アナキズムFAQ


J.7.4 社会革命はどのようなものになるのか?

社会革命には、アナキズム思想を日常的に実践することが必要である。従って、社会革命は、直接行動・連帯・自主管理が次第に社会の主要生活様式となることを意味している。社会を上から下まで変換することを意味しているのである。革命が何を意味しているのかについてはエンリコ=マラテスタを引用するのが最も良いだろう。

革命とは、新しい生活諸機関・新しい諸団体・新しい社会諸関係の創造である。特権と独占の破壊である。正義・友愛・自由の新しい精神である。この精神が、直接的で意識的な行動を通じて、自分自身の将来に備えるよう呼びかけることで、社会生活全体を更新し、大衆の道徳レベルと物質的諸条件を引き上げるのである。革命は、公衆の利益だけでなく、自分自身の利益のためにそこに関わっている人々が公的サービス全てを組織することなのである。革命はあらゆる強制的繋がりを破壊することである。それは、集団の、コミューンの、地方の自律である。革命は、同胞愛の願望、個人的・集団的利益、生産と防衛の欲求がもたらす自由連合である。革命は、民衆間に存在するあらゆる種類の思想・願望・好みに基づいた無数の自由な集合組織である。革命は、数千の代表者・地区・コミューン・地方・全国諸団体の形成と解散である。これは、法的力なしに、あちこちにいる民衆の願望と関心事を知り、調整する役割を果たし、情報提供・アドヴァイス・実例を通じて活動するのである。革命は、諸事実の坩堝の中で証明される自由なのだ−−そして、自由が続く限り、継続するのである。(人生と思想、153ページ)

もちろん、これは、革命プロセスのヴィジョンとしては幾分幅広いものである。社会革命が何を含むのか、もっと具体的な実例で示す必要があるだろう。ただし、そのようにする前に、そうした実例は、純粋に以前の諸革命からのものであり、石盤に書かれたものではないということを強調しておく。あらゆる革命は、それ自体の組織・闘争形式を創り出している。次の革命も独自のものを創り出すであろう。セクションIで論じたように、アナキズム革命は、それ自体の自由諸形態を創造するであろう。この諸形態は、以前の諸形態といくつかの側面を共有するかもしれないが、それ自体で唯一無二のものとなるのである。我々がここでできることは、社会革命で生じると思われること(以前の諸革命を基にして)のラフな概観を示すだけである。我々は未来を予測しはしない。クロポトキンが次のように述べているように。

我々は次の疑問を問われることが多い。「アナキズム諸原理に基づいて未来社会をどのように組織するつもりなのですか?」この質問が(中略)ある集団が自分たちの好きなように社会を組織できる、と夢想している人々に対してなされているのなら、自然なことだと思える。しかし、アナキストの耳には、非常に奇妙に聞こえるのだ。我々は、この質問に対して次のようにしか答えられないのである。「私たちは、あなた方を組織することなどできません。どのような組織をあなたが選ぶのかは、あなたにかかっているのです。」(自分で行動せよ、32ページ)

民衆は自分たちを組織してきた。各々の社会革命において、抑圧された人々は多くの多様な自主管理諸組織を作ってきた。そうした団体には、フランス大革命におけるセクション(区)・ロシア革命とドイツ革命における労働者評議会(「ソヴィエト」や「ラーテ」)・スペイン革命における産業コレクティヴと地方コレクティヴ・1956年のハンガリー革命における労働者評議会・フランスの1968年暴動における集会と行動委員会などがある。こうした諸集団は、元来統一されるようなものではなかったし、その幾つかは他よりももっとアナキズム的であった。だが、自主管理と連合に向かう傾向はこれら全てに共通して存在していたのである。アナキズム的解決策と組織に向かうこの傾向は驚くべきものではない。その理由をネストル=マフノは次のように論じている。『革命を貫徹する中で、自分たちが本来持っているアナキズムの衝動の下、大多数の人間は自由連合を探求する。自由集会は、常に、多くの人々の賛同を得ているのだ。革命的アナキストは、民衆ができるだけこのアプローチを形成できるように手助けしなければならないのだ。』(エッセイ集:国家に対する闘争、85ページ)

さらに、我々がこのセクションでアナキストの社会革命を論じていることを強調しなければならない。セクションI.2.2で記したように、革命は、いかなるものであっても、地域によって異なる形態を取り、多様なやり方で、それぞれのスピードで発展する、とアナキストは認識している。各々の革命ヴィジョンを記述することは、他の人々にお任せする(例えば、マルクス主義者にとって革命は、「労働者の国家」の建設と、「プロレタリア」前衛や党による権力の奪取である)。

さて、リバータリアン社会革命はどのようなものになるのだろうか?まず第一に、革命は、『一日でもたらされはしない。国が沸騰状態にある全ての期間、大抵は数年間継続する。そのとき、それ以前は無関心な傍観者だった多くの人々は、公的な諸問題に生き生きと参加し、(中略)自由な発展の妨げになる諸制度を批判し、それらを拒絶する。解決不可能だと以前は見なしていた諸問題に断固として突入するのである。』(ピョトール=クロポトキン著、前掲書、25ページ〜26ページ)革命はプロセスとなるであろう。そこでは、既存システムを転覆し、新しいシステムが生じるまで、革命的姿勢・思想・行動・組織が社会に蔓延する。革命は一夜にして生じはしない。むしろ、革命は累積的発展なのであり、経過での特定の出来事に特徴づけられはするが、根本的には社会構造の中で継続するのである。例えば、本当のロシア革命は、1917年の2月蜂起〜10月蜂起の期間に行われた。そのときに、労働者は自身の仕事場を乗っ取り、農民はその土地を奪取し、新しい社会生活諸形態(ソヴィエト・工場委員会・協同組合など)が形成され、民衆は、自分自身の生活をよりよく変化させるために直接行動を使うことにより、権威に対してそれまで持っていた服従的態度を破棄したのだった(この革命プロセスの実行に関する詳細と証拠は、ヴォーリン著、知られざる革命を参照)。同様に、スペイン革命は1936年7月19日の後に生じた。労働者はここでもその仕事場を乗っ取り、農民はコレクティブを形成し、ファシズムと戦うために義勇軍が組織されたのだった(詳細は、ガストン=レヴァル著、スペイン革命におけるコレクティヴを参照)。

第二に、『肥大化する経済的・政治的諸制度の急速な変革、数世紀にわたり蓄積された不公正の転覆、富と政治権力の放擲がなければならない。』(前掲書、25ページ)

この側面は重要である。国家と資本主義の廃絶なくして、真の革命は生じないのだ。バクーニンは次のように論じている。『社会革命プログラム』は、『あらゆる搾取、そして、政府と官僚による抑圧だけでなく、あらゆる政治的・法的抑圧の廃絶である。つまり、経済的諸条件の平等化を通じた全階級の廃絶、そして、その最後の支柱(last buttress)である国家の廃絶なのだ。』(国家主義とアナーキー、48ページ〜49ページ)

我々はここで強調しなければならない。マルクス主義者がなんと言おうと、アナキストは、資本主義の破壊は国家の破壊と同時に生じる、と見なす。エンゲルスは、我々が国家を最初に破壊し、次に資本主義を破壊しようとしている、と論じているが、それは誤りである。政治と経済における同時革命という観点は、バクーニンの次の主張にはっきりと見られる。叛逆状態にある都市は、『労働者が諸協会に参加し、生産用具全て・あらゆる資本・建造物を勝ち取ると、自然に、革命的スタイルで、できる限り最良のものとして急速に組織化するであろう。街路と地区ごとに武装し、組織を作ることで、労働者は全地区の革命的連合、連合コミューンを形成する。(中略)全ての(中略)革命コミューンは、必要なサービスと生産・交換の方式とを組織し(中略)革命の敵に対する協同防衛を組織すべく代表者を送るだろう。』(ミハイル=バクーニン選集、179ページ)

上記したバクーニンの見解からも分かるだろうが、社会革命の本質は、『万人の利益のために、地主と資本家を収用すること』なのだ。このことは、労働者が自分の仕事場を占拠し、労働者自主管理下に置くことで成し遂げられる。そして、個々の自主管理型仕事場は、地域と産業を基盤にして労働者評議会へと連合する。労働者評議会は、共有を確保し、自主管理を一般化するだけでなく、協働活動を調整し、共通の関心事を議論するであろう。『労働者は、工場を占有し、労働者間で連合し、地域のために働かねばならない。同様に、農民は土地と地主が横領していた生産物を占有し、必要な物品交換に関して産業労働者と協定しなければならない。』(エンリコ=マラテスタ著、前掲書、198ページ、165ページ)

このようにして、資本主義は自主管理型労働に基づいた新しい経済システムに置き換えられる。言い換えれば、経済におけるヒエラルキーの終焉である。こうした仕事場集会と地域連合や地方連合などは、資本家の利益ではなく、人間の欲望を満たすように生産を組織し始める。大部分のアナキストは、そうした経済において、共産主義的諸関係の導入をできる限り早期に見たいと思っているが、ほとんどのアナキストは充分現実的で、リバータリアン共産主義に向かう諸傾向は地元地域の諸条件に依存するということを理解している。マラテスタは次のように論じている。

漸進(graduation)が本当に始まるのはそのときである。我々は、人生のあらゆる実践的諸問題を研究しなければならないだろう。生産・交換・コミュニケーション手段・アナキスト集団とある種の権威下で生活している人々との関係・共産主義コレクティヴと個人主義的に生活している人々との関係・都会と田舎の関係・それぞれの地方が持つあらゆる自然資源を万人の利益となるように活用する方法(などなど)についてである。(中略)そして、あらゆる問題について、(アナキストが)選択する解決策は、経済的に優れているだけでなく、正義と自由を求める欲求を満足させ、将来の改善のための道を開放しているものでなければならない。これは、他の解決策では不可能だと思われるのだ。(前掲書、173ページ)

いかなる中央政府もそうした変換を組織できはしない。いかなる中央集権団体も、必要な変革を理解できないし、そこに参画している人々が手に入れることのできる可能性について決定できはしない。従って、人生の正にその複雑さ、そして社会生活のニーズが、社会革命をアナキズムに向けて突き動かすのだ。クロポトキンによれば、『必ずや、アナキズムの組織システム−−自由な地域行動と自由な集団形成−−が出現するであろう。』(前掲書、72ページ)この地域活動と、活動を調整するための地域集団間の自由合意がなければ、革命は、身動きがとれず、新しい官僚主義的階級構造を生み出すだけで終わるであろう。このことはロシア革命の経験が証明しているのだ。経済が、経済内部で活動している人々によって下から変革されない限り、社会主義など不可能である。中央集権団体が上から再編成したところで、確立するのは国家資本主義であり、資本主義者の代わりに官僚が支配することになるのである。

従って、社会革命の鍵となる経済的側面は、労働者自身の直接行動と労働の再編成による資本主義の抑圧の終焉、そして、自分たち自身の行動と組織と下からのイニシアチブによる経済なのである。マラテスタは次のように論じている。

抑圧が再び出現する危険なしにこの抑圧を徹底的に破壊するために、全民衆は、生産手段に対する自分自身の権利を確信しなければならない。地主・実業家・投資家を収用し、あらゆる社会的富を民衆の自由にすることでこの基本的権利を行使する覚悟をしなければならないのである。(前掲書、167ページ)

だが、経済的変換は、全体像の一部でしかない。クロポトキンが論じているように、『歴史を通じて、地域の経済的諸関係における個々の変化は、政治的組織と呼びうるものの対応する変化を伴っていることが分かる。(中略)従って、経済的変化も、社会主義と共にあるのだ。経済における新しい出発を熟慮するならば、それは、政治的組織と呼ばれるものにおける新しい出発を覚悟しなければならない。』(前掲書、39ページ)つまり、アナキストの社会革命は、国家を廃絶し、国家の最終的排除を確実にするための自治コミューン群の連合を創り出すことも目的としているのである。何かを本当に破壊するためには、もっと良いものでそれを置き換えねばならないのだ。アナキズムは、自主管理型自由地域(つまりコミューン)の連合によって国家を破壊するのである。

国家の破壊は不可欠である。なぜなら、『自分自身を自由にしようと思っている労働者は、いや単に労働条件を効果的に改善したいと思っている労働者でさえもが、政府から自分自身を防衛しなければならない。(中略)政府は、財産に対する権利を合法化し、暴力を使ってその権利を保護することで、人間の進歩に対する障害物となっている。これこそ打倒しなければならないのだ。(中略)いつまでも現状の下にいたいとおもわないのなら、さらに悪い状態にいたいと思わないのならば。』従って、『人は経済闘争から政治闘争へ移らねばならない。つまり、政府に対する闘争を行わねばならないのだ。』(マラテスタ著、前掲書、195ページ)

つまり、社会革命は国家官僚制と国家の暴力と強制力(警察・軍隊・諜報機関など)を破壊するのである。このことがなされなければ、国家は復活し、革命を破壊してしまうであろう。国家の破壊には、個々人に対する暴力ではなく、ヒエラルキー組織・立場・諸制度の終焉を伴う。例えば、警察・陸軍・海軍・国家公務員などの解体が含まれ、警察署・軍の基地・国家官僚のオフィスをもっと有益なものへと変換する(もしくは、刑務所の場合のように、破壊する)ことが含まれる。市庁舎は、地域と産業グループが占拠し、使用することができる。市長執務室は、保育所になりえる。警察署は、破壊されていなければ、多分、物品の保管庫として使うこともできるだろう。ウィリアム=モリスのユートピア小説、ユートピア便りでは、国会議事堂は肥料の貯蔵施設になっていた。これまで国会議員などの業務に従事していた人々は、もっと有意義な生活方法を追求するよう、もしくは、地域を離れるように求められるであろう。このようにして、全ての有害で無用な諸機関は破壊されたり、有用で、社会のためになるものへと変換されるであろう。

さらに、古い国家と関連している建物の変換や破壊だけでなく、それまで国家に奪われていた地域社会の意志決定プロセスも、民衆の手に取り戻すことになる。代替的な自主管理型組織が、地域社会の事柄を管理するために全ての地域社会で創造される。こうした地域集会から、連合が協同活動と協同利益を調整するために出現する。こうした町内集会と連合が、権力を社会に解消する手段となり、政府は最終的に自由(個人の自由と集団の自由双方)のために撤廃されるのである。

究極的に、アナキズムは、既存諸制度に対して、何らかの有用な機能を提供する建設的な代案を創造することを意味している。例えば、我々は、資本主義生産の代案として自主管理を提起する。我々は、社会生活を組織するために、国家ではなく、自治コミューンを提起する。マラテスタは次のように論じていた。『効果的かつ永久の破壊は、何か他のもので置き換えることによってのみ成し遂げられる。即座の対応を必要としている諸問題の解決を後回しにすることは、廃絶しようとしている諸制度がショックから立ち直り、回復する時間を与えることになる。多分、それは別な名前で回復するのだろうが、その構造は確実に同じなのだ。』(前掲書、159ページ)これが、スペイン革命の失敗だったのだ。新しい自主管理型組織を通じて国家を廃絶するのではなく、国家を無視してしまったのだ(セクションI.8を参照)。

従って、社会革命は次のように見ることができる。『自由結合と生産者−消費者の連合による社会生活の組織化である。それは、その成員の願望に従って創造され、修正される。科学と経験によって指導される。自然の欲求から生じていない押しつけなど存在しない。最優先の必需品だという感情で全ての人が納得した場合に、皆が自発的に従うのである。』(エンリコ=マラテスタ著、人生と思想、184ページ)

強調しなければならないが、こうした組織は、一般に、革命と革命プロセスそれ自体の産物である。

『集会と地域社会は、革命プロセスそれ自体の内部から出現しなければならない。実際、革命プロセスは、集会と地域社会の形成と、その形成による権力の破壊でなければならない。集会と地域社会は、はっきりとした解決策ではなく、「売り言葉」とならねばならないのだ。それらは、既存社会に対する闘争のモードとして創造されねばならない。(中略)区画・町内・地区−−来るべき革命区域−−における未来の民衆集会は、最も大々的な「革命的」肩書きで飾り立てている現在のあらゆる委員会・シンジケート・政党・クラブよりも、高い社会的レベルに基づいているであろう。それらは、ブルジョア社会という腐乱死体の中で活発なユートピアの原子核となるであろう。』このようにして、『社会の比重は(中略)その基盤−−永続的集会にいる武装せし人民−−へと移行する(であろう)。』(マレイ=ブクチン著、欲望充足のアナキズム、167ページ〜168ページ、168ページ〜169ページ)

こうした組織が必要な理由は、マレイ=ブクチンの言葉を借りれば次のようになる。『自由には様々な形態がある。(中略)解放的革命は、いかなる社会形態が既存のものに置き換わるのか、という問題をいつも提起する。その時点は異なっていても、革命的民衆は、必要な生活手段を手に入れるための土地と工場をどのように管理するのか、を扱わねばならない。革命的民衆は、地域社会全体に影響を与える意志決定に到達する方法を扱わねばならない。従って、革命思想が全く真面目に受け取られねばならないものだとすれば、それは、社会管理の諸問題と諸形態に直接訴えねばならないのだ。』(前掲書、143ページ)このことが行われなければ、資本主義と国家が破壊されることはなく、社会革命は失敗してしまうであろう。自主管理型組織によって国家と資本主義を廃絶することで、ヒエラルキー型権力を破壊することだけが、個人を自由にし、社会を解放できるのである。

こうした経済的・政治的変革だけでなく、同様に他の変革−−あまりにも多すぎて全てを記することはできないが−−も生じるであろう。例えば、『あらゆる空き家と空き部屋のある家を使い、誰も野宿することがないようにするだろう。すぐさま銀行と不動産権利証書を廃絶し、国家権力と資本家の特権を代表し保証しているあらゆるものを廃絶するだろう。そして、ブルジョア社会が再構築できないようなやり方で、物事を再組織しようとするであろう。』(マラテスタ著、前掲書、165ページ)同様に、自由な同盟が、幅広い諸問題について出現し、幅広い関心事や必要のために現れるだろう。社会生活が変換するようになると、私生活と私的諸関係の多くの側面も変換するようになる。我々には、どの方向に、といったことは言えないが、生の全側面における一般的リバータリアン運動が存在するであろう。例えば、女性が性差別主義に抵抗し克服し、ゲイの人々が同性愛嫌悪主義に抵抗し、それを終焉させ、子供たちが所有物としてではなく個人として扱われる、といったように。

社会はもっと多様で、オープンで、自由で、本質的にリバータリアン的なものになる。そして、望むらくは、その社会と社会を創り出す闘争とは楽しいものとなって欲しいと思う−−アナキズムは、生を生きるに値するものにすることであり、従って、あらゆる闘争はこのことを反映していなければならない。闘争には楽しさが重要なのだ。真面目な仕事を行うことと、楽しいことを行うこととの間に不調和などありはしない。確かに、「真面目な」左翼は、このことにひどく怒り出すだろう。革命の目的は、個々人を解放することであって、「プロレタリア階級」、「社会」、「歴史」などのような抽象物を解放することではない。楽しむことは、この解放の一部なのだ。エマ=ゴールドマンが述べていたように、『私が踊れないのなら、それは私の革命ではない。』革命は、『抑圧された側のフェスティバル』であるべきなのだ−−我々は、『史上あらゆる大革命を開始したアナーキーでうきうきするほどの段階を、階級利益の表現と社会的富の再分配の機会へと単に分解してしまう』こどなど出来はしないのだ(マレイ=ブクチン著、前掲書、277ページの脚注)。

従って、社会革命には、労働者階級の創造的行動によって社会を下から変換することが含まれる。この変換は、自主管理組織を通じて行われる。自主管理組織は、ヒエラルキー・国家・資本主義を廃絶する基盤となる。『革命プロセスを革命の目的と切り離すことなど出来はしない。自主管理に基づいた社会は、自主管理の手段によって確立されねばならないのだ。(中略)我々が「権力」を、人間に対する人間の力として定義するならば、権力の破壊は、人が自分自身の生活に及ぼす力を獲得するという正にそのプロセスによってのみ可能なのだ。その中で、人は自分自身を「発見する」だけではない。もっと有意義に、自分の自己を、そのあらゆる社会的次元の中で形成するのである。』(マレイ=ブクチン著、前掲書、167ページ)

J.7.5 社会革命においてアナキストはどのような役割を果たすのか?

あらゆる社会大革命は自発的なものであった。実際、使い古された文句だが、革命が勃発するときに最も驚くのは、いつも革命家である。アナキストも、革命が当初から本質的にリバータリアン的なものになるとは仮定してはいない。我々が仮定しているのは、そこにはリバータリアン諸傾向が存在するだろうということであり、アナキストはその内部で活動し、その諸傾向を強めようとする、ということだけなのである。従って、アナキストとアナキスト組織の役割は、前セクションで論じた諸傾向を促し、アナキズム思想とアナキズムの解決策を主張することで、革命を社会革命へと押し進めようとすることなのである。ヴァーノン=リチャーズの言葉を引用してみよう。

我々は、全ての社会革命が必ずアナキズム的なものだ、などとほんの一瞬たりとも前提とはしない。だが、権威に対抗する革命がどのような形を取ろうとも、アナキストの役割は明確である。資本主義的財産を廃絶するように、そして、資本主義的財産が少数が大多数を搾取すべくその権力を及ぼす時に使われる諸制度を廃絶するように、民衆を刺激するのである。(スペイン革命の教訓、44ページ)

アナキストにとって、社会革命における自分の役割ははっきりしている。アナキストはアナキズム思想を普及させようとし、抑圧された側による自律的組織と自律的活動を促そうとするのだ。例えば、ロシア革命中、アナキストとアナルコサンジカリストは、労働者自主管理を求めた工場委員会運動で重要な役割を演じていた。アナキストは、労働者自主管理を国家統制で置き換えようとするボルシェビキの企てと闘い、仕事場占拠と工場委員会諸連合を促したのだった(モーリス=ブリントン著、ボルシェビキと労働者管理が、ロシア革命中の労働者自主管理運動と、それに対するボルシェビキの敵対行為をうまく紹介している)。同様に、アナキストは、ソヴィエト(仕事場で労働者が選んだ評議会)を支持していたが、それが革命的諸集団から国家諸機関(これは共産党の諸機関と大差なく、従って自主管理の敵なのだ)へと変貌することについては敵対していたのだった。アナキストがやろうとしていたことは、『地元地域の労働者諸組織の自由と独立を抑圧せずに、物事を調整し、適切に保つことで、権威と命令の拠点を非権威主義的拠点へと変換すべく活動することだった。アナキストは、こうした自律的諸組織を結合する中核とならねばならないのである。』(G=P=マキシーモフ著、ポール=アヴリッチ編、ロシア革命におけるアナキスト、105ページ)

従って、マレイ=ブクチンが述べているように、アナキストの役割は、政治政党が創り出した諸形態の中ではなく、『革命が創り出した諸形態の枠組みの中で』活動することで、『あらゆる社会大革命を開始するアナーキーな段階を持続させ、拡大することなのだ。つまり、アナキストのコミットメントは、自主管理型革命諸機関に対するものなのである。(中略)社会的諸形態ではなく、政治的諸形態に対するものなのだ。無政府共産主義者(そして、その他の革命的アナキスト)は、工場委員会・集会・ソヴィエトを促して、それらを正真正銘の民衆自主管理諸機関にしようとするのであって、それらを支配したり、操ったり、全能の政治政党に結びつけたりなどしないのである。』(欲望充足のアナキズム、215ページ、217ページ)

同様に重要なことだが、『民衆は、万人は、自分自身の従順な本能と習慣とを放棄しなければならない。民衆の精神は、長年にわたる奴隷状態によってこうした本能と習慣を教え込まれている。民衆は、自由に考え、行動することを学ばねばならない。精神の解放というこの大きな課題に対して、アナキストは特にその目を向けねばならない。』(マラテスタ著、前掲書、160ページ〜161ページ)民衆が自分で考え、自分で行動しない限り、いかなる社会革命も不可能なのであり、アナーキーは、権威主義的社会が持つ一傾向のままであり続けるだろう。

実際上、このことは、自主管理と直接行動の促進を意味する。つまり、アナキストは『自由に構成された協会(freely constituted associations)を通じて、人々がボスを収用し、あらゆる物品を共有し、自分の日常生活を自分自身で組織するように押し進める。外部からの命令を待っていることをせず、いかなる仮面をかぶっていようとも(中略)暫定的な可能性であったとしても、法律を策定し、その意志を他者に対して力尽くで押しつける権利をそれ自体で持っている(中略)あらゆる政府・あらゆる構成機関(constituted body)を指名することや認めることを拒否するのである。』(マラテスタ著、前掲書、197ページ)この理由についてバクーニンを引用しよう。アナキストは『革命的移行の過程でさえ、選挙人の集会・暫定的政府・いわゆる革命的独裁といったものを受け入れはしない。なぜなら、我々は、革命は、大衆の手にあってこそ、誠実で、正直で、真実のものとなる、と確信しているからだ。革命が少数の支配的個人の手に集中してしまえば、必ずやすぐさま反動になってしまうのだ。』(ミハイル=バクーニン選集、237ページ)

あらゆる革命の歴史が示しているように、『革命政府』は言葉の矛盾である。政府諸機関とは、『武装労働者の発意を、執行権を持った中央機関へ移すこと』を意味している。『労働者から発意を剥ぎ取ることで、闘争実行の責任と闘争の目的も、支配的なヒエラルキーへと移される。このことは、革命闘士の士気に対する逆効果以外の何ものでもなくなりかねないのだ。』(ヴァーノン=リチャーズ著、スペイン革命の教訓、42ページ〜43ページ)こうした権力の集中化は、地域の発意を抑圧し、自主管理を官僚制で置き換え、役人と金で動く政党(party hacks)という搾取的で抑圧的な新階級を創り出すことを意味している。権力が全ての人々の手中にあるときにのみ、社会革命は存在でき、自由社会が構築されるのだ。もしそうでなければ、もし国家が自由人の自主管理型協会に置き換わるのなら、それは一つの階級システムが別な階級システムですげ替えられるにすぎないのである。なぜなら、国家は少数支配の道具だからだ−−多数支配の道具となることなどありえず、その中央集権的・ヒエラルキー的・権威主義的性質がそうした可能性の余地を残していないのだ(この問題はセクションHでさらに論じている)。

従って、アナキストの大切な役割は、自主管理型組織を構築し、闘争や革命の管理と方向性を、現場の人々の手中に留めておくことで、ヒエラルキー組織の土台を崩すことなのである。それは、彼らの革命であって、政党の革命ではないのだ。だからこそ、彼らが制御し、管理すべきなのだ。アレキサンダー=バークマンは正しくも次のように論じている。『革命が安全で、成長し、強力になるのは、大衆が、自分が直接参加しており、自分自身の生活を創り出し、自分たちが革命を作っており、自分たち革命なのだ、と感じているときである。だが、その活動が政治政党に奪われたり、何らかの特別な組織に集中されたりすると直ぐに、革命的活動は、比較的小さな集団に限定されてしまう。そこから大多数は実質的に排除されるのである。当然のことながら、民衆の熱狂は削がれ、関心は次第に薄くなり、発意が衰え、創造性は低くなる。そして、革命は、今や独裁者に変質してしまった派閥の独壇場になるのだ。』(前掲書、65ページ)

あらゆる革命の歴史がこの点を証明していると思う。したがって、アナキストの役割(セクションJ.3で述べたような)は、はっきりしている−−リバータリアンの思想・組織・戦術・活動を促すことで、革命を革命的にし続けるのである。エマ=ゴールドマンを再び引用しよう。

革命は、それを進めるために使われる「手段」が、達成しようとしている「目的」が持つ精神と傾向という点で同一のものでない限り、解放の原因として成功することはない。(アナーキーの諸形態、113ページ)

アナキストは、手段を目標と一致させ続けようとする。社会革命におけるアナキストの役割は、権威主義的諸傾向・諸政党と闘いながら、労働者階級の自主組織・自主活動・自主管理を促し、社会の中でリバータリアン思想と価値観を広めることなのである。

J.7.6 アナキスト革命はどのようにして防衛されるのか?

このセクションは、アナキズム思想と矛盾していると思う人がいるかもしれない。マルクス主義者にとっては特にそうだろう。結局、プルードンに対する酷評の中で、アナキストの『国家廃絶』は労働者階級による『戦いを止める』ことを意味している、と論じていたのはマルクスだったのではなかっただろうか?だが、このセクションを読めばはっきりするだろうが、真実からはほど遠いのだ。アナキストはいつも革命の防衛−−必要ならば、武力によって−−に賛同してきた。アナキストは、国家の廃絶に『戦いを止める』ことが含まれるとは思っていない。マルクス(とマルクス主義者)は『武装せし人民』による自衛を国家と混同しているのだ。この混同は、恐ろしい暗示を含んでいるのだ(ロシア革命の歴史が示しているように−−詳しくはセクションHを参照)。

さて、アナキスト革命(つまり、アナキスト社会)はどのようにして防衛されるのだろうか?まず第一に記しておかねばならないが、我々は、中央集権機関、新しい国家を創り出すことで、革命を防衛しようとはしない。そのようにしてしまえば、革命は失敗するだろうし、新しい階級社会(ソヴィエト連邦のように国家官僚と抑圧された労働者に基づいた社会)が創り出されるであろう。従って、我々は、マルクスの概念である国家という『革命的で一時的な形態』を極度に混乱しているとして拒否するのである(レーニン著、レーニン基本著作集、315ページ)。それよりも、我々は、リバータリアンの手段を使って、リバータリアン革命を防衛する。こうしたリバータリアンの手段とはどのようなものなのだろうか?

理論だけでなく、歴史もそうした手段を例示してくれる。アナキストが参加した20世紀の主要諸革命全てにおいて、自由を防衛するために義勇軍が形成されている。例えば、多くのロシア都市でアナキストは「黒色護衛団」(Black Guards)を形成し、自分たちが収用した家屋や革命的自由を防衛していた。ウクライナでは、ネストル=マフノの手助けで、農民−労働者軍が組織され、右翼と左翼の権威主義者から社会革命を防衛していた。スペイン革命では、CNTとFAIが、1936年の軍事クーデター後のファシスト支配下にあるスペインの諸地域を自由にすべく、義勇軍を組織していた。

(余談だが、こうした義勇軍が米国で現在見られる「義勇軍運動」とは何も共通性を持っていない−−名前を除き−−ことを指摘しておかねばなるまい。アナキストの義勇軍は、リバータリアン的方法で組織され、反国家主義・反資本主義の革命を国家賛同・資本主義賛同型の諸勢力から防衛することを目的としていた。逆に、米国の「義勇軍運動」は、軍隊的やり方で組織され、所有権を防衛し、それ自体の政府を構築しようとしているのである。)

こうしたアナキスト義勇軍は最大限自主管理型のものであった。いかなる「将校」であっても選出され、その隊に対して説明責任を持っており、同じ給与、同じ生活条件だった。また、自分の考えを他者に押しつけることもしなかった。義勇軍が村落・街・都市を解放すると、人民が適当だと見なすように、土地の事柄については現地の人民がまとめるように呼びかけのだった。義勇軍が行ったことは、人民に示唆と考えを提示することだけだったのだ。例えば、マフノ主義者たちはある地区を通過するときに、次のことを告げるポスターを貼っていた。

労働者と農民の自由は、当事者自身のものであり、いかなる制限も必要とはされない。行動し、自分たちを組織し、自分たちが適当だとか望ましいと見なしているように生活全面について合意することは、労働者と農民の責任である。(中略)マフノ主義者にできることと言えば、応援し、相談にのることぐらいである。(中略)どんな事情があろうとも、マフノ主義者が支配することなどできないし、したいとも思わないのだ。(ピーター=マーシャル著、不可能の要求、473ページ)

言うまでもなく、マフノ主義者は、土地と生産手段を収用すると同時に、『自由農民と労働者の評議会を作るために』労働者と農民の相談に応じていた。彼らは次のように主張していた。『言論の自由・報道の自由・集会の自由は、全労働者の権利であり、この自由に敵対するいかなるジェスチャーも、反革命の行為なのである。』(神もなく、主人もなく、第2巻、157ページ〜158ページ)また、マフノ主義者は、農民と労働者の地方会議を開催し、革命問題と社会問題を議論していた(この事実は、ボルシェヴィキの気に障り、トロツキーは会議を禁止しようとして、『上記の会議への出席は、大逆行為として見なされるだろう』(前掲書、151ページ)と主張した。労働者の民主主義がボルシェヴィキの下で萎びてしまった理由が分かるとういものだ!)。

マフノ主義者たちは、自発的入隊・将校の選出・各々の部隊自身が採用したルールにそった自己規制という原理を宣言した。桁外れに有能だったマフノ主義者たちは、デニキンの軍隊を打ち負かし、ウランゲルを打倒する手助けをした。白兵を打ち破った後、ボルシェヴィキはマフノ主義者に敵対し、裏切ったのだった。だが、マフノ主義が存在している間、マフノ主義者たちは、労働者階級が自分たちの組織を作る自由を、右翼国家主義者と左翼国家主義者双方から守っていたのだった。詳しくは、ヴォーリン著、知られざる革命と、ピーター=アルシーノフ著、マフノ主義運動史を参照してほしい。

同様の情況がスペインでも発展していた。1936年7月19日のファシスト・軍部クーデターを打倒した後、アナキストはフランコ下のスペイン諸地域を解放すべく自主管理義勇軍を組織した。こうしたグループは、下からのリバータリアン型のやり方で組織されていた。

戦争委員会の設立は、全ての同盟義勇軍にとって容認できるものである。我々は個人から始め、10人からなるグループを形成する。小規模作戦については、この集団の中で調整される。こうしたグループが10個で、一つのセンチュリアを形成し、その代表者を任命する。30のセンチュリアスが一つの縦隊(コラム)を形成し、この縦隊の指揮は、センチュリアからの代表者が発言権を行使する戦争委員会が行う。(中略)全ての縦隊が行動の自由を保持しているが、我々は、部隊間の協調に到達している。これは、命令の統一とは異なっているのである。(神もなく、主人もなく、第2巻、256ページ〜257ページ)

マフノ主義者同様、スペインのアナキスト義勇軍は、反動と戦っただけでなく、より良い世界を求めて戦っていた。ドゥルティは次のように述べている。『前線にいる同志たちは、自分が誰のために、何を求めて戦っているのか知っている。同志たちは自分を革命家だと感じており、多かれ少なかれ約束されている新しい法律を防衛するためではなく、世界を、工場を、仕事場を、輸送手段を、パンを、新しい文化を獲得するために戦っているのだ。』(前掲書、248ページ)

義勇軍縦隊が街と村落を開放したとき、労働者と農民は、土地と生産手段を集産化するように勧められ、リバータリアン的やり方で生活を再編成するように勧められた。そして、反ファシストのスペイン労働者と農民全てがまさしくこのことを行ったのだった(詳しくは、セクションI.8を参照)。義勇軍は、労働者と農民が適当だと見なすように、自分たちで自分たち自身の生活を組織する自由を守っただけなのであって、コレクティブを強制的に創らせたり、コレクティブの形態を指示したりしてはいなかったのだ。

残念ながら、マフノ主義者同様、CNT義勇軍もいわゆる左翼同盟者によって裏切られた。アナキスト部隊は、充分な武器を与えられず、前線に取り残されて、何の行動も起こすことなく駄目にさせられた。共和党政権による「統一」命令は、リバータリアン部隊に武器を供給しようとはしなかった。リバータリアン部隊が武器を持てば、その武器を使って、共和党・共産党主導の反革命から自分たちと仲間の労働者を守るだろう、と考えていたからだ。結局のところ、『武装せし人民』が革命を勝ち取り、それに置き換わった『人民軍』が戦争に負けたのだ。詳しくは、アベル=パス著、ドゥルティ:武装せし人民・ヴァーノン=リチャーズ著、スペイン革命の教訓・ジョージ=オゥエル著、カタロニア賛歌を参照してほしい。

皮肉屋ならば、結局、こうした革命や義勇軍は挫折したのだ、と指摘するかもしれない。だが、だからといって、義勇軍の闘争が無意味だったとか、将来の革命は成功しない、ということではない。民主国家の大多数が(一時的に)ファシズムやファシスト国家に敗北したことを受けて、1940年には、民主主義はファシズムよりも劣悪だと主張されていたのだ。だからといって、こうした方法が未来でも失敗するなどということはないし、自分たちが望んでいることとは全く正反対の社会を最終的に創り出す、一見して「成功している」アプローチを信奉しなければならない、というわけでもない(手段が目的を決定する。国家主義的手段は国家主義的目的を創り出す。一見して「成功」にみえること−−ボルシェビズムのような−−は、我々の思想と理想という点では、最悪の失敗なのである。)。ここでは、アナキストが過去に革命をどのように防衛してきたのか、そして、そうした方法が莫大な反対勢力の前で長期間成功していた、ということを指摘するに留めておく。

アナキストは、現実面で、マラテスタの次の主張に従っている。『義勇軍として地域生活に口出しする権限を持たず、回復しようとする反動勢力の武装攻撃に対処するためだけに、もしくは、未だに革命状態にない国による外部介入に抵抗するために、自発的に義勇軍を創造する。』(前掲書、166ページ)この義勇軍は武装した民衆を基盤としており、『武装した民衆の力は革命の防衛にのみ使うことができ、自由は、その戦闘性と犠牲によって勝ち取られたのだった。』(ヴァーノン=リチャーズ著、スペイン革命の教訓、44ページ)義勇軍は革命を押しつけようとはしない。なぜなら、自由は押しつけることなどできず、民衆の意志に背いて民衆を無理矢理自由にさせることなどできないからだ。

つまり、アナキストが革命を防衛しようとするのは、次の理由によるのだ。アナキズムは、『自分の自由に対するいかなる妨害にも敵対する。(中略)あらゆる侵害と暴力に反対する』一方で、『誰かがに攻撃するなら、君を侵害しているのはその人であり、君に対して暴力を用いているのはその人なのである。君は、自分を防衛する権利を持っている。それ以上に、自分の自由を守り、威圧と強制に抵抗するのは、アナキストとしての君の義務なのだ。(中略)つまり、社会革命は誰に対しても攻撃しないのだ。単に、いかなる方面からの攻撃に対しても自身を防衛するだけなのである。』(アレキサンダー=バークマン著、アナキズムのABC、81ページ)

バークマンが強調しているように、この革命的防衛は、『(アナキズムの)精神と調和していなければならない。自己防衛は、あらゆる威圧行為・迫害行為・復讐行為の余地を与えない。攻撃をはねのけ、敵が君を侵害する機会を剥奪することにのみ関わっているのである。』いかなる防衛も『革命の強さに(中略)何をおいても、民衆の支持に』に基づくであろう。『民衆が、自分たち自身で革命を行っている、自分たちが自身の生の主人になっている、自分たちが自由を勝ち取り、幸福を築き上げている、と感じているのなら、革命の最大の強さは、その正なる心情の中にある。(中略)民衆が革命を信じることができるようにしよう。そうすれば、民衆は最後まで革命を防衛するであろう。』従って、『武装した労働者と農民だけが、革命を効果的に防衛するのである。』(前掲書、81ページ〜82ページ)

この強さの一部は自由にある。従って、単なる話、単なる意見表明から革命を「守る」ための計画など必要ない。『表現と報道を弾圧することは、自由に対する理論的攻撃だというだけではない。それは、革命の正にその基盤を直接破壊することなのだ。(中略)それは、恐怖と不信を生み、陰謀を企ませ、テロ支配となってしまうであろう。これが過去にいつも革命を潰してきたのだ。』(前掲書、83ページ)

それ以上に、外国の介入の場合、国際連帯が重要になる。バクーニンは次のように論じていた。『社会革命は、一国だけの革命にはなり得ない。本来、国際革命なのである。』(ミハイル=バクーニン選集、49ページ)つまり、外国からのいかなる介入も、自国での連帯行動と連帯叛乱、自国の軍隊を外国に送り込むとしても長期的には送り込ませない、という問題に直面するのである。結局のところ、一つの革命を支援する方法は、自分自身で革命を起こすことだけなのだ。

革命が生じている地域内部で革命を守るのは、解放された民衆の行動である。まず最初に、民衆は武装し、権威を再創造しようとする反革命家の試みに対して猛反発する。次に、反革命家は、その計画を拒絶する解放された個々人に直面する。

アナーキー状態を獲得できる唯一の方法は、抑圧されている個々人が、対抗する全ての権威をものともせず、あたかも自分が自由であるかのように行動することである。(中略)実際問題として、革命テリトリーの拡張は、個々の革命を確実に永続させるためために必要である。革命について語ることで、我々は、非常に多くの成功した個人的・集団的叛乱の総体を意味している。そうした叛乱は、革命テリトリーの中で全ての人が完全自由に行動できるようにするであろう。(中略)そこでは、以前のシステムを維持しようとする敵対権力の防止を常に心配したり、その復讐に常に怯えることはないのだ。(中略)こうした状況下では、次のことは明らかである。はっきりとした報復行為に対しては、革命に影響された個々人や諸集団の側から同じ革命的行動が再開される。そして、この方法によるアナーキー状態の維持は、同じ方法を使って、アナーキー状態を獲得するよりも遙かに簡単なものとなるであろう。(クロポトキン著、前掲書、87ページ〜88ページ)

つまり、いかなる権威主義者も、自由民・自由な個々人の直接行動に直面することになるのだ。自由民や自由な個々人は、権威主義者になりたがっている人々と協力することを拒絶し、権威主義者に抵抗すべく友人や仕事仲間との連帯行動に加わるであろう。大多数の民衆を革命から疎外できるようになった場合に初めて、内部で反革命が蔓延するのだが、アナキスト革命ではそのようなことは不可能である。権力は民衆の手にあるからだ。権力が民衆の手にあり続ける限り、反革命の危険などないのである。

結局のところ、アナキスト革命を防衛できるのは、アナキズム思想をできるだけ広く適用することによってのみなのだ。革命の防衛は革命を起こした人々次第なのである。革命が、民衆の欲望・願望・希望の表現であれば、自由民の十全なる情熱をもって革命は防衛されることになろう。そうした革命は、不可抗力のために敗北してしまうかもしれないが、そんなことは誰にも分からないだろう。だが、敗北しない可能性だってある。だからこそ、やってみるだけの価値があるのである。失敗の可能性があるからといって行動しないのは、生の半分しか生きていないことだ。アナキズムは、誰もが唯一無二の個人として値する生を生き、人間として望むだけの生を生きるように呼びかけている。我々は、個別的には差異を生み出すことができ、協同すれば世界を変えることができるのだ。

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