追悼企画!
「瀧進太郎」氏死去!!
 思わぬ悲報が、入ってしまった!!当ホームページでも、何回も登場頂いた、元、「タキ・レーシング・オーガニゼーション」社長であり、日本自動車連盟JAF顧問、「日本レースプロモーション」社長であった「瀧進太郎」氏が、昨年の11月24日、午前10時20分臓器不全のため逝去されました。晩年61歳という若さでした。当方も、突然の事でもあり、また、日本グランプリを語る上で、瀧氏は、欠かす事の出来ない人物でもあり、急遽“追悼企画”として、特集を組ませていただく事にいたしました。 
 まず、昨年12月1日に東京の千日谷会堂で行われた「お別れの会」について、F−1雑誌である「GPエキスプレス」で、わずかながら記事がありましたので、その内容を書いてみました。 
「日本のレーサーの草分け逝去、中嶋、亜久里が追悼のあいさつ」
 去る12月1日、東京・千日谷会堂において、11月24日に逝去した日本のレーシングドライバーの草分け的存在で、日本レースプロモーション・社長の瀧進太郎氏のお別れの会が行われた。当日は、本田博敏・無限社長、中島悟、鈴木亜久里、星野一義、高橋国光といったレース・自動車業界関係者が列席、瀧氏の冥福を祈った。
 瀧氏は立教大学後、TAKIレーシングオーガニゼーションを組織。プライベーターとしてトヨタや日産といったワークスチームと張り合い、66年には全日本選手権で2勝を挙げている。現役を引退してからは日本自動車連盟のスポーツ委員などを歴任。モータースポーツの振興に尽力した。お別れの会当日、中島悟は「瀧さんが走っていた姿を富士スピードウェイの金網の外から見ていました。そして僕がこの世界に入ってからは大事な時にはいつもお世話になっていました。本当にありがとうございました」とあいさつ。また鈴木亜久里も「30年以上も日本のモータースポーツの発展に尽力された。これからは私たちが意志を引き継ぎ、21世紀に向けて日本のモータースポーツを引っ張っていきます」と故人の業績をたたえるとともに、今後の日本のモータースポーツの発展を誓っていた。 
 瀧氏は、1937年10月19日生まれ、愛知県の良家で生まれ、立教大学を卒業してから、自らスーパーマーケットを経営し、実業家の道を歩んでいたが、1964年、モータースポーツに魅入られ当時の高性能スポーツカー“ロータス・エラン26R”をイギリスより購入し、船橋サーキット等で、連戦連勝を続けるようになりました。しかし、瀧氏の人生を変えたのは、当時世界最高のレーシングカー“ポルシェ・カレラ6”を購入してからであり、それが本当の意味でのレース人生の幕開けだったのではないかと思います。  
 私にとっては、「第3回日本グランプリ」や「第4回日本グランプリ」での“ポルシェカレラ6”での活躍よりも、むしろ現役引退後、チーム・オーナーとしての腕前に対して、とても感銘を受けていました。特に、「第5回日本グランプリ」においての、生沢、田中、酒井、長谷見などの癖のあるドライバーと契約し、誠にうまく彼らと最新レーシングカーとを組み合わせて彼らを納得させる事が出来たことは、今考えると瀧氏だからこそ出来たことではないかと思います。そして、「69年日本グランプリ」では、スポット契約ながら、当時のスポーツカーにおける最高のドライバーであった“ジョー・シファート”と、最高のポルシェであった“ポルシェ917”を組み合わせて出場させるなど、夢のような事をやってのけたのでした。これらの事を1960年代に、個人で行っていた「瀧進太郎」という人間は、まさしく日本のモータースポーツを育てた人間だったといえるのではないだろうか。当ホームページでは、瀧氏の若き日、特に、1966年から1969年までの氏にとっての“青春時代”だったと思われる時代の写真を中心に特集してみたいと思います。ところで、現在売られているモータースポーツ及び、自動車雑誌を見たところ、瀧氏の特集を組んだ雑誌は少なく、潟j玄社発行の99年3月号「CAR GRAPHIC」誌の冒頭のトピックスに1/3ページの追悼企画があり、また、昨年12月15日発売の且O栄書房発行の「AUTO SPORT」誌が、赤井邦彦氏のコラムの1つとして、取り上げただけでありました。その他については、数誌が、トピックスの1つとして取り上げているだけというまったく寂しい状態でありました。ある意味では、瀧氏がいたからこそ、アマチュアニズムの日本モータースポーツが誕生したと言ってもいいくらいなのに、今のモータースポーツ誌の考え方が何か私には、理解できません!!私の愚痴はさておいて、では、ゆっくりと瀧氏の若き日の活躍をご堪能ください!!

 
 “瀧 進太郎メモリアルグラフィティ!!”
左より1966年1月16日に行われた「鈴鹿500km自動車レース」でクラス優勝した時のスナップ。(マシンは、ロータス・レーシング・エラン) 中央は、瀧本人の最高の舞台となった1966年5月3日の日本グランプリにおける生沢のプリンスR−380とのデットヒート。(マシンは、ポルシェ・カレラ6) 右は、1967年10月1日「鈴鹿1000km自動車レース」で、田中健二郎と組み総合優勝を飾った時の勇姿。
瀧氏は、67年にドライバー業を引退したあとは、タキ・レーシングチームのオーナーとして活躍する。写真は、第3回東京レーシングカーショーで挨拶に立つ瀧氏(1969年)。右の写真は、現役最後のドライブとなった1967年11月3日「全日本スポーツカーレース」において酒井正のデイトナ・コブラを押さえ優勝した瀧氏のポルシェ・カレラ6。 
 1989年にテレビ朝日で放送された「カー・グラフィック・TVスペシャル」の“日本グランプリ特集ー懐かしきマシンたち”に当時を回想する瀧氏のインタビューがありましたので、番組全体の流れを含みながら、それを引用してまとめてみました。 
=カーグラフィックTVスペシャル 日本グランプリ特集 プロローグ=
 いつもの松任谷正隆作曲のテーマ曲で始まり、1969年日本グランプリのスタートシーンが映し出される。CMなしで映像は、リメイクされたヨハン・シュトラウスの“美しき青きドナウ”が流れながら1964年に開通した「東海道新幹線」が走り出す場面へ、続いて1964年開催された「東京オリンピック」の開会式の映像が流れる。そして、画面はついに時効となった「三億円事件」の模様を映し出している。同時に画面には、次ぎのようなコメントが流れる。 
“1960年初頭、日本は戦後20年を経て、社会は大きな変貌を遂げようとしていた。名神高速道路一部開通、東京オリンピック開催、東海道新幹線開通。そんな近代化の嵐の中、1963年、日本の近代モータースポーツ史の夜明けとも言える第一回日本グランプリが華々しく開催された。”
 続いて、現在撮影された当時のレーシングカー“ポルシェ・カレラ6”、“スカイラインGT―R”や“フェアレディSR”が、サーキットを走る映像が流れる。そして、1967年型“ニッサンR380―2”及び、1970年製“トヨタ・ニュー7”が映し出される。さらに、1969年日本グランプリにおける北野元が愛車“ニッサンR382”に収まるシーン、1967年谷田部におけるスピード記録に挑戦した“トヨタ2000GT”の記録フイルムが続き、ホンダS600、ビートルズ来日映像へと変わっていく・・・・。 
 突然、解説の田辺憲一、松任谷正隆、そして、松本葉が現れる。 
松任谷: 今やモータースポーツのスポーツとしての市民権をようやく取ったような感があると思うんですけど…。以前は、モータースポーツという言葉もなくてとてもマイナーだったような気がするんですけど。 
今月のカー・グラフィックスペシャルでは、日本グランプリという、こういう日本の草分け的なレースを振り返ることのよって、モータースポーツの歴史を見てみたいと思うのですけれども。 
どうでしょう?日本グランプリの記憶ありますか、松本さん? 
松本: リアルタイムでは、まったくないんですけど、ただ、父が言ってたんですけど、話題になったことだけは、うすぼんやり覚えているんですけど、その時は、自動車大会って言ってたと思うのですけど…。 
松任谷: 自動車大会ですか。自動車レースっていう感じでしたら覚えてるんですが、自動車大会っていうと、もっと前の感じがしますね。田辺さん、日本グランプリって、第一回もテレビ中継されてたという話しなんですが? 
田辺: はい。あの〜、第一回63年、東京オリンピックの前の年でしたよね。第一回はね。もちろん話題はあまり上がらなかったと思うんですが、もちろん自動車雑誌には書いてあって、僕はね、その第一回がTVでやることを直前に知ってね、当時受験勉強だったのですが、抜け出して、大衆食堂でカツどんを食べてそこのおばさんに無理言ってね、他のチャンネルから回してもらって、それで見ました。 
松任谷: まあ、当時レースなんか、カメラマンだってどうとっていいか分からなかったんじゃないかともって。 
田辺: 当時は、鈴鹿サーキットでは、規制がなく、カメラマンは、中に自由に入れたんですね。ただ、だだっ広い画面にくるまがあるだけのシーンなんかいっぱいあって。第一、モータースポーツという言葉は、ここ数年じゃないですか、われわれがやっと普通に使えるようになったのは、カー・グラフィックでは、モータースポーツという言葉は、かなり早くから使っていたんですけど、それは、本の上であって、うちの親なんかは、口語的には、モータースポーツって言葉は、体を使うスポーツとして、口語的な会話としては使えなかった、つい最近までラリーやレースと言わないと、ちょっと間が開いてしまうんですよね。 
松任谷: 自動車大会ですね。それでは、今日は、貴重なフイルムを見ながら…。 
田辺: すごく懐かしくて、貴重だと思います。 
松任谷: モータースポーツのルーツを探りたいと思います。
 映像は、第一回日本グランプリの映像となる。もちろん白黒映像である。 
そして、1970年代初頭までレーシングドライバーとして活躍した、津々見友彦氏のインタビューに移る。 
モンキーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」の曲にのり、1964年に開催された第二回日本グランプリの画像が登場する。 
さらに、1966年に場所を富士スピードウェイに移し開催された「第3回日本グランプリ」へと続き、コメントが入る。“そんな中で、注目を集めたのは、滝進太郎のポルシェカレラ6であった。”(バックミュージックには、ビートルズの“ロング・アンド・ワインディングロード”が流れる。)
瀧 進太郎氏へのインタビューー 
 画面にコメントが流れる。“1937年10月19日生まれ。愛知県出身。64年にロータスエランでレースデビュー。66年第3回日本グランプリに、ポルシェカレラ6で出場、プリンスR380と接戦を繰り広げ活躍する。” 
: 当時、プリンスがですね、ミッド・シップエンジンのクルマを開発していると…。 
カーグラフィック・スタッフ(以後CG): R380ですね。 
: ええ、R380です。それに勝つためには、ポルシェ以外にはないと・・・。あの当時フェラーリだとかポルシェいろいろ候補あったんですが、いろいろ三和(以前は、ポルシェの正規代理店であり、現在は、ランボルギーニの日本総代理店)の方から話しがあったりして、たまたま906を買えるって話しがあったもんですから、それで選んだんですね。 
CG: あの車にお乗りになってどうだったんですか、レーシングスピードにお乗りになって。 
: ええ、あのね、いろいろポルシェのシリーズ、あの後いろいろ出たんですけどね、その中では、非常に傑作だと思うんですね、乗りやすいしですね。まあ、当時のガルウィング(鳥の翼に例えて上下に開く車のドアのことを言う) 、時々あのガルウィングの中からキーをかけ忘れてですね、あれがバンク(1970年代中期まで使われていた、富士スピードウェイ最大の特徴であった“すり鉢上のカーブ”で当時は、ストレートスピードより早かった) ですっ飛んだなんてこともあったですけどね。 
CG: 練習中ですか? 
: 練習中です。とにかく、あの当時ミッドシップエンジンに乗ったっていう人があんまりないんですよね。 結局、その〜、敵のプリンス4台以外はですね、ミッドエンジンの車はないもんですから、どうやって走っていいか、その走り方がよくわかんなかった。 
CG: 操縦性、今までそのお手本がないわけですね。 
: ないんですよ。いろんなことやって、それに当時富士スピードウェイがみんなメーカーが占領使用で借りてましてね、慣らし運転する場所がなくて、名神高速道路に持ちこんで、慣らし運転をやったということもありました。昔、桜井さん(スカイラインGT−Rの生みの親) なんかとですね。いろいろ仲良くやっていましてね、桜井さんがものすごく恐縮して一度でいいから906を見せてくれないかと…。僕も非常に仲良かったですから、まあ、失礼だけど…。それで、売っている車だから、どうぞ見てくださいと…、富士のガレージにあるときに見てもらったことがありました。 
CG: それは、第3回の頃ですか? 
: 第3回の後だったと思います。敵に塩を送ったわけじゃないけれど…。 
CG: それで、380の2型がああいう格好になってきたのかもしれませんよ。 
: そうですね。 
CG: そのカレラ6が初お目見えしたのが、第3回のグランプリですね? 
: そうです。 
CG: 生沢さんともう熾烈な…。 
: あの時は、4対1だったですね。まだ、380も後ろから見てますとね、かなり…こう〜、お尻がちょろちょろ振れてですね、乗りにくそうだったですね。みんなよくあの車に乗ったっていうくらいな感じですね。 
で〜、徹(生沢)の車、ちょっと調子悪かったんじゃないですか?だから、彼が押さえに回って、で、当時砂子さんが先を走って…。こっちもまだ何十時間ぐらいしか走ってないですからね、慣れてないですしね、なかなか抜けないし、なかなか徹のブロックうまいですからね。 
直線のスピードは、そんなたいしてかわんないですけどね、やっぱりコーナーリング、要するにサスペンションのね、熟成度というのが、全然そう言っちゃ悪いけどかなり違いますね。 
CG: まあ、それがはっきりしたのが、翌4回ですか?生沢さん、酒井さん、瀧さんの3台カレラ6が出て・…。 
 以上で、瀧氏のインタビューは終了するのでありますが、インタビュー時の瀧氏の表情からして、本当に当時は楽しかったという事が伝わってくるのを感じずにはいられませんでした。
番組は、その後ビートルズの“カム・トゥゲザー”の曲をバックに、第4回日本グランプリへと移っていく。 
そして、映像は、わが“生沢徹”のインタビューへと続くのでありますが、これは、徹特集である「帰ってきたTETSU」に引き続き引用してみたいと思います。 
 1960年代から、ようやくスタートした日本モータースポーツ史を振りかえりながら、瀧進太郎氏の功績なくしては成り立たなかったと、滝氏の偉大さを感じながら「追悼企画!瀧進太郎氏死去!!」を終わらせていただきます。そして、心から瀧氏に「本当に、夢を与えてくれてありがとうございました。」と言いたいですし、心からご冥福をお祈り申し上げたいと思います。                                尚、このホームページをご覧になってご意見ご感想がありましたら、ぜひ、お寄せ願えればありがたいと思います。 
ご意見ご感想をお待ちしています。

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  1999年2月7日 by hirofumi makino