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第十三 どのようにして食べるか〜身近な問題としての食



**この項の目次**


一 ハレの食、ケの食

民俗文化の分野では「ケ」と「ハレ」を対比して使うことがある。「ハレ」とは行事や等の非日常の時間、空間及びそこで行われる人々の行動をいう。「晴れ着」の「晴れ」である。他方、「ケ」とは日常の生活のことである。食事についても「ハレ」の時には日常食べられないようなもの(手間のかかるもの、ぜいたくなもの)を食べてはいたが、日常の食事は近年に至るまで質素なものであった。

しかし近年の日常の食事についていえば、戦後の高度経済成長を経て、それ以前に比べてはるかに立派なものになった。そこには刺身や肉料理等かつては「ハレ」の食事でしか食べられなかったような豪華な料理が並んでいる。人々が今ほど十分な、そして多彩な食事をとることができたのは、かってなかったことである。私たちは、それまでの祝い事等の「ハレ」の時にしか食べられなかったようなレベルの食事を、日常の「ケ」の食事として食べている。そして「フランス料理」だ「エスニック」だと、とどまるところを知らないグルメぶりである。

これは、日本の経済成長の中で人々の所得水準が飛躍的に向上したことによるものである。それまでは主に家計の制約から食事の水準が規制されてきた。お金さえあればもっと良いものを食べたいという欲求は常にあったのである。従って、所得水準が向上すれば質素な食ではなく、経済力相応に(あるいはそれを超えて)豊かな食生活を望むのはある意味では自然なことである。

現実に所得が向上し、食費にも多くの経費を支出することができるようになった。それまでは時折しか食べられず、従って食べたいという欲求が常にある「ハレ」の食を、経済的にはいつでも食べられるようになった。そして、人々の日常の食は「ハレ」化していった。日常の食が従来の「ハレ」の食の段階に達したことで、時折本来の「ハレ」の食として一層の高いレベルの食事を楽しみたいという願いが近年のグルメブームと称するものとなった。

加えて特に第二次世界大戦後、欧米文化がどっと日本に流れ込んだ。食文化についても肉を食べることが普遍化したのは戦後のことといってよいだろう。それまでも、洋食やすき焼き等として肉は食べられていたであろうが、それは庶民にとっては年に一度有るか無しかといったところであった。戦後の肉食の普及はそれまでの肉食の形態が日常化した。加えて、ハンバーグやハム、ソーセージの類、更にハンバーガーやフライドチキン、ピザ等食肉加工品やそれを含む食品が一般化した。乳製品についても同様である。

魚についても、鮪等の高級魚は日常の食卓に上るものではなかった。しかしスーパーマーケットや魚屋に行けば常に鮪の刺身は置いてある。今では毎日食べるものではないにせよ、鮪は庶民の身近にある魚となった。

これは内容的にはかなり異なるものの、昔の「ハレ」の食以上の「ハレ」であろう。

味覚には「慣れ」というものがある。同じようなものを食べているとその味に慣れてきて、次第に美味しさを感じなくなってしまう。「ケ」の食事はその時々で得られる食材を利用した料理(惣菜)で構成される。全くの単一のものではなく、数日単位の繰り返しというパターンが一般的であっただろうが、それにしても飽きがくるのはやむを得ないことである。「ハレ」の食は日常の「ケ」の食にアクセントを与えるという役割もあったのではなかろうか。しかし現代は日常の食事が「ハレ」化してしまっている。現代は、このように「ハレ」化した食事に慣れてしまい、感動を覚えることは無くなってしまったのであろう。常に「美味しい」ものに舌が慣れていれば更に美味しいものでなければ満足しなくなる。際限無く美味しいものを求め、一方では逆に日常食べているものになにかしら不満足を覚えることになる。

日常の食事がこのように「ハレ」化したことについては、単にこのような問題だけではない。私たちの体は日常的に「ハレ」の食事をとることには慣れていない。かつての粗末な食事段階からある程度栄養的にも満足しうる段階までは、食生活の向上はよいことであった。しかし今のような「ハレ」化し過ぎた食事は高蛋白、高脂肪のものが多い。むしろ美食の弊害が肥満や糖尿病・高脂血症等の成人病としてあらわれている。

また、このような「ハレ」化した食事を支えるために我が国の畜産や漁業が発展したのであるが、畜産においては効率的な生産を追求するあまり、大規模化が進み、家畜糞尿の有効利用が進まない等という問題が発生してきている。また漁業においても、例えば鮪について見ても、日本人がこのように鮪を食べるようになったことが、地球レベルでの鮪資源に影響を及ぼす程になってしまったのである。また一方でこのような「ハレ」化した食事、あるいはその原料たる食料品を安く提供するがために、日本は世界から農産物、水産物を買い漁っている状況にある。

また、日常の食が「ハレ」化したことは、主食である米についても大きな問題を投げかけた。即ち日本国民の多くが「コシヒカリ」をはじめとする特定の銘柄米を買い求めるようになったのである。その背景の一つには所得水準が上がり、相対的に米の価格が低くなり、より値段の高い米もそれほど高いと思わずに買えてしまうことがある。米が従来の主食の位置づけから、「ごちそう」の一つとなりつつあることを感じざるをえない。確かにコシヒカリはおいしい(個人的にはササニシキの方が淡泊な美味さという点で好きではあるが)。しかし、米の「ごちそう」化は実際の味の差以上に米の「ブランド」間格差を拡大してしまっている。このことは高食味米生産地帯ではそのことに「あぐら」をかいてしまい、一層の技術向上の芽を摘んでしまう危険性なしとしない。一方で価格が安いとされた生産地帯では米離れ、そして離農に結びつく危険性がある。

また、日本人の多くが目先の美味しさにのみ目が行き、食の本質やその重要性等を認識することが無くなってきているのではないだろうか。

いろいろな点で日常の食事が今のように「ハレ」化することは問題がある。毎日の食事は「ケ」であって、「ハレ」である必要はないのではないかと思われる。毎日の食事は「ケ」のレベルでおいしければよいと思う。昔の「ケ」の食事に戻れとは言わない。昔の「ケ」の食事には栄養的にも問題なしとはしない。昔の「ケ」からすれば、多少「ハレ」的な要素を持ってはいるものの、基本的には「ケ」の食事であるというところがちょうど良いのでは無かろうか。毎日、毎食豪華な食事である必要はない。一汁二〜三菜のきちんとした食事が基本ではなかろうか。

普通の食事に慣れてしまえば、いわゆるごちそうでなくとも美味しく感ずるのではなかろうか。「ケ」の食を日常のものとし、その中で何を食べても美味しく感ずることは幸せであると思う。

そして主食たるご飯を別格とすれば、「ケ」の食事の中核をなすべきものがいわゆる惣菜である。しかし伝統的な惣菜は家庭内では以前のようには作られなくなってしまった。共働き等により家庭で時間をかけて料理を作ることが少なくなったことや、「ハレ」の食卓に並ぶ料理に比べてイメージ的に歩が悪いこともある。しかしこれらは野菜や海草等を主材料としており、食物繊維やミネラル等、いわゆる食の高度化によりむしろ欠乏しがちな成分に富んでいる。肉や魚を使ったものであっても、これと併せて野菜等がたっぷりつかわれており、バランスのとれた栄養摂取を図ることができる。これら惣菜を「おふくろの味」として居酒屋のような所で珍重し、あるいは出来合いのものを買ってくるのではなく、家庭で作り家族一緒に味わいたいものである。

私自身としては米にしても日常は普通の米を食べ、「美味しいお米」は時折賞味するものとしておきたいと思っている。それは私の信条でもあるし、長期的に見れば多分農業全体にとっても好ましいと思っている。


二 美味しいと思って食べる

日本では古くは中国から、そして近世以降は欧米といった外国の文化を取り入れてきた歴史があり、外国文化を比較的容易に取り入れるという文化的な土壌がある。一方でそれらの導入した文明を日本流にアレンジして定着させるという特徴をも有している。食文化においても全く同様である。古くは中国の精進料理をベースとした卓袱料理というものもあるが、私たちになじみのあるものとしては、洋食、カレーライス、ラーメン等外国から入ってきたものが次第に日本独自のものとなったり、あるいは外国料理の手法を参考にして日本で作り上げられたものもある。近年では若い人たちの間では「イタメシ」やエスニック料理等がもてはやされている。また、かつての「ナタデココ」のように、極めて短期間の流行で終わってしまったものもある。

このような食の無軌道なまでの多様化は他の国々には見られない。ほとんどの国では多くの人は自らの食文化の範囲内で食事をとっている。

日本人の食事というものは、前項「ハレの食、ケの食」でも触れたように、欧米から伝わった食べ物を中心に多彩になり、限りなく「ハレ」化し、外食化した。その一方で(あるいは「それ故に」というべきであろうか)日本人の食文化の核が失われつつあるように感じられる。

日本におけるこのような食文化の「拡散」は、豊かさを背景とし、その中で変化を求めた末に至ったものではあろうが、これとともに経済的発展による所得水準の向上やその中で共働きにより家事に振り向けられる時間的余裕が少なくなったことがあげられる。しかしこれらにとともに(逆説的にではあるが)日本人が「美味しいと思って食べる」ことができなくなってきていることが大きな要素であると思われる。「美味しさ」が食べ物そのものの美味しさと食べる人の美味しいと感じる感受性の掛け算であるとすれば、感受性が乏しくなった分だけ食べ物の側に美味しさを求めるようになったと言えるのではなかろうか。

しかし美味しさは前述のような単なる掛け算ではないだろう。感受性が乏しければ、いくら美味しい料理を食べてもそこには感動は乏しいものでしかない。今、私たちが心すべきは「美味しい」と感じる感受性を養うことではなかろうか。それは美食をせよということではない。食べ物を味わって食べる、即ち食べ物の味を味覚、嗅覚等の五感と、それを受け止める心とでしっかり確認しながら食べるということが、その出発点になるのではなかろうか。更には余程調理に失敗したものとか、極端に違う食文化の食べ物で、最初はなかなか受け付けられないようなもの等を除けば、どのような食べ物にもそのレベルの違いはあっても美味しさを感じ取ることはできる。その美味しさを味わうようにするのである。子供を育てるに際して、叱る以上に誉めることが重要だと言われている。料理に対しても同じでは無かろうか。美点(美味しさ)を見いだそうとしながら食べれば、より美点(美味しさ)が強く感じられるようになるものである。

三 見栄としての食事

「食」の問題が単に栄養や個人や民族の嗜好、個々の食品そしてそれを生産するバックグラウンドとしての農業だけからは論じ得ない部分も少なくない。食事は時としてその食事を摂る人のステイタスシンボルにもなりうる。世界的には、何を食べているかはその人の身分、地位、財力、職業、宗教、性別等によって異なる場合が少なくない。ここでは特に食と身分や地位、財力の関係について触れてみたい。

人は一人だけで生きているわけではない。多くの人間による社会の中に生きている。人は常に他人に見られているのである。その中で、身分や地位が高かったり、財力がある人は自らの身分、地位、財力を不特定多数の人に、あるいは特定の人に誇示したがるところがある。その方法として最も一般的なのは衣食住を身分・地位・財力に相応あるいはそれ相応以上のレベルのものとし、それにより自らを飾ことである。衣服や住宅、そして食事は本来のその役割とともに、その主体たる人の趣味、性格、考え方を人に伝えるという機能がある。身分、地位、財力のある人はこの機能を最大限に活用し、その人を他に誇示するのである。あるいはそこには当人の自己満足のためという要素も含まれている。

高級料亭、高級レストランで供される料理は一般的なファミリーレストランや居酒屋での料理とは格段に違うものがある。しかし、お金のある人がそこで食事をするのは、単にそこの美味しい料理を食べるというだけではない。確かにそこでは格段に美味しい料理を食べることができ、それがその店に行く意識された動機、目的ではあろうが、その人の心の内面を覗けば多分、「高級料亭、有名なレストランで食事をした」ということ自体が一つの目的なのである。第三者を同席させたり、あるいは後に第三者にそのことを話すことはその人に対して「自分はそのような店に行くことができる。そのような店に行くことができる程の財力がある。」ということを誇ることである。あるいはそのことによる「かっこ良さ」を示そうとしたり、あるいは次項でも触れるが、自分はこれ程にグルメであるということを「ひけらかす」ということではなかろうか。

結婚式をはじめとする公的、私的な祝いの場では宴席が設けられ、食事が振る舞われる。あるいは知人、友人等を招待して宴席を設けることがある。宴席を豪華にする大きな要素の一つ(あるいは最大の要素と言っても良い)も同様に、そのことにより自らのステイタス、財力を誇ることなのではなかろうか。

四 グルメ番組と食通

テレビのグルメ番組では、美味いとされるレストラン等で食事をし、そこの料理を紹介する。あるいは有能なシェフが料理を作り、テレビタレントや食通とされる人達がこれを食べ、批評する。

このようなグルメ番組では、ありきたりの料理は出されない。その店あるいは調理人の個性を発揮したものといえば聞こえはよいが、どちらかといえば一寸変わったもの、材料の使い方等常識では考えられないものがほとんどであって、世間一般の人が「自分も作ってみよう」とするのに参考になるものは極めて少ない。このように私達の生活実感から乖離した印章がある。これがグルメ番組の限界ではあろうが、美味しいものを食べたいという願望を持った人に対して一種の夢を与えるというのが、このようなグルメ番組のねらいであるのだろう。

料理を食べて批評するテレビタレントは「美味しいですね」等々の通り一遍のことを言うに過ぎない。そこからは美味しさそのものは伝わってこない。「通」と称される人はさすがに表現は多彩であるが、それにしても画面と声だけでは味の本質は伝えきれない。

このような番組に出たり、どこどこの料理は美味い等々について執筆するグ食通あるいは一種の評論家のような人達がいる。グルメということになればこのようなテレビや雑誌等で人々に名を知られている人から、地域や職場でちょっと「味にうるさい」人まで、多種多様である。彼らはそのレベルはそれぞれ異なるものの、美味しいとされるレストラン、料理屋を食べ歩き、それらの店や出される料理について解説し、あるいはそれに基づき著作したりする。彼らが行のは多くの場合、前項で「見栄としての食事」の対象となる店でもある。

一方で「ラーメン通(つう)」や「b級グルメ通」という人もいないではないが、彼らにしても真にラーメンや丼もの、サラリーマン等がよく行く店の定食、お好み焼き等が最も美味いものであるとは思っていないであろう。彼らにしてもこれまで述べたようなグルメや食通の対局にあるのではなく、単にグルメの対象が異なるに過ぎないのではなかろうか。一方で時に「b級グルメ通」の人達が「a級グルメ」に対するやっかみ、劣等意識というものを持っているのではないかと感じることもある。

また、特にマスコミに搭乗する食通の中でものトップランクの人達は取材ということもあり、日に二度三度と美食を食す。これにより体をこわす人も少なくないであろう。体を養うための食事が体を損なうということは、そこに仕事とはいえ食のあるべき姿に逆らうものを感じざるを得ない。

また、食通と称する多くの人達の本心は本当に美味いものを求める、あるいは美味いものを人々に知ってもらうことが食文化の向上に役立つのだ…というよりも、「自分はこれほど美味いものを知っているのだ」という「知ったかぶり」をすることにあるのではないかと思われることも多々ある。

思うに日本における料理番組やこれに出演する美食家、食通といわれる人達が日本の食文化に良い影響を与えるかといえば、それは幻想であろう。彼らは底の浅い、一種のバブルともいうべき現状の日本の食文化の一面に取り付いているに過ぎない。

五 舌は三代

現在見られるように、日常の食が豊かになってきたことが、真の美食、いわば食文化のハイレベルな部分の拡大・向上につながったかといえば、全くそうではないのである。むしろ一般庶民の食生活が今よりも貧しかった時代にこそ、その対局としての非日常的な「美食」が存在しえたといえよう。「グルメ」、「食通」とおぼしき人がグルメ本を出版し、あるいはテレビ番組に出演したりしているが、あの北大路魯山人から比べればレベルが違うことを感じざるをえない(当方としても北大路魯山人は、「魯山人の料理王国(文化出版局)」により知っているだけではあるが)。

これまで食の「ハレ」化の問題点、そして「ケの食」、即ち日常的な家庭での食事が重要であることについて述べてきた。とはいっても私自身、ラーメンやカレーも大好物である。かつて仕事をしたことのある札幌の美味いラーメン店(札幌の市街地ではなく郊外にある)の味も忘れられない。しかしこれとても毎日の食事の全部に替わり得るものではない。時折食するから旨いのである。 最近は若者のみならず、中高年の人でもきちんとした食事をとっていない人がけっこういる。昼食が蕎麦だけの人もいる。パンと牛乳だけの人もいる。これらも時折だったらよいのだが、ほとんど毎日である。栄養の面からも危惧の念を覚えるし、増してや次世代への食文化の継承を考えた時には、そら恐ろしくなる。

「舌は三代」という言葉がある。成金で金持ちになった人が、高級な料理を食べてもそれを真に味わうことはできない。人の舌、即ち料理の味わいに対する感受性は幼い頃から何を食べたかに大きく左右される。高級とされる料理を味わうためには子供の頃から舌がそのようなレベルの味に慣らされていることが必要である。また親がどのようなものを食べるかも子供の好みに大きく影響する。結局「舌が肥える」には三世代はかかると言うことである。

私がここで言いたいのは金持ちが食べる高級料理のことではない。普通の庶民の舌についても同じように「舌は三代」ということが言えるということである。昔は三代どころか数十世代にわたって基本的には同じものを食べてきた。もちろん家には浮沈はあり、それに伴う食生活も普遍ではない。それにしても親から子へ、そして孫へと味が伝えられると共に、その味を味わう感受性も伝えられてきたのである。

料理方法や味付けは固定的なものではない。教わったものを、作る人や食べる人の好みで徐々に帰られていくものである。これが家ごとの味付けや一寸した材料の使い方や調理方法の違いとなり、更に月日が経過すれば地域の特徴にもなってくる。しかしその前提として料理方法が親から子へと伝わるということが重要である。

第二次世界大戦の後、近年に至るまで人々は日々の生活に追いまくられてきた。生活にゆとりが無かったといえよう。一方で日本全体の経済成長に伴い、次第にお金の面では豊かになってきた。その中で「夫婦共稼ぎ」があたりまえのようになり、家でじっくり時間をかけた料理をすることが少なくなった。核家族化でおじいちゃん、おばあちゃん世代と一緒に過ごすことも無く、地域や家々で特徴のある手作りの料理が伝承されなくなってきてしまった。更には伝統食とされるものの多くは地場の野菜を主としたものが多く、肉食が一般化し飽食の時代になると、特に若い人の間ではこのような伝統食は好まれなくなる。若い人も年を経れば中年、老年世代となる。年をとれば「脂っこいものはもたれる。あっさりしたものが良い。」となるが、伝統食とは既に断絶があり、地域や家庭に固有の伝統食が復活されることはない。いわゆる「おふくろの味」としてパターン化されたものだけが主に居酒屋等の外食産業でもてはやされることになる。家庭内においても改めて料理の本等によってその作り方が伝えられる。そうなれば地域や家庭で固有の料理や味付けではなく、全国どこでも同じような料理、似たような味付けということになってしまう。

このような味覚の面での世代の断絶は若者を味音痴にさせる。既に中年から老年の始めにかかっているような人達は、前世代から伝統的な食文化、食に対する感受性について、十分に伝承されていない。ましてや更に若い世代は高度経済成長〜バブル期にかけての洋風化された、より適切に言うならばそれ以前の伝統から断絶した食文化しか知らないのである。

食文化を含め、文化というものは壊れるとなると早いが、それを再構築するには時間がかかる。「舌は三代」である。残された伝統を守りつつ、また洋風化された部分もうまく取り入れつつ、また地域それぞれの特色を活かしながら新たな日本の食文化を作って行かなければならない。それが定着するには三世代程ではないにせよ相当な時間がかかるのではなかろうか。

六 旬のものを、近くのものを

既に「第五 畑作物について」の「二 旬がなくなった」に旬のものを食べる意義と、その反面で野菜類の多くに旬がなくなってきたことを述べた。「はしり」のものを珍重し、あるいは本来の季節以外にもそれを食べたいとする人々の気持ち。そしてそれに応えようとする「流通」と流通の求めに応じざるを得ない「生産」。これらが野菜や果物から「旬」というものをなくしてしまった。またこのことが多くの石油資源を消費しているという問題も指摘した。

ここではこれに加えて本来あったはずの「食文化」がゆがめられていることを指摘したい。「はしり」のものを食べたいとするのも食文化の一部には違いない。しかし、その時期にとれるものを使いこなすというものもそれ以上に重要な食文化ではなかろうか。季節の野菜、果物等には多くのものがあるが、それらのうちいくつかをあげれば、春には多くの菜類、芹、三つ葉等々。夏にはキュウリ、ナス、西瓜、桃等みずみずしいものが多い。秋はカボチャ、里芋、栗等々。そして日本における食糧としては最も重要な米が収穫される時期である。晩秋には貯蔵しておいて冬季に食べる白菜や大根が収穫される。

海のものでも、各種の魚はそれぞれの捕れ時がある。

ほとんどのものは旬の時期のものが最もおいしく、またもっともコストがかからず、そして生産もしやすい。生産に必要な石油エネルギーも比較的少なくてすむ。

また、これは科学的に解明されたものではないが、東洋医学においては、食べ物には例えば体を暖める、あるいは冷やす等といった機能があるとされている。夏野菜の多くは体を冷やすとされ、また秋冬野菜は体をあたためるものが多い。やはり季節のものを食べるのが体にも最も良いのではなかろうか。

キュウリやナス、トマト、ピーマン等の夏野菜、あるいは桃等の夏に収穫される果物は夏に食べよう。白菜は寒い時期に鍋料理等の暖かい料理として食べ、ミカンも寒い時期の食後の団らんの時に食べるのが良い。

また、できるだけ近くでとれたものを食べるようにしたい。昔は「三里四方でとれたものを食べる」等とも言われ、近くでとれたものを食べるのは当たり前のことであった。しかし今では野菜の多くは「産地化」され、そこで生産されたものが全国に送られる。地元のものを食べるということはほとんど考慮されない。このため以前は地元独自の野菜とそれをうまく使った料理が数多くあったが、今ではそれらの多くが作られなくなってきている。

一方で適地適作ということもあり、例えばミカンは静岡県から九州にかけての温暖地でした実用的な栽培はできず、時期によってはこの地域はミカンだらけということにもなってしまう。こうなれば全部が全部地場消費というわけにもいかないのも事実である。また消費する側からしても、すべて地場のものを食べよというのも、時に偏った食を押しつけることになる可能性もある。このため地元以外のものを食べるなとはいえないが、できれば次第々々に食べ物の中心となるものは地元でとれるものとし、遠いところで生産されたものはその距離に従いウェイトを少なくしていくように心がけるようにしたいものである。


七 私たちの食が農に通じている

現代の日本は一方で美食に傾きながら、他方で食べ物を粗末にする社会でもある。まだ食べられるものを平気で食べ残し、捨てる。食を大事に思う気持ちが薄くなっている。思うに食だけではない。飽衣、飽食、すべてにわたって物があふれている世の中である。さほど大事にしなくても、金さえ出せばもっと良いものが買える。金もたっぷりある。このような中で「物を大事に」といったところで、多くの人の理解するところとはならない。

しかし、食は体を養うものである。また、数千年にわたって積み上げられてきた文化を食べているのでもある。体を養うとは、単に栄養を摂取するという以前に、自然の恵みを有り難くいただくということである。動植物の生命を奪い、その生命のエネルギーを身につけることでもある。また、農の営みの成果が食物として私たちの身となり力となる瞬間でもある。「食」の重要性を改めて認識することが、いかに「農」が大事であるか、ということを会得することにもつながるように思われる。


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