アナーキー時評 2000年


 

 

12月21日  破壊への情熱の黒薔薇  (森川莫人)


大逆90年もいよいよ終わりですな。皆さん、大逆90年はいかがだったでしょうか?それぞれ引きこもごもあったことでしょう。個人的に何があったにせよ、いよいよ大逆100年祭まであと10年となりました。21世紀云々という馬鹿馬鹿しさにかまけてこのことだけは忘れては行けません。あと10年です。

思えば、この大逆年間も様々なことがありました。大逆年間最初の20年は大杉君と労働運動の時代でありましたが、大杉君は大逆13年に虐殺され、大逆30年代に入ると労働運動も戦争の前に消え去ってしまいました。それでも完全に消え去ってしまったわけではありません。その証拠に大逆40年代には息を吹きかえし、大逆50年前後には学生運動という形で新たに叛逆者の魂が溢れかえったのでした。

だが、大逆50年代運動は確固たる実を結ぶこともなく、そのフラストレーションが大逆60年代の内ゲバとテロを生み、大逆70年代には、経済の安定もあって、叛逆は完全に資本主義に同化されファッションになってしまったかのように見え、もはや戦争のような罰則によるコントロールではなく、メディアによるぬるま湯のコントロールのおかげで叛逆そのものが、つまり生そのものが真面目に考えるのに値しないものだと見なされるようになってしまいました。個々人のライフスタイルはメディアが規定し、相変わらずの村八分論理がまかり通っていました。逆らうことは、格好悪いことだとされました。もちろん、校内暴力など叛逆の精神らしきうっぷん晴らしはあったのですが、それも結局のところ、ファッションでしかなく、持続的に反逆しつづけた人達など皆無に近かったのです。

では、大逆80年代はどうだったのでしょうか?幸いなことに、バブルの崩壊がありました。死にかけて、初めて分かる、生の喜び。そう、皆さんは感じて来られたでしょうか?真面目な叛逆の魂が甦りつつあることを。もちろん、これは「つつ」であって、はっきりと表面に現われているわけではありません。また、仮に表面に出てきたからといって、いつ消えうせてしまうとも分かりませんし、経済が再び良くなってくれば、相も変わらぬ、喉下過ぎれば云々、という状態になるでしょう。

そこで、提案したい。我々は、この大逆100年に向けての10年間をどう生きるべきか。破壊です。破壊しなさい。もちろん、これは物質的な面での破壊ではありません。そんなものが失敗するのは歴史が証明しています。反動を惹起するだけのことです。

では、何を破壊するのか?関係だ。あらゆる関係。固定化してしまった人間関係。自分と組織との関係。友人関係。仕事での上司との関係。家族関係。恋人・夫婦の関係。金銭関係。自分と自然との関係。食物連鎖。自分と思想との関係。ネットワークだと?資本主義が設定したネットワークなんて破壊しろ!身の回りの関係全てをぶち壊してしまえ。関係をぶち壊すものなら全て肯定できる。フラクタル理論によれば全ては相似形だそうだ。だったらその相似形そのものを破壊してしまおうじゃないか。バクーニンの「破壊への情熱は、同時に、創造的情熱である」という言葉は、現代のこの国にこそ当てはまる。だからといって、ヘーゲルの弁証法だの否定弁証法だの分けの分からない理論にとらわれる必要など無いぞ。そんな理論に拘泥してしまっていることに気が付いたら、その理論との関係をぶち壊すんだ。叛逆魂の持続には、破壊行為が必須だ。いわゆる「主義者」の奴らは、まず最初に関係を築こうとする。それがそもそもの間違いなんだ。この、いまだに島国根性の抜けない、メディアにコントロールされた「国民」に、第一に必要なことは、組織じゃない、関係でもない。独りぼっちになることだ。破壊だ。孤立することだ。他人の注目を当てにしながら「僕は孤独だ」などとつぶやく甘えた関係など止めてしまえ。徹底的に疎外されてしまえ。

全関係をぶち壊した瓦礫の中に何が残っているんだ。言え!言え!言ってみろ!

大逆91年も良い年でありますように。


 

12月15日  イジメ撃退法  (T)


 ササガワとかいう大臣が「競争に勝てばイジメられない」とか発言したそうな。
 その発言が「ケシカラン」とは思わないけれど、言ってる内容はまったく間違っているね。どんなヒーローでも勝者でも、誰もが誉め称える英雄でも、ちょっと風向きが変わればたちまち袋叩き・バッシングの嵐という例はいくらでもある。「競争に勝てばイジメられない」なんてことは、全く言えない。

 では、「イジメられない」ためにはどうしたらいいのだろう?

AIN流の答は簡単。
「もしイジメられたら、必ず2倍以上の仕返しをする」ということである。 もちろん、仕返しは、イジメと同じ方法でなくてもよい。相手に打撃を与えられればよいのだ。真夜中に毎晩無言電話をかける、脅迫状を送る、相手の家の前に生ゴミを捨てる、本人にやりずらければ、親や家族だのに仕返しをすれば良い。必ずやられた以上やりかえす。これが重要である。

 「アイツをイジメると、どんな仕返しをされるかわからん」

 こう思われるようになれば、余程の命知らずでない限り、あなたには手を出さなくなるでしょう。

 AINを叩こうと考えている皆さん、Tをイジメてやろうなどと計画中の皆さん、そういうことですので、よろしく。くれぐれも「ハッタリかどうか試してやろう」などと考えないように。


 

12月3日  ガラスの日本を救え!  (乱乱)


 保守本流のテイタラク。加藤・山崎のお粗末革命の挫折で露呈され。
 ここは一つ、AIN流保守主義の真髄を見せねばならぬとよいこらしょっ。
 「名古屋南部公害訴訟」結審。「尼崎公害訴訟」和解。国家と企業による「緩慢な 死」計画に、裁判所が一応の歯止を駆けた形になった。いつもながら沢山の犠牲者の 果て。「国民の生命と財産を守る為」などとは、保守派とやらの枕詞だが、それが全 くのインチキであることは、この一件を見ても明々白々。だが、私の関心はそこには あらず。
 過日、森首相が「神の国」発言。私は大不快。その発言が、憲法違反とかどうとか ではない。河川一つをとっても生命の住みかとしては絶滅寸前になっているこの地を 、よくも「神の国」と広言したなというその厚顔ぶりに対して。「カビの国」の間違 いだろうよ。天皇も何ボンヤリしているんだろうね。国土を荒廃させる逆賊どもをな ぜ討とうとしないのか。職務怠慢もいいとこ、警察官のそれとは比較にならぬよ。  たとえば江戸の絵師たちの描く風景、或いは古歌、或いは旅行記、或いは時代は下 るがE.S.モースの『日本その日その日』を一読しただけでも、痛んだ脳髄にもそれは 充分浮かび得る至上の美、残酷な美の数々。
 それら古の美を打ち捨てて、都市を、帝国を、繁栄をと叫んだところで、所詮はマ ガイモノ、だ。ペラペラの美しか創り得ぬのか関の山だった。
 今なお保守派のお仕事は、欧米世界を嫌悪しつつ、せいぜい浮かぶは大日本帝国と いうこれまた、欧米マネッコ帝国主義が我が原郷。とは泣ける。
 やれ「押し付け憲法」やれ「共産主義者の謀略」やれ「中国の干渉」やれ「アメリ カの脅威」、御大層なスローガンも要は、「誰某君が悪さしてくるよ・・」ガキンチ ョ論理の振り回し。そんな暇があるなら、今そこにある国土破壊防止の為の最終解決 を図ることこそ急務。
 その最終解決。この日本の地に於いて、日本民族こそが緑なす大地の第一の敵であ ることを自覚。国土を護る為には是が非でも群発自殺否レミングの如き集団自殺。自 主的民族浄化を敢行するということにつきる。
 元凶日本民族死滅後、再生された麗しき愛すべき国土を想像したまえ、わくわくするではないか。これぞ保守本流。私のような非国民は、国民的大事業には参画し得ぬが、後事は託しておいてくれてよい。
 心置きなく逝きたまえ、諸君。


 

11月20日  ないものネーダーり  (森川莫人)


 いやー、自民党さんも大変だね。僕には関係ないことだけど、あれなんじゃないのかね、森くんにもっと首相やってもらった方が良いんじゃないかねぇ。森君は、明らかに、我が国を代表してるでしょ。へへへ。あんだけぼろを出してくれる首相なんて余りいないぜ。叩きやすくて良いし、政治不信はもっと進むし。逆に、立派な御方が首相やってもらってもねぇ、うさん臭いじゃん。まっ、多分総選挙かな。馬鹿馬鹿しいけどね。

 政局といえばさ、米国の大統領選挙だろ。今回の選挙で一番面白かったのが、緑の党だね。え?知らない?ほら、ニューヨークの緑の党の人がさぁ、こともあろうにジェロ=ビアフラを大統領候補にしようって言いだして、周りの奴等もその気になって、ジェロまでが多忙を理由に断っておきながら、応援演説のスポークン=ワードCDなんて出しちゃって。インターネットで聴いてみたけど、思わずナチかと思っちゃった。シュプレヒコールの真似事なんかしちゃって、恥ずかしくなったよ、全く。まぁ、彼も一度はサンフランシスコ市長選に出ちゃった人だしね。そのときは、うろ覚えだけど、市役所職員全員にSFチックな服を着せるとか、分けの分かんないことを公約にしていたんだっけ。

 まぁ、ジェロのことはさておいても、緑の党の候補者、ラルフ=ネーダーを支持するかしないかは、向こうのアナキストや左翼の間でも論争になっていたね。公約とか結構まともなことを言っていたんじゃなかったかな。ネットの議論でも「私はアナキストだが、今回は投票する。何かが変わるかもしれないからだ。」なんて言っている人もいれば、「絶対投票しない」と言っている人もいたし。僕がよく見ている「Z Magazine」のウェブサイトなんか、大々的にキャンペーンしていたもんなぁ。そこで見たんだけど、「Times」誌の投票では、ネーダーが一番だったんだそうだ。結構、米国の急進主義者の人達もエキサイトしたんじゃないかな。そうそう、僕が贔屓にしているレコード=レーベル、「Empty Records」もネーダー支持を表明していたぜ。

 こんな具合だからさ、選挙中から(正確にはまだ終わっていないけど、終わったようなもんだ)民主党のゴア陣営なんか、ネーダーが足を引っ張ってる、なんて言いまくってたもんなぁ。アホだね。結局ネーダーの得票率は3%だけだろ。大差もつけられないてめぇのやり方を考え直せっての。

 「Z Magazine」のマイケル=アルバートなんかも選挙後に、ネーダーたちで「影の政府」を作ったらどうだ、なんて提案していたしね。政府は政府でしかないんだから、全くもう。そんなこと言うよりも自分の「参加型経済」の実践でもしてればいいのにねぇ。

 僕はもちろん投票なんて馬鹿馬鹿しいし、第一、全国規模の政治政党っていうだけでうさん臭いよね。全国規模のものになるためには、カネ・コネ・カオでしょ。カネがあって、コネがあって、カオが売れてれば勝てるわけだ。3Kだな。

 選挙なんて幻想だろ。知らない奴に勝手に決められたことは、勝手に破れば良いだけのことだろう。


 

11月12日  もうウンザリ  (T)


 時評の当番かまわってきたが、取り上げるべきニュースがなくて困る。 イチローの交渉権はマリナーズが取ったとか、新庄のFA宣言とかにも興味はないしなあ。

 アメリカの大統領選挙?
鬼ガ島のボスが赤鬼になろうと青鬼になろうと、ぼくにはカンケーないので関心なし。しかし、選挙の開票って随分いいかげんなものなんだね。投票箱ごと行方不明になるというどこかの独裁国ならいざしらず、民主主義のチャンピオンを自認する国でもこんなもんなのか。

 日本赤軍重信容疑者の逮捕で左翼業界に激震?
ぼくは左翼じゃないし、もちろん右翼でも中道でもないので興味なし。
日本に何しに来ていたのか知らないけれど、ずいぶん杜撰だよね。いくら日本の警察が落ち目でも、あれでは捕まるでしょう。結局公安に点数を稼がせただけみたい。

 自民党加藤元幹事長が森内閣不信任を表明?
鬼ガ島のボス選びよりさらに関心なし。サイテーの国にはふさわしい最低の首相だからいいんじゃないの。

 旧石器発掘ねつ造事件?
どうでもいいんじゃないの。「新しい歴史教科書をねつ造する会」が堂々と歴史を偽造しているし、どうせこの国の歴史なんてほとんどねつ造なんだから。

 と言うわけで書くことがないと思っていたら、「原発推進法」を国会に提出の動きがあるとか。なんでも原発推進のために、さらに補助金をバラまく法律なんだそうだ。まったくこの国はどこまで腐ってるんだろう。
 もう、ウンザリだ。


 

11月 2 日  非拘束でGOGO!  (乱乱)


 過日、国賊朝日新聞の社説を見ると、「この暴挙を忘れまい」と言う復古調の見出 し。遂に朝日もかっての鬼畜米英愛国新聞へと再転向したかと思いきや、非拘束名簿 方式たら言う公職選挙法改正のお話し。与党側の強引な法案成立を批判しただけのこ と。な〜んだ。
 要するに、じり貧自民党(*1)が、自分たちの有利なようにルールを変えたとい うだけのこと。件の社説は、子どもの遊びですら「ひきょう」と抗議するような代物 だと手厳しい。
 が、卑怯がウリの私としてはうれしい限り。思い起こせばガキの頃、絶対負けない 賭けアミダを考案し、金を級友たちから巻上げたな。勝ってなんぼの勝負事。別にい いじゃん。どうせなら、与党の票は二倍に換算するとか、当選くじ付投票券(*2)とか導入すれば、尚良かった。
 それに、「非拘束」ってのも素敵。私も何事も拘束されたくないからね。自由気ま まに生きていたいものだ。なるほど、そう考えると「自由民主党」ってネーミングは 、自分たちの自由気ままにする民が主人公の党ってことだったんだな。知らなかったな。
 肝心なのは、「自分の自由は他人の不自由」「他人の自由は自分の不自由」って言 う原則。好き勝手に「自分(たち)」が面白おかしゅう生きるには、他人は不自由= 拘束しておかなくっちゃいけないということだ。「奉仕義務」「宗教教育」「国民の 道徳」なんだっていい。「自分たち」以外は、きちんと規範とルールで縛りつけて生 きてもらわないと都合が悪いのだ。
 日本の地に住まう自由好きの皆々様方よ。一つ自民党を見習って非拘束で行きまし ょうぞ。しかし、他人には、西部先生入魂の作「国民の道徳」なんぞを手渡して( *3)、「これでも読んでおけ!」と、しっかりルールを守らせよう。
 後は、何をしようがやりたい放題し放題。
 「汝の意志するところを行え」(*4)だ。

 *1 トリックスター森首相の活躍は目を見張るばかり
 *2 見事当選者に一票を入れた方の中から、抽選で豪華商品が当たる!
   (自民党なら、1等 愛人 2等 全国共通買春券 3等 警察情報等など)
 *3 間違って「無政府主義の道徳」を渡したら駄目よ
 *4 ラブレー&クロウリー


 

10月19日  拝啓、田中康夫様  (森川莫人)


(私の知人が下記の手紙を送ったそうだ)

拝啓、田中康夫様

あなたと一面識もない私がこのようなことを言うのも恐縮ですが、まずは当選おめでとうございます。

ただ、私個人としましては、全くおめでたくもなんともない、単にもう一つの失望を自分の中に感じだというだけの出来事ではありました。

私は、あなたのご著書を一度も読んだことがありません。でも、あなたがテレビやラジオで評論家まがいの発言をしたり、震災のボランティア活動や盗聴法反対、神戸の空港建設反対運動など、市民運動に参画されていたことは存じ上げております。だからこそ、なおさら失望したのです。

あなたが市民運動と関わって学んできたことは何だったのでしょうか?市民の意見を聞くということが、行政・政府の人間になれば不可能なのだ、ということが分からなかったのでしょうか?空港建設反対運動で、政治運動に批判的だったあなたに必要だったのは、結局は、知事の椅子なのでしょうか?

あなたを推薦してくれたのは、政治家ではないにせよ、銀行家でした。このことが、あなたの今後を左右することは言うまでもないでしょう。県民に開かれた、とか、県民の意見を聞くといったような朽ち果てたスローガンが何であれ、知事室を一階に移そうが、知事の豪邸を放棄しようが、本質的には、あなたは官僚制度のトップであり、金儲け主義者どもの代弁者になってしまったのであって、県民の代理人ではありません。あぁ、県民の意見を聞く!まるで、天皇が国民の意見を聞く、といっているようなものではありませんか。だからこそ、石原という極右都知事があなたにエールを送っているわけです。あなたに投票しなかった人達も県民なのです。これまで訳の分からないことを行ってきた県庁の役人どもも県民なのです。現状で、県民全員の意見を聞いていたら、利権争いにしかならないでしょう。最終的に、あなたは利権を基盤にしてしか意志決定できなくなるわけです。まず第一に県民に必要なことは、自身で行動することであって、誰かに意見を聞いてもらうことではありません。

私にとって、長野県の大いなる遺産・伝統とは、すなわち、農村青年社です。議会政治や官僚制度などではありません。もし、あなたが良い県政を行いたいと思っていらっしゃるのでしたら、本当の意味で県民が自分の地域を自治するようになさってください。とどのつまりは、政治的・経済的自由を県民に譲り渡し、マシンガンで穴だらけになったような自治解放区だらけの県にしてください。そのときにはあなたはもはや必要ないでしょう。

夢夢このことだけは御忘れなさらぬように。

敬具


 

9月30日  「まず自分でやってみな」  (T)


 教育改革の目玉であった、「全ての18歳に1年間の奉仕義務を課する」という案は、
「強制はかえって奉仕嫌いにさせる」
「憲法違反の疑い」
「現実問題として不可能」
「徴兵制への布石」
などの批判が相次いだため、後退せざるをえなくなったそうだ。この実現に並々ならぬ意欲を見せていた曾野綾子氏や西尾幹二氏はさぞかし落胆されていることだろう。
 そこで小生、曾野氏や西尾氏をはじめ、推進派の皆様に起死回生の妙案を提案したい。

来る21世紀の最初の年、記念すべき2001年の一年間、推進派の皆様が、自ら提案する強制労働・・じゃなかった奉仕活動に従事されてみてはいかがでしょう?

 そもそも奉仕活動というのは他者に強制されてやるようなことではありません。皆様が主張されているように「奉仕の志」こそが大事なのであり、自らの意志で率先してやることが重要です。であるからして、推進派の皆様自らが率先して強制労働・・じゃなかった奉仕活動に従事し、青年たちに模範を示されてはいかがでしょうか。
 大人たちは、口先ではもっともらしいキレイゴトを押しつけるくせに、自分たちでは少しもそれを守ってないではないか、というのが多くの青年の率直な意見です。確かに何兆円という借金を棒引きにして税金で補填し、誰も責任を取らないような大人たちが、道徳だの公徳心だのを説いたところで全然説得力がありません。「長銀の天皇」や「そごうのドン」とかのエライ人たちに道徳心があったか、と問われれば返答のしようがないのです。自分たちがやらないことを押しつけようとしても無理なのです。
 そこで「憂国の熱血」たぎる皆様が、21世紀の初めの年に自ら率先して強制労働・・じゃなかった奉仕活動に入る意義は、まことに大きなものがあります。青年たちのみならず、私利私欲しか考えてない政治家や官僚・企業経営者たちにも大きなインパクトを与えるに違いない。もしかすると、歴史に残る平成維新の魁として、将来教科書に載るかもしれませんよ。
 どうです、推進派の皆様、やってみませんか。

 ついでに、買春で検挙歴のある首相や元太陽族の都知事にも参加してもらうといいでしょう。彼らのような人間こそ、誰よりも強制労働・・じゃなかった奉仕活動によって道徳感・公徳心を鍛えなおす必要があるようですから。


 

9月14日  「ニセ札/M:i-2」  (乱乱)


 変造500円玉がかなりの数量出回っていることは周知のこと。今度はニセ札が登場 した。しかも呆れることに、二千円札だなんて。「ニセ札」に引っかけてあることが なかなか人を食ってる。
 デザインも、表面が、沖縄「守礼門」、裏面が、「源氏物語絵巻」というから、み うらじゅんなら「いやげ物」認定まちがいなしのチープさ!と、言うほどおもしろく もない真面目な出来映え。せいぜいの所、ガイジン観光みやげの、FUJIYAMA KINKAK UJI シリーズか。
 お決まりの危機管理か、駅の券売機 などでは「二千円札は使えません」とやたら 明記してある。「ニセ札は使えません」と書いてくれた方がわかり易い。本物が無い ニセ物なので、言いようがなかったのだろうけど。
 しかし、前代未聞のオリジナルなき「ニセ札」事件が、いつものように「千ー37号 」「和Dー14号」とかの呼称で、マスコミをにぎわすこともないようだ。確かに、本 来なら同じはずの二箇所の通し番号が、異なっていたなど、わざわざ細かいチェック を入れた記事は掲載されていたようだが、それっきりパッタリ。ニセ札の姿もパッタリ。
 謀略説が囁かれている。その昔、第九技術研究所というより「登戸研究所」という 名で知られる陸軍秘密研究機関があった。(*1)そこに、ニセ紙幣を製作する重要 セクションがあったのだ。目的は中国経済を混乱に陥れるため。これは日本に限った ことじゃない。国家ってのは犯罪の温床だから、なんだってするわけだ。最近なら、 不仲の隣人北朝鮮も作ってたっけ。
 ンデ、件のニセ二千円札も官製「ニセ札」だろうと読んだ。官製といっても大蔵省 印刷局発行ではなく、防衛庁が発行している「軍票」(軍用手票)の一種なのだ。軍 票は、旧日本軍も占領地域で使用した軍の保証する手形。中央銀行とは無関係に発行 出来る。
 国内に経済謀略?といぶかる向きもあるかもしれない。しかし、答えは簡単。
 将来、戒厳令下に置かれた時に唯一通用するのがこの現行「ニセ札」なのだ。否、 その時、ニセ札転じてホンモノ日銀券となるわけだ。その下準備として、密かに流通 されているのだ。
 昨今行われた石原知事指揮の「三軍大演習」が、戒厳令の予行演習であることは周 知のこと。(*2)今そこにある危機、三宅島大噴火が放置されているなかでの防災 訓練の狙いは明白だ。その日は遠くないかも知れない。
 ニセ札にはご用心。ついでに流通を妨害してやろうぜ。(*3)

 *1 「風船爆弾」を開発した所と言えば知っている人も多いかと思う
 *2 何のための戒厳令?と野暮は聞くまい。「そこに軍隊があるから」なんて陳 腐なことしか言えない
 *3 すべて私の妄想・・かな?


 

8月26日  「不祥事の原因と対策」  (T)


 度重なる警察不祥事に続いて、こんどは病院の医療ミスによる死亡事故や食品メーカーの食中毒・異物混入事件が連日のように発生している。記者会見で深々と頭を下げる光景だけを見ても、もはやどの件だかわからないくらい。
 このクニはいったいどうしたんだろうね。
半可通の皆さんに意見を聞いてみました。

「今までもそういうことは同じように起こっていたんだよ。だけど全てウヤムヤにされて表に出てこなかっただけさ。不正の隠蔽がしにくくなってきて、一気に表面化しただけの話さ。」

「そうじゃないだろう。常識的に考えられないような話が多いからね。内部の人間がワザとやってるんじゃないの。上司や会社に恨みを持っている人はいっぱいいるからね。金属バットで殴ったりイヤガラセ電話をしたりするよりはるかに簡単だし、バレる危険性も少ない。ニュースでデカク報道されるから、その手があったか、と真似する人が続発してるんじゃないかな。少年の凶悪犯罪が多発してるけどさ、大人も同じことだよ。ただ、大人のやり方がずっと巧妙なだけだ。」

「そういう面もあるかもしれませんが、それだけではないと思います。人々のモラルが低下しているのが主な原因でしょう。リストラだなんだと言って、今までシステムを支えてきた人たちを迫害してきた結果ですよ。どんなシステムでも、それを支えているのは人間です。自動的に動いているように見えるシステムでも、裏では人間が走り回ってシステムの不備を補って来たんです。ところが現場を知らない上層の人間が、書類だけでリストラをやってシステム自体がうまく動かなくなってきてんですよ。」

 どれが正しいのかはわかりませんが、ついでに対策も聞いてみました。

「統制と監視を強化して、内部告発や情報漏れを許さない体制を作ることだな。」

「徹底的な報道管制。真似されるような事件を報道しないことしかない。」

「リストラをやめるか、会社を閉めるか、どちらかでしょう。」

 やれやれ。この人たちに聞くだけムダだったか。


 

8月4日  「母を殺して三千里」  (N改め乱乱)


 金属バットと言えば、すっかり家族殺人のアイテムとして定着した感がある。元々は、あの気味悪い呼称「球児」の神器。暗転しての手近な殺人用具。「金属バットは便利。わしらのころは鉄パイプしかなかった」と、過剰防衛の某ガードマン/元闘士に面識がある。ある日、暴走族を打ち払いつつ言い放ったとか。これは余談。
 さて、17歳の少年が、金属バットで、後輩の野球部員一人に頭蓋骨骨折の重傷、三人に怪我を負わせ、さらには母親を撲殺するという事件が6月にあった。少年は、その後、自転車で逃走。16日間1600キロ、岡山から秋田までを長駆した。
 その逃走経路、私には疾走や旅の方がふさわしいと思うが、その道のプロをも瞠目せしめたこの長距離を聞き及んで、いささか胸に響くものがあった。かの少年は何を思って走ったのか?(*1)
 凄まじい距離が示すものは、潜勢せしエネルギーの膨大さであろう。両親とりわけ母親から「愛情」という名の根底的な支配を受け、「良い子」という獄舎に17年間も閉じ込められていたのだ。「僕は、もう一人の僕に犯されていた。本当の僕を取り返すために『狩り』(*2)を実行したのです」
 監視厳重な「良い子」からの破獄には、金属バットが必須だった。母親は、小3の頃から、スポーツに特性の認められない少年を、「人並みの集団行動が出来る精神力を養うため」「少年の意志とか関係なく」(*3)ソフトボールクラブに入れたという。爾来、少年は少年自身たることを奪われてきたのだ。あまつさえ、高校野球部では、一部後輩野球部員たちから、迫害を受けていた。金属バットの隠された使用方法が召喚されたのは当然だった。個人の自由を侵すものに対する極めて自然な反応だ。(*4) それが、国家によって召し上げられた暴力の、個人的無断使用という禁忌を犯したとしても。(*5)
 故に、疾走が、旅が、極めて歓喜に満ちた解放感に包まれたものになることは、想像に難くない。3000枚にも及ぶポケモンカードやポケットゲーム機、ゲーム攻略本が旅の友として、リュックにつめられていた。
 だが、しかし、収支決算はやはり割りに合わぬものだ。法的社会的制裁や、それよりも殺人者としての心理的負荷は、当然のこととはいえ終生つきまとうことだろう。
新たな見えざる獄舎に閉じ込められることを考えると、果たしてどうであったのか。(*6)
 元々、親子とは絶対不変な関係ではなく、システム維持上から要請された幻想である。バーチャルなものなのだ。血縁以外の他者同様、相互に関係の維持に努めなくては成立しないものだ。(*7)誤ったやりとりが放置されれば、関係はやがて破局するだろう。(*8) 破局するという事態そのものが、逆にそのバーチャル性の証明となっている。
 ならば、バーチャルなものはバーチャルに還せ。リアルという罠を、イメージをして破壊せしめよ、である。あらゆる連中が売りつけてくるリアルという不良品を突き返してやれば良いのだ。  金属バットによる解決方法は、ゲーム機のコードを抜く程度であれば問題はないが、(*9)機械自体のぶっこわしは、リプレイの可能性までを絶ってしまい、リスクも大きい。ストーリー変更の余地が狭まり、それこそ得難い自由度が多大に奪われてしまうのだ。
 金属バットをこれから使用せんとするみなさん。くれぐも上記のような諸点を考慮の上、正しく使いましょう。

*1 以下は、充分でないマスコミの情報によっている。その後の新事実で、事件がまったく違った様相を呈することもありうる
*2 「明日、狩りを決行する」「××(母親の名)を狩った」と、少年の日記には記されていた
*3 少年を取り調べた捜査官の弁
*4 2000年6月21日午後4時40分頃。ボコッボコッという異様な音と共に、少年の迫害者たる2年生野球部員は、後頭部→脳天→額の順に打ち割られて昏倒。その後帰宅し、母親を撲殺した
*5 母親がとりわけ悪いとかいうことではない。良き母親、良き子供であっても、事態は生じるもの。敢えて言うなら、今回の「悲劇」は、生身を越えてまでのシステムへの適応を母親が企図し、また息子が過剰に応えようとしたために起きた。
*6 当事者でない者が、後からどのように語っても虚しいだけだが、殺人予定者へのシュミレーションとして述べている
*7 良好な関係を継続することを意味するのではない。相互に他者として認知しあう関係が出来るか否かである
*8 性的虐待や、家族に保険金をかけて殺すなどは、その好例。
*9 迫害者連の処置としては適当だったろう。何がしかの代償は彼等も負わねばならぬ。


 

7月13日  「美談」  (T)


 「だからあなたも生きぬいて」という本がベストセラーになっている。著者は中学生のときにいじめが原因で自殺をはかり、中学卒業後は暴走族に入る。16歳でヤクザの妻になって入墨までしたが、考えを改めて一から猛勉強し、ついに弁護士になったという人らしい。「この本を読んで生きる勇気がわきました」と大評判で、売上は100万部を超え、著者は講演依頼や取材攻勢を断るのが大変なのだそうだ。
 この著者を批判するつもりはない。このイジメと差別だらけの社会で、実にリッパだし、並大抵の努力ではなかったろうと想像する。(私はこの本読んでないので、あくまで想像だ。アマノジャクなのでベストセラーはまず読まない)

 気にいらないのは、この手の「美談」をやたらにもち上げるメディアや世間の方だ。「五体不満足」の乙武君の場合もそうなんだけど、メディアや世間は、日ごろのいじめや差別の免罪符として、彼らを利用しているだけではないのだろうか。

 確かに彼らはリッパである。ハンディを克服し、差別する社会を見返すほどの強さをもっている。今のような社会では、ハンディを抱えて生きていくのは容易なことではないから、「強く」ならなければ生きていくのは難しい。
 しかし、誰もがそんなに強いわけではないだろう。
 「強い人」を持ち上げて「大宣伝」すれば、そういう「強い人」が基準になってしまう。
「ああいう立派な人を見習いなさい」
「社会のせいや人のせいにするのはやめなさい」
「ハンディを克服できないのは、自分が悪いからだ」
ということになるのだ。

 強くなれるのならそれにこしたことはない。しかし、社会の方からそれを押し付けるのは間違ってないか。克服できた強い人を持ち上げることによって、結果的にそうでない人々を切り捨てているのではないか。「弱肉強食」社会のイデオロギーをますます強化してるだけじゃないか。

 ふざけんなよ。そんな「美談」に騙されるもんか。


 

6月24日  或る日の街頭演説  (M)


(最近、こんな街頭演説を聴いた)

皆さん、私は無政府党のコートクです。私達無政府党は、1907年、明治40年から、国家機構の愚劣さを、あるときは言論を通じ、またあるときは直接行動を使って訴え続けてきました。そのために、我が党員は幾度となく投獄され、国家の手によって虐殺された者さえいます。私達は断じてテロリストなどではない。私達は、単に、皆さんが幸福な生活を送るためには、国家など必要ない、いや、悪しきものでさえある、と訴えているだけなのです。だからこそ、国家・政府が私達を弾圧しているのであります。私達はしばらくの間表立った活動はしていませんでした。しかし、今回の総選挙にあたっては、もはや私達も我慢ができなくなった。昨年秋の米国はシアトルでのデモに端を発しているように、国家機構こそが諸悪の根源なのではないか、という認識が国際的に広がっていることも私達の後押しをしてくれました。

さて、今回の選挙に当たって、火急の問題は何でありましょうか?争点とすべきは何でありましょうか?他の政党が述べているように、福祉・環境・教育の改革でしょうか?否。それとも、経済でしょうか?否。はたまた、IT革命でしょうか?否、否、否。さにあらず。まさか、日本神国論ですらありますまい。結論を先にいってしまえば、国家の、政府の構造そのものが問題なのであります。

これは、これまで日本政府がやってきたことを見れば一目瞭然でありましょう。以下に綺麗事を選挙のときにならべ立てたとて、これまで何か変化したことがありましょうか?どの政党が入閣しようとも、どの政治家が長になろうとも、結局は同じ穴の狢だったのではありますまいか。福祉・環境・教育の問題など、酷くなる一方ではありませんか。経済は何時までたってもギャンブルと同じような原理でしか動いていない。IT革命など言葉が目新しいだけで、その内実は浮ついたブーム程度のものでしかないのです。政治家のやり方はこうです。まず、問題のあるシステムをつくって、問題が出現するようにする。その後に、その問題を解決すると言っては票をかき集め、当選し、自分の懐には政治献金を山のように貯め込み、またしても欠陥のあるシステムを作りだす。衆議院の解散が6月まで延びた結果得をしたのが誰か知っていますか?政治家です。彼らは6月に一日か二日しか議会に出ていないにも関わらず、何百万という金を6月分の給料として手にいれているのですよ。

私達の提案はこうです:いっそのこと政治家を全員排除してしまえ。皆さんは、皆さんの身の回りの問題が何であるか既にご存知でしょう。問題を感じている人が、問題を解決するのが一番望ましいのです。それを議員どもにまかしているから、奴らに私達の血税を給料として渡しているから、何も解決できないのです。政治家がいなければ、何もできないとお考えですか?皆さんはそのように思わされているだけのことなのです。オウム真理教どころではない、国家ぐるみのマインドコントロールです。各地でおきていた住民投票を見て御覧なさい。できるではありませんか。また、歴史を振り返って御覧なさい。今のような政治家などがいなくても社会が営まれていた時代だってあったではありませんか。政治家がいなくなれば、奴らに払っていた分の税金をそっくりそのまま福祉に使うことだって可能なんですよ。

皆さん、私達無政府党と共に、日本を住み良い国に作り変えようではありませんか。私達の党には県境などない。今度の日曜日には、日本のどこにいようとも、「コートク シュースイ」もしくは、「オースギ サカエ」に清き一票を、比例区では「無政府党」と是非お書き下さい。御清聴どうもありがとうございました。

(立ち止まって聴いている人などどこにもいなかった)


 

5月28日  神国ニッポン万歳!  (N)


 そうか、すると僕らは「臣民」か…って、存外うれしかったね。森首相の「神の国」発言は。うさん臭い「市民」「国民」なんぞより、はっきりしてるわ。不逞の輩や非国民になるのに励みも出ようというもの。へんな言い訳するより「私は大日本帝国憲法の下に首相を勤めております。」と明言すればいいのに。
 それはさておき。まあ首相の言もなんだけど、「日本もすっかりオウムになったなあ」と感慨深い。やっぱり95年のサリン無差別攻撃の効果なんだろうな。国家ですら使用をためらうような科学兵器を、いきなりテロで使ちゃうんだから。その直接的な被害もさることながら、危ない連の封印を解発してしもうた。否、危ない連のみならず。 みんなすっかり狂暴になっちゃって、狂暴な連中はより狂暴に。自殺者は他殺者。ヒッキー転じて監禁者。守銭奴は殺人者。対する国民側も、「射殺しろ!」「極刑だ!」のオンパレード。加えてアジテーター/妄想メーカーの活躍も見逃せない。「こいつが悪い!」「敵はこいつだ!」「スパイがいるぞ!」「××はあやつられている!」とにかく内外問わずの「敵探し」におおわらわ。しかしいまだもって敵味方判然とせず。ただ右往左往。そりゃそうだろ、鏡見て吠えてるんだから。悲しき自家中毒…警察なんかもその典型。自ら治安の撹乱に一役かっている。
 オウムに対しては当然のことになろうが、「法の華」を始め新宗教摘発を強める一方で、かってないほど公明党/創価学会の権力における比重が高まっているのも倒錯。で、冒頭の「神の国」構想だ。
 気が付けば日本全土がサティアン。「それら」はみなオウムが持っていたもの。オウム取りがオウムになったわけ。だから麻原こそ闇の天皇。新生神国ニッポンの象徴だ。
 小渕前首相も怪死。その後継も共産圏国家なみの不透明さ。その死体を利用して選挙。ひょっとしたら前首相もゾンビの如く蘇るかもしれない。
 新しい天皇の下、黄泉の国ライフをエンジョイしましょうぞ。


 

5月 4 日  合併の時代  (M)


 不景気になると合併が流行りだす。経済的生存のためにはそうするしかないからだ。景気の悪さが余り酷くなければ、合併吸収されるのは弱小企業だけだ。だが、最近の合併状況を見ていると、現在はよほど経済状態が混乱しているらしい。またもや市場独占、帝国主義の様相をハッキリと呈してきた。
 銀行や各種産業界の合併・吸収は言うまでもなく、現代社会の洗脳媒体、メディアも合併しまくりだ。ソニーがフジテレビに参入するそうだ。AOLは既にタイムワーナーを買収し、東芝も提携するらしい。米国ABCテレビはご存知ディズニーのおもちゃだ。
 ふん、五十年後の事を考えてみたまえ。多分、戦争が起こるなり、新しいテクノロジーが開発されるなりして、今度は分裂だ。そしてそのまた三十年か五十年後にはまたしても合併だろう。経済だけでなく、政治の世界もそうだ。統一が叫ばれた時代があったかと思えば、次は独立だ。丁度、音楽業界がリバイバル=ブームを作り出すようなものだ。幸徳の「排流行論」を持ちだすまでのことはないだろう。結局のところ、全て定期的にめぐってくる流行なのだ。それが資本主義体制下にある以上、安定する事などないのは保証付き。かえって、サイクルが早まっているほどだ。一世代も経過しないうちに、記憶も・歴史も・思想も・文化も全てがリセットされるのだ。
 植民地時代の後には民族独立があった。独占資本時代の後には世界恐慌が、そして第二次世界大戦があった。1960年代以降は政治も・経済も・文化も分裂を指向していたが、西暦二千年代も終わろうかというときにまたもや合併が表面化してきた。統一・分裂の波に乗りながら、一喜一憂するのがそんなに楽しいか?マゾヒストどもめ。
 合併の時代に特徴的なことを一つ挙げておこう。世の中が合併・統一すればするほど、個人は分裂するんだ。個人と社会の関係と同様、統一と分裂は解消されるものではなく、無意識的に対立し続け、バランスを取るものだ。そう、この合併の時代にあって、君はバラバラだ。君の思想はバラバラだ。君の行動もバラバラだ。君の体もバラバラだ。手も・足も・脳味噌も・ケツの穴も・毛穴の一つ一つにいたるまでバラバラなんだ。お前の手がナイフを持とうが、お前の足が隣に立っているやつの足を踏もうが、それはお前じゃねぇ。昨日しゃべっていた事と今日しゃべっていた事が違うからどうなんだ?お前の口はお前じゃねぇ。徴兵されてもお前じゃねぇ。人を殺してもお前じゃねぇ。何を考えようが、何を感じようが、お前じゃないんだ。
 これが合併の時代の流行だ。ファッショナブルな皆さん、流行に乗り遅れないようにせいぜい気をつけな。流行に乗らないためにはどうすれば良いかだと?いつまで他人の意見に振り回されるつもりなんだ、このナマケモノめ。


 

4月25日  さよなら ネットバブル  (T)


 最近のインターネットの過熱ぶりは異常だ。景気が悪いために、ちょっと良さそうなところに殺到するのかもしれないけど、「ネットやらなきゃ時代に取り残される」「ネットで成功すればたちまち億万長者」と、まさに現代のゴールドラッシュか満州国かといった様相だ。
 しかし、インターネットに過大な期待はしない方がよい。基本的にはコンピュータを使った通信手段に過ぎないわけだから、それだけで新たな付加価値が生まれるわけでもない。「個人が全世界に向けてメッセージを発信できる」というのはウソではないが、そもそも全世界宛のメッセージを持つ個人がどれほど存在するのだろう。「私の趣味は写真とバイクです」だの「ウチのタマが子猫を生みました」だの、赤の他人のそんな話は見たくも聞きたくもない。才能ある人にはそのメッセージを世界大にまで拡大する増幅装置になりうるけれども、無意味なメッセージを増幅されてもウルサイだけなのである。

 株式市場では早くもネットバブルがはじけているらしい。ネットが「カラッポの洞窟」「無意味な情報の洪水」であることが知れ渡れば、やがては皆飽きてしまうであろう。
 勝負はそこからだ。
 インターネットでの情報提供は基本的には無料である。世の中には、情報を独占して金儲けをしている連中がたくさんいる。そういう情報を無料のネットで公開してしまえば、そういう金儲けは不可能になるはずだ。
 地理的な遠さや時間の制約のないコミュニケーション手段は、分断され孤立している個人が連携するのを容易にする。金や世間体に縛られない人間関係を作ることだってできるかもしれない。
 そういう意味では、ぼくはインターネットに過大に期待したい。そのためにも、異常なネットバブルには早くはじけてもらいたい。


 

4月10日  壊死  (N)


 小渕首相が突然の重態である。死の淵に足をとられて、藁をもすがる姿は、雇われ権力者の末路とは言え、哀れでもある。小生いささか予感があったと偽予言者を気取る気はないが、2000年明けて間もなき1月4日に、首相が伊勢神宮に参拝し、翌5日、自宅近くの東京都北区の王子神社と明治神宮、さらに官邸近くの日枝神社と、はしご初詣をしたとの記事を目にし、奇異にも思った次第。というのも次の首相の弁だ。
「小渕恵三は神頼みかといわれますが、手を合わせながら神の声を聞こうと思いました」「この世の中には天地宇宙、人知及ばざることがある。敬虔な神様の恐れというものを持たなければならないといつも思っている」
 何やら福永法源に聞いた方が良さそうなことばかり口にしている。さらには、例の「運が悪かった」失言で、さんざん叩かれるわけだが、その後も記者団に対して「一番運が悪いのは私だ」と、運不運に対するなおかつのこだわりを見せる。
 結局、神頼みの甲斐もなく、あるいは神罰なのか、「一番運が悪い」結果となったわけだ。小生が奇異に思ったというのも、権力者ペルソナから瞬時かいま見えた「不安感」「弱さ」だ。それは「一国の首相も人の子」であるとかの同情共感によるものではない。役割をも執れぬ生身の傷口が唐突に見せつけられたことだ。
 刹那、壊死の臭いがした。
 後継森首相はどうか。わかりやすい彼の発言にそれは現われる。
「横浜の警察署管内には1500人くらいの韓国人労働者がいるが、ベトナム戦争に参加しているから銃を撃つことは不慣れではない分1000人くらいまとまったら大変な軍事行動が出来る」(※1)「エイズが来たように思われた」(※2)「停電が起きるとギャングや殺し屋がやってくる」(※3)
 これら失言録は、人権感覚の有無よりも、「元韓国兵?」「エイズ」「ギャング」「殺し屋」対象は異なるが、「得体の知れぬものの侵入」に常に怯える森の姿を端的に示している。記者団の質問を受ける態度も同様だ。「邪魔だ!」「どけ!」如何に群がる記者相手とは言え、自己の支配下に置いている人間ならともかく、このような態度を他者に向けた時のデメリットすら計算できぬほどに余裕なき人物であるということだ。肉の鎧を外被にまとってはいるが、内面に、恐れ怯えの核を無自覚なまま有している。小渕同様「気配りの人」「調整型」とか言われるのも、他者に覚える恐怖感のなせる技である。
 しかし、現実には、その彼に強大な力が与えられることになってしまった。どう考えても、日本の地における個人としては、最高の強者であるだろう。柔弱な魂に、強大な力の組み合わせ。悪夢としか言いようもない。どのように彼の妄想が形を現わすか注視せねばならないところだ。

※1 1992年ロサンゼルス暴動の際、襲撃された韓国人が銃で自衛したことについて
※2 自身の立候補を振り返っての発言
※3 Y2K問題に関して、日米両国を比較しての発言
  (※1〜3共、朝日新聞00年4月5日朝刊を参照)


 

3月28日  ケイゾク(警族)  (N)


 営業ノルマがきついのか、自ら犯罪者になって、ノルマ達成に貢献するとは、さすが日本警察は心がけが違うな。ただ、捕まえられても自分の点数に加算されないのは、お気の毒だ。自分で自分を逮捕出来るように、制度を変えてあげればいいのに。でも、神奈川県警なんかだと、誰もいなくなったりして。
 でもね、ミイラにミイラ取りをさせているのが警察の仕事なのに、ちょっと叩かれすぎはあるな。キャリア組ってのがそうでしょう。あれは、ミイラ操ってる呪術師みたいなものだ。まあ、最近は、呪術師自体が、ミイラになってしまっているんだが。仕事さえしてくれてりゃ、博打しようが、シャブ打ちながらだろうが、私は気にしませんよ、お巡りさん。と、こりゃうっかりの失言だ。お巡りさんは、我々の為に仕事をしているのではなかったのを忘れてた。
 我々個人の生命財産を守るためではない。システムを防衛する為に、仕事をするのが警察。後出しジャンケン金田一耕助なのだ。さんざん人が殺された後で、「この連続殺人事件の犯人は・・」なんてやりだす。殺人が終らないと出番がないのだ。故に、ストーカーなんかを訴えても、全然相手にしてくれないわけ。「まだ、あんた生きてるじゃない。」と言ったかどうかは知らないけど、この間、それで女子大生が殺された。
 それじゃあ、「疑わしい奴をみんなしょっぴけ!悪い奴はみな死刑だ!」は、どうなんだろうね。被害者の家族をメディアに露出させ、お涙頂戴で、大衆の感情を煽ってるマスコミ。それに呼応するかのような、治安強化・厳罰化の方向は。結局、大衆が最も嫌う、犯罪プロ育成にしか役立たない。そのときにまた、一段と声高に「警察お頼み申します」はいくらなんでもこちとら困るぜ。名誉回復とばかり、妙に張り切られて、誤認逮捕ラッシュなんてことになったらどうする?
 最近のオウム弾圧もそれ。オウムも危ないかもしれんが、「オウム出ていけ」の俄ファッショ連も充分怖いぞ。カタギになっちゃいけないよとのご親切は、早く非合法活動しなさいと、一生懸命に追い込んでいるとしか見えない。少年法改正で、年齢引き下げもその流れ。更生機会を一律に奪うことによって、アウトロー就職戦線は、さぞかし賑わうことだろう。
 だかしかし、狼の繁殖が成果を挙げるとなると、どうやって身を守ればいいのか。答えは簡単。警察へ召しあげられてた我々の暴力、返してもらいまひょ、だ。武術を身につけるもよし。密かに武器を入手しておくか、あるいは自作しておくか、いずれにしても、自分の身は自分で守ること。成功するか否かは別として、その覚悟をせねばならないだろう。
 それを先どってたのが、自衛隊で、民間人に自動小銃撃たせてた「事件」。これなんぞ、官民協力で、良いことじゃない。「違法射撃」なんて堅いこと言わずに、市民の自衛を、自衛隊に応援させよう。
 兵器マニアや切れた連中のニーズも満たしたり、変にアウトローの世界に踏み込まなくていいという治安対策にもなるし、結構ずくめじゃない。「日の丸・君が代」指導が徹底して、ほとんどの学校で、つつがなく実施されている現在、お上に弓引こうなんて、不心得者がいるはずもないし。


 

3月18日  デジタル帝国主義へようこそ  (M)


(某月某日、某所で行われたとある会議より)

 ただいまご紹介にあずかりました◯◯です。この会議において講演できるという名誉をちょうだいしまして、大変光栄に思っております。今日は、ざっくばらんに今後の展望についてお話ししたいと思っております。

 さて、昨今、IT革命・インターネット・DVDなど様々なデジタル技術が進歩し、それに伴って市場も活気を取り戻しつつあります。まさに我々の思惑通りになってきました。一時期は、戦争も減り、生産と消費も安定したために、先進各国では国内問題に国民の目が向けられるという我々資本家にとってはまさに死活問題が生じそうになったものでした。当時、我々が取るべき道は、第三世界への進出か、さもなくば、国内問題に場当たり的に対処しながら、それまでの利益を下降させないように踏ん張るしかなかったのです。そうです。我々には安定など必要ないのです。必要なのは、競争です。拡大です。企業利益の向上なのです。(拍手)

 このデジタル産業、これこそが我々が今後数年間集中的に投資して行かねばならないものです。確かに、デジタル商品などなくとも基本的な生活は出来る。しかし、そんなことを気付かせてはいけません。コンピュータを使えない奴は人間じゃぁない、このぐらいの認識を大衆に植え付けるのです。さらに、確かにコンピュータやマイクロチップはその製造時に環境を汚しますし、電力も使います。環境保護のバカ共はしばらくすれば色々言ってくるでしょう。これに対してはこう言えばいいのです。「我々は紙の無駄をなくしているのだ」と。

 消費を拡大するためには、消費者を作り出さねばなりません。現状ではまだTVや雑誌などのメディアで広告しているだけです。だが今後は、全ての学校へのコンピュータの導入をはかることで、将来の消費者を作り出さねばなりません。消費者が拡大すれば、我々の利益も拡大する。大衆どもには消費をさせねばならないのです。それが生活に不要なものであればあるほどなお結構。彼等は、「生活の質が向上した」などと大喜びすることでしょう。

 消費の敵は想像力です。大衆に余計なことを考えさせてはなりません。デジタルならそれがより効果的にできるのであります。(拍手)

(講演は、この後、延々二時間続いた。)


 

2月24日  猫食って何が悪い!  (N)


 昔昔、「マクドナルドって、猫肉使ってるよ。友達が、バイトしていて、冷蔵庫に吊してあるのを見たんだって。」と聞いたって、別に驚きもしなかった。マクドのインプリンティング作戦(※1)にかかるには、こちとら歳食ってたしね。マズいし怪しげだねというのが、当時の常識だったわけ。今じゃ考えられないけどね。なんか混ぜてると思ってた所に、「100%ビーフ!」なんてやたら強調するんだもの。猫肉って言われて、アアそうかヤッパシだった。
 ところが豈はからん。それが、1970年代後半に、アメリカで流行した都市伝説(※2)のバリエーションだったと、後で知ったわけだ。「猫なんか食えるわけないじゃん」だって?周りにも「猫鍋」食った人(※3)知ってたしね。味は想像つかなかったけど、食べれるもんだとは思ってた。
 さてさて、object首相悲願の沖縄サミットが、今年7月に、開催されるのだが、その約束の地で、けしからぬ話しがある。糸満市で、55年もの間、猫肉販売を営んでいたおばあさんが、サミット先進国から非難されるとか、「動物愛護法」に抵触するとかの、バカげた理由で、廃業に追い込まれたのだ。元々猫を食するのは、沖縄の食文化としてあるようだ(※4)。第一、太平洋戦争で、焦土と化した沖縄では、食料危機となり、犬や猫を食べなくては、生きて行けなかったのだ。そのニーズに応える稼業を営んだとて、なんら責めを負うものではない。ましてや、ヤマトンチュふぜいにである。今は、ぜんそくに効くという薬効面が評価されており(※5)、ぶつ切りにし、猫煮込鍋用として販売していたそうな。脂身も少なく、美味とのこと。このおばあさん以外にも業者は存在し、食する人もかなり居るという。私も、猫肉がうまいというのは、今回初めて知りました。不明でした。こんなすばらしい食習慣を、なんで取り締まらなきゃならんのだ。
 私は、最初は、マクドの陰謀かな、と思わず妄想してしまってた。この頃、平日異常な安値で売っているからね。てっきり、ライバルつぶしかなと。いずれにしても、サミット如きに大仰な話しだ。
 おばあさんも、廃業を余儀なくされたんだから、「今度は、米兵か、ヤマトンチュでもひっとらえて、袋に入れてハンマーで頭をたたいて殺して内臓を取って売ることにしました。(※6)」ぐらい言ってやれ!

※1 マクドの社長は、確か4歳くらいまでに刷り込めば、一生涯の食習慣になると言ってたと思う。
※2 オリジナルは、ミミズの肉で、なんでもビックマックに蛋白質を加えるために、わざわざミミズを大きくして入れているというもの。他にカンガルー説もあったとか。
※3 後で、怖い思いをしたそうだが。
※4 確認はしていないが。記事にあった。
※5 科学的根拠がないなどと、某薬学部教授がコメントしていた。偉そうな口をきくな。
※6 猫の調理の一例。でも、文革期の中国には、似た例が実際にあったそうな。


 

2月18日  ヒッキー天国  (N)


 「ヒッキー」(※1)と呼ばれる、ひきこもりが大流行しそうな気配があるとか。昔は「立てこもり」がはやってたのにね(※2)。「立てこもり」から「ひきこもり」になっちゃった。立てこもり時代は、集団ないし個人が、社会と切り結びつつ、自身の要求を受け入れさそうとするもの。ひきこもり時代の今は、もう、社会とは切れちゃっているんだな。でも、通り魔や拉致監禁事件は、ヒッキーと社会の、不幸なニアミスなんだろうか?(※3)。
 さて、昨今の、様々な住民投票だの、NGOなんぞは、政治家や財界人から言わせると、シロウトが、民主主義を破壊していることになるそうだ。「御上にまかせなさい。」というわけらしい。フ〜ン、さすがは、日本の将来に責任を持つ人々の言だ。そこらへんのやつらと言うことが違いますな。選良こそが真の主権者というわけだ。民主集中制ですな。加えて我が国には、世界に誇る優秀なエリート官僚が控えている。安心安全無比なわけだ。
 空港が出来ようが、環境が破壊されようが、憲法が改正されようが、徴兵制が敷かれようが、日の丸・君が代が押し付けられようが、盗聴されようが、税金をボッタクられようが、福祉が切り捨てられようが、原発が事故しようが、失業者が増大しようが、自殺者が増えようが、差別と排除が猖獗をきわめようが、天皇崇拝を負わされようが、靖国に合祀されようが、景気が悪かろうが良かろうが、金輪際、考えることも、悩むことも、抗うことも、悲しむことも、必要ありませんです。みんな「御上」にまかせていいのだから。こいつは楽だよ。
 そんでもって、ヒッキーしちゃおう。息を沈めて、10年でも20年でも、深く静かにしていよう。文句も言わず、物買わず、慌てず、騒がず、何もせず、ただひたすら死ぬまでの時間をすごそう。路傍の石のように。さすれば、バラ色の明日が待っているのだ。
 ひきこもりの友は、言わずとしれた『国民の歴史』。文字どおり座右の一書となるだろう。
 永い永い冬眠の果てに、目覚めた暁には、鳴呼栄光の我が日本国が、燦然と世界に輝く様が、手に取るように見える!耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ついに八紘一宇の大理想が、地上に現われる。
 「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」「これなんぼ」「安いよ!安い!」世界共通語と化した日本語が、肌の違いを越えて語られる。なんと誇らしいことか!日本文明の曙だ。万歳!万歳!万歳!
 この身も震える感動の未来を胸に、ひきこもろうではないか、諸君。

 ※1「ヒッキー」は、ひきこもりを、自ら進んで受け入れる人のことを差すらしい。(注 嘘)
 ※2 寸又峡事件(1968年) 東大安田砦事件(1969年) あさま山荘事件(1972年) 三菱銀行籠城事件(1979年)等が代表例。もっと色々あったけどね。後ろ2例なんぞは、いまのひきこもりとは違った発現を見せているが、共通項もあるやもしれない。
 ※3 少女誘拐監禁事件の犯人氏のように、風俗行ったり、競馬狂いは、頂けません。ひきこもり界の風上に置けぬ奴です。もちろん通り魔も駄目です。


 

2月13日  そんなことはどうだっていい問題じゃないか  (M)


 東京都が、銀行から金を多くむしりとろうってことだろ。そんなことは、おいらにはどうだっていい問題じゃないか。

 結局のところ、今までと立場が逆転しただけじゃないか。今までは、金儲けの亡者どもが金に物を言わせて、権力の亡者どもを操っていたのが、ちょっとばかり逆転しただけの話しじゃないか。上の方の薄汚い権力争いさ。いつものことだろ。借金が積もりに積もっていれば、誰だってどんなことだってするじゃないか。今までの都知事は極右じゃなかったからね。強力なバックを持ってなかったからね。権力闘争なんてできなかっただけのことさ。それを何だかんだと持ち上げようって魂胆が見え見えだぜ。いったい、自分の借金を無くすために法律を使って金策をしようというのなら、最初っから、今までの借金を無しにします、という法律でも作れば良かったんじゃないの。

 いったい、権力の亡者が法律を使って金儲けの亡者から金をとることが、どう都民と実際的な方面で関係するのかね。都民の税金は減るわけじゃないんだ。消費税がなくなるわけじゃないんだ。なんとなく今までの復讐をしてやったりって感じを持つだけのことなんだ。イメージの問題さ。借金がゼロになって金廻りがよくなったらたらどうなるか考えてみなよ。税金が減ると思うか?公共工事が減ると思うか?福祉とかに金が廻ってくると思うか?相手は極右の都知事だぜ。大東亜共生圏なんて未だに言ってるやつだぜ。都で軍隊でも作ってクーデターでも起すんじゃないかね。

 しかし、石原って人は随分な権力を持ってるんだね。これが共産党や社民党なんかの都知事だったら、絶対、政府が黙っちゃいないと思うよ。マスメディアも叩きまくると思うね。でも、今回のことを見てみなよ。マスコミも政府も文句の一つも強く言いやしない。逆に、石原さんは素晴らしいみたいな風潮にしようとしているみたいだ。

 おいらにはそんなことはどうだっていいんだ。おいらにはおいらで別にやらなければならない仕事があるんだ。


 

2月8日  嗚々、44.58%  (M)


 大阪府知事選が終わり、多くの中央政党から推薦された太田氏が選ばれた。初の女性知事だそうだ。体制寄りのマスコミどもはどうせこの点ばかりを取り上げるであろう。笑えないジョークだな。仮に、今後大阪府の景気が良くなったからといって、政策が良かったからだと言う人はいても、府知事が女性だったからだ、などと言うものはどこにもいまい。女性であろうと男性であろうと民衆の上に立って支配しようとする輩であるという点では、そして、資本主義賛同型政党にお伺いをたてる類の輩であるという点では何等これまでと大差ないのだ。女性の観点から大阪府の改革をするか。生活者としての観点で行政を取りし切るか。既成政党の後ろだてがあるから何も恐いものはありません、大阪府政を今まで通り行なっていきます、というのが本当のところではないか。上手いこと「女性」という点だけを利用して(されて)宣伝している以上、これはセクハラじゃないのか?

 それにしても投票率である。44.58%だったそうだ。過去最低だったそうだ。もっと低いかと思っていたが、結構自殺志願者が多かったようだ。仕方があるまい、リベンジは衆院選でだ。だが、言ってみれば、少なくとも府民の五割強は府知事それ自体を認めていないわけだ。誰が選ばれていたとしても、府民の五割に認められていない者が府民の代表と呼ばれていいのか。府政を行う権利があるのか。府民を拘束する条例を決めていいものか。さらに、太田氏に関して言えば、その半数のさらに半数にも満たない人数によって知事になってしまった。つまり有権者全体の二割程度人々からしか府知事として支持されていないわけだ。その人間が府政を取りし切ることになるのだ。その二割が全体を統治して良いとは、天晴れ、大した民主主義よ。


 

2月2日  大阪府民に訴う  (M)


また始まった。うんざりだ。日々騒音を巻き散らす選挙カー。下手な哲学者のように、抽象的なことを何度も何度も、いつの選挙の時でも繰り返す猿回しの猿ども。経済と福祉という言葉をちりばめれば何でも良いと思っているのか。民衆の代表だと?自分の代表を他人にさせられるものか。これは競馬か、競艇か。ならば私もまぜてもらおう。配当金はいくらだ?

選挙は国民の義務だとされている。されど思え。義務は権利を伴って初めて課せられるものだ。大阪府民よ。一体君達はどの様な権利を保証されているのか。倒産する権利か。路頭に迷う権利か。君達が困った時に大阪府は君の権利を保証してくれるか。困った時にこそ何も助けてくれないのが役所の常だ。助けてくれているというのであれば、何故、現在大阪府にはホームレスになった人々があふれているのか。数多くの犯罪があふれかえっているのか。選挙が国民の義務だというのなら、何故、選ばれた代表者には公約を守る義務はないのか。

大阪が持っている上方文化は府知事がいなければできなかったのか。商業の都は府知事の御陰でなり立っていたのか。その豊潤な文化・経済的活力をだいなしにして来たのは、東京中心主義的大阪府政なのではなかったか。大阪人の持つ活力は誰もが敬服するところだ。何故その力を、自分達の手で自分達の地域を創り出すために使わないのか。独自の文化・経済圏を創り出すために使わないのか。またもや中央集権的選挙制度に自分達の地域を委ねようというのか。

我々はこの見せかけの民主主義なるものによって半世紀以上も洗脳されてしまった。奴隷であることに慣れ切らされてしまった。試みに、周りの人と大阪府知事不要論を論じてみよ。大半の人々は次のように言うだろう。「じゃぁ、知事なしで、どうすればいいんだ?」見よ。これが現在の民主主義の帰結なのだ。彼等は、どうすれば良いか自分の頭で考えることも出来なくされてしまったのだ。まるで神頼みだ。誰かが自分達の生活を変えてくれるだろうと願っているんだ。これが御主人様を選ぶことでなくてなんだろう。どうして、誰も自分達で自分達の地域を作りだそうとしないのか。自治体とは何か。奴隷の集合体か。誰もが、「大阪府」という行政管轄区分で考えさせられるようになってしまっているために、想像力を発揮できないのだ。一体、大阪府とは何だ。それは、君にとって、君の住んでいる地域・地区・生活圏以上の何か大切な意味を持っているのか。

プルードンは言った。奴隷制度は殺人である、と。選挙制度とは奴隷制度である。自分達を支配してくれというのと同じである。選ばれた議員どもが選んだ人達の言うことを聞くことなど、今の制度ではありえない。投票は自殺を意味するのだ。

仮に、選挙は行政上最低限必要な何かだと仮定して見よう。だが、選ぶとはどういうことか。選ぶというのは、選ばれるもの、選択肢が有って初めて成立する。その選択肢が「選ぶ当事者が過去に実際に体験したことがあるもの」でなければ、その選択行動には重要な意味などないのだ。考えてみよ。自分が本気で物を買うときのことを。一度も手にしたことも見たこともない物を、名前だけで選ぶか?よしんば選んだとしよう。正解だったことがあるか?やはり昔から使っている物の方が良かった、と後悔したことはないか?その商品について多くの情報を他者から得てから買うとしても、それは信頼できる人から聞いた時にだけ従うものだ。府知事選も同じことだ。今まで手にしたことのないものに関するカタログを見ながら、分けも分からずどれかを選んで金を払うのと同じだ。国家ぐるみの押し売りだ。既製政党の情報を、押し売りの言葉を信頼するのか?

私には夢がある。それはあらゆる選挙で投票率が0%になることだ。さもなくば、投票率100%で全てが無効票となることだ。意思を持った棄権票だ。誰もが既存体制に異議を唱え、代議制民主主義を破壊することだ。

投票とは自殺である。大阪府にいる人々よ、自殺するのはやめ給え。


 

1月28日  野党の皆様へ。良い御身分だぜ、全く!  (M)


 定数削減法案が衆院を通過した(1/27)。野党の皆様は出席すらしていない。奴等はそれを「戦略」だと思っていやがる。結果を伴わない「戦略」だな。野党の馬鹿どもがどうあがこうと、与党の奴等が数の力でねじ伏せるなんて最初っから分かりきっていたことじゃないのかね?一体、国会議員の仕事って何だ?何をしておまえらは金をもらってんだ?え?国会に出ないことか?議論をしないことか?仮に、これが一般労働者のストライキだったと考えてみろよ。奴等には給料が払われないんだぜ。当然、お前らも給料もらわないんだろうな。仕事してねぇんだからよ。解散総選挙を求めるなんて手間のかかることをするぐらいだったら、率先して野党議員そろって辞めちまえよ。そして、お前らを選んでくれた選挙区に戻ってそこを良くするように努力すればぁ?いつまで甘い汁を吸おうと思っているんだ?

 腐れ国会議員に税金を払う必要なんてないさ。税金払わなくたって、脱税したって良心の呵責なんて感じる必要ないね。テメエん家の周りで一生懸命働いている人の方が大切だろ。日常生活で関わっている人の方が大切だろうがよ。税金が民衆の福祉のためのものってんなら、周りの人との実際の助け合いの方が税金よりも有効利用できそうだぜ。

日本国なんて幻想は捨てちまえ!


 

1月24日  おまえらアナーキストか?  (のん(K))


 ケッー、また利権屋がどもが、土建屋に儲けさせたいのか、てめえらの利権を得たいのか知らんが、吉野川になにがなんでもダム(河口堰ってなんだよー、ダムだろー)作りたいのだな。
 まあ、ワシは環境保護など何とも思わないから、ダムでも何でも作ればいいと思うが、その賛否を問う住民投票に行くなだとー。
 ふざけるなー、おまえらはマラテスタか、えー、アナーキストでもないおまえらが、選挙をボイコットしようなどとは片腹痛いだよー。
 文句があるならアナーキストになってから選挙を否定しろよなー。
 ははは、結局50%の投票率を超えて選挙は有効になってしまったが、しかし50%を超えないなら有効ではない選挙なら、ほとんどの選挙は有効ではないわけで改めて選挙ってインチキなシステムだと認識しました。
 もっといえば国家なんて利権屋がてめらの利権を維持したいが為のシステムに他ならないと感じさせられる住民投票だったよね。
 これからの展開はどうなるか知らんが、それでも建設省や地元の利権屋は何がなんでもダム建設に邁進していくのだろう。
 それが国家の正体なのだというと飛躍のしすぎかもしれんが、一部であることは間違いないことだろう。
 もう馬鹿げた民主主義などうんざりだー。


 

1月23日  民主主義?  (T)


 吉野川河口堰をめぐる住民投票について、自民党の大臣が「民主主義の誤作動」と発言したそうだ。以前、原発を巡る住民投票の際に、推進派の町長が「住民投票は民主主義に対する挑戦」などと発言して無知をさらけ出していたが、さすがにそこまで無知ではないらしい。
 そもそも「議会制民主主義」というものは、別名「間接民主主義」とも言われる通り、きわめて不完全である。4年に一度の選挙で議員を選んだら、その議員がいくら公約違反をしても次の選挙までは辞めさせることは難しい。公約違反でなくとも、個々の政策については投票した議員の考えと合わないこともある。そこで、重要な問題については直接住民の意志を確認する「住民投票」によって、不完全な間接民主主義を補うというのが直接民主主義である。これは「誤作動」というより、むしろ本来の民主主義の「発動」と言うべきであろう。
 しかし、民主主義が「正しい」結論を出すとは限らない。むしろ「大失敗」や「大間違い」もある。何しろ石原慎太郎や横山ノックを知事に選ぶほど民度が低いのだ。「大間違い」の可能性はきわめて高い。また、「民主主義」は徹底しようとすると時間やコストがやたらにかかり、何とも効率が悪い。
 だが、誤作動だろうと大間違いだろうと効率が悪かろうと「民の意志」なら尊重しなければならないのが民主主義なのだ。
 したがって「誤作動だから」「効率が悪いから」尊重しないのは「民主主義」ではない。「アホな大衆は、官が決めたことに逆らうな」という「官主主義」、「大きな銭が動く公共事業なんだから反対するな」という「銭主主義」である。
  ぼくは「民主主義」を信じないし正しいとも思わない。「議会の多数派」が正しいとは限らないのと同様、「住民投票の多数派」だって必ずしも正しいとは限らない。だけど「官主主義」や「銭主主義」よりは「民主主義」の方がまだマシかな?


 

1月10日  END OF DAYS 2000  (N)


 2000年1月1日も、いつもの新年のように訪れ、巷間を鳴動させただけで、鼠のシッポすら見せる気配はない。自民党次世代グループの異名とも見まがう「Y2K」すなわち「2000年問題」は、最悪「ロシアの核ミサイルが誤射される」などという危惧もスッとんで、一部携帯電話や、監視機器類等の時刻表示が狂ったなどという、超常識的なトラブルに終った。この平穏無事な静けさに、既視感がする。そう、昨年というか数ヵ月前1999年の7月の、空振りに終った、ノストラダムスの「恐怖の大王」との。しかし、一部マニアのみならず、「いっそ世界なんて…」という密やかな願望を隠しつつ、表面上では、近代人を装い得たノストラダムスの件とは異なり、すくなくとも、全世界が、ある一日に、等しく危機を予感し、実際に備え、しかもその結果が、予想もつかないなどというようなことは、前代未聞(※1)の事態ではなかったのか。(※2)加えて、事態の首謀者が存在しないにも関わらず、なおかつそれが、自然現象ではあり得ないなどというようなことが。これは、電脳ネットワークが、人工の産物から変態し、新たなる自然として立ち現われているということなのか。マダヨクワカリマセン
 不発に終った2000年問題はさておき、昨年、日本を騒がした様々な事件をいくつか想起してみると、埼玉野菜ダイオキシン汚染(1月)JCO臨界事故(9月)新幹線トンネルコンクリート落下事故(6〜10月)「お受験」殺人(11月)雅子懐妊→流産(12月)小学生校庭刺殺事件(12月)加えて、「法の華」や「ライフスペース」等の宗教団体がらみの事件、継続物となっている、オウム真理教(※2)や毒入りカレー事件。これら各々に性格の異なる事件を、通約しようなんて気はないが、起った事象をどう「事件化」していくかに着目すると、この国のメディアやシステムの崩壊ぶりがよくわかる。どの事件も、例によって大騒動からのスタートだが、結局の所、ストーリーが途中で変更されたり、突然消えてしまったり、物語の明確な終結とならないのだ。強引でもなんでも、適当なストーリーを作り葬ってこそ、秩序側の面目があると言えるのに、自らどんどん事態を無秩序していき、収拾をつかなくしてしまっているのだ。挙句は「オウム規制法案」に代表される既存法秩序を否定するいわゆる「悪法」の登場だ。昨年は、その手の法案が幾つも成立した年でもあった。まあ、そうした迷走を続けつつ、この国のEND OF DAYSは近づいているのだ。と、希望を新たにしようぜ。もとい、絶望を新たにしようぜ!

 ※1 過去のハレー彗星大接近には、相当騒ぎにはなったそうだけど
 ※2 と学会は扱ってくれるのかな? 
 ※3「上祐出所」騒動を見ると、マスコミが追いかけ回した結果、 上祐は、騒動を嫌ったホテルに宿泊を拒否され、横浜のオウム本部に転がり込み、さらにそこで、右翼やが押しかけ騒動となっているわけだ。住民は、当然立ち退き要求する。マスコミは、都合のいい法律屋を呼んで、「『居住の自由』より『公共性』が優先される」なんて語らせつつ、「住民の声は、官民一体となったオウム解散ですよね」と結ぶ。あるコメンテーターにいたっては、「永野会長刺殺事件」のようになりかねない等と発言していたが、これなんて「殺っちゃって下さい」と言っているのと同じでしょ。マスコミが取材対象に直接関係し、事件を作っているのだ。出来の悪い「ゆきゆきて神軍」だな。いやホームビデオかな?


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