑圧などの情動的問題のために母親の骨盤にできた強力な筋肉の鎧は非常に有害なのだ。こうした母親は生体エネルギー的に「死んで」おり、たぶん痙攣性の子宮を持っており、それが、血液と体液の循環を低減し、エネルギーの代謝効率を悪くし、その結果、子供の生気を損なってしまうことで、生まれる前でさえも幼児にトラウマを与えることになり得る。

さらに、多くの研究が示しているように、母親の身体的健康だけが胎児に影響を与えるわけではない。様々な心理的ストレスも、生化学的・ホルモン的環境に影響を及ぼし、胎児に影響する。一時的なものであっても、強烈な場合には、胎児に重大な影響を持ち得るのだ。

生後まもなくは、母親が子供との接触を確立することが重要である。つまり、抱きしめたり、だっこしたり、遊んだり、特に沢山の授乳によって表現されるような、赤ちゃんに対する一貫した愛情のこもった注目をする事が基本的に大切なのである。こうした「オルゴン的な」接触(ライヒの言葉を使えば)によって、母親は新生児との最初の感情的つながりと、子供の欲求に関する非言語的な理解を確立できるのである。しかし、これが可能なのは、母親が自分自身の内部プロセス−−感情的なものと認知的なもの−−と生体エネルギーの中核と接触している場合にのみ、つまり、過剰に神経症的に鎧をつけていない(ライヒの用語を使えば)場合にのみ、可能なのである。従って、

『オルゴン的接触感覚、つまり母親と子供のエネルギーの場が持つ(中略)機能は、大部分の専門家には知られていない。だが、昔の田舎の医者はそれを充分に知っていた。(中略)オルゴン的接触は、母親と子供との相互関係において最も経験的で感情的な要素であり、特に出産前、そして人生最初の日々においてはそうなのである。子供の将来の運命はそれにかかっている。それが、新生児の感情発達の中核であると思われる。』(前掲書、99ページ)

父親が同様にオルゴン的接触を確立することも、最重要というわけではないが、重要である。ただし、父親はオルゴン的接触を確立する主要手段−−つまり、授乳能力−−を持っていないため、その接触が母親のものに近づくことはできない。(以下を参照)

新生児が自分のニーズを表現するためには一つの手段しかとることはできない。泣くことを通じてである。泣くことには、数多くのニュアンスがあり、子供の苦痛レベル以上に多くのことを伝えることができる。母親が最も基本的な感情的(ライヒによれば「生体エネルギー的」)レベルを確立できていなければ、子供が泣くことを通じてどのような欲求を表現しているのかを直感的に理解することなど出来はしないだろう。その後、子供は、満足されなかった欲求を欲求剥奪だと感じ、様々な負の感情と有害な心理的プロセスと感情的緊張を持って反応するであろう。それが長く続くと、こうした緊張は慢性的になり、そのことで「鎧を身につける」始まりとなり、「残酷な」現実への適応になってしまいかねない。

つながりを確立するときの最も重要な要因は、母親と幼児との優しい身体的接触であり、それは疑いもなく授乳である。従って、

幼児の身体で最も顕著な接触場所は、生体エネルギー的に非常に帯電した口と喉である。この身体器官は即時的に満足を得ようとする。母親の乳首が生物理学的に普通のやり方で、快楽の感覚を伴って、幼児の吸引運動に反応すれば、乳首は強く勃起し、乳首のオルゴン興奮は幼児の口のオルゴン興奮と一つになる。丁度、男性と女性の生殖器がオルゴン的に一体化し融合する、口唇的に満足な性的行為と同じである。このことには何も「異常」だったり、「気持ち悪い」ことはない。すべての健康な母親は、この吸引行為を楽しいものだと経験し、それに従っている。(中略)だが、全女性のおよそ80%が、膣の感覚麻痺と不感症に悩んでいる。その乳首は、それに対応して非オルゴン的になっている、つまり「死んで」いるのである。母親は、自然ならば、幼児の吸引行為によって胸部に喚起される、快楽の感覚に対する不安を発達させたり、それを嫌がるようになるかも知れない。これが、非常に多くの母親が自分の子供を養育したくないと思っている理由なのである。(115ページ〜116ページ)

したがって、ライヒなどのリバータリアン心理学者たちは、人工授乳(bottle feeding)の実践は、それが生まれたときから完全に母乳保育に置き換わっている場合には特に、有害だと主張しているのである。なぜなら、それが母親と子供との生体エネルギー的接触を確立する最も重要なやり方の一つを排除するからである。そして、接触の欠如は、後年に、「口唇的」神経症性格構造や特性に寄与しかねない(こうしたことについては、アレキサンダー=ロゥエン著、性格構造の身体力動、第9章、「口唇的性格」を参照)。ロゥエンは、「原始的」民族の間で通常そうであるように、母乳保育の実践はおよそ3年間継続されねばならず、その間に離乳してしまえば主要なトラウマとして経験される、と考えている。『約3年間(この期間は、子供の口唇欲求を満足させるために必要だと私は信じているのだが)にわたり、母乳が子供に与えられれば、離乳はほとんどトラウマを引き起こさない。なぜなら、この快楽の喪失は、子供がその後に持つ他の多くの快楽によって埋め合わせられるからだ。』(鬱病と身体、133ページ)

幼児ケアに関するもう一つの有害な実践は、ヴィエナのピルケが発明した、子供に対する強迫神経症的な規則正しい食事方法である。これは、『数えきれないほどの子供たちに対してすさまじいほど間違っており有害だった。』この実践(幸運なことに、現在では、50年前よりも流行してはいない)を通じた口唇欲求のフラストレーションは、幼児の神経症的鎧付けを確実に生み出すのである。

ライヒが述べているように、『両親・医者・教育者が、オルゴン的接触方法ではなく、断固たる間違った対応・融通のきかない意見・恩着せがましさ・お節介を持って、幼児にアプローチする限り、幼児は物静かで、ひきこもりで、無気力で、「自閉的」で、「風変わり」であり続け、そして後には、教養を持った人々が「訓練」しなければならないと感じる「小さな野獣」になるであろう。』(前掲書、124ページ)

もう一つの有害な実践は、乳児が「泣き叫ぶ」ままにしておくことである。つまり、『一時的におよそ数時間、庭でベビーカーの中に乳児を置いておくことは、危険な実践である。乳児が目を覚まして、見知らぬ場所で自分が独りぼっちでいることに突然気がついたときに、恐怖と孤独によるどのような苦痛の感覚を乳児が経験しうるのかは誰にもわからない。そうした場面での乳児の叫び声を聞いたことのある人なら、この愚かな習慣が持つ残酷さについて何がしかの心当たりがあるものだ。』(ネイル著、サマーヒル、336ページ)実際、性格構造の身体力動で、ロゥエンは、特定の神経症、特に鬱病の由来をこの実践にまで辿っている。病院も、病気の幼児を母親から分離することで幼児を心理的に傷つけているため有罪である。この実践は、明らかに、数多くの口外されない神経症者や精神病者を生み出してきた。

同様に、ライヒは次のように記している。『割礼という虐待的な習慣は、無感覚で狂信的残虐行為だと直ぐに認識されるであろう。事実、真にそうなのだ。』(前掲書、68ページ)彼は、自分が、割礼のトラウマから「回復する」ために幼児たちが二週間かかったことを観察したと述べている。この「回復」は、骨盤床(pelvic floor)での慢性的筋肉緊張という永続的な心理的傷跡を残したのだった。こうした緊張が骨盤の鎧付けの第一層を形成する。その後に、性的抑圧などの抑制(特に、排泄のしつけの最中に獲得されるもの)が付け加えられるのである。

だが、隔膜は、初期の鎧付けを保護するときに、多分最も重要な場所であろう。研究場面で数年間にわたり幼児を観察した後、ライヒは乳児の鎧付けは、通常、自由な呼吸の妨害として現れ、その呼吸は、耳障りだったり、苦しそうだったり、不規則だったり、不自然だったりし、それが風邪や咳や気管支炎などを導く可能性もある、と結論した。

『子供たちを観察すればするほど、初期の呼吸遮断が急速に重要だと思われた。どういうわけか、横隔膜部位が、情動的、生体エネルギー的不快感に最初に、そして最も深刻に反応しているように見えたのだった。』(前掲書、110ページ)従って、幼児の呼吸は、その情動的健康の重要な指標なのであり、いかなる異常であっても何かがおかしいという兆候なのである。つまり、ネイルが述べているように『子供が健康に育てられたという兆候は、その自由で、制約されていない呼吸なのだ。それは、その子供が人生を恐れていないことを示しているのである。』(前掲書、131ページ)

ネイルは、幼児ケアに対するリバータリアンの姿勢を次のように要約している。『自己統制は、乳児が、精神上も身体上も外部の権威抜きに自由に生きる権利を意味している。つまり、乳児が空腹な時に食べ、そうしたいときに習慣として清潔にし、怒鳴られたり叩かれたりすることが全くなく、いつも愛され保護されている、ということなのである。』(前掲書、105ページ)

明らかに、自己統制は、乳児が絶壁に向かって歩いていたり、コンセントで遊び始めたときに、独りぼっちにしておくことを意味してはいない。アナキストは常識の欠如を擁護しない。我々は、大人は、幼児の身体的安全保護に疑問があるときには、幼児の意志を覆さねばならないと理解している。ネイルは次のように書いている。『子供を預かっている人で莫迦者だけが、縞のない寝室の窓や子供部屋での無防備な火気を認めている。だが、自己統制に熱狂している若い人たちは、私の学校を訪問してきて、毒物が入っている実験室の戸棚に鍵がかかっていたり、非常階段で遊ぶことを禁じているのを、自由の欠如だと声高に叫ぶことが多すぎる。非常に多くの自由の擁護者たちが足を地につけていないために、自由運動全体が台無しにされ、軽蔑されているのである。』(前掲書、106ページ)

それでもなお、リバータリアンの立場からすれば、子供が危険な状況に巻き込まれるという理由で、罰を受けるべきだ、とは示唆しない。また、そうした状況で、警告のために叫ぶことが最良の方法でもない(手遅れになる前に子供に警告する唯一の方法でない限り)。大騒ぎをせずに、危険を除去すればよいだけなのだ。ネイルは次のように述べている。『子供が精神的に問題がない限り、この子供は直ぐに自分が何に関心を持っているのかを発見する。興奮した叫び声と怒鳴り声をなしにすることで、子供はあらゆる種類の題材を扱うことに信じがたいほど敏感になるであろう。』(前掲書、108ページ)もちろん、その子供がはじめから自己統制ができるようにされ、非合理的で二次的な動因を発達させていないという条件でである。

J.6.3 幼児の養育に適用されたリバータリアン子育て法にはどのような実例があるのか?

自由な子供を育てる方法は、自由な子供がどのように育てられるのかを考えるとはっきりする。例えば、ジョン=スミスという典型的な幼児を想像してみよう。その育てられ方についてはA=S=ネイルが次のように記している。

彼の自然な機能は、オムツをしている期間にはほったらかしだった。だが、ハイハイしたり、床で大騒ぎしたりするようになると、行儀が悪いとか汚いといった言葉が家の中に漂い始め、清潔にすることが彼に厳格に教えられ始めた。

それまでに、彼が自分の性器をさわる度にその手は取り上げられていた。そして彼は、直ぐに、生殖器に関する禁制を、排泄物に関して獲得した嫌悪感と関連づけるようになる。このようにして、後年、彼が訪問販売員になったときに、彼の話の十八番にはセックスとトイレに関する多くのジョークが平均して入ることになったのだった。

彼の躾の多くは、親類と近所の人々が条件づけていた。母親と父親は礼儀正しくなる−−上品なことを行う−−ことに非常に躍起になっていたため、親類や近所の人たちが来たとき、ジョンは行儀の良い子供だと自分を見せねばならなかった。彼は、叔母さんがチョコレートをくれたときには、ありがとうと言わねばならず、食事の行儀については細心の注意を払わねばならず、特に、大人が話しているときには自分が話すのを慎まねばならなかったのである。(サマーヒル、97ページ)

ジョンがもう少し成長したとき、物事はもっと悪くなった。『生命の起源に関する好奇心は、全て、ぎこちない嘘で固められた。その嘘があまりにも効果的だったため、生命と誕生に関する彼の好奇心は消え失せてしまった。生命に関する嘘は、彼が5歳の時に、4歳の妹と隣の女の子と一緒に自分の性器をおもちゃにしていたのを母親に見つかった時の恐怖と結合した。そのときに激しくお尻を叩かれた(父親が帰宅したときに、さらに拍車をかけられた)ことが、ジョンに、セックスは不潔で罪深く、人が考えることさえ許されないことなのだ、という教訓を永久に伝えたのだった。』(前掲書)

もちろん、セックスに関する否定的なメッセージを告げる両親の方法は、特に我々の啓蒙されたと言われている時代には、必ずしもこれほど厳しいものではない。だが、セックスに否定的な態度を獲得するのは、必ずしも、子供がお尻を叩かれたり、叱られたり、説教されたりすることからだけではない。子供たちは非常に直感的で、表情・声のトーン・ばつの悪い静けさ・ある種の話題の回避などのような両親の微妙な手掛かりから、「セックスは悪い」というメッセージを受け取るものである。性的好奇心と性器遊びの単なる「黙認」は、積極的肯定とは心理的効果において全く異なっているのである。

臨床精神医学の知見に基づいて、ライヒは、子供の注目が口唇的欲求の満足から自分の性欲への関心へとシフトする3歳〜6歳の時期−−あらゆる種類の性器遊びに特徴づけられる段階−−を、子供の『第一思春期』だと見なしていた。この段階での親の課題は、子供がそうした遊びを行うことを認めるだけでなく、それを勇気づけることである。『4、5歳以前には、子供は性器性欲を十全に発達させていない。ここでの課題は、明らかに、十全な性器性欲に向かう自然の発達の方向に対する障害物を除去することである。この課題を達成するために、私たちは以下のことに同意しなければならない。子供に第一思春期が存在していること・性器遊びはその発達のピークであること・性器活動の欠如は病気の兆候であって、以前に仮定されていたように、健康の兆候ではないこと・健康な子供はあらゆる種類の性器遊びをするもので、それは勇気づけられるべきものであって妨害してはならない、ということである。』(未来の子供たち、66ページ)

同じ方針で、セックスに否定的な態度の形勢を予防するためには、裸体を阻まないことを意味している。『赤ちゃんは、最初から両親が裸でいることを見なければならない。だが、子供が理解する準備が出来ているならば、子供が裸でいるのを見ることを好まない人々もおり、そうした人々の前では服を着ていなければならない、ということを子供に話さねばならない。』(ネイル著、サマーヒル、229ページ)

ネイルは、親は性器遊びのために子供を叩いたり罰したりしてはならないだけでなく、お尻を叩くことなどの罰の諸形態はいかなる状況においても使われてはならない、と主張している。なぜなら、罰の諸形態は、恐怖を植え付け、子供を臆病にし、恐怖症を導くことも多いからである。『恐怖は完全に除去されねばならない−−大人に対する恐怖も、罰に対する恐怖も、反対意見に対する恐怖も、神に対する恐怖もである。恐怖の雰囲気の中で栄えることができるのは憎しみだけなのだ。』(前掲書、124ページ)

罰は、子供たちをサディストにすることもある。『多くの子供たちの残酷さは、大人が子供たちに行使した残酷さから生まれている。自分が殴打されれば、他人を殴打したいと思うものなのだ(中略)あらゆる殴打は、願望の上でも実践の上でも、子供をサディスティックにするのである。』(前掲書、269ページ、271ページ)これは、アナキストにとって明らかに重要な考察である。サディスティックな動因が、軍国主義・戦争・警察の残虐行為などの心理的基盤となっているからだ。そうした動因は、疑いもなく、ヒエラルキー的権威を行使する願望の一部でもあり、サディスティックな衝動のはけ口として、部下に対する否定的制裁手段を行使する可能性を持っているのである。

子供を叩くことは特に卑劣である。なぜなら、これは大人が、自分で身を守ることのできない人に対して自分の憎しみ・欲求不満・サディズムにはけ口を与えるやり方だからだ。もちろん、そうした残酷さは、いつも、「叩かれるよりも、叩く方が傷ついているんだ」などという言い訳で合理化されたり、「子供がヤワにならないようにする」とか「残酷な世界に耐えられるようにする」とか「両親が私を叩いたが、それはとても私のためになったのだから、私も子供を叩いている」などといった道徳的言い回しで説明される。だが、そうした理由付けとは逆に、罰はいつも憎しみの行為なのだ、というのが依然として事実である。この憎しみに対して、子供は、両親を憎むことで、そしてその後には空想・罪・抑圧によって、同じ様な対応をするの。例えば、子供は父親の死を空想し、それはすぐさま罪の感覚を引き起こし、そのことで、抑圧される。罰によって引き起こされた憎しみは、例えば巨人を殺す物語−−巨人が父親を象徴しているため、子供たちの間ではよく見られるものだ−−のような、一見して両親とはかけ離れた空想の中に出現することが多い。そうした空想が生み出す罪の意識は、「原罪」からの救済を約束した組織的宗教にとって非常に有利なことは明らかである。そうした宗教がセックスに否定的な道徳性と懲罰主義的子育て実践(そのおかげで新しい信者が増えつづけている)の熱烈な推奨者だということは明らかに偶然ではない。

だが、もっと悪いことに、罰は実際に「問題児」を創り出す。その理由は、親が、尻を叩くたびに、さらに多くの憎しみを子供に喚起する(そして他の人々への信頼を減じる)ためである。このことは、さらに悪い行動が現れ、さらなる殴打を引き起こす、といった悪循環を生み出す。逆に、ネイルは次のように論じている。『自己統制した子供は、全く罰を必要としておらず、この憎しみのサイクルを経験してはいない。その子供は一度も罰せられたことはなく、悪い振る舞いをする必要もない。嘘をつく必要も、物を壊す必要もない。身体を不潔だとか酷いとか言われたことは一度もない。権威に反逆する必要もなければ、親を怖がる必要もない。よく癇癪を起こすだろうが、それは束の間のものであり、神経症の傾向とはならないだろう。』(前掲書、166ページ)

リバータリアン子育ての諸原理が実践に応用される例をさらに挙げることも出来るが、我々はそのいくつかを紹介するにとどめねばならない。基本的諸原理は、次のように要約できる。権威・道徳主義・子供を「向上させ、教化する」といった願望を排除せよ。子供たちを子供たち自身でいるようにせよ。子供たちにあれこれ指示したり、買収したり、脅したり、忠告したり、説教したり、さもなくば、無理やり何かをやらせたりすることを止めるのだ。対処するのは控えよ。ただし、子供が自分の自由を表現することで他人の自由を制限しない限り。そうした場合には、その行動の何が悪いのか説明し、機械的に罰してはならない。

無論、これは急進主義の哲学であり、従おうとする親は数少ない。政治的・経済的諸問題については自分のことをリバータリアンだと呼んでいる人々が、家族内部での自分の行動となると、どれほど一線を引いているのかには、愕然とさせられる−−まるで、そうした行動は全く広範な社会的影響がないかのようだ!つまり、リバータリアン子育てに対する反対意見が多いように、子供の自由の敵対者は多数なのだ。以下の数セクションで、我々はそうした非常によく見られる反対意見のいくつかを検証してみようと思う。

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