航研機、記録飛行パイロット

藤田雄蔵少佐の手記

2.航研長距離機の特色

 あの航研長距離機は今一番長い距離を飛べる飛行機である。その特長は何であるか。それは浮揚力の割合に非常に抵抗の少い機体であることである。写真で見るように不要物は殆ど取ってしまってある。いわば、丸太に物を付けたような飛行機である。極端に不要物を取り除いた関係上、座席にも工夫が施されている。普通人間が飛行機に乗ると、身体が出て、空気抵抗が多くなるので、航研機では飛行して或る高度まで揚ると人間が中へ入ってしまい、上には蓋をしてしまう。そうすると全く電信柱に羽を付けたようになって、人間の抵抗が全然無くなってしまう。その代り飛んでいる者は何処も見ずに飛ばなくてはいけない。だから実用としては無理のようなこともある。

 長い間飛ぶのには或る重量の油を積むが、その油を有効に使わなくてはならない。自動車でも成るべくガソリンを使わずに距離を伸ばして行こうとするように、1時間 1馬力当りの燃料の使い方なども従来に比して非常に少い。ロシアのアント25型が 1時間 1馬力当りが212gであるが、航研の飛行機は 1時間 1馬力当り190g、ロシアのものに比して相当の開きをもつ、消費率の少い飛行機である。

 燃料も市場から直接に買つて来た燃料ではない。この燃料を作るのには、やはり航空研究所の燃料関係者が研究を行い、日本各地の油田から原油を採り、その原油を分析して色々その性質を調ベ、各油田から採れるガソリンの種類を研究分類しオクタン価の高い、而も蒸溜気化の安定のよい燃料を使う。

 プロペラーも独特の設計のプロペラーを用い、静止推力1,600kg、巡航で80%の効率を持っている優秀なものである。発動機で撚料を食わなくても、プロペラーが悪いと結局効率を損してしまう。航研機は飛んでいると音が非常に静かである。殆どスースーと飛んで居る。プロペラーは廻ると、或る部分は空気の渦をこしらえる。この渦のためプロペラーは働いただけの効率にならないで損になってしまう。渦が音になる。だから要するに音の静かな飛行機は大体に於て効率のよい飛行機(一概にはそう全部言えぬが)というになる。神風の飛んでいるのを見ると、あれも非常に静かで、すぐそこに来るまで飛行機に気づかない。

3.飛行計画成る

 この飛行機を記録的に飛ばせるのには、たゞよい加減に飛ぶことは許されない。重量が重い時には飛行機は何馬力位出して、どの位の速度で飛ぶべきか、また高度はどの位か、具体的に言えば、初めあの飛行機は9トンであるが、7トンになった時には発動機を前通りに廻すと長く飛べない。だからこの時は何百馬力にするか、6トンになったらぱ発動機は何馬力位、速度はどの位にするか等々、その都度々々飛行機の速度、高度、発動機の使い方を変化して行かねばならない。飛行機が軽くなってしまうと殆ど発動機は使わなくてもよい。グライダーに補助機関を付けた位で飛ぶから、その時に思い切って距離がのびて行く。これを初めからお終いまで同じ調子で発動機を廻したら、あの8割位しか飛べないだろうと思う。これは航研機の設計で性能計算をした木村技師がすっかり飛行計画を作り、初めの一時間の時はこういう具合に飛ぶ、2時間目はこういう具合に飛ぶという計画をたて、私はその通り飛んだだけである。

所沢航空発祥記念館に展示されている木村先生

 初め周回飛行をやるということは温室の中で仕事をしているような非常に易しいことだと思つたが、段々考えて見ると、天気が3日も4日もよいコンディションで続くということはなかなか考えられない。我々は平常多く天候には無関心に生活している。併しこれを統計的に調べて見ると、3日続く天気というものはざらにあるものではない。然からば何時飛んだらよいか。何月頃がよいか。而もそういう月に何回位好い天気があるか。この点を研究する。このためには10ケ年位の毎日の天気図を集め、その天気図を毎日々々見る。すると関東平野で、大体に於て晴それから若干の曇、この程度の天気が3日続く日が最近10ケ年に5月に於て15回あつた。その外11月、12月もやはりその位であって、結局5月頃がよいということになる。それならどういう天気図になったら、そういう天気になるか。それもその天気図を丹念に調査すると出て来る。天気図を毎日見ながら、明後日あたりからそういうよい天気になるのではないか、こういう積りで段々準備をする訳である。こういうことは、なかなか難かしいものと見え、前の周回記録の保持者であるフランスのボストロという人は、フランスでレコードを作らないで、その飛行機をアフリカへ持って行って、アフリカで作って居る。日本では丁度関東平野というよい平野があり、また離陸に必要な長い立派な飛行場としては、木更津飛行場があったので、非常に恵まれていたので、別に何処へも行かないで、お膝元の木更津の滑走路で飛ぶことか出来たのである。

 イタリアでずっと前にフェラリンが大西洋を逆に廻つて、南米へ飛んで行った時には、特別の滑走路まで作っている。それから例の1937年に直線距離の世界記録を作ったソヴィエットのグロモフが、アメリカヘ飛んで行った時も、斜坂のついた特別の滑走路を作っている。丁度日本ではそれに類するものがあったので、別に何も施設しないで出来た。本当から言うと、ああいう飛行をするには飛行場から作らなけれぱいけない程面倒なものである。

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