モデルカー・レーシング入門記
“プロローグ” 
  1966年は、私が、最後の小学校生活を送った年でありました。そして、はじめて“TV”で「第3回日本グランプリ」を見た年でもありました。そして、もう1つ忘れられない出来事があったのです。それは、前年私の誕生日に買ってもらった“レーシングカーの「マンタレィ」(日本模型製1/24スケール)”が、学友の関口君の家で開かれた「第1回モデルカーグランプリ」(?)で初優勝したことです!!(右写真がマンタレィ)何せ、初めて参加したレースでしたから緊張しましたが、コントローラー操作も何とかうまく出来強豪“関口君フェラーリ250GTO”を下す事が出来たのです。ちなみに、ライバルの“フェラーリ250GTO”は、アメリカレベル社製のもので、当時でなんと“1800円”ぐらいした高価品でありました。(左写真がフェラーリ250GTO)尚且つ彼は、当時の憧れであった「ホームサーキット」(日本模型製で8の字型のコースであり、当時で約9000円はする高嶺の花であった。)を所有していたのでありました。私は、ただただ羨望のまなざしで見ていたのでした。そんな彼に、800円の国産レーシングカーで勝ったのだから喜びもひとしおだったのは大人になった今でも鮮明に覚えています。対する関口君通称“ぐち”の落胆振りは大変なものでした。そして、レースを終えた後に頂いた“昼ごはん”のおいしかった事といったらありませんでした。そんな時、何気なく茶の間にある“TV”を見ていると本物の“レース”をやっているではありませんか!初めて見る“本物のレーシングカー”に私は、食べるのも忘れて夢中で見てしまいました。 
あとで、これが「第3回日本グランプリ」であった事を知るのですが、「プリンスR−380」が「ポルシェ・カレラ6」に勝ったことだけが、強い印象として今でも残っています。当時の映像は、トップの車しか映さない傾向があり、印象に残ってしまうのは無理もないですが・・・・。
 これを境に私は、「モデルカーレーシング」の世界にのめり込んでいくのです! 
次に私を虜にしたのは、「ヴェンチャーズ」のサウンドでしたが、同時に学校のクラス中が「モデルカーレーシング・ブーム」に沸き立ち始めたのも事実でした。そんな中、私は、ついに当時国内最強のレーシングカーを買ったのでした。(買ってもらったといった方が正確ですが・・・。)それは、田宮模型製の「エルバ・マクラーレン」でした。当時の田宮の商品の特徴として、とにかく“箱絵”が美しかった事が印象に残っています。子供心にもその“美しさ”で心を動かされたことはいがめません。まして、子供にも簡単に作れて、とにかく速いのです。その後、誕生日のプレゼントとして田宮製「プリンスR−380」を買ってもらい、友達を呼んだ私の“誕生日会”(当時は、それぞれの誕生日に友達を呼んで行っていた。)には、みんなのプレゼントとして同じく田宮製「ローラT70」をもらうなど、私の所有する“マシーン”は一気に4台となったのでした。
 私は、この時期に、本物のレーシングカーを扱う専門誌であった「AUTO SPORT」を買い始めており、いよいよ“レーシングカーおたく”の道へと入っていくことになるのです。 
 私が、「モデルカーレーシング」の道を極めようと思ったきっかけを作った雑誌があります。それは、秋田書店発行の「モデルカーレーシング入門」と「モデル・スピードライフ」、「模型とラジオ」などです。 

(1) 「モデルカーレーシング入門」秋田書店
 この当時買った秋田書店発行の入門書は、この「モデルカーレーシング入門」と「マンガの書き方」、および“石森章太郎”著の「マンガ家入門」などですが、さすがに「ハトの飼い方入門」は買いませんでした。 
この「モデルカーレーシング入門」は、私の記憶する限り唯一のハードカバー付きの書籍本だったと思います。表紙の写真は、憧れのアメリカ“COX社”製「チャパラル」であり、この「チャパラル」は、当時4000円ほどした最高級のモデルカーで、特徴として、オールアルミダイキャストシャーシを持ち、ホイールもアルミダイキャスト製、ボディは、全身大のドライバーが付くほどの“リアル・ボディ”でありました。ただし、モーターのみ日本製“マブチFT−36D”であったのは、子供心にも誇らしげに思えました。(これも当時最高のモーターといわれた。) 
 私は、表紙にも影響を受けてこの本を買ってしまった。とにかく、暗記するほど読んだのを覚えています。 
 

(2) 「モデル・スピードライフ」
 この本は、当初“モデルカーレーシング専門誌”として登場したのですが、1967年後半からの急激なブーム衰退に伴ってついに「模型とラジオ」の特集ページに成り下がってしまうという不運な運命にありました。 
ところで、当初この雑誌が目標にしていた“モデルカーレーシングの専門誌”という内容から、後半は、“モデルカーの専門誌”へと方向変換したのですが、私にとっては、むしろ後期の方が面白かったように感じました。なぜなら、レースや新しい商品のみの紹介だけだった最初の頃の内容より、工作する楽しみを毎月いろいろなケースから教えてくれた後期の内容の方が大変為になったと思うからです。“バルサ材”を使った“ボディ”製作や“全輪サスペンション”の製作などは、後々の僕の「モデルカーレーシング」人生に多大なる影響を与えたのでした。 以下手持ちの一部を紹介します。 


以上6冊でもわかるとおり、1965〜66年当時は、まさに「モデルカー・レーシング」専門誌であったことがわかって頂けたと思います。 
“新しいライバルの登場”
 1967年、私は、無事中学生となっていたのですが、「モデルカーレーシング」への思いは尽きませんでした。そんな時、小学校から引き続いて一緒だった“浜口君”が「ホームサーキット」を買ってもらったのです!! 彼とは、このあと高校卒業まで付き合うことになるのですが、ライバルあっての技術の進歩とは良く言いました、彼がいたからこそ「モデルカーレーシング」を長くやれたのだと今も感じています。 
 ところで、田宮模型が、1966年「1/24スケール ポルシェ・カレラ6」を発売した頃から、あんなに盛大だった“ブーム”がうそのように消えていったのですが、僕たちは、違いました。新たに、“クリヤーボディ”という透明なボディに裏から塗装するとても軽量で、車種も豊富なボディを使い独自なレースを“ホームサーキット”で行う事で続けていったのでした。追い討ちをかけるように、私もついに、両親から「日本模型製ホームサーキット」を買ってもらうことができ、よけい盛り上げる事が出来たのでした。また、本物のレースの方も第4回日本グランプリCANーAMレースなどの盛り上がりもあって私たちは、ますますのめり込んでいったのでした。右のホームサーキットに、マシンを並べた写真は、当時の様子を写した唯一のものであります。 
それからというもの私たちは、自信ありげに毎週のようにレースを楽しみ、自分達の“マシン”をいつからか“最速の車”と思いこんでいたのでした。 
 同じ頃、1年5組に、“丸山くん”(仇名は“マル”)というやはりレーシングカーを得意としている少年がいました。 彼は、私たちと違い“クリヤーボディ”に見た目は貧弱な“パイプフレーム”(真鍮製パイプを半田付けで組んであるシャーシー)を組み合わせた“マシン”を持っていたのでした。噂では、速いと聞いていたのですが、私たちの“マシン”は、あの田宮製の“サイドワインダー・スプリングサスペンション・ダイキャストシャーシー”で、最強のモーター“マブチFT−26D”を搭載しているのだから負けるわけがない・・・・。そんな思い込みが最悪の結果を・・・・。私たちは、軽い気持ちで彼に戦いを挑んだのでした。                       そしてついに、“マル”と私たちの対抗戦を行なう日がきました。彼の「ホームサーキット」は、普通の8の字コースだったので、私たちのコースをもってゆき、大きなコースにしてレースを始める事となりました。 
彼の“マシン”は、“ニッサンR−380−2”(大阪ライト工業製のクリヤーボディ)で、シャーシは、左写真のパイプフレーム(青柳製R−555タイプ)、モーターは、最強の“FT−26D”をサイドワインダーに積む当時の基本的なシステムを取っていたのでした。対するわれわれは、自信のマシン“チャパラル2E”(クライマックス製クリヤーボディ)に、田宮製“アルミ・ダイキャスト・スプリングサスペンション・サイドワインダーシャーシ”と“FT−26Dモーター”の組み合わせで、“浜口君”のマシンは、“フォードMK−4”(右写真の組み合わせ)と同上の組み合わせでありました。 

“オール自作マシンの誕生!!”(田宮製シャーシーとの決別!) 
 結果は無残!!大敗であった。“マル”のマシンは、私の“チャパラル2E”を直線はおろかカーブでもいとも簡単に抜いていったのでした。とにかく、“軽量”による“全体バランス”の良さが、私のマシンと比べてぜんぜん違いすぎるのです。レース後、 “丸山宅”を寂しく去っていく私たちの落胆振りは、目を覆いたくなるほどでした。 しかし、私は、この時すでに決意していたのです。「すべて、自分で作って“マル”を見返してやる!!」  まず、私たちは、“マル”のマシンを徹底的に調べました。そして 、ある結論に達したのです。それは、今まで正しいと思っていた“サスペンション付きシャーシ”は、必ずしも必要ではない事、カーブでも“軽量”かつ“低重心”であれば、“タイヤ”の食いつきだけで十分なスピードで回れることなどがわかりました。また、今までの田宮製シャーシの場合、クリヤーボディとの取り付けに“ねじ”を使っていたのですが、パイプフレームだとなんと“虫ピン”で止めることが出来るのです! これにより、見た目にもきれいだし、軽量化する手段にもなるので一石二鳥だ。実際、重量を計ると、今までの私の“チャパラル2E”は約125グラムあったのに対して、後で製作した“ローラT70MK3”はなんと“105グラム”しかなかったのでした!!(ちなみに、初期に買った「エルバ・マクラーレン」は、135グラムはあったと思う。) 
 敗因がわかってくると今度は、どんなシャーシにするかが問題になってくる。“マル”と同じシャーシを買っては見たものの何か不満なのでした。とにかく、“差”をつけたいのですから、同じことをやっていては勝てないのです!そんな時、当時発売されていた「モデル・スピードライフ」の特集記事の中に“オールサスペンションのホンダF−1を作る”だったと思うのですが、本物そっくりの“前後サスペンション”付きシャーシを自作する記事が載っていたのでした。前輪は、“空き缶”を利用してかな切りバサミで切り取り“フロントアッパーアーム”にして、“スプリング”は、手巻きドリルに3ミリのレーシングカー用のシャフトと“エレキギター用の1弦”と一緒に挟み込み、ドリルを回しながら“弦”を巻いていくのです。これが以外とうまくできるからまた不思議なのですが・・・・・。そして、後輪は、これがまたすごいのです。左右に1個づつの“ジョイント”を五ミリほどの“真鍮パイプ”をクロスに半田付けして2個作り、それを切断した“シャフト”に取りつけ上下が出来るようにしているのです。 
 いよいよこのマシンをテストする時がやってきました。“マル”への雪辱戦となる、対抗戦「第2回モデルカーレーシング・グランプリ」が初のレースとなったのでした。 

ご意見・ご感想お待ちしています。


 
GO TO TOP
GO TO MENU
E-MAIL