アナキズムFAQ


J.7 アナキストは、「社会革命」ということで何を意味しているのか?

アナキズム理論では、「社会革命」は、単なる革命以上のことを意味している。アナキストにとって、真の革命は、社会の政治構成・政治構造・社会形態の変革よりも遙かに大きなものである。社会と社会を構成する個々人の全側面−−政治・経済・社会・対人関係・性など−−を変換しなければならないのである。実際、これら二つの変換は手に手を取って進み、お互いに補完しあい、お互いを支援し合う−−個々人は、社会を変換しながら、その過程で自分自身を変換するのである。

アレクサンダー=バークマンは次のように述べている。『革命につぐ革命がある。革命の中には、古い支配者の代わりに新しい支配者をおくことで、政府の形態を変革するだけのものもある。それは政治革命であり、従って、多くの場合、ほとんど抵抗されることはない。だが、賃金奴隷の全システムを撤廃しようとする革命は、他の階級を抑圧している階級が持っている権力も廃絶しなければならない。つまり、それは単に支配者を変えることでも、政府を変えることでも、政治革命でもなく、社会の全特徴を改造しようとする革命なのである。それは社会革命となるであろう。』(アナキズムのABC、34ページ)

これは、関連した二つのことを意味している。まず第一に、社会の全側面を変換することを意味しているのであり、現行システムの特定側面だけを修繕することを示してはいない。政治革命は本質的にボスを変えることを意味しているが、社会革命は社会を変えることを意味している。従って、社会革命は、リバータリアン的方向性に社会・経済・文化・性を変革することを示しているのである。社会が組織され、運営される方法を変換するのである。つまり、社会革命は、ある服従形態を別なものへ変えようとしているのではなく、個人を奴隷にし、抑圧しうるあらゆるものを廃絶しようとしているのである。第二に、社会にいる人民大衆が直接的にこの根本的変革をもたらすことを意味している。マルクス−レーニン主義者などの権威主義的社会主義者のやり方のように、この目的を達成するために政治的手段に頼るのとは異なっているのである。アナキストにとって、そのようなアプローチは政治革命でしかなく、はじめから失敗することが分かっていることなのだ。つまり、『社会革命の現実の、建設的な作業は、(中略)骨を折って働いている人々自身で、労働者自身で貫徹されねばならないのだ。』(アレキサンダーバークマン、前掲書、45ページ)

アナキストの社会革命には政治的内容がないというわけではない−−そんなことはない。このFAQを読んでいる人なら、アナキズム内部で作用している政治諸理論が少なからずあることは明らかなはずである。だが、我々がここで述べていることは、アナキストは、権力の掌握を求めてはおらず、法律執行の管理と軍の統制を使って(政府のやり方だ)トップダウンで変革をもたらそうともしていない、ということである。むしろ、下から上への変革を求めているのであり、そのようにすることで、そうした革命を、政治的前衛の陰謀に付随させるのではなく、不可避のものにしようとしているのである。ドゥルティは次のように論じていた。『我々は、革命が少人数による権力掌握だとは信じていない。それは民衆に対して独裁を科すであろう。(中略)我々は、民衆による、民衆のための革命を求めているのだ。これなくして、いかなる革命も不可能なのだ。それは単なるクーデターでしかないのだ。』(アベル=パス著、ドゥルティ:武装せし人民、135ページ〜137ページに引用されている)

つまり、アナキストにとって、社会革命は下からの運動であり、自分たち自身の自由を求めて闘争している抑圧され搾取されている側の運動なのである。それ以上に、あたかも魔法ででもあるかのようにして、こうした革命が出現することなどないのだ。むしろ、真実はこうなのだ。革命は『行き当たりばったりでは生じない。個々人の意のままに生じもしない。状況の力を通じてもたらされるのであって、計画的意志や謀略とは無関係なのである。』(ブライアン=モリス著、バクーニン:自由の哲学、139ページで引用されているミハイル=バクーニンの言葉)実際、社会革命は、社会的進化の産物であり、社会闘争の産物なのだ。マラテスタは、我々に次のように思い起こさせてくれている。

抑圧された大衆が(中略)抑圧と貧困に完全に服従することなどない。そして、これまで以上に今、正義・自由・幸福に対する渇望を示している人々は、自分たちの解放を達成するには、全ての抑圧されている人々との、世界のいたるところで搾取されている人々との、団結と連帯に依る以外にない、と理解し始めている。同時に、生産手段、土地と労働器具の所有は、自分たちの解放に不可欠で無視できない条件だ、ということも理解しているのである。(アナーキー、30ページ)

つまり、労働者階級の人々の日常闘争が、あらゆる社会革命に先行するのである(丁度、アナキズムがそうであるように)。社会革命は出来事ではない。むしろ、プロセスなのだ−−この瞬間に生じているプロセスなのだ。つまり、アナキストにとって、社会革命は未来に生じる何かではなく、今ここで生じているプロセスなのである。ドイツのアナキスト、グシュタフ=ランダウアーは次のように述べていた。

国家は、革命が破壊できるものではない。国家は一条件、人間間のある種の関係、人間行動の一様式なのだ。我々は、別種の関係を契約することで、違った行動をとることで、国家を破壊するのである。(ジョージ=ウッドコック著、アナキズム、421ページ)

だからといって、アナキストが、革命は、例えば様々な暴動的出来事(ゼネスト・土地や家屋や仕事場などの大規模な占有・現実の暴動など)によって特徴づけられることになる、と認識していないわけではない。もちろん、認識している。つまり、我々は、こうした出来事をプロセスの中に、社会運動の中においているのであり、様々な出来事が、歴史や、社会内部の思想と運動の進化から独立して生じることはないのである。

バークマンもこの点に同意しており、次のように述べていた。『社会革命は、社会の基盤を、その政治的・経済的・社会的特徴を完全に変革するもので』あるが、そうした変革は、『民衆の思想と意見の中で、人間の精神の中で最初に生じなければならない。』つまり、『社会革命は準備されねばならないのだ。進化のプロセスを促進し、現代社会の諸悪について民衆を啓蒙し、望ましさ(desirability)と可能性を、自由を基盤とした社会生活の公正さと実行可能性を民衆に悟らせるという意味で準備されねばならないのである。』(アレキサンダー=バークマン著、前掲書、38ページ)こうした準備は、今ここでの社会闘争、直接行動・連帯・自主管理組織を基盤とした社会闘争の産物となるであろう。バークマンは、その古典的著作で労働運動に焦点を当てていたが、彼の以下の論評はあらゆる社会運動に対して適用できるものである。

プロレタリア階級の日常闘争において、そうした組織(サンジカリスト組合)は、現在構築されている保守的な組合が夢にさえ見ないような大勝利を達成することができるだろう。(中略)そうした組合は、すぐに、労働者の単なる擁護者だとか庇護者以上のものになるだろう。それは、団結の意味を生き生きと実現し、そして、その後に、力の意味、労働者連帯の意味を生き生きと実現するであろう。工場と仕事場は、人生において自分の固有の役割を労働者が理解し、自分への自己信頼と自立性を養い、自分の責任を意識させる訓練所としての役割を果たすであろう。労働者は、自分の話に耳を傾けて自分の幸福に気を配ってくれる指導者や政治家に自分の事柄を任すのではなく、自分の事柄を自分自身の判断で決定し、行動することを学ぶであろう。(中略)労働者は、現在の経済的・社会的取り決めは間違っており犯罪的だと理解するようになり、自分がそれを変革すると決断するだろう。仕事場委員会と組合は、新しい経済システム、新しい社会生活の準備の場となるであろう。(前掲書、59ページ)

つまり、権威・搾取・抑圧・支配に対する今ここでの闘争こそが、社会革命の始まりなのだ。自由人を創り出すのはこの日常闘争なのである。自由人が生み出す諸組織は、『旧社会に置き換わるべき新社会の生き生きとした種子を(中略)生み出す。それらは、思想だけでなく、未来それ自体の諸現実をも創造するのである。』(ミハイル=バクーニン著、バクーニンのアナキズム、255ページ)故にバクーニンは次のように論評している。社会主義が達成されるのは『政治組織ではなく社会組織の発展と組織化によって、(そしてその結果として)市街の労働者大衆と田園の労働者大衆の(反政治的)力によって』のみである、とアナキストは考えている(ミハイル=バクーニン選集、197ページ〜198ページ)。そうした社会的力は、自主管理労組や仕事場集会・地域集会のような、経済組織と地域組織において表現されるのである(セクションJ.5を参照)。

アナキストは、C.N.T.とF.A.I.のスペインの同志たちの実例に従おうとしている。スペインの同志たちは、『改良主義と革命との慣例的対立に直面すると、自律的なリバータリアン自主管理諸形態を実際に発展させることで、即時的な実際の改善をもたらそうとし、事実上、第三のオルタナティヴを提示していたように思われる。』(ニック=ライダー著、「直接行動の実際:1931年のバルセロナ家賃ストライキ」、99ページ、デヴィッド=グッドウェイ編、アナキズムのために、79ページ〜105ページに所収)このようにしながらも、アナキストは同時に『大衆がアナーキーに向かう覚悟ができていないからといって、自分たちがアナキストではなくなることに注意』(マラテスタ著、人生と思想、162ページ)しなければならない。

つまり、革命とアナキズムは、闘争の産物、アナキズム思想が広がり発展する社会的プロセスの産物なのである。だが、『だからといって、(中略)アナーキーを実現するために、誰もがアナキストになるまで待たねばならない、という意味ではない。逆に、(中略)状況に恵まれれば、現状下にいる少数のマイノリティだけでも、アナーキーがどのようなものであるかを何とかして思い描くことはできるのである。現在のように権威主義と特権が栄えている環境において一つの変革が実際に行われる前に、全般的転換を望むなど希望的観測であろう。(我々が)アナーキーをもたらす組織を、少なくともある程度のアナーキーをもたらす組織を必要としているのは(中略)まさにこの理由によるのだ。このある程度のアナーキーは、充分な量の自由が勝ち取られ、そして、数の上で充分強力で、なおかつ、自給自足的で、その影響力を地元で広めることのできる中核的アナキストたちがどこかに存在すると直ちに、段階的に実現可能になるであろう。』(エンリコ=マラテスタ著、アナキズム革命、83ページ〜84ページ)

つまり、アナキストは、未だアナキストではないが、リバータリアン的方法で本能的に活動している人々の中にあるアナキズム的諸傾向を促すことで、闘争に、革命プロセスに影響を与えるのである。アナキストは、アナキズムのメッセージを闘争にいる人々に広め、可能な限りリバータリアン諸傾向を支援している。このようにして、次第に人々がアナキストになり、アナーキーは次第に可能になっていくのである。社会革命におけるアナキストの役割はセクションJ.7.4で論じるため、ここでは論じない。

アナキストにとって、社会革命は、長年にわたる社会闘争の最終産物である。それは、所与の社会の変換、あらゆる抑圧形態の崩壊、新しい生活方法の・新しい自主管理組織形態の・生そのものに対する新しい態度の創造で特徴づけられる。それ以上に、我々は、日常生活でそうした変換を導入するために、未来を待ちはしない。むしろ、今日の社会でできる限りアナキズム的諸傾向を創り出そうとし、そのようにする中で、自由社会の創造が近づくようにするのである。

従って、アナキストは、革命的アナキストも含めて、世界をもっとリバータリアン的にしようとし、自分たちを自由に近づけるようにしようとする。アナキストの中で、アナーキーが遠い将来にある何かだと考えているものはいない。むしろ、リバータリアン的やり方で生活し、闘争することで、今ここで創造しようとするものなのである。いったん、充分な数の人々がこのことを行えば、アナーキーに向かうもっと包括的な変革(つまり、革命)は不可避になるのである。

J.7.1 アナキストは皆、革命家なのか?

全く違う。大部分のアナキストは、自由社会を創造するためには社会革命が必要だと信じているが、中にはこの考えを拒否している者もいる。その理由は、そうしたアナキストが、革命は、その正なる性質から言って、暴力的であり強制的であり、従って、アナキズム諸原理に反している、と考えているからである。プルードンは、マルクスへの返答で、次のように述べている。

多分、あなたは、いかなる改良も、助力となる奇襲を抜きにしては、これまで革命と呼ばれてきたもの(しかし、それは単なる衝撃にすぎないものなのですが)を抜きにしては、不可能だという意見を未だ持っていることでしょう。告白しますが、私は、最近の研究からこの観点を放棄してしまいました。この観点については、私自身長い間持っていたものなので理解できますし、喜んで議論をしたいと思っています。私は、成功を収めるために革命が必要だとは思っていませんし、従って、社会改良の手段として革命的行動を示唆すべきだとは思わないのです。なぜなら、革命が前提としている手段は、軍事力と恣意性に訴えるものとなると思われるからです。要するに、それは矛盾になってしまうでしょう。(ピエール=ヨセフ=プルードン選集、151ページ)

同時に、そうしたアナキストたちは次のように指摘する。国家は一般民衆よりも遙かに強力に武装しており、もっと充分に訓練されており、(歴史が証明しているように)「治安」を回復するために必要なだけ多くの民衆を積極的に虐殺する。こうした力の前で、革命が失敗することは明らかだ、と。

革命に反対する人々は、アナキズム運動のいかなる傾向にも現れる。伝統的に、個人主義的アナキストたちは、プルードンがそうだったように、革命という考えに反対するものだ。だが、社会的アナキストの中にも、ロシア革命の失敗と、スペインにおける C.N.T.-F.A.I.の敗北のために、革命に対する支持を考え直した者もいる。革命を、自由社会を創造する重要な方法だと見なすのではなく、国家はあまりにも強大な力であるため、暴動によっては克服できず、革命が失敗することは初めから分かっている、と考えるのである。こうしたアナキストたちは、革命の代わりに、協同組合・相互銀行など代替案の創造を支援する。これが資本主義をリバータリアン社会主義へと変換するだろう、というわけである。そうした代替案構築を、市民の不服従・納税拒否と組み合わせることが、アナーキーを創造する最良の方法だと見なすわけである。

大部分の革命的アナキストは、リバータリアン的代替案を今ここで構築することの重要性について同意する。革命的アナキストは、バクーニンが、リバータリアン組合や協同組合などの組織は大切だ、と次のように論じていることに同意している。『そのことで、状況の自然な力によってもたらされた革命が勃発したときに、何を行えば良いのかを知っている真の力を身近に持つことになり、そのために、革命を自身の手中に収め、民衆に有益な方向性を革命に与えることができるだろう。それは、万国の労働者諸組織からなり、国家とブルジョア階級の常軌を逸した政治的世界を置き換えることのできる、深刻な国際組織なのである。』(バクーニンの政治哲学、323ページ)つまり、大部分のアナキストにとって、進化と革命の違いはそれほど重要ではないのだ−−アナキストは、革命的諸状況が出現したときにその状況を支援するのと同じように、社会内部にあるリバータリアン諸傾向を支持しなければならないのだ。

それ以上に、革命的アナキストは、リバータリアン諸機関とリバータリアン的姿勢が襲来しても、究極的に、資本主義を改良し去ることはできないし、国家も死滅することはない、と主張する。革命的アナキストは、プルードンが述べているように、『ある種の経済システムが社会から取得した富を(中略)社会に取り戻す』ような『何らかの経済システム』を使って『段階的に財産を消却する』(前掲書、151ページ)ことができるとは思わない。従って、資本主義内部のリバータリアン諸傾向は、そのシステム下での生活をよりよいものにしてくれるかもしれないが、そのシステムを究極的に取り除くことはできないのである。このことが社会革命を示唆する、と革命的アナキストは主張する。そうしたアナキストたちは、アレキサンダー=バークマンの以下の文章に同意している。

いかなる政府も権威も、権力を握ったいかなる集団も階級も、自発的にその支配力を放棄したことなど一度もない。あらゆる場合において、武力の使用、少なくとも武力による脅しが必要だった。(アナキズムのABC、32ページ)

東側における国家資本主義(「共産主義」)の終焉でさえもこの主張と矛盾してはいない。大規模な民衆行動がなければ、体制は継続していたことであろう。莫大な民衆蜂起に直面して、コミッサール(共産党統制委員)は、民衆から取り上げた力を放棄する方が良いと実感したのである。つまり、真の革命の始まりである大衆叛乱が必要だったのだ。

さらに、国家はあまりにも強大すぎて敗北させることはできないという主張は、何度となく誤りだということが証明されている。あらゆる革命は、革命以前には打ち負かすことはできないと主張されていた軍事機構を打倒してきた。例えば、スペインにおいて武装した人民は、国家の2/3の軍隊を打ち負かしていた。究極的に、国家の力は、命令に従う軍隊に依存している。軍隊が叛乱を起こせば、国家は力を失うことになる。このために、アナキストはいつも反軍国主義プロパガンダを行い、軍隊をストライキや叛乱に参加するよう力説しているのである。だからこそ、革命的アナキストは、状況が適切で、アナキストがその状況を勇気づけるような活動をしていれば、いかなる国家であっても打倒できると主張するのである。

さらに、革命的アナキストは、アナキストが支援しなかったとしても、革命的変革が生じるのは止められない、と主張する。革命は人間社会の発展の産物であり、我々が望もうと望むまいと生じるのである。革命は、小さな叛逆、個々人・集団・仕事場・地域による拒絶という小さな行動で始まり、成長する。こうした叛逆行為はいかなるヒエラルキー社会でも不可避であり、次第に広く蔓延する。革命的アナキストは主張する。アナキストは、我々の政治の性質と自由を希求する我々の願望のために、そうした叛逆行為を支援し、究極的には社会革命を支援しなければならない。支援しなければ、我々共通の敵に対する闘争において民衆を無視し、アナキストの思想と姿勢を既存社会内部で成長させる手段を無視することになる。だからこそ、アレクサンダー=バークマンは正しくも次のように論じていたのだ。

これが、人生の主人(the masters of life)と、財産を奪われた大衆との決定的な闘争がいつの日にか行われるということを予見した予言が存在しない理由である。

事実上、闘争はいつも行われている。資本家と労働者は継続的に戦争をしている。戦争は、一般に、いわゆる合法的な形で行われる。だが、ストライキやロックアウトの最中にそうであるように、時として暴力的なものも勃発する。なぜなら、政府の武装した拳は、いつも、主人たちのためのものであり、その拳は、資本家が自分の利益が脅威にさらされたと感じる瞬間に振り下ろされるからである。そして、労働者との「相互利益」と「協調」という仮面を脱ぎ、あらゆる主人の最終弁論、弾圧政治と武力に訴えるからである。

従って、政府と資本家は、たとえ手助けできたとしても、黙って廃絶されることを許すわけがないことは確実なのだ。また、信じているふりをしている人もいるようだが、政府が奇跡的に「消滅する」こともない。政府と資本家を廃絶するには、革命が必要となるであろう。(前掲書、33ページ)

だが、全てのアナキストは、いかなる革命もできる限り非暴力的に行われねばならない、ということに同意している。暴力は弾圧の道具であり、アナキストにとって、暴力が正当化されるのは、強権に対する自己防衛手段としてだけである。従って、革命的アナキストは「暴力革命」を求めてはいない−−民衆が権威へのへつらいを拒絶すると、権威は民衆に対して暴力を使用するということを理解しているだけのことである。暴力のこうした使用は、非暴力直接行動に対しても向けられてきた。従って、革命を否定するアナキストも、自分たちに向けられる国家の暴力は避けられないのである。

また、革命的アナキストは、革命がアナキズムの諸原理と矛盾しているとは考えていない。マラテスタは次のように述べていた。『二人の人間が平和に暮らすためには、二人ともが平和を望まねばならない。一方が他方に対して自分のために強制的に尽くさせ、働かせるべく武力に訴えたとすれば、他方は、人間としての自分の尊厳を保持し、下劣な奴隷に貶められたくはないと思っているのなら、平和を愛する心にもかかわらず、適切な手段を使って武力に抵抗せざるを得ないであろう。』(マラテスタ著、人生と思想、54ページ)いかなるヒエラルキーシステムの下でも、強権を持った人々は、自分たちに従っている人々を平和のままにしておくことはない。ボスはその労働者を、権力の相違なく自由合意によって協働する平等者として扱うことはない。むしろ、ボスは労働者に命令し、制裁するぞと脅すことで服従させるのである。国家も似たようなものである。こうした諸条件の下では、革命が権威主義的になるこどなどない−−権威を破壊することは、権威主義的ではないからだ!ルドルフ=ロッカーを引用してみよう。

我々は(中略)革命を優雅に行うことなどできないことを知っている。同時に、我々は、所有者階級が自発的にその特権を放棄することはない、ということも知っている。革命の勝利の日に、労働者は、土壌・下層土・現在の生産手段所有者たちに対して、自分たちの意志を課さねばならないだろう。このことを達成するためには、労働者が社会資本を自身の手中に収めること、現在、そして将来も継続して、人民大衆を支配し続ける要塞、権威主義構造を粉砕することが必要なのだ。そうした行動は、疑いもなく、解放の行動なのだ。社会正義の宣言なのだ。社会革命の正にその本質なのであり、純然たるブルジョア独裁原理との共通性は全くないのだ。(アナキズムとソヴィエト主義

エンリコ=マラテスタの以下のコメントは、武力の行使に関する革命的アナキストの立場を充分に表している。

我々は、武力によって何かを押しつけようとしてもいないし、暴力的な押しつけに服従したいと思ってもいない。

我々は政府に対して武力を使おうとする。なぜなら、武力こそが我々を政府に服従させ続けているからだ。

我々は、財産を所有者から収用しようとする。なぜなら、所有者たちは、武力によって、原材料と、人間労働の果実である富を差し押さえ、武力を使って自身の利益のために他者を働かせているからだ。

我々は、武力を使って自分の意志を押しつけ、他者の労働を搾取する手段を保持したり、奪還したりしようとしている人々には、それがどのような人々であろうとも、武力を使って抵抗しなければならない。

暴力が武力に対する防衛だと正当に見なされるこうした場合を除き、我々はいつも暴力に反対し、自己決定に賛同する。(前掲書、56ページ)

これが、大部分のアナキストが革命家である理由である。革命的アナキストは、革命が、アナキズムの諸原理に反していると思っておらず、自由社会−−人間の大部分を奴隷状態に置き続けている、遙かに大きく永続的な暴力を思い切って終焉させることのできる社会−−を構築する唯一の現実的手段だと見なしているのである。

J.7.2 社会革命は可能なのか?

社会革命の可能性に対する反論の一つは、「社会変革のパラドックス」とも呼べることに基づいている。この主張は次のようなものだ。権威主義諸制度は、権威主義的人格タイプの人々に報酬を与え、社会的に最も影響力のある立場に選び出す。そうしたタイプの人々は、(A)権威主義的諸制度(自分たちがそこから利益を得ている)を永続させることに関心を持ち、なおかつ、(B)権威主義的諸制度を永続させる権力を持つ。そのため、自己充足的で堅く閉ざされたシステムが創り出される。このシステムは、事実上、非権威主義的人格タイプの影響力を通さない。従って、制度的変革は個人の変革を前提とし、個人の変革は制度的変革を前提とする、といった具合なのである。そして、諸制度と人間心理とが、共に、同時に変化しうる、ということを示すことができない限り、本物の社会革命(単なるエリートのローテーションを繰り返すのではなく)の希求は、非現実的なのではないだろうか。

この問題と関連して、ヒエラルキー社会の心理的根元は権力中毒−−他の人々に・自然に・身体に・人間的感情に及ぼす権力−−であり、この中毒は非常に伝染しやすい、という事実がある。つまり、世界のどこかにいる人間集団が権力中毒になると直ぐに、その攻撃範囲にいる人々も、自分自身を隣人から守るためには権力構造を受け入れざるをえないと感じる。しかし、いったんこうした権力構造が採用されると、権威主義的諸制度は半永久的になるのである。

この状況では、恐怖が、大多数の保守主義・従順さ・精神的惰性の背後に潜む感情となる。その国家にいる大多数の人々は、国家・強力な指導者・軍国主義・「法と秩序」・資本家のボスなどの必要性を断固として主張する権威主義エリートの利己的プロパガンダに対して無防備になる。従って、諸制度と個人心理を同時に変換することは、想像することさえ難しくなるのである。

こうした様々な障害物がどれほど重大であろうとも、それらが絶望を正当化することはない。この理由を考えるために、まず最初に、科学における「パラダイム=シフト」は、一般に、一つの分野における新しい発展だけから生じるのではなく、一度になされる様々な異なる分野における累積的発展の収斂から生じる、ということに注目しよう。例えば、アインシュタインの革命は、ニュートンのパラダイムを覆したが、それは、数学・物理学・天文学などの諸科学における同時的発展のためであった。これら全てが、お互いに影響しあい、反応しあい、交流し合っていたのである(トーマス=クーン著、科学革命の構造、1692年、を参照)。同様に、社会的領域における「パラダイム=シフト」−−つまりヒエラルキー諸制度から非ヒエラルキー諸制度へ−−があるとすれば、それは、同時的に起こる数多くの多様な社会経済的・政治的発展の収斂によって生じる見込みが高い。こうした発展については、セクションJ.4において既に論じてあるため、ここでは繰り返さない。ヒエラルキー社会においては、強権の弾圧が抵抗を生み出し、従って希望も生み出す。「自由への本能」を永遠に抑圧することなどできないのだ。

これが、アナキストが直接行動と自助の重要性を強調している理由である(セクションJ.2と、セクションJ.4を参照)。闘争という正にそのプロセスによって、自主管理・直接行動・連帯を実践することによって、民衆は、自分自身と社会全体とに必要な「パラダイム=シフト」を創り出す。マラテスタは次のように述べている。『自由の学校となるのは、自由、もしくは自由を求めた闘争のみである。』(人生と思想、59ページ)つまり、権威に対する闘争は、アナーキーの学校なのだ−−それは、社会におけるリバータリアン諸傾向と、個々人のアナキストへの転換を促すのである。革命的状況でこのプロセスは加速する。このテーマに関してマレイ=ブクチンの以下の文章は、詳しく引用するに値する。

革命は深遠なる教育プロセスである。実際、あらゆる種類の対立する思想と諸傾向とが革命的民衆の精神の中で振り分けられる紛れもない大釜なのだ。(中略)

革命的プロセスに突入した人々は、革命後には、革命が始まる前とは別人になる。革命的時代に少しでも成功に出会った人々は、数週間や数ヶ月間で、非革命的時代に生涯にわたって学ぶであろうことよりも多くを学ぶ。昔ながらの考えが驚くほど急速に捨てられる。数世紀にわたって発展した価値観と偏見がほとんど一夜にして消え失せる。著しく革新的な思想が急速に採用され、試験され、必要なところでは破棄される。特徴として甚だしく急進的な場合が多い、新しい思想であっても、支配エリート−−後者がどれほど急進的だと公言していようとも−−を脅かす活力と共に採用される。そして、その思想は、すぐさま民衆の意識に深く根ざすようになる。時代遅れの伝統が崇め奉っている権威は、突然、その特権・合法性・支配権を奪われる(中略)

革命一般は社会的にも心理的にも非常に騒然としているため、イデオローグたちに永続的な挑戦となっている。そうしたイデオローグには、人間行動は固定しており、人間的自然は前もって決定されていると主張する社会生物学者たちもいる。革命の挑戦は、「人間の本性」が際だって柔軟だということを明らかにしているが、革命の社会的・心理的混乱と、革命がほとんどの場合に生み出す制度的変革を研究の主題に選んでいる心理学者はほとんどいない。これだけは強烈に強調しておかねばならない。革命中と革命後の民衆の行動を、それ以前のものと同じ基準で判断し続けることは、完全に近視眼なのだ。

私は(全てのアナキスト同様に)主張したい。民衆の莫大なイデオロギー変化と道徳的変化を生み出す革命の能力は、普通の人々、実際、抑圧された人々が民衆自主管理を行使できる−−自分の社会的・私的生のほとんどの側面にわたる管理に、直接的で、迅速に、陽気に突入できる−−機会から主として生じている。叛乱者たちが、かつては神聖だとされたエリートから権力手段を奪取し、徹底的にポピュリストの方向に沿って社会を再構成し始める限り、叛逆者たちは、自分たちの内部に、以前は抑圧されていた創造性・自己信頼の感覚・連帯を育成する潜在能力があることの意識を育てるのである。叛逆者たちは、融通の利かない慣習が以前に自分たちに教えていたように、社会は不変のものでも、神聖なものでもなく、むしろ、融通が利き、ある制限の中で人間の意志と願望に従って変革の対象となる、ということを学ぶのである。(第三革命、第一巻、6ページ〜7ページ)

つまり、社会革命は可能なのだ。アナキストは、ある種の状況の中で、協働は成功すると予期している。ボスからの命令に服従することに慣れている人々が、新しい世界を創造することはできない。自由・自主管理・協働・連帯は、資本主義がその中で生活している人々に生ぜしめている競争的でヒエラルキー的行動を克服するための、単なる倫理的意志の行為ではない。マラテスタが論じているように、資本主義は競争を基盤としている−−そして、そこには労働者階級が含まれているのだ。従って、闘争は資本主義下における労働者階級の生活に固有のものなのである。だが、協働は、システムの中で生き残り、システムに抵抗するための我々の闘争によって、我々の階級の中で促されている。協働に向かうこの傾向は、資本主義に対抗することで生み出され、自由社会に必要な習慣も創り出すのである−−世界を変革するために闘争することで、民衆も自分自身を変革するのである。直接行動は民衆に権能を与え、独立独歩の民衆を創り出す。そうした民衆は、自分たち自身の事柄を自分たちで管理できるのである。これが闘争が持つ解放的効果なのだ。個人的・集団的自主管理と直接行動に向かう諸傾向を生み出すのだ。連帯の必要性と連帯の感情を、そして、差し迫った諸問題に対する創造的な解決策を生み出すのだ。アナキストは、このことを基盤として、社会革命は可能か、という問いに対するポジティブに答える。歴史は我々が正しいことを示している。さらにこの先もそうだと示されるであろう。

J.7.3 革命は暴力を意味しているのではないか?

多くの人々が、革命(とアナキスト)は極めて本質的に暴力的だ、と描こうとしているが、アナキストが求めている社会革命は本質的に非暴力的なものである。その理由を見るために、バクーニンを引用しよう。『徹底的な革命に着手するために(中略)所有(という制度)と国家を破壊すべく、諸身分と事物を攻撃することが必要である。だが、人間を破壊する必要はない。人間を虐殺することで全ての社会で必ず生み出される当然の反応に自分自身を追いやる必要はないのだ。』(ミハイル=バクーニン選集、168ページ〜169ページ)

バクーニンが他の文章で書いているように、財産の終焉も非暴力的である。

どのようにして資本の暴虐行為を壊滅するのか?資本を破壊するのだろうか?だが、それでは地球上に累積された全ての富を、全ての原材料を、全ての労働器具を、全ての労働手段を破壊することになる。(中略)従って、資本は破壊できないし、破壊されるべきでもない。保全されねばならないのだ。(中略)解決策は一つだけだ−−資本と労働の密接で全面的な団結である。(中略)労働者は、資本を個人的にではなく、集産的に所有しなければならない。(中略)資本の集産的所有は、(中略)労働と労働者の解放の絶対必要条件(なのだ)。(バクーニン入門、90ページ〜91ページ)

社会革命に関わるアナキズム思想の本質的に非暴力な性質は、1919年の米国シアトルのゼネストからも見て取れる。ここで、シアトル市長の言葉を引用してみよう(この市長がストライキ参加者の側に立ってはいないということは言うまでもない)。

いわゆる同情的なシアトルのストライキは、革命未遂だった。そこには暴力が全くなかった。このことが、この事実を変えることはない。公にも内密にも発表されていたその目的は、産業システムの転覆であった。まず最初にここで、そして、あらゆる場所で。(中略)確かに、拳銃の閃光も、爆弾も、殺人もなかった。もう一度言うが、革命には暴力は必要ない。シアトルで実践されたように、ゼネストそれ自体が革命の武器なのであり、穏やかであるが故に余計に危険なのだ。成功するためには、全てのことを一時停止させねばならない。地域生活の全ての流れを止めるのである。(中略)つまり、政府を運営できなくさせるのだ。そこには叛乱しかない−−それがどれほどのことを達成しようとも。(ハワード=ジン著、合州国民衆史、370ページ〜371ページで引用)

ストライキ参加者たちが、仕事場を占拠し、地元地域が民衆集会を創り出すことができれば、革命未遂は、全く暴力を使用しない現実の革命になっていたことだろう。このことは、普通の人々の強さと、政府と資本の相対的弱さを示している−−政府と資本は、民衆を強制して自分たちを尊敬するようにできるときにのみ、正常に機能するのだ。

一年後、イタリアでは、工場と土地の占拠が始まった。マラテスタは次のように指摘している。『新しい人間性(アナキストの日刊紙)において、我々は次のように述べた。(中略)運動が全産業部門に広がれば、労働者と農民が金属労働者の実例に、つまり、ボスを排除し、生産手段を乗っ取るという実例に従い、革命が一滴の血も流さずに成功することであろう。』従って、『工場と土地の占拠は、我々の行動プログラムに完全に合致しているのである。』(人生と思想、135ページ)

それ故に、社会革命は必ず暴力的になる、という考えは間違っている。アナキストにとって、社会革命は本質的に(参画している個々人と全体としての社会双方の)自己解放の行為である。それは暴力とは何の関係もなく、全く逆に、アナキストは社会革命を、支配と、社会における暴力の使用を終焉させる手段だと見なしている。つまり、アナキストは、あらゆる革命が本質的に非暴力的なものとなり、暴力が使われるとしても本質的に防衛的なものとなることを望んでいるのである。

もちろん、多くの革命は暴力で特徴づけられている。だが、アレクサンダー=バークマンが論じているように、それはアナキズムや革命の目的ではなく、アナキズム思想よりも、革命以前の弾圧・支配と遙かに関係があるのだ。

革命が街路での混乱と暴動で始まることは知られている。この最初の段階には、武力と暴力が含まれている。だが、これは本物の革命の華々しいプロローグでしかない。大衆が被ってきた長年の苦難と侮辱が突如として混乱と騒乱の中で噴出し、数十年にわたり素直に耐えてきた屈辱と不公平が、憤慨と破壊の諸事実の中にはけ口を見いだす。これは避けられない。革命の準備段階の原因となっているのは主人階級だけなのだ。「自業自得」は、個人的にというよりも、社会的にもっと真実なのだ。大衆が服従させられていた抑圧と不幸が大きければ大きいほど、社会的な激情の嵐は激しくなる。あらゆる歴史がこのことを証明しているのだ。(中略)(アナキズムのABC、50ページ)

バークマンは次のようにも論じている。『ほとんどの人は、革命に関して非常に支離滅裂な考えを抱いている。そうした人々にとって、革命は、喧嘩・物を粉々にすること・破壊行為だけを意味している。これは、仕事をするための腕まくりを、自分が行わねばならない仕事それ自体だと見なさねばならない、というのと同じである。革命の戦闘的側面など、単なる腕まくりでしかない。』革命の課題は『既存諸条件の破壊』であり、『諸条件は、物を壊したり粉々にしたりすることによって破壊されることはない。製造工場や大規模工場の機械を破壊したところで、賃金奴隷を破壊出来はしない。(中略)ホワイトハウスに火をつけたからといって政府を破壊出来はしないのである。』バークマンは、正しくも、次のように指摘している。革命について考察することが『暴力と破壊という観点でのものならば、革命の全体的考えを誤解し曲解している。現実に適用されれば、そのような概念は、破滅的結果を導くことになるのだ。』(前掲書、40ページ〜41ページ)

つまり、バクーニンのようなアナキストが、革命を「破壊」だと述べている場合、それは、権威と服従という考えを、そうした考えに基づいた諸制度と共に、破壊しなければならない、ということを意味しているのである。はっきりと分かるだろうが、民衆の破壊や財産の破壊を意味してはいないのだ。暴力の賛美も暗示してはいないのだ−−全く逆なのである。アナキストは、抑圧と権威に対する自己防衛を必要としている場合にだけ暴力を限定しようとしているのである。

社会革命には、何らかの暴力が含まれるかもしれない。逆に、全く非暴力のものとなるかもしれない。それは革命に依るのであり、どれほどアナキズム思想が普及しているのかに依存している。一つだけ確実なことは、アナキストにとって、社会革命は暴力と同じ意味ではない、ということだ。実際には、支配階級が抑圧された人々の行動に抵抗するときに−−つまり、権威を持った人々がその社会的立場を保護するために行動するときに−−暴力は生じるものなのだ。

人口の中に充分大きな割合でアナキストが存在して、政府と財産を存在しないものだと単に「無視」することを妨げるために、富者とその国家はあらゆることを行うだろう。もし事態がそこまで行ったなら、政府は法律上の権利と選挙を一時停止し、影響力を持った反逆者たちを検挙するであろう。問題は、こうした行為に対してアナキストが何を行うのか、である。アナキストが大多数だったり、大多数に近かったりすれば、防衛的暴力が成功する見込みは高い。例えば、スペインの「武装せし人民」は、1936年7月19日にファシストのクーデターと衝突し、世界で初めてアナキズムの最重要実験の一つを行った。これは、1920年代のイタリアでの工場占拠の結果と、労働運動を粉砕したファシストのテロルとは対照的である。つまり、大多数が行動しているとしても、国家を単に無視するのは不可能なのであって、国家は廃絶されねばならず、国家や資本主義を再び押しつけようという試みに対して自己防衛を組織しなければならないのである。

自己防衛と革命の防衛に関する疑問については、セクションJ.7.6で論じる。

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