アナーキー時評 99年前期


 

 

7 月28日  インターネットのパワー (N)


 「東芝社員の暴言」が聞けるホームページには、実に600万ものアクセスがあったそうだ。作った当人も東芝も、まさかこれほど注目されるとは思ってもみなかっただろう。インターネットには、これほどのパワーがあったのか。個人もやり方次第で大企業と互角に戦える。そんなメディアはこれまでなかった。
 今日のような巨大な管理社会になると、個人など吹けば飛ぶようなつまらない存在である。国家だの、社会だの、企業だのから見れば、個人など切り捨てたところで替わりはいくらでもいる。尊重する理由などないのだ。ところが今回の騒動は、インターネットという新しいメディアの影響力によって、大企業が個人に頭を下げざるを得なくなったわけだ。
 個人主義者としては「まことに愉快・慶賀にたえない、わっはっは」と言いたいところだけれど、一方で、インターネットでは悪質なデマや差別発言も言いたい放題・垂れ流し状態らしいので、喜んでばかりもいられない。乱用されればこれほど危険なものもないかもしれない。
 「インターネットはまだ若い。これから様々な試行錯誤を繰り返しながら、健全なメディアへと成長していくことだろう」という楽観論。
 「メディアは個人の声を増幅する装置である。インターネットは誰でも簡単に発信者になれる所が画期的なのだが、アホな個人が存在する限り、悪質デマや差別発言は永久になくならない」という悲観論。
 果たしてどちらが正しいのだろう。


 

7 月13日  笑う改憲! (N)


 憲法調査会の発足も決まり、さあいよいよお待ちかねの改憲だ。
 思えば、50有余年、大東亜の諸民族解放は掛け声倒れ、後進帝国主義の野望逞しく、アジア同胞を塗炭の苦しみにつき落とした我が大日本帝国。ようよう本来の「敵」たる英米に戦争を仕掛けてみたものの、無様な敗戦。その責めを自らに課すことなく、占領軍に押し付けられたる象徴天皇制。否、そもそも国風になじまぬ西洋風王制を明治に創出したのが誤りの始まり。ようやく廃止の機会を得る。懸案の「君が代」にしても、「君」たる実体を喪失すれば問題もなし。
 第9条も断然改正だ。不戦とは、我が方さえ望めばかなうものではない。全世界の非武装化、戦争放棄を進めなければならないのは理の当然。「一国平和主義」の汚名を今こそそそぐべきだ。
 元来我が国は、幾星霜、戦国時代という内戦を経験。時には秀吉による海外侵略もあり、血をいささか流しすぎた。そこで和を至上の価値とそこはかなく置く。なればこそ世界最高レベルにまで達した火器の開発使用を自ら封印し、他国に覇を唱えることも是とはしなかった。アイヌに対する暴虐もあり、また身分制に関しても到底看過し得ぬ問題もあったが、成熟した庶民層を次第に形成しつつ変化の兆しもあったのも事実。それが徳川時代である。
鎖国とは、侵略せぬ国家の異名である。
 思想に目を転じれば、自然を作り変えるより、自らもその一部と考える神道の考え方が、アイヌや琉球圏をも含めて、我が地の基層にあり、また、自然を思想までに結実したとも言える老荘の教えは、芭蕉からウルトラマンまで連綿と埋め込まれている。これにより人は主義やシステムあらゆる桎梏から逃れ得る。さらには生活における苦からの解放となれば、仏教の出番ともなる。従って、差別せず、戦わず、共生を考えるのは、平和憲法がある故ではない、日本の地に住まうものにとっての、伝統でありスタンダードだ。しばし「力」により紆余曲折、抑圧もしたが、言わばこれぞ保守本流。世界中は弱肉強食で充ちている、いざ備えを。なんてはしたない妄想は、我が地の文化にあらず。
 偽ブランドには要注意。押し付け憲法の有無だけで値打ちが決まるなら、大日本帝国憲法も、所詮外圧の所産にすぎぬ。自主憲法を制定したあげくが、他国の戦争パシリを宣言するようなものであれば、何をや言わん。西欧コピーの元首もどきを廃止しつつ、地球のあらゆる地からの軍備、戦争、差別、環境破壊の追放を憲法に明記し、その実現を国家目標として邁進努力すればいい。八百神々の住まう国は、様々な異人異神たちが、互いに淘汰することなく住みわける事を理想と出来るはずだ。

 ※今回は保守・改憲ファンの皆々様に一席設けてみました。最近困っているんですよネ。何かにつけて「国家」や「公」を口にする人たちが、やれ戦争だの、「特攻精神」だの、日本総破壊に向けて、アナーキーな事言うもんですから。きちんと保守してくれなくっちゃ。看板が泣くよ。


 

6 月29日  『善良な市民』 (T)


 昨日(6月28日)、テレビのNEWS23を見ていたら、松本サリン事件で犯人扱いされた河野さんが出演していた。河野さんは、サリンの被害を受け、次に警察に犯人にされ、第三にメディアによって犯人扱いされ、三重の被害を受けた。その上に、「町から出ていけ」などという脅迫状・脅迫電話などで、いわゆる普通の人々・社会からもさんざんひどい目に合わされたそうだ。
 その河野さんが、最近の「オウムは出ていけ」市民運動について、「これは私がやられたことと同じです。『悪い奴を叩いて何が悪い』と考えている、そういう人々や社会の方がずっと怖いと私は思います」と言う。
 全く同感だ。「正義」を振りかざして「悪い奴」を猛攻撃。相手が反撃出来ないことがあきらかな場合のみ、カサにかかって袋叩き。そういう連中は、反撃される危険がある場合には決して手を出さない。『善良な市民』を自称する連中の正体は、大抵そんな奴等だ。
 それにしても、あれだけの目にあわされながらオウムに対する恨み事の一つも言わない河野さんの態度にうたれた。日本にはまだ、こういう人もいたのだ。恥知らずの『善良な市民』どもは河野さんの爪のアカでも煎じて飲むがいい。


 

6 月17日  ROUND2 激闘!ワタリガニ海戦 (N)


 戦争屋、危機管理屋、国家フェチを中心に、今や大好評の娯楽大駄作Stalin's Warsシリーズ第2弾が始まった。今回は、反帝国軍が、帝国軍のカイライ軍に苦杯をなめ、多数の死者を出して敗退して一応の終結となった。(最もこれは北朝鮮版)魚雷艇まで動員し数十名の死者を出しながらのワタリガニ漁ってなんなの?相変わらずの笑えぬコメディだ。
 「思想において主体性を確立するためには…自民族が他民族に劣らないという民族的自尊心、革命を進める人民としての誇りと自負なくしては…民族の独立と尊厳を守り、苦難の革命闘争で勝利することはできません。…それに反するあらゆる古い思想を排撃し、とくに事大主義を根絶しなければなりません。事大主義は…自国と民族を見下げ蔑視する民族虚無主義思想であります。事大主義に毒されれば他国をあがめ、他国に追随する…とくに今日、もっとも有害で危険なのはアメリカに対する事大主義であります。」(「主体思想について」金正日より)と、その隣の隣の国の大将が、自国のコンセプト主体思想について述べているが、まあ要は「自分とこが一番」ってこと。ちょと文字を入れ替えて見れば自由主義史観なんたらとさほどの違いもない。さらに、自国の国防に関してこう言っている。戦争の勝敗を左右する決定的要因は、兵器や技術にあるのではなく、「人民の自由と解放の為に戦う気高い革命精神、党と指導者への限りない忠誠心、祖国と革命の為に青春も生命も惜しみなくささげる無比の犠牲的精神と集団的英雄主義…」(上同)いざとなれば「私」を捨てて「公」に奉ぜよと、これまたこういうのが好きな人いたよね。
 思うに殺したがりの死にたがり、狂信者たちに国境はないわけだ。こいつらだけで「青春も生命も惜しみなくささげる無比の犠牲的精神」の発揮合いしてくれれば一番いい。さしあたりROUND3か4で、スキューバーの得意な竹村健一先生御指導の下、99年型伏龍特攻で、魚雷艇轟沈見られるかな。小林よしのり少佐に小沢一郎大佐…自民党の愛国議員の面々。ついでに愛国評論家に愛国キャスター等など、率先垂範たのんまっせ。きちんと靖国には合祀しますさかいに。


 

6 月1日  盗聴法は聞けない (N)


 警察が盗聴していることなんぞ、ちょっとシステムに小ましな楯突きかたを連中にした経験者ならとっくに承知。それを追認する法律が「通信傍受法案」だ。要は強姦をすべて和姦ということにしましょうってことだ。国家規模の出歯亀いや失礼一億総逆情報公開ってわけ。柳田国男なら簾越しに覗く田舎の世間通を想起したかも。
 推進側の自民党の議員たちの発言は、笑える。服部三男雄法務部会長は、「組織化した犯罪には、電話連絡が多用されている。」って、今は文明開化か。そんなら、車やサングラスも取り締まらにゃならんぜ。杉浦正健先生もなかなかだ。「反対する人たちに言いたいのは、日本をむしばもうとしている犯罪を放っといていいのか、ということだ」なるほど、それを言うならお前ら自身を放っておくな。こんな戯言のたまいつつ、自自公断固三兄弟が決めちまった。考えただけで胃壁が爛れてきそう。
 でも、盗聴法成立を記念して、ちょっとだけサービスしときましょう。それは、いくら盗聴しても、聞けない。ということの確かさだ。別に対抗して、最新の盗聴プロテクターが開発されるなんてことじゃない。確かに連中の期待に応える情報は得れるだろう。しかしそれは、連中自らの声を拾っているにすぎない。その一方で、盗聴という、脳内の秘密を掴もうとするその圧力が、闇を一層深くするだろう。もっと始源的な、予想どころか想像を絶する深闇が、盗聴装置によって育まれ、地中深く内潜する。そしてやがて姿をこの世に表わすのだ。日本が蝕まれたと言って泣くのはこれからだ。ヘッヘッヘッ 愉快ですなあ。


 

5 月22日  1999年七の月 (K)


 もうじき1999年の7月が来るわけだが、今だにハルマケドンの予兆らしき物はない。カルト系宗教団体などは今までさんざんハルマケドンが来るとあおって起きながら、予言は回避されたとか、まだ先の話だとか逃げを打ってきているようだ。未だにがんばっているのはトンデモ本の作者ぐらいでなんだかガッカリする。ま、オウムなどはシェルターなどを作ってハルマケドンにそなえているようだが、めでたいというか、バカというか、逆に羨ましい気もする。またエヴァンゲリィオンファンダメンタリスト(注)なども、いつまでもハルマケドンが来ず、このままなら、永遠の命が保証されないので困るだろう。
 だがそんなものをいくらまとうがハルマケドンなど絶対に来ない。もちろん物事には始まりもあれば終わりもあり、その意味においてはこの世界もいつかは終わりを告げるのだろうが、それは誰にも予測などできるはずもなく、仮に7月に世界が終わっても単なる偶然に過ぎない。20世紀になり人間は世界をも崩壊出来るだけの兵器を作りだした。それゆえにノーテンキなくだらない予言などに惑わされず、それらを廃止させ、使わさない事を考える方が、シェルターを作るよりいいと思うのだが。
 ま、ぼくにはハルマケドンより、この「終わりなき日常」の方がずっと恐ろしく、自己の死によってでしか完結できない「日常」が「恐怖の大王」である。この「恐怖の大王的日常」はシェルターを作ろうが、世界の果てに逃げようが、自己の意識を変革しないかぎり追ってくるのだ

(注)もちろんアニメの「エヴァンゲリオン」の原理主義者を言っているのではない。ここで指すのは「福音派原理主義者」の事である。


 

5 月 9 日  ミッチーもサッチーも (N)


 「二人の熟女対決!」という、いかにもマスコミ好みのネタだが。狙い通り、外野の参加も含めて盛り上がってくれて、さぞや関係者は胸を撫で下ろしてることだろう。くだらないが、丹念に芸能ニュースを見ていると、如何に最低限のニュース素材もないこのネタが、無理やり事件にされているかがよくわかる。例えば最近の「サッチーの反論行脚」。野村沙知代の講演風景が報じられているが、たいした反論や毒舌があるわけではないのに、その文脈にそってドンドンニュースが垂れ流されているのが良くわかる。講演会の主催者に電話をかけて、抗議電話がないのかと聞いたりもしている。主催者は、それを「あります」と正直にこたえているのだが、当然満員なのであるから、満足しているファンもいるわけで、その取材はない。そればかりか、マスコミをダニ呼ばわりした野村を、「野村こそダニ」は、言われたことに対する復讐だとして、それを言えば程度の低さはお互い様ということに気付かない愚かしさは別としても、コメンテーターが、講演会の聴衆を、「ダニに群がる蚤虱のたぐい」まで言うのには呆れた。また、礼に始まり礼に終るとされる火つけ役の、浅香光代が、仲裁をかってでた某料理店店長を、「たかが料理店店長が・・」との発言は、大衆演劇の座長とは思えぬ暴言。野村に醜いと言われた元スケート選手も、自分からメディアでわざわざバラすこともなかろうに。生き馬の目を抜く芸能界で、その程度の悪口イヤミのたぐいが発せられぬほど、礼儀正しく高い倫理を保持しているなどとは到底考えられぬのだが。プライベートな些末な出来事を暴露することで成立するこの野村バッシング。裏があるのではと勘繰りたくもなる。
 そこで妄したのはサッチーも推薦の読売=巨人軍の謀略説。野村阪神つぶしの第五列による側面攻撃だ。なにせ関東大震災時、流言蜚語に基づく朝鮮人虐殺(※1)に関与したとされる正力松太郎が産みの親であり、改憲独裁者のナベツネが現オーナーの巨人軍だ。そんなことは朝飯前だろう。小兵の阪神に智将が加わっただけで、大艦巨砲の巨人軍がいいように翻弄される様をみて、三流独裁者の宗主国根性が首をもたげて、考えたのがこの陰険姑息。なんてね。
 野村夫人は、思ったことは即口に出す、礼儀もしばし失する社会人としては少々難有りの人かもしれぬ。しかし、難有り同類の石原シナ東京知事より、その影響力は遥かに小さい。自分たちで担いだ御輿を、気にいらぬからといってすぐメディア・リンチにかけるマスコミこそ要注意なのだ。やつらこそが、真に礼儀知らずで、人をどんなに傷つけようが平気。その怖さは、ダニなんぞの可愛い比喩で収まるものではない。何かと硝煙の臭のする昨今、油断はならぬ。

※1 王貞治の父親も、関東大震災時に、危うく殺されかけのだ。詳しくは、病気マガジン第3号「巨人軍王監督の陰謀」を読んでほしいが、入手は無理でしょうね


 

4 月30日  WARとCAR (N)


最近TVCM等のかまびすしき話題。我が国の御車に、衝突安全設計がほどこされ、あるいはチャイルドシートなるものの普及が叫ばれたり、運転手乗員に関して、その生命を危険から守るべく、日夜メーカーは研鑽努力しているということ高らかに謳われているということ。年間一万人がコンスタントに死んでいる。死者に100倍する負傷者数を加えるまでもなく、へたな戦争なみである。日本車が欧米の安全基準に比して、著しい彼我の差を有することは、もう何十年も前から指摘されていたことだ。日本の輸出車にはとても同一型とは思えぬ内外仕様差が生じたことが指摘を受けたことさえあった。累々たる犠牲者の上に語られるいまさらの恩着せがましき「安全」賛歌。下品に過ぎる。
 「車=戦車論」なるユニークな論を、かってメーカーは主張していた。
「戦車のようにすれば、車自体がつぶれるということがなくなるだけです。しかし、日本の狭い道路を戦車のような車が走るわけにはいきません。また、車が丈夫になればなるほど、ぶつかる相手への攻撃性が高まってしまいます」(日産自動車)
 「自分も助かり、相手も助かるという強度を考えているのです。混合交通の割合の高い日本では、そうした配慮をかかすことは出来ません」(トヨタ自動車)
 車の強度を確保しない理由は、交通弱者への配慮からと言うわけである。そこでふと思い出した。戦車と言えば、旧帝国陸軍の戦車は、ブリキの戦車とか言われていたはず。装甲重視は怯懦の思考、攻撃精神に欠くるものだとされたのである。かくして日本の戦車は鉄の棺桶と化したのだ。とすれば、逆説的に「車=戦車論」は証明され得る。「死は鴻毛より軽い」とする我が国伝統文化が両者の共通項であるのだ。片や、帝国の戦争のために、片や経済戦争のために。いずれもシステムの為に、個人は最大限の犠牲を負担せねばならないのだ。
 交通事故は何も個人の責任だけに還元出来るものではない。道路整備、車の欠陥や安全性、救急体制、交通教育、総合的に生じるものである。しかし肝心なことは個個人の生命が尊重されているか否かだ。他国の道路環境や事故状況の差異ですましておいて良いものではない。
 もう一つのかまびすしさ、ろくな審議もせずに国会を通過しようとしている周辺事態云々かんぬんも、何かと国民の生命自由財産を守るためとかを口実に語られる。しかし、国内における交通戦争一つとって見てもわかるように、それがシステムの維持防衛を目標としていることは明々白々。彼等が守りたいのは、国家というシステム、抽象的な国民であり、我々一人一人で決してないのだ。件の法案の成立は、先に死ぬのは自衛隊員で、次が、テポドンの標的になる我々ということが決まったにすぎない。これ以上、「人間の盾」にさせられてたまるか!危機はお前らやお前らの信奉するシステムの危機だ。勝手にくたばれ!


 

4 月24日  「加速する差別?」 (K)


 デンバーの高校での銃乱射事件は、アメリカが抱える銃の野放しにも問題はあるだろうが、それより多民族国家であるアメリカが内包する問題である。
 詳しい動機などはまだ解っていない。この「トレンチコートマフィア」と呼ばれるガキどもはネオナチの一種かも知れないが、この場合は例えばゲルマン民族とかの民族主義というより白人至上主義の一種ではないか? しかし今だに自己のアイデンティティを「白人」とか「民族」や「国家」でしか思考できないとはおそれいる。
 前の大戦中にイギリスがインド新兵用に配った日本人に関するパンフレットにこう書いてある。
「諸君らが見る日本兵は実に醜悪である。眼は細く小さく、頬骨が突き出し、口は醜い出っ歯、鼻は低くつぶれている。足はガニ股で、背は曲がり、腹は突き出ている。彼らはこの醜さと、それゆえに軽蔑されていることを知っているのだ。かれらの性格もまた狡猾であり、そのため嫌われることも知っている。」
 50年以上前の文章だが、白人が日本人をどう見ていたのかよく理解できる。もちろん戦争中ということを割り引かないといけないが、本質的な問題も含んでいると思う。
 外国を旅行していると差別的な奴に会う事もある。去年の事だが、クロアチアのザクレブの駅でネオナチ風のガキに「ファッキン ジャップ」と言われた事がある。もちろんこれほどあからさまではなくとも、差別的な態度を示す奴はたくさんいる。(いうまでもないが、ほとんどの人はこんな事はしない)
 じゃ日本人はどうかというと、白人以外の人間には差別的態度を取る人間がたくさんいるのも事実だ。特にアジアを旅していると、そういう人間が眼につく。
 確信的に中国の事を「シナ」と呼ぶ男を首都の知事に選択した日本人もまた、無知であると同時に差別主義者であると言わざるをえない。


 

3 月31日  デキレース2000年 (N)


 正体不明の謎の不審船対海上保安庁・自衛隊の追いつ追われつ一大追撃戦は、猛烈なる帝国の攻撃をも振り切り、不審船が某独裁国に姿を消すことによって幕を閉じた。残念無念。切歯扼腕。帝国の絶対防衛圏を侵犯した不埒な不審船。今度は決して逃しはすまいと、祖国防衛戦必勝の誓いも新た、帝国臣民は胸に深く決意す。
 なんてムードが高まってきたんじゃないの。片や、これぞ今そこにある危機。我が国を脅かす、共産主義独裁国家め、何が何でも日米防衛協力新ガイドライン法案を成立させ、いざ決戦に備えなければ。片や、帝国主義どもめ、いよいよ牙を剥いてきたか、帝国主義者の戦争策動を跳ね返し、祖国防衛戦争に勝利するぞ。なんたる見事な阿吽よ。憎み合う両者の利益は共通。これをデキレースと言わずとしてなんとする。
 防衛=戸締り論者という大錯覚な人達がいる。「家には鍵をかけるでしょう。防衛も一緒ですよ」と。しかし、不審者が自宅に侵入したからといって、銃撃や爆撃する人々は、柘植久慶大先生の他おいてはまずあるまい。件の論を主張するなら、不審船が侵入したくらいで、攻撃することなど有りえぬ。と言わねばならないところだ。日常から言えば、こんなバカバカしい出来事はないのだ。妄想にかられて、不審船を発進させる。あるいは、それへの、「正当」な威嚇攻撃にしろ、事態はとてつもないバカバカしさに満ちた行為の連続だ。人類が、今だに畜生以下の存在から抜け出せないという事実を、この20世紀末に至っても再確認させられるのだから。大笑いだ。しかし、このバカバカしさによって人が死ぬというリアルがある。これは笑えぬ。いや、笑えなくなった時、我々はもう生きながらに死んでいくことになる。笑い/人を殺そうとしている連中の独壇場がここにある。だから、笑う。殺し殺されぬよう大哄笑してやる。お前たちには大笑いだ!HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!!


 

3 月24日  日本を救う偉大な二賢人 (K)


 もうこのページで小林よしのりの事など語る事は止めようと思っていたが、しばらく日本から脱出していて、久しぶりに帰って来て「SPA」を買ったら、小林よしのりと福田和也の対談が載っていた
。  確かこの二人は仲が悪かったのだと思うが、読んでいると福田からすりよった形で対談がなされている。もちろんぼくは、今さら「戦争論」やそれにまつわる事柄を批判しようと思って書いているわけではない。
 まず編集者がキャパクラに行ったら、そこの女性が小林のファンでもちろん「戦争論」も読んでいて、その女性が「靖国」に意味もなく行くのだが、それに対して福田こう言うのだ。「行かせてしまうのは、作品の力です。」
うーん、この福田の説得力のある言葉、いいでしょう。
 また福田はこうも言う。「サヨクや戦後民主主義の偽善は行き着くとこまで行って、言葉が死んでいる。それに対して保守や右翼の言葉は摩擦係数が高い。」
 すごい考察だな、さすが大学の先生だ、ただそこまで言葉にこだわるなら、保守や右翼にならずソシュールでもやった方が大学の先生らしいような気もするが、ぼくなどには考えもつかない深遠な思考があるのかもしれない?
 小林先生も負けずに宮崎哲弥に対してするどい考察をする。「根本仏教なんて言っているが、その正体は共産主義だ。」
 さすが自分の家がお寺だけの事はある、宮崎の本質を見破るするどい思考、「日本の知識人」に入っている小林先生だけの事はある説得力だ。ただ、なんでも自分の気にいらない人間は「サヨク」にされるような気もするが、それはぼくが浅はかな「個人主義者」であることに原因があるのだろう。
 ああ、早くぼくもくだらない「個人主義」から足を洗わなくては。


 

3 月10日  「君が代」に死にたまふことなかれ (N)


 生徒ならぬ校長先生が自殺した。卒業式で、国旗掲揚、君が代の斉唱をめぐって、教職員と教育委員会との板ばさみで悩んだ末とのこと。お気の毒である。今度の事件がきっかけで、日の丸も君が代も国民の間に定着しているという実態を踏まえて、法制化する動きが出ている。それ自体は当然のことだろう。いやしくも近代国家のシンボルが、無認可モグリ状態であったなら、無根拠に強制するようなアナーキーなことになってしまう。
 にしても、国旗・国歌として、日の丸・君が代が適当かどうかの議論もある。私なんぞは実にふさわしいと即答しよう。そもそも日本国のコンセプトは、「私たちは、日本の地の<日本民族>だけが世界で一番すばらしいと思っている」である。この根拠はいたってシンプル。「だって、ヨソの国もそう言ってるじゃない」につきる。まあ実際は、複数の民族を含む「◯◯国民」だけが世界で一番すばらしい程度の幅は、まだヨソにはあるけどね。
 要はその「私たちは・・すばらしい」の表現方法として、国旗掲揚、国歌斉唱がある。他者から見ての理解不能をやってみせ、「こりゃあ入っていけないな」と思わせたら勝ちなわけだ。そういう表現された「すばらしい」/他者からすれば偏狭なマニアックさから見ると、日の丸・君が代は抜群なのだ。前者は「日本国民」にされたかなったかしている異民族においてはもちろん理解不可能どころか苦痛だろうし、後者に至っては、純性<日本民族>に参加資格のある人々にとってすら???な歌詞だろう。だって「天皇家を中心とした世界の繁栄を願う」ってさらにウルトラマニアックなんだもの。しかし、それは我が「素晴しく愛しい日本国」の現状を、正確に反映したものだ。法的に無根拠でも、定着してるというのがそれ。じゃないととても「ニッポンチャチャチャ」なんて祈祷やってられないよ。件のコンセプトは受け入れられているのだ。
 そんなマニアになった覚えはないっていう人には、そりゃあおとぼけでしょうと言っておきましょう。どっぷり浸かってるんですよ。日の丸や君が代を拒むということは、信者/マニアが、礼拝の儀式に突然、「俺は信者じゃない」と叫んだり、神像を隠したり、お経を唱和しないといい出すのと同じで、その宗教から言わせれば背教者ですよ。殺されたって文句は言えない。対して日の丸・君が代を変えましょうという意見もある。せめて他国程度のマニア度にと思ってのことだろうけど、実態の方をそのままに、看板だけ変えて見ても不毛なだけでしょう。強制する方も根拠なく、反対する方も、己がシンボルということを不問にしているというんじゃ、まったく話しにならない。しっかりしてくださいよシステムの皆々さん。きちんと秩序は作って下さいね。


 

2 月28日  脳死で死のう! (N)


 一連の脳死報道を見聞きしていると、つい不謹慎な想像をしてしまう。まず青酸宅配便の主が、自殺ユーザーをつのり、和歌山保険金夫婦の協力の下、希望をかなえる。もちろん脳死状態にとどめおき、すぐさま臓器摘出だ。殺したいあるいは手助けしたい人。死にたい人。金儲けしたい人。臓器がほしい人。命が助かる人。まさに生命リサイクルなんてね。
 もちろん臓器提供を待ち受ける本人や家族にとっては切実なことだ。それで、某患者団体医療移植部会長の「家族の方の決断に大いに敬意を表する。我々移植を待ち望んだ側からすれば、何よりもありがたく、うれしく思う」という話しになるのだろう。が、しかし、にわかに共感し難い「うれしさ」なのだ。この一連の常ならざる騒ぎぶりに、やはり、「脳死」は「死」ではない。正確に言うなら、我々の文化がこれまでもっていた「死」とは違うのだとしか言いようがない。遭難時、4人乗りのボートの5人目は結果として死んでも止むを得ないということが法律には認められている。何せ非常時なのだから。しかし、これが日常に持ち込まれるとどうなるのだろうか。
 「脳死」に希望を託す人々を非難するつもりはないが、「脳死」イデオロギーの普遍化日常化はご免だ。きちんと死ぬことは文化として保持しておいた方が良い。面倒でも不合理でも、人一人が死ぬということが大変なことである。それなりの様式、時、煩悶はあるべきだ。脳ぐらいが死んだって死とは言えないのだ。臓器提供を待ち望む方は、それこそ必死で脳死判定を、なんだろうけど。医学の都合だけで、「生」のプライスダウンをしてしまうと、行き着く果てはアウシュビィッツだ。優先される生と優先されない生の俊別が合理性/生命の不条理性排除の名の下に、思想としても恒常化するようなら、冒頭で述べた悪しき想像も現実のものとなるやも知れない。


 

2 月10日  オリンピックとフェアプレー (T)


 今どきオリンピックのフェアプレー神話などを信じている人もいないだろうが、タテマエだけは堅持しなければならないらしい。
 そもそも現在のオリンピックの原点は、ヒトラーが主催し、ゲッベルスが演出したベルリンオリンピックにある。東京大会などはこのベルリン大会を忠実に真似たもので、日本選手団は入場行進の際に「天皇陛下」に対して見事なナチス式の敬礼をやってみせた。
 その後、大会がますます派手になる一方景気はどんどん悪くなり、国家もかつてのような気前のいいスポンサーではなくなった。そこで商業主義が導入される。プロにも門戸を開き、見世物ショーとしてマスメディアに高く売ればいいじゃないか、というわけだ。
 もともとオリンピックにフェアプレー精神などありはしないのだ。開催地をフェアに決める必要もない。そこで開催地の決定は、投票をやめて競売方式にしたらどうだろう。一番金を出す所が自動的に開催地になる。これなら文句はないだろう。
 よく考えてみれば、フェアプレー精神とは強者必勝の精神だ。弱者が勝とうとしていろいろ工夫をすると、それは「フェア」ではないとか、ルール違反であるとかされる。フェアに戦えば強い者が必ず勝つのである。フェアプレー精神とは「弱い者が勝てないようにする」弱肉強食を貫徹させるための方法でもある。
 その意味からすると、競売方式こそ、最も「フェア」な方法かもしれない。


 

1 月29日  一億総ジャンキーで心配なし! (N)


 マスコミの法則「上げたものは必ず落とす」によって、すっかり泥まみれになってしまった若乃花「おしどり夫婦」だが、それにしても、あの和歌山のおしどり夫婦の話題はどうなったんでしょうかねえ。いつの間にやら出てきていて、二人でTVなんぞ見ていて、「嫁はんがちゃんこに盛っておいたらよかったんや」なんて仲良く会話していたなんてね。本当にメディアってリアリティがなくって困ってしまう。
 しかし、陸続と毒物の話題は尽きまじ。最新では、70年から80年代にかけて水田で使用された、除草剤クロルニトロフェンに、あの毒物王ダイオキシンが含まれてたってことが、比較的おとなしめに報道されてた。当然水田を多く抱える地域での、ガン発生率の上昇の指摘もあったわけで。と、そんなこといくら状況証拠的に指摘しても何もならん。もっとバンバンと死体が出ないと駄目なんですよ。この国ではね。死体が出ても駄目かしらんけど。水俣病の時でも、とんでも科学者が出てきて、原因は、旧海軍の投棄航空爆弾のせいなんて言ったくらいだから。もっともこれは今なら自由主義史観イリュージョンが消してくれるだろうけど。
 とにかく、日本に住まう人々の身体には、骨の髄まで毒物が染み込んでで、いつのまにやら総ジャンキーだ。ヘキサクロロベンゼンだの、ノニルフェノールだのフタル酸ブチルベンジルだのが、モルヒネやコカインやアンフェタミンに代わって見果てぬ夢を見させてくれようってわけ。死体バンバンといかないからね、環境ホルモン/内分泌撹乱物質は。緩慢な死、漸次死していけるわけだ。ありがたいね。売人から買う手間ひまなしだ。おまけに只。国がドラッグの取り締まりに厳しいかわかったよ。認可したやつにしときなさいというわけなんだ。さすがだな。かってアジアでのアヘン政策に実績のある日本だ。
 だから、みんな勝手に毒を撒いたり盛ったり、売ったり買ったりしちゃいけないよ。みんなの身体にもう入ってるんだから。じっと待ってなさい。そのうち素敵に飛べるから。


 

1 月20日  恥知らずの文化   (T)


 「ジャップ」という言葉が日本人に対する蔑称であることは、大抵の日本人ならよく知っていると思う。この言葉は、最近ではほとんど使われていないのだそうだ。テレビの報道によれば、アメリカの若い世代の多くはこの語を知らないという。「ジャップ」という言葉がよく使われたのは戦前から戦争中であって、戦後に使われることは少なかったのかもしれない。しかし、本当に使われていないかどうかはちょっと疑問だ。
 『「ジャップ」という語はジャパンの略で、もともと軽蔑的な意味はないのであるから、「ジャップ」と呼んで何が悪いか』
 もしこんな主張がなされるとしたら、私たちはどう感じるだろうか。「なるほど、その通りですな。ではこれからジャップと呼んでください」などと言うであろうか。
 『「支那」という言葉の語源は英語のChinaと同じであり、軽蔑的な意味ではないのだから、そう呼んで何が悪いか』などと主張する人がいるようだ。
 かつて日本では中国をこの名で呼んでいたから、当時の文献を読むと頻繁に出てくる。昔の文献を書き換えたり、当時の名称を書き換えたりする必要はないだろう。しかし『「支那」と呼んで何が悪いか』と居直るのは論外だ。
 かつて日本人がこの言葉にこめた軽蔑の感情は「ジャップ」と大差はないかもしれない。しかし中国の人達がこの語からうける屈辱の感情は、「ジャップ」からうける日本人の感情の比ではない。
 日本には「恥を知る」という伝統的な文化が、昔はあったようだ。明治時代に日本を訪れたラフカディオ・ハーンのような外国人たちは、日本人の「相手の心情を思いやる慎み深くて礼儀正しい態度」に深く感動したという。残念ながらそういった美しい文化は、日本の近代化過程において絶滅した。現代日本を代表する文化は「恥知らず」のゴーマニズムなのだ。


 

1 月 8 日  バカな年賀状   (K)


 毎年のことながら年賀状にてめえらのガキの写真や、家族で写っている写真をこれみよがしに刷り込んでくる奴が多数いる。おまけにてめえらのガキがどうしたこうしたと講釈まで印刷するしまつだ。
なるほどおまえらにはかわいいガキなのかもしれないが、あかの他人がおまえら同様かわいいと思っていると考えているのだろうか?
 こんなのはガキの運動会をビデオで録画し、それを他人が来た時にうれしそうに見せるバカと同じだということに気づかないのか! ある独身の女性がガキ及び家族入り写真付きの年賀状はセクハラだとなにかに書いていたが、まったくそのとおりである。
 ま、あのくだらないドーキンスなんかの社会生物学なんかにとっては、こういう現象はあたりまえのことかもしれないが、見たくもないくだらない年賀状を見せられる方にとってはまったく迷惑な話だ。
 内輪の話になるが、このホームページを一緒にやっているN氏から来る年賀状は毎年気味の悪い絵や、わけの解らない詩などが書いてあり楽しみの一つである。去年などはN氏からT氏へ意味もなく気味の悪い年賀状が2枚も来たそうだ。ちなみにぼくは義理で(インディビディアルアナキストにも義理はある)出しているので、ほとんど何も書いていない。
 というわけで今年もよろしく!


 

1 月 1 日  世界よ。おまえはもう死んでいる。   (N)


 いよいよお待ちかねの大世紀末1999年の開幕だ。今だに恐怖の大王にこだわり、終末への期待に身を焦がしている神秘主義者の方々。夢をもう一度、右方上がりの経済復活に期待する経済主義の方々。さあ北の脅威だ!憲法改正、撃ちてしやまんと手ぐすね引く国家主義の方々。これら「魑魅魍魎の跳梁跋扈」への憂色深い民主主義者の方々。そして、それらを横目に、昨日と同じ明日があると信じてやまない善良なるほとんど多くの人々。それらをひっくるめて、身も蓋もない話しをせねばなるまい。世界は、我々は、もう死んでいるのだ。そう。死後の世界に我々は存在しているのだ。したがって宅配青酸カリを飲んでも、あの世へも行けず。ヒ素を飲ませて、人の命を金に代えようとも、最早三途の川の渡し賃にもならないのだ。「終りなき日常」から「終りも始まりもなき非日常」に到達してしまったのだ。
 どんなことでも起り得ると同時にどんなことも起り得ない。起り得ることはすでに過去/生前のものとなってしまった。たかだか100年の間に、生存の条件はすべて奪われてしまった。我々というものは、システム/生命維持装置によってようよう生き残った脳髄の見ている悪夢にすぎない。悪夢の渦中で、これが夢だと気付くか否か。

 昔者、荘周は夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適する与。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為るか、胡蝶の夢に周為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此れを之物化と謂う。        (荘子・内篇より)


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