児島湾の彼方の常山   常山   

時として、全然期待していない低い山が予想以上に面白いことがある。岡山県の児島半島基部に独立峰の風情で立つ常山もそんな山だった。なにしろ標高が300メートルを越す程度なので、帰省していた正月三が日の休み、麓から山のてっぺんまでちょっと散歩、といった調子で連れと二人で行ってみたのだが、低い山には高い山にはない奥深さがあったのだった。


玉野市史によると、「元来児島は山陽本土との攻防の中間地としての性格が強く、....いつの時代にも二大勢力の争奪の中心地として戦が展開されてきた」とある。この常山も瀬戸内海の護りとしての山城が築かれていたところであり(左図参照)、戦国時代末期には中国地方を支配していた毛利勢と東に伸張著しい織田、豊臣勢とに挟まれた小豪の三村氏が、結果的には時期尚早に織田方に付いたため、毛利勢の総攻撃を受けて凄惨な最後を遂げたところでもある。
山自体は山頂直下まで麓から渦を巻くように車道が通じていてほとんど歩かなくても登れるのだが、JR宇野線の常山駅の上から森の中の旧路を通って歩いて登ることもできる。こちらの方は眺めはないが、石畳がところどころ残っていて風情がある。
常山山頂部の構造図
常山山頂部:常山城の構造(山上にある玉野市教育委員会作成の掲示板)。
左下から伸びるのが旧路、中央下から伸びるのが車道。
無人駅で周辺に店も駐車場もない常山駅から山に向かって舗装道をまっすぐ道なりに上がって、丁字路にぶつかったら左に行くと16段の石段がある。そこが入り口だが、標識などないので心許ない。だいたい、使用したガイドでは「右に行く」となっていたのだったが、石段などなく、山に向かうヤブ道があるばかりで、「まずこれではないな」と思わせるものばかりだった。もっとも、丁字路にぶつかるまでの道を間違えた可能性もあるので、ガイドが悪いと決めつけるわけにもいかないが....。
石仏の一つ(天神丸にて)
石仏の一つ(天神丸にて)
石段の上からは山道となり、雑木林の中を歩く。ときおりお地蔵さまが何体か見られる。雑木林がいつか竹林となり、妙に明るい気分になりだすと「底なし井戸」という差し渡し2,3メートルの屋根のかかった井戸に出くわす(上図ほぼ中央)。常山城兵の飲み水の供給源がここだったという。今でも水はかなり湛えられているが、ちょっと見た感じでは水と言うよりゼリーのようだ。連れも少々気味悪がって、「何か沈んでいそう」と言う。それはないだろうけど、清冽という感じはしなかった。
井戸の上で山道は左右に分かれ、右に行くと車道と交錯する。まずはこちらの道をたどると、栂尾二の丸(とがのおにのまる)という平坦地に出る(上図「現在地」地点)。今ではただの駐車場だ。そこから坂と平坦地を繰り返す山城の地形をたどっていく。あちこちに比較的最近に建立されたと思えるモダンなデザインの石仏が多数見られる。平坦地は青木丸、天神丸、北三の丸、北二の丸と続く。この北二の丸に、常山を全国的に有名にした「女軍」の墓がある。


岡山県西部の旧国名を備中、南東部を備前と言った。今より400年以上前、中国地方を毛利氏が支配している頃、備中の豪族三村氏と備前の宇喜多氏とのあいだに確執があり、三村氏は宇喜多氏討伐を狙っていた。三村氏も宇喜多氏も毛利氏と手を握っていたが、織田の勢力の侮りがたいことを知っていた三村氏は、織田氏と手を結んで東西から宇喜多氏を挟み撃ちにすることを考えた。だがこれはすなわち織田と敵対する毛利氏に反旗を翻すことを意味した。
三村一族は軍議を開き、最終的には備中松山城主で三村氏主君の元親の意志が通って織田方に組みすることになった(元親は常山城主上野高徳の妻鶴姫の兄であった)。だが、三村一族すべてがこの決定に従ったわけでないことが悲劇の端緒となった。成羽城主三村親成とその子は織田との連合に強硬に反対し、受け容れられないと知るや、成羽を引き払って毛利方に三村氏の織田連合結成を注進したのであった。
知らせを受けた毛利方の行動は早かった。現在播州(兵庫県のあたり)に展開している羽柴秀吉勢が備中に至るまでに三村氏を伐たねばならない。1574年12月に兵を起こした毛利勢は次々に三村氏方の城を落としていき、ついに翌年5月29日には三村元親の備中松山城を落城させてしまった。元親は6月2日に自刃したという。その心境やいかばかり。
 そして三村氏に残ったのは常山城だけだった。元親自刃後の2日後には常山は完全に包囲された。毛利勢の総軍は6500騎。対する三村勢は城を落ちのびる者あとを絶たず、最後の夜に常山城に残ったものはわずか80騎ほどだったという。


戦は6月6日に始まった。この日は小競り合いで終わったらしい。敵軍襲来に城主上野高徳は「多年それがし芸州に対しうっ憤あるゆえ、元親謀判(ママ)の帳本はそれがしなり。然所に元親無下に生害に及び、我生きて何の面目かあらん。一日も早く死地におもむくべしとはおもへ。いでいで(ママ)最後のはたらきを見せん」(「常山軍記」、以下同)と、15歳の嫡子高秀、舎弟高重ともども自ら迎撃に出て奮戦し、この勢いに押されて寄手はいったんは麓まで引いた。
千人岩越しに由加山方面を望む
毛利勢の小早川隆景率いる兵が潜んでいた
と伝えられる千人岩。奧は由加山方面
明くる7日のあかつき、城では酒宴が張られ、別れの杯が酌み交わされたと言う。高徳は57歳の継母、嫡子高秀を介錯し、8歳の次男坊と、高徳自身の16歳の妹も手に掛けたのだった。
だが33歳になる妻の鶴姫は、兄を討たれ、父三村家親も以前に宇喜多氏に暗殺されているだけに、「われ武士の妻となり、最後にかたき一騎もうたずして、やみやみ自害せん事口惜き次第なり」とばかり、鎧を着込み、上帯を締め、三尺七寸の太刀を帯びて三枚兜を被り、紅の薄衣を打ちかけて裾を引き上げ腰に結び、白柄の長刀を脇にして敵軍目がけて駆け出したのである。
いったんは仰天し引き留めようとした女房たちも鶴姫の覚悟に押され、逆に34人の女房すべてが正室に続き、さらには家僕もこれを見て我も我もと83人死を覚悟して一団となって敵勢のただ中に攻め込んだ。決死の一団の前に毛利勢も討たれる者少なからず、傷を受ける者も数知れずだった。この勢いに鶴姫、腰の銀の采配を取り出し味方を叱咤激励、戦いまくったという。
が、なにぶんにも多勢に無勢、討たれて味方の数も少なくなり、鶴姫、もはやこれまでと敵大将浦野兵部宗勝との一騎打ちを望んだが、宗勝「女性は相手にできぬ」の科白に、鶴姫は腰に差した名刀国平を宗勝に進呈し弔いを願うと言い捨てて呆然とする敵勢を後に城内に駆け戻り、自刃して果てたのだった。同じく高徳も自刃し、ここに三村氏は成羽を残して滅亡してしまったのである。


いわゆる女軍というのは全国的に見れば他にも事例がありそうに思えるが、実は常山が唯一のものらしい。明治憲法の時代では鶴姫は女性の鑑あつかいされていたようだ。封建的な考え方にあっていたのだろう。でもなかなか魅力的だ。危機的な状況で自立した女性を演じたと言えよう。もちろん、武士階級という枠内での話だが。
山頂直下の女軍の墓標
山頂直下の女軍の墓標
女軍の墓の手前には昭和12年建立の顕彰碑があり、常山合戦の概要を知ることができる。墓標右手の石段を上がると常山の山頂にあたる本丸で、高徳が西方を望んで切腹したという腹切り岩があり、近くの展望塔からは児島湾方面の眺めがよい。今に残る石垣の縁に立つと、瀬戸大橋も望見できる。今はそこかしこに桜の木が植えられており、花見の季節には華やかなものだろう。だが今の季節、目の前には冬枯れした木々が立ち並ぶばかりで人影もない。
本丸からは東二の丸方面へ下って底なし井戸の上に戻り、車道との合流点に出た。その間も、あちこちに石仏があるのが見られた。玉野市教育委員会発行の「玉野の文化財」という1987年発行の冊子には由来の記載がない。帰りはそのまま車道を下ったのだが、道沿いにお地蔵さまがほぼ一定間隔で祀られていた。一つのお地蔵さまのわきに、××歌人の会維持、とか書いた紙があったような気がしたが、詳細は忘れてしまった。いずれにせよ、なんとも石仏の多い山だ。
車道をぐるっと一周して登り口手前の集落の上にある神社の脇から麓へ下り、遥か離れた河川敷に停めた車に戻る。連れの実家に帰ってからも、二人して「常山は面白かった」「いい山だった」と語り合った。「常山なんて行っても何もないよ」と連れの父は言っていたそうだが、そんなことはないとわかった一日だった。
常山山頂から淡水湖と金甲山を望む
常山山頂から淡水湖と金甲山(右)、怒塚山(左)を望む
1999/1/3

なお、以上の記述に使用した資料(「玉野市史」抜粋(その中に「常山軍記」が引用されている)、および「玉野の文化財」)は玉野市より送付していただいたものであり、末筆になって申し訳ありませんがここにて御礼申し上げます。


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