「永遠なれ!巣鴨サーキット」(1967〜1975年)
東京都豊島区巣鴨 第二森川ビル4F・・・。1周50メートル、8レーン・・・、なんと、すごいサーキットだろう!
私は、初めて見る「モデルカー・レーシング」専用サーキットを目のあたりにした時、「ホーム・サーキット」でしか、走らせた事がない私は、何か目から鱗が落ちた心境になってしまいました。
そんな私のホームグランドと化した「巣鴨サーキット」に皆さんをご案内いたしましょう!!
私が中学校2年の頃、すでに、大ブームを起こした「モデルカー・レーシング」も下火となりサーキットを訪れる人もまばらになったころに私と親友の“ハマ”こと浜口晴雄君は、まさにモデルカーに夢中でありました。国電(懐かしい言葉死語?)巣鴨駅を下りて、すぐの所にある森川ビルの4階まで、階段で登り、ガラスのドアを開けるとここが噂の「巣鴨サーキット」です。向かって右側にサーキットがあり、左側には、ガラスケースが2台並び塗装済みの“クリヤー・ボディ”や、コントローラー、専門雑誌等が並んでいる。その後ろの壁1面には、フックに吊るされた未塗装“クリヤー・ボディ”やシャーシ関連部品、デカール、タイヤなどが所狭しと並んでいます。そして、1番奥には、私も大変お世話になった“ボール盤”がデーンと置かれています。これは、タイヤなどを規定の大きさに削る時に大変便利だったもので、巣鴨サーキット・オーナーのファンサービスだったと思われます。実は、私もハマも、このサーキットで、走ったのは数回しかなく、もっぱら部品やボディなどを買うためにやって来ていたというのが本当でありました。しかし、買った量は、半端でなかったと思います。ここには、いつも1人の“おじさん”がおり、とても仲良くしてもらっていました。メガネをかけた少し頭の禿げ上がったおじさんで、いつもランニングシャツ?を着ていたと記憶しています。写真右は、「モデル・スピードライフで紹介された1967年5月か6月に新装オープンなった全長50mの「新巣鴨サーキット」であります。オープン当初は、全長30mのコースでありました。ここで、「モデル・スピードライフ」の解説文を引用させていただきます。(ちなみに、私が今でも大事にしている当時巣鴨・サーキットで私が購入した“パーツ”を少し紹介しましょう。黄色の台紙のものが、巣鴨・サーキットのオリジナルパーツであります。“SUGAMO Tune Up Parts”と書かれており、ガイド・ブラシとピニオン・ギヤであります。それぞれの値段は、当時20円と30円でありました。そして、同じく巣鴨・サーキットで購入した今は無き「青柳金属工業」製のパーツは、左から、軸受けの“オイルレス・メタル”40円、3mmけいの65mmシャフト2本セットで60円、そして右がガイド・シュー受けで40円でありました。どれも思い出がたくさん詰まったパーツです。)
“2周年を迎えた巣鴨サーキットに新コースが生まれました。国電巣鴨駅北口前の便利なところにあり、パーツ類も豊富であります。新コースは1周50mで、スタートラインは約10mのメインストレートの入り口にあり、そこからコントロール前を通り30度バンクの右回り第1コーナーに入り、直線をへてフラットな右回りの第2コーナー、このコーナーの後半分が交差の下になり、その後ろにごく短い直線がありましすが、1〜4コースはコースの陰になり見えません。ここからゆるいカーブの急な登りがあり、上りきった所が最大の難所、右回りのヘアピンです。ここはかなりスピードダウンが必要です。また出口にちょっとしたカーブの継ぎ目があり注意が必要です。ここから大きな左カーブ、直線、10度バンク最終コーナーをへて戻ります。なお電源も強化され通常12V15Aとなりましたが、電圧は25Vまで上げることも可能で、どんなモーターでもOKです。”
私が、高校2年の時、市販のクリヤー・ボディに飽き足らず、なんと石膏で原型を作り、市販されていた“エンビ板”を熱で柔らかくして、型を抜いて製作する自作クリヤー・ボディにかなり没頭していました。そんな時、私は、なんとかこの自作クリヤー・ボディを巣鴨サーキットで売れないかと考え、ある日サンプルを持ってこのおじさんに相談してみたのです。すると、自分は、雇われの身なので、ここのオーナーを紹介するから、そっちへ持って行ってほしいと言われたのでした。そのオーナーの名前は、ビルの名前どうり「森川さん」であり、サーキットの近くに住んでいました。その足で、私は緊張しながら、森川さん宅へ出かけ、このサンプルを見せたのでした。ところが、サンプルを見るなり2つ返事で、「うちに置いてもいいよ」と言ってくれたのです。私は、その時のうれしかった気持ちが今でも忘れる事が出来ません。その時です、森川さんが、卸価格の事を私に言い出したのでした。私は、そのころたかだか17才の学生ですし、相手も少しなめていたのだろうと思いますが、販売価格を250円に設定して、私に、100円で卸してくれと言ったのでした。いくら無知とはいえ、その当時、材料になるエンビ板の価格が、1枚50円しており、その1枚で2台分作れるのだが、当時の私の技術では、成功率50%だったので、とっさに、販売価格も50%にしてほしいと返答したのでした。すると、委託販売ということもあってなんとかOKしてもらうことが出来き、50円アップで生まれて初めての契約交渉を無事終えることが出来ました。こうして、牧野製“クリヤー・ボディ”が店頭に並ぶことになりました。最初、納品した(この言葉も当時は、分かりませんでしたが…)くるま名は、1/24スケール「フェラーリ312PB(1971年型)」、「アルファロメオT33(1971年型)」、そして、ハマの製作した「GRD−S72」でした。それぞれ10台づつ納品して様子を見ることにしたのでした。そして、1周間がたち様子を見に2人で行ったところ、ななんと!!完売!?だったのです・・…。これに気を良くした私は、その後勉強そっちのけで、ボディ制作に没頭したのでした。2回目に納品したのが、当時「富士グランチャン」で人気が出てきた「シェブロンB19」と1971年日本グランプリ優勝マシンの「コルトF−2000」、「フェラーリ312B2」のF−1マシンなどでした。これらも完売し、一応私の“ボディ・コンストラクター”は、大学受験のため一休みということになりました。 |