アナーキー時評 99年後期


 

 

12月30日  新年何が故に芽出度きか?  (T)


 今からおよそ100年前、幸徳秋水は「新年、少しもめでたくない」と、次のような論説を平民新聞に書いた。(「新年の感」平民新聞 第八号 参照)

 曰くお芽出度う! 曰くお芽出度う! 新年何が故に芽出度きか、吾人は少しも其の芽出度きを見ざる也。
 武装平和、資本家制度、少数政治、賄賂公行の旧年は去れり、而して武装平和、資本家制度、少数政治、賄賂公行の新年は来れり、新年の新は猶旧年の旧の如し、吾人は少しも其の芽出度きを見ざる也。
 幸徳の時代から現代までの間に、技術は格段に進歩した。交通手段が発達して、世界の大抵の場所までは24時間以内に行くことができる。わざわざ行かなくても、CNNやインターネットを使えば世界中のあらゆる情報を、瞬時に入手できる。
 電話などほとんど普及していなかった当時から見れば、今日の携帯電話の普及は驚異であろう。
 100年前の幸徳らが今日の技術を知れば、さぞかし驚くに違いない。そして、「武装平和、資本家制度、少数政治、賄賂公行」について、何も変わっていないことについては、さらに一層、驚くことであろう。
「この100年間、君達はいったい何をしていたのか?」と。

西暦2000年、何が故に芽出度きか、吾人は少しも其の芽出度きを見ざる也。
 100年後の今日も、また同じことを言わねばならぬ! 嗚呼! 


 

12月 2 日  死ぬのは「奴ら」だ!  (N)


 中高年の自殺者が激増している。しかしその死体は隠されている。
 長長期の不況によるリストラや倒産、「眼を売れ!腎臓を売れ!」式金融業者の過酷な取立、それらに連動しての家族崩壊、自殺の原因は一括りには出来ないが、経済的困窮がその解発因となっていることは確かだ。
 死を選択した人々は、おそらく企業戦士として「真面目」に生きてきたのだろう。何十年にわたり、忠実かつ正確に業務をこなし、深夜に及ぶ残業も厭わず、休日も時として明け渡すか、たとえ得たとしても、頭は会社のことばかり、受け取る報酬に比して、その捧げたものは余り有る。
 そういう態度や姿勢は、一朝一夕に出来たものではない。教育過程で、着実に身につけた結果なのだ。自分の過ぎたる欲望は極力押さえ、周囲と協調することを優先する。どのような運命をも享受する謙虚な姿勢。もちろん、反乱の季節と出会った人々もいる。それにしても組織や世間を無視したわけではない。反抗の枠組みすら、システムに依存していたのだ。いやシステムばかりではない、「宗教」や「イデオロギー」等の妄想の体系であった時もある。「私」の外部に、何がしかの対象を据え、自らを律したのである。
 確かに従うことにメリットはあった。「終身雇用」はその典型としてあった。我が身頼りのケンカ人生は、常勝出来るほどの剛腕がなければ困難だ。ルールや契約、システムは、相互のメリットになることもある。だが、あくまで、「私」の為だ。守って役立たなきゃ、捨てちまうのがいい。イデオロギーや宗教もドラッグと同じだ。知識として所有するには重宝するが、「私」を支配させないほうがいいのは言うまでもない。ジャンキーにおまかせだ。生まれ滅するまでの、たかだか生きての3万日、外部/他者に身をまかせたり、期待してどうすんの?
 だから、今どきの大不況に学ぼう。「終身雇用」を掲げ、個人の過剰な欲望を「忠誠心」で抑圧しながら、今度は、手のひら返して「実力主義」だと、バッサリやる。沈む船に浮力を与えようとしての所業だ。(投げ捨てた後が怖いのか、はたまた船上での反乱を恐れるのか、やれ「国民の歴史」だ「美風」だのとの空手形乱発ブーム。また自ら求めて宗教奴隷、イデオロギー奴隷になる人々も後を絶たない)しかし、生き残るのは結局「奴ら」だけである。
 元来、ルールやシステムは、他者にこそ守らせるもの。その供給者たちは、自身に都合が悪くなると破ってしまうのが「定説」だ。「金融敗戦」が第二の敗戦なら、かって「鬼畜米英」が「ギブミーチョコレート」にあっさり変わったことを想起すべきなのだ。
 敢えて言うなら、「奴ら」の、その「不正義」を批判するのでもなく、その言を言として真に受けるのではない。生き方を学べばよい。人を人とも思わぬ態度、非情さ、不信、変わり身の早さ、獣性、悪への親和性、自己愛、しかしながら自身は慈愛に満ちている、大義名分に生きていると信じ込むこと…それこそが見せかけのルールやシステムの背後にある裏のルール、否、それこそが「奴ら」の「真実」なのだ。
 その上で、荒野に出て、「実力主義」を発揮してやろうではないか。ただし、己がルールの下だ。早晩3万日後には、塵芥と化す我が身。自己破壊のエネルギーは、他者において有効利用しようぜ。すべてのサラリーマンの諸君。今度こそ、死ぬのは「奴ら」なのだ。


 

11月15日  音楽か、音額か?  (M)


1. 山本譲二がリストラされたそうだ。何でも多くの演歌歌手がリストラされているらしい。リストラされた人達は、契約してくれるレコード会社を探しているらしい。
 ある評論家の言葉によれば、演歌は日本人の人生の機微を唄っているとか。これはちょっと変ですね。人生の機微を唄っている人が、一般大衆の過ごしている人生から最も離れたショービジネスの世界にどっぷり浸かっているわけですか。それなら、近所の漁師さんがカラオケで「海はよ〜」とか調子っぱずれ唄っている方がリアリティがあるんじゃぁないでしょうか?  どうでしょう。リストラを機に、レコード会社に媚を売るのを止めて、平凡な日常生活にどっぷりと浸かって、近所の飲み屋で唄を歌いながら自主制作でテープを出すっていうのは。この方が「艶歌」なんじゃぁないでしょうかねぇ?

2. 例えば、自分でCDを千枚作るとする。費用は240000円、一枚あたり240円だ(JapanOverseas、http://jo.gol.com/より)。もちろん、プレス数が多くなればなるほど一枚あたりの単価は安くなる。市場でCDを買うと2500円から3000円払わねばならない。
 例えば、何かの機会に自分を感動させてくれる良い曲を聞く。その曲の入ったLPなりCDなりを買おうとレコード屋へ行く。発売元は東芝EMIだそうだ。ご存知のとおり、東芝は原発製作会社だし、EMIも原発作りに携わっているCEMAの系列だ(ご存知ない方は、http://www.arancidamoeba.com/mrr/whoownswho2.html を参照。米国の古いデータだが、構造そのものは現在も同じである)。少し迷った後で、きびすを返してレコード屋を出る。
 例えば、Thee Mischellgun Elephantという日本のバンドがいる。日本では日本コロンビアからレコードを出していて、かなり売れているようだ。このバンドが最近米国のガレージパンク専門の自主レーベル、Estrusからレコードを出し、米国をツアーしたらしい。聞くところによると、このバンドは最近スタイルを変え、ガレージ系の曲を作りだしたとか。Estrusに確認を取ったところ、このバンドが日本でそんなに売れているとは知らなかったそうだ。米国で成功したガレージバンドGuiter Wolfにあやかろうというのだろう。自主レーベルを使って昔からガレージパンクをやっていたかのように見せかける作戦か。逆の場合もある。米国のメロコア系自主レーベルEpitaphは、日本ではソニーが販売元となっている。Epitaphによれば、日本にはディストリビュートしてくれる自主レーベルがなかったからだそうだ(嘘だ!)。

3. 少数の会社が相変わらず全体を支配しながらも、システムを複雑にすることで、世の中がどんどん複雑になっていくように見せかけている。

4. 音楽を聴いていますか?


 

11月 7 日  カラオケ必勝法  (T)


 「カラオケをどう思うか?」と尋ねられると返答に窮する。普通なら「カラオケは好きか?」と尋ねるだろう。こういう聞き方は、カラオケに対して否定的な見解を期待しているに違いない。「カラオケ大好きです」などと答えようものなら、失望と軽蔑の視線を覚悟しなければならない。「アナキストとあろう者が、カラオケのような規格化されたくだらないものが好きなのですか?」
 余計なお世話だ。アナキストだからといって、必ずしも世間から背を向けて生きているわけではない。人並みのつき合いもあるし誘われればカラオケにも行く。
 最近の通信カラオケは、歌える曲数が格段に増えている。ロックでもパンクでも、その気になれば何でもある。(もっともその手の歌は難しいけれど)
 一緒に行った人がどう思うかを全く気にかけず、歌いたい歌を大声で怒鳴り散らせば大いにストレス解消になる。大抵の場合、誰も人の歌など聞いていない。どうせ聞いてないのだから選曲に気を使う必要はないし、うまく歌う必要もない。そういう歌い方を迷惑がる人なら、二度とカラオケに誘われることもない。
 カラオケが不愉快になるのは、他人のことを気にするからだ。
他人のことは一切気にかけない。自己満足こそが全て。それがカラオケの必勝法だ。


 

10月24日  男一匹核大将!−しかしてその実体は?−  (N)


 へへへっここまで来たら、誰も助けに来いへんで。なんせ、ここは支那の連中が、我が大日本国の領有圏を犯しとる魚釣島やからな。この西村真悟様を除いては、誰も来る根性なんかあらへん。
 ええか清美。たっぷり可愛がったるでぇ。ギャグが、きついか。お前しゃべらしたら、うるさいからな。エエ声でよがりなきするようになったらはずしたるわ。それにしてもなかなか似合うやんか。こうやって見ると、けっこうチチでかいやんか。ケツもエエし。着やせするタイプやな。大体お前ら甘すぎるわ。世界言うたら、喰うか喰われるかやで。お前らみたいに平和ボケしとったら、いつ朝鮮や支那に寝首かかれてしまうかわからん。そないなったら女なんかみんな強姦されるんやゾ。大体どこの軍隊でも、占領したら女は輪姦されるもんヤ。従軍慰安婦なんかはそんなことにならんように作ったんや。せやのに慰安婦と一緒になって文句いいさらして。強姦抑止力のためにも核武装が必要なんや。まあアホにはわからんやろな。どうせ強姦されるんやったら、この西村真悟様みたいな立派な日本男子に姦られた方がエエやろ。オレのチンポはきついでえ。テポドンよりゴツイでえ。なんせ核ミサイルやさかいな。お前みたいな小娘はヒイヒイ言うで…千代に八千代に苔のむすまでやったるわ…

 アッ!…痛テェ!!…ああ、なにさらすんや!…人のチンポ切りやがって…イテテテ…チクショウ…

 (西村チンコもとい西村真悟の、見事なファロスぶりに関心してたら、つい妄想しちゃった)

 にしても、我がアナキスト秘密工作員西村センセの活躍どうですか。なかなかのもんでしょう。
え?彼はゴリゴリの民族主義者じゃないのかって?…ンなわけないでしょう。あんな下品なたち振る舞いをする人物が、日本の民族主義をアピールしたら、どうなるかってこと。『軍人勅諭』にだって、「人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振るいたらば果ては世人も忌嫌いて豺狼などの如く思いなむ心すべきことにこそ」とあるんだからね。何かと言うと、強姦強姦というのも、旧日本軍=暴行虐殺をイメージさせるのが、狙いなんだな。「ああ…やっぱり野蛮な黄色い猿なんだ。」ってことになっちゃうでしょ。魚釣島に上陸したり、核武装するゾ!と挑発してんのは、仮想敵にしている近隣諸国が、それを聞いて恐れ入りましたになるわけなくって、ホナやったろうやないかと、最近のインド-パキスタンの対立を見ても明か。で、敵を創出したものの、まともに考えても、日本が単独で勝てるわけない。加えて核武装や国軍創設は、アメリカをも敵にまわすことになる。要は、日本を、世界中から孤立させて、諸外国に狙わせ攻撃させようとする瀬戸際作戦、日本北朝鮮化滅亡大作戦なんです。本人はしゃあしゃあと、加藤紘一を「売国奴」よばわりしてますけど、西村本人は「亡国奴」てわけなんです。日本総破壊を目論む、恐るべきアナキスト秘密工作員というのが、国会議員西村真悟の実体なんです。(これ内緒ですよ)
 よっ!核大将カンバレ!


 

10月14日  学級崩壊万歳!(いっそのこと国家崩壊はどうだろう?) (M)


 学級崩壊だ!最初にこの言葉を聞いたときには、自分が外国にいたこともあって何のことだかさっぱり分からなかったが、帰国してテレビを見ているうちになんとなく状況が分かってきた。よくよく考えてみると、これって子供の暴動か!と思えてきて、面白くなってきた。私が中学・高校生だった頃、校内暴力が「問題」となっていた。その後、いじめ、不登校、学校外における暴力や売春が、そして現在新たに出現して「問題」視されているのが学級崩壊である。校内暴力以前は、あのくそくだらない学校システムをそのまま受け入れ服従していた世代があり、その後に三無主義(無所有・無政府・無強権じゃないぞ)と呼ばれた無気力世代があった。この流れが継続している間、体制側である学校システムそのものは何ら根本的変革をおこしてはきていない。また、ジャーナリズムが行っている評価も、システムの側、つまり大人の目で見た子供の教育という点をいつまでも脱していない。子供の意見はどこにあるのかね?これなことで、よくも民主主義・自己決定・権利・責任なる言葉をジャンジャン使えるものだ。お分かりだろう。学級崩壊は、本質的に、「問題」ではなく既存社会のもたらす当然の「結果」なのだ。

 服従→無気力→校内暴力→いじめ→不登校→地域における暴力・売春→学級崩壊というこの流れ(もちろん、これらは時系列で見て重複している部分もある)、革命運動の流れに似ている気がする。まず、民衆を支配する巨大なシステムが出来上がり、民衆はそれに服従していくが、次第に無気力にされる。それに対する反動としてシステムに対する革命的叛乱が発生するが、やがて革命勢力内の内ゲバへと転化し、それが敵の見えなくなった単なるテロへと変化する。これは、反動システムそのものが崩壊して終わるという可能性もあるが、ほとんどの場合、革命集団が自滅して元々の無気力服従状態に戻って終結する。

 革命集団の自滅は、よく言われることだが、その将来像が運動をしつづける中で欠落していくことに一部起因している。いつのまにか民衆からも相手にされなくなり、何をやっているのか分からずに焦燥感ばかりが先立って、崩壊してしまうのだ。学級崩壊に携わっている小中学生に教育の将来像を尋ねることは難しいかもしれないが、そのメッセージは明らかである。既存の学校などいらないのだ。今のままでは、学級崩壊は学級崩壊として潰れていってしまう。学級崩壊を学級崩壊だけで終わらせることなく、学校崩壊、ひいては国家崩壊へとつながっていってほしい。マスコミよ、もっともっと大きく「問題視」してくれ!そして、模倣現象を日本のあちこちで引き起こせ!軍隊のように批判力の無い平均人だけを生み出している学校なんていらない。そのシステムを支えている国家なんていらないのだ。


 

10月 5 日  ふざけるな! 再び (T)


 「東海村の放射能漏れ事故」など無視しようと思っていたのだが、何を考えようとしても、どうしても考えがそっちへ行ってしまう。やはり黙ってはいられない。思ったままを書こう。
 まず思うのは、「原子力と経済原理は相容れない」ということだ。原子力利用には「極めて危険な放射性物質」の管理という仕事が常につきまとう。今回の事故のような核燃料の製造工程だけではない。たとえば高レベルの放射性廃棄物の管理などは、半永久的にしていかなければならないのだ。そんなコストを計算に入れれば、原子力発電の採算が合うはずがない。原子力は軍事利用や国家の威信を賭けた宇宙開発など、経済性を無視したところで発達してきたし、またそういう分野でしか存立しえないのだ。原子力利用を採算に乗せようと思えば、安全性確保のためのコストをどこかで切り捨てなければならないのである。原子力を採算ベースで利用しようと思えば、大量破壊・無差別殺人の危険性は常について回るのだ。
 大量破壊・無差別殺人の危険を冒してまで、私利私欲のために原子力を推進する団体は、オウム真理教といったいどこが違うのか。そういう団体こそ破防法を適用して解散させなければならない。私利私欲のために原子力誘致に躍起になっている連中こそ、ブタ箱にブチ込まなければならない。
 ふざけるな! 原子力推進のお先棒かつぎをする馬鹿者どもに、再度、この言葉を投げつけたい。(8月19日「ふざけるな! 吉村作治」参照)


 

9 月13日  「桜と炎」ー神奈川異聞ー (N)


 「さあ、パンツを降ろしな」
 巡査部長の声に、瞬間、美しい顔を凍てつかせる、新人集団警ら隊員。向けられた銃口をちらりと見やる。諦めたように、下着をずり下げていく。やがて硬化した肉塊が姿を現わしていく。意外に濃密な繊毛から抜きんでた仰角をもつそれを震わしながら、屈辱感を押し殺そうとする美青年巡査の生白い太腿。
 「へっへっへ顔に似合わずいい持ち物してんじゃねえか」
 と、もう一人の鬼部長が、哄笑する。
 「最初はやめて下さい なんて嫌がってくせによ。まんざらでもなかったんじゃねえか」
 肉厚な獣のような手が、美青年の下腹部へためらいもなく伸び、むんずとそれをつかむ。やがて、ふざけ半分のようにしごきだすと、青年巡査は、身をよじらせうめいた。後ろ手にかけられた手錠が食い込む。
 「やめてください!」
 たまらず、青年巡査と対面するように柱に縛り付けられている、童顔の巡査が叫んだ。その足元には、低周波治療器が転がっている。童顔巡査を失禁させた責め具だ。 「なんだ!お前にはさっきしてやったじゃないか。小便ちびりやがったくせに、まだされ足りないのか。」
 と、銃を片手の巡査部長。
 「それとも、妬けるのかい。心配すんな、後でつがわせてやるからよ。」
 銃に代わって金属性のライターがいつの間にか握られている。青白く、蛇の舌のように長くチロチロとうごめいている炎。徐々に、青年巡査の肉塊に近づけていく。
 「神奈川県警名物<ナイアガラ>を味わってもらおうかい。」
 恐怖と羞恥は、やはり全裸で緊縛され、芋虫のように転がされている二人の巡査たちをも襲っていた。

 なんてね。ゾクゾクきちゃう。
 神奈川県警って、共産党盗聴事件発祥の地と言うのがメディアに刷り込まれてたから、てっきり特高系ハード路線かと思ってたら、SM倒錯路線だったんだ。要するに件の盗聴事件たらも、「屋根裏の散歩者」だったわけ。
 捜査と称して、盗聴盗撮・のぞきや尾行はやりたい放題。逮捕・取り調べはもろSM。しかも制服コスプレ天国だしね。材料には、警察は事欠かないね。
 深山本部長やら中林警務部長もkandaulismus feti(※)かなんかで、興奮してたのかも。「嘘ついてたんじゃないか!」「はっきりこたえろ!」と記者に詰め寄られてたけど、服の下は全裸で「もっと責めて!」と…
 だからマスコミみたいに、「全国の真面目に働いているおまわりさんに迷惑だ」なんて言っちゃだめだよ。ますますタブーを侵すことに燃えちゃうじゃない。
 しかし、署内のマニア同志で楽しんでいる分にはいいけど、カタギの皆さんに迷惑かけないのは常識。プレイの嫌いな人もいるんだからね。恥ずかしい写真をネタに強要したりはペケだ。
 野中官房長官が、「活動の実態が見えにくく住民に不安を与えている」「直ちに解散させるほどの危険性が認められなくても、報告義務を課し、守らない場合には立ち入り調査をして結果を公表するという『監察制度』を柱にする…」とか言ってたんで、ひとまず安心だな。
 え?あれは、オウム真理教のことだって?
いいじゃん、まとめて面倒見れば。どっちも暴力集団なんだから。

※カンダウリズム
 異性や同性の愛人の裸体を、晒しものすることによって快感を覚える癖。だそうだ。


 

9 月 3 日  リスクを恐れず挑戦せよ!…だって。 (N)


 なんなく「1999年第7の月」も過ぎ、思えば数十年来友と楽しみにしていた「終末」は無く。「鳴呼ノストラダムス先生あなたもですか!」と言ったとて、先生「わしゃそんなことは言っとらん」と一蹴されそう。
 こうなったら和製ノストラダムス先生に期待しよう。誰?って、堺屋太一経済企画庁長官ですよ。石油危機を予言したとか言われた「油断!」って本で一躍有名になったのは昔のこと。一昨年には「『次』はこうなる」なんて予言本をお書きになられた。経企庁長官になってからの託宣の数々も周知のこと。先般も、景気の予測を尋ねられて、「今は丁度、午前4時ぐらいですね」とおっしゃる。質問者が「じゃあ、夜明けは近いんですね」と返すと、「いや、明けたらどしゃ降りかも」なんてお告げ。するとこの突然の大雨で、キャンプへ行ってた人たちが、たくさん流されたりしたもんだから、ウアー当たってるゾって…さすが傾城企画、もとい経済企画庁長官だと感心の極み。
 とにもかくにも、1999年版の経済白書で、大予言者、堺屋長官は、こうのたまわれた。「長い成長とその結末としてのバブル景気、そしてその劇的な崩壊と長期にわたる放置の結果、傷みきった日本経済の中では、敢えてリスクを冒してまで夢を実現しようとする者は少ない。」「臆病は慎重といい換えられ、旧習の踏襲が『粛々とことを進める』と美化された。」「こうした中では夢も冒険心も育たない」このままだと、日本は「老いたる発展途上国」になってしまうだろう。とのこと。う〜む、本家ノストラ先生の予言詩に勝とも劣らぬ難解さ。しかし安心なことに、件の白書には解説が付けられている。それによると、家計、企業、金融機関等各経済主体が慎重に過ぎ、前向きのリスクテイク行動がなされておらん。これでは、経済は萎縮されるばかりだ。「risk」という語は、「riskcare」に由来する。「riskcare」とは「勇気を持って試みる」ことなのだ、そうな。
 じゃあ、何を「riskcare」するんだいってこと。ヘッジ・ファンド?デリバティブ?ジャック・ボンド?なんやらシロウトにはサッパリだが、要は、カジノ資本主義で、新種の公営賭博へ行こうってことなんかなあとか、つらつら無い頭で考えた。
 ところが、8月17日付の某新聞(夕刊)に、同日夕刻、大阪府和泉市で、泉州銀行の店外現金自動預金入払出機(ATM)が、約3500万円ごとそっくりそのまま盗まれるという事件が報じられていた。ATMの建物は、重機運搬用トラック(これ自体盗難車)で運ばれたショベルカーで破壊され、その後、ATM機は盗まれたということ。これこそが、堺屋予言の差し示すリスクテイク行動であり、「勇気を持って試みる」実例じゃないかとピンときた。正しく「所有とは盗むこと」なり。
 解説にも、「結果として貧富の差は現在より大きくなる可能性があるが、挑戦とそれに伴うリスクに対応する報酬は、正当な評価であり、それによる格差は是認される必要がある。また、その前提として、すべての人に対して公正な機会が与えられている…」とあるから、勇気ある挑戦者には、それ相応の報酬が与えられて当然なわけだ。リスクを冒して、夢を実現する時代が到来したということ。もちろん、こっちが有利なルールで「勝つ」ように戦えばいいのは当然。負けたら「貧乏」は必至というからには、なりふりかまっちゃいられぬ。バーチャルじゃない「人生ゲーム」なのだから。


 

8 月19日  ふざけるな! 吉村作治 (T)


 東京電力のCMで、考古学者の吉村作治が「プルサーマルはエネルギーのリサイクル」などと宣伝している。知らない人が聞けば、「プルサーマル」は嫌われ者の「放射性廃棄物」をリサイクルするすばらしいプロジェクトのように聞こえる。しかし本当にそうだろうか?
 リサイクルと称して放射性廃棄物から抽出するのは、猛毒で原爆の材料でもある「プルトニウム」である。核燃料サイクルは、プルトニウムを作りながら燃やす「高速増殖炉」によって完結するはずであった。ところが「高速増殖炉」の研究・開発はどこの国でも難航し、日本以外の国では全て開発を断念している。日本でも「もんじゅ」は大量のナトリウム漏れ事故を起こすなど、とても実用に堪えるような代物ではないことが明らかになった。
 高速増殖炉ができないと、プルトニウムを抽出しても使い道がない。プルトニウムは保存すると大量の放射能を出すため長期間の管理が困難な上、核拡散を警戒するアメリカもいい顔をしない。
 そこで、プルトニウムをウラン燃料と混ぜて、現在の原発で燃やしてしまおうというプルサーマル計画が急浮上してきたわけだ。
 プルトニウムはウラン燃料よりもはるかに反応性が高い。そのため制御が難しい。ブレーキが効きにくくなり、暴走の危険も高くなる。
 老朽化や手抜き工事でトラブル続きの日本の原発で、そんな燃料を使って安全なのか。そもそも今の原発はプルトニウムを燃やすことを想定して設計されていないのではないか。さらに、プルトニウム入り燃料を燃やした際の放射性廃棄物は、今の廃棄物よりはるかに厄介で処理が困難な物になるという。
 使い道のない「プルトニウム」を無理やり作り、その処理に困って、今の原発で無理やり使うというのがプルサーマルである。使い道がないなら「プルトニウム」を作る必要などない。無理やり作ろうとするのは、他に目的があるからだ。
 何が「エネルギーのリサイクル」だ。ふざけるな!


 

8 月 6 日  鶴と菊と星 −最も恐ろしいグリム童話(偽書版)より− (N)


 昔は昔でも、そんなに大昔ではない昔。大きな三羽の黒い黒い鶴が、泥がかたまってできた島に降りたちました。島には、いやらしいほど黄色い黄色い菊の花がたくさんはえていました。三羽のうち、一番年上の鶴が、湖のほとりに羽を休めていました。ふと湖面をのぞきこむと、そこには立派な鳥の姿が写っているではありませんか。なんて素敵でりっぱな鳥なんだろうと、うっとりとその姿をながめていました。それを横目で見ていた菊たちは、「思い上がった黒い鶴め。僕たちがこの世で、一番美しいにきまっているじゃないか」と、口々に怒り出したのです。そして、体をぶるぶるふるわせて、世にも恐ろしい毒の花粉をまきちらしだしたのです。あわてて、三羽の真ん中と、一番年下の鶴は、逃げ出しました。けれども、湖にうつった自分の姿に見とれていた年上の鶴は、逃げおくれ、花粉を一ぱいすいこんで、うぎゃあ!うぎゃあ!と泣きわめき苦しんだあげく、とうとうひからびて死んでしまいました。逃げた二羽の鶴は、どんどんどんどん上へ上へと、とうとうお星様のまたたく宇宙まで逃げていったのです。そしてそのお星様の一つにかくれました。
 天高くから、その有様を見ていたお星様たちは、地上の菊が、この世で一番美しいと、自慢したりしているのを快く思いませんでした。自分たちこそが一番美しく、強いと思っていたからです。ささいなことから、菊との間で大喧嘩がはじまりました。ながいながい月日が流れました。ついにお星様が落とした、それはそれは恐ろしい二つの雷で、たった一輪の菊を残して、みんな真っ黒こげになって死んでしまい、大喧嘩は終りました。地上に降りてきたお星様たちに、生き残った一輪の菊は、「もう悪いことはしません。これからはあなたたちのおっしゃることは何でも聞きます、もともと私は、お星様と喧嘩をする気がなかったのに、みんなにそそのかされたんです。」と言って、降参しました。隠れていた二羽の鶴たちも、その時、地上におりたち、仲間をふやして、こんどこそ一番美しいのは僕たちだとばかりはりきりました。しかし、弱くなった菊ですが、今度は、お星様の家来になっていますから、なかなかやっつけることができません。
 とうとう鶴は、菊と仲間になって、お星様の家来になることにしました。三つの力を合わせればもうこの世に何も怖いものなんかないんだと、鶴は気づいたのです。それを見ていた人々は、これからわが身にありかかるであろう大きな災厄のことを考えて、大きな大きなため息をついたということです。

※解説
 グリム童話が、本当は残酷だったなんて、勝手に毒抜きしておいて、今更、オリジナルをもてはやすなんて、いささかご都合主義かとは思いますが、なによりも現実の怖さに比べればやはりメルヘンでしょう。
 上記のCASTは、かって三大タブーと言われた、鶴…創価学会 菊…天皇制 星…GHQ/米軍を配してみました。もちろん今風にどう読めるかは、くどくど申すまでもないかと思います。


 

7 月28日  インターネットのパワー (T)


 「東芝社員の暴言」が聞けるホームページには、実に600万ものアクセスがあったそうだ。作った当人も東芝も、まさかこれほど注目されるとは思ってもみなかっただろう。インターネットには、これほどのパワーがあったのか。個人もやり方次第で大企業と互角に戦える。そんなメディアはこれまでなかった。
 今日のような巨大な管理社会になると、個人など吹けば飛ぶようなつまらない存在である。国家だの、社会だの、企業だのから見れば、個人など切り捨てたところで替わりはいくらでもいる。尊重する理由などないのだ。ところが今回の騒動は、インターネットという新しいメディアの影響力によって、大企業が個人に頭を下げざるを得なくなったわけだ。
 個人主義者としては「まことに愉快・慶賀にたえない、わっはっは」と言いたいところだけれど、一方で、インターネットでは悪質なデマや差別発言も言いたい放題・垂れ流し状態らしいので、喜んでばかりもいられない。乱用されればこれほど危険なものもないかもしれない。
 「インターネットはまだ若い。これから様々な試行錯誤を繰り返しながら、健全なメディアへと成長していくことだろう」という楽観論。
 「メディアは個人の声を増幅する装置である。インターネットは誰でも簡単に発信者になれる所が画期的なのだが、アホな個人が存在する限り、悪質デマや差別発言は永久になくならない」という悲観論。
 果たしてどちらが正しいのだろう。


 

7 月13日  笑う改憲! (N)


 憲法調査会の発足も決まり、さあいよいよお待ちかねの改憲だ。
 思えば、50有余年、大東亜の諸民族解放は掛け声倒れ、後進帝国主義の野望逞しく、アジア同胞を塗炭の苦しみにつき落とした我が大日本帝国。ようよう本来の「敵」たる英米に戦争を仕掛けてみたものの、無様な敗戦。その責めを自らに課すことなく、占領軍に押し付けられたる象徴天皇制。否、そもそも国風になじまぬ西洋風王制を明治に創出したのが誤りの始まり。ようやく廃止の機会を得る。懸案の「君が代」にしても、「君」たる実体を喪失すれば問題もなし。
 第9条も断然改正だ。不戦とは、我が方さえ望めばかなうものではない。全世界の非武装化、戦争放棄を進めなければならないのは理の当然。「一国平和主義」の汚名を今こそそそぐべきだ。
 元来我が国は、幾星霜、戦国時代という内戦を経験。時には秀吉による海外侵略もあり、血をいささか流しすぎた。そこで和を至上の価値とそこはかなく置く。なればこそ世界最高レベルにまで達した火器の開発使用を自ら封印し、他国に覇を唱えることも是とはしなかった。アイヌに対する暴虐もあり、また身分制に関しても到底看過し得ぬ問題もあったが、成熟した庶民層を次第に形成しつつ変化の兆しもあったのも事実。それが徳川時代である。
鎖国とは、侵略せぬ国家の異名である。
 思想に目を転じれば、自然を作り変えるより、自らもその一部と考える神道の考え方が、アイヌや琉球圏をも含めて、我が地の基層にあり、また、自然を思想までに結実したとも言える老荘の教えは、芭蕉からウルトラマンまで連綿と埋め込まれている。これにより人は主義やシステムあらゆる桎梏から逃れ得る。さらには生活における苦からの解放となれば、仏教の出番ともなる。従って、差別せず、戦わず、共生を考えるのは、平和憲法がある故ではない、日本の地に住まうものにとっての、伝統でありスタンダードだ。しばし「力」により紆余曲折、抑圧もしたが、言わばこれぞ保守本流。世界中は弱肉強食で充ちている、いざ備えを。なんてはしたない妄想は、我が地の文化にあらず。
 偽ブランドには要注意。押し付け憲法の有無だけで値打ちが決まるなら、大日本帝国憲法も、所詮外圧の所産にすぎぬ。自主憲法を制定したあげくが、他国の戦争パシリを宣言するようなものであれば、何をや言わん。西欧コピーの元首もどきを廃止しつつ、地球のあらゆる地からの軍備、戦争、差別、環境破壊の追放を憲法に明記し、その実現を国家目標として邁進努力すればいい。八百神々の住まう国は、様々な異人異神たちが、互いに淘汰することなく住みわける事を理想と出来るはずだ。

 ※今回は保守・改憲ファンの皆々様に一席設けてみました。最近困っているんですよネ。何かにつけて「国家」や「公」を口にする人たちが、やれ戦争だの、「特攻精神」だの、日本総破壊に向けて、アナーキーな事言うもんですから。きちんと保守してくれなくっちゃ。看板が泣くよ。


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