(1969年10月10日)
(1969年、中学時代の友人K君より頂いた写真です。) |
“TETSU出場せず!!” |
“幾度となく夢を、私は見ていた!トップを快走していたジョー・シファートのポルショ917がピットに入ってきたのは25周目の事だった。どうやらドライバー交代のようだ。そして、代わって乗り込もうとしているのは、我が生沢徹でありました。現在、2位の高橋国光とは2分ほどの差が開いているが予断を許さない状態だ。
満員の観客はこの時、生沢のピット作業を息を飲んで見守っている。そして、早くもニッサンR−382の高橋国光、3位のマクラーレンM12に乗る酒井が争うように、ヘアピンを回り最終コーナーへと向かって来ている。その頃、ピットでは、ようやく作業が終わり、生沢がピットアウトするところであった。それと同時に高橋のニッサンそして、酒井のマクラーレンが、ストレートに現れた。このままいくと30度バンクで3台は重なるはずだ。ピット・アウトした生沢が、バンクへと消えていく、そしてすぐその後を追うように高橋のニッサン、そしてピッタリとスリップ・ストリームで背後につけた酒井のマクラーレンもバンクへ消えていく! ” こんな、夢を見ながら、私は、1969年を送っていたのでありました。しかし、実際には生沢の乗るマシンがまだ決まっていなかったのです。1967年の優勝者、1968年では2位と彼無しには絶対語れない日本グランプリにおいて、彼の乗るマシンが春の段階でまだ見つかっていなかったのでした。彼が、1967年の世界マニファクチャラーズ世界選手権の最終戦に、ポルシェ・ファクトリーの1員として参加した“BOAC500マイルレース”(伝説のフェラーリ330P−4が、タイトルを決めたレースであり、また、シャパラル2Fが、優勝した記念すべきレースでもありました)や、1968年の同選手権でフル出場した“ワトキンスグレン6時間耐久レース”などのポルシェとの関係や、全ての日本グランプリに“ポルシェ”で出場していることなどを考え合わせると、ポルシェ以外での出場意外は考えられない状況と思われました。そこで、噂が流れてきたのが、“徹は、ワークス・ポルシェ917で、エースドライバーのジョー・シファートと組んで出場か?”というビッグなものでありました。しかし、最終的に発表された日本グランプリ出場ドライバーに、生沢の名はありませんでした。(写真は、生沢がワークス・ポルシェで出場したワトキンスグレンでのショット) |
“揃いに揃ったビッグマシンたち” |
今回の日本グランプリより、伝統の第何回という名称はなくなり、ただ69年日本グランプリという名称となりました。そして、出場車規格も第5回と同じではありましたが、レース距離が前回より40周増えて、合計120周720キロメートルの長丁場になったことが、大きな違いでありました。これを2名のドライバーが、交代で走るのですが、実際はほとんどのドライバーが、1人で走っていました(写真は、期待されたビッグ・マシン“マクラーレンM12”で、本場同様ローサー・モッチェンバッハがドライブしましたが、1周を待たずにリタイヤしてしまいます)。
最終エントリーを見て、本当に驚いてしまいます。何せ、生沢こそいないものの、ワークス・ポルシェのエースドライバーである“ジョー・シファート”が、最新の“ポルシェ917”でタキレーシング・チームより出場するのがまず大ニュースでした。“917”とは、エンジン排気量が4500ccというモンスターマシンであり、優勝候補であります。また、昨年優勝したニッサンチームは、やっと自社製V−12エンジンが完成し、それを積んだ“ニッサンR−382”を3台エントリーしていました。排気量は5000ccで600馬力を搾り出すモンスター・マシンであります。そして、昨年苦杯をなめたトヨタチームは、5000ccのV−8エンジンを搭載した“トヨタ・ニュー7”を5台エントリーし、尚且つ、ワークス・ポルシェのドライバー“ビィック・エルフォード”を呼び寄せて、必勝を喫しているのでありました。その他、アメリカで人気のある「CAN−AMレース」の常勝マシンである“マクラーレンM12”がなんと2台“黒沢レーシングチーム”より、エントリーしており、昨年の「日本CAN−AMレース」で出場していた“ローラT160”とともに、7000ccという超ビッグマシンが、初めて揃うこととなったのでした。それ以外にも、エントリーの段階では、世界メーカー選手権のチャンピオンマシンである“フォードGT40”なども含まれていたのでありました。今思うと、このレースは、アメリカの「CAN−AM」とヨーロッパの「世界メーカー選手権」とをミックスしたようなレースであり、当時高度成長時代真っ只中の日本のレース界を象徴するような、中途半端でなんでもありの大草レースでありました。 |
“前哨戦で強かったチーム・トヨタ!!” |
トヨタチームの日本グランプリへの執念は、すさまじいものでした。いち早く、“トヨタ・ニュー7”を開発し、日本グランプリまでに、行われたレースで、連戦連勝を重ねていったのでありました。
トヨタのレース姿勢は、日産とは違い年1度のレースのみに集中するのではなく、あらゆる種類のレースで勝利することを目標にしたものでした。第5回日本グランプリ以後の“トヨタ7”のレース成績をまとめてみると次ぎのようになります。 “トヨタ7”レース成績”(1968年〜69年における日本グランプリを除くレースについて)
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以上の成績を見る限り、1969年日本グランプリの優勝は、誰が見ても“トヨタ”に間違いないように思えました。
“真打!ニッサンR−382登場!!” |
1969年2月12日、トヨタのエースドライバーであった「福沢幸雄」がヤマハ・テストコースで“クローズド・トヨタ7”をテスト中、突如コントロールを失い土提に激突し、失命してしまったのです。福沢は、1968年度「日本CAN−AMレース」において日本人最高位の4位に入り、トヨタのエースドライバーとしての地位を確立していました。それだけに、今回の事故はトヨタチームにとっては大きな損失となりました。(福沢幸雄については、別の企画で特集したいと思っています)
5月11日の「NETスピードカップ」以来沈黙を守っていた日産が、ついに動きだしました。谷田部テストコースに噂のニューマシン“ニッサンR−382”を持ち込みテスト走行を行ったのです。自社製5リッターV−12気筒エンジンを積んだマシンとしては、先の「NETスピードカップレース」の“ニッサンR―381改”が最初でありましたが、そのマシンは、トヨタ7に敗れているのでありますから、日産のこのニューマシンに賭ける意気込みは容易に想像できます。そういえば、当時この秘密テストをスクープしたAUTO SPORT誌によると、すでにこのマシンは当初発表されていたエンジン排気量の5000ccではなく、それ以上の排気量を持つマシンであることが排気音などで見ぬかれていたのでありました。それを証明するように、日産は、10月8日の予選前日になって車両変更届を提出し、6000ccにエンジン排気量を変更しています。このことより、またしてもトヨタは、日産チームと対等に戦うことが出来なくなってしまったのでありました。 |
“世紀の69年日本グランプリ!!“
日本グランプリのカタログも相当くたびれているものの健在です。 ちなみに、このカタログは当時中学の同級生だったK君が幸せにも親父さんと観戦に行くというので、無理やり頼んで買ってきてもらったものなのです。また、「CARグラフィック」臨時増刊号は、当時いかに日本グランプリが盛り上がっていたかの証明であり、今となっては貴重な本であると思います。 |
タキレーシングチームのオーナー滝進太郎があせっている、頼みのドライバー“ジョー・シファート”の日本到着が大幅に遅れているのだ。
「実際にシファートが富士にやってきたのは予選前日の10月8日だった。はじめてコースを走ったのは、濃霧のたちこめる9日の早朝だった。乳白色の霧の中から、金属音と共に現れ消えるシュツットガルトの純白の巨獣、917。それはまさに、幻想的なシーンだった。いったい、シファートは何を思い、どんな秘策で30度バングを駆け抜けたのか。視界数十メートルという悪条件にもめげず、彼は“1分51秒台”という驚異的なペースで富士を攻めまくっていた。」 これは、当時のAUTO SPORT誌からの引用でありますが、とにかくぎりぎりの来日であったようです。後談として、当時日産チームのドライバーだった黒沢元治が「レース中のシファートは、全然速いとは思わなかった。」とコメントしているのですが…、実際はどうだったのでしょうか。 とにかく決戦の日はやって来た。ところが予選において、ある意味ではレースを左右する大変な事が起こったのです。その内容は、当時のスポーツ新聞に書いてあったコメントであり、私の記憶なのでありますが、今回の最大の目玉であった“ポルシェ917”に装備されていた可動式リア・スポイラーが急遽使用禁止になってしまったのでした。(写真は、スタート前のシファート、いったい何を考えているのでしょうか)理由は、可動式スポイラーが危険だということだからでありました。当時、アメリカの「CAN−AMシリーズ」を除く国際レース規則において、特にF−1レースに関し、1969年半ばから一切の可動式スポイラー及び、高い位置の搭載方法が危険と判断され禁止されていたのでありました。(同年のF−1選手権スペイン・グランプリで事故が多発したため1969年途中から禁止されたのが発端でありますが、スポーツカーレースに関しては正式に禁止されていなかったが現状でした)これによって、ポルシェ917は、セッティングをやり直す事となり、明日の本レースに赤信号がともる事となってしまったのでした。 予選結果は、下記の通りとなり、前年の日本グランプリウィナー北野元がはじめて”1分50秒”を切りポールポジションを獲得しました。 |
1969年日本グランプリ公式予選結果(上位20台まで)
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ジョー・シファートのポルシェにとっては、可動スポイラー禁止によりかなりのハンデを背負った予選となったようであり、
ニッサンとの4〜5秒差はあまりにも大きいように思えました。
“決戦!”
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決勝当日私は、珍しく友人の“ハマ”と一緒ではなく、各自家でのテレビ観戦となりました。このレースの放送時間は、今思うと変則的であり、スタートは、たぶんテレビ放映(NET現テレビ朝日が放映したと記憶しています)の都合からか、11時放映開始で、スタートは、午前11時10分であったはずです。また、放送開始後、1時間ほどで一時放送を打ち切り、改めて午後1時か2時に再開するというものであったと記憶しています。
画面では、多賀競技長が日章旗を振り上げ、そして振り下ろしたところでした!一斉に、31台のマシンが爆音と共にスタートしていきます!!ついに、世紀の大レースが始まったのです。 この頃のスタート形式は、1列目になんと4台が並び、2列目がそれぞれ1列目の間に位置して3台というように、4,3,4…の今では考えられないやり方で行われていました。 まず、飛び出したのは、トヨタ7の久木留とエルフォードでありました。続いて、ニッサン勢がスタートにもたつく合間をぬってシファートのポルシェ917、そして、川合稔のトヨタ7が飛び出して行きました。川合は、30度バンク手前までに3台を抜き去りトップで第1コーナーへなだれ込んでいきます。バンクでは、練習不足を補う走りでシファートがエルフォードを下から抜き去り2位へ進出し、トップのトヨタ7に迫る勢いです。そして、ヘアピンカーブ手前までに、川合にピタリとつきトップを狙いますが川合にブロックされそのままメインスタンド前に戻ってくることになりました。(写真は、川合のトヨタ7とシファートのポルシェの攻防) オープニングラップを終えて、トップは川合のトヨタ7、続いてシファートのポルシェ、少し遅れてエルフォードのトヨタ7が続き、ニッサン勢は4〜6位につけています。ニッサンR−382がスタートに遅れた訳は、高速走行用にギアをセッティングしているため、ギア比が高くスタートが遅くなったのでありました。また、期待の酒井正ドライブのローラT160は、S字カーブ手前で、スピン!その後ミッションを壊しリタイヤする事となりました。さらに、タキ・レーシングのタキ・ローラT70とマクラーレンM12も1周待たずにリタイヤするという波乱の序盤戦となりました。 レースのハイライトは、3周目に起こったのです、ヘアピンでトップの川合がわずかにアウト側に膨らんだ所をシファートが強引にインをつき抜き去ったのです。観客騒然であります!! そして、シファートは、1分50秒台のハイペースで川合を引き離していきます。しかし、ニッサンの高橋国光が、早くも川合を抜きシファートとの差を詰め始めています。なにせ、高橋の予選で見せた1分45秒台は伊達じゃないのが分かります。ニッサンはまだまだ余裕なのでしょうか?! シファートは、6周目までは、なんとか高橋の猛追をしのいでいたのですが、ついにヘアピンカーブの手前で後続車(高野ルイのロータス47GT)にシファートが躊躇している間にインをつきアウト側からかぶせて来たシファートをかわし、ついにトップに立ったのでした。その後シファートは、ニッサン勢2台にも抜かれ4位に後退し、次第にトップ3台から遅れ出していきました。それとは反対に高橋は、1分48秒台で周回を重ねトップを独走していくのでした。 そんな時テレビ中継が、高橋トップ独走の途中で一時中断となるのでありました。 |
“トップの高橋がいない?!” |
テレビ放映中断中私は、友人の“ハマ”と電話で、お互いの優勝予想を言いあっていました。お互いに、高橋の優勝は硬いとよんでいたのですが・・・。
午後1時になりました!私は、テレビ放送開始を首を長くして待っていたのありました。そして、最初に私の目に飛び込んできた画像は、ブルーの高橋のニッサンではなく、イエローのニッサンだったのでした。なんと、黒沢元治のニッサンが現在トップだというのです。あれだけトップを快走していた高橋国光は、30周目突然ヘアピンカーブでスローダウンしピットイン、約4分20秒後再出走したのですが、その後は下位を低迷し続けているのでした。これで高橋は、日本グランプリ2連続トップを走りながらの後退であります。まったくついていません。こんなことから、人は彼のことを“無冠の帝王高橋国光”ということになるのでした。 ところで、シファートのポルシェはというと、5位走行中41周目にピットインし、コ・ドライバーのデッビッド・パイパーと交代し再スタートするが、来日後5周しか走っていないパイパーは、まったくさえず1分59秒台で周回するのがやっとで7位に後退していたのでした。そして、84周目再びシファートが乗りこむととたんにペースが上がり最終的に6位でフィニッシュを迎える事となるのです。同じポルシェで、冴えたところを見せていたのは、田中健二郎操るポルシェ908でありました。ポルシェ・ワークスのハンス・へルマンより2〜3秒速いラップで周回を重ね、実力を存分に見せつけたのはさすがでありました。(写真左は、田中健二郎のポルシェ908) レースは、その後40周あまりは、正直言って退屈な展開でした。唯一、最終ラップのヘアピンコーナーでシファートのポルシェがタイヤをバーストさせ、裂けたタイヤを引きずりながらゴールを迎えた時に、そのファイトに対して観客から喝采を浴びていたのが印象的ではありました。結局優勝したのは、黒沢元治のニッサンR−382でした。120周720キロメートルのレース観戦は、実に長かったというのが私の正直な感想であります。それを1人で走りきった黒沢、北野、そしてトヨタの川合、みんなよくやったなという感じでした。なにせ、3時間42分もかかったレースなのですから・…。(写真右は、優勝した黒沢元治のニッサンR−382) |
ここに、1969年11月に発売された二元社発行の「CAR グラフィック 11月号増刊“69日本グランプリ”」に、今回のレースについてのコメントが出ていたので引用して書いてみました。
“従来5月に行われていた日本グランプリは今年から10月に開かれる事になり、5月にはJAFグランプリのタイトルでフォーミュラ・カーによるレースがすでに行われた。 69日本グランプリは、10月10日、富士スピードウェイに約10万人の観衆を集めて開催された。メインイベントの日本グランプリは、昨年と同じくグループ4,6,7の混合レースで、レース距離は更に延長されて120ラップ720Kmとなった。今年は、大は7リッター・マクラーレンから小は850ccのホンダS800スペシャルまで実に53台が参加申し込みをしたため、安全確保の見地からレース前日に至って突如レースを2つに分けるという決定が一旦はなされたが、結局当初の計画どおり、2分20秒の基準タイムを切った31台でレースは行われた。参加車の内容も今年はかつてないほど密度の高いもので、ニッサンR−382(6リッターV12)3台、トヨタ・ニュー7(5リッターV8)5台、いすゞR7(5リッターV8)2台の日本製に対し、タキ・レーシングからポルシェ917(4.5リッターH12)、黒沢レーシングのマクラーレンM12(7リッターV8)2台など、大容量エンジン車が14台も参加した。とくに917にはジョー・シフェール(オートスポーツ誌では、ジョー・シファートという?!)、マクラーレンにはモッチェンバッハという超一流が乗るというので、ニッサン、トヨタとの対決が大いに期待された。しかし絶対的な練習不足はいかんともしがたく、レースはまたもやニッサン・チームの圧勝に終わった。トヨタは1リッターの差でニッサンには敗れたが、917には勝ち、日本のレーシング・マシーンも遂にここまで来たかの感慨を見るものに抱かせた。” |
69日本グランプリ結果 出走台数31台 規定周回完走台数17台
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またも日産の圧勝で終わった日本グランプリ。しかし、トヨタがニッサンを倒す事は遂にありませんでした。このビッグマシンの激突に沸いた60年代日本グランプリは、1969年以後2度と開催される事はなかったのでした。あまりにも急激なマシン開発費用の増加と度重なるトヨタ専属ドライバーの死亡事故、公害問題やオイル・ショックなども重なりトヨタも日産も風船が爆発するように活動を中止してしまったのでした。そして、その後私達レースファンは、60年代の日本グランプリの思い出を、走馬灯のように寂しく思い描いて、しばらくの間我慢し続けていかなければならなかったのでした。後に私を夢中にさせることになる「富士グランチャンピオンシリーズ」の登場はまだ2年先のことでありました・…。
(富士グランチャンピオンシリーズ)
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