60年代モデルカー・レーシングの華麗なる世界!
(改訂版)
 プロローグ(昭和37〜41年頃の回想)
 私が、はじめて“模型”(組み立て式の、模型のこと)を見たのは、多分、うちの親父が作っていた「駅馬車」の模型や、「帆船」の模型が最初ではないかと思います。その頃の私は、デパートで買ってもらった「ミニカー」や、「Oゲージ模型電車」で遊んでいましたから、“プラモデル”なる組み立て式のプラスチック製模型などは、知りませんでした。そして、知ってからも、それらは、子供用ではなく、大人のための模型という印象が強かったのでした。私が住んでいた東京都板橋区では、まだまだ田舎の雰囲気が抜けない素朴な町でしたので、当時、昭和30年代後半に、模型屋が出来るまでは、私を含めた子供たちは、主に、「吹き矢」や「粘土型」、「銀玉鉄砲」などで遊んでいました。また、当時大流行していた「アトムシール」や「鉄人28号ワッペン・シール」などは、私も類にもれず熱中しており、仲間が家中に貼って親に怒られていたのとは反対に私は、切手採集と同じようにきれいに保存して集めており今でも健在であります。そんな中、板橋公園の目の前に出来た模型屋は、私たちにとっては、今でいう“ゲームソフト屋”のような存在であり、憧れの店でありました。左の「日本郵送切手型録」は、1965年当時愛用していたものであります。
ウインドウに並ぶかっこいい戦車や、ゼロ戦などの飛行機、そして、大和などの戦艦たちを見ているだけで、心がうきうきしました。いつかは、これらを作れるようになりたいといつしか誓いをたてていました。それを手伝ってくれたのは、うちのオヤジであり、戦艦「長門」や、空母「エンタープライズ」などを作ってくれました。でも、私1人では、まだ当時の組み立ては難しく無理でした。でも、いつのまにか、家の中に、プラモデル用のショーケースが買われており、あらゆるプラモデルがところ狭しと並べられるぐらい多くなって来ました。そんな頃、父親の友人から、私の誕生日のお祝いに、1つの模型が送られたのでした。これこそが、後年私に、大きな影響を与えるものになるとは、その時は、思いもよりませんでした。右のプラモデルは、当時夢中になって作っていたマルサン商会製(今はもうなくなってしまった模型メーカーで日本ではじめて“プラモデル”という商標を取った会社)の1/100スケール戦闘機シリーズの1つである「海軍艦上爆撃機“彗星(すいせい)”」です。今だに箱だけは健在であります。
 当時小学校の6年生になっていた私は、もう1人で簡単なプラモデルでしたら、作れるようになっていましたので、このプラモデルも当然作ってみようと思いました。それに、まだ色を塗るというようなことは出来ませんでしたので、ただ組み立てるということだけの作業は、実に簡単でありました。その模型は、日本模型製の「マンタレィ」という当時流行り始めていた新しい遊びである「モデルカー・レーシング」というものだったのでした。プラスチック製のボディに、モーターを組み入れた金属性のシャーシをねじで止め、その先端についている“ガイドシュー”という物を、溝のついた専用コースにはめて、電気を流して走り出すという新しい遊びでした。しかし、出来上がったものの走らせるコースもなく、当時出来始めていた、専用サーキットへ行くには、まだまだ私は、子供でしたから無理であり、しばらくは「マンタレィ」は箱の中に逆戻りという状態でありました。そして、約半年の月日を隔てて、この「マンタレィ」は、突如開花するのでありました。 
詳しい内容は、「モデルカー・レーシング入門記」をのぞいてみてください。
  では、私が、小学校6年当時大事にしていた“大学ノート”を開いてみることにしましょう!!
 このノートには、当時憧れであった「モデルカー・レーシング」関連記事が載っていたほとんどの雑誌の切りぬきが貼ってあります。週刊「少年マガジン」、「少年サンデー」、そして月刊「少年」や「少年ブック」、「少年画報」からなどなど…です。これを私は、小学校に教科書と共に持ち歩き、ことあるごとにながめ、ニヤニヤしていたと記憶しています。(ちょっと、危ないかな…!?) 真中の写真の特集は、私が特に気に入っていた「スーパージェッター」の“流星号”をモデルカーレーシングに改造する記事であり、実際には作らなかったのですが、夢を与えてくれた内容でした。その右隣りは、大滝製作所製の「フェラーリ250テスタロッサ」の製作記事であり、田宮以外のモデルカーに接した最初がこのテスタロッサでありました。また、完成車の写真も当時各雑誌に載っており田宮製「ランチャ・フェラーリ」、「ロータス30」や「ジャガーDタイプ」などは、この写真によってはじめて存在を知ったようなものでした。余談ですが、月刊「少年」だったと記憶しているのですが、荒れ狂う「モデルカー・レーシング」ブームに乗って確か横山光輝作の「グランプリ野郎」という漫画が連載されていたと思うのですが、この漫画の主人公が良く誌上で実際の日本グランプリ特集の中に登場してレース結果を解説していたのを覚えています。また、左の写真のような“宙返りサーキット(東京タワーサーキット)の特集などもあり大いに楽しんで読んだ記憶があります。
とにかく、当時は、田宮模型の“エルバ・マクラーレン”がほしかったのです!ところが、私は、誕生日のプレゼントとして、両親から同じく田宮から発売されていた“プリンスR380”の方を買ってもらったのでありました。(実は、当時エルバを買ったのが早かったか、プリンスを買ったのが早かったかの記憶が定かでありません。あしからず…。)突然心変わりがしてしまい日本初のミッドシップレーシングカーであったプリンスに心引かれたのでした。とにかく、とてもカッコ良く見えました。そんなこんなで、愛車だった“マンタレィ”は、追憶の彼方へ!
学友のHくんの愛車である同じく田宮から出ていた“フォードGTスパイダー”もカッコ良かったけど、なぜかその頃は、プリンスが一番でありました。多分、第3回日本グランプリをTVで見た余韻が残っていたのでしょうか、夢中でありました。ところが、細かく言うと、実際の田宮製“プリンスR―380”のスタイリングは、第3回日本グランプリ時のボディではなく、前年国際記録に挑んだ時のふっくらしたボディを持つ方であったのでした。さらに、サイド“エアー・インテーク”も記録車の特徴であったスパッと切れたタイプでありやや抵抗を持って製作した記憶があります。しかし、シャーシは、エルバ・マクラーレンと同じスプリング・サスペンション付きで、モーターも最強のマブチFT−36Dでありました。ただし、シャーシの材質が、エルバの真鍮に変わって“ステンレス”製であったのが唯一の相違点でありました。そういえば、エルバと同じシャーシを持つ“フェラーリ330P−2”も同時期に発売されてはいたが、なぜか当時はあまり興味がわかなかったのはどうしたことか、フェラーリだったのに…。ところで、いろいろなメーカーから、「モデルカー・レーシング」は発売されていましたが、その中でも、田宮模型のパッケージのセンスは群を抜いており、今ではとてもやらないと思われる組みたて式のホチキスなしの2重箱であり、白地のつや入り塗装に写真と見間違えるほどの車の絵がシンプルに印刷されている優れものでありました。その中に、箱と同じく印刷された約11センチ四方のカードが入っており、その車の実車における性能や、活躍が説明文として書かれておりました。このカードにより私は、当時大変勉強になった思い出があります。
 田宮模型「モデルカー・レーシング」キット付属カード!!
(詳しく知りたいと思われる方は、どうぞこちらへお寄り下さい!!)

 

 

左上から、当時最強のスプリングサスペンションシャーシを持った“エルバ・マクラーレン”後にこのマシンは、“マクラーレンM1A”というマシンであることがわかりました。真中は、“プリンスR380”で、真鍮製のシャーシを持つエルバと違いステンレス製シャーシでありました。右は、田宮としては、初期のインライン式(モーターを縦に置きクラウンギヤで車輪を動かす型式)ダイキャスト(アルミの鋳物)シャーシを持つ“フォードGTスパイダー”です。左下は、田宮としては、最後のスポーツカーキットとなった“ポルシェカレラ6”で、サイドワインダー・ダイキャスト・スプリングサスペンションシャーシを持つ最強のモデルカーでした。そして、不思議と人気のなかった“フェラーリ330P2”は、エルバと同シャーシを持っていました。
 
田宮としては、珍しい活字ミスのある“ローラT70”、正解は、“LOLA T−70”であります。シャーシは、エルバと同じ型式でありながら、軽量なアルミ焼付けシャーシを持っていました。そして、珍しい1/32スケールの“ロータス30”。マブチFT−16Dをインライン式に搭載し、このクラス最強を誇りました。田宮では、ホームサーキットセットにこのロータス以外に“1/32フェラーリ365P”があったのですが、ついに単体での発売はありませんでした。
こんな特集もありました!!
69年日本グランプリを間近に控えた8月17日、東京大田区のカマタグランドサーキットにて、ニッサンチームの北野元、タキレーシングチームの長谷見昌弘、田中健二郎、そして、津々見友彦ら8人の有力ドライバーが集結し、モデルカー・レーシング「日本グランプリ」が開かれたのでした。名誉会長として、タキレーシングチームのオーナーである故滝進太郎氏が開会宣言をして多いに盛り上がったと聞きました。ちなみに、優勝者は、当時若手であった長谷見昌弘選手がなんと優勝し、滝氏より田宮製の「1/12スケール ロータス49フォード」を優勝商品として受けとったのでありました。トヨタ、ニッサン、タキレーシングがしのぎを削っていた69年当時、なんとも和やかなことでありましょうか。写真の中ほどに、各レーシングカーがスタートラインに並んでいますが、8レーンの一番外側が、クライマックス社製クリヤー・ボディの“ポルシェ917“、そのとなりから同社製“ローラT70MK3”が2台、同じく“ニッサンR−381(ウイングなし?)”が2台、そして、田宮製“ポルシェカレラ6”と良く分からない(?)フォーミュラカーが1台が並んでおります。きっと、実車通りのドライバーが操縦したのでしょう。見てみたかったというのが本音でありました。 
 まだまだ、このノートは続きますが、この続きは次回のPART2までお待ちください。お楽しみに!! 
(つづく)
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