- ナチス・ドイツの戦車群に対抗するために、旧ソ連が創り出した新しいカテゴリーの軍用機で、重防御の対戦車襲撃機である。戦車の前面は厚い装甲板で覆われているから、それを撃ち抜くには強力な対戦車砲が必要だ。ところが背面にはほとんど防御が無かったから、後上方から襲撃すれば飛行機の機関砲で容易に貫通できるという発想から生まれた。
- しかし戦車に肉薄するときの低空飛行では、歩兵の小銃などを含めて、あらゆる兵器が対空砲火になる。 対策として設計者セルゲイ・イリューシンが考えたのが、厚さ4〜5mmのニッケル・モリブデン銅板を成形・溶接して、前部胴体の外殻をつくり、そのなかにパイロットとエンジン、燃料タンク、そしてラジエーターも置いてしまうという構造だった。
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- この洋式浴槽のような胴体は小口径の機関銃弾はもちろん20mm機関砲弾も斜めからの射撃なら貫通できなかった。被弾に弱い冷却器はエンジンとパイロット間に置き、冷却空気の取り入れ口もエンジン上部に設け、ダクトで下方に導くという徹底した避弾設計になっている。
- もちろん風防も防弾ガラス。パイロットの背中にも防弾鋼板がある。
原型機TskB-55は1939年12月30日に初飛行したが、なにしろ防弾関係の重量が約700kgに達していたから、わが国の艦上攻撃機「天山」が魚雷を積んだ状態より重い飛行機になってしまった。もちろん、当初予定したエンジンではパワー不足だった。
- エンジンを低空飛行専用にした大出力のAM−38に変え、大幅に設計を変更したll-2の試作機:TsKB-57が完成したのが1940年10月12日、空軍の飛行審査終了が1941年3月20日となった。ドイツ軍が侵攻を開始した6月22日に時点では、ともかくも2航空隊の編成が終えていた。
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- その初期型は、軍部の意見で単座型として造られていたが、そのため後方からの戦闘機の要撃に弱かった。この大きな被害にスタールも設計者の提案を認め、後席が追加された。
- それがこの画の ll-2M だ。 重量・重心の変化に対応するため、外翼の取付部を斜めにして後退角をつけ、エンジンも出力を上げたものに換装してある。 翌年の1942年7月のスターリングラードの攻防戦の頃から戦列に加わった。
- 若干の出現時期の差があるが、日本の川崎九八式軽爆撃機と低翼単葉複座ということで形状仕様が良く似ている。しかし戦場の違いによる用兵思想が異なり飛行機の設計が大きく変わることが見えてくる。
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- ここに紹介した小池さんの画はスターリングラードの雪原に太陽が煌めくように書かれているが、私にはその時代の暗いイメージで洗脳されていて、正直違和感を覚えてしまう。
- (レニングラードは州の名称、ロシアの国名に復活して、その州都はサンクトペテルブルグに改名されている)
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