THE MODEL CAR RACING 
モデルカー・レーシング入門記 3
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 “自作クリヤー・ボディの製作記”
 
 前回予告した「第2回モデルカーグランプリ」参加の結果は、のちほどということにして今回は、その後私が夢中になった“自作クリヤーボディ”についてお話ししようと思います。
 以前、私は、クライマックス製クリヤー・ボディがあったからこそ“モデルカーレーシング”を続けることが出来たと述べた事があったと思いますが、その一方自分の好きな車種が発売されない事への苛立ちも同時に持っておりました。
1970年頃、私も一応高校生となっておりまして、それなりにモデルカー製作技術も進歩(?)していたと自覚していましたので、密かに自作クリヤー・ボディ製作の計画を立てていたのでした。今となっては、何を見て製作過程を理解できたのか覚えておりませんが、多分その当時愛読しておりました「モデル・スピードライフ」誌にヒントがあったのではないかと想像できます。
 上の図は、当時(1970〜71年)私が行なっていたそのままの製作工程を再現したものであります。まず、B3サイズぐらいで売っておりました価格50円のエンビ板(0,5mm厚)を半分に切り取り、それをあらかじめオス型に合わせて切り抜いておりました2枚のメス型ベニヤ板(5mm厚)の間にはさみ込みます。それからが問題なのですが、私が当時考えられた事は、今のように密封された真空状態の中で行なうことは技術的に難しく、なんとガス・ストーブの上10cmぐらいのところに直接メス型(エンビ板を含んだメス型)を持っていき、しばらくストーブの熱で暖めるのです。その後、エンビ板が柔らかくなるのを待ち、色が変わってきたな(これは、経験が必要でした!)と思ったところですばやくオス型の上からゆっくりとプレスしていくのです(成功率50%でした!!)。
なにぶん空気中で行なっている関係上、当然空気が入ってしまい穴があいてしまったり、間一髪遅くなり、オス型の半分までしかプレス出来なかったりと失敗も多かったことも多々思い出されます。
また、冬場は結構暖かくて良いのですが、夏場はいけません。そこで考えたのがガス・レンジを使った方法でした。しかし、火力がガス・ストーブに比べて強いので、お餅を焼く時に使う“網”を炎との間に置いて行なわなければいけません。なぜならば、直接エンビ板を挟んだメス型を火に当てると、すぐに穴があいてしまうからでした。
 
 左の図は、プレスした後、すばやくパイプで組んだ“型押し用治具(?)”を上から押しつける工程を示したものです。バキューム装置が付いた真空状態の工作装置では、こんなことしなくても自然にへこむ所はへこむのでしょうが、空気中では、そうもいきません!まさしく両手を使っての大作業でした。
 この製作方法ですと、マシンのサイドは、まったく成形出来ずお手上げ状態であったのがなんとも心残りでありました。
ちなみに、風戸裕の乗っていた「ローラT222」のクリヤー・ボディを作った時などは、リア・エンドが内側にかなり切れ込んでおりました関係上、左の工程以外に、もう1工程増やし、押し込んだのちに再度リア・エンドに押し込むパイプを作り何とかそれらしく作ることに成功いたしましたが、なんとも疲れる作業でありました。

初期に製作した「フェラーリ512S」と「ガルフ・フォードGT40」
 このようにして出来上がったクリヤー・ボディから、出来の良いものを選んで製作に入るわけでありますが、先ほども書きましたように、成功率は50%と低く、10枚エンビ板を買っても5台うまくいけばいい方でありました。一番辛かったのは、全体的にはうまく成形されていても、サイドの肉厚が極端に薄く成形されていた時です。強度的にレースで使えなくなってしまいますので、本当に成形時の一瞬の判断を要求される難しい作業であったと記憶しています。
 さて、原型と申しましょうか、それを何の材料で作ればいいのかもその当時の課題でありました。なにせ、レジンボディなどがまだない時代、当時の「モデル・スピードライフ」誌では、盛んに“バルサ材”を使った「チャパラル2F(原型をバルサ材で作り、フードをタミヤ製“フォードJカー”から切り取り、取り付けるというなんとも難度の高い製作工程でした)」などの製作記事が平気で載っていた時代でありましたので、原型を作るための材料については、ほとんど手探り状態でありました。最初、粘土がいいのではないかと思いデパートで紙粘土なんかを買い込んで作ったのですが、どうも細かい部分がうまくいきませんでした。よって、粘土は諦めることにしました。つぎに、木型がいいと思い日曜大工用の木で挑戦してみたのですが、固すぎてうまく削れなかったり、木目が粗すぎたりでこれも素材には向いておりませんでした。今度は材質を彫刻用のものに変えてみたところ、なんとか削れましたのでこの材料を使って原型を作ることにしたわけであります。そして、何台かを作っていくうちに、美術用の石膏を使うことを思い立ち作ってみると、これがまた削りやすく細かい所も気を付けていけば木型よりむしろ楽に削り出すことが出来ので、この後は全て、石膏を使った原型作りとなりました(たたし、気泡が多いことが欠点でした)。
 THE WORLD OF MY ORIGINAL CLEAR BODYS
 
NO CAR NAME(1/24スケール) 原型材料 製作年・その他
フェラーリ512S(1970) 木製 1970
フェラーリ312PB(1970) 木製 1970(*当時販売)
チャパラル2J(1970) 木製 1970
ガルフ・フォードGT40(1969) 木製 1970
ローラT222(1971) 木製 1971
サーティースTS15(1971) 石膏 1971(*当時販売)
フェラーリ312B2(1971) 石膏 1971(*当時販売)
シェブロンB19(1971) 石膏 1971(*当時販売)
アルファロメオT33−3TT(1971) 石膏 1971(*当時販売)
10 マツダ・カペラ・ロータリークーペ(1971) 石膏 1971
11 ミツビシ・コルトF2000(1970) 石膏 1971(*当時販売)
12 マーチ712(1971) 石膏 1971
13 ローラT280(1971) 石膏 1971(友人ハマ製作)
14 GRD S−72(1972) 石膏 1972(同上)
15 ブラバムBT−34(1972) 石膏 1972
 
*印は、1971年当時東京巣鴨の「巣鴨サーキット」にて販売させて頂いていたものです。

最高傑作(?)と自負しております「アルファロメオT33−3TT」(左)と「フェラーリ312PB」(右)
 唯一現存する自作クリヤー・ボディは、左から当時販売した中では1番売れた(?)「シェブロンB19(GC田中弘仕様)」と「シェブロンB21P(GC鮒子田 寛仕様)」
 左から友人“ハマ”が原型を製作した「ローラT280(ヨアキム・ボニエ仕様)」と「ローラT290(GC木倉義文使用)」
 “塗装”
 「ハンブロール(当時は、ハンブローと言っていたような…?)」及び「パクトラ」などと聞いて懐かしいと思われる方は、貴重な60年代を経験なさった方と推測いたします。私は、このエナメル塗装なるものを見たのは、生まれて初めてのことで、マルサン商店の“プラ・カラー”と“プラ・ボンド”しか使ったことがなかった私にとって、その量感あふれる輝きやシルバーなどのメタリックカラーのすばらしさを見て当時えらく感激した思い出があります。
 当時の「ハンブロール」の輸入元は、“朝日通商”というところが行なっており、ほとんどの町の模型屋さんで手に入れることができました。ただし、メタリック・カラーやフェラーリ・レッドなどの特殊なものは、サーキット場などでなければ手に入れられませんでした。
 ところでなぜ私が、「ハンブロール」を使い続けたかというと、「パクトラ」は、「ハンブロール」と比べて全体的にのりが悪く、薄い色になるにしたがって筆むらが出てしまうからでした。どちらにしてもエナメル塗料は、乾燥時間が長く、特に夏場の日本では、乾かすのに苦労したと記憶しています。
 「ハンブロール」は、筆むらを最小限にカバーする優れものでありましたので、筆塗りの下手だった私などは、随分お世話になったものでした。
 私が、クリヤー・ボディに夢中になった原因の1つには、誰でもがうまく塗装が出来たということもあったと思います。裏側から塗っていく作業では、まず筆むらが出ません。そして、短時間で仕上げることも可能でしたので、レースでクラッシュした時などは、すぐにスペアー・ボディを作ることが可能でした。
ただし、今のラジコン・ボディの塗料と違って、「ハンブロール」は、クリヤー・ボディ専用の塗料ではありませんでしたので、クラッシュ時には、必ずといっていいほどボディの裏面と塗装面が分離してしまい、無残な状態になってしまいました。それを防ぐために、私は、クリヤー・ボディの裏面をサンド・ペーパーで全体的に傷をつけ、塗料の食いつきを良くするなどの工夫をしたものでした。
 また、ゼッケンの描き方についても研究し、当初プラ・キットなどのデカールを使用していたのを止めて“烏口・コンパス”を使い、裏から円を描くようにしておりました(見栄えが凄く良くなりました!)。
あれもこれも、今のように、スプレーがない時代の良き思い出でした。
P.S …そうそう、使用後の「ハンブロール」は、蓋をし、逆さにして保管するんでしたね!
 “ドライバー・シート”
 クリヤー・ボディが出始めた1966年頃は、ボディにおけるドライバー・シート規定はとてもゆるくただ、黒紙(「モデル・スピードライフ」誌では、盛んに“ラシャ紙”と言っておりました!)の上に、市販されている上半身だけの人形がそれとなく乗っているばOKでありました。ひどいものでは、元々一体成形されていたウインドーとドライバーをそのまま使用してボディの下に黒紙をセロハンテープで貼っただけのものも数多くありました。
余談ですが、なぜ田宮模型のキットに付いているドライバーの頭は、他のメーカーのドライバーより小さかったのでしょうか?スケール的に小さすぎるとみなさん思われませんでしたでしょうか?
そんな中、ラシャ紙と右の写真のようなドライバーの組み合わせが一般的だった時期に、突如クライマックス社から、全身型(細かくいえば膝まで)のドライバーシートが発売されたのです。プレスされた白地のドライバーシートは、瞬く間に、ヒット商品となりました(グループ7用とプロトタイプ用があり、共に当時80円でした)。それはまさに現在市販されているシートの元祖的存在だったと思います。
 “自作パイプ・フレームの製作記”
 ところで、友人“マル”と我々との「第2回TOKIWADAI地区モデルカーグランプリ」は、1968年の某月某日に丸山・サーキット(?)にて盛大に開かれました。
その時のプロトタイプ・クラスの出場車は、友人“マル”が前回と同じライト工業製クリヤー・ボディ“ニッサンR−380−2(高橋国光使用)”と青柳金属製“R−555”サイトワインダー・シャーシー、そして“マブチFT−26D”モーターとの最強の組み合わせで出場、連続優勝を目指します。
それを撃破せんとする我々は、同じく青柳金属製“R−555”と“マブチFT−26D”の組み合わせに、クライマックス製“ニッサンR−381”のクリヤー・ボディをまとった友人“ハマ”と、自作シャーシー+FT−26Dに、クライマックス製“マクラーレンM6A”のセットで挑む私との三つ巴でありました。
 ちなみに、レース前に前回紹介した“フロント・サスペンション付きシャーシー”を持った“ロータス49B(ゴールド・リーフカラー)”と“マトラMS―11”のデモ・ランを行ないましたところ、なんとコーナーをうまく回れないことが判明したのでした(とってもショックでした!!)。
原因は、あまりにも柔らかいサスペンションに問題があるようでした。対策としては、“スタビライザー”を付けることにより、後日解決することになるのですが・・・。
 “ゴーセン”製コントローラーをまだ持たなかった当時は、ニチモのホーム・サーキット用を使っておりましたが、今回のような、合計80周(1人が走る合計周回数)にも及ぶレースとなると、コントローラー自体の抵抗の発熱により耐えられないほどの熱さを感じながらも必死でコントロールしていたことを思い出します。
 尚、このレースは、2レーンで行なう為、2人づつが交代でレースを行ない、空いている1人がコースマーシャルをするというシステムで行なわれました。
1周8mにもおよぶコースレイアウトは、S字コーナーあり、バンクありの鈴鹿・サーキット・タイプでありました。その長いストレートで一番のスピードを誇ったのは、“ハマ”のニッサンR−381でありました。しかし、コーナーリングは、“マル”や私の方が速く、レースは一進一退の攻防が続くのでありました。そんな時、疲労からかあの冷静な“マル”がスピン!コース・アウトしてしまいました。その時の相手は、私だったのですね!そのまま“マル”を周回遅れにしての快勝でした!
 その他のレース結果は、今となっては思い出せませんが、第一回の雪辱はなったことだけは確かでした。
 私が今でも大切にしている(たまたま持っていた?)“自作・シャーシー”をご紹介しましょう!
1)自作アングルワインダー・スイング・シャーシー+FT−26D(シェブロンB19用)
2)自作アングルワインダー・ダブル・スイング・シャーシー+FT−16D(フォーミュラ・タイプ)
*詳しくは、ここをクリックしてください。
HERE!!

3)自作アングルワインダー・スイング・シャーシー+FT−26D(フォーミュラ・タイプ)
4)自作アングルワインダー・スイング・シャーシー(インディ・タイプ)
5)1/32モノグラム製インライン・シャーシー改+FT−16(1/32タミヤ製プラボディ“ローラT70MK3用)
6)自作アングルワインダー・ノーマル・シャーシー(未完成品)+マーチ712(未塗装 風戸裕仕様)
7)自作アングルワインダー・スペシャルスイング・シャーシー(未完成品)
 *前後以外に、左右の動きを入れて横方向のGを利用しコーナーリング・スピードを上げることを目的とした画期的シャーシー(?)。
 “ジェームズ・ボンドのアタッシュ・ケース?”
 当時憧れだったモデルカー・レーシング用アタッシュ・ケース(?)、ジェームズ・ボンド並みにこんなアタッシュ・ケースを下げて、レース場に行くのが夢でした!!
このアタッシュ・ケースは、私が念願かなって手に入れたものです。そして、1966年頃の月刊「少年」に載っていたすばらしいアタッシュ・ケースも一緒にお見せしてしまいます。
(つづく)

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C 9/JULY/1999 BY HIROFUMI MAKINO