アナキズムFAQ


A.2.18 アナキストはテロを支持するのか?

 支持しない。それには三つ理由がある。
 まず、テロとは、何の罪もない人々を殺す標的にしたり、それを憂慮したりしないことを意味している。アナーキーが存在する為には人民大衆がアナーキーを作り出さねばならない。他人を爆破することで自分の考えを認めさせることなどできない。第二に、アナキズムは自己解放に関するものだということである。社会関係を爆破することなどできない。ごく一部のエリートが大多数のために支配者に対して破壊行動をしたところで、自由は創造できない。単純に述べてしまえば『数世紀に渡る歴史に基づいた構造を、数キロの爆薬で破壊することなどできないのだ。』[Martin A. Millar, Kropotkin, p. 174で引用されているクロポトキンの言葉] 民衆が支配者を必要だと感じている限り、ヒエラルキーは存在する(詳細は
セクションA.2.14を参照)。前にも強調したが、自由を与えることなどできない。自由は勝ち取るのである。第三に、アナキズムは自由を目指している、ということである。バクーニンは次のように述べている。『人間の解放を求めて革命が実行されているときには、人間の生命と自由とが尊重されねばならない。』[K.J. Kenafick, Michael Bakunin and Karl Marx, p. 125で引用] アナキストの考えからすれば、手段が目的を決定する。テロは本来、個人の生命と自由を侵害する。従って、アナキズム社会を構築するために使うことなど出来ないのである。例えば、ロシア革命の歴史はクロポトキンの以下の洞察を証明していた。『テロによってしか勝利することが出来ないならば、将来の革命は非常に悲しいものとなるだろう。』[Millar, 前掲書, p. 175で引用]
 それ以上に、アナキストが反対しているのは、個々人ではなく、特定個人が他者に対して権力を持ち、その権力を乱用(つまり使用)できるようにしてしまう制度と社会関係とである。アナキズム革命とは、そうした構造を破壊することに関わっているのであって、民衆の破壊ではない。バクーニンが指摘しているように、『我々は、人間の死ではなく、身分とその役得の廃絶を望んでいる。』そして、アナキズムは『ブルジョア階級を構成する人々の死を意味するのではなく、労働者階級と経済的に区別できる政治的・社会的実体としてのブルジョア階級の死を望んでいるのである。』[The Basic Bakunin, p. 71 and p. 70] テロに反対するアナキズムの主張を示したパンフレットのタイトルを引用すれば、『社会関係は爆破できない』のである。
 では、アナキズムはどの様にして暴力と関連付けられてしまったのだろうか?この理由の一部として、国家とメディアが、本来アナキストではないテロリストをアナキストだと決め付けていることが挙げられる。例えば、ドイツのギャング、バーダー=マインホフは、マルクス−レーニン主義だと公言していたにも関わらず、「アナキスト」だと呼ばれることが多かった。残念だが、悪口は広がるものである。同様に、エマ=ゴールドマンは次のように指摘している。『アナキズム運動に親しんでいるほとんどの人が知っている事実であるが、アナキストが罪を被らねばならなかった(暴力)行為のほとんどが、資本主義新聞に端を発したものか、直接行われなかったにせよ警察によって扇動されていたものかのどちらかであった。』[Red Emma Speaks, p. 262]
 このプロセスが作用している実例は、現在の反グローバリゼーション運動からも見ることが出来る。例えば、シアトルでは、メディアは抗議者(特にアナキスト)による「暴力」を報道していた。しかし、これは結局のところいくつか窓ガラスが割られたという程度だった。抗議者に対して警察が行ったもっと大きな実際の暴力(ついでに言えば、これは窓ガラスが割られる前に始まっていた)は、コメントの価値もないと見なされたのだった。その後に反グローバリゼーションのデモをメディアが報道する際には、このパターンが踏襲された。抗議者は、国家の手による大きな暴力を被ったにもかかわらず、暴力は断固としてアナキズムに結び付けられた。アナキスト活動家のスターホークは次のように述べている。『窓ガラスを壊し、警察の攻撃に反撃することが「暴力」だというのなら、新しい言葉をくれ。警官が無抵抗の人たちを昏睡状態にしているときに使うべき、数千倍強烈な言葉をくれ。』[Staying on the Streets, p. 130]
 同様に、2001年のジェノア抗議行動で、メインストリームのメディアは、抗議行動参加者を暴力的だと示していた。国家が抗議者の一人を殺し、数千人以上を入院させたにも関わらずである。抗議者の中におとり警官がいて、暴力行為をしたことはメディアでは触れられなかった。スターホークはその後に次のように述べていた。ジェノアで『私たちは、注意深く画策された国家テロ政治キャンペーンに出くわした。このキャンペーンには、デマ・スパイと工作員の利用・公然ファシストグループとの結託・非暴力グループを意図的に狙った催涙ガスと殴打・イタリア特有の警察の残虐行為・囚人の拷問・主催者に対する政治的迫害が含まれていた。こうしたことが公然と行われていたのだ。これは、ある意味で、彼らは反響を全く恐れておらず、その筋の最も高いところから政治的に保護されていたことを示している。』[前掲書, pp. 128-9] 当然、これがメディアで報道されることはなかった。
 その後の抗議行動でも、メディアがさらに多くの反アナキスト詐欺に傾倒していることが見られている。アナキストは集団暴力を計画している憎しみに満ちた個々人だという記事をでっち上げているのである。例えば、2004年のアイルランドでは、メディアの報道によれば、アナキストはダブリンで行われるEU関連の式典で毒ガスを使おうとしていたことになっていた。もちろん、そのような計画の証拠は見つからず、そのような行動も行われなかった。アナキストが組織しているとメディアで報道された暴動も起きなかった。同様の虚報は、ロンドンで行われた反資本主義メーデーデモとニューヨークで行われた共和党全国大会反対抗議行動の際にも付随していた。イベントが終わるといつも誤っていたと証明されるにもかかわらず、メディアは常にアナキストの暴力に関する恐ろしい話を活字にする(例えばシアトルでは、記事を正当化するために出来事をでっち上げ、さらにアナキズムを悪者扱いしさえしていた)。つまり、アナキズムが暴力と等しいという神話が作られているのである。言うまでもなく、アナキストによる(存在しない)暴力の脅威を煽り立てている新聞は、こうしたイベントでデモ参加者に対して警察が実際に行った暴力・弾圧については沈黙したままである。また、その(証拠のない)破滅記事が、その後のイベントでナンセンスだということが明らかになった後でも、謝罪文を掲載することもない。
 だからといって、アナキストが暴力行為を行ったことはない、という意味ではない。行ったことはある(他の政治運動や宗教運動のメンバー同様に)。テロとアナキズムが関連付けられている主な理由は、アナキスト運動で「行動によるプロパガンダ」時代があったためである。
 当時(大体1880年から1900年まで)、少数のアナキストが頻繁に支配階級メンバー(皇族や政治家など)を暗殺していた。さらに悪いことに、この時期に標的になったのは、ブルジョア階級メンバーが足繁く通っていた劇場や小売店だった。この行為が「行動によるプロパガンダ」と名付けられた。アナキストは、ロシアのポピュリスト(ナロードニキ)が1881年にアレクサンドル二世を暗殺したことに刺激されてこの戦術を支持するようになった(「自由 Freiheit」誌において、圧制者の暗殺と大逆を賞賛したヨハン=モストの有名な論説「遂に! At Last!」はこの出来事に刺激されていた)。だが、この戦術をアナキストが支持したのには、もっと深い理由があった。まず第一に、労働者階級人民に対して向けられた弾圧行為の復讐のためであった。そして第二に、抑圧者を倒すことは可能だと示すことで、民衆の叛乱を促す一つの手段だと考えられていたのである。
 こうした理由を考えれば、行動によるプロパガンダがフランスで始まったのは偶然ではない。フランス国家はパリコミューンを残虐に弾圧し、二万人以上の民衆を殺し、多くのアナキストも殺された。興味深いことに、パリコミューンの復讐でアナキストが行った暴力については比較的良く知られているものの、コミューン支持者を国家が大量虐殺したことについてはそれほど知られていない。同様に、イタリア人アナキスト、ガエターノ=ブレシが1900年にイタリア国王ウンベルトを暗殺したことや、1892年にアレキサンダー=バークマンが、カーネギー鉄鋼会社の経営者ヘンリー=クレイ=フリックを殺そうとしたことも知られているかもしれない。だが、ウンベルトの軍隊が抗議行動をしている農民を砲撃して殺したことや、フリックが所有していたピンカートン探偵社がホームステッド工場でロックアウト中の労働者を殺害したことは余り知られていない。
 国家主義者と資本家の暴力が、このように軽視されていることは驚くべきことではない。マックス=シュティルナーは次のように指摘している。『国家の行動は暴力であり、その暴力を国家は「法律」と呼んでいる。個人の暴力は「犯罪」だとされるのだ。』[The Ego and Its Own, p. 197] アナキストの暴力は非難され、それを喚起した抑圧(多くの場合はもっと酷い暴力)は無視され、忘れ去られてしまう。アナキストは、自分たちを「暴力的」だとして非難していることはペテンだと指摘する。そうした主張は政府の支持者か現実の政府それ自体が行っているのである。政府は『暴力を通じて生まれた。暴力を通じて権力の座にあり続け、叛逆を押さえつけたり他国を脅したりするために一貫して暴力を使っている。』[Howard Zinn, The Zinn Reader, p. 652]
 国家暴力に対する非アナキストの反応を考えれば、非アナキストによるアナキストの暴力の糾弾を取り巻いているペテンを感じ取ることができる。例えば、1920年代と1930年代、多くの資本主義新聞と資本家は、ムッソリーニとヒットラーだけでなく、ファシズムを賞賛していた。アナキストは、逆に、ファシズムと死ぬまで闘い、ムッソリーニとヒットラー二人ともを暗殺しようとしていた。明らかに、殺人的独裁を支持することではなく、独裁体制に抵抗することが「暴力」や「テロ」だとされたのだ!同様に、非アナキストは抑圧的で権威主義の国家・戦争・ストライキと騒乱を暴力で鎮圧すること(「法と秩序を回復する」)を支持することがあり、これらを「暴力的」だとは考えていない。逆にアナキストを「暴力的」で「テロリスト」だと考えている。なぜなら、アナキストの中には、弾圧と国家暴力や資本家の暴力といった行動に復讐しようとしている人がいるからだというのである!一方では国家規則を押し付けるときに実際に行われる警察の暴力を支持したり、さらに酷いことには、2003年の米国によるイラク侵攻を支持していながら、例えばシアトルで窓ガラスを幾つか壊したということでアナキストの「暴力」を非難するなどペテンの極みであろう。誰かを暴力的だと見なさねばならないとするならば、それは国家と国家の行動を支持している人々である。だが、人々はこの自明の理を分からず、『国家が非難する種類の暴力を非難し、国家が実践している暴力を賞賛しているのである。』 [Christie and Meltzer, The Floodgates of Anarchy, p. 132]
 当時も、アナキストの大多数がこの戦略を支持していなかったことに注意されたい。「行動によるプロパガンダ」を行っていた人々(「アタンタ(テロ行為)」と呼ばれることもあった)の中で、マレイ=ブクチンの指摘によれば、『アナキストグループのメンバーは少数であった。多くは単独行動主義者であった。』[The Spanish Anarchists, p. 102] いうまでもなく、国家とメディアは全てのアナキストを十把ひとからげにした。今だにそのようにしており、時として不正確なままにそうしているのである(例えば、この戦術がアナキスト界隈で論じられる数年前にバクーニンは死んでいるというのに、こうした行動の責任があるとバクーニンを非難するといったように!)。
 結局、「行動によるプロパガンダ」時代のアナキズムは失敗であった。大多数のアナキストはすぐにそのことを理解した。クロポトキンがその典型例だと言えよう。彼は『行動によるプロパガンダというスローガンを好ましいと思ったことは一度もなく、革命的行動に関する自分の考えを述べるためにこのスローガンを使ったことはなかった。』しかし、1879年に彼はなおも『集団的行動の重要性を説』きながらも、『アタンタに大きな同情と関心を表明』し始めていた(こうした『集団的行動』は『労働組合とコミューンのレベルで』行われるものだと見なされた)。1880年に彼は『集団的行動にそれほど心を奪われなくなり、個人や小集団による叛逆行為に対する情熱が増加していた。』これが長く続くことはなく、クロポトキンはすぐに『孤立した叛逆行為の重要性を次第に減じる』ようになった。特に『新しい戦闘的労働組合主義の集団行動が発展する大きな機会を彼が見た』時にはそうであった [Caroline Cahm, Kropotkin and the Rise of Revolutionary Anarchism, p. 92, p. 115, p. 129, pp. 129-30, p. 205]。1880年代後期から1890年代初頭までに、クロポトキンはこうした暴力行為に賛同しないようになった。この理由の一部は、その行為の酷さ(例えば、スペインで1892年のヘレス蜂起に参加したアナキストを国家が殺害したことに対して行われたバルセロナの劇場爆破や、国家弾圧に対してエミール=ヘンリーが行ったカフェの爆破)に嫌悪感を持ったからであり、一部は、こうした行為がアナキズムの大義を妨害していることに気づいたからだった。
 クロポトキンは認識していた。1880年代に『迸っていたテロリズム行為』は、『運動に対する弾圧を当局が行う』ようにさせ、『クロポトキンの観点ではアナキズム理念とは一致しておらず、民衆叛乱を促すためにほとんど、もしくは全く何も行わなかったのである。』さらに、彼は『大衆からの運動の孤立を不安に思って』いた。これは、行動によるプロパガンダ『に没頭する結果、軽減せずに増大した。』彼は、『労働運動に新しい戦闘性が発展していることに民衆革命の最良の可能性を見ていた。その後、彼の注目の焦点は、次第に、叛逆の魂を発達させるために大衆の中で活動する革命的少数派の重要性に置かれていったのである。』ただし、個人の叛逆行為(行動によるプロパガンダではないにせよ)を支持していた1880年代初頭でさえも、彼は、集団的階級闘争の必要性を認めていたのだった。『クロポトキンは常に革命を導く闘争において労働運動の重要性を主張していたのだった。』[前掲書, pp. 205-6, p. 208 and p. 280]
 これはクロポトキンはだけではなかった。次第に、アナキストは、「行動によるプロパガンダ」はアナキズム運動と労働運動双方を弾圧する理由を国家に与えるものだ、と見なすようになった。それ以上に、アナキズムを非情な暴力と関連づける機会をメディア(とアナキズムの敵対者)に与え、そのことで、多くの人々を運動から疎外してしまった。この誤った関連づけが、事実とは無関係に、事あるごとに繰り返されているのである(例えば、個人主義アナキストは「行動によるプロパガンダ」を完全に拒否してはいたが、彼らも報道機関によって「暴力的」で「テロリスト」だと中傷されていた)。
 加えて、クロポトキンも指摘していたが、行動によるプロパガンダの背後にある前提、つまり、誰もが叛乱の機会をうかがっている、は誤っていたのだ。実際、民衆は自分が生活しているシステムの産物である。従って、民衆は、そのシステムを存続させるために使われる神話の大部分を受け入れていたのだ。行動によるプロパガンダの失敗と共に、アナキストは、その運動の大部分でそれとは無関係に以前から行っていたことへと戻っていった。階級闘争と自己解放プロセスの奨励へと戻ったのである。アナキズムのルーツ帰りは、1890年以降のアナルコサンジカリスト組合の勃興に見ることができる(セクションA.5.3を参照)。
 大部分のアナキストは行動によるプロパガンダには戦術上反対しているが、それをテロだと考えていたり、いかなる状況下でも暗殺を禁止しようと考えている者はほとんどいない。戦争中にそこに敵が一人いる可能性があるという理由で一つの村を爆撃することは、テロである。しかし、多くの人を殺している独裁者や抑圧国家の長を暗殺することは、良くて自衛、悪くても復讐である。アナキストが以前から指摘して来たように、テロが「何の罪もない人々を殺すこと」を意味するならば、史上最大のテロリストは国家なのだ(この惑星で手に入れることのできる最大の爆弾など大量破壊兵器を持っているのも国家である)。「恐怖の行為」を行っている人々が真にアナキストであるなら、その人は無実の人々を傷つけないように出来るだけのことをし、「付帯的な損害」は遺憾だが避けることはできないという国家主義者の決まり文句は絶対に言わないであろう。「行動によるプロパガンダ」行為の大部分は、大統領や皇族など支配階級の個々人に向けられ、それ以前に国家と資本家が行っていた暴力の結果だったわけだが、その理由がこれなのである。
 アナキストはテロリズム行為を行ったことがある。これは事実である。しかし、これは社会政治理論としてのアナキズムとは何の関係もない。エマ=ゴールドマンは次のように論じていた。『アナキズムそれ自体ではなく、11人の鉄鋼労働者の残虐な殺害が、アレクサンダー=バークマンの行動を喚起したのである。』[前掲書, p. 268] 同様に、他の政治グループや宗教グループのメンバーもこうした行為を犯してきた。ロンドンのフリーダムグループは次のように主張していた。

 何か激怒を引き起こすようなことが行われて、アナキストを口汚く罵っているときや、どのような政党であれそれが一時的に自分の嫌いなもの(bete noire)になってしまったとき、街路にいる人は分かりきったことを常に忘れてしまうようだ。この疑いようのない事実とは、殺人的な暴挙は、太古の昔から、自分が我慢できないと感じた同胞の不正に突き動かされた自暴自棄の階級や個人の反応であった、ということである。こうした行動は、攻撃的であれ抑圧的であれ、暴力に対する暴力的な反応である。この行動の動機は、特別な信念にではなく、人間の本性それ自体の奥底にある。政治的にも社会的にも、歴史の歩み全体に、この証拠が散らばっているのである。[Emma Goldman, 前掲書, p. 259で引用]

 他の多くの政治的、社会的、宗教的集団や党派もテロを行って来た。例えば、キリスト教徒・マルクス主義者・ヒンズー教徒・国粋主義者・共和党員・回教徒・シーク教徒・ファシスト・ユダヤ人・愛国者、皆テロを行ったことがある。これらの運動や考えが、「本質的にテロリズム」だとレッテル貼りされたり、常に暴力と関連づけられたりすることはない。このことが、アナキズムは現状に対する脅威だということを示しているのだ。ある思想の評判を落とし、社会的に無視する最も良いやり方は、悪意ある人や間違った認識をしている人が、その思想を信じ実践している人を、何の見解も理想も持たず単に破壊への狂った衝動だけを持った「爆弾気違い」だと描写することなのである。
 もちろん、キリスト教徒などの大多数は、テロリズムはモラルに反しており、逆効果だとして反対している。アナキストの大多数も、いつでもどこでも同じ様に主張している。しかし、私たちの場合に限り、テロに対する反対声明を何度も何度も繰り返さねばならないようだ。
 要約しよう。テロリストのごく少数がアナキストであり、アナキストのごく少数がテロリストだったのだ。アナキズム運動全体としては、暗殺したり爆破したりすることで社会的関係を消滅させることはできない、と常に認識している。国家と資本主義の暴力に比べ、アナキストの暴力は焼け石に水のようなものである。不幸にして、大多数の人々は、アナキストの暴力を喚起した国家と資本による暴力や弾圧行為よりも、少数のアナキストの行為を覚えているものである。

A.2.19 アナキストの倫理観はどのようなものか?

 アナキストの倫理観はそれを主張する個々人によって非常に異なっている。だが、誰もが一つの共通の信念を共有している。それは、個人が自分の中で自分の倫理感覚を発達させるべきだ、ということである。すべてのアナキストは、マックス=シュチルナーの言葉、個人は既存道徳の制約から自由であるべきだし、そうした道徳に対して疑問を持つべきだ、に同意する。『ある事柄が自分にとって正しいことなのかどうかを決めるのは私だ。自分のに正しいことなどありはしないのだ。』[The Ego and Its Own, p. 189]
 しかし、シュチルナーほどまでに、いかなる社会的倫理概念をも拒否しているアナキストは数少ない(こうは言っても、シュチルナーは、エゴイスティックなものではあるが、いくつかの普遍的概念に価値を置いている)。こうした極端な道徳相対主義は、大部分のアナキストにとって、道徳絶対主義とほぼ同じぐらい悪しきものなのである(道徳相対主義とは、一個人に適しているかどうかということを越えて良いとか悪いとかということはない、というものの見方であり、道徳絶対主義とは、個人がどう考えようと良いことは良く悪いものは悪いという見解である)。
 近代社会は過剰な「エゴイズム」つまり道徳相対主義のために崩壊しつつある、と主張されることが多い。これは間違いである。道徳相対主義が広がる限り、それは様々なモラリストや真理の信奉者どもが社会に要求している道徳絶対主義より一歩進んでいることになる。なぜなら、道徳相対主義それ自体は個々人の理性という考えに、貧弱ではあれ、基づいているからである。しかし、道徳相対主義は倫理の存在(望ましさ)を否定しているがために、その反抗対象の単なる鏡面映像でしかない。どちらの立場を取るにせよ、個人を力付けることもなければ、解放することもない。
 その結果、どちらの態度も権力主義者にとって非常に魅力的なのである。物事について意見を持つことができない(そして、いかなることにも耐えるだけの)庶民や、支配階級エリートの命令に盲従するだけの庶民は、いずれにせよ権力を持っている人々にとって大きな価値を持っている。大部分のアナキストはどちらの態度も拒否し、倫理に対する進化論アプローチを望ましいとしている。倫理の進化論アプローチは、様々な倫理概念を発達させるのに必要な人間理性と、それらの概念を個人内・社会内での倫理的な態度へと一般化するため対人的感情移入とを基礎としている。従って、倫理へのアナキズム的アプローチは、道徳相対主義が示している個人の批判的探求を共有し、同時に、善悪に関する共通感情をその基盤としているのである。プルードンは以下のように論じている。

 全ての進歩は何かを放棄することから始まる。いかなる改革であれ何らかの悪習を告発することに依っている。各々の新しい考えは、古い考えが不充分なものだと証明された上に成り立っている。

 ほとんどのアナキストが、倫理規範が、人生それ自体と同様、継続的な進化過程にあるという見解を取る。そのため、アナキストは「神の法」や「自然法」など様々な観念を拒否し、個人が自分を取り巻く世界を疑問視し評価する権限を完全に持っているという考えに基づいた倫理発達理論に賛同しているのである。実際、真の意味で自由になるためには、それが必要なのだ。物事全てを盲目的に受け入れていたのではアナキストにはなれないのだ!アナキストの基礎を創った思索者の一人ミハイル=バクーニンは、この徹底的な懐疑主義を次のように表現している。

 いかなる理論であれ、いかなる既製システムであれ、これまで書かれたいかなる本であれ世界を救いはしない。私はいかなるシステムにも執着しない。私は真の求道者だ。

 いかなる倫理システムも、それが個人の疑問に基づかねば、権威主義になるだけである。エーリッヒ=フロムはその理由を次のように説明している。

 形式的に、権威主義倫理は、善悪を知る人間の能力を無視している。規範を提供する人が常に個人を超越した権威なのである。こうしたシステムは、理性と知識にではなく、権威の畏怖、そして、服従者が感じる弱さと依存性に基づいている。意思決定を権威者に委ねることは、権威者が魔力を持つことになる。権威者の決定は疑問視できず、疑問視してはならなくなるのだ。実質的に、つまりその内容によれば、権威主義倫理は、主として、服従者のではなく権威者の利益という点で善悪の問題を解決する。服従者が精神的・物質的に大きな利益をそこから引き出すことがあるかも知れないが、権威主義倫理は搾取的なのである。[Man For Himself, p. 10]

 基本的に、アナキストは諸問題に対して科学的アプローチをとる。アナキストは、魂の助けのような神話に依拠せず、自分の精神が持つ長所に基づいて倫理判断をする。これは論理と理性を通じて成し遂げられる。こうした倫理判断は、道徳の問題を解決するのに、オーソドックスな宗教といった時代遅れの権威主義システムよりもずっとましなやり方であり、道徳相対主義の「善悪など存在せぬ」よりも遥かにまともである。
 ならば、様々な倫理概念は一体どこからやってくるのであろうか?クロポトキンは次のように述べている。『だからこそ、自然を人間にとって第一の倫理学教師と認識せねばならぬ。社交的な動物全てと同様に人間にも内在する社交本能、これが、すべての倫理諸概念そしてそれに続く道徳発達全ての起源である。』[Ethics, p. 45]
 言い換えれば、生がアナキズム倫理の基礎である。本質的に(アナキストによればだが)、ある人の倫理見解は以下の三つの基本的源泉から導き出される。

 (一)その人が生活している社会から。クロポトキンが指摘しているように『人間の道徳概念は、ある時点・ある場所で前提となっていた社会生活の形態に完全に依存する。このこと(社会生活)は、その時代の人間の道徳概念と道徳教育に示されている。』[前掲書, p. 315] 言い換えれば、人生経験と生活経験からである。
 (二)個人による、上記したような社会の倫理基準の批判的評価から。これがエーリッヒ=フロムの主張の中核である。『人間は自身の責任を受け入れねばならない。そして、自分の人生に意味を与えることができるようになるのは自分の力を行使したときだけだ、という事実を受け入れなければならない。自分の力を開示し、生産的に生きることで自身の人生に自分で意味を与えなければ、人生に意味などない。』[Man for Himself, p. 45] 言い換えれば、個々人の思考と発達からなのである。
 (三)感情移入から。『道徳的情緒の真の起源は、単に、同情という感情にある。』["Anarchist Morality", Anarchism, p. 94] 言い換えれば、経験や考えを他者と共感し、共有する個人の能力からである。

 この最後の要因は、倫理感覚の発達にとって非常に重要である。クロポトキンは次のように主張している。『君の想像力が強力であればあるほど、いかなる生き物であれそれが苦しんでいるときにどの様に感じているのかを想像できるようになるだろう。君の道徳的感覚は砥ぎすまされ敏感になっていくことだろう。そして、周囲の状況によって、あるいは君の周りにいる人達によって、あるいは君自身の思考と想像力の強さによって、君が、君自身の思考と想像力が君を駆り立てているように行動することに慣れてくるに従い、道徳的情緒が君の中で育つであろう、道徳的情緒は習慣となるであろう。』[前掲書, p. 95]
 つまり、アナキズムは「似たような状況下で自分がして欲しいように他人を扱え」という倫理的格言に(基本的に)基づいているのである。道徳的立場について言えば、アナキストはエゴイストでもなければ利他主義者でもない。単に人間なのである。
 クロポトキンが述べているように、『エゴイズム』と『利他主義』とは同じ動機から発生している。『人間性の結果として生じる二つの行為に大きな違いがあろうとも、その動機は同じである。享楽を追求しているだけである。』[前掲書, p. 85]
 アナキストにとって個人の倫理感覚とは、その人自身が発達させねばならないものであり、社会集団の一部として、コミュニティの一部として、その人が精神能力を十全に発揮することが必要となる。資本主義など権威の諸形態は、個人の想像力を弱め、ヒエラルキーの死重とコミュニティの崩壊の下で民衆が自分の理性を行使する場を減じている。そのため、資本主義下での生の特徴は、他者の完全無視と倫理行動の欠如にある。これは何等驚くべき事ではない。
 社会の中で不平等が果たしている役割が、こうした要因に組み合わされる。平等なくして、いかなる真の倫理もありえない。なぜなら、『正義とは平等を意味する。他者対等だと見なす者だけが、「自分にされたくないことを他人にしてはならない」というルールに従うことができる。農奴所有者・奴隷商人は、農奴(や奴隷)に関して(人々を手段としてではなく目的それ自体として扱うという)この「至上命令」を全く認識できない。平等者として考えていないからだ。』つまり、『現在の社会で一定の道徳レベルを維持することを困難にしているのは、社会的平等がないことである。真の平等がなければ、正義の感覚が普遍的に発達することなどあり得ない。正義とは、平等の認識を意味するからである。』[Peter Kropotkin, Evolution and Environment, p. 88 and p. 79]
 資本主義社会は、他の社会同様に、分相応の倫理行動を得ているだけである。
 道徳相対主義と道徳絶対主義の間を行きつ戻りつしている社会においては、当然ながら、エゴイズムと自己中心主義とが混同されるようになる。個々人が自分自身の倫理概念を発達できないようにし、その代わりに、外的な権威に盲従することを薦めることで(個々人が権威者の権力なしでやっていると思っている道徳相対主義でもそうだ)、資本主義社会は個性とエゴとを不毛なものにしている。エーリッヒ=フロムは以下のように述べている。

 近代文化の間違いは、その個人主義原理にあるのでもなければ、美徳は私利私欲の追求と同義だという考えにあるのでもない。私利私欲の意味が堕落してしまっていることにある。人々が私利私欲を気にかけていないということにあるのではなく、真の私の利に充分気を配っていないということにある。人々が余りにも自己中心的だという事実にあるのではなく、自分自身を愛していないという事実にあるのだ。[Man for Himself, p. 139]

 厳密に言えば、アナキズムはエゴイズム原理に基づく。つまり、倫理概念は、全体としての個人(合理的にも感情的にも、理性も情緒も)に享楽を与えてくれることを表していなければならないのだ。このことで、全てのアナキストはエゴイズムと利他主義との誤った部分を排除することになる。全てのアナキストは、多くの人々(例えば資本主義者)が「エゴイズム」と呼んでいることが、個人の自己否定をもたらし、個人の私利私欲を減少させるということを認識している。クロポトキンは以下のように論じている。

 偏狭なエゴイズムの扇動に対抗し、利他主義を発達させようという意図で人間性を育てるためでないとしたら、動物社会と人間社会で進化して来た道徳は何のためだったのか?「エゴイズム」と「利他主義」という表現は不正確である。個人の享楽が混じっていない−−とどのつまりはエゴイズムのない−−純粋な利他主義など存在しないからである。従って、より正確に言うならば、倫理学の目的は、社会習慣の発達と偏狭な個人習慣の弱化である。偏狭な個人習慣は、ある個人を自分自身ばかり気にかけさせて社会に目を向けることができなくさせ、その結果、その目標、つまりその個人の福祉、を達成できなくしてしまうことになる。逆に、協働と全般的相互扶助の習慣の発達は、家族においても社会においても一連の有益な結果を導く。』[Ethics, pp. 307-8]

 つまり、アナキズムは、道徳絶対主義(「神の法」「自然法」「人間の性質」「AはAである」)の拒否を、そして、道徳相対主義に非常に容易く順応する偏狭なエゴイズムの拒否を基盤としているのだ。その代わり、アナキストは自身の行為の自己評価の外に善悪の概念が存在するということを認めている。
 この理由は人間性の社交的性質にある。クロポトキンによれば、個人間のやり取りは社交上の格言を生み出しており、それは次のように要約できる。『それは社会にとって有効だろうか?そうならばそれは善である。それは有害だろうか?そうならばそれは悪である。』しかし、どの行為を人類が善と考え悪と考えるかは普遍ではなく、『何が有効で何が有害かの評価は変化するが、その基盤はいつも同じである。』["Anarchist Morality", 前掲書, p. 91 and p. 92]
 批評精神に基づいた感情移入の感覚が社会倫理の根本的基盤である。「あるべき姿」が真理の倫理的基準であり、客観的な「現在の姿」が妥当かどうかの倫理基準と考えられる。従って、自然の中に倫理の根源を見出しながらも、アナキストは倫理を根本的に人間の考えだと見なす。個々人が創造し、社会的生活とコミュニティが一般化した、生・思考・進化の産物だと見なすのである。
 それならば、アナキストは何を反倫理的行動と見なすのだろうか?基本的に、最も貴い歴史的功績、つまり、個人の自由・個性・尊厳を否定する全てである。
 個々人はいかなる行為が反倫理的かを述べることができる。感情移入によって、その行為を受けている人々の立場に自分を置くことができるためである。個性を制限する行為は、次の二つの(お互いに関係している)理由で反倫理的だと考えられる。
 まず第一に、全ての人における個性の尊重と発達は、全ての人の生を豊潤にし、それが生み出す多様性のゆえに個々人に喜びを与えてくれる。このエゴイズム的倫理基盤は、第二の(社会的)理由によって強化されている。つまり、個性は、コミュニティ生活と社交生活を強め、その生活を成長させ進化させることによって豊潤にしてくれるため、良いことなのである。バクーニンが一貫して論じているように、進歩は『単純なものから複雑なものへ』の移行によって特徴付けられる。また、ハーバート=リードの言葉を借りれば、進歩は『一社会内における分化の程度によって測られる。個人が組織集団の一ユニットでしかない場合、その人の生は制限され、生彩がなく、機械的なものになるであろう。個人が、各々の行為を行う余地と可能性を持った自分自身の一ユニットであれば、その人は長所、生命力、喜びを自覚しながら発達−−この言葉が持つ唯一真の意味での発達だ−−することができるだろう。』["The Philosophy of Anarchism," Anarchy and Order, p. 37]
 この個性の擁護は自然から学ばれている。エコシステムにおいて、多様性は長所である。従って、生物多様性は基本的な倫理洞察の源泉となる。その最も基本的な形態において、生物多様性は『我々の行為の中で自然な進化過程を推進するものとそれを阻害するものとを区別する手助けをしてくれる』[Murray Bookchin, The Ecology of Freedom, p. 342] 指標を与えてくれるのである。
 以上より、倫理概念は『全ての動物世界に内在している社交本能の感情と、人間理性の根本的原判断の一つである平等の観念に存している』のである。従って、アナキストは『より大きな社会性の発達、そして社会性発達の結果として生じ生の強度の増大という不変的二重傾向の存在』を受け入れている。『これが個人の幸福を増加させ、進歩(身体的・知的・道徳的な)を生むのである。』[Kropotkin, Ethics, pp. 311-2 and pp. 19-20]
 個々人の自由が第一の関心事であり、他者の感情を共有し自分自身を他者の内に見るという能力を私たちが持っている(言い換えれば、基本的な平等と共通の個性を持っている)という倫理的信念から、権威・国家・資本主義・私的所有権などに対するアナキストの態度は生じているのである。
 一定状況と行動に関して個々人が主観的に評価する。そして、平等者同士がその評価を感情移入できる範囲で議論することで、個人間の客観的結論が導き出される。アナキズムはこれら二つのプロセスを組み合わせているのである。アナキズムは倫理思想に対する人道主義的アプローチに基づいている。これは、社会と個人発達に従って進化するアプローチである。倫理的な社会では、『民衆一人一人の違いが、経験と事象の統一を充実させる要素として尊重され、もっと言えば育まれる。(異なる部分は)その複雑さ故に、ますます豊潤となる全体の一部であると理解されるであろう。』[Murray Bookchin, Post Scarcity Anarchism, p. 82]

A.2.20 何故、大部分のアナキストは無神論者なのか?

 大部分のアナキストが無神論者、これは事実である。アナキストは神という考えを拒絶し、あらゆる形態の宗教、特に組織宗教に敵対する。今日、非宗教化された西欧諸国では、宗教は、社会の中でそれ以前に持っていた支配的立場を失っている。このために、多くの場合、アナキズムの戦闘的無神論は奇妙なものに思われてしまっている。しかし、宗教が持つネガティブな役割を理解すれば、リバータリアン無神論の重要性はハッキリとする。アナキストが宗教という考えに異議を唱え、宗教反対論を宣伝することに時間を費やしているのは、宗教と宗教諸機関が持つ役割のためなのだ。
 何故、それ程までに多くのアナキストは無神論を受け入れているのだろうか?最も単純な答えは次のようなものだ。無神論はアナキズム思想の論理を拡大したものであるが故に、大部分のアナキストは無神論者なのである。アナキズムが不当な権威の拒絶だとすれば、それはいわゆる最高権威・神の拒絶だということになる。アナキズムが根差しているのは、理性・論理・科学的思考であって、宗教的思考ではない。アナキストは、信奉者ではなく、懐疑者になることが多い。大部分のアナキストは、教会は偽善まみれであり、聖書は矛盾・不合理・恐怖が充満した作り話だ、と見なしている。聖書が女性の品位を貶めていることは周知の事実であり、その性差別主義は悪名高い。しかし、男性にしてもほんの少しましに扱われているに過ぎない。聖書の何処にも、人間が生・自由・幸福・尊厳・公平・自治の権利を生まれながらに持っていることを認めた箇所などない。聖書では、人間は罪人・虫けら・奴隷である(比喩的にも文字通りにも、奴隷制を認めている)。神が全ての権利を持ち、人間は無価値なのだ。
 宗教の性質を考えれば、これは驚くべきことではない。バクーニンは次のように上手く述べている。

 神という観念は、人間理性と正義の放棄を意味する。それは、人間的自由を最も決定的に否定し、最終的に、理論的にも実践的にも人間の奴隷化を必ずやもたらすことになる。
 そこで、人間の奴隷化と堕落とを望まないのであれば、我々は、神学の神や形而上学の神のいずれにも、ほんの僅かな譲歩もできないし、すべきでもない。この神秘的文字体系では、Aで始める者は、必ずやZで終わる。神を崇拝しようとする者は、その内容ついて子供じみた幻想を抱くことなく、自分の自由と人間性を大胆にも放棄しなければならないのである。
 神が存在するならば、人間は奴隷である。さて、人間は自由になり得るし、ならねばならない。従って、神は存在しない。[God and the State, p. 25]

 大部分のアナキストにとって無神論が必要なのは、宗教の性質のためである。バクーニンは次のように論じている。『人間性が持つ雄大で、公正で、高潔で、美しいもの全てを神的だと公言することは、人間性それ自体ではそれを生み出すことができない−−つまり、人間に委ねられているから、人間の性質は悲惨で不正で低劣で醜悪なのだ−−とそれとなく認めることである。このようにして、我々は、あらゆる宗教の本質−−言い換えれば、神性の偉大なる栄光のために人間性を非難すること−−に立ち戻るのである。』従って、人間性と人間が持つ潜在的可能性のために正義を行うべく、アナキストは、神という有害な神話や神に付随する全てのことなどなくても物事を行うことができ、そして『人間の自由・尊厳・繁栄』のために、『強奪された能力を天国から救いだし、地上に戻すことこそ我々の義務だと信じているのだ。』[前掲書, p. 37 and p. 36]
 宗教は、人間性と人間の自由を理論的に堕落させるだけでなく、アナキストの観点からすればもっと実際的な諸問題を持っている。まず第一に、宗教は不平等と抑圧の源泉であった。例えば、キリスト信仰(イスラム教同様に)は、政治的・社会的支配力を持っているときには、常に抑圧勢力であった(神への直接的繋がりを自分が持っていると信じることこそ、権威主義社会を創造する確実な道なのである)。教会は、ほぼ二千年にわたり、社会的抑圧を行い、大量殺戮をし、あらゆる圧制者を正当化する勢力であった。機会が与えられれば、教会は君主や独裁者と同じぐらい残酷に支配したのである。このことは驚くべきことではない。

 神が全てであれば、現実世界と人間とは無である。神が真実・正義・善・美・力・生であれば、人間は虚偽・不正・悪・醜・無能・死なのだ。神が主人ならば、人間は奴隷である。人間は、自分の努力で正義・真実・永遠の命を見つけることができず、神の黙示を通じてのみそれらを獲得できる。だが、黙示を述べる者は皆、告知者であろうと救世主であろうと予言者であろうと司祭であろうと立法者であろうと、神自身によって霊感を与えられたと言うのだ。こうした人々は、人間性の聖なる指導者として救済の道を示すべく神自身に選ばれたということで、必ずや絶対的権力を行使する。万人はそうした人々に無制限の受動的服従をする義務を負う。なぜなら、聖なる理性に対抗する人間理性などなく、神の正義に対して地上の正義など適用されないからだ。[Bakunin, 前掲書, p. 24]

 キリスト教が寛容ある平和愛好のものに変わるのは、それが権力を持たないときのみであった。しかし、そうしたときであっても、権力者を擁護する役割を続けていた。アナキストが教会に敵対する第二の理由がこれである。抑圧の源泉になっていないときも、教会は抑圧を正当化し、その継続を確かなものにしていたのだ。地上の権威が支配することを是認し、労働者にこの権威と闘うことは間違っていると教えることで、労働者階級を数世代に渡り奴隷にし続けていたのだ。政治的(支配者たちは神の意志によって権力の座にいると主張する)にであれ、経済的(金持ちは神に褒美を与えられたのだ)にであれ、地上の支配者たちは天上の神から正統なものと見なされた。聖書は服従を賞賛し、最大の美徳だと持ち上げている。プロテスタント労働倫理のような最近の発明も、労働者の従属に寄与しているのだ。
 宗教が権力者の利権を助長するために利用されているということ、これは、歴史の大部分ですぐに見ることができる。宗教は、抑圧される側を従順にし、天国でのご褒美を待つように説得することで、人生における自分の立場を謙虚に受け入れるように条件付ける。エマ=ゴールドマンは次のように主張していた。キリスト教(宗教一般もそうであるが)は『権威と富の体制にとって何ら危険なものを含んでいない。自己否定と自己犠牲、懺悔と後悔を支持し、人類に押しつけられたあらゆる侮辱・あらゆる暴挙の面前では絶対的に何も行わないのだ。』[Red Emma Speaks, p. 234]
 第三に、宗教は常に社会の中の保守勢力だ、ということである。これは驚くに値しない。宗教は現実世界の調査と分析にではなく、上から手渡された真実・幾つかの聖なる書物に含まれている真実を繰り返すことにその根拠を置いているからだ。有神論は『思弁理論』であり、無神論は『実証科学』である。『一方は理解を超えたものという極めて抽象的な雲に垂れ下がり、他方は大地にしっかりと根を下ろしている。人間が真に救済されようと望むのなら、人間が救わねばならないのは地上であって、天上ではない。』従って、無神論は『人間精神の拡充と成長を表現しており』、一方有神論は『静的で固定している。』『無神論が全力を尽くして闘っているのは、有神論の絶対主義・人間に対するその有害な影響・思想と行動を混乱させるその効果なのだ。』[Emma Goldman, 前掲書, p. 243, p. 245 and pp. 246-7]
 聖書は次のように述べている。『その果によりて彼等を知るべし。』私たちアナキストもこれに同意するが、教会とは異なり、この真実を宗教にも適用する。だからこそ、アナキストは概して無神論者なのだ。私たちは教会が果たしている破壊的役割を認識し、組織的一神教、特にキリスト教が人々に及ぼす有害な効果について認識している。エマ=ゴールドマンは次のように要約している。宗教は『理性に対する無知の謀議、光に対する影の謀議、自立と自由に対する服従と隷属の謀議、強さと美しさを否定する謀議、生の享受と栄光を肯定することに対する謀議である。』(前掲書、240ページ)
 さて、教会の果実について考えたとき、アナキストは次のように論じる。それを根絶し、新しい樹木を植えよう、理性と自由の樹木を植えよう、と。
 とは言うものの、アナキストは、宗教が重要な倫理思想や真実を含んでいることを否定しない。それどころか、宗教は、強力で愛情に満ちたコミュニティやグループの基盤になり得る。日常生活の疎外と抑圧から逃れる場所を提供し、万物が売り物になっている世界の中で行動を起こす指針を提供できる。例えば、イエスやブッダの人生や教えの多くの側面は、私たちを鼓舞し、従うに値するものである。このことが真でなければ、宗教が単なる権力者の道具だったとすれば、宗教はとうの昔に拒絶されていたであろう。むしろ、宗教は二重の性質を持っているのであり、豊かな生活をおくるために必要な思想と権力護教論の双方を含んでいるのである。二重の性質を持っていない場合、抑圧された側は宗教を信奉せず、権力を持つ側は危険な異端だとしてその宗教を弾圧するであろう。
 実際、弾圧は、急進的メッセージを伝導していたあらゆるグループの運命であった。中世時代、数多くの革命的キリスト教運動と教派が、主流派の教会の確固たる支援を受けた地上の当局によって破壊された。スペイン市民戦争中、カトリック教会はフランコのファシストを支持し、共和国支持者がフランコ賛同牧師を殺害したと非難していたが、その一方では、民主的に選ばれた政府を支持したバスクの牧師をフランコ軍が殺害したことには沈黙を保っていた(法王ヨハネ=パウロ二世は、死亡したフランコ賛同牧師を聖者に祭り上げようとしたが、共和国賛同の牧師については口を閉ざし続けていた)。エル=サルバドルの大司教、オスカル=アルヌルフォ=ロメロは当初保守的だったが、政治的・経済的権力が民衆を搾取しているやり方を目にして、歯に衣着せぬ民衆擁護者になった。このために、彼は、1980年に右翼民兵組織によって暗殺された。これは、解放神学(社会主義思想とキリスト教的社会見解を融和させようとして福音書を急進的に解釈した)の支持者の多くに襲いかかった運命であった。
 また、アナキストが宗教に反対だからといって、宗教人が社会を改良すべく社会闘争に参画しないということを意味しているわけではない。全く違う。宗教人は、教会ヒエラルキーのメンバーを含めて、1960年代の米国市民権運動で重要な役割を演じた。メキシコ革命中のサパティスタ農民軍内部には宗教的信念があったが、だからといって、アナキストが参加しないわけではなかった(事実、農民軍はアナキスト闘士リカルド=フロレス=マゴンの思想に強く影響されていたのだった)。宗教の二重性質こそが、多くの民衆運動と民衆蜂起(特に農民の)とが宗教のレトリックを使っていた理由を説明してくれる。自分達の信念の良い側面を守り続けようとすることが、地上の不公正と闘うことを決意させたのである。アナキストにとって大切なことは、不公正と闘おうとしているかどうかであって、人が神を信じているかどうかではない。私たちは、ただ、宗教の社会的役割は叛乱を挫くことであって、勇気づけることではない、と考えているだけなのである。主流の司祭たちや右翼の司祭たちに比べて、急進的司祭はほんの一握りしかいない。このことが私たちの分析の妥当性を示しているのである。
 アナキストは、教会と従来の宗教が持つ考えに対し徹底的に敵意を抱く一方、民衆が、自分だけで、もしくはグループで、宗教的信念を実践することに異議を唱えはしない。ただし、その実践は他者の自由を侵害しない限りにおいてである。例えば、人間を生け贄にしたり奴隷にしたりしなければならないカルト宗教は、アナキズム思想とは正反対のものであり、アナキストはそれに反対する。しかし、平和的な信念システムは、アナキスト社会内部でも調和して存在することができる。アナキズムの観点は、宗教は何にもまして私的な事柄だ、というものである−−人々が何かを信じているとすれば、それはその人の事柄であり、他者にその考えを押しつけない限り、他人には関係ない。私たちにできることは、その考えを議論し、その誤りを説得しようとすることだけである。
 終わりに記しておかねばならないが、私たちは、アナキストであるためには無神論でなければならない、などと述べているのではない。全く逆だ。
セクションA.3.7で論じたように、神や何らかの宗教をしっかりと信奉しているアナキストもいる。例えば、トルストイはリバータリアン思想を献身的なキリスト教信念と組み合わせていた。彼の思想は、プルードンの思想と共に、アナキストのドロシー=デイとピーター=モーリンが1933年に設立し、現在も活動しているカトリック労働者組織に影響を与えた。現代の反グローバリゼーション運動で活発に活動しているスターホークは、アナキスト活動家であると同時に主導的ペーガン(多神教徒)であるが、何の問題もない。しかし、エマ=ゴールドマンが次のように述べているように、大部分のアナキストにとって、アナキズム思想は論理的に無神論を導く。『神を否定することは、同時に人間を最も強く肯定することである。人間を通じて、生・意図・美に永遠の賛同をするのである。』[Red Emma Speaks, p. 248]

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