第4回日本グランプリ
(1967年5月3日)
 

 1967年5月、私は、小学校を卒業して中学生となっていました。1年1組で、 担任は、女性?(結構年齢はいっていたと思うが・・・。)の鈴木先生であった。私の成績は、相変わらず最低でした。しかし、“モデルカー・レーシン グ”に対する熱意はぜんぜん変わっていませんでした。その頃になると、レーシングカ ーの数も増えて、6台ぐらいになっていたと記憶しています。覚えているだけで 田宮模型の「1/24マクラーレン・エルバ」、「1/24プリンスR−38 0」、「1/32ロータス30」、アメリカの有名な“K&B社”「1/24 ポルシェ904GTS」などが手元にあった記憶があります。そして、絶頂を迎えつつあった“グル ープ・サウンズ”にも夢中となり「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」や 「ザ・スパイダーズ」を始め、“インストロメンタル・グループ”の人気者 「ザ・ヴェンチャーズ」などの影響を受けて、小学校時代の同級生と“ザ・エ コーズ”というグループ・サウンズまで結成してしまったのでした。 
 ところで本題の67年5月3日は、親友の“浜口君”と共に私の家で白黒テレビで放映中の『 第4回日本グランプリ』に釘ずけとなっていました。“ヨーロッパ修行”より帰っ た“生沢徹”がトップで予選を通過し、本レースでもトップを快走中なので2人とも興奮状態が続いていました。ところが、18周目、2位の日産チームの“高橋国光”の乗る「ニッサン R−380−2」と絡んだ生沢が、“S字コーナー”で痛恨のスピン!!2台と もスピンしダートへ突っ込んで止まったのです。原因を作った生沢は、すぐ にレースへ復帰しましたが、高橋のR−380は、エンジンがストップしてしまい 復帰するのになんと1分以上掛かってしまい優勝戦線から脱落したか と思われました。生沢は、すぐにピットインし、車体をチェック後すぐに戦列に復 帰し、生沢と同じ“ポルシェ・カレラ6”に乗るトップの“酒井正”を激しく 追いかけていくのでした。ちなみにこのレースには、3台の「ポルシェ・カレラ6」が 出場していましたが、それぞれプライベートエントリーであった為、プリンス を吸収合併し意気上がる日産チームのようなチームプレーは期待出来ませんでした。 ちなみに“生沢徹”は、このレースのためヨーロッパのF−3レースの数戦をキャン セルして必勝を誓っていたのですから、意気込みが他の選手と違うのが子供の私にもひしひしと伝わってきました。実は、彼が“ポルシェ”を獲得す までには大変な苦労があったのでした。生沢は、腕を上げるために実費で“ヨーロ ッパ修行”に行くために、当時のプリンス自動車を辞めたのでした。そし て、思惑どうり何レースか、優勝するまでに成長した生沢は、この「第4回日 本グランプリ」も当然優先的に“日産チーム”より出場できると踏んでいたの でした。しかし、答えは「ノー」でした。日産チームは、高橋国光らを抱 えており、レースでも旧プリンス系のドライバーである“砂子義一”と“大石秀 夫”の2人がおり、とても生沢を入れる枠はなかったのでありました。 その後、生沢は、“ヨーロッパ”の経験を生かし当時誰もやったことがない “スポンサー”を探すことに明け暮れました。それは自分を宣伝媒体として売り込み、その収益により出場車を手に入れるのが目的でした。何軒か当たるうちに、生沢は、「コカコーラ」の独占に対して市場進出を狙っ ていた「ペプシコーラ」と意気投合して契約にこぎつけ、そして、当時の若者に大人気だった 「VAN」とも契約に成功し、資金調達なった生沢は、念願の「ポルシェ・カレラ6 」を手に入れることができたのでした。だからこそ生沢は、絶対にこのレースに勝たなけれ ばならない宿命を背負っていたのでした。事実、彼は、公式予選において、誰 も破ったことのない“2分”の壁を破り、ただ1人“1分59秒43”を記録 したのが何よりの証明でした。ちなみに、2位の酒井は同じ車で“2分2秒30”であったのですから、いかに生沢のタイムが速かったかがわかると思います。  レースは、生沢がその後酒井をかわしトップに立った直後にこの日最大のド ラマが起ったのでした。 46周目、再度生沢に挑んでいた酒井のポルシェが第1コ ーナーの30度バンクの最上段で突然“ふわ〜と”空中に舞い上がったと思う とガードレールに激突しそのままガードレールを飛び越えて逆さまになって地 面に激突したのでした。無残にも酒井の「ポルシェ」は原型をとどめないほど変わり果てた姿になっていたのでした。誰もが、酒井の 安否を心配していたのですが、なんとかすり傷だけの軽傷ですみ、このことより、ポルシェの安全神話が生まれたのでした。 結局レースは、生沢の初優勝で幕を閉じました。レース後、特に印象的だったのが表彰式で2位と3位の各選手がこのレースのスポンサーであった「コカコ ーラ」を飲んでいたのを生沢は断り、缶入りの「ペプシ・コーラ」を受け取り 飲んでいたのでした。これを見たスポンサーが喜んだのは言うまでもないことでした。 なお、第2位には、前半生沢のスピンに巻き込まれた“高橋国光”が猛烈な追 い上げで入り、3〜4位もニッサンR−380が占めたのありました。  このレースは、生沢による生沢の為のレースであり、これをジャンピングボ ードにして彼は、その後“スター”の道を駆け上がっていくのでありました。 レース出場車について触れたいと思うのですが、何せこのレースは合計で9台し か出場しておらず、生沢と酒井のデットヒートがなかったらなんと淋しいレー スになっていたことかと思ってしまいました。 この少ない出場車の中で、注目を浴びたのはアメリカの“CAN−AMシリー ズ”で活躍していた“ローラT70”が2台出場したことです。ところが、 「日本グランプリ」が“世界スポーツカー選手権規約”で行われていたので、 “屋根”と“スペアータイヤ”が付いていなければならず、それゆえに このような“哀れな姿”で出場しなくてはならなくなったのでした。特に、“R・ク ラーク”選手の車は、なんと“ベニヤ板”を使って作ったというからひどいも のでありました。 それと忘れてはならないのが、予選で“失格”してしまいましたが、デイトナ・コブラのデザイナーであった “ピート・ブロック”が製作し、日野コンテッサのエンジンを搭載したマシン 「ヒノ・サムライ」です。本当にすばらしいマシンでした。とにかく、今見てもとても美しいのです。 「フェラー リF−40」のデザインコンセプトを20年も前にすでに完成していた(?)とは驚きで ありました。また、前年完走したダイハツは、なんと予選基準タイムに達せず無念の “失格”という残念な結果になってしまいました。 この年、トヨタは出場しておりませんでした。噂では、密かに“レーシングマシン”を製作して 来年に賭けているとのことでありますので来年を期待したいと思います。今回5位完走を果たした“滝進太郎”は、 自身のドライバー人生にけじめをつけ、日本で初めてのプライベートレーシング チームのオーナーとして新たな人生を歩む事となり、来年がとても楽しみで あります。また、今回のウィナー“生沢徹”の次なる行動も気になるところでもあります。このレース後、生沢は、落ち着く暇もなく再びヨーロッパへと旅立っていったのでした。 
“TETSU”頑張れ!!
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