(1968年5月3日) |
“トヨタの野望”
『第4回日本グランプリ』が終わり、いよいよ1968年ともなると、俄然各メーカーの『第5回日本グランプリ』に賭ける意気込みが表面化してきました。まず、動いたのが前年プライベートの“生沢徹”に敗れた“日産チーム”でありました。 今年より、日本グランプリの“レギュレーション”が変更され、当時アメリカで人気のあった「CANーAMシリーズ」専用マシンも出場できるようになったのでした。これによって、特に、日産は、「富士スピードウェイ」でテストをすでに行っていた“ニッサンR−381”をカンナムカー仕様にするために、“屋根”と“リアーエンド”を取り去り、グループ7カーに生まれ変わらせたのです。それは、まるで“チャパラル2E”のようなスタイルでありました。当初日産は、自社製「V−12気筒5リッターエンジン」を開発してグランプリに出場させるつもりでいたが、ついに間に合わず、アメリカのムーン社でチューニングされたシボレーV8気筒OHVエンジンを買い取り“R−381”に搭載する事となったのでした。一方「第4回日本グランプリ」に不参加だった“トヨタチーム”は、ひそかに“トヨタ7”という本格的なレーシングカーを開発し、この“トヨタ7”は、将来の“ル・マン24時間レース”出場を目指したものでありました。それは、世界マニファクチャラーズ選手権規格に合った排気量3000ccのプロトタイプカーでありました。しかし、当初開発された屋根付きクーペモデルも、日産と同じくレースに有利な“グループ7”規格(CAN−AMカー規格)に改造され“武骨”なスタイルに変身してしまったのは少々残念でありました。(1969年初頭に現れたクーペボディをデザインしたのは、デイトナ・コブラや日野サムライのピート・ブロックでありました!) |
“恐るべし、タキ・レーシング・チーム!!”
ところで、私は、当時中学2年生で、ますます、「モデルカー・レーシング」に没頭していた頃で、「第5回日本グランプリ」は、本当に楽しみなレースでありました。ニッサン、トヨタ、タキレーシング・チームの三つ巴の戦いはともかく、我が“生沢徹”が、なんと、タキレーシングから、最新鋭マシンである「ポルシェカレラ6」の発展型「ポルシェカレラ10(910)」で出場することの方がビッグ・ニュースでありました。さらに、タキレーシングは、ニッサン、トヨタの“ビッグマシン”に対抗するために、5〜6リッターV8エンジン搭載のイギリス製マシン「ローラT70MKIII」を2台も出場させると発表したのでありました。5月のグランプリが近づくにつれて、去年までは、あまり報道しなかった一般週刊誌の「週間プレイボーイ」や「平凡パンチ」などが、いっせいに取り上げ、いやがおうでも「第5回日本グランプリ」は、盛り上がっていきました。 そして、5月2日の公式予選の日を迎え、ポールポジションを獲得したのは、ウイング(ニッサンは、“エアロ・スタビライザー”と呼んでいた。)を高々と掲げた“怪鳥ニッサンR−381”の高橋国光がみごと獲得し(写真右は、田中健二郎のローラT70MKIII、写真左は、北野元のニッサンR−381)、注目のタキ・レーシング・チームの2台の“ローラT70MKIII”は、長谷見昌弘が3位のポジションを、田中健二郎はやや遅れて5位となったのでした。われらが、生沢徹は、やや不調で、11位で、ライバルの黒沢元治の“ニッサンR−380−2”に、約1秒の遅れをとってしまったのには意外でありました。以下、スターティング・グリッドであります。 今回のグランプリから、レース距離が延長され、1周6キロメートルの富士のコースを、昨年の60周から、80周となり、延べ480キロメートルの長丁場で争われました。 |
公式予選結果(5月2日)
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“生沢徹VS北野元”
1968年5月3日、ついに決戦の火蓋は、切って落され、前日のポールポジションをとった高橋国光は、富士スピードウェイでは、はじめての1分50秒88を記録した勢いをかって、前半トップで周回を重ねて行きます。期待のタキレーシングの“ローラT70MKIII”は、予選タイム1分52秒25で3位を占めた“長谷見昌弘“操る“ローラ”がスタート後不調を訴え後退するのと対照的に、田中健二郎の“ローラ”がピタリと高橋の“ニッサンR−381”にくらいついている。私は、絶対スピードで劣る、田中の“ローラ”がたった1度ではあるが、6周目のバンクの出口からS字カーブで高橋を抜き、トップに立った時は、思わず拍手をしてしまいました。しかし、10周を過ぎるあたりから、田中の“ローラ”は、徐々にトップの高橋から、遅れ始め、レースの焦点は、“生沢徹”の動向に移っていったのでした。 前半、4位で周回していた生沢の“ポルシェ・カレラ10”は、田中の脱落により、3位に浮上するも、中盤の40周ぐらいまでは、このままの状態で進んでいきました。一方、オール・トヨタ製である4台の“トヨター7”は、エースである福沢幸男が、かろうじて、4位を保っており、ほかの“トヨター7”は、全て、トップのニッサン勢に、周回遅れにされてしまう状態でありました。 異変が、起きたのは、31周目。やや調子を落して、2位を走行していた、高橋の“ニッサン”が、突然ピットインしてきたのです。なんと、タイヤホイールの“ハブ(駆動軸とホイールを止めているナット)”を傷めて、その場でリタイアしてしまうのでした。このことによって、“生沢のポルシェ910”が、2位に躍進することとなり、期待で私はブラウン管に釘付けとなっていました。しかし、実際にはトップの北野までは約1周ほど離れており、このままよほどのことがない限り生沢の優勝はないのが現実だったのでした(イラストは、田中のローラT70MKIIIと北野のニッサンとのバトル、左の写真は、酒井のローラT70MKII)。 |
“生沢が、トップに立ちました!?”
しかし私は、そのような状況とは知らずに、トップの北野の“R−381”のみ中継し続けるTVを見ており、いっこうにテレビに映らないトヨター7や他のマシンにイラツキながらいいかげん頭に来ていたところでした。 テレビのレース中継は淡々と進み、時間は、ゆうに2時間はたっていたと思います。解説者も、トップの北野元が、いまどのような状態でいるのかも正確に把握していないようであり、退屈な解説が続いていました。そんな時、突如場外放送で、“生沢が、トップに立った!ようです”と放送したので、さあ大変!観客が、わいわい騒いでいるのが、テレビでも伝わってくるのが分かるほどの衝撃でした。解説者も、突然のトップ交代劇に、しどろもどろになってしまい、画面は突如生沢のポルシェを映しはじめ、その後ろに、北野の“ニッサンR−381”が追うという最高の場面となっていました。 確かに、生沢の1周のラップタイムは1分57秒台であり、北野はそれの2秒落ちのタイムで回っており、生沢の方が速い。しかし、80周レースの74周目に、北野は生沢に追いつき、あっさり抜いてしまう。そして、北野はそのまま優勝するのでありました。結局、生沢は、周回数を間違えた場外放送のアナウンサーのおかげで、同一周回で2位となるはずが、1周遅れにされてしまったのでありました。そして、万が一を考えたニッサンチームは、生沢を再度抜くことで、優勝を完璧にしたのでありました。 さて、第5回日本グランプリは、昨年の雪辱を果たしたニッサンの完勝で終ったのですが、早くも、来年に向けて、各チーム一層のパワーアップすることは確実であります。さらに、まったく振るわなかった“トヨタ・チーム”も、本格的な“ビッグマシン”を製作し必勝を誓うでしょうから、本当に来年のグランプリが楽しみでなりません。そして、わが“生沢徹”の動向についても大変楽しみであります。 第5回日本グランプリ 結果
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