志賀高原 四十八沼湿原から志賀山

私はスキーはしないので冬の志賀高原の賑わいは知らないが、それでもあれだけの広さにスロープがあり、あれだけの温泉が湧いていれば相当の人が滑りに来るのだろう。夏は夏で高原に涼を求める人が集まり、秋も深まれば紅葉狩りというように人声が山中にさんざめくのだろうが、夏休みが終わった直後の初秋では車の流れも少なく、山道はさらに静かだ。


志賀高原で登る山としてすぐ思いつくのは岩菅山(いわすげやま)だが、残念ながらこれを書いている現在はまだ訪れる機会を得ていない。ぜひ裏岩菅を越えて鳥甲山(とりかぶとやま)や苗場山を眺めながら尾根を下り、秋山郷の切明温泉につないでみたいと思っているが、二泊三日行程だし一泊目は避難小屋泊まりなのでそうおいそれと実行することが出来ない。かわりに稜線のはるか下で観光客も訪れるような散策路を歩いたり片道一時間半の山を登って志賀の山気を吸った気になっている。もちろんこれだけでもかなり楽しい。
たとえば、熊ノ湯前から四十八池湿原を経て、強酸性のためコバルトブルーの鮮やかな水面を持つ大沼に出るハイキングルートは運動靴でも十分なコースで、湿原のあたりまでは観光客も多いが、初秋でも異様な明るさで近づくものを驚かせる大沼までは途中に急な下りもあってか、あまり人の姿も見えず、山を歩いている気になれる。
また車道と並行して設定されているハイキングコースは車道に近いせいでかえってひと気がなく、散策路を団体で広がって歩いているような人たちを追い抜lかなくてはならないような煩わしさがない。ところどころに池塘を配した湿原が次々と現れては散策のいいアクセントになる。仰げば、深い菅笠のような山容の笠ヶ岳が歩哨のように頭をもたげ、絶壁を押し立てて高原一帯を睥睨している。


実は最初に志賀高原の名を知ったのは山ではなく、かといってスキーでも温泉でもなく、紅葉の草津白根山を観光で訪れようとして旅行のガイドブックを眺め、宿を探していたときのことだ。志賀高原も草津白根山や万座側に近いところに熊ノ湯という一軒宿とはいえ大きめのホテルがあって、ここがユースホステルを兼ねていたので泊まり場所として選んだ。「志賀高原という大きめな高原地帯がこんなところにある」といった程度の認識だった。
初日は長野から湯田中温泉経由で高原中心地の琵琶池前に出て、ここから熊ノ湯まで車道沿いに続く散策路を歩き初める。最初はスキー場の中の登り道だが、しだいに山道っぽくなる。あまり期待していなかった志賀高原だが、予想外に森と湿原の光景が細かく展開するのにすっかり楽しくなり、何度も三脚を立てては写真をとっているうちにどんどん日は暮れていき、高原への到着が遅かったのもあって熊ノ湯までの道のり中ほどにある信大自然教育園に着いた頃には早々と夕暮れになってしまった。
今日はここまで、続きは明日、とゆったり構えて園の脇で対岸の濃い緑の森を映す池を眺めていると、ガスが漂い始め、あたりを見回すと誰もいなくなっている。バスの時刻表を見ようと近くの停留所まで行き、腕時計をのぞいてみたらいつの間にか止まっている。付近に建物の一軒もなく時刻を知る手だてはない。目の前の道路にはガスが森の中から溢れ出してきており、車道の彼方は白くなって消えていた。車の影も途絶え、いきなり静寂が広がっていく。
森閑とした車道のわきで息をひそめるように何かが来るのを待っていると、ようやく下から車が一台来た。地味な色合いのセダンだった。思わず手を挙げ、停まってくれるよう合図する。乗っていたのは中年のご夫婦だった。親切な方で、ちょっと不安気になっていたハイカー一名を熊ノ湯の入り口まで乗せていってくれた。
1983/9/21-22

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