294. 川崎 九八式軽爆撃機(キ-32)[日本-陸軍]
     KAWASAKl TYPE98 LIGHT BOMBER(Ki-32) [JAPAN-ARMY]

 
 全幅:15.0m、全長:11.64m、翼面積:34.0u、総重量:3,762kg、
発動機:川崎ハ-9-ll 乙液冷∨型12気筒775馬力/4,500m、
金属3翅プロペラ、最大速度:423km/hr/3,940m、
武装:7.7mm機銃(固・旋)各1、爆弾:450kg、乗員:2
初飛行 1937年
                   
                                                Illustrated by KOIKE, Shigeo , イラスト:小池繁夫氏   2008年カレンダー掲載 

 画は、中国大陸の上空を飛ぶ、滋賀県八日市にあった飛行第3連隊の所属機である。飛行第3連隊は、1937年7月7日、日華事変が勃発すると直ちに、北京・天津地区に出征した。そのときの使用機は時速240kmという、機首に大きなラジ工一夕をぶら下げた複葉・羽布張りの、時代モノの八八式軽爆撃機(1928年制式)だった。日進月歩していた航空技術の10年の落差は大きかった。この“スマートな新鋭九八式軽爆撃機(キ-32)”が到着したときには、初めて我が家にテレビが来たときのように昂奮した、と当時の部隊関係者は語っていた。

 昭和11年(1936)、陸軍は三菱、川崎両社に対し、九三式単軽爆撃機(キ-3)に代わるべき単発・複座・低翼単葉の新軽爆の試作指示を出した。 三菱は手堅く中島の空冷星形ハ-5発動機を採用し、陸軍最初の単葉軽爆撃機九七式(キ-30)として、昭和12年にひと足先に制式化された。
 一方川崎は水冷V12気筒発動機を採用した意欲的な設計で、三菱に1ヶ月遅れの昭和12年3月に試作1号機を完成させた。その審査は進む中で日華事変が勃発し、軍は早々に増加試作の命令を出し、川崎は翌年5機を製作して納入したが、動力関係の不調が目立ち、再三の改修作業に追われ、三菱より1年余りの遅れをとって、九八式軽爆撃機(キ-32)として制式採用となった。
 このキ-32の設計主任は、戦後に大学教授になられた井町勇技師だった。井町さんの専門分野は構造の強度解析だが、エンジンの冷却液を水から沸点の高いエチレンクリコールに変えて、冷却器を小型化し、機首から胴体下面の爆弾倉につながるスマートな形状を創り出すなど、空力的な洗練にも細かい配慮をして、キ-32を同世代の外国機:フェアリー・バトル、ノースロップA-17、ハインケルHe70 と比べて、外観も、性能も、見劣りしない軽爆撃機につくりあげた。
 
 だが、九八軽爆は、これらの軽爆撃機と同じように、名声を後世に残せなかった。既に戦場の様相が変わっていたのだ。 陸軍の当局者が、この近代的な軽爆撃機を企画したときに、1939年に発生するノモンハン事件で会敵することになる、旧ソ連の戦車群や火力、跳梁する戦闘機などの脅成についての懸念が言及されていれば、この九八軽爆は、ドイツの急降下爆撃機ユンカースJu−87や、やや遅れて登場した(本年1〜2月に掲載)旧ソ連の対戦車攻撃機イリューシン ll-2M Stormovik に匹敵する軍用機として生まれていたに違いない。 

 航空技術だけで傑作機が生まれる時代は終わっていたのだ。 だが、九八軽爆には、それ以前に解決されるべき難点があった。 三菱のキ-30より、速度・上昇力などの飛行性のは優れていたが、なにせ搭載したBMW水冷エンジンを国産化した川崎の発動機の信頼性不足は運用整備側の評判をすこぶる落としたのである。 出力向上の限界にあったのか、ときにはクランクシャフトの折損という重大事故まで発生していた。 増加試作の審査で一旦不合格となったのもそのためだが、エンジンの信頼性が十分に改善されないまま、840機も量産され、戦場に送られた。太平洋戦争が始まると、緒戦の香港島とシンガポールの作戦のあと、九八式軽爆撃機は、戦場から静かに消えていった。

[HOME/WhatsNew/NAKAJIMA/KOUKEN/MUSEUM/QESTIONNAIRE]