戦後初の国産ジェット機「T-1」(初鷹)初飛行から
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全幅 10.5m、全長 12.1m、総重量 4,990kg、発動機 Mk805 推力 1,800kg×1、最大速度 968km/h/6,700m
  

 日本で最初に飛んだジェット機は終戦間際の1945年8月7日海軍木更津基地にあった「橘花」である。我が国の命運が尽きたこの時期、日本の技術者が最後に渾身を込めたこの「橘花」は、戦後の将来にその志の糸を繋げ、航空工業再開への強いモチベーションとなった。

 そうして誕生した戦後国産初のジェット機「T−1」が夢を乗せて初飛行をしたのが、1958年(昭33)1月19日、それは今から丁度半世紀50年前のことである。(2008年記)
 この年は、富士重工業(現 SUBARU Corp.)では国民車としてのスバル360が発売され、皇太子・美智子様のご婚約発表、初めての1万円札発行、そして東京タワーが出来たのもこの年である。

 初飛行の場所は、旧中島飛行機宇都宮製作所(現富士重工業宇都宮製作所)の飛行場(現陸上自衛隊宇都宮駐屯地)で、過去四式戦闘機「疾風」が次々と生産され飛び立っていった飛行場である。

 右の写真は富士重工業の宇都宮工場でロールアウトし、技術者自身の手でエプロンに引き出されるまさに銀翼輝くT-1の1号機(T1F2)である。 なんと晴々しいことだろう! T-1の後ろから2台のラビットスクーターが追尾している!

 

 1952年(昭27)サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は再び大空への挑戦が可能となった。そして「橘花」に関わった技術者たちは、まずは各航空機メーカーの共同出資による「日本ジェットエンジン株式会社」が設立し、エンジン開発がスタートするとともに、各社は機体の研究に取り掛かった。

 1954年(昭29)の春には防衛庁でのジェット練習機の国産計画の機運が高まり、民間の各企業での開発熱も高まっていった。 富士重工業ではそれまで、メンターT34の改造機でFJT-12と呼ぶ機体と、さらに独自設計によるFJT−51という機体の風洞模型を製作し風洞実験などを繰り返していた。

 各社が研究を軌道に乗せ始めていた1955年(昭30)2月、防衛庁は、富士重工・三菱重工・川崎航空機・新明和工業の担当者を呼んで、ジェット中間練習機T−1の構想を提示し、開発に対する協力を要請、試作機の要目表・三面図など3項目に関する資料の提出を各社に求めた。防衛庁では、これらの各社の資料を基礎に、ジェット中間練習機T−1の要求項目をまとめ、同年11月、4社に基本設計計画書の提出を指示した。

防衛庁の要求項目概要
・タンデム複座の中間練習機
・推力1トンから1.2トンのエンジンを装備
・最大速度420ノット(778km/h):制限マッハ0.85
・昇限度4万フィート(12190m)以上
・上昇時間は高度3万フィート(9144m)まで13分以内
・連続航続2時間
・着陸速度・失速速度75ノット(139km/h)
・離陸距離600m以内
・制限加重 +8G

 これに対し、富士重工業が1956年(昭31)3月に出した設計計画書の資料は積み上げると高さ1mに及ぶものでT1F1と呼ばれた。 また、川崎重工はT1K1、新明和はT1S1と呼ばれた。(三菱はF86F戦闘機の国産化に全力を挙げるということで辞退した) 防衛庁は3ヶ月の検討の結果、6月に後退翼を採用したアグレッシブな富士重工業の案を第1位に選定した。 川崎案は当時米国の中古機で運用していたT-33A(ロッキードT-33)の縮小版のようで魅力に乏しく、新明和案は積極的な案ではあったが比較上から、やや未成熟と判断されたようだ。

      
          左が T1F1(富士) 、中央が T1S1(新明和) 、右が T1K1(川崎)
  
     T1F1の提案採用のポイントは、 
      (1)後退翼を採用して遷音速時の安定性と操縦性の両立を図るとともに、
         翼面荷重を小さくして低速時の性能向上を図った事 
      (2)前後の座席に高低差120mmを設け、後部教官の視界を広くする事で
         サイドバイサイドに劣らぬ効果をあげたこと
      (3)エンジン換装を容易にして、エンジン機種により使用範囲の幅が広く、
         戦闘機にも改造できること などであった。

 富士重工は橘花の経験があったが、終戦からの空白は手痛く、風洞などの設備や関係資料も無い中で、遷音速の領域は未知の世界であり、設計製造実験ともに新しい技術への苦しい挑戦であった。 富士重工業では、初代社長である北謙治が「社運を賭して完成させる」と強い決意をもって臨み、中島飛行機の技師であった内藤子生(当時技術部長)を設計主任として、全社の中島以来の有能な技術者を集結させるとともに協力会社も総動員してこの新しい航空界の発展への難題に取り組んだ。 (北社長はT-1の完成を見ることなく、その年の7月に他界し、あとを中島飛行機の技師の一人であった吉田孝雄が2代目社長となって、日本の航空界の偉業を引き継いだ)

 1957年(昭32)11月富士重工業宇都宮製作所で遂にT1F2が完成した。 (試作・生産現場のアルバム

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 なお、エンジンは当初富士重工が大宮(大宮富士工業)で開発した国産初のジェットエンジンJO-1を搭載する方針で進められていたが、エンジンの完成が大きく遅れたために、急遽英国ブリストル社製のジェットエンジンを採用して搭載しT1F2と称することとした。そして試作機6機が完成し、納入されて試験に供し、種々の改修を加えたのち、型式名称を「T-1A」として量産に入り、試作機と合わせ46機が作られた。

 その後1960年(昭35)国産ターボジェットエンジン「J3」が完成し、T1F2の試作機のエンジンを換装し、当初のT1F1が完成した。そして量産型としては「T-1B」として、T-1Aとて区別し、20機が量産された。

 上のJO-1エンジンは富士重工業の大宮製作所で開発されたが量産の見込みが立てられず、その後航空機メーカー共同で設立した日本ジェットエンジン社に引き継がれた。 そして、国産ターボジェットエンジン「J3」が開発され、IHIへ引き継がれて量産された。 右の写真は富士重工業大宮製作所(現在は大型ショッピングセンターステラタウンに変貌)で完成したJO−1エンジンを関係者に披露した時のもの。

 

 そして翌1958年(昭33)1月19日初飛行が行われた。 富士重工業が正式に指名を受けてから、たった18ヶ月という驚異的スピードで完成し初飛行にこぎ付けたのである。

 主翼は低翼配置で25パーセント翼弦、26度46分の後退翼となっており、中島飛行機時代の艦上偵察機「彩雲」などに使用された中島Kシリーズ層流翼型の発達型である。 厚い主翼には十分なタンクスペースが確保されている。新しい後退翼理論を取り入れた水平尾翼は34度15分、垂直尾翼は33度18分の後退角がついており、音速に近づいて衝撃波が発生しても尾翼の効きが残る工夫がなされている。やや前方に出たドーサルフィンを持つ垂直尾翼と上反角を持つ水平尾翼の組み合わせにより、良好なスピンリカバリーをもたらし、独自の特徴的なデザインとなっている。

 空気流入効率と全面抵抗減少を狙ってエアインテイク(空気取り入れ口)は機首にあり極力大きい面積を狙い、かつ軽量化のため胴体を出来るだけ細くしたかめ、装備品の搭載にしわ寄せが来てしまい、また体の大きなパイロットには窮屈な操縦席になってしまった。 しかし吸気効率が良く、抵抗が小さいため加速力と上昇力ではT-33A練習機を上回り、操縦性や離着陸特性も数段勝っていた。
 

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 橘花の初飛行と同様に前日とはうって変わった飛行日和となり、午前11時T1F2はわずか300mの滑走で離陸した。コバルトブルーのキャンンバスに向かって一直線に舞い上がって大空を悠然と旋回し30分の試飛行を終えて無事着陸した。

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 この時、私は12歳の小学生であったが、なんとカッコイイ飛行機かと強く印象を持ったことを覚えているし、今見ても素晴らしいデザインである。その胴体の断面形状は、「橘花」と同じ技術者が手がけた為であろうか両者の形状は極似している。

 そして、更に、なんという運命の悪戯であろうか、このT−1の初飛行のパイロットは、1945年の夏、木更津基地での「橘花」の初飛行のパイロットであった高岡迪氏であったのである。(下左)

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 このT-1は戦後国産初のジェット機であり、また18ヵ月という信じられない短期開発ではあったが、その後の量産でも操縦安定性・性能は各国の最新鋭機と比べて遜色は全く無かったことと、更には抜群の信頼性であり安全飛行の長期記録を打ち立てるにいたっている。

 このことを中島で「彩雲」などを手がけ、このT-1の設計主任を勤め、90歳近くになれれた内藤子生技師(元富士重工業取締役)に1999年夏にお目にかかる機会を得た。 今なお矍鑠としておられ、航空技術の素人である私に「君、飛行機設計の第一は何だと思うか?」との話で始り、「飛行機の設計哲学の何たるか」の多くを伺えた。

 それはパイロットを守るための徹底した安全設計思想であり、例えばある系統が故障しても第二第三の方法で対応可能としておく事であり、具体例としては「脚はたとえ引き込めなくなる故障が起こってもかまわんかが、逆に何があっても絶対に出るように徹底して配慮した(最後の手段は宙返りを行ってGをかけると、その力で車輪が出るように配慮しておいた)」と述べておられた。

 

 T-1は1958年(昭33)から1963年まで量産され計66機が納入された。前述のように優れた操縦性と信頼性が高く評価されたが、米国から旧式化したT−33が大量に導入する羽目になったため、惜しまれつつ66機で終了となった。そして引退までほぼ無事故(10万時間無事故記録達成)で稼動した。

 2006年(平18)T−1の引退記念飛行が3月3日、愛知県小牧市の航空自衛隊小牧基地で行われ、1958年の初飛行以来、約半世紀の長きにわたっての活躍の幕を閉じた

 T-1Aのうち1996年(平8)9月10日用途廃止初号機である25-5841号機は富士重工業宇都宮製作所に展示されている。 最後に残った第5術科学校の3機と飛行開発実験団の1機が小牧基地でラストフライトを行い、全機が退役した。 
 このうち1機は埼玉県の所沢航空発祥記念館に展示されている。 また、群馬県太田市の富士重工業太田矢島工場にも展示(05-5853号機)されている。 飛行開発実験団の機体は岐阜県のかかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されている。
 さらに、埼玉スバルの「さきたまガーデン」に牧基地の第5術科学校にて航空管制官の教育支援機として使われてた35-5870号機(ラストナンバー)が展示されており、気軽に見学ができるのは嬉しい。
<協力:富士重工株式会社(広報部及び航空宇宙カンパニー)現 鰍rUBARU>
カラーの写真 816、825号機の写真は航空自衛隊ホームページから了解を得て掲載しました。
 
 
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