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第五 畑作物について


**この項の目次**


一 みかけか味か

前章では日本における食糧の根幹をなす米について論じたが、ここでは米以外の食糧農産物及び畜産物に触れてみたい。米は日本における食一般の中心をなすものであるが、食事に彩りを添えるとともに、米だけでは不足する栄養を供給するのが、多くの種類の野菜・果物であり、いも類等の食用作物であり、畜産物・海産物である。

これらのうち海産物や自生するものを採取するしかないもの以外は人手をかけて栽培しなければならない(もっともはまちや鰻の養殖はいまや一般的なものとなっており、また山菜類の栽培等も多くなってきたが)。人手が加わるということは、より価格が高くしかも多く売れ、結果として多くの利益を得られるようになることが求められる。ここで問題となるのは消費者あるいは流通に携わる者にとって、農産物等の食品あるいはその素材となるもののどのような特質をもって良しとするかである。今日においては美味しさ、栄養、安全(有害物質や有害微生物のないこと)、加工・調理しやすさ等食品・食材の本来的、本質的価値以上に見た目の良さ、整一性が求められることになる。

現代のように都市化が進展する以前は、多くの人々は農業を営み、あるいはたとえ自らは直接農業に携わらなくとも近い親戚に農家がいたり、近くに田や畑があったりして農業を身近に感じていた。農作物がどのように生産されるかがわかっていた。農家がリヤカー等で直接野菜等を売り歩き、あるいは町の一角で定期的に行われる「市」で農家が直接売っているのを買っていた。このようなことから野菜そのものや農家というものが極めて身近な存在だった。農家とのやりとりの中で、どのようなものが良くてどのようなものが選択すべきでないかを知らず知らずのうちに身につけていた。しかし今日においては人々の多くが都会に住み、農業も大規模化してしまった。消費者が手にする農産物の多くが農協、青果市場、卸そしてスーパーや八百屋といったように多段階の流通ルートを経てきている。消費者は生産の現場を全く知らず、農家の声を聞くこともない。野菜としてのほうれんそうやきゅうりを陳列棚から取ってくるだけである。どのようなものが新鮮でおいしいかがわからなくなっている。流通は流通の都合で生産者に要求することになる。曲ったきゅうりは箱詰めが難しく、大規模・長距離の流通に適さないということもあろう。流通に関わる人達は取り扱いやすく、そして売れて儲かることが優先する。そして消費者は八百屋やスーパーで手にするきゅうりが真っ直ぐなものばかりであれば、それは人手をかけずとも自然に真っ直ぐになるものと思い込み、曲がったきゅうりは欠陥品としてしか見ないことになる。真っ直ぐなきゅうりが消費者に好まれ、より高く売れるとなれば生産地に対しては「まっすぐなきゅうりしか買わない」ということになる。生産者としては売れなければならないから、手間をかけて真っ直ぐなきゅうりを作ることになる。また瓜類の多くは果皮に白い粉をふくものが多く、きゅうりも例外ではない。しかし、多くの消費者により農薬がかかっているものと勘違いされ、粉を全くふかない、そのかわりに味は悪いブルームレスの品種が開発されることになる。野菜や果物の品種改良や栽培技術も本来の風味を求めるのでなく、見かけがよくて味も画一的な「甘さ」を求めるということになる。

多くの消費者の(こう言っては何だが)無知と農産物の生産と流通に携わる者の利を追い求める欲望により、農産物はその本質である「中身」が空疎になり、同時に外見については農産物の本質とはかけはなれた均質化、見栄えの良さを追及するということになる。


二 旬がなくなった

地球の上のほとんどの所は季節による気候の変化がある。このような条件の下で生きている動植物の活動も季節の影響を受ける。一年生の植物では毎年ほぼ決まった時期に発芽し、生育し、そしてこれもまたほぼ一定の時期に結実して枯死する。永年性の植物(木本植物や永年性の草本植物)でも、気候条件が厳しい時期には生育を停滞させたり、更には次の活動期のための必要最小限の部分を残して生育期には活発に活動している部分を枯死させて、気候の厳しい時期を乗り切る。日本のほとんどの地域では植物にとって最も厳しい季節は寒冷な冬である。乾季と雨季の区分がある地域では乾季がそれにあたる。

厳しい時期を乗り越えた植物は、成長に適した環境条件(温度、降雨)になると成長を始め、茎葉を伸ばし、光合成により養分を蓄え、開花・結実する。永年性の植物では次の厳しい時期を乗り越え、さらにその次の成長開始のために必要な養分を蓄える。

私たちの食生活も当然のことながらこのような季節の影響を受ける。春には先ず冬を越えて暖かくなり、このような条件下で栄養成長により伸びた葉や茎を食用とするものが収穫される。芹、三つ葉あるいは多くの青菜の類等のようにほろ苦い風味、あるいは独特の辛さがこの時期の野菜の特徴としているものも多い。この時期、自然界では多くの動物も冬ごもりから目覚め、食欲が旺盛な時期である。特に冬を乗り越え、その間絶食し、あるいは穀類や貯蔵食糧に依存した状況が続き、体もビタミンやミネラルを要求している。春の野菜はこれらの良い供給源である。

温暖な気候が続くと、植物の生育は進み、キュウリやナス等のように未成熟な実を食べるものが多くなる。これらの多くは水分を多く含み、汗として多くの水分を発散する夏には最も適した作物でもある。

秋には植物の多くは実をつける。稲や粟、稗といった雑穀類。栗もそうである。あるいは芋類では地下部に栄養を蓄え、いわゆる「芋」を形成する。これらの多くは澱粉質であり、人を含む動物にとっても冬を乗り越えるために体に栄養を蓄えるための栄養を得る源となっている。

このようにその時期々々にとれるものを食べるのが、多くの場合、体にも良い。これが「旬」というものである。

しかし、一方では人間特に日本人は旬に先駆けて、だれよりも早くそれを食べたいとする気持ちがある。江戸時代から「女房を質に入れても初鰹を食べる」とまでいわれているように、日本には初物を珍重するという伝統がある。このようなことから野菜や果物においては本来の生産時期よりも早く生産できるよう工夫がなされてきた。消費者はそれを望み、生産者は高値に売れることにより多くの収益を得ることができるためである。既に江戸時代には油紙を使った保温施設により野菜の促成栽培が行われ始めた。近年、ビニールが安価に大量に供給されるようになり、ビニールハウスによる農産物生産の早出し栽培は一般的なものとなった。また交通輸送の発展により日本全国どこからでも、また海外からも生鮮食料品が入ってくるようになり、気候の違いを利用することによりある農産物が市場に出回る期間は飛躍的に拡大することとなった。そして年中いつでもトマトやきゅうりを買うことができるようになった。苺については本来は初夏に成熟するものであるが、温室を利用した栽培により年末には食べられるようになる、もっともこれは苺をクリスマスケーキに使えるように超早出し栽培技術が開発されたという側面もあるのだが…。そして本来の時期である初夏には「苺は食べ飽きた」ということで、果物屋やスーパーの青果物コーナーでも片隅に追いやられ、あるいは陳列さえもしてもらえないということになる。近年では温州みかんでさえもが輸入オレンジに抵抗し、売れるものを作ろうとして超早出しの温室みかんとして本来のみかんの季節とは逆の夏に売り出すようになる。このようにほとんどの野菜や果物において施設を使った栽培が一般化した。消費者の多くは露地ものではなく、施設や燃料に多くの経費をかけた温室もの、ハウスものを多く買うことになる。

そして多くの野菜や果物では年中市場に出回ることになり、人々はいつが本来の「旬」であるかがわからなくなってしまった。そしていつでも買えることに慣れっこになってしまった。不況々々といわれながらも、消費者の多くはかつてに比べれば格段に購買能力を向上させている。そして少々値段が高くてもいろいろなものを食べたいとするようになってきている。そのような消費者にいつでも買ってもらえるようにするために、売る側は年間を通して店頭に並べるようにする。そのためには生産者側には年間を通した供給を求め、あるいは気候の異なる外国からの輸入にも依存することになる。

生産者側としては、年間を通した出荷のためには、そのほとんどを露地ではなく温室やハウスを使った栽培とする。しかしこのことは、それを生産するのに大量の石油エネルギーを消費することを意味する。冬場にきゅうり一本作るのにコップ一杯の石油が必要であるという。それは多分きゅうり一本を生産するのに必要な太陽エネルギーよりも多いだろう。農産物を食べるということは、それを通じて太陽エネルギーを摂取することであった。また、北から南に至る気候の違いを利用し、時期により異なる地域で生産するようになり、これをトラックで遠距離を運搬することも一般的となってしまった。しかし、今や施設園芸においては収穫物に含まれるエネルギー(太陽エネルギーに由来する)以上の化石燃料のエネルギーを消耗している。運搬にも多くの石油エネルギーを消費する。野菜の生産と流通のためには石油は不可欠なものになってしまった。オイルショックの時に日本の経済は「油上の楼閣」と言われたが、今の農産物(野菜に限らず)も「油上の楼閣」の上にあるといえるのではなかろうか。


三 流通の問題、そして消費者の意識

既に触れたように都市化の進展により農と食の間が遠いものとなり、これをつなぐための流通経路が必要となった。しかも北のものも南のものも食べようとすれば益々流通部門は巨大化せざるをえない。しかし、農産物についてはこのような流通を前提とすることは必要悪という認識が必要であろう。大量のものを運送し、取引するためには形や大きさ等の規格が揃っていることが必要である。しかし農作物は個体差や生育時期の微妙な違い等により大小まちまちのものができるのが普通である。このため、大きさによるLL、L、M、S、SS…、形状等による特選、優、秀、並…等が組み合わされた複雑な規格ができる。形や大きさがまちまちな農産物をこれらの規格に合わせるための選別が多くの人手と時間をかけて行われることになる。りんごのような比較的機械選別がしやすいものについては一部で機械化しているが、多くの農産物においては選別作業の多くは人手に頼るしかない。最近ではあまりに規格が細分化されたことと、農家の高齢化・人手不足もあり、選別区分の簡素化がいわれるようになったが、それでもなお農産物を流通させる宿命としての選別はなくなることはないであろう。

また、消費者は食品を購入する時、その代金のかなりの部分が最終的には生産者の手にわたるものと思ってしまう。しかし、流通経路の複雑さは消費者が支払った食費の多くのものが農家にではなく途中の流通段階における経費や利潤となってしまうことにもなる。このことはまた、食料品の価格が下方硬直的となることにもつながる。野菜等が豊作で生産地においては全く儲けにならないような価格となり、出荷を見合わせたり収穫を諦めるようになっても、生産・流通される野菜等には一定の流通経費(それは生産者の手取りよりも大きい金額である)が上乗せされ、小売価格はさほど下がらないということになる。逆に天候不順で不作となれば、消費者の根強い需要もあり卸〜小売価格は高騰する。

私たちは八百屋やスーパーで形の揃った、見栄えの良い野菜・果物に慣れすぎてはいないだろうか。それがあたりまえと思ってはいないだろうか。冬でもトマトが食べられることを自然のことと思ってはいないだろうか。

本来、季節はその季節に適した農産物を私たちにプレゼントしてくれる。春は長い冬ごもりの後のミネラルやビタミンの不足を補うかのように新鮮な葉菜類、夏は渇きをいやすがごとくきゅうりや西瓜、メロン等の瓜類、秋は長い冬ごもりのためのエネルギーをたくわえるための穀類や木の実の類、冬は寒い中や雪の下でも耐えるキャベツや白菜等を。もちろんここに書いたものだけではないが、季節には季節の農産物を食べるのが本来の「食」の姿なのである。

今や本来の季節を外れた時期にも農産物が生産され、ほとんど年中手に入れることができるようになったが、このことが食生活の真の向上につながったのであろうか。消費者は生産と切り離された場に置かれ、それが本来はいつ生産されるものかということを感覚的に知らないこともあいまって、旬の意識がほとんどなくなってしまった。そして初物を食べるという感動さえも失われてしまった。初物は自然な栽培における「はしり」のものを季節感を先取りして味わうのが最も自然なのではないだろうか。そして値段が高くなれば別の種類のあまり高くなっていない野菜や果物を選ぶという知恵をはたらかせることが必要である。

地球環境問題が注目されるようになって既にかなりの年月が経過した。人間の活動に伴い発生するフロンガスや二酸化炭素等が大きく取り上げられている。ここで見逃されがちなのが食糧をはじめとする各種物資の輸送・運搬に伴う化石燃料の消費と二酸化炭素の発生である。この点についてはラビ・バトラ氏の著による「貿易は国を滅ぼす(光文社)」においても指摘されている。この視点からも可能な限り国内で、さらにはできるだけ近くでとれたものを食べるのが望ましいのではなかろうか。

大地は基本的にはその土地、その気候において食するに適した作物を育ててくれるものである。遠くでとれる珍しいものは時折食するのが良いのではなかろうか。基本的には近くでとれるものを食べることを日常の食の基本としたい。


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