帰ってきたTETSU
“プロローグから終焉まで”
 1968年4月、富士スピードウェイに“不死鳥”が帰ってきた!! 
日本グランプリ2連勝を賭け、最強のドライバーが今戻ってきたのだ!! 
今回は、滝レーシングチームの1員として、“ポルシェ・カレラ10”で世紀のイベントに挑む。滝レーシングには、今回ポルシェ以外に、“ローラT70MK3”というビッグマシンもあるが、生沢は、あえてポルシェにこだわり、排気量の小さい“カレラ10”を選んだ。長丁場、80周480キロメートルレースには、耐久性を誇るポルシェで十分勝機有りと読んだようだ。 
=生沢 徹 プロフィール=
 1942年8月21日、東京で生まれる。父親は、有名な画家の生沢 朗氏。日大芸術学部を卒業後、二輪レースの世界へ入り、昭和30年に開かれた有名な浅間火山レース(今でいうロードレースとモトクロスレースをたしたようなコースで行なわれた良き時代のレース)など、数多くのレースに出場し、頭角をあらわす。のちに、プリンス自動車(1966年に、日産自動車に吸収合併される)に入社し、1963年の第一回日本グランプリに、スカイライン・スポーツGTを乗りデビューする。特に、第二回日本グランプリでは、当時最強だった式場壮吉のポルシェ904GTS相手に、非力のスカイラインGT54Bで、一時はトップに立つなどの健闘を見せ、のちの“スカイライン神話”を作る。また、1965年に今は無き「船橋サーキット」(今の競輪場)で行われた全日本自動車クラブ選手権レース大会において、故“浮谷東次郎”との死闘を展開し、後世語り草となっている。その後、1966年第3回日本グランプリでプリンスR380で出場した後退社し、レース修行のため単身ヨーロッパへ出かける。渡欧後、1967年度イギリスF−3選手権シリーズにおいて、日本人初の優勝を記録し、さらに、同年の国際レース「ニュルブルクりンク500キロレース」(当時の西ドイツ)では、白地に日の丸をあしらった塗装の“ホンダS800クーぺ”で1000cc以下のクラス優勝を飾るという快挙を達成した。その年の第4回日本グランプリでは、4台の“ニッサンR380−2”を相手に“ポルシェ・カレラ6”を乗り優勝するなどスター街道をばく進する。また、1968年には念願のポルシェ・ワークスのドライバーとして、世界メーカー選手権のかかったワトキンスグレン6時間レースに“ポルシェ908”で出場を果たす。1970年からは、ヨーロッパF−2選手権に挑戦し、“ロータス69FVA”を乗り、好成績を残すが、1972〜73年にかけて、故風戸 裕共に結成した“チーム・ニッポン”で使用した新興メーカーイギリスのGRD社の“GRD 272”の不調もあって、1973年をもってヨーロッパでのレース挑戦を断念、よって“F−1レース”参戦という壮大な夢は消えた。その後、富士グランチャンピオンレースなどの日本中心のレース活動を続けるが、1973年に元トヨタのエンジニアだった加藤真の“シグマMC73”で、鮒子田 寛らと共に、栄光の“ル・マン24時間レース”に初挑戦する。その後1977年度富士グランチャンピオンシリーズの総合チャンピオンとなったあと実質的な引退をするが、1980年クレマー・ポルシェ935ターボで再度“ル・マン”に挑戦するがリタイヤに終わる。1980年代は、F−2チーム監督として、中島悟らを育てる一方、ヨーロッパ日産チーム監督として、ル・マンなどの耐久レースの指揮をとり、日本のモータースポーツの発展と選手育成に尽くし現代に至る。
           TETSUと彼のロータス69・FVA、1970年シーズンを戦った。
 生沢を語る上で、どうしても欠かせないのが「第二回日本グランプリ」でのスカイラインによる活躍であります。この当時を知る上でまさしくうってつけの記録番組「日本モータースポーツ史 ーサーキットを駆ける男達の夢ー」が1992年4月5日に放送されておりました。この番組は、当時花形的活躍し、日本の草分け的レーシングドライバーであった“生沢 徹”や“式場壮吉”、そして、“高橋国光“らのインタビューを通し、当時を回想するという内容でありました。私は、運良くこの番組を録画しておりましたので、特に中心的扱いで登場していた“生沢 徹”と“式場壮吉”、そして、当時レーシングドライバーもしていた歌手の“ミッキー・カーチス”を交えたインタビューを引用させていただきまとめて見ました。 また、邪魔にならない程度に主宰者のコメントをカッコの中に交えました。 写真左から、ミッキー・カーチス、式場壮吉、そして徹。 

“日本モータースポーツ史 ―サーキットを駆ける男達の夢ー”
 ナレーション
 “鈴鹿サーキットがオープンして、日本のモーターサイクルレースは、黄金時代へと移っていった。一方、4輪レースも1963年昭和38年5月3日、第一回日本グランプリ自動車レースとして幕を開けた。当時、高速道路も、名神高速道路の一部が開通しただけであったにもかかわらず、2日間で28万人もの観衆を集めた。この第一回日本グランプリは、排気量によって分けられ、11ものレースが繰り広げられた。国産車はまったく初めてレースというものを体験したのである。実際、車のハンドルを握るのは、裕福な家庭の子弟か、2輪上がりの叩き上げドライバーの2つのタイプしかなった。全てが初めての経験であった。” 
 “そんな混乱したレースの中から、2人の若きヒーローが誕生した。ツーリングカークラス優勝の式場壮吉、そして、生沢 徹である。” 画面は、第一回日本グランプリの記録映像へと変わる。 
 続いて、生沢 徹式場壮吉、そして、別収録してあるミッキーカーチスらへのインタビューが始まる。
式場: ロータス系の…、ロータス23の速さがね、本当に…、ピーター・ウォー(1991年当時のF−1チーム・ロータスマネージャー)、今の彼がね、速くてね!彼の乗ったロータス23ね、忘れられないですね。あれ乗り易い車なんですよね。 

生沢: オレ、印象的なのは、ハンシュタイン(1960年代のポルシェ・ワークスチーム監督)・・・。彼は、当時すでにお爺さんなんですよね。ポルシェで来た人・…。お爺さんなのに、ポルシェを斜めにしながら走るんだよね!すごいなと思って…。 

式場: 徹が言うように、往年の古き良きレーシングドライバーのように、タイヤを滑らせて走る・・・、ポルシェ独特の走りをする。ロータスの場合は、全然…、止まる寸前まで止まらない独特の走りがあったと思いますね。 

 ナレーション
 “第一回日本グランプリが、青春の息吹とするならば、第二回日本グランプリは、まさしく伝説の誕生である。1964年が秋に、東京オリンピックが開催される年でもあり、前回より一段とスケールアップした大会となった。全ての自動車メーカーが、何らかの形で参加する最初で最後の大会と記録される。中でも力を入れていたのは、プリンス自動車で、スカイラインGTをようして乗り込んできた。そのエースドライバーは、生沢 徹。その前に立ちはだかったのは、式場壮吉の乗ったポルシェ904GTSクーペ、当時最新鋭のレーシングカーであった。”

生沢: もちろん、オレら、当時かなり飛んでた若者たちだから、今はさ、そのポパイ、アンアン、ノンノ、ブルータス、ガリバーだって…、外国の情報分かるけど…、なんでも、もう自動車にしてもその日の内に、グランプリ分かるけど…。当時は、半年遅れの船で、届く向こうの自動車雑誌で知る情報しかなかった…。 
ポルシェが、すごいスポーツカー出したってことは、英国の本で知ったのよ。それを、ホテル・オークラのカメリアでね…、オレたちの溜り場だったわけ。もう毎日、誰かしらそこには、24時間中必ず誰かがいるわけ。 昼であろうと、夜であろうと、そこには、誰かオレらの仲間がいて…、溜り場だった。 
そこでね、実はあれ買ってそれで出るといったのを聞いて、ショック!! 
それまでは、一応、スカイラインGTがダントツだったわけで、テストでもそのクラスで…、プリンスが前年惨敗して、もう頭来て全社上げて必勝命令でGTクラスは、特別に車作っちゃってダントツだったわけ。テストで・・・、こっちは、三菱・ミニカで出て、トップのつもりで、突然セナのF−1が出ると決まっちゃうようなもんや、敵に…。勝負になんない車が来ちゃうわけ。その時のショックね…。オレは、同じクラスに出るけど、出ない人までショックなわけ。みんなぶっ飛んで、その車が日本のレースに来るって…。今では、フェラーリF−40でもなんでもね・・・・。
式場: 僕はやっぱりハンシュタインさんの乗られたカレラ2で十分満足…、あれで出られれば最高にいいと…。ハンシュタインさんが、いやどうせならやっぱりアジアに1台まわそうと106台作ったんですね、それでアメリカにまわす6台の中の1台削ってくれて…。僕はもう中古のハンシュタインが使われたクラスの2000のカレラ2で十分だと思っていたから…、それで出られれば最高と考えていたんですね。 

生沢: 町乗りのね、いわゆる普通町を走ってるポルシェ程度が来るとわれわれが想像しているのが突然マクラーレンホンダが来るってことになっちゃったのよ、わかる? 

式場: ずいぶんオーバーだな! 

生沢: そのくらいの差だったから…。本格的レーシングカーだから…。 

 ナレーション
 “その圧倒的な力を誇るポルシェが公式予選でクラッシュ!”

式場: 雨が降ってましてね。その中であんまり無理しないように走っていたんですよ。非常に無理せずに走っていたんですよ。ところが、新型のレーシングカーなもんですから、普通はこう…、それまでのレーシングカーは、座席が動くような感じですね。ところが、あの車から、ハンドルが動くのと、座席が動くとバランスが狂うので、アクセルペダルとブレーキペダルが動く…、3個が動くんですね。それで足の長い人用に調整…、ハンドル調整とペダル類の調節をするようなマシンだったんですけど、そのペダル類を調節をしているピアノ線みたいのがプツンと切れてしまったんですね。あとで、逆にしましたけど、パツンと切れた時にいきなりペダル類が前にくる感じでアクセルを吹かしてしまう感じだったので・…、空回りしちゃうわで…、おっかない状態でしたが…。プラスチックボディでしたから、以外とぶつかった時のショックは無くてプラスチックのレーシングカーはいいなと思いましたね。車のダメージはひどかったんですが・・・・。 

 ナレーション
 “5月3日の決勝レースでは、3位からスタートした式場のポルシェがあっさりとスカイラインGTを抜きトップに立った。徐々に確実に他の車を引き離していく。しかし、7周目、ここでハプニングが起こる。スローダウンした式場のポルシェを生沢のスカイラインが抜き去ったのだ。観客は興奮の坩堝と化し、これがのちの“スカG伝説”の誕生ということになった。しかし、ここには2人だけの知るエピソードが隠されている。”

生沢: レース前に、頼む1周だけトップやらせてよって…、やってたのね!冗談だよ!(笑) 
本心は、勝とうと思っているけど、どっちにしても車のレベルが違って、まともに行ったら行っちゃうから、1周だけ・…(笑)。 

式場: それは、ずいぶん頭にこびりついてたんですがね、まあ、女性のドライバーの…、今思うと信じられない人がこのレースに出てたんですよ。TR−4(イギリスの名門スポーツカーのトライアンフTR−4のこと)かなんかで・・・。 

生沢: 仮免練習中みたいなさ…。(笑) 

式場: その人に・・・、2周したら、あっという間に追いついちゃったんですよね。 

生沢: 遅いんだよね。2周で1周遅れだよ! 

式場: その方が、ヘアピンに出てきちゃったんで、僕がそこでどっち行くのかわかんないんで、一瞬躊躇してたら、そうしてたら徹が内側からダーと抜いてって・・・。 

生沢: それからはもう、1周だけでもトップと思うからさ…。 

式場: 徹は、バックミラーも見ずにプラクティスのような走りで、全然バックミラーも見ない。正直言って、スプーンのアウトで抜けたんですけど、抜けたんだけど、いやこりゃ〜、あいつも言ってたから、1周徹の後ついてこうかと……。そしたらメインストレートで観客が立ってるのよね。 

生沢: 観客の…、あの当時シケインないでしょ、カシオトライアングル?何しろ、あそこから全開で降りてくるわけね、正面にスクリーンみたいに観客席が見えるのよ、ワァーッて立ってるのが見えるんだよね。それこそこんな感じよ!(生沢が笑顔でピースサインをする) 

式場: ずっとピッタシ…、ずっと我慢して、すると後ろが迫ってくるわけですよね。ヘアピンからスプーンで今度は前行かせてもらおうと、そっから、今度は、真面目に行こうと…。結果的には、もう徹のスカイラインGTを褒め上げる結果になりましたよね、私は。(笑) 

生沢: というか、あれが日本の自動車工業界の曙だよね!!(誇らしげなTETSU!) 

式場: 当時、優勝しますと、2〜3位の方と回るんですよね。3人でね、オープンカーで…。もう当時、やっぱり10万近い観客が入ってて、「式場ーっ!来年は国産車に乗れーっ!」とか、「生沢ーっ!式場に負けるなーっ!」。みんなそれぞれね・・・・・・・。 

生沢: 生沢よりも、日本の車が健闘したという事が、みんなを興奮させたんじゃないですかね。 

 ナレーション
 “スカイラインの技術は、世界のトップレベルだと、そして、“スカG”という愛称が若者たちの間に芽生え、やがて全国津々浦々にまで広まっていきました。”(アニマルズの朝日のあたる家のバックミュージックが流れ出す) 

 “第二回日本グランプリが開かれた年、1964年の銀座、みゆき族が闊歩したのもこの夏のことであった。この年、創刊された“平凡パンチ”、“VAN”。この袋を抱えて歩くこと事体がファッションとなったものである。このアイテムが車とファッションと若者を結びつけた。生沢 徹、式場壮吉の2人がそんな若い世代が送り出した新しい時代のスターであった。”(再び、インタビューが始まる)
生沢: 当時われわれは、やっぱりトヨタであろうと、プリンスであろうと、いすゞであっても、みんな毎日、オークラ・ホテルのコーヒーショップで集まっている仲間であるわけじゃない、仲間なわけね。レースとなれば負けず嫌いだから頑張るけど…。だから、冗談で「このレース、壮ちゃんにあげるよ!」なんて言ってると、プリンスなんかの部長さんや偉い人が、「生沢は、かってにレースを投げてる!」とか、「他人にレースを譲ってる!」とかさ、真面目に怒ってんだよね。それとか、彼の(式場の)ポルシェ…、事故から直ってレース当日ぎりぎりに間に合ったわけじゃない、仲間の車だから、ライバルと同時に仲間の車じゃない。だから、押したり手伝ってあげるじゃない、そしたら、「あいつは、ライバル車を手伝ってる!」って…、怒られたんだから後で…!!(生沢、苦笑い!) 

式場: 僕が、ゼッケン貼るの遅れてたらね、徹たちが出て来て手伝ってくれたりしたんで…。今考えれば、ずいぶん和やかな時代だったなと・…。 

生沢: 同じウェア着たりとかね…! 

式場: 仲間が全部別々な会社に入ったのに…。 

(突然、別録画の“ミッキー・カーチス”が登場!) 
M.カーチス: 全員、大仲良しだったわけ、生沢にしても、式場にしてもね! 
メーカーが一番気に食わなかった部分だったの、それが。だから、みんな長続き…、生沢は別として、プロ、一応銭もらって走るわけだから、みんな辞めちゃったのは、そういう面もあるんじゃないかな? 
 仲間だから、みんなべらべらべらべら…、うちのエンジンはさぁ〜みたいな世界になっちゃうわけよ。ところが、トヨタとしちゃ、そんなこといわれたら困っちゃうみたいなとこあるわけじゃない?日産とかさ、三保敬(三保敬太郎のこと)が、日産だったかな? 

(再び、式場と生沢のインタビューに戻る) 
生沢: 彼は(式場)トヨタ、オレはプリンス、みんないすゞだ、三菱だ、みんな各社それぞれ散ってるのに…。 

式場: どこの給料がいいとか…。(笑) 

生沢: 全員、同じね、真っ赤なね、セーター着てたんだ。表彰台でも、チーム違っても真っ赤な同じセーター着て…。そんなのもう反感かって、もう大変だった。(笑) 

式場: 僕たちは、ヨーロッパのレースの写真とか、ヨーロッパやアメリカのレースの雰囲気が明るいわけですよね。今は、僕らもびっくりするぐらい、プールサイドかしらと思うぐらいの明るさですけど…、当時は、もっと真剣というか…。 

生沢: 当時は、われわれの志向は、ヨーロッパ志向だから、モータースポーツは、貴族のスポーツから入っていくし、モナコグランプリなんか、まだその名残があるぐらいで、ちょっと気取り風だったわけ。だからって、レースを真剣にやってなかったってことはないね。貴族のスポーツマンが真剣にやるように、そういうのがちょっと受け入れられないところがあったよね。 

 ナレーション(ミッキー・カーチスの歌うバラードが流れる…。) 
 しかし、この時代は若者にとって、モータースポーツを純粋にエンジョイした一番いい時代だったのかもしれない。
 以上で、2人のインタビューは終わるのですが、私は、小学校6年当時「エレキ」ブームの中、「ヴェンチャーズ」に夢中となり、翌年には、親にエレキギターを買ってもらい“エコーズ”というグループを友人と結成しました。しかし、世間はそんな私たちを「不良」のレッテルを貼りました。何をやっても頭を押さえつけられてしまう時代、生沢 徹のインタビューを聞いていてそんな同じ時代の臭いを感じずには入られない思いがしました。モータースポーツ・ライフこそが、徹らにとってのファッションであり、青春(?)だったのかは分かりませんが、それが「スカイライン神話」を作った原動力だったことは疑いもない事実なのであります。

さて、話しは、1968年の日本グランプリ当時に戻ります。何故に生沢がポルシェにこだわるかの理由の一つとしては、第二回日本グランプリでの式場壮吉のポルシェの圧倒的なスピードに魅せられたことも一つの理由ではありますが、第4回日本グランプリでのポルシェカレラ6による優勝による影響こそが最大の理由なのではないでしょうか。 このことについては、1989年に、テレビ朝日系で放送された「カーグラフィックTVスペシャル」において、当時を語る生沢へのインタビューがありましたので、その部分を引用して書いてみました。 

=カーグラフィックTVスペシャル “日本グランプリ特集 懐かしきマシンたち”より=
 TV映像は、当時のポルシェカレラ6を生沢が現在ドライブしている場面が映し出される。 
そして、車を降りた生沢を、自動車評論家の吉田匠氏がインタビューするところから始まる。画面には、“1942年8月21日生まれ。東京都出身。第一回日本グランプリでスカイラインで出場し、二輪からの転向を果たす。67年第4回日本グランプリには、カレラ6で優勝。”のコメントが流れる。 
以下インタビュー 
生沢: 日産は、ほら、プリンスと合併しちゃって、ドライバーがもうすごい人数いて、日本の典型で年功序列だからさ、要するに俺は、プリンス辞めてヨーロッパ行っちゃってるわけだから…、だから、上手い、下手で評価しないわけよ。俺なんか、腕上げて帰ってきたはずなのに、駄目だって。雇わない、うちはドライバーいるからって・・・。だから、ある意味では、こんな痛快なレースなかったね。見返せたわけだから!!
この車が、のちの俺を全部…、まったくのジャンピングボードだったね!
 ポルシェにより、生沢の人生が変わったのです!第4回日本グランプリでの勝利が、生沢を世界に向けさせた原因の一つだったのではないのでしょうか。 その胸滾る誓いの内容は、本人著作「チェッカー旗はまだか」に書かれ彼の将来は前途ようように思えたのでしたが・・・(右画像参照)。 
 

*「追悼企画!瀧進太郎死去!!」において、同じくCGTVスペシャルで、瀧氏が語る日本グランプリの中で、生沢徹についても語っておられますので、ぜひ見ていただければと思います。

そして、テレビ映像は、私も大好きなディープ・パープルの“ハイウェイ・スター”が流れ、第4回日本グランプリの映像へと移っていきます。 そして、勝利の瞬間・…!!たった一人の表彰台でペプシ・コーラを飲む徹!(このレースのスポンサーの一つは、コカ・コーラでありましたが、徹のスポンサーであったペプシ・コーラをあえて飲んでいた徹の行動は、当時弱小だったペプシを多いに喜ばせたとの陰話が残っています!) 
以上が、1989年の生沢徹のインタビュー内容でありますが、年取っても構わずなんでも言ってしまう“TETSU”は、健在でありました!! 
この続きは、「TETSU IN LE MANS」に書きますのでお楽しみに。 

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