アナキズムFAQ

A.5 「アナーキーの実践」の実例は?

 アナキズムは、過去二世紀にわたり世界を変えようとした無数の革命家たちの活動に他ならない。ここではこの運動の頂点のいくつかを論じる。それらは皆、反資本主義的な性格を強く持っていた。
 アナキズムは世界を徹底的に変えることに関わっている。現行システム内でのアナキズム的諸傾向の成長と発展を促すことで、現行システムの非人間性を緩和するだけではない。純粋なアナキズム革命は今だに起こったことがないが、アナキズムの性格を強く持ち、多数のアナキストが参加した革命は数多くある。そうした革命は全て破壊されたが、いずれの場合も、アナキズム内部に問題があったわけではなく、外部の反対勢力(共産党か資本家のいずれかが支援していた)のためであった。圧倒的な勢力の前に生き残ることはできなかったものの、これらの革命は、アナキストにとっての創造的刺激であると同時に、アナキズムが実行可能な社会理論であり、大規模に実施できるということの証明でもあるのだ。
 これらの革命は、プルードンの言葉を使えば、『下からの革命』であるという点で共通している−−集団的活動、民衆の自発性の実例なのである。自由社会を創造できるのは、虐げられた人々自身の行動による下からの社会変革だけである。プルードンは『民衆によって下からなされない革命など、どれほど真剣で持続的なのだろうか?』と問うている。この理由で、アナキストは『下からの』革命家なのである。このセクションで論ずる社会革命や大衆運動は、民衆の自主活動・自己解放の実例である(プルードンは1848年に『プロレタリア階級は、自らを解放しなければならない』と指摘している)。[George Woodcock, Pierre-Joseph Proudhon: A Biography, p. 143, p. 125で引用] すべてのアナキストは、下からの革命的変革というプルードンの理念、虐げられた人々自身の行動による新社会の創造に同意している。例えば、バクーニンは次のように論じていた。アナキストは『あらゆる国家組織それ自体の敵であり、民衆が幸福で自由になるのは、民衆自身の自律的で完全に自由な協同組織によって、いかなる看守の監視もなしに下から組織を作りながら自分の人生を創造するときだけだと信じている。』[Marxism, Freedom and the State, p. 63] セクションJ.7では、アナキストが考える社会革命はどのようなものか、そして社会革命には何を伴うことになるのかを論じている。
 こうした革命・革命運動の多くは、アナキストではない人には余り知られていない。ほとんどの人はロシア革命について耳にしたことがあるだろうが、ボルシェビキが権力を握る前の活力源だった大衆運動や、アナキストがその大衆運動でどのような役割を果たしたかを知る人はほとんどいない。パリ=コミューン・イタリアの工場占拠・スペインの集産体のことを聞いたことのある人もほとんどいない。ハーバート=リードが書いているようにこれは驚くべきことではない。『歴史には二種類ある。一つは公に生じた出来事の記録である。これが新聞の見出しとなり、公式記録に文章化される。これを地上の歴史と呼んでもよいだろう。』だが、『同時に、もう一つの歴史がある。こうした公の出来事を準備しその出来事に先行するが、公式記録には文章化されない。目に見えない地下の歴史なのである。』[William R. McKercher, Freedom and Authority, p. 155で引用] ほぼ当然のことだが、大衆運動や叛乱は「地下の歴史」の一部であり、エリートの歴史、つまり王・女王・政治家・金持ちの報告書の中で都合よく無視される社会史である。こうした輩の名声は、多数の人々を粉砕した結果なのだ。
 これは、これから述べる「アナーキーの実践」の実例が、ロシアのアナキスト、ヴォーリンの言う「知られざる革命」の一部であるということを意味している。ヴォーリンがこの表現を使ったのは、自らも積極的に参加したロシア革命の報告の題名としてであった。ロシア革命での民衆自身による独自の創造的活動はほとんど知られていない。彼はこの活動を言い表すためにこの言葉を使ったのだ。ヴォーリンは次のように述べている。『革命を研究する方法は知られていない』し、大部分の歴史家は『革命の奥底で音もなく生じるこうした発展を信用せず、無視している。せいぜい何かのついでにわずかに触れる程度にすぎない。(しかし)これらの隠れた事実こそが、まさしく重要なのであり、考察中の出来事やその時代に真の光を投げかけてくれるのだ。』[The Unknown Revolution, p. 19] アナキズムは、下からの革命を基礎にしており、過去数世紀にわたる「地下の歴史」や「知られざる革命」に相当の貢献をしている。FAQの本セクションで、その功績が浮き彫りになるだろう。
 ここで紹介する実例は大規模な社会実験だが、資本主義下の日々の生活におけるアナキストの地道な実践活動を無視するものではないことを強調しておこう。ピョートル=クロポトキン(「相互扶助論 Mutual Aid」)やコリン=ウォード(「アナーキーの実践 Anarchy in Action」)は、「普通の人々」が、多くの場合アナキズムを意識せずに、共通の利益を満たすために平等者として協働する多くのやり方を報告している。。コリン=ウォードは次のように述べている。『アナキズム社会、権力なしで組織される社会は、常に存在している。雪の下に埋もれた種のように、国家とその官僚制・資本主義とその浪費・特権とその不公正・ナショナリズムとその自殺同然の忠誠心・宗教的相違とその迷信的な分離主義、これらの重圧の下に埋もれているのだ。』[Anarchy in Action, p. 14]
 アナキズムは未来社会だけに関わっているのではない、今現在生じている社会闘争にも関わっている。アナキズムは一つの状態ではなく、自分たちの自主活動と自己解放が創り出すプロセスである。
 しかし、1960年代までに、多くの評論家たちが、アナキズム運動を過去のこととして書くようになってしまった。戦前から戦中にかけて、ファシズムが欧州アナキズム運動を消滅させただけでなく、戦後も、西側では資本主義者、東側ではレーニン主義者が、アナキズム運動の復活を妨げたのである。同じ時期に、アナキズムは、米国・ラテンアメリカ・中国・朝鮮(アナキズム的内実を持った社会革命が朝鮮戦争前に弾圧された)・日本でも弾圧された。最悪の弾圧から逃れた国も一つ二つあるにはあったが、冷戦と国際的孤立が組み合わさって、スウェーデンのSACのようなリバータリアンの組合は改良主義になってしまったのである。
 だが、60年代は新たな闘争の十年だった。全世界で「新左翼」は自分の思想を求めて様々な思想に目を向け、アナキズムにも注目した。1968年5月のフランスの大激動で傑出した多くの人物が、自分をアナキストだと考えていた。これらの運動それ自体は消滅してしまったが、乗り越えた人々はその思想を堅持し、新しい運動を構築し始めた。1976年にフランコが死ぬと、スペインではアナキズムが大規模に再生した。フランコ死後の最初のCNT集会には、実に50万人が参加したのである。70年代後半から80年代に、南米の数カ国で再び民主主義が制限されるようになったが、そこではアナキズムが成長していた。最終的に、80年代後半、レーニン主義のソ連に最初の一撃を与えたのはアナキストであった。1928年以来の初めてモスクワで行われた抗議デモは、1987年にアナキストが行ったのである。
 今日のアナキズム運動は、まだまだ弱いとはいえ、多くの国で数十万の革命家を組織している。スペイン・スウェーデン・イタリアにはリバータリアン労組運動があり、およそ25万人を組織している。他のヨーロッパ諸国の大部分にも、数千人の能動的アナキストが存在している。アナキストのグループが初めて現われた国々もあり、例えばナイジェリアやトルコなどがそうである。南米で、アナキズム運動は大規模な復活を見せている。ヴェネズエラのアナキストグループ「コリオA Corrio A」(サークルA)が配布している連絡リストには、ほぼ全世界にわたる100以上の組織が記されている。
 たぶん、アナキズムの復活は北米が最も遅れているだろう。だが、そこにおいても、全てのリバータリアン組織は顕著な成長経験しているように思える。この成長が加速していけば、新しいアナーキーの実践の例も増え、ますます多くの人々がアナキストの組織や活動に参加し、FAQのこのパートの重要性は少なくなっていくはずである。
 とは言っても、「ユートピア主義」(空想的理想主義)というもっともらしい言いがかりを避けるために、大規模に行われたアナキズムの多くの実例を浮き彫りにすることは大切である。歴史は勝者によって書かれるものである以上、こうしたアナーキーの実践例は、世に知られていない本の中に目につかないように隠されるものだ。学校や大学で言及されることなどほとんどない(あったとしても、歪められている)。言うまでもなく、ここで紹介する実例もまさにそうした数少ない実例である。
 アナキズムは多くの国で長い歴史を持っているが、それら全ての実例を報告しようというつもりはない。私たちが重要と思うものだけを紹介するに過ぎない。紹介する実例が欧州中心主義的だと思われたら申し訳ない。スペースと時間の関係で、次のものは割愛せざるを得なかった。英国におけるサンジカリスト叛乱(1910-1914)と職場代表制(ショップ=スチュワード)運動(1917-21)、ドイツ(1919-21)、ポルトガル(1974)、メキシコ革命、キューバ革命におけるアナキスト、第二次世界大戦中・大戦後の朝鮮における反日帝(米帝、露帝)闘争、ハンガリー動乱(1956)、1960年代後半の「就労拒否」闘争(特に1969年イタリアの「熱い秋」)、英国の炭鉱ストライキ(1984-85)、英国の人頭税反対闘争(1988-92)、フランスの1986年と1995年のストライキ、80年代と90年代のイタリアのCOBAS運動、21世紀初頭のアルゼンチン叛乱における民衆集会と自主管理型職場占拠。その他数多くの闘争に、アナキズムの自主管理思想が含まれている(アナキストが主体的役割を果たしたり、指導的役割を果たしたりせずとも、思想は運動それ自体から成長するものなのだ)。
 アナキストにとって、革命と大衆闘争は『虐げられた者の祝祭』である。その時に、普通の人々が、自分のために行動し始め、自分自身と世界の両方を変え始めるのだ。

A.5.1 パリ=コミューン

 1871年のパリ=コミューンは、アナキズム思想とアナキズム運動双方の発展に重要な役割を果たした。バクーニンは当時、次のようにコメントしていた。

 革命的社会主義(すなわちアナキズム)は、パリ=コミューンにおいて、初めての印象的で実践的な実証を企てていた。(それは)奴隷扱いされている全ての人々(そもそも奴隷にされていない大衆などどこにいるというのだ?)に、解放と繁栄への唯一の道を示したのだ。パリは、ブルジョワ急進主義の政治的伝統に致命的一撃を与え、革命的社会主義に現実的基盤を与えたのである。』[Bakunin on Anarchism, pp. 263-4]

 パリ=コミューンは、普仏戦争でフランスがプロシャに敗北した後に作られた。フランス政府は、パリ国民軍の大砲が市民の手に落ちるのを恐れ、それを取り返すべく政府軍を派遣しようとした。コミューンに参加したルイズ=ミシェルは次のように回想する。『ヴェルサイユの政府軍兵士たちが大砲を掌握しようとしているのを知ると、モンマルトルの男女は驚くべき機動力を発揮して丘に群がった。丘に登った人々は自分が死ぬと確信していたが、犠牲になる覚悟をしていたのだった。』兵士たちは、野次を浴びせる群衆に発砲することを拒否し、銃口を上官に向けた。それは3月18日のことだった。こうしてコミューンが始まり、『人々が目覚めた。3月18日は、王党派か、外国人か、民衆か、いずれかのものになり得た。そして、民衆のものになったのだ。』[Red Virgin: Memoirs of Louise Michel, p. 64]
 パリ国民軍が呼びかけた自由選挙で、パリ市民はコミューン評議会を選出した。評議会ではジャコバン派と共和派が多数を占め、社会主義者(その多くはブランキスト−−権威主義的社会主義者−−と、アナキストのプルードン支持者だった)は少数であった。評議会はパリの自治を宣言し、フランスをコミューン(つまり地域社会)の連邦として再生させようとした。コミューンの内部で、選出された評議員はリコール可能で、報酬は労働者の平均賃金と同じであった。その上、評議員たちには、自分を選出してくれた市民のところに戻って報告する義務があり、それを実行しない者は罷免されることになっていた。
 この運動がアナキストの想像力をとらえた理由はハッキリしている。アナキズム思想に非常によく似ているからだ。実際、パリ=コミューンの実例は、革命がどのように生じるのかに関するバクーニンの予言に多くの点でよく似ていたのである。大都市が自治を宣言し、それ自体を組織し、実例によって先導し、他の所も続くように刺激するのである(Bakunin on Anarchism収録の"Letter to Albert Richards"を参照)。パリ=コミューンは、ボトムアップによる組織化という新しい社会創造プロセスを開始したのだ。それは『政治権力の分散に向かう一撃』であった [Voltairine de Cleyre, "The Paris Commune," Anarchy! An Anthology of Emma Goldman's Mother Earth, p. 67]。
 ルイズ=ミッシェル・ルクリュ兄弟・ユージン=バーリン(後に弾圧で殺された)といった多くのアナキストがパリ=コミューンで重要な役割を演じた。協同組合として仕事場を再開するなどコミューンが開始した改革に関して言えば、アナキストの協同労働の理念が実現し始めているのを見ることができよう。5月までに43の職場が協同組合型で運営されるようになり、ルーブル美術館は労働者評議会が運営する軍需工場になった。プルードンの言葉に同調しながら、機械工組合の集会や金属労働者協会は次のように主張した。『我々の経済的解放は、労働者協会の形成によってのみ達成されうる。それによってのみ、我々の立場を単なる賃労働者から同僚へと転換できるのである。』彼等は「労働組織に関するコミューン委員会」への自分たちの代理人に対し、次の目標を支持するように命じた。

 人間による人間の搾取−−奴隷制の最後の痕跡−−の廃絶
 共済組合と譲渡不可能な資本への労働の組織化

 このようにすることが、コミューンにおける『平等を空虚な言葉にしない』ことを保証してくれると彼等は期待したのだった[The Paris Commune of 1871: The View from the Left, Eugene Schulkind (ed.), p. 164] 技術職組合は4月23日の集会において次の決議をした。コミューンの目的は『経済的解放』でなければならぬ以上、『人間による人間の搾取を廃止する』ために、『連帯責任を持った協同組織を通じて労働者を組織する』べきである [Stewart Edwards, The Paris Commune 1871, pp. 263-4で引用]。
 コミューン参加者は、自主管理型労働者協同組織だけでなく、フランス革命の直接民主主義町内集会(地区)に類似した民衆クラブや民衆組織のネットワークで直接民主主義を実践した。『みんな、自分の市民集会を通じて、自分の新聞を通じて、自治をしよう』と、あるクラブの新聞は主張した。コミューンは、集結した民衆の表現だと見なされた。(別の新聞を引用すれば)『コミューンの力は、束縛や隷属が大嫌いな人々が集まっている全ての地区(町内)に存在する。』プルードンの支持者で友人でもあった芸術家のギュスターヴ=クールベが次のように宣言したのも不思議ではない。パリは『真のパラダイスである。あらゆる社会グループが連合として自らを確立し、自分の運命を自分で握っているのだ。』[Martin Phillip Johnson, The Paradise of Association, p. 5, p. 6での引用]
 さらに、コミューンの「フランス民衆への宣言」には、多くの重要なアナキズム思想と同じ考えが示されていた。社会の『政治的統一』を、『あらゆる地元発意の自発的提携、万人の幸福・自由・安全という共通の目的に向けた個々人のエネルギーの自由で自発的な合流』に基づくものと見なしていた [Edwards, 前掲書, p. 218で引用]。コミューン参加者が心に描いた新社会の基盤は『各人に完全な権利を保証し、個々のフランス人が人間として・市民として・労働者としてその才能をフルに発揮できるよう保証する、コミューンの完全自治であった。』["Declaration to the French People", George Woodcock, Pierre-Joseph Proudhon: A Biography, pp. 276-7で引用] コミューン連邦というこのヴィジョンと共に、バクーニンは正しくも、次のように主張していた。パリ=コミューンは『国家の、大胆で明確に計画された否定』であった [Bakunin on Anarchism, p. 264]。
 それ以上に、連合に関するコミューンの考えは、明らかに、フランス急進主義思想に対するプルードンの影響力を反映していた。実際、地元の選挙人が出した命令委託に拘束され、いかなる時にも更迭対象となる代理人の連合に基づくコミューン型フランスというパリ=コミューンのヴィジョンは、プルードンの思想と同じだったのだ(プルードンは1848年に『拘束力のある委任の実施』に賛同し [No Gods, No Masters, p. 63]、著書「連合の原理 The Principle of Federation」ではコミューン連合に賛同していた)。
 つまり、経済的にも政治的にもパリ=コミューンはアナキズム思想に大きく影響を受けていたのである。経済的に、プルードンとバクーニンが詳述した協同生産理論は意識的に革命実践となったのだった。政治的に、コミューンが連合主義と自律を求める中に、アナキストは次のことを見たのだ。『未来の社会組織は、労働者の自由協同組織や連合によって下から上へと実行される。協同組織に始まり、コミューンに、地方に、国に、そして最終的には、国際的で普遍的な大連合へと達するのである。』[Bakunin, 前掲書, p. 270]
 しかし、パリ=コミューンは、アナキストにとって充分なものとは言えなかった。コミューンは、内部における国家を否定しなかった。外部においては否定していたのだが。コミューン参加者たちは、ジャコバン的方法(バクーニンによる辛辣な言い方)によって組織されていた。ピョートル=クロポトキンは次のように指摘している。『自由コミューンを宣言しているとき、パリの人々はアナキズムの主要原則を宣言していた』が、『彼等は頓挫してしまった。』そして『古き市議会を真似てコミューン評議会に』身を投じた。つまり、パリ=コミューンは『国家の伝統・代議制政府の伝統と決別』せず、『その独立と自由連合を宣言することでコミューンが着手したはずの、簡単なものから高度なものへの組織化を、コミューン内部で到達させようとはしなかったのである。このことが、やがてコミューン評議会が『官僚的形式主義で身動きできなくなる』という惨事を引き起こし、『大衆と継続的に接触することで生じる感性』を失うことににもなった。『革命の中心勢力−−民衆−−から隔たることで無力になり、それ自体も民衆の発意を無効にしてしまったのである。』 [Words of a Rebel, p. 97, p. 93, p. 97]
 さらに、経済改革の試みも徹底的になされず、全ての労働現場を協同組合に改組する(つまり資本を収用すること)試みもなされず、協同組合がお互いの経済活動を支援し調整するための協同組織を作ることもなかった。ヴォルテリーン=デ=クライアーが強調しているように、パリは『経済的圧制を撃つことができなかった。パリが到達し得たはずのことは生じなかった。』それは『自由コミュニティの経済事象は、世界の資本を現在所有している無用で有害な要素を取り除きながら、実際の生産者と分配者の集団が取り決めねばならない』ということであった。[前掲書 p. 67] パリがフランス軍にずっと包囲されていた以上、コミューン参加者たちが他のことに気を取られていたのは理解できる。だが、クロポトキンに言わせれば、その姿勢こそが破滅的なのだった。

 彼等は経済問題を二の次にして、コミューンが勝利した後に取り組めばよいと考えていた。しかし、その後すぐ圧倒的に敗北し、中産階級の血に飢えた復讐が始まってみると、経済分野においても同時に民衆が勝利しなければ、民衆コミューンの勝利は物理的に不可能であることがまたしても証明されたのであった。[前掲書, p. 74]

 アナキストはここからハッキリした結論を引き出している。『もし独立コミューンを統治する中央政府など不要であり、中央政府を破棄し自由連合によって全国を統一できるなら、中心となる自治体政府も同様に不必要であり有害である。正に同じ連合原理がコミューン内部でも機能するであろう。』[Kropotkin, Evolution and Environment, p. 75] 1789年〜1793年の革命におけるパリ「地区」同様に(クロポトキン著「フランス大革命 Great French Revolution」を参照)直接民主主義大衆集会の連合を組織することでコミューン内部で国家を廃絶せずに、パリ=コミューンは代議制政府を維持し、それに苦しめられることになった。『人々は、自分たちで行動する代わりに、統治者を信頼し、主導権を彼等に委任した。選挙の必然的結果を初めて示してくれたのだ。』そして評議会はすぐに『革命に対する最大の障害物』になり、その結果、『政府は革命的になり得ないという政治的公理』を証明したのである。[Anarchism, p. 240, p. 241, p. 249]
 評議会は、彼等を選んだ民衆からどんどん孤立していった。結果、ますます無意味になった。無意味になればなるほど、権威主義的な傾向が台頭し、多数を占めるジャコバン派は、「革命」を(テロによって)「防衛」する「公安委員会」を創設しようとした。少数派のリバータリアン社会主義者はその委員会に反対し、幸運なことに、パリ市民も現実にそれを無視した。パリ市民は、自分達の自由を守るために、フランス軍と戦っていたからである。フランス軍は、資本主義文明と「自由」の名の下に攻撃をしかけていたのだった。5月21日、政府軍はパリ市に突入、7日間、壮絶な市街戦が続いた。歩兵部隊やブルジョアジーの武装自警団が街路をうろつき回り、殺戮の限りを尽くした。市街戦で25000人以上が殺され、降伏後にも多数が処刑された。その死体は集団墓地に置き去りにされた。侮辱の総仕上げは、ブルジョワたちがコミューン誕生の地であるモンマルトルの丘に、ブルジョア連中を恐怖に陥れた急進主義者と無神論者の叛乱を埋め合わせるために建てたサクレ=クール寺院であった。
 アナキストにとって、パリ=コミューンの教訓は三つある。第一に、分権型コミュニティ連邦は自由社会に必須の政治形態だ、ということである(『これ−−独立コミューン−−こそ社会革命が取らねばならない形態である』[Kropotkin, 前掲書, p. 163])。第二に、『コミューンより上位の政府が必要な理由などないのと同様、コミューン内部の政府が必要な理由はどこにもない』ということである。つまり、アナキストのコミュニティは、自由に協力し合う町内集会と仕事場集会の連合に基づくのである。第三に、政治革命と経済革命を社会革命へと統合することが決定的に重要だ、ということである。『彼等はまず第一にコミューンを強化しようとして、社会革命を後回しにした。ところが、先に進む唯一の方法は、社会革命によってコミューンを強化することだったのだ!』 [Peter Kropotkin, Words of a Rebel , p. 97]
 アナキズムの観点からのパリ=コミューンについてさらに知るためには、「反逆者の言葉 Words of a Rebel」に(そして「アナキズム読本 The Anarchist Reader」にも)収録されているクロポトキンのエッセイ「パリ=コミューン The Paris Commune」と、「バクーニンのアナキズム Bakunin on Anarchism」に収録されているバクーニン著「パリ=コミューンと国家の理念 The Paris Commune and the Idea of the State」を参照して頂きたい。

A.5.2 ヘイマーケットの犠牲者

 5月1日は労働運動にとって特別な意味を持っている。かつてはソ連をはじめどこにおいてもスターリン主義官僚制度に乗っ取られていたが、労働運動の祭典であるメーデーは世界連帯の日なのである。過去の闘争を思い起こし、より良き未来への希望を示威する時である。一人の被害は全員の被害だということを思い起こす日なのである。
 メーデーの歴史は、アナキズム運動・より良き世界を求めた労働者人民の闘争と密接に結び付いている。実際、シカゴのアナキスト四名が、一日八時間労働を求めた戦いで労働者を組織したために、1886年に処刑されたことが起源なのである。つまり、メーデーは「アナーキーの実践」の産物なのだ。世界を変革すべく労働組合に参加して直接行動を行っている労働者の闘争の成果なのである。
 メーデーは1880年代に米国で始まった。1884年、米加労働組合連盟(1881年に設立され、1886年にアメリカ労働総同盟に改称した)は決議案を採択し、次のように主張した。『1886年5月1日以降、一日の法定労働時間は八時間とすべきである。この決議に準拠してそれぞれの規則を方向付けるよう、この地区全域の労働者組織に要請する。』この要請を支持して、1886年5月1日のストライキが呼びかけられたのである。
 シカゴではアナキストが組合運動の主力であった。労組がこの呼びかけを5月1日にストライキを行うことだと解釈した理由の一部には、アナキストの存在があった。八時間労働を勝ち取るためには直接行動と連帯を行うしかない、とアナキストは考えた。彼等にとって、八時間労働のような改良を求めた闘争それ自体だけでは不充分だった。彼等は、そうした闘争を、社会革命と自由社会の創造によってのみ終結する継続的な階級戦争におけるたった一つの戦いに過ぎないと見なした。こうした理念の下に彼等は組織を作り、戦っていたのである。
 シカゴだけでも40万人の労働者がストライキを行った。スト実行の脅威のおかげで、4万5千人以上がストをせずに労働時間短縮を認められた。1886年5月3日、マコーミック=ハーベスター機械会社にピケを張っていた群衆に警察が発砲し、少なくとも一人を死亡させ、五、六名の重傷者、その他多数の負傷者を出した。翌日アナキストは、この蛮行に抗議するためヘイマーケット広場での大衆集会を呼びかけた。市長によれば、『まだ何も起こっていなかったし、干渉しなければならないようなことが起こりそうだとも思えなかった。』だが、180名の警官が到着し、集会の解散を命じた。その瞬間、群集に向かって発砲を始めた警官隊に爆弾が投げつけられたのである。警察によってどれだけの市民が殺され、負傷させられたかは、一切明らかにされなかった。
 恐怖時代がシカゴに押し寄せた。集会場・組合事務所・印刷所・個人の自宅までも警察が踏み込んできた(大抵は何の令状もなしに)。労働者階級への襲撃により、著名なアナキストや社会主義者は一斉検挙され、容疑者の多くは暴行を受け、買収された者もいた。令状無しの捜査について問い質された際に、州法務官J=グリンネルが発表した公式声明は『まず家宅捜索をし、その後に法律を調べる』だった ["Editor's Introduction", The Autobiographies of the Haymarket Martyrs, p. 7]
 八人のアナキストが殺人の従犯者として裁判にかけられた。被告人の誰々が爆弾を投げたとか、それを計画したといった主張は全く行われず、その代わり、陪審員は次のように告げられた。『法律が審理されています。アナーキーが裁判を受けているのです。ここにいる被告人たちが選ばれ、大陪審によって抜擢され、起訴されたのは、彼等が指導者だからです。彼等に従った数千人に罪がないのと同じように彼等にも罪はありません。陪審員紳士の皆さん、彼等に有罪を宣告し、見せしめにし、絞首刑にしなければならないのです。そうすれば、私たちの制度・私たちの社会は救われるのです。』[前掲書, p. 8] 陪審員は特別廷吏が選び、州法務官が任命した。一人は死亡した警官の親戚、他は実業家であった。特別廷吏が『この事件は私が仕切っているし、自分が何をしようとしているかもわかっている。こいつらは間違いなく絞首刑になるだろう。』(前掲書)と公言していた証拠を弁護人が提出することは認められなかった。当然、被告人たちは有罪を宣告された。七人が死刑、一人が禁固15年であった。
 国際的抗議運動によって、死刑判決を受けた七人のうち二人は終身刑に減刑された。しかし全世界的抗議も米国家を止めることはできなかった。五人のうち一人(ルイス=リング)は執行人を騙して死刑執行前日に自殺した。残りの四人(アルバート=パーソンズ・アウグスト=スパイス・ジョージ=エンゲル・アドルフ=フィッシャー)は1887年11月11日に絞首刑にされた。労働運動史で彼等はヘイマーケットの犠牲者として名を残している。葬列の通り道には一万五千人から五万人が列をなし、推定一万人から二万五千人が埋葬を見守った。
 1889年、パリの国際社会主義者会議に参加した米国の代表団は、5月1日を労働者の祭日とすることを提案した。これは労働者階級の闘争を記念し、『シカゴの殉教者八名』を追悼するためである。以来、メーデーは国際連帯の日となった。1893年、新しいイリノイ州知事は、シカゴと全世界の労働者階級が承知していたことを公式に認め、犠牲者たちは明らかに無実であり、『裁判は不公正だった』として恩赦を与えた。
 裁判当時、当局はこのような弾圧によって労働運動の背骨をへし折ることができるだろうと信じていた。しかし、それは間違っていた。犠牲者の一人アウグスト=スパイスは、死刑判決を受けた後、法定で次のように陳述した。  

 虐げられた数百万の人々が、悲惨と貧窮の中で労苦している数百万の人々が救済を求めている運動、労働運動を、私たちを絞首刑にして踏みにじることができると思うなら、それが君たちの見解だというのなら、死刑にするがいい!ここで君たちは火花を踏みつぶしている。だが、あちこちで、君たちの背後で、君たちの眼前で、いたるところで、炎は燃え上がる。これは地下の火だ。君たちに消すことなどできはしない。[前掲書、pp. 8-9]

 当時、そしてその後の数年間にわたり、特に米国において、国家と資本主義に対するこうした叛逆が、何千人もの人々をアナキズムに引き入れた。ヘイマーケット事件以来、アナキストはメーデーを(つまり5月1日を−−改良主義労組や労働系政党はメーデーの行進を5月の第一日曜日に変更したが)祝っている。私たちがメーデーを祝うのは、全世界の労働者階級との連帯を示すため、過去と現在の闘争を祝うため、自分たちの力を示すため、支配階級にその脆弱さを思い起こさせるためである。ネストル=マフノは次のように述べている。

 その日、米国の労働者は、自分たちで組織を作り、有産階級の国家と資本が持つ不正な秩序に対する抗議を表現しようとした。
 シカゴの労働者は、自分たちの生活と闘争に関わる諸問題を共同で解決しようと結集した。
 今日でも労働者は5月1日を、自分たちの事柄に関心を持ち、自分たちの解放という問題を考えるために、集まる機会だと見なしている。[The Struggle Against the State and Other Essays, pp. 59-60]

 アナキストはメーデーの真の起源に忠実であり、虐げられた者の直接行動によってその起源を祝う。抑圧と搾取は抵抗を産む。アナキストにとってメーデーはこの抵抗と力を国際的に象徴しているのである。この力は、アウグスト=スパイスの最後の言葉に示され、シカゴのワルトハイム墓地にあるヘイマーケット犠牲者の碑にも刻みこまれている。

 今日お前たちが絞め殺している声以上に、我々の沈黙が強くなる日が来るのだ。

 国家や実業家階級がシカゴのアナキストの絞首に拘った理由を解するためには、彼等が大規模で急進的な組合運動の「指導者」だと見なされていたことを実感しなければならない。1884年、シカゴのアナキストたちは世界最初のアナキスト日刊新聞「Chicagoer Arbeiter-Zeiting」を発刊した。この新聞を書き・読み・所有し・発行したのは、ドイツ移民の労働者階級運動だった。この日刊紙・週刊紙(「Vorbote」)・日曜版(「Fackel」)の合計発行部数は、1880年の13,000部から1886年の26,980部へと倍以上に増加していた。同様に、他の民族向けのアナキスト週刊紙も存在していた(英語・ボヘミア語・スカンジナビア語)
 アナキストたちは、中央労働組合(シカゴ市にある11の主要労組が含まれていた)の結成についても非常に活動的であった。アルバート=パーソンズ(犠牲者の一人)の言葉によれば、それを『未来の「自由社会」の胚芽集団』にしようとしていた。アナキストたちは、国際労働者協会(IWPA 黒色インターナショナルとも呼ばれていた)の構成員でもあった。その創立大会には26都市から代表者が参加していたが、すぐにIWPAは『特に中西部において、労働組合に浸透し始めた。』そして『一般組合員による直接行動』という考えと『資本主義の完全破壊を達成するための労働者の手段としての役目を果たし、新社会を形成するための核として機能する』労働組合という考えは、シカゴ理念として知られるようになっていた(この理念が後の1905年にシカゴで創立された世界産業労働者(IWW)を刺激したのである)["Editor's Introduction," The Autobiographies of the Haymarket Martyrs, p. 4]。
 この思想は、1883年のIWPAピッツバーグ会議で提起された宣言で次のように表現されている。

第一:あらゆる手段−−精力的で容赦ない革命的国際行動−−を用いて既存階級支配を破壊する
第二:協同生産組織に基づいて自由社会を構築する
第三:商売や金儲けを排し、等価産物を生産組織が生産組織間で自由に交換する
第四:両性に対する非宗教的で科学的で平等な基盤に基づいた教育を体系化する
第五:性別や人種による差別なく、万人に対して平等な権利を提供する
第六:全ての公務は、連合的基盤に基づき、自律(独立)コミューンと協同組織間の自由契約によって規定される [前掲書 p. 42]

 組合の組織化に加え、シカゴのアナキズム運動は様々な社交クラブ・ピクニック・講座・ダンス・文庫といった多くの活動も組織していた。こうした活動に助けられて、『アメリカン・ドリーム』の中心にハッキリと労働者階級の革命文化が形成された。支配階級とそのシステムへの脅威が余りにも大きかったため、この運動の継続を許すことができなかったのである(特に、1877年の大規模な労働者蜂起の記憶が新しかったこともある。1886年同様、この叛乱は国家暴力に直面した−−このストライキ運動とヘイマーケット事件の詳細は、J=ブレシャー著「ストライキ! Strike!」を参照)。その結果が、国家と資本家階級が運動の「指導者」だと見なした人々の弾圧・でっちあげ裁判・国家殺人だった。
 ヘイマーケット事件の犠牲者と、彼等の人生と思想をさらに知るには、「ヘイマーケット犠牲者の自叙伝 The Autobiographies of Haymarket Martyrs」が基本文献である。唯一の米国生まれの犠牲者、アルバート=パーソンズは、自分たちが何を支持しているのかを解説した本「アナキズム:その哲学と科学的基礎 Anarchism: Its Philosophy and Scientific Basis」を書いている。歴史家ポール=アヴリッチ著「ヘイマーケットの悲劇 The Haymarket Tragedy」はこの事件を綿密に解説しており、有用である。

A.5.3 サンジカリスト組合の構築

 世紀の変わり目に、欧州のアナキズム運動は、日常生活にアナキズム組織論を応用するという計画の中でも最も成功したものの一つを創造し始めていた。それは革命的大衆労組(サンジカリズムもしくはアナルコサンジカリズムとしても知られている)の構築である。先駆的なフランスのサンジカリスト闘士の言葉では、サンジカリズム運動は『アナキズムの実践的学校』だったという。なぜならそれは『経済闘争の実験室』であり、『アナーキーな路線で』組織されていたからである。労働者を『様々なリバータリアン組織』に組織化することで、サンジカリスト組合は、資本主義の体制下で資本主義と戦い、最終的には資本主義に置き換わる『自由な生産者の自由提携』を創造したのである。[Fernand Pelloutier, No Gods, No Masters, vol. 2, p. 57, p. 55, p. 56]
 サンジカリスト組織の細部は、国によってかなりの違いがあったが、根本は同じだった。労働者が自分自身で組合(あるいは、フランス語で組合を意味するシンジケート、の意)を組織しなければならないのである。産業別の組織が一般的に好まれていたものの、職能組合や同業組合も存在していた。これらの組合はその組合員が直接管理し、産業と地域に基づいて一つに連合していた。従って、ある組合は、町・地方・国の全労組と連合し、同時に、同じ産業の組合全てとも連合して一つの全国組合(例えば、炭鉱労働者や金属労働者といった)になるのである。それぞれの組合は自律し、組合役員は皆非常勤であった(そして、組合活動で職を失ったときには、その平均賃金が支給された)。サンジカリズムの戦術は直接行動と連帯であり、その目的は新しい自由社会の基本的枠組みを提供する組合で、資本主義を置き換えることであった。
 アナルコサンジカリズムにとって、『労働組合は資本主義社会の存続期間と深く関係している単なる過渡期の現象ではなく、未来の社会主義経済の胚芽であり、社会主義一般の小学校である』。『労働者の経済闘争組織』がそのメンバーに提供するのは、『日々の糧を求めた闘争の中で直接行動を行うあらゆる機会であり、同時に、自分たち自身の力で社会生活を(リバータリアン)社会主義の計画に基づくように再編成するために必要な準備段階もメンバーに提供するのである。』[Rudolf Rocker, Anarcho-Syndicalism, p. 59, p. 62] IWWの表現を使えば、アナルコサンジカリズムは、古い殻の中で新しい世界を築くことを目的にしているわけである。
 1890年代から第一次世界大戦勃発までの時代に、欧州の大部分の国々(特に、スペイン・イタリア・フランス)で、アナキストたちは革命的な組合を結成した。さらに、南北アメリカ大陸のアナキストもサンジカリスト組合を結成することに成功した(特に、キューバ・アルゼンチン・メヒコ・ブラジルで)。ほとんど全ての工業国で何らかのサンジカリズム運動が起ったが、中でも欧州と南米には最大で最強の運動があった。これらの組合は、アナキストの方針に沿って下から上への連邦的なやり方で組織されていた。彼等は賃上げや労働条件改善の問題で日々資本家と戦い、社会改造を求めて国家と戦っていたが、同時に、革命的ゼネストにより資本主義を転覆しようとしていたのだった。
 このように、世界中で数十万の労働者がアナキズム思想を日常生活に応用し、アナーキーは空想的な夢物語ではなく、大規模に組織を作る実践的方法であると証明したのである。アナキストの組織方法はメンバーの参加・権能・戦闘性を促し、同時に、改良を求めた戦いを成功させ、階級意識を進展させた。このことは、アナルコサンジカリスト組合の成長と、労働運動に対するその影響力に見ることができる。例えば、世界産業労働者(IWW)は今も組合活動家たちを奮起させており、その長い歴史の中で、多くの組合歌やスローガンを提供してきたのである。
 しかし、大衆運動としてのサンジカリズムは事実上1930年代に終わってしまった。これには二つの要因があった。第一に、ほとんどのサンジカリスト組合は第一次世界対戦直後に激しい弾圧を受けた。戦後すぐに、この運動はその絶頂期を迎えた。この闘争の波はイタリアにおいて「赤い時代」として知られており、そこでは工場占拠運動(
セクションA.5.5を参照)が最高潮に達していた。だが、この時代は、これらの組合が各国で次々と壊滅させられた時代でもあった。例えば、米国では、メディア・国家・資本家階級が全力で後押しした弾圧の嵐によって、IWWが壊滅させられた。欧州では、資本主義は新兵器−−ファシズム−−を使って攻撃を続行した。ファシズムは、労働者階級が構築した組織を物理的に叩き潰そうとして資本主義が起した(最初はイタリアで、そして最も悪名高いものはドイツで)ものである。これは、ロシアの例に刺激されて、戦後急速に欧州中に広がった急進主義のためであった。ブルジョア階級は幾多のほぼ革命状態を恐れ、自分たちのシステムを守るためにファシズムを頼みにしたのだった。
 こうした国々で、ファシズムと(多くは英雄的に)戦って敗れたアナキストは、亡命するか、地下に潜るか、暗殺の犠牲になるか、強制収容所に入れられるかするしかなかった。例えば、ポルトガルでは、1920年代後半から1930年代前半にかけて、総勢10万人のアナルコサンジカリスト組合CGTが、ファシズムに対抗する数多くの叛乱を開始した。1934年1月、CGTは革命的ゼネストを呼びかけ、5日間の暴動に発展した。国家は非常事態を宣言し、叛乱を鎮圧するために大軍を投入した。CGTの闘士はこの暴動で傑出した勇敢な役割を果たしたが、CGTは完全に叩き潰され、その後40年間ポルトガルはファシスト国家であり続けたのである [Phil Mailer, Portugal: The Impossible Revolution, pp. 72-3]。スペインでは、(最も有名なアナルコサンジカリスト組合)CNTが同じように戦っていた。1936年までに、組合員数は150万人に達していた。持たざる者たちは、自分の生活を自ら管理する力と権利を確信するようになっていたのである。イタリアとポルトガル同様に、資本家階級は自分たちの権力を持たざる者たちから守るためにファシズムを受け入れたのだった(セクションA.5.6を参照)。
 サンジカリズムは、ファシズムだけでなくレーニン主義が持つ負の影響力にも直面した。ロシア革命が一見して勝利に見えたことで、多くの活動家が権威主義的政治を頼みにするようになった。これは特に英語圏諸国において顕著であり、フランスではそれほどでもなかった。イングランドのトム=マン・スコットランドのウィリアム=ギャラハー・米国のウィリアム=フォスターといった著名なサンジカリスト活動家は共産主義者になった(記しておかねばならないが、後者二人はスターリン主義者になったのである)。さらに共産党は故意にリバータリアンの組合を批判し、抗争と分裂を扇動した(例えば、IWWがそうだった)。第二次世界大戦が終わると、スターリン主義者はファシズムが東欧で始めたことの仕上げをし、ブルガリアとポーランドのような場所でアナキズム運動とサンジカリズム運動を破壊したのだった。キューバでは、カストロもレーニンの実例に従って、バチスタとマチャドの独裁でさえなしえなかったことを行ったのだった。つまり、影響力を持ったアナキズム運動とサンジカリズム運動を粉砕したのである(1860年代におけるその始まりから21世紀に至るまでのこの運動の歴史については、フランク=フェルナンデス著「キューバのアナキズム Cuban Anarchism」を参照)。
 イタリア・スペイン・ポーランド・ブルガリア・ポルトガルの大規模で力強いアナキズム運動は、第二次大戦が始まるまでに、ファシズムによって壊滅させられた(しかし、戦わずして消滅したのではないことは強調しておかなければなるまい)。必要だとなると、資本家どもは、労働運動を破壊し、自国を資本主義にとって安全なものにするために権威主義国家を支持した。この流れから逃れ得たのはスウェーデンだけであった。スウェーデンでは、サンジカリスト組合のSACが今でも労働者を組織している。実際、今日活動的な他の多くのサンジカリスト組合と同様に、労働者が官僚主義の組合に背を向けるに連れて、大きくなってきているのである。官僚主義組合の指導者たちは、組合員を守ることよりも、自分たちの特権を守り、経営者と取引することの方により興味があるらしい。フランス・スペイン・イタリアなど多くの国々でサンジカリスト組合は再び上向きになっており、アナキズム思想が日常生活においても実践可能であることを示している。
 最後に強調しておかなければならないが、サンジカリズムのルーツは創生期のアナキズム思想にあるが故に、それが登場したのは1890年代以降であった。サンジカリズムが、悲惨な「行動によるプロパガンダ」時代に対する反発として発展した、というのは全くその通りである。この時代には、個々のアナキストが民衆蜂起を喚起するために、また、パリ=コミューン参加者など反逆者の大量虐殺の報復をするために、政府要人を暗殺していた(詳しくはセクションA.2.18を参照)。これが逆効果で失敗に終わり、アナキストは自分たちのルーツとバクーニンの思想に立ち返ったのである。従って、クロポトキンやマラテスタのような人々が認識していたように、サンジカリズムは第一インターナショナルのリバータリアン派が持っていた思想を復活させたものにすぎないのである。
 バクーニンはこう論じている。『プロレタリア階級の力を組織しなければならない。だが、この組織化はプロレタリア階級自身の活動でなければならない。組織を作るのである。あらゆる職業・あらゆる国で、労働者の戦闘的国際連帯を絶え間なく組織するのである。そうすれば、孤立した個人や地区としての自分がどれほど弱かろうとも、全世界の協力があれば、自分が強大で揺るぎない力の一部になれることを思い出すことができるのだ。』ある米国人活動家は次のように述べている。『同じ闘争心が、今や、サンジカリズム運動とIWW運動の最良の表現の中に息づいている。』どちらの運動も『バクーニンがその生涯を通じて獲得しようと努力した理想の世界規模での強力な復活』を表現しているのである [Max Baginski, Anarchy! An Anthology of Emma Goldman's Mother Earth, p. 71]。サンジカリスト同様に、バクーニンは次のことを強調しているのである。『職業別組織・この組織同士の連合は、新しい社会秩序の生き生きした胚芽を自力で産み出す。これがブルジョア世界に取って代わるのだ。この組織と連合は、思想だけでなく、未来それ自体の事実をも創造しているのである。』[Rudolf Rocker, 前掲書, p. 50で引用]  この考えは他のリバータリアンも繰り返し述べていた。パリ=コミューンで果たし役割のおかげで殺されてしまったユージーン=ヴァーリンは、協同組織からなる社会主義を擁護し、1870年に、シンジケートは社会再構築のための『天然元素』である、と主張していた。『シンジケートを生産者協同組織に変換することは容易い。社会改革と生産編成を実行することができるのはシンジケートなのである。』[Martin Phillip Johnson, The Paradise of Association, p. 139で引用] セクションA.5.2で論じたように、シカゴのアナキストも同様の見解を持っていた。労働運動を、アナーキーを実現する手段・自由社会の枠組みだと見なしていたのである。ルーシー=パーソンズ(アルバートの妻)は次のように述べている。『農民救済組合・労働組合・労働騎士団の集会などは、理想的なアナキズム社会の胎児集団だと私たちは考えている。』[Albert R. Parsons, Anarchism: Its Philosophy and Scientific Basis, p. 110に収録] こうした考えがIWWの革命的組合主義に受け継がれた。ある歴史家は、次のように記している。『IWW創立大会の議事録には次のように書かれている。参加者は単に「シカゴ理念」を意識していただけでなく、自分たちの活動と、産業別組合主義を開始しようというシカゴのアナキストたちの闘争との間に連続性があることを意識していた。』シカゴ理念は『米国初のサンジカリズム表現』だった [Salvatore Salerno, Red November, Black November, p. 71]。
 サンジカリズムとアナキズムは別個の思想ではない、同じ思想の異なった解釈である(十全な論議はセクションH.2.8を参照)。全てのサンジカリストがアナキストではないし(サンジカリズムを支持するマルクス主義者もいる)、全てのアナキストがサンジカリストでもない(その理由についてはセクションJ.3.9を参照)が、社会的アナキストは皆、労働運動やその他の民衆運動に参加する必要性を理解し、運動内部でリバータリアン型の組織と闘争を促すことが必要だということを理解しているのである。このようにして、アナキストは、サンジカリスト組合の内外で自分たちの思想の妥当性を示そうとしている。クロポトキンは次のように強調している。『次の革命は、その始まりから全ての社会的富を労働者が掌握し、それを共有財産へと変換しようとしなければならない。この革命が成功するのは、労働者を通じてのみ、各地の都市労働者・田園労働者が自分たち自身でこの目的を実行することによってのみである。そのために、労働者は革命前の時期にその活動を始めなければならない。強力な労働者の組織があって初めて、この活動を行うことができるのだ。』[Selected Writings on Anarchism and Revolution, p. 20] このような民衆の自主管理組織こそがアナーキーの実践に他ならないのである。

A.5.4 ロシア革命のアナキストたち

 1917年のロシア革命で、ロシアにおけるアナキズムは大きく成長し、アナキズム思想に関する多くの実験を目にすることになった。しかし、一般的には、ロシア革命は、普通の人々が自由を求めて闘った大衆運動ではなく、レーニンがロシアに自分の独裁制を押し付ける手段だったと見なされている。真実は根本的に異なっている。ロシア革命は下からの大衆運動であった。多くの思想潮流が存在し、数百万という労働者(都市や町の労働者だけでなく農民も)が世界をより良い場所に変えようとしていた。悲しいかな、そうした希望と夢はボルシェヴィキ党の−−最初はレーニンの、後にスターリンの−−独裁下で粉砕されてしまったのである。
 大部分の歴史もそうだが、ロシア革命は「歴史は勝者によって書かれる」という格言の良い見本である。資本主義者による歴史の大部分では、1917年から1921年までの、アナキストのヴォーリンが言うところの「知られざる革命」を−−普通の人々の行動によって下から生じた革命を−−無視している。レーニン主義者の説明は、せいぜい、労働者の自律的活動を賞賛している程度であり、それも党の路線と一致している時だけのことであった。党の路線から逸れるやいなや、徹底的に労働者の活動を非難している(そして、それを下劣な動機のせいだとしているのである)。つまり、レーニン主義者の説明は、労働者がボルシェヴィキに先んじているとき(1917年の春と夏のように)には労働者を賞賛するが、ボルシェヴィキが権力を握り、労働者がボルシェヴィキの政策に反対するようになると労働者を非難するのである。さらに悪い場合、レーニン主義者の説明は、大衆運動・大衆闘争を、前衛党の活動の背景に過ぎないと表現しているのである。
 だが、アナキストからすれば、ロシア革命は社会革命の典型例である。そこでは、労働者の自主活動が重要な役目を果たしていた。ソヴィエトや工場委員会などの階級組織によって、ロシア大衆は、階級に支配されたヒエラルキー型国家主義体制の社会から、自由・平等・連帯に基づいた社会へと変換しようとした。このように、革命の最初の数ヶ月は、次のバクーニンの予測を確認していたと思われる。『未来の社会組織は、労働者の自由提携や自由連合によってもっぱら下から上へと作られねばならない。当初は組合で、そしてコミューン・地方・全国へ、最後に、国際的で全世界的な大連合へと。』[Michael Bakunin: Selected Writings, p. 206] ソヴィエトと工場委員会は、バクーニンの思想を正しく表現し、アナキストはこの闘争で重要な役割を果たしたのだった。
 皇帝打倒の始まりは大衆の直接行動だった。1917年2月、ペトログラードの女性たちがパン騒動を引き起こした。2月18日、ペトログラードのプチロフ工場の労働者がストを行った。2月22日までに、ストは他の工場にも広がった。二日後、20万人の労働者がストライキを行い、2月25日までにストライキは実質的に全面的なものになっていた。同日、抗議者と軍隊との間で初めて血塗れの衝突があった。2月27日にターニングポイントが訪れた。幾つかの中隊が革命的大衆の側に付き、他の部隊を蹴散らしたのだった。このため、政府は強制手段を失い、皇帝は退位し、臨時政府が樹立されたのである。
 この運動は非常に自発的だったため、全ての政治政党は置いてきぼりにされた。そこにはボルシェヴィキも含まれていた。『ボルシェヴィキのペトログラード組織は、皇帝を打倒する運命を担った革命直前に、ストライキの呼びかけに反対した。幸運なことに、労働者はボルシェヴィキの「命令」を無視し、どのみちストライキを続行したのだった。労働者がボルシェヴィキの指導に従っていたとすれば、その時に革命が生じていたかどうかは疑わしい。』[Murray Bookchin, Post-Scarcity Anarchism, p. 194]
 新しい「社会主義」国家が革命を止めるのに充分な力を持つまで、革命は下からの直接行動の流れの中で実行されていたのである。
 左翼にとって、帝政の終焉は、社会主義者とアナキストがいたるところで長年にわたって行ってきた活動の頂点であった。人間の進歩的思考が伝統的抑圧に打ち勝ったことを示していた。全世界の左翼はこのことを充分に賞賛した。だが、ロシア内部では、物事はさらに進展していた。仕事場・街路・大地で、民衆は、封建主義を政治的に廃絶するだけでは充分ではないと徐々に確信するようになっていた。封建的搾取が経済に存続している限り、帝政を打倒したところで本当の変化はなかった。だから、労働者は仕事場を、農民は大地を奪取し始めたのだ。ロシア中で、普通の人々が自分たちの組織・労働組合・協同組合・職場委員会・評議会(ロシア語ではソヴィエト)を作り始めた。当初、こうした組織は、リコール可能な代理人を持ち、相互に連合するというアナキズムのやり方で組織されていた。
 言うまでもなく、全ての政治政党と政治組織がこのプロセスで一つの役割を果たしていた。マルクス主義社民の二つの党派(メンシェヴィキとボルシェヴィキ)が、社会革命党(農民を支持基盤にした大衆主義政党)とアナキスト同様に活動的だった。アナキストはこの運動に参加し、あらゆる自主管理の傾向を勇気づけ、臨時政府を転覆するよう熱心に説得した。革命を純粋に政治的なものから経済的・社会的なものへと変換することが必要だと主張したのである。レーニンが国外追放から戻ってくるまで、こうした路線で考えていた政治傾向はアナキズムだけだった。
 レーニンは自分の党が『あらゆる権力をソヴィエトへ』というスローガンを採択するように説得し、革命を前進させた。これは、それまでのマルクス主義の立場からハッキリと分岐することを意味していた。元ボルシェヴィキでメンシェビキに転向した人が批判していたように、レーニンは『三十年間空っぽだった欧州の玉座に立候補したのである−−バクーニンの玉座に!』[Alexander Rabinowitch, Prelude to Revolution, p. 40で引用] ボルシェヴィキは今や方向転換し、大衆の支持を勝ち取り、直接行動を擁護し、大衆の急進的行動を支援し、それまではアナキズムに関連していた様々な政策を支持したのである(『ボルシェヴィキは、それまでアナキストが特に繰り返し表明していたスローガンを掲げ始めた。』[Voline, The Unknown Revolution, p. 210])。すぐに、ボルシェヴィキはソヴィエトと工場委員会の選挙で多くの票を勝ち取るようになった。アレクサンダー=バークマンは次のように述べている。『ボルシェヴィキが声高に述べていたアナキストのモットーは、確実に結果を出していた。大衆はボルシェヴィキの旗を信頼したのだった。』[What is Anarchism?, p. 120]
 当時、アナキストも影響力を持っていた。アナキストは、工場委員会を中心とする生産の労働者自主管理運動において特に活動的だった(詳細は、モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers Control」を参照)。アナキストは、労働者と農民が有産階級を収用し、あらゆる形態の政府を廃絶し、自分たちの階級組織−−ソヴィエト・工場委員会・協同組合など−−を使って社会を下から再組織するように主張していた。アナキストは闘争の方向性にも影響を与えることができていた。アレクサンダー=ラビノビッチは(1917年7月蜂起の研究で)次のように述べている。

 一般大衆レベルでは、特に(ペトログラードの)守備隊とクロンシュタットの海軍基地の中では、ボルシェヴィキとアナキストの区別は事実上ほとんどなかった。無政府共産主義者とボルシェヴィキは、無学で元気がなく不満を抱えた同じ人口層の人々から支持を得ようと争っていた。そして事実はといえば、1917年の夏に、無政府共産主義者は、幾つかの重要な工場と連隊で享受していた支持と共に、紛れもなく出来事の方向性に影響を与えるだけの力を持っていたのだった。実際、アナキストのアピールは、幾つかの工場と軍隊においては、ボルシェヴィキ自体の行動に影響を与えるのに充分なほど大きかったのである。[前掲書, p. 64]

 実際、一人の主導的ボルシェヴィキ党員は、1917年6月に(アナキストの影響力の高まりに対して)次のように述べていた。『自分たちをアナキストから引き離すことは、自分たちを大衆から引き離すことになってしまいかねない。』[Alexander Rabinowitch, 前掲書, p. 102で引用]
 アナキストは10月革命でボルシェヴィキと共に行動し、臨時政府を転覆した。しかし、一旦、ボルシェヴィキ党の権威主義的社会主義者が権力を握ると、事態は一変した。アナキストもボルシェヴィキも多くの場合同じスローガンを使っていたものの、二つの勢力の間には重大な違いがあった。ヴォーリンは次のように論じていた。『アナキストの口と筆から出るスローガンは誠実で具体的だった。なぜなら、アナキストの原則に一致し、そうした原則に完全に合致した行動を呼びかけていたからである。だが、ボルシェヴィキの場合、同じスローガンは、リバータリアンのスローガンとは全く異なる現実的解決策を意味しており、スローガンが表現していると思われる思想とは一致していなかったのである。』[The Unknown Revolution, p. 210]
 例えば、「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンを考えてみよう。アナキストにとって、これは、正に文字通りのこと−−任務を命じられたリコール可能な代理人を基礎とし、直接的に社会を運営する労働者階級の組織−−を意味していた。ボルシェヴィキにとって、このスローガンは、ソヴィエトの上にボルシェヴィキ政府を作り出す手段でしかなかった。この違いは重要である。『アナキストが宣言したように「権力」が本当にソヴィエトに属すのならば、それがボルシェヴィキ党に属すことなどあり得ず、ボルシェヴィキが想像しているようにボルシェヴィキ党に属すのであれば、ソヴィエトに属すことなどあり得ないのである。』[Voline, 前掲書, p. 213] ソヴィエトを中央集権(ボルシェヴィキ)政府の布告を実行するだけの機関へと変形し、政府(つまり、現実の権力を持っている人々)を全ロシア−ソヴィエト会議がリコールできるようにしたところで、「あらゆる権力」は平等にはならない。全く逆なのだ。
 「生産の労働者管理」という言葉も同じである。10月革命以前に、レーニンは『労働者管理』を単に『資本家よりも優れた、普遍的で包括的な労働者管理』という点で見なしていた [Will the Bolsheviks Maintain Power?, p. 52]。工場委員会の連合を通じた労働者による生産管理それ自体(つまり賃労働の廃絶)として見てはいなかったのである。アナキストと労働者工場委員会はそのように見なしていた。S=A=スミスは正しく記しているが、レーニンは『この言葉(労働者管理)を工場委員会が使っている意味とは全く別の意味で』使っていたのである。実際、レーニンの『提案は、特徴として、徹底的に国家主義で中央集権主義だった。一方、工場委員会の実践は本質的に現場主義で自律的だったのである。』[Red Petrograd, p. 154] アナキストにとって、『労働者組織が(ボスよりも)効果的な管理を行うことができるならば、労働者組織はあらゆる生産を請け負うこともできる。その場合、民間産業の撤廃を即座に漸次的に行い、それを集団的産業に置き換えることができるだろう。従って、アナキストは、「生産の管理」という曖昧で不明瞭なスローガンを拒否したのである。アナキストが支持したのは集団的生産組織による民間産業の−−漸次的だが即時の−−収用であった。』[Voline, 前掲書, p. 221]
 一旦権力を握ると、ボルシェヴィキは、労働者管理が持つ大衆的意味合いを組織的に弱体化させ、自分たちの国家主義概念に置き換えていった。ある歴史家は次のように書いている。『ソヴィエト権力の最初の数ヶ月間で三度、(工場)委員会の指導者たちは自分たちのモデルを現実のものにしようとした。それぞれの地点で、党指導部は彼等の発言を封じた。その結果、経営権限と管理権限の双方を、中央当局に従属し中央当局が作り出した様々な国家機関に与えることになったのである。』[Thomas F. Remington, Building Socialism in Bolshevik Russia, p. 38] このプロセスのために、結局レーニンは、1918年4月に(国家が上から指名した経営者を使った)「独裁的」権力で身を固めた「ワンマン経営」に賛同し、それを導入したのだった。このプロセスは、モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers' Control」に記録されている。この本は、同時に、ボルシェヴィキの実践とそのイデオロギーとの明確な繋がりを示しているだけでなく、それが民衆活動や民衆思想とどれほどかけ離れているのかをも示している。
 ロシアのアナキスト、ピーター=アルシーノフは次のように批評している。

 同様に、もう一つの重要な特徴は、1917年の10月革命は二つの意味があったということだ。社会革命に参加した労働者大衆、そして彼等と共にいた無政府共産主義者が一つの意味を与えた。もう一つの意味は、社会革命の情熱から権力を奪い、そこから先の十全な発展を裏切り、革命の息の根を止めた政治政党(マルクス主義共産主義者)が与えた。10月に関するこれら二つの解釈は大きく隔たっている。労働者と農民の10月は、平等と自主管理の名において寄生階級の権力を鎮圧することである。ボルシェヴィキの10月は革命的インテリゲンチャ政党による権力略取、そして「国家社会主義」と大衆を支配する「社会主義的」方法の導入である。[The Two Octobers]

 当初、アナキストはボルシェヴィキを支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキはその国家構築イデオロギーを隠してソヴィエトを支持していたからである(社会主義の歴史家サミュエル=ファーバーは、アナキストは『現実に、10月革命におけるボルシェビキの無名の同盟パートナーだった』[Before Stalinism, p. 126] と書いている)。だが、この支持はすぐに萎んでしまった。ボルシェヴィキが、実際には真の社会主義を求めてはおらず、逆に自分たちのために権力を確保しようとしており、土地と生産資源の集団所有ではなく、政府所有を要求していたことがハッキリしたからである。既に述べたとおり、ボルシェヴィキは労働者管理・自主管理運動を組織的に弱体化させ、「独裁的権力」で身を固めた「ワンマン管理」を基盤とした資本主義型仕事場管理形態を望ましいとしたのである。
 ソヴィエトに関して言えば、ボルシェヴィキは、ソヴィエトの独立性と民主主義を律していたものを組織的に弱体化させた。1918年の春と夏の『ソヴィエト選挙におけるボルシェビキの大敗』を受けて、『ボルシェヴィキの軍隊は、大抵、そうした地方選挙の結果を転覆した。』同時に、『1918年3月に終わる任期中、政府はペトログラードソヴィエトの総選挙を絶えず延期していた。明らかに、政府は野党が票を多く獲得することを恐れていたのだった。』[Samuel Farber, 前掲書, p. 24, p. 22] ペトログラードの選挙で、ボルシェビキは『それまで享受していたソヴィエトでの過半数を失った』が、なおも最大の政党であり続けていた。しかし、ペトログラードソヴィエトの選挙結果は無意味だった。『ボルシェヴィキが圧倒的な強さを持っていた労組・地区ソヴィエト・工場委員会・地区労働者会議・赤軍部隊・海軍部隊にかなりの数の代表がおかれ、ボルシェヴィキの勝利が保証されていた』からである [Alexander Rabinowitch, "The Evolution of Local Soviets in Petrograd", pp. 20-37, Slavic Review, Vol. 36, No. 1, p. 36f] 。つまり、ボルシェヴィキは、自分たちの代理人でソヴィエトを圧倒することで、ソヴィエトが持つ民主的性質の土台を崩したのである。ソヴィエトで拒否されそうになって、ボルシェヴィキは自分たちにとって「ソヴィエト権力」は党の権力なのだということを示したのである。権力の座に留まるために、ボルシェヴィキはソヴィエトを破壊せねばならなかった。そして、破壊したのだ。ソヴィエトシステムは、名前だけの「ソヴィエト」にされた。事実、1919年以降、レーニンやトロツキーなどの主導的ボルシェヴィキは、自分たちが党の独裁を創り上げたことを認め、それ以上に、そうした独裁はいかなる革命にとっても必須のものだと認めたのだった(トロツキーは、スターリニズムの勃興後であっても党の独裁を支持していた)。
 さらに、赤軍はもはや民主的組織ではなかった。1918年3月に、トロツキーは将校と兵士の委員会の選挙を廃止した。

 選挙の原理は政治的に無益であり、技術的に不適当であり、これまでも現実に法令によって廃止されてきた。[Work, Discipline, Order]

 モーリス=ブリントンは正しく次のように要約している。

 ブレスト−リトフスク講和の後に軍事コミッサールに任命されたトロツキーは、すぐに赤軍を再編成した。不服従に対する死刑は、それまでは非難されていたが、復活した。さらに段階的に、将校は、敬礼・特別な敬称・別個の兵舎といった特権を持つようになった。将校の選挙を含む民主的組織形態は、すぐさま撤廃されたのである。[The Bolsheviks and Workers' Control, p. 37]

 驚くなかれ、サミュエル=ファーバーは次のように記している。『レーニンなどのボルシェヴィキ本流の指導者が、労働者管理の喪失やソヴィエトにおける民主主義の喪失を嘆いたという証拠はなく、少なくとも、レーニンが1921年に戦時共産主義がNEPに置き換えられたときに明言したように、こうした喪失を後退だとして言及したという証拠もない。』[Before Stalinism, p. 44]
 10月革命後に、アナキストはボルシェヴィキ体制を非難し、あらゆるボス(資本主義であれ社会主義であれ)から大衆を最終的に自由にする「第三革命」を呼びかけ始めた。アナキストは、ボルシェヴィズムのレトリック(例えば、レーニンの「国家と革命 State and Revolution」に書かれているような)とその現実との根本的矛盾を暴露した。権力を持ったボルシェヴィズムは、バクーニンの予言を証明した。『プロレタリア階級の独裁』は、共産党指導部による『プロレタリア階級に対する独裁』になったのだ。
 アナキストの影響力は強くなり始めていた。フランス人将校のジャック=サドゥールは、1918年初頭に次のように書いている。

 野党の中で、アナキスト団体が最も活動的で、最も戦闘的であり、多分、最も人気があると思われる。ボルシェヴィキは不安なのだ。[Daniel Guerin, Anarchism, pp. 95-6で引用]

 1918年4月、ボルシェヴィキは競争相手であるアナキストを物理的に弾圧し始めた。1918年4月12日、チェカ(1917年12月にレーニンが創設した秘密警察)がモスクワのアナキストセンターを攻撃した。他の都市にいるアナキストもその後すぐに攻撃された。左翼にいる最もうるさい敵を弾圧すると同時に、ボルシェヴィキは、自分たちが守っていると公言している大衆の自由を制限し始めた。民主的ソヴィエト・言論の自由・敵対する政治政党や政治団体・仕事場や大地での自主管理−−これら全てが、「社会主義」の名の下に破壊された。強調しなければならないが、これら全てが起こったのは、1918年5月終わりに内戦が始まるだったのだ。レーニン主義支持者の大部分はボルシェヴィキの権威主義を非難した。内戦中、この過程は加速し、ボルシェヴィキはあらゆる方面の反対者を組織的に弾圧した。権力を握ればその「独裁」を行使すると公言していた正にその階級のストライキや抗議行動をも弾圧したのだ!
 この過程が内戦勃発よりもずっと前に始まっていたことは強調されねばならない。これは「労働者の国家」など言葉の矛盾だというアナキズム理論を追認している。ボルシェヴィキが労働者の権力を党の権力に置き換えたこと(そして、この二つが闘争したこと)を、アナキストは驚きはしなかった。国家とは権力の委任である。つまり、「労働者の権力」を発現する「労働者の国家」という考えは論理的に不可能なのである。労働者が社会を運営しているのならば、権力は労働者の手にある。国家が存在するならば、権力は、万人の手ではなく、トップにいる一握りの人々の手の中にある。国家は少数者支配のために設計されている。この基本的性質・構造・設計のために、いかなる国家も労働者階級(つまり、大多数)自主管理の機関にはなり得ないのだ。だからこそ、アナキストは、労働者評議会からなる下からの連合に賛同しているのである。これが革命の媒体であり、資本主義と国家が廃絶された後に社会を管理する手段なのである。
 セクションHで論じているように、ボルシェヴィキが民衆労働者階級政党から労働者階級に対する独裁者へと堕落したのは偶然ではなかった。国家権力の現実と政治思想の結合(そして、それが生み出す社会関係)は、こうした堕落を生み出さずにはいられなかった。前衛主義・自発性の恐怖・政党権力と労働者階級権力との同一視を伴うボルシェヴィズム政治思想は、必然的に、この政党が、それが代表していると公言している人々と衝突するということを意味していた。結局、この政党が前衛であれば、自動的に、他の人々は「後衛」になる。つまり、労働者階級がボルシェヴィキの政策に抵抗したり、ソヴィエト選挙でボルシェヴィキを拒否したりすれば、労働者階級は「動揺して」おり、「プチブル」と「後衛」分子に影響されていると解釈される。前衛主義はエリート主義を生みだし、国家権力と結合して独裁になるのである。
 アナキストは常に強調しているが、国家権力とは、権力を少数者の手に委ねることを意味する。このことは自動的に社会における階級分断を生み出す。権力を持つものと持たないものの分断である。従って、ボルシェヴィキは、一旦権力を握ると、労働者階級から分離したのである。ロシア革命は、マラテスタの次の主張を確認したのだ。『政府とは、法制定を委任され、個々人を法に従うようにさせる集団的権力を使用する権限を与えられた一群の人々であり、既に特権階級であり、民衆から分離している。いかなる当局機関もそうするだろうが、政府は本能的にその権力を拡大し、民衆による管理を凌駕し、政府の政策を押し付け、政府の特殊利権を優先しようとする。特権的立場におかれることで、政府は既に民衆と対立する。民衆の長所は政府によって処分されてしまうのだ。』[Anarchy, p. 34] ボルシェヴィキが構築したような高度に中央集権型の国家は、説明責任を最小限に抑え、同時に、支配者と非支配者との分離を加速する。大衆はもはやインスピレーションと権力の源泉ではなく、「規律」(つまり、命令に従う能力」)が欠如し、革命を危機に陥れいる異質な集団だと見なされてしまう。ロシアのあるアナキストは次のように述べていた。

 プロレタリア階級は国家によって徐々に奴隷にされている。民衆は、新しく勃興した行政者階級の召使いに変えられている。この新しい階級が主としていわゆるインテリゲンチャの母胎となっている。だからといって、ボルシェヴィキ党が新しい階級システムを創り出すことを目差していたと述べているのではない。最良の意図と情熱も中央集権型権力システムに内在する諸悪によって必ず粉砕される、と述べているのだ。経営者と労働者との分離、管理職と労働者との分断は、中央集権化と論理的に直結しているのである。[The Anarchists in the Russian Revolution, pp. 123-4]

 この理由で、アナキストは、労働者階級内部での政治思想の発展が一様ではないことに同意しながら、「革命家」が労働者のために権力奪取するべきだという考えを拒否する。労働者が自分たちで実際に社会を運営するときにのみ、革命は成功する。アナキストにとって、これは次のことを意味している。『有効な解放を達成できるのは、労働者自身の直接的で広範囲に及ぶ自主的な行動によってのみである。労働者は、具体的な行動と自治を基盤とした自分たち自身の階級組織でまとまり、革命家によって支配されるのではなく、支援される。革命家は、大衆の上ではなく大衆のただ中で、専門職・技術職・防衛などの各部門で活動するのである。』[Voline, 前掲書, p. 197] 労働者権力を党の権力で置き換えることで、ロシア革命は最初の致命的ステップを踏んだ。ロシアにいるアナキストが次に(1917年11月以降に)何が起こるか予測したことが現実になったのは驚くに当たらない。

 自分たちの権力が強化され、「合法化され」るならば、ボルシェヴィキ(中央集権主義で権威主義の行動を行う人々)は、中央によって課せられた政府の独裁的方法を使って、この国と民衆の生活を再整理し始めるだろう。ボルシェヴィキは、全ロシアに党の意志を指示し、全国に命令を出すだろう。君たちのソヴィエトやその他の様々な地元組織は、次第に、中央政府の意志を伝える単なる実行機関になってしまうだろう。労働者大衆による健康的で建設的な仕事に代わり、下からの自由結合に代わり、権威主義的・国家主義的装置の導入を目にすることになろう。これは、上から作用し、圧制を使って立ちはだかるもの全てを一層しようとするであろう。[Voline, 前掲書, p. 235による引用]

 いわゆる「労働者の国家」は参加型のものにも、労働者階級人民に権能を与えるもの(マルクス主義者はそのように主張していた)にもなり得なかった。理由は単純だ。国家構造はそのようになるように作られていないからだ。少数派支配の道具として作られているため、国家構造を労働者階級を解放する手段へと転換することは(また、解放の手段となる「新しい」構造を創り出すことも)不可能である。クロポトキンが述べていたように、アナキストは『国家組織は、少数者が大衆に及ぼす権力を確立し組織化する勢力なのだから、こうした特権を破壊する働きをする勢力にはなり得ない、と主張する。』[Anarchism, p. 170] 1918年に書かれたアナキストのパンフレットの言葉を引用しよう。

 ボルシェヴィズムは、日に日に、一歩一歩、国家権力が不可分の特徴を持っていることを証明している。その名前・その「理論」・その従者を変化させることはできるが、本質的に新しい形態の権力であり、専制政治であることには何ら変わりはないのだ。[Paul Avrich, "The Anarchists in the Russian Revolution," pp. 341-350, Russian Review, vol. 26, issue no. 4, p. 347で引用]

 内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は死んだ。外の世界に対しては、ボルシェヴィキとUSSRが「社会主義」を代表するようになった。たとえそれが本当の社会主義の基盤を組織的に破壊していたとしても。ソヴィエトを国家機構に変換することで、ソヴィエト権力を政党権力に取り替えることで、工場委員会の土台を破壊することで、軍隊と仕事場の民主主義を排除することで、政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧することで、ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除したのである。ボルシェヴィキのイデオロギーと実践とは、それ自体で、革命の堕落と最終的なスターリン主義の勃興に関わる重大な要因であり、時として決定的な要因になっていたのだった。
 アナキストが数十年前に予測していたように、内戦開始以前の数ヶ月間で、ボルシェヴィキの「労働者の国家」は、他の国家と同じように、労働者階級に対する権力となり、労働者とは縁もゆかりもなくなり、少数者支配(この場合は党による支配)の道具となった。内戦がこの過程を加速させ、すぐに党の独裁体制が導入された(実際に、指導的なボルシェヴィキは、党の独裁はいかなる革命でも必須であると論じ始めた)。ボルシェヴィキは自国内でリバータリアン社会主義者を鎮圧した。クロンシュタットの蜂起とウクライナのマフノ主義運動を粉砕することで、社会主義にとどめを刺し、ソヴィエトを征服したのである。
 1921年2月のクロンシュタット蜂起は、アナキストにとって莫大な重要性を持っている(この蜂起に関する十全な議論については、付録の「クロンシュタット叛乱とは何だったのか?」を参照)。1921年2月、ペトログラードでストライキをしている労働者を支援すべく、クロンシュタット水兵が蜂起した。彼等は十五項目の決議を掲げ、その第一項目はソヴィエト民主主義の要求であった。ボルシェヴィキはクロンシュタット叛乱を反革命だと中傷し、叛乱を粉砕した。アナキストにとってこれは重大であった。内戦という観点ではこの弾圧を正当化することなどできず(内戦は数ヶ月前に終わっていたのだから)、また、この叛乱は「真の」社会主義を求めた普通の人々の大規模な蜂起だったからである。ヴォーリンは次のように述べている。

 クロンシュタットは、民衆があらゆる拘束から自分自身を解放し、社会革命を実行しようとする全く初めての独自の試みだった。これは労働者大衆が自身で直接行ったのだ。政治的羊飼い、つまり指導者や助言者などいなかったのである。これは、第三革命、社会革命への第一歩だったのだ。[Voline, 前掲書, pp. 537-8]

 ウクライナでは、アナキズム思想が最も上手く応用されていた。マフノ主義運動の庇護下にある地域では、労働者階級の民衆が自らの考えと必要に応じて自分たちの生活を直接組織していた。これこそが真の社会自決である。独学の農民ネストル=マフノの指導の下、この運動は赤と白双方の独裁と戦うだけでなく、ウクライナ民族主義者にも抵抗した。「民族自決」すなわち新しいウクライナ国家創設の呼びかけに反対して、マフノはウクライナと全世界の労働者階級自決を呼びかけた。マフノは仲間の農民と労働者に真の自由のために闘うよう鼓舞したのだった。

 征服するか死ぬか−−これこそが、この歴史的瞬間に、ウクライナ農民と労働者が直面しているジレンマである。だが、我々は、過去数年間の失敗を、新しい主人の手に運命を委ねるという失敗を繰り返すために征服するのではない。我々が征服するのは、自分の運命を自分の手でつかむためであり、自分自身の意志と、真実に関する自分自身の観念に従って、自分自身の生活を行うためなのである。[Peter Arshinov, History of the Makhnovist Movement, p. 58で引用]

 この目的を保証するために、マフノ主義者は自分たちが解放した町と都市に政府を樹立せず、自由ソヴィエトを創設させた。そのことで、労働者は自治できたのだった。アレクサンドロフスクの例を見てみよう。マフノ主義者がこの都市を解放すると、彼等は『即座に、労働者に会議に参加するように勧めた。労働者がこの都市の生活を組織し、自分たち自身の力と自身の組織で工場の機能を編成するように提案された。最初の会議の後、すぐに次の会議が行われた。労働者による自主管理の原則に従って生活を組織するときの問題点が吟味され、労働者大衆によって活発に議論された。労働者大衆は皆、自主管理の考えを最大の熱意を持って歓迎した。鉄道労働者が第一歩を踏み出した。彼等は、この地方の鉄道ネットワークを組織する責任を持った委員会を組織した。この段階から、アレクサンドロフスクのプロレタリア階級は、自主管理の諸機関を創設するという問題に組織的に目を向け始めたのだった。』[前掲書, p. 149]
 マフノ主義者は次のように論じていた。『労働者と農民の自由は彼等自身のものであり、どんな制限も受けはしない。自分たちに適しており望ましいと思うように行動し、自分たちの組織を作り、生活の全面でお互いに合意しあうこと、これは労働者や農民自身にお任せすればよい。マフノ主義者にできるのは支援することと、相談にのることだけだ。どんな状況下でも、彼等を支配することはできないし、そんなことを望みはしないのだ。』[Peter Arshinov, Guerin, 前掲書, p. 99で引用] アレクサンドロフスクにおいて、ボルシェヴィキはマフノ主義者に互いの活動範囲について提案した。ボルシェヴィキのレヴコム(革命委員会)が政治的業務を担当し、マフノ主義者は軍事業務を担当すればよい、というわけである。マフノは彼等に助言した。『労働者に奴等の意向を押し付けるなんてやめて、もっとまともな仕事をしに行ったらどうだ。』[Peter Arshinov in The Anarchist Reader, p. 141]
 同時に、マフノ主義者は自由農業コミューンを組織した。これは『確かに、数は多くなく、少数の人々だけが参画していた。しかし、最も素晴らしかったことは、貧しい農民だけでこうしたコミューンを作っていたことだった。マフノ主義者は農民にいかなる圧力も加えず、自由コミューンの思想を宣伝することだけに自分の役割を限定していた。』[Arshinov, History of the Makhnovist Movement, p. 87] マフノは地主貴族の財産を廃絶する上で重要な役割を果たした。地元のソヴィエトとその地区会議・地方会議が、農民コミュニティの全区画で土地の使用を平等にしたのだった [前掲書, pp. 53-4]。
 それ以上に、マフノ主義者は時間とエネルギーを割いて、革命の発展・軍事活動・社会政策に関する議論に全住民が参加するようにした。彼等は、政治的・社会的問題だけでなく自由ソヴィエト・労組・コミューンといったことを論じるために、労働者・兵士・農民の代理人たちの会議を何度となく開催した。アレクサンドロフスクを解放した際には、農民と労働者の地方会議を開催した。マフノ主義者が1919年4月に農民・労働者・反政府活動家の第三回地方会議を開催しようとしたとき、そして、1919年6月に幾つかの地方で臨時会議を開催しようとしたとき、ボルシェヴィキはこれらの会議を反革命だと見なし、禁止しようとし、法律に違反しているとしてそのオルガナイザーと代理人を公表した。
 マフノ主義者は、これらの会議を開催することでボルシェヴィキに応じ、次のように問うていた。『数人の自称革命家が作った法律など、自称革命家よりももっと革命的な民衆全体を追放できるようにする法律など、存在しうるのか?』そして『革命が防衛しなければならないのは誰の利益なのか?党の利益か?それとも、自分の血で革命を動かしている民衆の利益なのか?』マフノ自身は次のように述べていた。『自分たち自身の根拠で会議を招集し、自分たちの事柄を議論することは、労働者と農民が持つ不可侵の権利であり、革命によって勝ち取られた権利だと思う。』[前掲書, p. 103 and p. 129]
 さらに、マフノ主義者は『言論・思想・出版・政治結社の自由という革命的原理を十全に採用した。マフノ主義者が占拠した全ての都市や町で、彼等は、あらゆる禁止事項を撤廃し、某かの権力によって報道機関と政治組織に課せられていたあらゆる制限を破棄し始めた。』実際、『民衆に対する独裁を強制しようとする「革命委員会」の形成を禁止すること、マフノ主義者が考えた唯一の制限はこれであり、ボルシェヴィキ・社会革命党左派・その他の国家主義者たちに課す必要があると見なされたのだった。』[前掲書, p. 153, p. 154]
 マフノ主義者はボルシェヴィキによるソビエト改悪を拒否し、代りに『権威や独断的法律のない、労働者の自由で完全に独立したソビエト制』を提案した。彼等は次のように宣言した。『労働者自身が、自分のソヴィエトを自由に選ばねばならない。ソヴィエトは労働者自身の意志と願望を実行するのである。つまり、支配するソヴィエトではなく、<行政上の>ソヴィエトなのである。』経済的には、資本主義は国家と共に廃止される。大地と職場は『そこで働く人々、労働者にのものでなければならない。つまり、社会化されねばならないのだ。』[前掲書, p. 271, p. 273]
 軍隊それ自体は、赤軍とは全く対照的に、根本的に民主的だった(もちろん、内戦の恐るべき性質の結果、幾つかの点で理想からはかけ離れたものとなっていたが−−しかし、トロツキーの赤軍が強制していた体制と比較すれば、マフノ主義者は遙かに民主的な運動であった)。
 ウクライナにおけるアナキストの自主管理実験は、血の結末を迎えることになった。ボルシェヴィキはマフノ主義者(「白軍」や帝政支持者に対して戦ったかつての同盟者)が必要なくなると、敵意を向けて来たのである。この重要な運動は、このFAQの付録「何故、マフノ主義運動はボルシェヴィズムに対する代案の存在を示しているのか?」で十全に論じる。ただ、ここでは、マフノ主義運動が示している一つの明白な教訓を強調しておこう。つまり、ボルシェヴィキが達成しようとした独裁政策は、客観的情況のためにマフノ主義運動に押し付けられなかったのである。むしろ、ボルシェヴィズムの政治思想はマフノ主義者の決定に明確な影響力を持っていたのだった。結局、同じ内戦で活動的だったものの、マフノ主義者はボルシェヴィキがそうしたように政党権力という同じ政策を追求せず、むしろ、労働者階級の自由・民主主義・権力を促すことに、極度に困難な情況で(そして、そうした政策に対するボルシェヴィキの強い反対に直面しながら)成功したのだった。左翼で一般に認められた見識からすれば、ボルシェヴィキに対してはいかなる代案もあり得なかったことになっている。マフノ主義の経験はこのことに対する反証である。権力の座にいる人々同様に、多くの人々が政治的に行動し、思考する。このことは、利用可能な選択肢を制限している客観的障害物と同じぐらい、歴史の結果を決定するプロセスの一部なのである。明らかに、思想は確かに重要であり、だからこそ、マフノ主義者はボルシェヴィズムに対する実践的代案があった(今もある)ことを示している。その代案がアナキズムなのである。
 その後、1987年まで一度もモスクワでアナキストのデモは行われなかった。最後のデモ行進は、1921年にクロポトキンが死んだときだった。このデモでは、クロポトキンの棺の後を一万人以上が行進した。デモ行進を行った人々は、「権威あるところに自由なし」・「労働者階級の解放は労働者自身の仕事である」と示した黒旗を掲げた。行進がブチルキ刑務所を通りかかったとき、受刑者たちはアナキストの唄を歌い、独房の鉄格子をふるわせた。
 ロシアにいるアナキストがボルシェヴィキ体制に反対し始めたのは1918年のことだった。アナキストはこの新しい「革命的」体制に弾圧された初めての左翼グループだった。ロシアの外では、アナキストはボルシェヴィキを支持し続けていた。だがそれもボルシェヴィキ体制の抑圧的性質についてアナキスト情報筋からニュースが来るまでのことだった(その時まで、多くの人々は、資本主義賛同の情報筋からのものだとしてネガティブな報道を軽視していた)。信頼できる報道がやってくると、世界中のアナキストはボルシェヴィズムとその政党権力と弾圧システムを否定した。ボルシェヴィズムの経験は、次のバクーニンの予測を確認したのである。つまり、マルクス主義とは『本物の学者や偽学者からなる極少数の新興貴族階級が行う高度に専制的な大衆支配』を意味する。『民衆が学習しなければ、政府の世話から解放されても、統治される群衆の中に丸ごと包含されてしまうだろう。』[Statism and Anarchy, pp. 178-9]
 1921年以来、ロシア外部のアナキストはUSSRを「国家資本主義」の国だと述べるようになった(ロシア内部のアナキストは1918年以来このように呼んでいた)。個々のボスはいなくなったかも知れないが、西側で個々のボスが行っているのと同じ役割をソヴィエト国家官僚制が果たしているからである。アナキストにとって、『ロシア革命は経済的平等を達成しようとしている。この取り組みは、強力な中央集権主義政党の独裁下にあるロシアで行われているが、一党独裁の鉄則下での強力な中央集権国家共産主義を基に共産主義共和国を建設しようというこの取り組みが失敗に終わるのは必至である。我々は、ロシアにおいて共産主義がどれほど導入されていないのかを理解し始めているのだ。』[Anarchism, p. 254]
 ロシア革命とアナキストが果たした役割に関するさらに多くの情報は、このFAQの付録「ロシア革命」を参照していただきたい。付録では、クロンシュタット蜂起とマフノ主義だけでなく、この革命が失敗した理由・この失敗にボルシェヴィキのイデオロギーが果たした役割・ボルシェヴィズムに対する代案の存在についても論じている。
 以下の本もお薦めである。ヴォーリン著「知られざる革命 The Unknown Revolution」・G=P=マキシーモフ著「稼働中のギロチン The Guillotine at Work」・アレクサンダー=バークマン著「ボルシェヴィキの神話 The Bolshevik Myth」「ロシアの悲劇 The Russian Tragedy」・モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers Control」・イダ=メット著「クロンシュタット蜂起 The Kronstadt Uprising」・ピーター=アルシーノフ著「マフノ主義運動史 The History of the Makhnovist Movement」・エマ=ゴールドマン著「ロシアに対する私の幻滅 My Disillusionment in Russia」「自叙伝 Living My Life」
 これらの本の多くを書いたのは、ロシア革命時に活躍したアナキストである。大抵はボルシェヴィキによって投獄され、西側に追放になった。追放で済んだのは、モスクワに来たアナルコサンジカリストの代表団が国際的圧力を掛けてくれたおかげであった。ボルシェヴィキはアナルコサンジカリストをレーニン主義に引き入れるべく説得しようとしていた。だが、代表団の大部分はリバータリアン政治に忠実であり続け、ボルシェヴィズムを拒否するように自分たちの組合を説得し、モスクワとの関係を絶った。1920年代初頭までに、全てのアナルコサンジカリスト組合連合がアナキストと一緒になって、ロシアの「社会主義」は国家資本主義であり党の独裁であるとして拒否したのだった。

[FAQ目次に戻る]

Anti-Copyright 98-forever, AiN. All Resources Shared.