アナキズムFAQ


J.3.8 アナルコサンジカリズムとは何か?

 アナルコサンジカリズムは、(セクション A.3.2で述べたように)自由社会を創り出すためにアナキズム的戦略(例えば、直接行動)を使いながら、アナキズム的やり方で組織された産業別労働組合を作り出すことに(主として)特化したアナキズムの一形態である。国際労働者連盟の言葉で言い換えると次のようになる。

『階級戦争に根を持つ革命的サンジカリズムは、賃金奴隷のくびきからの、そして、国家の抑圧からの解放を求めて戦っている経済闘争諸組織にいる肉体労働者・知的労働者全ての組合たらんとしている。その目標は、労働者階級自身の革命的行動という手段を使い、自由共産主義に基づいて、社会生活を再組織化することにある。革命的サンジカリズムは、プロレタリア階級の経済的諸組織だけでこの目的を実現することは可能であると考え、従って、そのアピールは、社会的富の生産者であり創造者であるというその能力という点で、労働者に向けられている。経済の再組織化という観点から全く物事を考えることのできない、現代の政治的労働諸政党とは全く逆なのである。(革命的サンジカリズムの諸原理、細目1)

 「サンジカリズム」という言葉は、基本的に、「革命的労働組合」を意味するフランス語(「syndicalisme revolutionarie」)を英訳したものである。1890年代、フランスのアナキストの多くが労働組合運動内で活動し始め、内部から運動を急進化していた。フランスのConfederation Generale du Travail(労働総同盟)と関連していた自律性・直接行動・ゼネスト・組合の政治的独立という考えが世界に広がる(その一部はアナキストの接触を通じて、一部は、CGTの戦闘性に感激した非アナキストの口をついて出る言葉によって)につれ、「サンジカリズム」という言葉は、CGTが行った実例に感化された運動を示すようになった。従って、「サンジカリズム」・「革命的サンジカリズム」・「アナルコサンジカリズム」は、全て基本的に、「革命的労働組合主義」を意味しているのである(IWWが使っている「産業労働別組合主義」という言葉も本質的に同じことを意味している)。

 主たる違いは革命的サンジカリズムとアナルコサンジカリズムの間にある。アナルコサンジカリズムは、革命的サンジカリズムは余りにも仕事場に重きを置きすぎていると論じ、革命的サンジカリズムよりもサンジカリズムのアナキズム起源とアナキズム的性質をはっきりと強調している。さらに、特にフランスでは、アナルコサンジカリズムは、革命的労働組合の活動を補完するために、特定のアナキスト組織を支援することと両立すると考えられている。逆に、革命的サンジカリズムはリバータリアン社会主義を創造するためには自分達だけで充分であると主張し、政治政党同様にアナキスト集団をも拒絶している。しかし、境界線は不明瞭だと言える(さらに物事を複雑にしているのだが、サンジカリストの内には政治政党を支持しておりしかもアナキストではない者もいるのだ−−例えば、少数ではあるがマルクス主義サンジカリストもいる。ここでの議論では、こうしたサンジカリストは無視することにし、リバータリアン=サンジカリストに集中することにする)。ここでは、サンジカリズムという言葉を、それぞれの派に共通していることを述べるために使うことにする。

 サンジカリズムは、通常の労働組合主義(アナキストとサンジカリストがビジネス組合主義と呼ぶこともある。それは、丁度、ビジネスにおいてそうであるように、組合の仕事を、組合員の労働力と行動の売り手としてしか扱っていないからだ。)とは異なっている。サンジカリズムは、労働組合主義とは逆に、選挙で選ばれた役員や官僚ではなく、普通の組合員が直接管理している労働組合を基盤としている。サンジカリズム組合は労働者が生活している場所を基盤としているのではない(多くの労働組合はそうだが)。その代わり、サンジカリズム組合は仕事場を基盤とし、仕事場から運営されるのである。組合ミーティングが開かれるのも、労働者が搾取され、抑圧されている場、労働者の経済力の基となっている場なのである。サンジカリズムは地方支部の自律性に基づき、それぞれの支部はストライキを呼びかけたり終結させたり、自分達の事柄を組織化する権限を持っている。いかなる組合役員も、ストライキが「非公式的」だなどと宣言する力を持ってはいない。支部がマス=ミーティングでストライキを決めたのだから、組合員が決めた全てのストライキは、自動的に、「公式的」なものだというだけなのだ。権力は、地域支部の集会で表現されるように、個々の組合員の手中に分散されることになるのである。

 こうした自律的支部は連邦的構造の一部となり、ストライキなどの行動を調整している。仕事場でのマス=ミーティングによって、その代表者は、「労働者評議会」と「産業別組合」で組合員の希望を表現するよう命じられる。

 労働者評議会は、ある地理的地域の(例えば、ある都市や地方における)全産業の全仕事場の全支部からなる連合である。その仕事の一部には、その地域における様々な組合支部間での、教育・プロパガンダ・連帯の促進がある。全ての労働者を産業や組合とは無関係に一つの組織に組み込んでいるという事実のために、労働者評議会は、階級意識と連帯を増大させるための鍵となる役割を演じているのである。これは、二つの例を挙げれば、イタリアUSIとスペインCNT双方から見ることができる。後者の場合、『組織連結を地域に基づかせることで、ある地域の労働者全員を団結させ、労働者階級の連帯を企業的連帯よりもさらに促していた。』(J=ロメロ=マウラ著、スペインの実情、D=アプター・J=ジョール編、今日のアナキズム、75ページに収録)USIの実例も、フランスのサンジカリストFernand PelloutierがBourse du Travailを革命的力だと情熱的に弁護したことの妥当性を示している(カール=レヴィ著、イタリアのアナキズム:1870年〜1926年、デヴィッド=グッドウェイ編、アナキズムのために、48ページ〜49ページを参照)。

 一方、産業別組合は、一定地域の同じ産業の組合支部からなる連合である(炭坑労働者の産業規模組合や、ソフトウェア産業労組などがその例としてあげられよう)。これらの評議会は産業規模の闘争と連帯を組織する。このようにして、同じ産業にいる労働者がお互いを支援し合い、ある作業場にいる労働者がストライキを行うと、ボスが別な仕事場に生産を移すことができなくなり、そのことでストライキを弱めたり打ち負かしたりできないようにしているのである(こうした産業別労働組合主義がストライキを成功させるエッセンスであるということに関する十全な議論については、バークマン著、アナキズムのABC、54ページを参照。)

 もちろん、実際には、こうした二つの連合の活動は重複するであろう。労働者評議会は、産業規模のストライキや活動を支援するだろうし、産業別労働組合は、労働者評議会に召集された傘下の組合が行う行動を支援するだろう。しかし、以下のことを強調しなければなるまい。産業別連盟も産業間(地域的)労働者評議会も、『連合主義の原理、下から上への自由結合に基づき、メンバーの自己決定権を他の全てのことより上に置き、類似した関心事と共通の信念に基づいた全員の有機的合意だけを認めているのである。』(ルドルフ=ロッカー著、アナルコサンジカリズム、53ページ)

 下から上への権力分散と組織化だけでなく、常勤役員を持たないという点でもサンジカリスト組合は通常の労働組合とは異なっている。組合の仕事全ては選挙で選ばれた仲間の労働者が行い、その労働者は自分の仕事が終わった後で組合の活動を行ったり、勤務時間内に行わねばならない場合には組合の仕事を行っているときに失う賃金分をもらうのである。このようにして、高給取りの役員で構成される官僚制度が形成されず、全ての組合闘士が仲間の労働者と直接接触し続けるのである。組合活動に影響されるものがその給料・労働条件などなのだから、労働者は、組合を効果的な組織にし、普通の労働者の利益を確実に反映するようにすることに本当の関心を持つのである。さらに、全ての組合パートタイム「役員」は選挙され、委任され、解雇可能な代表者なのである。地域労働者評議会などの組合委員会に選ばれる仲間の労働者が自分を任命した労働者の意見を示していなければ、組合集会はその決定を取り消し、代表者を解任し、組合の決定を常に示す人と交替させることができるのである。

 サンジカリスト組合は直接行動にコミットし、政治政党との繋がりを、それが労働党や「社会主義」政党だったとしても、拒絶している。サンジカリズムの鍵となる考えは、組合の自律性である−−労働者の組織はそれ自身の努力で社会を変えることができ、自身の運命は自分で管理しなければならず、政党などの外部集団(アナキスト連盟も含む)に管理されてはならない、という考えである。これは、「労働者主義」(フランス語の「ouverierisme」の翻訳)、すなわち階級闘争と自身の組織の労働者管理、と呼ばれることもある。組合は、政治政党のような階級闘争組織ではなく、階級組織なのであり、全く独自に、労働者階級の熱望・利益・希望を主張できるのである。『この組織に労働者ではない人の居場所はなかった。従って、社会主義政治運動の指導力と思想双方を示す専門的中産階級知識人は軽んじられていた。その結果、サンジカリズム運動は社会主義の純粋な労働者階級形態だったのであり、自身でもそのように見なしていたのだった。(中略)サンジカリズムはプロレタリア階級の偉大なる英雄的運動として出現した。(中略)労働者階級の解放は、中産階級知識人や政治家の手助けを借りず、ブルジョア的堕落全てのない、誠実な労働者階級社会主義と文化を確立することを目的とした労働者の仕事でなければならない(中略)と真面目に主張した初めての運動だったのだ。サンジカリストにとって労働者は全てでなければならず、それ以外は無なのだ。』(Geoffery Ostergaard, 労働者管理の伝統、38ページ)

 従って、サンジカリズムは『意識的に反議会であり反政治なのである。その焦点は権力の諸現実にあるだけでなく、権力の崩壊を達成するという重要な問題にもあるのだ。サンジカリズム教義における現実の権力とは経済力である。経済力の解消方法が、全ての労働者に力を与え、その結果、社会特権としての権力を減じるのである。つまり、サンジカリズムは労働者と国家との繋がりを全て決裂させるのだ。サンジカリズムは政治的行動・政治政党・政治選挙への参加に反対する。実際、既存秩序と国家の枠組みの中で活動することを拒否しているのである。(中略)サンジカリズムは、直接行動−−ストライキ・サボタージュ・妨害工作・最終的には革命的ゼネスト−−に頼る。直接行動は、労働者の戦闘性を永続させ、反逆魂を生き生きと保つだけでなく、労働者の中にあるもっと大きな個人的イニシアティブの感覚を呼び覚ます。継続的圧力によって、直接行動は、資本主義システムの強さを、いつも、多分その最も重要な土俵−−支配する側とされる側が最も直接的に対決していると思われる場、工場−−において、試しているのだ。』(マレイ=ブクチン著、スペインのアナキスト、121ページ)

 だからといって、サンジカリズムが、全ての政治的問題を完全に無視するという意味で「政治に無関心」だというのではない。これはマルクス主義者の作り上げた神話である。アナキストに倣い、サンジカリストはあらゆる権威主義・資本主義政治運動に敵対しているが、労働者階級の利益に関係しているのであれば、「政治的」諸問題に強烈な関心を示す。従って、サンジカリストは国家や国家の役割を「無視して」はいないのである。実際、サンジカリストは、国家は資本家の財産と権力を守るために存在しているのだ、ということに充分気が付いている。例えば、英国のサンジカリストが行っている『「奴隷状態」に反対する力強いキャンペーンは、サンジカリストは社会の中での国家の役割を無視しているという考えを明らかに否定している。逆に、官僚的国家資本主義に関するその分析が、既存国家は選挙手段によって乗っ取ることができ、徹底的な社会改良のエージェントとして使うことができるという、現在優勢な労働党と国家社会主義者が持っている仮説に大きく食い込む手助けができたのである。』(ボブ=ホルトン著、英国のサンジカリズム:1900年〜1914年、204ページ)

 実際、ルドルフ=ロッカーがこの点を非常にはっきりとさせてくれている。彼は次のように書いている。『アナルコサンジカリズムは、様々な国の政治構造に全く関心がなく、したがって、時代の政治闘争にも関心がなく、その活動を完全に純粋な経済的要求を求めた闘争に制限している、など非難されることが多い。この考えは、全く誤りであり、全くの無知か、事実の意図的歪曲のどちらかから生じているのだ。アナルコサンジカリストが近代労働諸政党を形成することなど、原理上も戦術上も、それ自体で政治闘争などではない。だが、この闘争の形態とそれが掲げている目的という点では、(中略)アナルコサンジカリストの活動は、今日でさえも、国家の活動を制限する方向に向かっているのだ。(中略)今日の国家が持つ政治権力に対するアナルコサンジカリズムの姿勢は、資本家の搾取システムに対して持っているものと全く同じである。(中略)国家(中略)に対する闘争においても同じ戦術を使っている。(中略)労働者は経済的生活諸条件に対して無関心でいることなどできず、(中略)従って、自分の国が持つ政治構造に対しても無関心なままでいることなどできはしないのだ。』(前掲書、63ページ)

 つまり、サンジカリズムは政治闘争と政治諸問題に無関心なわけでも、それらを無視しているわけでもない。むしろ、経済的変革・改良のために戦っているのと同様に、政治変革・改良のために戦っているのだ−−直接行動と連帯を使ってだ。革命的サンジカリストとアナルコサンジカリストが『ブルジョア議会の仕事に参加しない、という場合、それは、彼らが政治闘争一般に同調していないからではなく、労働者にとって議会活動は政治闘争の中でも最も弱々しく最も絶望的なやり方だと断固として確信しているからなのだ。』(前掲書、65ページ)サンジカリスト(アナキストも同様だ)は、政治・経済は統合されねばならず、この統合は労働者階級組織において、サンジカリスト的にはその労働組合(もしくは仕事場評議会や集会のような組合的組織)において、生じねばならない、と論じている。労働者階級の人々のために他者が議論してくれる何かなのではなく、サンジカリストは、やはり全てのアナキスト同様、政治はいわゆる専門家(つまり、政治家)の手中にあってはならず、逆に、政治に直接影響される人々の手中に置くべきだ、と論じているのである。また、このようにして、労働組合はその組合員の政治的発達を参画と自主管理のプロセスによって促しているのである。

 言い換えれば、政治的諸問題は経済的・社会的組織で促され、労働者階級の人々が真の力を持っている場で論じられなければならないのである。このようにして、彼らはバクーニンに従っているのである。バクーニンは次のように論じていた。『政治的問題と哲学的問題を無視することなど絶対にできはしないだろう。』そして、『経済問題に排他的に集中することは、プロレタリア階級にとって致命的なものとなろう。』従って、組合はすべての労働者に対して開放され、全ての政治政党から独立し、全国の全労働者との経済的連帯を基盤にしていなければならないが、『自分の政策発展を党派と連盟に委ねながら』、『あらゆる政治理論と哲学理論を自由に論じ合うのである。』なぜなら、『政治問題と哲学問題は(中略)プロレタリア階級自身によって(中略)インターナショナルで提起されねばならない』からだ。(バクーニンのアナキズム、301ページ、302ページ、297ページ、302ページ)

 従って、革命的サンジカリズムとアナルコサンジカリズムは、政治という言葉がもつ最も幅広い意味において、深く政治的なのである。政治・経済・社会の諸条件と諸制度を根本的に変革しようとしているのである。さらに、政治諸問題を意識し、経済改良と共に政治改良を目的としているという狭義の意味でも政治的なのである。政治諸政党を支持し、ブルジョアの政治諸制度を使うようになったときに初めて「政治に無関心」になるのであって、より広い意味で「政治的」な立場であることはあたりまえなのだ!このことは明らかにアナキストが通常取る立場と同じである(セクション J.2を参照)。

 このことは、サンジカリズムと労働組合主義とのもう一つの重要な違いを示している。サンジカリズムの目的は、社会を変革することであって、既存社会の中で単に活動することではないのだ。従って、サンジカリズムは革命的なのであり、労働組合主義は改良主義的なのである。サンジカリストにとって、労働組合は、『二つの目的を持っている。疲れを知らぬ持続性を持って、現在の労働者階級の諸条件を改善しようとしなければならない。だが、この目前の関心事にとり憑かれてしまわずに、労働者は包括的な解放−−資本の収用−−という本質的活動を可能にし、切迫せしめるように気を配らねばならないのだ。』(Emile Pouget著、神もなく、主人もなく、71ページ)。従って、サンジカリズムは直接行動によって改良を勝ち取り、ゼネストを通じたこの闘争によって革命の可能性を現実のものに近づけることを目的としているのだ。実際、いかなる『望ましい改善であれ、資本家から直接奪わねばならず、(中略)資本家の特権をいつも減少させていなければならず、部分的収用でなければならないのである。』(前掲書、73ページ)エマ=ゴールドマンによれば以下の通りである:

『もちろん、サンジカリズムは昔の労働組合同様、即時的利益のために戦うのだが、労働者は社会において非人道的経済条件から人道的な条件を期待できるなどと偽るほど馬鹿ではない。だから、奪取できるものといえば、敵に無理やり産み出させることができるものだけだ。だが、全体として、サンジカリズムは賃金システムを完全に転覆することを目的としているのであり、それに向かってエネルギーを集中させているのである。

 『サンジカリズムはさらに先を行く。全人間性のための自由な生産手段の発達というその目的に適っていないあらゆる制度から労働者を解放することを目的としているのである。つまり、サンジカリズムの究極の目的は、今日の中央集権化され、権威的で、獣的な国家から、経済的・社会的自由という方向性にそった自由な、労働者集団の連合に基づくものへと社会を再構築することなのだ。

 『この目的を考慮しながら、サンジカリズムは二つの方向性で活動する。まず第一に、既存諸制度を侵食すること、そして、第二に、資本主義が放棄されたときに、十全で自由な生活ができるよう、労働者自身を発達させ、教育し、その連帯の魂を養うこと、である。

 『サンジカリズムは、本質的に、アナキズムの経済的表現形なのだ。』(赤のエマ語る、68ページ)

 そして、このことが、サンジカリスト組合の構造が明らかにリバータリアン的な理由を説明してくれる。まず、サンジカリスト組合は、権力分散型で自主管理型の組合を創り出すことで、すべての労働者に権能を与えることの重要性を示している。この組合ではすべての組合員がその政策・活動を決定する上で重要な役割を果たすのだ。意志決定への参画は、組合が『意志の学校(school for the will)』(Pougetの表現を使えば)になり、労働者が自分を統御する方法を学ぶことができるようにし、そのことで政府と国家なしで確実にやっていけるようにしているのである。第二に、『サンジカリズムは資本主義に対するこの無慈悲な圧力を行使すると同時に、新しい社会秩序を古い秩序の中で構築しようとする。組合と「労働者評議会」は単なる闘争手段でもなければ、社会革命の道具でもない。自由社会を構築するための中心となる正にその構造なのである。労働者は、古くから持っている秩序を破壊するという仕事の中で、そして、無国家リバータリアン社会を再構築するという仕事の中で、(組合内部での自分の活動によって)教育されなければならない。これら二つは車の両輪なのだ。』(マレイ=ブクチン著、前掲書、121ページ)サンジカリスト組合は、未来社会、あらゆる面において権力分散型で自主管理型の社会を予示しているものとして見なされるのだ。

 従って、既にお分かりだと思うが、サンジカリズムは、その構造・方法・目的において、労働組合主義とは異なっている。その構造・方法・目的は、明らかにアナキズム的である。サンジカリズムの指導的理論家、Fernand Pelloutierは、労働組合が、『それ自体をアナーキーな方法で統御している』のならば、『アナキズムの実践的な実地教育』になるはずだ、と論じていた(神もなく、主人もなく、55ページ、57ページ)。さらに、大部分のアナルコサンジカリストは、サンジカリズムの中で通常関連付けられている伝統的な産業型アプローチだけでなく、地域社会組織と地域闘争をも支持している。ここでは産業的側面に集中するが(というのも、単にそれがサンジカリズムの重要な側面だからというだけのことだが)、サンジカリズムは地域社会闘争に加担しうるし、事実加担している、ということは強調せねばなるまい。したがって、われわれの解説はもっと広く適用されているのである(例えば、地域集会を創造するための手段として、地域組合主義を採用する−−セクションJ.5.1を参照)。アナルコサンジカリズムが地域社会闘争とその組織を無視しているということは神話なのであり、これは、スペインCNTの歴史をその例として参照すれば分かることだ(CNTは、例えば、家賃ストライキを組織する手助けをしていたのだった)。

 サンジカリスト組合は、その政治的見解(もしくは見解の欠如)に関わらず、すべての労働者に開かれている、ということを強調せねばなるまい。組合は、労働者の労働者としての関心事を保護するために存在し、その関心事が十全に表現されることを確実にするためにアナキズム的方法で組織される。つまり、サンジカリスト組織はサンジカリストからなる組織とは異なっているのだ。その組合をサンジカリズム的にしているのは、その構造・目的・方法なのだ。明らかに、物事は変えられる(民主的構造を持っている組織ならばいかなるものであれ、これは真である)が、これは試練なのだ。革命的サンジカリストとアナルコサンジカリストが歓迎する試練なのであり、そこから逃げ出しはしないのである。組合が下から上へと自主管理するにつれ、その戦闘性と政治的中身はその組合員によって決定される。Pougetが述べているように、組合は『その組合員が示す抵抗に比例して、雇用者に抵抗を示す』(前掲書、71ページ)のである。これが、サンジカリストが、組合員が権力を確実に保持するようにする理由なのである。

 サンジカリストは、革命的組合を構築するときに主として二つのアプローチを取る−−二重組合主義内部からのくりぬき(boring from within)である。前者は、新しいサンジカリズム的組合を、既存労働組合に反対して創り出すアプローチである。このアプローチはサンジカリスト組合を構築するときに、歴史的に好まれていたやり方であり、現在でも望ましいとされている(北米・イタリア・スペイン・スウェーデンなど数多くのサンジカリストは自分の組合連合を、1900年〜1920年の間のサンジカリズム絶頂期に構築していた)。「内部からのくりぬき」は、単に、既存労働組合内部で活動し、組合を改良し、サンジカリズム的にすることを意味している。このアプローチはフランスと英国、そして少数ではあるが米国のサンジカリストに好まれていた。産業別労働組合主義についてと既存労働組合に対するアナキストの観点については、セクションJ.5.2と、セクションJ.5.3も参照していただきたい。

 だが、これら二つのアプローチは全く相反するものではない。二重組合の多くは、既存労働組合内部で最初に活動していたサンジカリストによって作られていた。こうしたサンジカリストは、官僚主義的組合の機械性にうんざりし、それを改良しようとすることにもうんざりすると、官僚主義組合とは決別し、新しく革命的な組合を作ったのだった。同様に、二重組合主義者は、労働組合が闘争することを喜んで支援するであろうし、「二つの切り札を持つ人」(つまり、労働組合とサンジカリスト組合双方のメンバー)であることが多いのだ。二重組合主義の支持者は、労働組合主義の大多数から孤立せずに、多くの労働者が参加などしないような労働組合ミーティングではなく、仕事場や闘争の現場などの重要な場所で、その多数のメンバーと接触するだろう、と主張している。二重組合主義者は、労働組合が、国家同様に、余りにも官僚主義的過ぎて、変化させることなどできず、従って、組合を改良しようとすることは時間とエネルギーの無駄なのだ(そして、「内部からのくりぬき」は、労働組合を変化させるのではなく、サンジカリストの思想を水で薄めることでサンジカリストを変化させてしまう見こみが高いだろう)、と論じている。

 しかし、サンジカリストは、自分がどの戦術を望ましいと考えているにせよ、下から管理される自律的仕事場組織を好ましいとしている。どちらの傾向も、サンジカリストが闘士のネットワークを形成し、アナキズムやサンジカリズムの思想を仕事場内部で広めていくことが望ましいと見なすものである。実際、こうしたネットワーク(通常「産業ネットワーク(industrial networks)」と呼ばれる。詳細はセクションJ.5.4を参照)は、初期の段階なのであり、サンジカリスト組合を創り出す実質的手段となるであろう。こうしたグループは闘争の最中にサンジカリズム戦術と普通の労働者からなる組織を奨励し、そのことで、サンジカリズム思想が広まり、機能しているように見えるにつれて、サンジカリスト組合を構築するための潜在可能性を創り出すであろう。

 「サンジカリズム」と「アナルコサンジカリズム」という名称は1890年代フランスにまで遡ることができるが、これらの名称に関連した思想はもっと古い歴史を持っている。アナルコサンジカリズム思想は数多くの国々で様々な時代にそれぞれ別々に発展した。ルドルフ=ロッカーは以下のように記している。アナルコサンジカリズムそれ自体は、『第一インターナショナルの懐で形作られた社会的熱情を直接引き継いでいる。これは、偉大なる労働者同盟のリバータリアン派が最も良く理解し、最も強力に保持していた熱情であった。(中略)その理論的前提は、リバータリアン、つまりアナキスト社会主義の狭義に基づいている一方で、その組織形態は革命的サンジカリズムに大部分拠っているのである。』(アナルコサンジカリズム、49ページ)

 実際、バクーニンの著作に親しんでいる人は、すぐさま、その思想の大部分が、後年サンジカリズムとして知られるようになったものを予示していることが分かるだろう。例えば、バクーニンは次のように論じていた。『労働セクションの体制・インターナショナルにおけるその連合・労働者議会によるその代表は、インターナショナルの労働者が、理論と実践を組み合わせながら、経済科学を勉強できる、そして、勉強しなければならない偉大なるアカデミーを創り出すだけではない。ブルジョア世界に置き換わることになる新しい社会秩序の生き生きとした萌芽をそれ自体で産み出すのだ。それらは、思想を創り出すだけではなく、未来それ自体の事実をも創り出すのである。』(ロッカーによる引用、前掲書、45ページ)バクーニンは、繰り返し次のように強調していた。連帯の重要性・ストライキが持つ急進化効果・権能賦与効果・『社会の古い表皮を無理やり脱がせる』手段としてのゼネストの重要性と同様に、労働組合はブルジョア階級に対して『敵対するために労働者が今使うことのできる唯一本当に有効な武器』なのだ(バクーニン入門、150ページ、153ページ)。

 (ここで、バクーニンがサンジカリズムを「発明した」などと論じてはいないことに注意していただきたい。そんなことは言ってはいないのだ。むしろ、バクーニンは労働者階級の団体で既に発展していた思想を表現しており、こうした思想を様々なやり方で明確にする手助けをしただけでなく、労働運動におけるこうしたリバータリアン諸傾向の、お望みならばこう言っても良いが、「代弁者」になったのだった。エマ=ゴールドマンが論じていたように、『サンジカリズムを大部分の哲学とは異なるものにしている特徴は、それが、実際の闘争と労働者自身の諸経験−−大学・図書館・科学者の脳内ではなく−−で意識され、生じた労働者の革命哲学を示している、ということなのだ。』(前掲書、65ページ〜66ページ)このことは、バクーニンと第一インターナショナルにも同様に当てはまる。)

 つまり、サンジカリズムは、アナキズム改訂版のようなものや、「半マルクス主義」運動の改訂版のようなものではなく、実際、「行為による宣伝」(セクションA.2.18とセクションA.5.3を参照)という悲惨な経験後の、バクーニンと第一インターナショナルのアナキストの思想的相続者だったのだ(ただし、次のセクションで論じるように、いくばくかの違いはあるが)。マルクス主義者(と自由主義者)がバクーニンについて通常書いている全くのナンセンスを考えれば、マルクス主義者が、サンジカリズムのルーツがアナキズムにあることを見落としている理由を理解するのは難しくない−−バクーニンの思想を知らなかったのではなく、アナキズムとサンジカリズムが全く異なっていると考えているのである。だが、実際は、(エマ=ゴールドマンの言葉を使えば)サンジカリズムは『本質的に、アナキズムの経済的表現』なのであり、『バクーニンとラテン系労働者の下で、(インターナショナルは)産業的方向・サンジカリズム的方向にそって着実に前進していた』のだった(赤のエマ語る、68ページ、66ページ)。同様に、米国黒色インターナショナル(1880年代にアナキストが組織した)は、『20年ほど前に、アナルコサンジカリズムの教義を先取りして』おり、『産業別労働組合主義というIWWの原理は、(黒色インターナショナルという)「シカゴの思想」に単に良くているだけでなく、(中略)シカゴのアナキストがその生命を捧げて擁護していた原理を(中略)肯定しつづける(中略)アナキストの意識的努力から生じたのだ。』(Salvatore Salerno著、赤の11月・黒の11月、51ページ、79ページ)つまり、皮肉なことだが、多くのマルクス主義者は、自身が、バクーニンに感化された思想と運動をマルクスに帰しているという興味深い立場にいることが分かるわけだ!

 さらに、アナルコサンジカリズムに類似した思想は、英国でほぼ40年前に、IWMAのリバータリアン派とは別個に発達してもいた。労働者が労働組合に組織され、直接行動を使い、労働組合連合を中心とした社会を構築すべきだという考えは、英国における初期の労働運動内部で発展していた。大英帝国・アイルランドのThe Grand National Consolidated Trade Unionは、初期の英国労働運動にいたある専門家が述べていたように、『労働組合が(中略)階級として集団的に自給自足可能なほどの生産能力を(中略)獲得し』、『職業議事堂(House of Trades)に』基づいた組合が既存国家に置き換わる、権力分散型社会主義という本質的にサンジカリスト的なヴィジョンだったのだ(ノエル=トンプソン著、人間の真の権利、88ページ)。この運動は、また、相互銀行と労働券(labour notes)に関するプルードンの考えを、彼が文章化するために筆を取る数十年前に、発展させていたのだった。この期間の素晴らしい歴史については、E=P=トンプソン著英国労働者階級の創造を参照してほしい。サンジカリズムの原型に関する十全な歴史については、ルドルフ=ロッカー著アナルコサンジカリズムに勝るものはありえないであろう。

 従って、サンジカリズムとアナルコサンジカリズム(もしくはアナキストサンジカリズム)は革命的労働組合主義なのだ。その理論的前提と組織とはリバータリアン社会主義(つまりアナキズム)の教義に基づいているのである。サンジカリズムは、既存資本主義社会の枠組み内における労働者階級の生活での改良と改善を求めた日々の闘争(直接行動によって勝ち得、部分的収用だと見なされる改良)と、資本主義と国権主義の転覆という長期的目標を組み合わせているのである。組合の目的は、革命後の生産・流通の労働者自主管理、つまり、組合が今ここで基盤としている自主管理なのである。

 サンジカリストは、こうした組織がアナキスト社会の創造を成功させるために本質的なものだと考えている。古いものの殻の中で新しい世界を構築し、人口の大部分にアナキズムとアナキズム的闘争と組織の利点を意識させるからだ。それ以上に、サンジカリストは次のように論じるのだ。サンジカリズムを『それが労働者の永続的組織を信じているから』という理由で拒絶し、『革命の正にその瞬間に「自発的に」労働者を組織』せしめるとしている人々は、『「革命的運動を」いわゆる教育を受けた階級の手中に、(中略)つまりいわゆる「革命政党」に委ねてしまうことを狙った詐欺市の手管』を促しているのであり、それは『労働者が、単に、闘争しなければならないときに戦いにやってくるだけで、平時には専門家や学生に理論作りを任せておくように期待されていることを意味しているのである。』(アルバート=メルツァー著、アナキズム:賛成論と反対論、57ページ)サンジカリスト組合は、アナキズムの「学校」と見なされており、『未来の社会主義経済の萌芽、社会主義一般の小学校なのだ。(中略)今はまだ時間があるが、こうした萌芽を植付け、可能な限り最も強靭な発達をもたらさ(なければならない)。そのことで、来たるべき社会革命を容易にし、その永続性を確たるものにできるのである。』(ルドルフ=ロッカー著、前掲書、52ページ)自主管理社会は、自主管理手段によってしか作り出すことはできない。自主管理の実践だけがその成功を確実なものにできるため、リバータリアン民衆組織の必要性が大切なのだ。サンジカリズムは、労働者が革命の覚悟をし、自分の生活を方向づけることを学習できるようになる重要な方法だと見なされている。このようにして、サンジカリズムは、バクーニンの言葉を使えば、真の民衆政治運動、を創り出し、これは、政治家や官僚という寄生虫階級を創り出さないのである。(Pelloutierは次のように書いている。『我々は、自分を解放したい、自由になりたいと望んでいるのだ。だが、急進派のポールを社会主義者のピエールと置きかえるために、自分の肌身を危険に晒してまで革命を実行したいなどとは思わないのだ。』)

 だからといって、サンジカリストが闘争中に労働者が自発的に創り出した組織(労働者評議会・工場委員会など)を支援しないわけではない。全く逆である。アナルコサンジカリストと革命的サンジカリストは、こうした組織で重要な役割を演じて来たのだ(ロシア革命・1920年代のイタリア工場占拠・英国の工場代表者運動(shop steward)などからも分かるだろう)。サンジカリズムは先頭的労働闘争の触媒として作用し、組合官僚などのイカサマ(原文のfakirsはfakersの間違い?)労働者による階級協調論的諸傾向を妨害する役割を果たすからなのである。この活動には、その一部として、何も存在していない所での自主管理組織の奨励が含まれていなければならない。そのことで、サンジカリストはこうした自発的運動全てを支援・奨励し、それらがサンジカリスト組合運動や革命成功の基盤へと変化することを望んでいるのである。それ以上に、大部分のアナルコサンジカリストは、革命の時期が始まる前に、すべての労働者が、また大多数の労働者ですら、サンジカリスト組合に参加することはないだろう、と認識している。つまり、サンジカリスト組合それ自体ではなく、闘争中に労働者が自発的に創り出した新しい組織が社会闘争の枠組みになり、ポスト資本主義社会にならねばならない、としているのだ。サンジカリスト組合にできることは、資本主義と国権主義の内部でリバータリアン的方法でどのように組織を作るのか、という実践例を提供し、その他の自発的に創造された組織と共に、自由社会の枠組みの一部を提供することなのである。

 従って、闘争中に自発的に創造された労働者組織は、革命理論とアナルコサンジカリスト理論で重要な役割を果たしているのだ。これは驚くべきことではない。なぜなら、サンジカリストは、自分自身の組織を用いて、自分の利益において自分の闘争を(そして、最終的には自分自身の革命を)管理するのは労働者なのであって、エリート政治理論家の前衛党ではない、ということを擁護しているからだ。その組織が、革命的産業組合なのか、工場委員会なのか、労働者評議会なのか、その他の労働者組織なのか、といったことはさして問題ではないのだ。大切なことは、組織が作られ、労働者自身が運営している、ということなのである。これがなされるまで、アナルコサンジカリストは、今ここでの改善を勝ち取るため生産力を突きつけて階級闘争を行う産業ゲリラなのだ。そして、直接行動とリバータリアン組織は効果的であり、資本主義と国家権力の部分的収用を勝ち取ることができるということを示すことで、アナキズムに向かう諸傾向を強めるのである。

 最後に指摘しておかねばならないが、サンジカリズムはアナキズムのルーツを持っているものの、全てのサンジカリストがアナキストだというわけではない。少数ではあるがマルクス主義者もサンジカリストであり、特に、ダニエル=デ=レオンの追随者が産業別労働組合主義を支持し、世界産業労働者を支援していた合州国ではそうなのだ。アイルランドの社会主義者ジェームズ=コネリーもマルクス主義サンジカリストであり、ビッグ=ビル=ヘイウッドもIWWの指導者であると同時に合州国社会党員でもあったのだ。マルクス主義サンジカリストは一般に、サンジカリスト組合内部での中央集権を好ましいとし(現在までのところ、IWWは最も中央集権的なサンジカリスト組合だった)、政治政党が組合活動を補完するために必要だと論じることが多い。言うまでもなく、アナルコサンジカリストと革命的サンジカリストはそれに反対し、中央集権化は反逆魂を殺してしまい、組合の真の強さを弱めてしまう、と論じている(ルドルフ=ロッカー著、アナルコサンジカリズム、53ページ)。そして、政治政党は必ず労働者組織を分断し、戦闘的組合主義と比較すると効果的ではない、と論じているのである(前掲書、51ページ)。さらに、全てのサンジカリストはアナキストではないが、全てのアナキストもサンジカリストではない(このことについては、次のセクションで論じる)。サンジカリストでもあるアナキストは、「アナルコサンジカリズム」という言葉を使って、自分がアナキストでもありサンジカリストでもあるということを示し、リバータリアンのルーツとサンジカリズムとを強調しているのである。

 アナルコサンジカリスト思想について更なる情報を求めるならば、ルドルフ=ロッカーの古典的入門書アナルコサンジカリズムと、英国のサンジカリスト、トム=ブラウンのサンジカリズムが良い出発点になる。ダニエル=ゲランの神もなく、主人もなくには、指導的サンジカリズム思索者の論文が掲載されており、同様に有用な情報源である。

 

 

J.3.9 何故多くのアナキストはアナルコサンジカリストではないのか?

 多くのアナキストがアナルコサンジカリストではない理由を論じる前に、まず最初に、いくつかの点を明らかにしておかねばなるまい。はっきりさせておこう、非サンジカリスト系アナキストは、通常、仕事場での組織と闘争・直接行動・連帯といった考えを支持しているものだ。大部分の非サンジカリスト系アナキストは、こうした問題でアナルコサンジカリストに同意している。実際、その多くがサンジカリスト組合の設立を支援してさえいるのだ。例えば、アレキサンダー=バークマン・エンリコ=マラテスタ・エマ=ゴールドマンなど多くの無政府共産主義者はアナルコサンジカリスト組織を支援しており、さらには、マラテスタのように、そうした革命的組合連盟を作り出す手助け(マラテスタはアルゼンチンでFORAを形成する手助けをした)をし、組合組織の主導的役割を担うようアナキストに対して主張していた者もいたのだった。したがって、ここで「非サンジカリスト系アナキスト」という言葉を使っても、そうしたアナキストがアナルコサンジカリズムの全側面を拒絶している、ということを示してはいない。むしろ、そうしたアナキストは、アナルコサンジカリズム思想の特定側面に対して批判的なのであって、それ以外の側面は支持しているのである。

 過去、資本主義内部で改善を求めた闘争を「改良主義的」だとして反対した無政府共産主義者が確かにいた。しかし、こうしたアナキストはごくまれで、1890年代のアナルコサンジカリズムの勃興と共に、無政府共産主義者の大多数が、改良を求めた闘争を促すことによって初めて民衆が無政府共産主義を真面目に受け止めてくれる、ということを認識したのだった。実践によってアナキスト戦術と組織の利点を示すことによってのみ、アナキスト思想は影響力を増すことができるのだ。つまり、サンジカリズムは、1880年代、特にフランスとイタリアでアナキズム運動を汚染していた「抽象的革命主義」の勃興に対する健全な反応だったのだ。だから、無政府共産主義者は、改良を求めて闘争しそれに打ち勝つことと、資本主義内部での改善の重要性に関してサンジカリストに同意しているのである。

 同様に、マラテスタのようなアナキストは、組合のような大衆組織の重要性も認めていた。彼は次のように論じている。『あらゆる種類の大衆組織を促すことは、我々の基本思想の論理帰結である。(中略)権威主義的政治政党は、その思想を押し付けようとして権力を掌握することを目的としており、民衆が無定形の大衆のままでい続け、自分で行動できず、その結果簡単に支配されてしまうことに関心を持っている。(中略)だが、我々アナキストは民衆を解放せしめたいとは思っていない。我々は民衆が自身を解放してほしいと思っているのだ。(中略)我々は、新しい生活方法が、民衆集団から生じ、民衆の発展状況に応じ、民衆が進歩すると共に進歩することを望んでいるのである。』(人生と思想、90ページ)このことは、労働組合のような民衆組織の内部で、民衆が自分自身を表現でき、共通の合意に到達でき、行動できたときにはじめて生じうるのである。それ以上に、こうした組織は自律的で自主管理的で現実にリバータリアン的で、さらにあらゆる政治政党と組織(アナキスト組織も含む)から独立していなければならないのだ。アナルコサンジカリズム思想との類似性は明らかである。

 そこで、このことが事実ならば、何故、多くのアナキストはアナルコサンジカリストではないのだろうか?二つの理由がある。まず第一に、労働組合が、その性質として、革命的組織かどうかという問題がある。第二の問題は、アナーキーを創り出すためにサンジカリスト組合それ自体だけで充分なのか、である。それぞれを順に検討してみよう。

 いかなる国であれ、労働組合の大部分は非常に改良主義的で全く官僚的である。組合は中央集権化され、権力は役員の手中にあり組合機構の頂点に横たわっている。つまり、組合はそれ自体で革命的ではないのだ。マラテスタが論じているように、このことのために、次のことが予期されるのである。『物質的関心事と即時的関心事に基盤を置いている運動(そして、大衆労働者階級運動はこれら以外の何物をも基盤におくことはできないのだ)は全て、理想とする将来に向けて闘争し献身する、思想を持った民衆の発酵・猛進・絶え間ない努力がなければ、状況に運動自体を適応させ、保守的精神を促し、新しい特権階級を創り出し、自分が破壊しようとしていたシステムを支持し、そのシステムと結合することで終わってしまうものだ。』(前掲書、113ページ〜114ページ)

 資本主義社会内部での組合の役割を見てみれば、組合が活動するためには、ボスに組合を認知させ、組合と協議する理由を示さねばならない、ということが分かる。つまり、組合は、それが獲得する改良ならいかなるものであれ、その見かえりとして何かをボスに提供できなければならないのだ。この「何か」が労働者の規律なのである。給与や待遇の改善の見かえりとして、労働組合は、組合がボスと結んだ契約に服従することに労働者を同意させることができなければならないのだ。言いかえれば、組合は、何か取引しようとすれば、その組合員を管理−−ボスとの闘争を止めるようにさせることが−−できなければならないのである。このため、組合は、産業における第三の力になり、それが代表していると公言している労働者とは異なる関心事を持つことになるのである。労働力の売り手としての労働組合主義の役割とは、つまり、妥協を重ね、その妥協に組合員を同意させることなのだ。このため、平凡な組合員から権能を奪い取り、組織のトップにいる組合役員の手中に中央集権化する傾向を持つのは必然なのである。このことが次のことを確実にしているのだ。『労働者組織は、資本主義社会にやむを得ず存在しなければならないもの−−ボスに認められることを拒絶し、ボスを打倒するのではなく、単に、ボスの権力を束縛し限定するための道具−−になり果てるのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、アナキスト革命、29ページ)

 アナルコサンジカリストは、この問題を理解している。だからこそ、その組合は権力分散で、自主管理的で、下から上への連合的方法で組織されるのだ。ドゥルティは以下のように論じていた:

『底辺レベルでない限り、組合委員会にはアナキストはいない。こうした委員会では、ボスと衝突する場合、合意に達するために闘士に妥協を強いるのだ。この立場から生じる契約と活動は、闘士を官僚主義に向かわせる。この危険を意識しているため、我々は委員会を運営しようとは思わないのである。我々の役割は、我々の組織同様に、組合組織を悩ます可能性を持った様々な危険を底辺から分析することである。いかなる闘士であれ、委員会での自分の仕事を自分に割り当てられた時間以上に引き伸ばしてはならない。不変的で不可欠な人間などいないのだ。』(ドゥルティ:武装した人々、183ページ)

 だが、構造それ自体だけでは、資本主義経済における組合の役割が創り出す官僚主義的諸傾向を害するためには不充分である。非サンジカリスト系アナキストは、こうしたリバータリアン構造は官僚制度に向かう傾向を遅くすることができるものの、その傾向を止めることはできない、と主張し、その実例として、1914年までに改良主義になり果てたフランスCGTのを指摘する(他のサンジカリスト組合の大部分は、十全に発達する機会のないままファシズムや共産主義によって破壊されていた)。スペインCNT(これまでのところ最も成功したアナルコサンジカリスト組合だ)でさえも、改良主義の問題に苦しみ、組合内部のアナキストが1927年にFAIを結成して改良主義と戦ったのである(そして非常にうまく戦ったのだった)。Jose Peiratsによれば、『大衆運動であるCNTにアナキスト集団が参加したことは、CNTの革命的性質を保証する手助けとなっていた。』(スペイン革命のアナキスト、241ページ)つまり、マラテスタが、アナキストは組合内部で活動しているときも、組織的に組合とは別個のものでい続けねばならない、と論じていたことは妥当だったのである(同様に、Peiratsも次のように述べている。『組合委員会に参画することに目を眩まされると、FAIはさらに幅広いヴィジョンを持てなくなったのだった。』(前掲書、239ページ〜240ページ)このコメントは組合においてアナキストが責任ある立場になることに反対したマラテスタの警告が妥当だったことを示しているのだ。)

 さらに、サンジカリスト組合の構造さえもが幾つかの問題を引き起こす可能性がある。『構造的にブルジョア経済を模倣することで、サンジカリスト組合は、それが敵対していると公言している非常に中央集権化された機関の組織的片割れになる傾向を持っていた。しっかりと結びついているブルジョアと国家機構を効果的に扱わねばならないと主張することで、サンジカリスト組合の改良主義指導者が組織管理を底辺から頂上へと変化させることは、多くの場合、さほど難しくなかったのである。』(マレイ=ブクチン著、スペインのアナキスト、123ページ)

 さらに、サンジカリスト組合の規模と影響力が拡大するにつれ、当初持っていた急進主義は通常水で薄められてしまうものだ。この理由は以下の通りである。『組合は主人からより良い生活条件を勝ち取りたいと望んでいる人々全てに、その意見がどのようなものであろうとも、門戸を開けつづけていなければならないため、(中略)自分達と共に活動しようとしている人々を怖がらせないために、そして、思想を持って運動を開始した人々は、その運動が持つちょっとした利益にしか関心を持っていない大多数の中に埋もれてしまうため、自然とその情熱を中和することになるのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、アナキズムとサンジカリズム、Geoffrey Ostergaard著、労働者管理の伝統、150ページに掲載されている)

 これは、自主管理の増大が官僚制度に向かう諸傾向を減じる手段だということからすれば皮肉なのだが、サンジカリスト組合は改良主義に向かう傾向を持っているということを意味しているのである。何故なら、組合が非革命的時期に大規模になれば、そのメンバーの大多数が非革命的になるからだ。このことは、スウェーデンのサンジカリスト組合、SACの発展を見ればよく分かる。SACは非常に戦闘的な小人数組合から出発したが、非革命的な時期にはメンバーを維持するためにその政策を水で薄めたのだった。

 そこで、組合の戦闘的戦略が改良を勝ち取ることができた場合には、さらに多くの労働者が組合に加入するだろう。非アナキストと非サンジカリストの流入は、自主管理組織においては、非革命的時期には、組合政策と活動を脱急進化する影響を持つことになる。サンジカリストは、改良を求めた闘争プロセスが、自主管理と参画が持つ教育効果と組み合わされることで、この影響は減じられる、と論じるかもしれない。もちろん、それは正しい。だが、非サンジカリスト系アナキストは次のように反論するであろう。闘争と参画によって産み出されたリバータリアンの影響力はアナキスト集団の活動によって強められ、この活動抜きには、脱急進化の影響力がリバータリアンの影響力に勝ってしまうだろう。さらに、サンジカリスト組合の成功は、一般的な階級闘争のレベルによって一部決定されなければならないのである。重大な闘争の時期には、メンバーは平時よりも急進的になるだろう。そして、サンジカリスト組合が最も苦難を経験するのが平時なのである。中道派メンバーがいると、組合が持つ革命の目的と戦術も穏健なものになる。フランスのサンジカリズムに関する学者が書いていたように、サンジカリズムは『自分の生活条件をより良いものにし、階級意識を構築し、革命の準備をするために、経済的領域で活動している労働者をいつも基盤としている。生存と労働者階級運動構築の必要性が、いつでも、運動が持つ急務にサンジカリストを無理やり適応せしめてきたのだ。』(バーバラ=ミッチェル著、フランスのサンジカリズム:実践的アナキズムの実験、Marcel can der Linden and Wayne thorpe(編)革命的サンジカリズム:国際的観点、25ページに含まれている)

 多くのサンジカリスト組合の歴史からわかるように(そして、明らかにメインストリームの組合もそうだ)、このことは真実だと思われるのだ−−リバータリアン諸傾向は、脱急進化の傾向に負けてしまうのである。このことは集団的労使交渉の問題からもよく分かるだろう。

『集団的労使交渉の問題は、既に発達した資本主義社会においてサンジカリスト原理を維持することの難しさを予示していた。国際的サンジカリスト運動内部の多くの組織は、当初、雇用者との集団的合意を拒否していた。その理由は、仕事場での規律に対する責任を集団的に共有することによって、こうした同意が組合の官僚主義化を拡大し、革命的精神を押しつぶし、労働者が階級敵対者に対していつも堅持しようとしている行動の自由を制限すると思われるからだ。しかし、当初から、懐疑と抵抗の時期が終わると、多くの労働者はこの立場を放棄しているものだった。20世紀初頭の10年間で、大多数のメンバーを維持したり、獲得したりするために、サンジカリスト組合は集団的労使交渉を受け入れなければならなかったのだ。』(Marcel van der Linden and Wayne Thorpe著、前掲書、19ページ)

 つまり、大部分のアナキストにとって、『労働組合は、その性質上改良主義であり、革命的ではないのだ。革命的精神は、外部だけでなく自身の階級内部でも活動している革命家の継続的行動によって導入され、発展され、維持されなければならないのである。だが、このことが労働組合の機能の通常・自然な定義になることなどありえないのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、人生と思想、117ページ)

 だからといって、アナキストが労働者組織内部で活動すべきではない、ということを意味してはいない。アナキスト戦術としてのアナルコサンジカリスト組合を拒絶せよと言っているわけでもない。全く逆である。むしろ、こうした組織を、そうあるものとして、認識することは正しいのである。つまり、それ自体で目的なのではないが、アナキズムを達成する道を準備する一つの(重要ではあるが)手段なのだとして、改良主義組織を認識するのだ。アナキストが労働者組織をできるだけアナキスト的にしようとしたり、アナキストの目標を持たせるようにすべきではない、などと述べているわけでもない。労働運動内部(もちろん、普通の労働者の中でだ)で活動することは、アナキズム思想の影響力を獲得するためには本質的なことであり、同様に、未組織労働者と共に活動することも重要なのである。しかし、だからといって、サンジカリズムが述べているように、労働組合は本質的に革命的だ、という意味ではない。歴史が示しているように、そしてサンジカリスト自身が気付いているように、労働組合の大部分が改良主義なのだ。非サンジカリスト系アナキストは、これには理由があり、サンジカリスト組合が単に自分達のことを革命的だと述べているからといってこうした諸傾向から逃れてはいない、と主張する。こうした諸傾向のために、非サンジカリスト系アナキストは、階級闘争に影響を与え、階級闘争に打ち勝つための自律的仕事場・地域社会組織を奨励するために、まず第一に、アナキストとして最初に組織を作ることの必要を強調しているのである。アナキズム運動と労働者階級運動を融合させるのではなく、むしろ、非サンジカリスト系アナキストは、労働者階級運動に影響を与えるために、アナキストがアナキストとして組織を作ることの重要性を強調しているのである。

 このこと全ては、純粋なアナキスト組織や個々人のアナキストが改良主義的になることなどありえない、と述べているのではない。当然、そうなる可能性はある(スペイン革命中、CNTと共に国家に協力したスペインFAIを見てみればよい)。だが、サンジカリスト組合とは異なり、アナキスト組織は、社会におけるその役割を理由に改良主義を推し進めることはない。これは重要な違いである−−制度的要因はサンジカリスト組合連合には存在するが、アナキスト連盟には存在しないのだ。

 多くのアナキストがアナルコサンジカリストではない第二の理由は、アナーキーを創造するためにサンジカリスト組合それ自体だけで充分なのか、という点にある。フランのサンジカリスト、ピエール=モナットは次のように論じている。『サンジカリズムは、(CGTの)Amiens会議が1906年に宣言によれば、組合だけで充分なのだ。(中略)なぜなら、ついに大多数を獲得した以上、労働者階級とは、自己充足的になり、その解放を他者に依存しないことを意味するからだ。』(アナキスト読本、219ページ)

 自己充足性というこの考えは、サンジカリズムがアナキスト集団と労働組合双方の役割を演じつつ、アナキズム運動とサンジカリズム運動が一つに融合しなければならない、ということを意味している。したがって、アナルコサンジカリストとアナキストの鍵となる違いは、アナキズムに特化した組織が必要かどうかという問題にかかっている。大部分のアナキストはアナルコサンジカリズムに同情的ではあるものの、純粋形態のアナルコサンジカリズム思想に完全に賛同している者はほとんどない。その理由は、純正サンジカリズムは、アナキスト集団という考えを拒絶し、社会闘争とアナキスト活動主義の「正なる」焦点として組合を考えているからなのだ。だが、「純正」サンジカリズムは、アナルコサンジカリズムというよりも、革命的サンジカリズムとして記述したほうが良いと思われる。例えば、フランスにおいて、アナルコサンジカリズムは、組合がアナキスト集団で補完されても構わないという思想のことを指しており、革命的サンジカリズムは組合だけで充分であるという考えを指している。そこで、アナルコサンジカリストは、組合内外で活動するために、特定のアナキスト連盟を支援しても構わないのである。他のアナキストの目から見れば、「純正」アナルコサンジカリズム(革命的サンジカリスト)は、アナキズム運動と労働組合運動を混同するという誤りを犯しており、そのために、結果として生まれる運動はいずれにせようまく行かないことを保証していることになる。マラテスタが述べていたように、『アナキズム運動と労働組合運動を融合させたり、混同したりすることは、結局、その後、特定の活動課題を実行することをできなくさせたり、アナキスト精神を弱め・歪め・消耗させることになるのだ。』(人生と思想、123ページ)

 だからといって、アナキストは労働運動で活動すべきではない、などとは示唆していない。それは誤りである。アナキストは、アナキストとしてのアイデンティティを持ち、アナキストとして組織を作りながら、労働運動で普通の労働者と共に活動すべきである。例えば、マラテスタは次のように述べている。『過去、私は、同志が自分を労働者階級運動から孤立してきたことを嘆いていた。今日、私は、全く逆に、我々の多くが労働者階級運動に吸収されるままになっていることを嘆いているのだ。』(アナキズム読本、225ページ)

 大部分のアナキストはマラテスタの次の主張に同意している。『アナキストは、労働組合がアナキズム的になってほしいなどと思うのではなく、アナキズムの目的のために、個人として、集団として、諸集団からなる連合としてその階級内で活動しなければならない。(中略)現状のような状況では、そして仕事仲間の社会的発達が現在のような程度であるということを認識すれば、アナキスト集団は労働者組織がアナキストのように活動することを期待すべきではなく、あらゆる努力を行って可能な限りアナキズム的方法に近づけさせるようにすべきなのである。』(人生と思想、124ページ〜125ページ)労働組合が、本質的に改良主義であるということが事実だと思われる以上、自由社会を創り出すために組合だけで充分だなどとは期待できないのである。したがって、アナキストが、戦術と目的に関するアナキズムの考え方を広めるために仲間の労働者のそばに労働者としているだけでなく、アナキストとして組織を作ることが必要なのだ。既存組合内部でのこの活動は、組合をリバータリアン的方法で「改良」しようとすることを意味してはいない(アナキストの中にはこのアプローチを支持している者もいるだろうが)。むしろ、組合にいる普通の労働者と共に活動し、労働組合の官僚主義から独立し、リバータリアンの方法で組織された、自律的仕事場組織を創造しようとすることを意味しているのである。

 このことには、労働組合とは別個だが、アナキズムの目的のために労働運動内部で活動するアナキスト組織を作り出すことが含まれる。サンジカリスト組織は労働組合なのであり、労働者の政治的見解とは無関係にあらゆる労働者を組織している、ということを忘れないようにしよう。アナキストだけが参加している「組合」はもはや組合ではないであろう。それは、仕事場で組織されたアナキスト集団になるであろう。アナルコサンジカリスト自身が気付いているように、アナルコサンジカリスト組合は、アナルコサンジカリストからなる組合ではない。非アナキストからなる組織が完全にアナキズム的になるなどと期待できるだろうか?ここで、労働組合になるのか、それとも革命的アナキスト組織になるのかという衝突の問題が生じる。このために、改良主義のサンジカリスト組合内部でいつも様々な傾向が出現していたのであり、このために、大部分のアナキスト−−ここには多くのアナルコサンジカリストも含まれると明記しておかねばなるまい−−は、アナキズムの理想と目的を広めるために、既存組合内部で(組合員ではない労働者と共に)普通の労働者の中で活動することが必要だ、と論じているのである。そして、このことは、労働運動がサンジカリスト組合に基づいているのであれば、アナキスト組織は労働運動とは別個のものである、ということを意味しているのである。バクーニンは以下のように論じている。アナキスト組織は『インターナショナル(つまり、労働組合の連合)に対する必要な補完組織である。だが、インターナショナルと同胞団(アナキスト連盟)は、同じ究極的目標を持っているものの、異なる機能を果たすのである。インターナショナルは、国籍・宗教的信念・政治的信念に関わらず、労働者大衆をひとつのコンパクトな組織へと統一する努力を行っているのであり、逆に、同胞団は、こうした大衆に真に革命的な方向性を与えようとしているのである。』だからといって、同胞団は組合員に外来の理論を押し付けようとするのではない。その理由は次の通りである。『それぞれのプログラムは(中略)その革命的発展の程度においてのみ異なっている。(中略)同胞団のプログラムはインターナショナルの十全なる開花を示しているのである。』(バクーニンのアナキズム、157ページ)

 つまり、大部分のアナキストにとって、サンジカリスト組合はアナキスト組織によって補完される必要があるのである。このことは、アナキスト社会を創造するためには、サンジカリスト組合だけでは不充分だということを意味している(言うまでもなく、あらゆる種類の大衆組織は、アナキスト社会を創造するために本質的なのであり、自主管理が実践される枠組みである)。アナキスト集団は、仕事場の外同様に内部でも、直接行動と連帯というアナキスト戦術・組合内部でのアナキスト組織・アナキズムの目的(アナキスト社会の創造)を促さねばならない。だからといって、アナキストは、組合などの大衆組織はアナキストによって統制されるべきだ、などと考えているのではない。全く逆なのだ!アナキストは大衆組織すべての自律の最も強力な支援者なのである。既にセクション3.6で示したように、アナキストは大衆の中でアナキズム思想が強くなることよって大衆組織に影響を与えたいと願っているのであって、大衆に思想を押し付けることによってではないのだ

 さらに、こうした主要な不一致点に加え、幾つかの細々とした不一致点もある。例えば、多くのアナキストはサンジカリストが仕事場に強調点をおいていることを嫌い、『サンジカリズムにおいて、コミューンから労働組合へ、抑圧されている人々全てから産業プロレタリア階級のみに、路上から工場へ、少なくともこれは強調しなければならないが、暴動からゼネストへと焦点が移った』(マレイ=ブクチン著、スペインのアナキスト、123ページ)と見なしている。しかし、大部分のアナルコサンジカリストは仕事場外での生活を充分意識しており、したがって、この意見の不一致は大部分強調点の違いでしかない。同様に、多くのアナキストは、初期のサンジカリストが、ゼネストだけで充分に革命は生じるのだ、という主張に同意してはいない。アナキストは、マラテスタがその最前線にいるのだが、ゼネストは『社会革命を開始する素晴らしい手段』になるだろうが、ゼネストが『武装蜂起を不用に』すると考えることは間違っている、と論じている。何故なら、『ゼネストの最中に空腹のために真っ先に死ぬのは、すべての商店を処分するブルジョアではなく、労働者なのだ』からだ。このことが生じないようにするために、労働者は、警察と武装兵士が警備している商店と生産手段を乗っ取らねばならないだろう。このことは蜂起を意味するのだ。(エンリコ=マラテスタ著、アナキズム読本、224ページ〜225ページ)だが、ここでも、大部分の近代サンジカリストは、このことが真実だと認め、フランスのサンジカリスト、Pierre Besnardの言葉を借りれば、『収用的ゼネスト』を『明らかな蜂起』だとしているのである。(ヴァーノン=リチャーズ著、人生と思想、288ページに引用されている)我々がこの点を述べているのは、純粋に、サンジカリストは1890年代に行ったことと同じことに賛同しているというレーニン主義者の主張に反論するためである。

 様々な批判をしてきたが、アナキストとアナルコサンジカリストとの違いは微々たるもので、単に強調点の違いに過ぎない(場合が多い)と認識すべきである。アナルコサンジカリスト組合がその場に存在すれば、大部分のアナキストはそれを支援し、組合を創り出し組織するときの重要な役割を演じることが多い。同様に、数多くの自称アナルコサンジカリストも、サンジカリスト組合内外で活動するアナキスト組織を支援している。アナルコサンジカリストと革命的組合は、現在も存在しており、他の労働組合よりも遥かに進歩的である。民主的労働組合を構築し、アナキズム思想が尊敬を持って耳を傾けられるような雰囲気を創り出しているだけでなく、指導者と指導される側、行為者と観察者といった分断を破壊するようなやり方で組織を作り、闘争しているのである。それ自体で、このことは非常に良いことなのだが、それでもまだ充分ではない。非サンジカリスト系アナキストにとって、欠落している要素があるのだ。それは、革命的労働組合とその他労働者階級の人々が集まっている場所双方の中で、アナキズム思想とアナキズム手段の支援を勝ち得る組織なのである。

 サンジカリズムに対するアナキストの批評に関する情報については、エンリコ=マラテスタの著作が最も良い源泉となるだろう。アナキズム読本には、サンジカリスト、ピエール=モナットとマラテスタが1907年にアムステルダムで行われた国際アナキスト会議において行った有名な議論が収録されている。マラテスタ:人生と思想アナキスト革命には、アナキズム・サンジカリズム・アナキストが労働運動内部でどのように活動すべきなのかに関するマラテスタの見解が収録されている。

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