第3回日本グランプリ
(1966年5月3日)
 諸事情で1965年の「日本グランプリ」が中止となり明けて1966年場所を鈴鹿から出来たてほやほやの静岡県御殿場の富士スピードウェイに移して5月3日、世紀の「第3回日本グランプリ」が開催されました。このチラシは、33年という時空を超えて今ここに蘇りました。まだ、当時は、モーター・スポーツとは呼ばれておらず“自動車レース大会”が普通だったのですね!!とても貴重な、「第3回日本GPチラシ」と「富士スピードウェイコース図」を送ってくれたSさん本当にありがとうございました。
また、貴重なプログラムを貸して頂いたYさん、本当にありがとうございました。

“ヒーロー誕生前夜”
1966年5月3日、私こと“牧野ぼん太郎”は、クラスメートの“関口徹”君の豪邸で自慢の愛車? 「マンタレィ」を 操り初めての“レース”に挑んでおりました!!(ただし、24分の1スケールの “モデルカー・レーシング”ですけ れど・・・!)彼は、「ホームサーキット」を持っていた憧れの 家庭だったのです。対する彼の愛車は、米国レベル社製の「フェラーリ250GTO」でなんと“全輪 ボールベアリング”仕様と当時最高のモーターであった「FT−36」を搭載していた最強モデルであ った。ちなみに、私の「マンタレィ」は、後輪のみに“オイルレスメタル”という一段落ちる軸受けを つけ、また、モーターも「FT−16」という一番非力な物を搭載していたのです。ただし、重量だけ は軽かったのですが・・・。ところでこの「マンタレィ」という車は、日本模型(通称“日模”)から 発売されていた24分の1スケールのモデルカーです。詳しくは、『モデルカー・レーシング入門』を ご覧ください。 
ところが、やってみなければわからないのが実車のレースと同じ、「マンタレィ」が勝ってしまったの です!勝因は、これも実車と同じで“車体のバランス”だったのではないかと思いますが、今となって はよく覚えておりません・・・。 
さて、前置きはこのくらいにして、私が「モデルカーレーシンググランプリ」を行っていた同じ日に実 は、前年完成されたばかりの静岡県御殿場の「富士スピードウェイ」で“記念すべき大レース”が行わ れていたのです。『第3回日本グランプリ』は、1964年に行われた「第二回日本グランプリ」まで の外国車招待レースという“ショー”的要素を排除した本当の意味での“日本のレース”の“夜明け” といえる“歴史的レース”だったのであります!! 
“TV”を見ていまだに覚えていることは、滝進太郎操る「ポルシェ・カレラ6」がフロントにダメー ジを受けながら“プリンス”(後に日産自動車に吸収合併されてしまうプリンス自動車のこと)の「R−380」を追う姿です!! 
ファクトリーマシンを4台も揃え、ドライバーも当時最高の“生沢徹”や“砂子義一”らで完全優勝を 狙っていたのでした。実は、プリンスは、1964年の「第二回日本グランプリ」で、優勝を狙ってエント リーした「プリンス・スカイライン54B」(初代スカイラインに、グロリアの直列6気筒エンジンを 搭載した今でいう“ランサーGSRエボリューション”のようなもの)が、式場壮吉の持ち込んだ 「ポルシェ904」にあっけなく敗れてしまった復讐戦がこのレースでありました。 
そういえば、「プリンスR−380」のスタイルは、どこかあの「ポルシェ904」に似ている気がするのは私だけ でありましょうか。しかし、今度は、リアルタイムで世界で活躍している「ポルシェ・カレラ6」が相手です、どうみても “プリンス”に勝ち目はないように思えてなりませんでした。 
ところが、やってみなければわからないのが私が優勝した「モデルカーグランプリ」と同じように、プリンス勢の“完勝” でレースは終わりました!! 
勝因は、すべて、“プリンス”勢の作戦の緻密さにありました。まず、対する「ポルシェ」の滝進太郎の敗因 は、メーカーではない“プライベーター”であり、メーカーのように、新しい「富士スピードウェイ」 で“練習”することが出来なかったことが第1点で、後は、レース中決定的な差となった“ガソリン給 油”システムの差だったのではないでしょうか。プリンスは、ほぼ「富士スピードウェイ」を独占使用しており、そこで重力 式ガソリン給油システムを開発し、練習していたのでした。事実、レース中の給油に滝が“1分”近くかか ったのに対し、プリンスチームは、なんと“15秒“弱で終わらせてしまったのですから勝負は決まったも同然でした。その後一時トップに立った滝 は、給油で遅れをとり、あせってスピンし、フロントノーズを傷めてしまい勝負は決しました。それと、生沢を滝の押 さえに回り、先頭を走る砂子のマシンを逃げさす作戦を取ったことも勝因でした。 
 とにかく、『第3回日本グランプリ』は、プリンスの“大勝”で幕を閉じたのでした。レースのあらすじは、後で「月刊AUTO SPORT」によって知ることが出来たわけでありますが、むしろ結果より私は、他の出場車に対する関心の方が強かったのでそれらのマシンを私なりに解説してみようと思います。一応「予選結果」と「レース結果」も載せてあるのでご覧ください。 
 後で振り返ると、このグランプリは、とてもすごいマシンやかわいらしい?マシンが出場していたこ とがわかりびっくりします。なんといっても「ポルシェ・カレラ6」は、1966年の世界マニファクチ ャラーズ選手権用の現役マシンであり、その年の、「デイトナ24時間レース」にデビューし、2リッター以下のクラスで最強を誇るポルシェの主力マシンでありました。事実、66年は、ライバルの「フェラーリ・ ディノ206S」を押さえて2リッター以下のクラスチャンピオンとなっています。その「カレラ6」は、全部で“50台”のみ作られましたが、その中の1台を当時の代理店であった「ミツワ自動車」が滝進 太郎のグランプリ出場のために輸入したのでありました。それと忘れてはならないのが、「デイトナ・コブラ」 でありましょう。この車は当時「コルベット・スティングレィ」など“アメ車”ばかりに乗っていた“酒井正 ”が持ってきた1965年のスポーツカークラスの世界チャンピオンマシンであります。ベースになってい るのは、今でも人気のある「ACコブラ」で、アメリカのデザイナーの“ピート・ブロック”のデザイ ンで、あの“フォードGT”で有名となった“キャロル・シェルビー”が製作したマシンです。な ぜ、「デイトナ」という名前がつくかというと、デビュー戦が1964年の「デイトナ2000キロレ ース」であり、際立った活躍をしたからだと言われています。当時最強を誇った「フェラーリ250GTO」を1965年ついに破りチャン ピオンを奪ったことは大変な話題となりました。そんなマシンをグランプリに持ち込んだ“酒井正”は、き っと優勝以外は狙っていなかったのではないでしょうか。 
その他では、イタリアの「アバルト・シムカ」やイギリスの「ロータス・エリート」、「ジャガー・E タイプ」など数多くの名車が出場していました。 
ところで、わが国のマシンはというと、プリンス以外では、なんといってもこのレースがデビュー戦と なった「トヨタ2000GT」が最大の注目でありました。まだ、市販前で観客の目は、トヨタvsプリンスvs ポルシェに注がれたのですが、所詮トヨタは、市販前提の“フロントエンジン車”で、レース専用に作られた プリンスやポルシェの敵には成り得なかったのが現状でありました。しかし、「トヨタ2000GT」は、決 勝で“無給油作戦”が功をそうし、第3位の入ったのは立派でした。これが、その後“世界の名車” となる「トヨタ2000GT」の原点だったのです。 
 また、弱小メーカーながら健闘したダイハツ工業の「ダイハツP−3」は、写真でわかるとうり“ピ ーちゃん”というあだ名が付くようにとってもかわいらしいスタイルでした。1300ccの排気量 ながら総合7位となりライバルのアバルト・シムカをわずかに押さえる殊勲をあげることが出来ました。
 このレースには、後の“レース界のヒーロー”となる1人のレーサーが出場していました。その名は、“生沢徹” !! プリンス自動車の専属ドライバーとして「第二回日本グランプリ」において、式場壮吉の“ポルシェ904”を“スカイラインGT”で抜いたただ1人の男として有名であり、後の「スカイライン伝 説」を作った張本人でありました。その“生沢徹”は、このグランプリ終了後、突然プリンス自動車を退職し、 1人“ヨーロッパレース修行”に旅立っていったのでした・・・! 彼の目的は何だったのでしょうか? 

この続きは、こちらへ。「第4回日本グランプリ」
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  1999年3月7日by hirofumi makino